第三十三話 たくらんけ!



=T=

「もぉ、本当に雪虫がすごいわね?」

 帰って来たなり制服の上から羽織っていたコートを脱ぎ、ウンザリした顔でリビングに顔を見せる琴音に、講義が休講になり先に家に戻っていた健斗が顔を上げる。

「雪虫?」

 手元に持っていた文庫本から視線を外しながら小首を傾げる健斗に、琴音は相変わらず不機嫌そうに顔をしかめながら、その顔を健斗に向ける。

「うん、北海道で初雪が降る前に飛ぶ小さな虫の事で、雪の振る時を告げる妖精と言う人もいるみたいね? でも、あたしからすれば厄介者にしか思えないけれど……」

 ヒョイッと肩をすくめる琴音に、健斗はその目をキラつかせる。

「ヘェ、雪を告げる妖精かぁ。ちょっとロマンチックじゃないか?」

 好奇心を刺激したのか、食いつくような健斗の反応をある程度予想していた琴音は苦笑いを浮かべながらコートを引っくり返したり、裾をめくったりしながらその『妖精』が付いていないかを厳重に確認し、納得したような顔をしてそれをハンガーに掛ける。

「冗談じゃないわよ。歩いていても服に付くし、由衣と話をしていれば口の中に飛び込んでくるし、自転車になんて乗ったら最悪よ……」

 そんな悲惨な状況を思い出したのか、琴音は深いため息を吐きだしウンザリ顔をしたままで洗面所に消えてゆく。

「ヘェ、でも、その厄介な妖精が飛んでいるという事は近いうちに雪が降るのかな?」

 文庫本にしおりを挟んで、どこかウキウキしたような顔をして言う健斗の声に、洗面所に消えた琴音ではなく、キッチンから姿を現した深雪が答えてくる。

「そうね? 統計があるわけじゃないけれど、かなりの確立で降るわね?」

 暖かそうに湯気を湛えたコーヒーを持ってくる深雪はそれを健斗の目の前に置くと、少し困ったような顔をしてその前にチョコンと座る。

「という事は、そろそろ冬タイヤに付け替えた方がいいのかしら?」

 ため息を吐きながら窓の外を眺める深雪に、健斗は思わずその視線を追うように向けるがまだ雪が降りそうにもなく晴れ渡っている青空と、あまり聞きなれない単語に首を傾げる。

「冬タイヤ?」

「そう、北海道ってほとんどが雪に閉ざされちゃうでしょ? 東京あたりは降る方が珍しいからチェーンで済むけれど、こっちはそうもいかないから冬タイヤに変えなければいけないの。あたしは毎年カー用品店でやってもらっているけれど……そういえば健斗クンの使っている車の冬タイヤって無かったような気がする……」

 腕を組んで考え込む深雪に、健斗は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 おいおい、じゃあ、あの車は冬の間はずっとガレージで埃をかぶっていたのか?

「無いわよ? 去年の冬、おじ様が帰って来た時に冬タイヤが無いから車が使えないって言って文句を言っていたのを覚えている。その時におじ様が『買っておけ』と言っていたのも……」

 顔を洗ったのか前髪をカチューシャで上げたままの琴音が洗面所から顔を出してくると、深雪は思い出したように手をポンと打ち付ける。

「そうそう、そうだったわね? 結局あの車を使う事がほとんどなかったから買っていないんだったわ? ……ねぇ健斗クン、一つお願いしてもいいかなぁ……」

 拝むように手を合わせ、猫なで声をあげて実年齢よりもかなり若く見える表情を浮かべる深雪に対して、健斗は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 嫌と言えるはずがないよな? その表情……下手をすれば俺と同い年といっても通用するかもしれないぜ? 深雪さんのその表情は……本人には悪意はないとは思うのだが……やっぱりオトコとしては弱いよなぁ……そんな弱い面を見せられると……。

