第三十四話 初雪の降る日の約束



=T=

「えと……あたしは自分の部屋に戻っている……ね?」

 恐らく今までの鉛が乗ったような重苦しい夕食で雰囲気を読み取ったのであろう、知果は早々に食器の片付けをはじめる。

 ――知果ってその辺にいる同い年の女の子よりもしっかりしているよな? その場の雰囲気を読む事ができるというか、俺と琴音が険悪な雰囲気になれば仲裁に入ってくるし……気遣いができるというのか、しっかりした娘だ。

「悪いわね知果ちゃん」

 キッチンで片付けを手伝う琴音が、どことなく疲れたような表情を浮かべながらリビングを出て行こうとする知果に声をかけると、少し心配そうな視線を健斗と作り笑顔を浮かべている琴音の顔に向けながらソッと扉を閉める。

 恐らくこれからこのリビングで繰り広げられるであろう話の内容も知果は悟っているんじゃないか? だからあんな心配したような表情をしていたのだろう。

「さてと、シラフじゃあなかなか話し難いでしょうから……」

 気がつくと綺麗に後片付けされたテーブルの上には、いつの間にか冷えた缶ビールと人数分のグラスが置かれており、琴音の目の前にはパッションな柄の缶チューハイが置かれる。

「こ、琴音も飲むのか? っていうか、オマエは未成年だろ?」

 パッション柄な缶と琴音の顔を交互に見つつ少し怒ったような呆れたような顔をする惣一に、深雪はいつもと同じように和むような笑顔を浮かべる。

「まぁまぁ、そんな事を言っても沢村さんだって人の事を言えないんじゃないですか? 未成年時代、ウチのダンナとの色々な武勇伝をいくつも聞いていますよ?」

 意地の悪い深雪の笑顔を向けられた惣一は、いくつか思い当たる節があるのだろう、グゥの音も出ないような顔をすると口をつぐんでしまい、その表情に健斗と琴音は顔を見合せどちらともなく笑顔を浮かべる。

「あたしだってもう半分は大人だよ? ハイ、お父さん、どうぞ」

 小さくため息を吐きだしながら穏やかな笑顔を浮かべる琴音はビールの缶を持ちあげ、グラスを持つように促すと、惣一はどこか嬉しそうな顔をしてグラスを持ち上げる。

「――まさか、自分の娘にお酌をしてもらう日がくるなんて思わなかったよ」

 感慨深そうな顔をする惣一に一同はシンミリした顔をしてしまい、重苦しい空気がリビングに流れ込んでくると、その雰囲気をいち早く察知した深雪は眉根をハの字にしながら、

「さぁ、とりあえず乾杯しましょ? かんぱぁ〜い」

 場の雰囲気を明るくしようとする深雪の音頭で惣一は琴音と深雪のグラスとは合わせるが、頑なに健斗のグラスとは合わせようとはしないでソッポを向いたままそれを口に運ぶ。

 ハハ、かなり嫌われてしまったようだ……まぁ、大事な娘に会いに来たら、素性のわからない男と同じ屋根の下にいる。しかもその相手と結婚を前提にお付き合いしたいなどと言われるともなれば、それはまぁ当然の対応なのかもしれない……ハハ……前途多難だなぁ。

 同情するような困ったような表情を浮かべる健斗は、合わせる場のない差し出したグラスを行き先が無いように揺れ動かしながら苦笑いを浮かべるが、その表情を相も変わらずに見ようともしない惣一の態度に琴音の頬は一気に膨れ上がる。

「もぉっ、お父さん! 子供じゃないんだからぁ〜っ!」

 怒ったような顔をした琴音に惣一は少し怖じけたような表情を浮かべるが、すぐにふてくされたように顔を横にして再び健斗から顔をそらしてしまい、その成り行きを見ていた深雪は、小さな溜息を吐きだしながらその場を取り繕う。

「まぁまぁ、沢村さんもそんなに意固地にならないでくださいよ。それよりも、健斗クンと琴ちゃんは今年の夏あたりから付き合いはじめたって聞いたけれど、二人の間になにか切っ掛けみたいなものがあったのかしら?」

