第三十二話 再会



=T=

「アハ、本当に『玉ねぎ』だぁ」

 二人が見上げる八角形の大きな建物が『日本武道館』で、その頂点には歌で『大きな玉ねぎ』と称された『擬宝珠』が茜空に浮かび上がっている。

 言い得て妙だよな? 見れば見るほど玉ねぎに見えてくるから不思議だ。

「ここ日本武道館の正式な呼び名は『にっぽんぶどうかん』で、昭和三十九年の東京オリンピックで初めて公式種目となった柔道の会場のために作られたらしいね? 今でも柔道の日本一を決める『全日本柔道選手権』などにも使われているけれど、アリーナとしての使われ方が多いかもしれないね? 有名なのは『二十四時間テレビ』のメイン会場として使われているね?」

 会場に近付くにつれ長い行列が出来上がっている事に気がつく。

「すごい人ね? この人たちみんな健斗のお義父様のコンサートを見に来たの?」

 既に開場時間は過ぎているのだが、列が長すぎてまだ会場の中に入りきれていないのだろう、まるで大蛇が腸ねん転を起したような列は、ノロノロとしか進んでいない。

 考えてみればオヤジたちのコンサートに来るのって初めてだよな? 結構人気があるみたいだなオヤジたちって。いまさらながらちょっとビックリかも……。

「Mr.Kento Kayanuma?」

 突然背後から流暢な英語で自分の名前を呼ばれた健斗は、しかし、自分では無いだろうと聞き流すが、目の前に黒服を着た屈強そうな外人に行く手を阻まれる。

 お、俺か?

「ミスターケント、アンド、ミスコトネデスカ?」

 もう周囲は暗くなり始めているというのにサングラスをかけた外人二人に囲まれた健斗と琴音は、素直にその顔を引きつらせながら山のように大きなその外人を見上げる。

「イ、イエス?」

 勢いで答える健斗に、その外人は互いにうなずき合いかなり強い力(彼たちはそんなつもりは無いのだろうが)で二人の腕を引く。

 な、なんだ? 邦人拉致誘拐か?

「ミスターシノブガオマチデス。コチラニドウゾ」

 見事なまでの片言の日本語で言われた健斗は、とりあえず拉致では無いという事にホッと胸を撫で下ろすが、次の瞬間、本番直前の忍が健斗たちの事を待っていると言う意味がわからず、腕を引かれながらも首を傾げる。

 ちゃんとチケットがあるんだから、ちゃんと入口から入ればいいだけの事だろ? なんだって本番直前でピリピリしている所に俺たちが呼ばれなければいけないんだ?



「ボス?」

 控え室と書かれた扉を、見た目からは想像がつかない繊細な動きでノックをする黒服外人は、少し緊張したような声をかける。

「ComeIn」

 中から忍の声がすると、黒服外人二名は、まるでホテルのベルボーイのようにその扉を開き、器用に大柄な身体を折り曲げながら二人をその部屋の中に招き入れる。

「よぉ、健斗と琴音ちゃん……随分遅かったなぁ。てっきりデートが楽しすぎてコンサートに来るのを忘れているのかと思ったよ」

 普段は絶対に着る事ができないような派手な衣装を着た忍は、意外にも緊張した様子は無くニコニコと微笑みながら二人を招き入れる。

「さっきから『まだ来ないのか』ってスタッフの人に当り散らしていたんだから」

 その隣にはいくらか忍より地味ながらも、それでも派手な衣装を着た亜希子が少し意地悪い表情を浮かべながら忍の横に立っている。

 てか、さっきの黒服のギャングのような外人さんってスタッフだったの? その人間に当り散らすだけでもちょっとすごいと思うけれど……。

 呆れたように肩をすくめている健斗に、忍と亜希子はお互いに顔を見合わせ、どちらからともなく微笑み合うと、その視線を健斗の隣でキョトンとした顔をしている琴音に向ける。

「うふふ、実はここにあなたたちを呼んだのは、あたしたちから、あなたたち二人にプレゼントがあったからなの……ぜひ受け取ってもらえないかしら?」

 健斗でさえ知っているような有名ブランドのハンドバッグに手を伸ばした亜希子は、その中から小さな紙袋を取り出し、それを琴音の前に差し出す。

「これは?」

 小さな紙袋の中からはピンク色をしたスウェード調の小箱が出てきて、その箱の中に何が入っているかはその姿だけですぐにわかり、それを差し出された琴音は、少し躊躇ったような顔をして亜希子の顔を見上げる。

「ウフ、これはね? 昔パパから貰った物なの」

 パクンという音と共に開かれた箱の中には、金と銀のリングの頂点に、わずかに光る石が数石散りばめられ、目の前にいる派手な亜希子からは想像できないような質素なものだった。