「ハハ、いいですよ、車も使わしてもらっているしそれぐらいお安い御用ですよ」

 深雪が顔を覗き込んでくる前に、健斗は諦めたような了解の意思を示す。

「よかったぁ。すっかり忘れていたわよ。あのヒトお正月には帰ってくるだろうから、その時去年と同じだったら何を言われるかわからないもん……お願いね?」

 まるで拝むようにする深雪に、健斗は苦笑いのまま浮かべながらソファーから立ち上がる。

「じゃあ、早速行ってきますよ。雪が降り出してからじゃあ遅いだろうし、俺もちょっとカー用品を見てみたかったから……」

「あぁ、健斗ぉ、行くんならあたしも連れて行ってよぉ」

 慌てた様子でカチューシャを取り、前髪を手で直しながら琴音が洗面所から顔を出してくる。

「えぇ? 琴音(オンナノコ)がカー用品店に何の用事なんだよ」

 口では不平を言っている健斗ではあるが、その表情は決して嫌がってはおらず、口角の隅はほんのりと上がり、不気味と言ってもいいであろう顔をしている。

 そういえば、東京に行ってからは琴音の学内選考やらでお互いに色々と忙しくって、二人だけでどこかに出かけるという機会がなかったよな?

「ブゥ、別にカー用品店に用事があるわけじゃないもん。どうせ行くんなら『本通』にあるカー用品店に行くんでしょ? そこの近くに前に買った事のある『メルチーズ』のお店があるの。どうせ行くなら『お土産』が欲しいじゃない?」

 ヘェヘェ、色気よりも食い気ですか? ちょっと寂しいかもしれない……。

 小さく歎息する健斗などお構いなく、すでに確定の青ランプの点滅させた琴音は満面に笑みを浮かべ、今にも舌なめずりをはじめそうな勢いだ。

「てか、そこに俺が行くのは確定なんでしょうか? 他の選択肢は……」

「無いわよ?」

 ニコニコ顔のまま間髪入れずに答える琴音に、健斗は力なく肩を落としてしまう。

「ったく……色々な店を見て回ると言う俺の意見は?」

 恨みがましい視線を琴音に向ける健斗に、琴音はニコニコとした顔をしながら大きく首を横に振り聞き入る隙がないというその表情にさらに肩を落とす。

 ……まぁいいかぁ……理由はどうであれ、久しぶりの……、

「アラ? それってやっぱりデートなるのかしら? だったら知果が帰ってくる前に行かないとまた、とやかくうるさく言われるわよ? ウフフ……意外に知果も本気だったりするかもしれないかも知れないからなぁ……」

 いい事をしたというような顔をした深雪は、両手をパンと鳴らしながらどこよなく意地の悪い顔をして二人の表情を見つめてくる。

「デ、デートって、そんなんじゃあ……無い……かな?」

 顔を赤らめながら助けを請うように視線を健斗に向けてくる琴音。その視線に、健斗も困ったような表情を浮かべつつ鼻先を掻く。

 ……場面的には琴音と一緒に否定しなければいけないのだろうけれど、どこか否定したくないと言う気持ちも働くよな? てか、さりげなく問題発言をしませんでしたか? 深雪さん。本気だったって……知果が本気というのはどういう意味なんでしょか?



「ヘェ、こんなのもあるんだぁ……アハ、可愛いかも……」

 カー洋品店には、その名の通りに車に使う用品しか置かれていないのだが、そのデザインは武骨な男っぽいもの以外にも、可愛らしいファンシーグッズのような小物も置かれており、タイヤ交換作業の最中、琴音の口からはそんな台詞ばかりが飛び出してくる。

 アハ、キ○ィーちゃんの小物入れに、こっちはスヌー○ーのルームミラー……へんなファンシーショップよりも可愛い小物がいっぱいあるかも……アッ、こっちはス○ィッチのCDケースがある、これなんて車の中じゃなくっても使えるよ?

 嬉々とした顔をしまるで糸の切れたタコのようにあちこちに歩く琴音の後ろから、健斗は諦めたような顔をしながらついて歩く。

「ったく、そんなに珍しいのか?」

 頭の後ろで手を組んで呆れ顔を浮かべている健斗に対し、琴音はキャイキャイいいながら売り場をウロウロと動き回っている。

「だってぇ、いままでカー用品なんて縁が無かったもん。でも、なんでこんなに可愛い小物がいっぱい置いてあるんだろうね? あたしの中ではどちらかと言うとカー洋品店に置いてある物って武骨で男の子っていうイメージなんだけれど」