 再び重苦しくなりはじめた空気に拍車をかけるようにさりげなく言う深雪の言葉に、ピクッと惣一の手が過敏なほどに反応し、グラスの半分にまで量に減っていた白い泡が小さく揺れる。

「――特別な切っ掛けなんてなにも無いです。春に初めて健斗に出会ってから、良い時も悪い時も色々な場面では必ず……その時は必ずと言っていいほど彼はあたしの隣に一緒にいてくれて、慰めてくれたり励ましてくれたりしてくれて、気がついたらいつの間にかあたしの心の中で『健斗』という存在がすごく大きくなっていて……いつの間にかあたしは健斗と離れるという概念が考えられなくなっていたの……」

 うつむきながらもわかるほどに頬に朱を差しながら、少し照れたように答える琴音の表情に、惣一の表情は徐々に険しくなってゆき、行き場のなくなったわけのわからない感情のせいなのか、なみなみとグラスに入っていたビールは一気に煽られるとあっという間に無くなっていた。

「お義父さんどうぞ」

「キミに『お義父さん』と呼ばれる筋合いは一切無い!」

 けんもほろろに差し出した健斗の缶に見向きもしないで、ブスッとした顔をした惣一はわざとらしく別の缶に手を伸ばすと、手酌で自らのグラスに注ぐ。

 きっとお義父さんの中では俺という存在は害虫のように見えているのだろうな? 自分で言いながらもちょっと傷ついたかも……でも、お義父さんからはそう見えるのは、当たり前の親子愛というやつなのかもしれないな?

「もぉ、お父さんっ!」

「アハ……それで? 健斗クンは?」

 そんな父娘のやり取りを楽しそうにわき目で見ながらも、深雪の視線は次に苦笑いを浮かべっぱなしになっている健斗に向く。

「俺……ですか?」

「そう、健斗クンには東京に美音ちゃんという彼女がいたじゃない?」

 悪気のない顔をしてグラスを傾けながら言う深雪の台詞に、惣一の顔はさらに険しくなり、既に酔いがまわったのではないかと思われるぐらいにその顔色は赤くなる。

 ちょ、ちょっとぉ、深雪さんは俺たちを応援してくれるんじゃなかったんですか? そんな事を言ったらよけいに波風が強くなるんですけれど……でも、周りからすればそういう疑問を抱くのは当然なのかもしれないよな?

「ハァ、この間東京に行った時に美音ちゃんには全てを話しました……俺が好きな女の子は、美音ちゃんではなく……琴音……さん……なんだと……」

 照れたようにうつむきながら話す健斗と同じように琴音も恥ずかしそうにうつむき、そんな二人の様子にさらに機嫌悪そうな顔をした惣一が何杯目かのビールを煽る。

「ケッ、だから都会者(モン)はぁ……琴音ぇ! 騙されるんじゃねぇぞ? ちょっと離れたらすぐに違う女を作るような男に惚れると、お前も同じ目に合うぞ!」

 手酌をしてまだ並々と入っているグラスのビールを一気に飲み干しながら、若干ロレツが怪しくなりはじめながらも吐き捨てるように言う惣一に、琴音は幹部黒の緒が切れたといわんばかりに一気に頬を膨らませると、目に涙を浮かべながら烈火の如く口を開く。

「そんなんじゃないもん! 健斗はものすごく悩んでくれたもん! 美音ちゃんに罵られるのを覚悟して彼女に会いに行っってくれた……でも、健斗は怖じける事なく彼女にあたしと健斗の事を包み隠さず全てを話してくれて彼女も納得してくれた……そもそも、美音ちゃんも言っていたけれど、別に健斗と美音ちゃんは特別付き合っていたわけじゃない……一方的に彼女が健斗に恋心を抱いていただけで……健斗は……」

「それは俺のいい訳でしかないよ。彼女を傷付けたという事はどうであれ同じ事なんだから。結果としてハッキリしなかったために彼女を傷つけた俺が悪いわけなのだから……」

 二人の会話を、下唇を突き出してつまらなそうな顔でグラスを傾けている惣一に対して、いまにも噛み付かんばかりの勢いの琴音の事をなだめるように言う健斗に、深雪はどこか納得したように鼻を鳴らし、優しく制止された琴音は不完全燃焼というような不満げな顔をしながらも炭酸の泡を携えたグラス(アルコール含有)を一気に煽る。

 ハハ、親子だねぇ。飲み方はなんだかんだ言っても同じかもしれないぜぇ。ちょっと将来が心配かも……って、そんな事を言っている場合ではないよな?