「まだまだそれを買った時は貧乏でな? カップラーメンですら高級品に見えた時に、なけなしの金をはたいて買ったものだよ……」

 苦笑いを浮かべる忍に、その時の事を思い出したのか、亜希子が嬉しそうに微笑む。

「ぜひ、コレを琴音ちゃんにしてもらいたくって持って来たのよ……サイズもたぶん大丈夫だと思うから……ホラ健斗、琴音ちゃんにはめてあげなさい」

 差し出していた指輪を健斗に渡すと、亜希子と忍の視線は一気に二人に向く。

「でも、こんな大切な物をあたしが……」

 戸惑いを隠せない琴音は困ったように眉毛をハの地にして亜希子の顔を見据えるが、亜希子は小さく首を横に振りながら視線を忍に向ける。

「この指輪には、きっと夢を叶える力があるんだよ……私は亜希子と一緒になる事によって自分の夢を叶える事ができた。次は健斗が自分の夢を掴む番だ……」

 優しく言う忍の一言に、健斗はゴクリと息を呑みながら手元の指輪に視線を落とす。

「健斗が生まれた時から言っていたのよ、今度はこの子が……健斗のお嫁さんになる人が、この指輪をするって……それは琴音ちゃんでいいでしょ?」

 優しい微笑を浮かべた亜希子は、そう言いながら健斗と琴音の顔を順に見る。

 確かに俺はいいかもしれないけれど、こんなに捲くし立てるようにしたら琴音が戸惑ってしまうんじゃないか? 彼女にも考える猶予が必要なんじゃないのか?

 健斗の視線はうつむいたままの琴音に向く。

「琴音……」

 少し震える手で指輪を取り上げながらの健斗の声に、琴音は一瞬身体を固めながらも、ゆっくりとその顔を上げてくる。

「エヘへ……指輪を貰うなんて生まれて初めてだよ……」

 意外にも満面に笑みを浮かべている琴音は、そう言いながら左手を健斗に差し出す。

「お、おう……」

 戸惑いながら健斗はその左手を手に取り、その指輪をはめようとするが、やはりサイズが合っていないのか指の途中でそれは止まってしまう。

「健斗ぉ、そこじゃないよぉ」

「まっ、なんて初々しいのかしらぁ……昔を思い出すわぁ」

 意味深に身体をくねらす亜希子に、忍もウンウンとうなずきながらその肩を抱き寄せる。

「今なら一撃必中だよな?」

 ……いったい何を考えているんだかウチのエロ両親は……その一言に俺の思考も一瞬ヘンな方に向いてしまったではないか……てか、そこじゃないとしたら、やっぱり……。

 琴音の白い中指にはめている指輪は、第二関節の辺りで止まっており、それよりも細い指といったら、二本しか残されていない。

 小指は論外……となると、残されているのは一本……薬指……左手の薬指。

 その意味に息を呑む健斗はその隣の指を見据えながら琴音の顔を見据えると、その顔は少し恥ずかしそうにコクリとうなずき、健斗は意を決したように薬指にそのリングをはめる。

「エヘ、ピッタリかも……」

 まるでしつらえたように左手の薬指に収まった指輪を、琴音は嬉しそうな顔をして見つめる。



=U=

「サイコォ〜ッ!」

「アンコールッ!」

 盛況の中終わったコンサート会場のいたる所からそんな声が聞こえ、舞台の真正面で見ていた健斗と琴音興奮冷め遣らない顔をして見つめている。

『っと、Thank You! 今日はとてもHappyだよ』

 普段はMC(曲の合間のトーク)などはせずに、ただ淡々と曲を演奏するだけの忍にしては珍しく、コーラスの女性のマイクを手にすると会場に向かって話し掛け、その意外な行動に会場は一気にヒートアップする。

『今日はとてもAnniversaryなんだよ! この気持ちを曲に表したくって、さっき急に作った曲なんだ……』

 他のサポートは何の事かわからずに慌てて顔を見合わせているが亜希子は、一人キーボードに向かうとバラード調のゆったりとした音で奏ではじめる。

『夜景の街に暮らす二人に……StarDream……星の夢……』

 広い会場の中で当然の事ながらその意味を知っているのは、ステージに立っている忍と亜希子以外には、健斗とその隣の琴音だけであり、他の一万四千人近くの聴衆は、ゆっくりと流れはじめるバラード調の曲に、今までの歓声をやめて聞き入っている

 ったく……何を格好つけていやがるんだか……。

 心の中で呟きながらも比較的アップテンポの曲が多い忍にしては珍しくバラード調の曲に、いつの間にか健斗の耳はその曲に向いていた。

 ヘェ、オヤジにしては珍しく、シットリとしていい感じの曲だな?

 隣に座っている琴音も、恐らく健斗と同じなのだろう、舞台を見つめながらもウットリとしたような顔をして見つめている。

 StarDream……星の夢か……そういえば美音ちゃんと函館山から見た夜景は確かに星空を眺めているみたいだったよな?

 曲が終わった後、一瞬水を打ったような静けさが会場内に訪れるが、やがて割れんばかりの拍手や歓声が響き渡り、その反応にステージ上の忍と亜希子も嬉しそうな顔をしている。

「すごくいい曲ね?」

 惜しみなく拍手を送りながら琴音が健斗の顔を向く。

「確かにいい曲だ……一瞬函館山からの夜景を思い出したよ」

 一緒に見たのが琴音では無いのがちょっと惜しいけれど、曲に悪気は無い……そういえば琴音を誘っても、なんとなくはぐらかされてまだ一緒に見た事が無かったよな?