 日本全国を渡り歩いている白い猫のキャラクターがあしらわれている小物入れを手に取りながら、琴音は小首をかしげて健斗に向き直る。

「まぁ、最近では女性のドライバーも増えてきたからね? それに、女の子を助手席に乗せるのなら、やっぱり可愛いアイテムがあった方がポイント高いからじゃないの?」

 首をすくめながら言う健斗に、琴音は意地悪い表情を浮かべる。

「へぇ……なるほどねぇ……ちょっと怪しいなぁ、健斗も東京にいる時は女の子を助手席に乗せていたんじゃないの? 意外な武勇伝があったりしてぇ」

 疑い深く目を眇めて言う琴音に、健斗は取り乱したような勢いで両手をバタバタと振り、否定のポーズを取るが、それによって琴音の表情から疑惑の色は消える事はない。

「そ、そんな事無いよ! 車の免許を取ってから向こうで運転していたのはほんのわずかの期間だけだし、車だって友達の車を借りて運転していたぐらいなんだ。本格的に運転するようになったのは函館に来てからだし、ここでも助手席に乗せているのは知果か……お前だけだよ」

 尻すぼみになり照れ臭そうに言う健斗に、琴音は思わず顔をほころばしてしまう。

 ウフフ、そんなにムキにならなくってもわかっているわよ?

「そんなの知っているわよ……でもぉ、そんなムキになって言い訳をするなんて、何か後ろめたい事でもあるのかしら? 例えば美音ちゃんと二人だけでドライブに行ったとか?」

 意地悪い顔を近づけると、健斗はまるで空気を裂くような勢いで首を横に振る。

「ないっ! それは断じてないっ!」

 顔を赤くしてさらにムキになる健斗の背後に、世界中で一番良く知られている白黒のビーグル犬のイラストの入った携帯電話用のポケットに視線を奪われた琴音は、いままで冷かしていた事をすっかりと忘れてその商品を手に取る。

「可愛ぃ、これはどうやって使う物なの?」

 完全に話題をそらされた健斗はホッとしたような、でも、少し不機嫌そうな顔をして、背後の陳列棚に釣り下がっているそれを手に取る。

「これは、携帯電話とか小物を入れるポケットだね? ルーバー……車のエアコンの吹き出し口に引っ掛けるだけでいいタイプだな?」

 よく見るとパッケージには『携帯などに便利!』と書かれているシールが貼り付けられており、写真にも携帯が収納されている。

「ネネ、それって健斗の乗っている車にも使えるのかなぁ」

 キラキラした瞳で見据える琴音に気圧されしたような顔をする健斗は、パッケージを引っくり返して使用説明を読んでいる。

「あぁ、これならたぶん大丈夫だよ……って、もしかしてこれが欲しいの?」

 首を傾げる健斗の問いかけに、顔を輝かせている琴音はコクコクとうなずく。

 だってぇ、大好きなんだもん、ス○ーピー。

「ったく、なんだって女の子はこういうキャラクター物が好きなんだろうねぇ……まぁいいや、思いの外タイヤも安かったし、工賃もサービスしてくれたから買ってあげるよ」

「エッ、いいよ、それぐらいならあたしが……」

 事も無げにそれを持ってレジに向かう健斗の事を慌てて追いかける琴音は、カバンの中から同じイラストの入った大きめの財布を取り出すが、優しく断られる。

「いいよ……これぐらい……その、琴音にプレゼントってした事ないし……これぐらい俺が買ってあげるよ……その代わり! お、俺の車以外では使うなよ……」

 眩しいばかりの店内に視線を泳がせ少し頬を赤らめながらいう健斗に、琴音はキョトンとした顔をるが、やがてその表情は嬉しそうに崩れてゆく。

 えへ、そんなのあたりまえじゃないのよ、健斗の車以外で使うなんて全く考えていないよ。でも、ちょっと嬉しいかな?

「わかったよ、健斗がそこまで言うならプレゼントとして貰ってあげるよ。それに、健斗の車以外に乗る予定は無いから安心して? それよりも、健斗が他の女の子に使わせるんじゃないかって、そっちの方が心配かも?」

 わざとらしく頬を膨らませて意地悪い顔を覗き込ませる琴音に、健斗も苦笑いを浮かべる。

「生憎と、知果や深雪さん以外、あの車に女の子を乗せる予定は無いよ?」

「あら? 美音ちゃんは? 来年こっちに来るんでしょ?」

 さらに意地悪い顔をする琴音の口から美音の名前が出ると、健斗が思わず目を逸らされ、その様子に琴音の頬はさらにプクッと膨らむ。

「あぁ、美音ちゃんは乗せるつもりなんだぁ……健斗の浮気者っ!」

 プイっと顔をそっぽ向かせる琴音に、健斗は取り繕うように両手をばたつかせる。

「べ、別に他意はないんだぞ? 他に乗る人間がいなかったら、彼女に助手席に座ってもらうのが当たり前じゃないか? そういう時だってあるかもしれないって……」

「やっぱりぃっ! 美音ちゃんが来たら健斗は美音ちゃんと二人っきりでどこかに行こうと思っているのね? 絶対にそうなったら邪魔するからね?」

 膨れた琴音の頬は萎む事無く、むしろ膨れ上がる一方で目付きもかなり険しく、健斗はその勢いに完全に気圧されしている。

 たとえどんな状況だって、そんなことになったら絶対に割り込んでやるんだからぁ!