「ほれ見ろ、自分でも認めているじゃないか。そんな男に惚れるとお前が苦労するぞ?」

 苦笑いを浮かべながらそのやり取りを見つめている健斗の視線の先にはどことなくしてやったりという表情を浮かべている惣一が映るが、その顔を一点に見据える琴音はさらに頬を膨らませるが、その表情には先ほどまでの嫌悪感は無く、淋しそうな表情を浮かべ、大きな瞳には大粒の涙が浮かんでおり、その表情に惣一もギョッとした顔をする。

「…………健斗はそんな事なんて絶対にしないもん……健斗は絶対にあたしの事を大事にしてくれるし、あたしもそう信じている。絶対にあたしの事を救ってくれるって……だって……だって、彼はあたしの……あたしの過去の事を……」

「琴音っ!」

 言いかける琴音の言葉を遮るような強い口調の健斗の声に、その場にいた全員の肩がすくみ、やがて怪訝な視線が向けられると、申し訳なさそうにその頭(こうべ)を垂れる。

「――すみません、いきなり大きな声を出して……お義父さんの心配はもっともだと思います。でも、これだけは言わせてください、俺には琴音さんの事を幸せにする自信はあります。なにも根拠は無いかもしれませんが、これだけは信じてください……」

 それ以上の事を琴音の口から告白させる事はできないだろ? 男ならな?

 ソッとグラスをテーブルに置いてから土下座をするように深々と頭を下げる健斗に対し、惣一はその姿を視界の片隅で認めながらも知らん顔を貫き通し、健斗の隣にいる琴音は目に涙を浮かべながら頼もしそうにその横顔を見据え、同じようにペコリと頭を下げる。

「――なるほどね……そういう経緯(いきさつ)があったんだ……あたしもきっと沢村さんと同じ勘違いをしていたみたいね? ゴメン健斗クン、あなたと琴音ちゃんが付き合っているという話を聞いてからずっと、あたしも誤解をしていたわ」

 申し訳なさそうにペコリと頭を下げる深雪に、健斗は恐縮したような顔をしながら顔の前で手をブンブンと振り恐縮したような表情を浮かべる。

「そんな事はないです。第三者がそう見ていたという事は、それが世間一般的には事実なんでしょうし、俺がどう思っていたとしても結論は周囲の目ですから……俺が優柔不断でした」

 俺自身が違うと言い訳をしても、周囲がそういう風に見ていればそっちの方が事実になる。それに対して異論を唱えるつもりは無いし、俺が言い訳できる立場ではない。

 辛辣(しんらつ)な顔をしてキュッと口を真一文字に結びうつむく健斗の様子に、琴音はガバッと立ち上がると、そんな姿を皆の視線から隠そうと立ちはだかる。

「それはおかしいよ……健斗の事だけを責めるのはおかしいよ……あたしだって健斗に彼女がいるというのを知っていながら好きになっちゃったんだもん、それだったらあたしだって責められなければおかしいよ? 健斗一人だけが悪いわけじゃない!」

 うなだれている健斗の事を、涙に声を詰まらせながら必死に弁護するような琴音の事を優しく制したのは、意外にも二人の結婚には絶対反対派の筆頭であるはずの惣一だった。

 お、お義父さん?

「お父さん?」

 思いもしなかった人物の介入に琴音と健斗は互いにキョトンとした顔をして、顔を上げずにグラスを持ちながら難しそうな視線を落としている惣一の顔を覗き込む。

「――琴音はちょっと席を外してくれ……深雪さんも……」

 それまでの烈火のような怒りは影を潜め、驚くほどに穏やかな惣一の声に琴音と深雪は顔を見合わせながらどちらともなく椅子から立ち上がる。

 お義父さん? まさか俺とサシの勝負をしようって言うんじゃ……んなわけないか?