 ふと頭に浮んだ疑問だったが、視線をステージに戻した時には既に消えていた。



「お疲れ様でした!」

 再び二人は黒服のスタッフ(というよりもガードマンかボディーガード)に連れられながら楽屋に訪れ、汗をタオルで拭っている忍と亜希子の労をねぎらう。

「ありがとう琴音ちゃん」

 ステージの成功に満面の笑みを浮かべている忍は、琴音の一言に満面の笑みを浮かべる。

「それにしても珍しいじゃないか? あんなバラードを作るなんて」

「ウフ、どうだった? 昨日の夜に急に作った曲で、ステージのメンバーにも教えていなかったからみんなから文句言われちゃったけれど」

 ペロッと舌を出しておどけたような顔をする亜希子に、琴音は拝むように手を合わせながらコクコクとうなずき満面の笑みを浮かべる。

「最高でした……あたしすごく感動しちゃって……」

「そこまで言ってもらえると作った甲斐があるよ。あの曲は二人のために作ったんだ。以前に見た函館山の夜景を思い出しながらね?」

 ウィンクしながら言う忍に、琴音は首を傾げる。

「函館山からの夜景を見たんですか?」

 怪訝な顔をする琴音に、忍はコクリとうなずきながら亜希子に視線を向ける。

「あぁ、まだ亜希子と付き合っている時だったよな? 確か剛の店ができた時にお祝いで行った時だったかな? あの景色は綺麗だったな?」

「うん、綺麗だったわぁ、思わず涙が出ちゃったのを覚えているわよ」

 その時の情景を思い出しのか、亜希子はウットリとした顔をしているが、対する琴音は少し驚いたような顔をしている。

「そっか……見たんだ……」

 どうしたんだ琴音の奴……函館山の夜景に何かあるのか?

 なぜかホッとしたような顔をしている琴音に、健斗は声をかけようと口を開きかけると、それを阻むように楽屋の扉がノックされる。

「失礼します。高梨(たかなし)です」

 扉の向こうからの声に、琴音の表情が一気に強張るのを健斗は見逃さなかった。

「どうぞ」

 しかしそんな事に気がつかない忍は、気軽にその声に答えると、ゆっくりと開かれた扉からは、垢抜けた雰囲気のかなりの色男が作ったような笑顔を見せる。

「やぁ、さすがに世界の茅島忍さんですね? 大盛況でしたよ!」

 パチパチと手を叩きながら入ってきた色男はそう言いながら忍の手をとりながら、握手をしていると、その人物がわからずにキョトンとした顔をしている健斗に気がつく。

「こちらは?」

 相変わらず作ったような笑顔の色男は、遠慮なく健斗の顔を見据える。

「この子があたしの息子よ? これでやっと信じてくれたかしら和英クン? あたしに大学生になる息子がいるっていう事を」

 肘で色男の脇腹をグリグリする亜希子は、意地悪い顔をしながらその顔を見上げると、その色男は困ったような苦笑いを浮かべ健斗に視線を向け直す。

「わかりました、信じますよ亜希子さん、まだちょっと信じられない気持ちはしますけれど、そう仰るのなら本当でしょう……はじめまして、今回コンサートの主催をやらせていただいた『株式会社菱本』の高梨和英(たかなしかずひで)です」