「そんな心配ないよ……俺は……」

 それまで乱していた様子をコホンと咳払いをして繕った健斗は、鼻先を掻きながら恥ずかしそうな視線を琴音に向けてくると、膨らんでいた琴音の頬に朱が差す。

「俺は?」

 赤らんだ頬を一瞬にして萎ませた琴音は、その後に続く台詞に期待したような顔を向けるが、健斗は恥ずかしそうにその顔をそらせる。

『茅沼様、作業が終了いたしました……ピットまでお越し下さい』



=U=

「えへへぇ」

 彼女いわくの『お土産』を購入し黒石家に戻る車の中で、琴音は助手席の前にあるエアコンの吹き出し口につけられた真新しい小物入れを突っつき見ながら、何度目かわからない満面に浮かべた笑顔を健斗に向ける。

「だからなんだよ……気色悪いなぁ」

 徐々に鉛色の雲に覆われ視界が悪くなり始める中、正面を見据えたままの健斗は苦笑いを浮かべながらチラッと琴音に視線を向ける。

「エヘへ、だってぇ、なんとなく嬉しいじゃない? あたしの物が健斗の車に付いているって。それに、今までココ(助手席)ってなんとなく借りたような感じがしていて、正直ちょっと落ち着かなかったのよね? でも、これで……」

 口角を横に広げニィと広げる琴音に、ハンドルを握る健斗は脱力したように肩を落とす。

「おいおい、それじゃあ犬や猫のマーキングじゃないか……」

 呆れながら言う健斗に琴音は少し口を尖らせるも、その表情は概ね笑顔に覆われている。

「えへ、という事はココがあたしのテリトリーという事よね? だったら他から入ってくる人がいたら噛み付いちゃおうかな? がぉうって」

 子供のようにはしゃぐ琴音に、健斗も思わず優しく微笑んでしまう。

「じゃあ、知果や深雪さんが座る時はどうするんだ?」

 意地悪く言う健斗に琴音は考えるように視線を車の天井に向けるが、すぐにその顔を笑顔に戻して、雪虫の飛び交う中前を見据えたまま運転をしている健斗の横顔を見る。

「んと、彼女たちはあたしの家族と同じだから別にいいよ? でも、できればあたしがいる時は優先的にあたしがココに座りたいかな?」

 アゴに指を置き陳情するような顔をして首を傾げる琴音の頭を、健斗はハンドルから片手を離し優しい笑顔を浮かべたままポフポフと叩く。

「わかったよ、なるべくお前が座れるように努力するよ……いずれは深雪さんや知果にも俺たちの関係を伝えなければいけないしな?」

 ポフポフと叩かれる健斗の手の重さに合わせるよう、琴音は目を細める。

 エヘへ、なんとなく嬉しいなぁ……健斗の事を独占しているみたいで……ちょっと知果ちゃんには申し訳ないけれど……。

「あれ? 家の前に車が止まっている……珍しいなぁ」

 車通りの多い道から一本離れた黒石家の前の道は、日中でも車があまり入って来ないで、来るといえば、朝のイカ売りのトラックや、生協と新聞配達の車(函館は車で新聞を配達しているのを知った健斗はかなり驚いていた)ぐらいで、しかも、その車はいわゆるライトバンタイプの営業車で、純白のボディーは実用性を重視している。

「ん? 本当ね? 道にでも迷っているのかしら……」

 普通の乗用車であれば、近くにある裏夜景のスポットに行くので道に迷っているという事は想像できるが、質実剛健で色気のまったく無いライトバン。しかも、いくら日が陰るのが早くなってきたとはいえ、夜景を見るには数時間早い時間帯だ。