 フレンドリーながらもどこか隙を見せないような和英は、右手を差し出し握手を求めてくる。

「ども、茅島健斗です」

 それに応えようと健斗が右手を差し出そうとすると、いつの間にか健斗の背後に回った琴音がその腕を必死に押さえている事に気がつく。

 ん? どうしたんだ琴音の奴……そんな所で小さくなって……。

 完全に健斗の陰にその姿を隠している琴音だが、隙間から見えるその長い髪の毛に気がついた和英は、首を傾げながらも健斗の顔を見る。

「エッと、そちらは?」

 大柄な健斗の背中を盾にするようにシャツを握っている琴音の手が、和英の声にハッキリとわかるほどにビクッと反応をする。

 一体どうしたんだ琴音の奴……さっきから様子がおかしいぞ? そういえばこの高梨さんの会社の名前、以前にどこかで聞いた覚えがあるんだが……。

 シャツを離そうとしない琴音に、健斗は和英の言った社名に引っ掛かりを覚え心の中で首を傾げながらも、そのままにするわけにもいかず、仕方無しに琴音を和英の前に晒す。

「エッ? あぁ、彼女は……」

 少し強引に引きずり出された琴音は顔をうつむけ、その顔を完全に和英から背けており、頑なに顔を向けようとしない。

「もしかして健斗さんの彼女……じゃあ、来日の時に忍さんの言っていたスペシャルゲストって、もしかして健斗さんの彼女の事なんですか?」

 ニコニコしている和英に対し、うつむいたままの琴音は身体を強張らせながら健斗のシャツを握り締めたまま、唇が白くなるほどまで噛み締めている。

「じつはそうなのよぉ、いつまでも子供だって思っていた健斗も、いつの間にか色気づいちゃって彼女を作ったのよぉ……彼女は、健斗の彼女で沢村琴音さん……」

 一向に顔を上げようとしない琴音に、さりげなくフォローを入れる亜希子が発した言葉に対し、和英はそれまでの笑顔を顔に貼り付けたままで表情を無くす。

「…………沢村………………琴音」

 絞り出すような和英の声に、再び琴音は身体を強張らせる。

 そうか…………思い出したよ……たしか菱本って莉奈さんの勤めている会社だ……って言う事は、もしかして、コイツが琴音の事を……。

 ただ事では無い琴音の反応に健斗の心拍数は一気に上がり、目の前で怯えたように身体を小さくし小刻みに震えている琴音の肩を見る。

「ん? なんだ高梨君は琴音ちゃんの事を知っているのか?」

 そんな事は知らない忍は、美味しそうにドリンクを飲みながら和英の顔を見つめると、その顔は明らかに動揺したようなものに変っていた。

「え……いや、その……ちょ、ちょっと函館にいた事があってその時に……や、やぁ、久しぶりだね、沢村さん元気かい?」

 取り繕うように言う和英に、琴音は声もなくただうなずくが、その顔が和英に向けられる事は無く、さすがにその異変に気がついたのか忍と亜希子は肩をすくめながら顔を見合わせるが、もう一人の当事者である健斗の表情だけは険しくなってゆく。

 ……やっぱりそうみたいだな? コイツが琴音に……琴音の事を……。

 ギュッとシャツを握り締める琴音の手に健斗がそっと手を乗せると、目尻に涙を浮かべた琴音がやっとその顔を上げてくる。

「――――お前か……」

 健斗の口からは勤めて穏やかな口調ながらも、その奥からはギリッという骨が摺りあうような嫌な音がし、琴音の手に添えられていた手はいつの間にか握り締められ、その拳は真っ白になるまで力が込められている。

「健斗?」

 事情のわからない忍と亜希子は、ただならない様子の健斗の変化に首を傾げる。

 コイツが……俺の目の前にいるこの男が琴音の事を……彼女を騙した張本人……彼女に恋愛に対する恐怖心を植え込んだ人間……なんだな?

 問いかけるような健斗の険しい視線に、琴音は少し怯えたような顔をしながらもコクリとうなずき、それを確認した健斗はさらにその顔を険しくする。

 こんな所で会う事ができるなんて思わなかったぜ……。

 上目遣いに和英を睨みつける健斗の表情は、琴音はおろか実の両親である忍と亜希子でさえ恐怖を感じるような険しい顔をしており、その矢面に立っている和英はその表情に気圧されしたように後ずさるが、健斗は追うようにその足を大きく一歩前に向ける。

「お前が琴音の事を……」

 ジリッと足を向ける先の和英からは、さっきまでの作り笑顔は完全に消えていた。

「な、なんで? なんで茅島氏の息子さんと琴音が……」

「……琴音だぁ」

 目を眇めながら声を荒らげる健斗に、完全に尻込みをする和英は、今にも腰を抜かしそうになっているが、ようやく琴音の左手の薬指に光るリングに気がつく。

「あっ、いや、し、失礼しました……沢村さんが……もしかして忍さんの言っていたアニバーサリー……って、沢村さんと健斗さんが……結婚……それはおめでとうございます」

 取り繕うようなお祝いの言葉を口にする和英に対し、健斗はさらにも激しい怒りを覚え、ダンと大きな音を立てて一歩を踏み込む。

「そうだよ…………せっかくの俺と琴音のアニバーサリーの日に、まさかアンタに会えるなんて思っていなかったぜぇ……さっきまでの感動を返してもらいたいぐらいだぜ……てめぇみたいな奴に会うとわかっていれば絶対に来なかった……何がおめでとうございますだ、どの面下げていけしゃしゃとそんな事が言えるんだ? よくもそんな平々凡々とした顔を見せられるよなぁ……まさか、てめえのやった事がこれでチャラになったなんて思うなよ?」

 湧き上がってくる怒りに健斗はボキリと拳を鳴らし、さらに一歩足を踏み込むと、その勢いに怯えた和英はついにその場にしゃがみ込んでしまう。

「いや、あれは……琴音……いや、沢村さんが……」

「そうだよ、琴音がアンタの事を好きになった。それは自然だったんだろう……しかし、アンタはその気持ちを利用しただけだ……お互いに恋愛意識があるとなれば和姦になるからな? でもなぁ、それはあんたの都合にいい考えでしかないんじゃないか?」

 抑えながらも健斗の声は怒りに震えている。

「そ、そんな事は無い……ボクも沢村さんの事が……」

「好きだったのか? アンタは自分に家庭があるにもかかわらずに、琴音の事が好きだったという名目だけで彼女の事を……彼女の大切なものを奪ったと言うのか? 肉体的だけではなく、精神的にも彼女の大切なものを全て奪ったという事なのか! それが家庭を持つ男のする事なのかよ、それが社会人のやる事なのかよっ!」

 しゃがみ込んでしまっている和英の胸倉を健斗が掴むと強引に立たせ、自分の目線まで苦しそうに顔を歪めているその顔をつり上げる。

「健斗っ!」

 今にも殴りかかりそうな勢いの健斗に対して慌てた琴音はその腕を引くが、既に見境なくなってしまった健斗は振り払う。

「彼女はなぁ、アンタのせいで恋愛が怖くなっちゃったんだよ……自分の本当の気持ちを抑えながら必死だったんだよ……なんで恋愛が怖いんだ? なんで人の事を好きになるのがそんなに怖くなければいけないんだよっ! 人を好きになるって大切な事じゃないか……なのに、なんで彼女は恋愛が怖くなっちゃったんだよっ! てめぇが、てめぇがそんないい加減な事をしたからじゃないか! たとえ琴音が許したとしても俺はゆるさねぇ!」

 振り上げられる拳を、琴音は必死になってすがりつく。

「やめて健斗!」

 まるで腕にぶら下がるように琴音はその動きを止めようとするが、健斗の男の力は強く押さえきる事ができず、繰り出された拳は和英の頬を捉え、その体は床に叩きつけられる。

「今までずっと一人で我慢してきた彼女の心の痛みはそんなものじゃないというのはわかっているよな? できる事ならアンタをこの世から抹殺してしまいたいぐらいなんだ」

 殴られた頬を押さえながら座り込んでいる和英を見下ろし、吐き捨てるように言う健斗の表情は険しく殺気すら浮んでいる。

「殴ったな? そんな事をしてどうなるか……」

 口角に浮んだ血を拭いながら不敵な笑みを浮かべる和英だが、すぐにその笑みは消えうせる。

「どうなる? 警察沙汰にするか? 上等だぜ、別に俺は何をされてもかまわねぇ、もしなんだったら刑務所に入るのだっていとわないぜ? てめぇをこの世から抹殺してからな?」

 再び健斗は和英の胸倉を掴み上げる、その殺気に満ちた健斗の瞳に端正な顔が恐怖に歪む。

「ひっ! ご、ごめんなさい! 私が悪かったです!」

 情けないながらも和英は懇願するように両手を顔の前で合わせる。

「まだ勘違いしているみてぇだなぁ。俺は誤れと言っているわけじゃないんだ……自分のやった事がどんなに愚かで、間違っているか……どれだけ人の心を傷付けたのかを知ってもらいたいだけなんだよ……身体の痛みではいい表せられないほどの痛みを……」

「なんで? なんで彼女の事に……そんな……」

「馬鹿げているという考えはエリートのあんたの考え方だよ……人は必ず誰かがいないと生きていけない。それは家族であり友人であり恋人だ。そして俺は恋人として琴音を……彼女を一生支えて行こうと思った。しかし彼女は傷付いていた……彼女の痛みは俺の痛みでもあるんだよ、共に生きていく上ではな? アンタみたいに人の痛みがわからない奴には、一生わからんだろうよ、俺の気持ちなんて」

「もういいっ! 健斗やめて!」

 背中に抱きついてくる琴音の体温に、やっと健斗は我に返る。

「よくねぇだろ?」

「ヤダ! 健斗が犯罪者になっちゃうなんてイヤだもん。そんな事になるぐらいならそんな過去の過ちをおこしたあたしにも責任がある事になるでしょ?」

 必死にすがる琴音に、健斗はそれまで掴みあげていた和英の胸倉を離すと、ゲホゲホと苦しそうにセキをしながらその場にへたり込む。

「――和英さん……あたしはあなたの事を忘れるように努力します……でも、一生あなたの事を怨みますけれどよろしいですか?」

 そう言いながら、琴音は目の前でしゃがみ込んでいる和英の頬を思いっきり平手で打つと、乾いた音が楽屋中に響き渡り、その音に思わず健斗とその両親は首をすくめる。

「あたしもあなたの事を殴りました……もしも健斗の事を訴えるのならあたしも訴えてください、あたしは正直にこの経緯を警察に話させていただきます」

 穏やかな顔をしながらも、毅然とした態度の琴音の言葉には迫力があり、和英は打たれた頬を押さえながらガックリとうなだれてしまう。

「……子供の喧嘩に親は出るつもりは無いが……」

 それまで黙っていた忍が腰を上げ、うなだれている和英を見下ろす。

「何があったのかはよくわからん。健斗と琴音ちゃんの話しだけだからな? ただ、キミは私の子供を怒らせ、その彼女を傷付けたという事だけはわかった……」

 うなだれていた和英はその台詞の意味に目をむき、忍の顔を見上げる。その顔は完全に血色を失い顔面蒼白という言葉にふさわしい。

「私はお宅の会社とのビジネスパートナーでもある……私は個人とはいえ、いわゆるお互いに企業同士だ……ここまで招いてくれた事については謝意を表するが、私も家族を大事にする人間なんだ。まだ早いかもしれないが、私の家族の一員になるであろう人の事を傷付けたというキミの行為を私は許す事ができないし、そんな人間を雇っている会社を今後のビジネスパートナーに選びたくはない……悪いが、明日以降の公演は全てキャンセルだ……」