「わからないな? どこかのセールスマンが来ているのかも知れないし……」

 顔を引き締める健斗。その横顔は、黒石家唯一の男としての役割をはたさんとしているように凛々しくも見え、琴音はその顔に少し嫉妬する。

 もぉ、ここにもか弱い女の子がいるんだぞ? しかも、あたしはあなたのぉ……そのぉ、ふぃ、ふぃぃ……ダメ、まだ馴染めないよ……。

 フィアンセという言葉に顔を赤らめる琴音だが、健斗は所定の位置に車を止めると、少し早足で玄関に向かい、琴音も慌ててそれに次ぐように歩く。

「ただいまぁ」

 中の様子を伺うように扉を開けた健斗だが、その視線の先に予想されていたような光景は無く、代わりにリビングからニコニコ顔の深雪が二人を出迎える。

「お帰りなさい。琴ちゃんにお客さんが見えているわよ?」

 ニコニコ顔の深雪に対し、健斗は琴音に視線を向けるが、その首は盛大に首を傾けられる。

 あたしにお客? 一体誰なんだろう……由衣とかなら深雪さんがこんなにニコニコしないだろうし、一体誰なんだろう、わからないよぉ?

 助けを請うように健斗をみるが、琴音でさえわからないのに健斗がわかるわけも無く、ヒョイッと肩をすくめ、目でリビングに行くよう促され、恐る恐る足をリビングに向ける。

「…………エッ?」

 意を決したようにそっと顔をあげてリビングに置かれているソファーに見える白髪交じりのイガグリ頭の後頭部に、琴音は胸の奥がギュッと捕まれるような感覚に陥り、思わず振り返った色黒な顔に向かって駆け出してゆく。

「おぉ、琴音ぇ! 久しぶりだなぁ」

 坊主頭に厳つい顔をした男性は、いきなり抱きついてきた琴音を愛おしそうに受け入れると、ポニーテールにしている頭を優しく撫でる。

「お父さん! どうしたの? 急に……」

「どうだ、驚いたか?」

 してやったりというような顔をしているイガグリ頭の男性は、琴音の頭をなでながら相も変わらず優しい視線を向けており、その表情に健斗は少し嫉妬に似たような感覚を覚える。