「そ、そんな! チケットは既に完売しているんですよ? それを全て払い戻したりすればどんなに損害が出るか、それ以前に会社の信頼が……」

「その信頼をキミ一人で崩したという事を覚えておくんだな? 子供じゃないんだ、いかに自分の犯した罪がいかに重かったかを勉強するにはいい経験だろう……社長には私の方から連絡を入れておく……悪いがキミは出て行ってくれ」

 穏やかながらも異論を受け付けない忍の言葉に、和英はガックリと肩を落としながら部屋を出て行き、楽屋の中に再び沈黙が訪れる。

 オヤジ……そんな事をして大丈夫なのか? プロモート契約を破棄すればそれなりの代償をオヤジも払わなければいけないはずだ……。

 おもむろに携帯を取り出す忍に、心配そうな視線を向ける健斗と琴音。

「もしもぉ〜し、ども、茅沼でぇっす!」

 おいおい……さっきまでの重々しい雰囲気はどこに行ったんだ? てか、その電話の相手は一体誰なんだよ……まさか飲み屋のお姉ちゃんじゃないだろうなぁ。

 重苦しい雰囲気が忍の声によって一気に脱力し、琴音の表情にもいくらか余裕が見える。

「んな会議なんてどうでもいいじゃないですかぁ、今日はウマくいきましたよ? お客さんも喜んでくれました。でもその後ちょっとトラブルがありましてね?」

 ウィンクする忍に、健斗と琴音は顔を見合わせる。

 何を企んでいるんだ? あのオヤジの表情は絶対に何かを企んでいる顔だ。

「お宅の高梨君、やっぱりダメですね? 私を怒らせちゃいましたよ……」

 まるで悪戯っ子のように口をニィッと広げる忍に、亜希子は呆れたように肩をすくめ、なんの事だかサッパリわからない健斗と琴音はキョトンとした表情を浮かべるだけだった。

「えぇ、ですので明日からの公演はキャンセルで……そんなって、そんな社員を雇っている社長にも原因はあるんですよ? 社長には怨みは無いけれど、コレもビジネスですから……まぁ、後は社長がどんな裁量をするかによって私の腹も収まるかもしれませんがね……内容? それはお宅の社員に聞いた方が早いんじゃないですか? まぁ、なんとなく社長も気がついているんじゃないですか? 理由については……いい返事をお待ちしていますよ……じゃぁ」

 ピッと携帯を切った途端に亜希子は笑い出し、それに釣られるように忍も堪えていたものが一気にはじけたように笑い出すが、健斗と琴音は相変わらず蚊帳の外だ。

 一体オヤジは何を考えているんだ? 社長と言っていたが、もしかして電話の相手はもしかして菱本の社長なのか?

「社長はなんて言っていた?」

 どこと無く嬉しそうな顔をしている亜希子が声をかけると、まるで痛快活劇を見たような顔をしながら忍が答える。

「さすがに泣きが入っていたよ……そりゃそうだ、俺が考えるだけでもその損害は計り知れない。菱井さんが考えているように簡単には済まないんじゃないかな?」

 ペロッと舌を出しおどけた顔をする忍に、亜希子は再び肩をすくめる。

「意地悪いわね?」

「別に? 俺は意地悪でやっているだけじゃないし、菱井さんが悪いわけでもない。あの人の部下が悪いだけだ。後はあの人の裁量だけ……俺はそれ以上の事は何も言わんよ……」

 二人して微笑みあう間に、キョトンとした顔をした健斗が顔を挟む。

「どういう事なんだ? 菱井さんとか……」

「あぁ、菱井雄三さん。株式会社『菱本』の社長だよ。チンピラに絡まれていたところを助けてやったら、やけに気に入られちゃってね? それから懇意にしてもらっている。俺の影のメインスポンサーだったりするんだな? これが」

 実の親ながら、計り知れない男だ……敵に回すと以外に厄介な奴かもしれないぜ?

 どこか状況を楽しむような顔をしている忍に、健斗は呆れ顔を浮かべる。

「んで? その影のスポンサーとやらが、なんだって今更になって表に出てきたんだ? 影に徹するんじゃないのか?」

「あぁ、何でも新しいブランドを立ち上げるとかで、そのイメージが俺の曲のイメージに合っているとかでね? でも、正式なオファーは会社からだよ。一押しが社長という事だけで、窓口は菱本の広報室……高梨君が担当していた」

 既にわけがわからなくなりはじめている健斗は首を傾げ、琴音も同じように首を傾げている。

「ゴメンね? 琴音ちゃんには謝らないといけないわよね?」

 ペコリと頭を下げる亜希子と同じように、忍もバツの悪そうな顔をして不器用に頭を下げる。

「あぁ、それと健斗にも謝らんといけないな? スマン」

「ちょ、ちょっと待ってくれ、全然俺には何の事だかわからないぞ?」

 なんだってその二つがつながるのかが良くわからん……親父と菱本の社長が知合いという事はわかったが、なぜそれが謝られなければいけないんだ?

 きっと健斗と同じ考えなのだろうか、琴音もキョトンとした顔のままで両親の事を見据えながら首を傾げたままの状態でいる。

「悪いと思ったが、琴音ちゃんの過去を調べさせてもらった……当然ながらもプライバシーにおいては全て極秘に。そこで浮かび上がってきたのが高梨という男の遍歴だった……」

 申し訳なさそうな顔をする忍の言葉が何を意味するかを全て悟った健斗の表情は険しくなり、琴音は唖然としたようにうつむかせてしまう。

「誤解をしないでね? 健斗が選んだ娘がそんなはずが無いと思ってさらに詳しく調べてもらったの……って、まぁ、それ自体が琴音ちゃんに対して失礼な事という事は十二分にわかっているけれど、こういう世界に住んでいる以上、スキャンダルは命取りになるから……」

「確かにそうかもしれないけれど、オヤジたちには関係ないだろ? なんだって自分の息子の彼女の素性まで調べる必要があるんだよ!」

 噛み付くような勢いの健斗に対し、忍と亜希子はただただ申し訳無さそうに頭を下げる。

「えと、気にしないで下さい。あたしは気にしていませんから……健斗もそんなに怒らないでよ、お義父様たちもあたしがどこの馬の骨かわからないから……」

「馬の骨は健斗の方じゃないのか?」

 ボソッと呟くように言う忍に健代は険しい視線を向けるが、忍はシレッとした顔をしながらそっぽを向き、その様子に琴音の表情もやっとほころぶ。

「そんな事無いですよ、健斗……さんは」

 普段呼び捨てにしている名前を、さん付けにして呼ぶのに少し戸惑いながら琴音が言うと、忍と亜希子は少しホッとしたような表情を浮かべる。

「でも、健斗ってどこか垢抜けないのよね? 小さい時から同じでぼぉとしているというか、ボケェとしているというか……」

 ――母上? それは実の息子に対して言う言葉では無いと思うのですが?

「そんな事無いですよ? 一生懸命に自分の夢に向かっていると思います。あたしはそんな健斗を応援したいです……」

 ニコッと微笑んだ琴音が健斗の顔を見上げてくると、さすがに照れ臭くなったのか、健斗は少し頬を赤く染めながらその視線から逃れるように顔をそらす。

「ハハ、のろけられちゃったなぁ……さて、急遽仕事が無くなった訳だが、どうするかな?」

 メイクを落とすために座ったドレッサーの鏡から健斗の顔を見つめてくる忍。

「ちょ、ちょっと待てよ。本当に公演をキャンセルするつもりなのか? せっかくオヤジたちの演奏を見たいというファンを蔑ろにするのか?」

 再び怒ったような顔をする健斗に、忍はフッとため息を吐き出す。

「俺だってそんな事はしたくないよ、でもな? これがビジネスなんだよ、いくら綺麗事を言っていても、色々な人の力が無いとできない。俺たちだけでできるのならプロモーターは要らないんだ……後は菱井さんがどう動くかだな?」

 ウィンクしながら言う忍に、亜希子も大きくうなずく。

「理想と現実の違い……健斗もそろそろ覚えておいた方がいいわよ? 綺麗事だけでは世の中上手くいかない……そこには善だけではなく、あえて悪をも受け入れなければいけない事もあるという事もある……それが大人の事情であり、駆け引きなの」