「ホントだよぉ、驚いたよぉ、来るなら連絡をくれればよかったのに……」

 素直に嬉しそうな顔をしている琴音は、厳つい顔に笑顔を浮かべている父親の顔を覗き込み、男性も嬉しそうな表情を崩さない。

「イヤァ、急に出張になってな? 時間を作って来たんだよ……久しぶりに見ると琴音も大人っぽくなっちゃって、ちょっと驚いたぞ?」

 優しい親らしい笑顔を向ける琴音の父親だったが、リビングの入口に立っている見知らぬ男(健斗)に視線が向くと、その顔を一気に険しくさせる。

「えと……」

 優しい目をしているものの、トータル的には厳つい顔をしている琴音の父親に睨まれ、健斗は言葉を失い琴音に助けを請うような視線を向ける。

「そっか、彼は茅沼健斗さん。深雪さんの甥っ子で明和大に通っているの。こっちはあたしのお父さんで、沢村惣一(さわむらそういち)」

 互いを紹介する琴音だが、それによって惣一の眉間に浮んでいるシワは一層深くなる。

「黒石さんの甥っ子で、明和大に通っているという事は……」

 ギロッという音が聞こえそうな視線が深雪に向くと、さすにその勢いにいつもの笑顔が引きつっているようにも見える。

「え、えぇ、ウチで預かっていますよ?」

 戸惑いを隠せないような深雪は、惣一の勢いに押されたように答える。

「という事は、琴音と同じ屋根の下に男が同居をしているという事なのかな?」

 深い溜息を吐きだし、再びギロッという音が聞こえそうな勢いで惣一の視線が健斗を向く。

「健斗クンはそんな悪い子じゃないですよ? あたしも小さい時から彼を見ていますし……」

 取り繕うように言う深雪の言葉など恐らく惣一の耳には入っていないのだろう、今にも飛びかかって来そうな血走った視線は健斗から離れる事はない。

「…………そうよ……今、あたしは健斗とお付き合いしています」

 蚊の鳴くような小さな声だったが、琴音の言葉はその場にいる全員に伝わり、惣一だけではなく、その関係がハッキリとわからなかった深雪までもが驚いた顔をして琴音を見る。

「こ、琴ちゃん?」

「琴音?」

 しかし、そんな視線にためらう事なく琴音は真っ直ぐと惣一の顔を見据えており、その視線の矢面に立った惣一の方が動揺するように視線を泳がしている。

 そう、この際だからハッキリしておこう。別にやましい事は無いし、いずれお父さんにも知れるのだから、ヘタに隠さないで堂々と宣言をしておこう。

「あたしは健斗の事が好きです。いずれは一緒になりたいと思っています」

 キッパリと言い切る琴音に対して、惣一はそれまでの毅然とした態度をなくし、戸惑ったようにアウアウと口を動かすだけで、その口からは言葉らしい言葉は発せられない。

「健斗のご両親にも会いました……本当は、お父さんやお母さんに先に話しておくべきかもしれないけれど、いずれは健斗と家庭を築きたいと思っているの……」

「ば…………バカ言うなっ! お前はまだ高校生なんだぞ? それに彼だってまだ学生だ。そんな事を今から言ってどうするんだ! このたくらんけ(大馬鹿者)がっ!」

 ギュッと目をつぶりながら決意したように言う琴音の言葉に一気に血圧が上がったのか、惣一は顔を真っ赤にすると、鬼のような形相をして琴音に向けて手を振り下ろす。が、その手は二人の間に割り込んだ健斗の頬を叩く。

「け、健斗!」

「ってぇ〜……琴音。事には順番があるだろ? そんな言い方は無いよ……それに、その先の台詞は俺が言う事だし……」

 まったく手加減をしなかったのであろう、グローブのように大きな惣一の手で平手打ちされた健斗の頬は赤くなり、薄っすらと手の跡が残っている。

「健斗……」

 数回頬をさすった健斗はやおらその場に正座をすると、深々と頭を下げる。

「確かにお義父さんたちから見ればまだまだ子供のママゴトのように見えるでしょうが、僕は中途半端な気持ちではありません。本気です……彼女の事を幸せに出来るのは僕しかいないと本気で思っています。ですから、結婚を前提に……」

「はんかくせぇ……社会もしらねぇお子様が、なにをいいふりこいて(格好つけて)いるんだ? 結婚なんて言うのはなぁ、自分で稼ぐようになって安定してから言うものだ! 自分の娘が将来苦労するのがわかるような奴との結婚を認める親がどこにいるんだ!」

 土下座をする健斗の事を見下し言葉を遮るように言う惣一の言葉に、健斗は床に付いた手を握り締めながら聞き、その様子を見ていた琴音はギュッと唇を噛む。

「なんであたしが苦労するって言えるの? お父さんは健斗の事を何も知らないんでしょ? なんだってそう簡単に言い切る事が出来るのよっ!」

 目に涙を浮かべながら刃向う琴音に、惣一は一瞬怯むが、しかし、その顔を見ないように視線を逸らしながら言葉を続ける。

「では聞く。いま学校に行っている月謝などはどうしているんだ? 親に出してもらっているんだろ? いわゆる扶養家族なんだ。親のスネをかじっているんだよ」

「でも、健斗の両親は……」

「琴音っ!」

 いいかける琴音の言葉を健斗の険しい声が遮り、上目遣いに惣一の顔を見上げる。

「でも、健斗のご両親は……」

「親は親、俺は俺なんだ、関係ない」

 その会話に惣一は一瞬首を傾げるも、すぐに首を振り険しい顔を作り直す。

「わかったのなら結構……さて、こうなると同じ家に暮らすというのにも無理が生じますな?」

 呆気に取られて傍観していた深雪に惣一の視線が向くと、慌てて背筋を伸ばす。

「といいますと?」

 キョトンとした顔をする深雪に、惣一は腕を組みながら首を傾げる。

「確かに黒石さんと私は旧知の仲ですし、彼の奥さんである深雪さんとも付き合いが長い。だからこそ琴音をここにお邪魔させたのですが、このように恋仲になっている男女が一緒に暮らしているというのは、あまり好ましくない」