 諭すように言う亜希子の言葉に何も言えなくなってしまい、不意に一瞬海に行った時にマキと莉奈が言っていた言葉を思い出す。

「遅くっても明日の朝には何らかのアクションを起こしてくるだろう、あの人の性格からすると。まぁ、健斗たちが函館に帰る頃には間違いなく決着しているよ」

 鏡越しにウィンクする忍の表情は、どのような理由からなのかわからないが自信に満ち溢れており、健斗もその表情に少しホッとする。



=V=

「大丈夫かなぁ……」

 最終日となる東京の夜。昨夜に続いて宿泊する高級ホテルのスイートルームには、琴音の少し心配そうな声が聞こえる。

「たぶん大丈夫だと思うよ? もしも完全に契約が決裂していればこの部屋もキャンセルされているだろうし、何よりもオヤジのあの表情は確信に満ちていたよ」

 眺める窓の外には、いつの間にか降りだした雨が昨夜見た夜景にスクリーンをかけたようになっており、意外にも綺麗に見る事ができる。

「よかった……もしもあたしのせいでお義父様たちのコンサートが中止になってしまって、楽しみにしていた人たちに迷惑をかけたらどうしようかと思っていたのよ」

 ホッとした顔をしながら目の前の椅子に座る琴音に、健斗も微笑む。

「ああ言いながらもオヤジだってコンサートの中止は願っていないよ。それだけあの件については怒っていたんだと思うぜ? たぶん何らかの裏があるんじゃないかな?」

「裏?」

 キョトンとした顔をする琴音に、健斗は肩をすくめおどけたような顔をする。

「あぁ、あの後すぐに社長に電話をしていただろ? なんらか社長と前もって話をしていたんだと思うよ? その証拠に『やっぱりダメ』と言っていた」

「そっか……」

 腑に落ちないというような顔をした琴音だったが、すぐにその表情を少し照れ臭そうにしながら椅子から立ち上がると、健斗の隣に立つ。

「それと……健斗、さっきはありがとう……あたしのために……」

 モジモジと手を動かしながら健斗を見下ろしてくる琴音の顔は、ほんのりと朱がかかり、その瞳は少し潤んでいるようにも見える。

「別に? 好きな女の子のためなら当たり前じゃないのか?」

 気にした様子も無く言う健斗の肩に琴音の額が当てられ、着ているシャツの生地にジンワリと暖かいものが染み込んでくるのがわかる。

「健斗……本当にありがとう……あたしあなたの事を好きになって本当によかったよ……」

 涙に濡れたような声を出す琴音の肩を健斗がソッと抱き寄せると、二人の視線が交じり合い、まつげに涙の雫をつけた琴音の瞳が閉じられる。

「琴音……」

 ゆっくりとその肩を引き寄せると自らも瞳を閉じ、ソッとその唇を合わせる。

「健斗……」

 胸に顔をつける琴音は心底安心しきったような表情を浮かべて、ギュと目を閉じている。



「ゴメンね? 見送りに行けなくって」

 ホテルの裏口には黒塗りの高級車が横付けされており、おそらくホテルの支配人であろう偉そうな男性たちが見守る中、少し恐縮したような顔をする健斗と琴音が並んで立っている。

「いいえぇ、そんな気にしないで下さい」

 困ったような顔の琴音の肩を、亜希子は今にも泣き出しそうな顔をして叩き、その隣ではいつもと同じように笑みを浮かべている忍が健斗に視線を向けてくる。

「本当ならば俺たちも羽田まで見送りに行こうと思っていたんだが、菱井さんがこれから昨日の件で謝罪に来るというから……」

「気にしなくっていいよ、良かったな? コンサートが中止にならなくって」

 朝一番に菱本の社長から忍宛に改めての謝罪の連絡があり、今日のコンサートは予定通りに行われる事になったらしい。

「まぁな? それと、あの高梨という男は懲戒免職にしたらしい。会社に不利益をもたらすような事をしたと言うのが表向きだが、本当はあの男の素行を会社は把握していて、クビにする切掛けがほしかったのだろう」

 しかしそんな忍の声は琴音には届いていないのだろう。その身体は完全に亜希子に抱しめられて大きな胸の谷間に琴音の顔がうずまっている。



「そっか……クビになったんだ……」

 高級車の中で初めてその事実を知った琴音は、複雑な表情を浮かべながら渋滞をしている車の列を眺めている。その視線の先には紅白の鉄塔、東京タワーが見える。

「あぁ、どうやらそれがいわゆる『大人の事情』だったらしい、俺にはなんとも言えないよ、良かったともなんとも……ただ、もう忘れてもいいだろう……」

「忘れるよ……あれは悪夢。その悪夢を覚ましてくれたのはあたしの目の前にいる、ちょっと不器用で鈍感な王子様……かな?」

 顔を向けてきた琴音には、さっきまでの複雑な表情は無く、少し意地悪い顔をしている。

「だから鈍感って言わないでくれよ……結構気にしているんだから……」

「エヘへ、でも、これでまた一歩あたしの夢に近付いたのかな?」

「夢?」

「うん、あたしの夢は、ステキな旦那さんと一緒に平凡な家庭を築くという事……ねぇ、そういえば健斗の夢ってなんなの? 聞いた事ないよ」

 首を傾げながら顔を覗き込んでくる琴音に、健斗は少し考えたように視線を虚空に向ける。

「そうだなぁ、やっぱり小説家だな? でも、最近ではその隣には可愛い奥さんがいたりするのも夢に含まれているよ?」

 クスッと微笑みながら琴音の顔を見つめる健斗に、琴音は一瞬にして顔を赤らる。

「アハ、アハハ、じゃあ、その奥さんを賄うために一生懸命に小説を書いて、ドンドン売れるようになるといいわね?」

 照れたように外を見る琴音の視線の先には、ペリー来航の際に作られたお台場を見下ろすレインボーブリッジに差し掛かっていた。

「あ〜ぁ、これで東京とももうお別れかぁ……今度はもっとゆっくりと来たいかな?」

 まるですがるような目で見てくる琴音の頭を、健斗はポンと叩く。

「そうだな? 今度来る時はドタバタが無い事を祈るよ」

 振り返ってみれば三日間の東京は慌しかったよな? 親の突然の婚約発言に始まって、美音ちゃんへの琴音との関係の告白、そして琴音の昔の男との偶然の再会……充実していたといえば充実していたが、できればもう少し楽しく過ごしたかったかもしれない。

 名残惜しそうに窓の外を眺めている琴音に視線を向けながら、健斗は心の中でため息を吐き出し、その横顔に少し頬を赤らめる。

 それでも、ちょっと思い出にはなったかな?

「ねぇ健斗、向こうに帰ったらとり弁を食べたいわね? って、何を想像しているのよぉ」

 いきなり向けられた琴音の視線に対応できなかった健斗は、赤い顔をしたままで、その怪訝に眇められた瞳に晒される。

第三十三話へ。