 惣一はチラリと正座をしたままの健斗と、恨みがましい目で睨みつけてくる琴音に、決意したような視線を向けてくる。

 お父さん……まさか……。

「明和大には管理人常駐の女子寮があると聞きました。琴音はそこに引っ越させます。今まで黒石さんに世話になっておきながら、こんな事をいうのもなんですがね?」

 再び健斗の顔を見下ろす惣一、その視線の先の健斗は何も言えない自分がよほど歯がゆいのか、うなだれながらも唇が白くなるほどの力で噛み締めている。

「そんな……」

 しかし、深雪にも否定ができる問題ではなく、否定の言葉が見つからず口をつぐんでしまう。

「いいな琴音。それに、お前みたいな歳で結婚なんて考えるのはまだまだ早い。大学を卒業してからでも十分なぐらいだ。とりあえず大学で……」

「だったら…………あたしが働く……」

 うつむいていた琴音の口からは、そんな言葉が飛び出してきて惣一は思わず次の言葉を飲み込んでしまい、うなだれていた健斗も顔を上げて琴音を見上げる。

「琴音? お前、いまなんて言ったんだ?」

 動揺を隠しきれない惣一は、必死に顔を作りながら琴音の肩を掴もうとするが、その手を払いのけ、健斗の座っている隣に同じように正座する。

「別に必ずしも男が稼がなければいけないなんていう事は無いでしょ? だったらあたしが働いて稼ぐ。大学に進学しないで働く……ここから追い出されるのなら仕方が無いので自分で稼いでアパートを探します……でも、健斗からは絶対に離れない……お父さんゴメン」

 真っ直ぐに見据える琴音の瞳からは大粒の涙が溢れ、既に幾筋もそれは頬を伝い床に敷かれているカーペットに染み込んでゆく。

「琴ちゃん……あなたそこまで……」

 感極まったような顔をする深雪の目にも光るものがあり、琴音の隣に座る健斗も嬉しそうな微笑を浮かべているが、惣一だけは憮然とした表情を崩さない。

「沢村さん……今日はウチに泊まられませんか? ゆっくりとお話をしましょう……琴ちゃんもそんなに早まったような事を言わないで……ね?」

 床に額をすりつけている琴音の肩をポンポンと叩きながら深雪が言うと、惣一は仕方がなさそうにうなずき、琴音もコクリと言葉なくうなずく。

「健斗クンもいいわね?」

 正座をしたままの健斗も声をかけられると、力なくうなずき、それを合図にしたように深雪は立ち上がり、パンパンと手を叩く。

「よし、そうなったら料理は腕によりをかけないといけないわね? 琴ちゃん、夕飯の支度を手伝ってちょうだい」

 張り切ってキッチンに勇む深雪の後をトボトボと琴音が付いて入ってゆく。

「ねぇ琴ちゃん……いつから健斗クンと?」

 キッチンに入るなり、いまだリビングでこう着状態の健斗と惣一にチラッと視線を向け、声を潜めながら聞いてくる。

「えと……夏からです……」

 素直に答える琴音に、深雪は意味深な笑みを浮かべる。

「そっか…………やっぱりね?」

 一人納得したような表情の深雪に、今度は琴音が首を傾げながら、料理の準備に取り掛かり始めているその背中に視線を向ける。

 やっぱり? いま、深雪さんはそう言っていたわよね? もしかしてあたしと健斗の仲に気が付いていたという事なの?

「――何となく夏から琴ちゃんの態度が柔らかくなったというか、女の子というよりもオンナらしくなったなって思っていたの。別にいやらしい意味ではなくってね?」

 クスッと微笑みながら向き直る深雪の視線は、どことなくすべてお見通しというような雰囲気が漂っており、琴音は否定する事ができなくなる。

「深雪さん……あたし……」

「別にあたしは深く詮索つもりはないわよ? ただ、女というのは恋したり人を愛したりする事によって磨かれるんだなってつくづく思っただけ……琴ちゃんも綺麗になったわよ?」

 優しい頬笑みを浮かべる深雪に対して、琴音は思わずその瞳を熱く潤ませる。

「あたしはどんな事があっても琴ちゃんと健斗クンの味方であるから安心して? まぁ、知果の事を考えるとちょっと悩むけれど、彼女もうすうす感づいているんじゃないかしら?」

 ペロッと舌を出しておどけた表情を作る深雪に、琴音はちょっと辛そうな顔をしている。

「やっぱり知果ちゃんは健斗の事が……」

「まぁ、初恋は叶わないというジンクスがあるから仕方がないでしょ? これが彼女にとって初めての試練なんだから、母親としてちゃんとフォローはするわよ。それに、相手が琴ちゃんだったらあの子もきっと諦めがつくと思うしね? それよりも……」

 カウンター越しにいまだにこう着状態の健斗と惣一の状況に視線を向けた深雪は深いため息を吐きだし、それにつられるように琴音も小さく嘆息する。

第三十四話へ。