 突然の出来事にゴクリと息を呑む健斗を尻目に、言われたとおりに琴音と深雪は心配そうな表情を二人に向けたままリビングを出てゆき、残された二人の間には長く重い沈黙が訪れる。

 お……重い……何なんだこの重苦しい空気は。こんな重苦しい沈黙よりもさっきまでみたいな喧々諤々の方がいくらかマシなような気がするぜ……。

「茅沼君……いや、琴音はキミの事を『健斗』と呼んでいるな?」

 どれぐらいの時間の沈黙があったのだろうか、二人が出て行く時はいっぱい入っていた健斗のグラスはチビリチビリ飲み半分に減り、惣一においては既に何度目かの手酌をしている。

「は、はい……」

 その声に思わず背筋を伸ばす健斗にはじめて視線を向けた惣一は、難しい表情を保ったままながらも、わずかな笑顔を浮かべているようにも見える。

「――健斗クンと呼ばせてもらっていいかな?」

 力を抜いたようにため息を吐きだしグラスを傾けながら言う惣一の表情に、健斗もそれまで構えていた肩の力が不意に抜ける。

「はい……むしろその方が嬉しいです」

 どことなく軟化したような惣一の態度に、健斗はホッとしながらもその理由がわからず、警戒態勢のままにその話に乗る。

「そうか…………キミは、確か……十九歳だったな?」

「はい……」

 答えたのちに再び訪れる沈黙。重々しい雰囲気の中ゴクリとビールを流し込む惣一の喉の音が健斗の耳にやけに大きく聞こえる。

「…………ウチの女房とは幼馴染なんだ……偶然大学が一緒になってから付き合いはじめたのが切っ掛けだ。ちょうど女房と再会したのがキミの年と同じ時だったよ……」

 過去を見つめるように遠い目をしながらも、惣一がグラスを煽る回数は増えており、それに比例するようにその顔は赤くなり、目もトロンとしてくる。

「……色々あったぜよ……付き合っているのかどうかまだわからない時に彼女が親に騙されていい所のボンボンと見合いをさせられたり、俺も他の女に言い寄られたりもした……妹みたいな姪っ子に告白された事もあったよ……ハハ、自慢じゃないがな?」

 グラスの縁につく炭酸の泡を見つめながら惣一はおどけたような表情を浮かべながら言う。

 お義父さん?

「――俺も若い頃は健斗クンと同じように思っていたぜよ……二人が愛し合っていればなんでも出来るとな? でも、それは理想であって現実では無い……これは体験した俺の意見だ……」

 グビグビとグラスを一気に煽った惣一は、空になったそれを健斗に差し出す。

「ほれ、目上の人間のグラスが空になっていたのならすぐに注ぐのが年下の使命だろ? ん?」

 おいおい、さっきまで人のお酌を頑なに拒否の態度を取っていながらそれですか? まぁ、俺の立場上としては否定できないけれどね?

 キョトンとした顔をしながらも健斗は差し出されたそのグラスに視線を向けると、あわててテーブルの上に何本となく置かれている星のマークの描かれている缶ビールに手を伸ばす。

「す、すみません、どうぞ」

 まだ重みのある缶を選りすぐりお酌をすると、惣一はどこか満足そうな顔をする。

「…………ついこの間までヨチヨチ歩きをしていた琴音が、気がつけば俺のお酌をして、好きな人と一緒になりたいかぁ……切ないなぁ」

それまで重ねてきた年輪を表すような深いシワが刻まれた惣一の瞳には、どことなく薄っすらと涙が浮んでいるようにも見え、健斗もその表情に同情したようになる。

「……健斗クン、さっきキミは琴音の事を幸せにする自信があると言っていたよな? その根拠は無いとも……キミのその自信はどこから生まれたんだ?」

 トロンとした目をしながらもその質問を向けてくる惣一の視線は真剣で、輝きを失う事は無く、健斗もその視線に誠心誠意の答えを向けなければいけないという気になる。

「……正直言ってわかりません。ただ、彼女の事を思う気持ちは世界中にいる誰よりも俺が一番強いという自信からだと思います。それと、彼女から思われているのは世界でただ一人。俺だけなんだという自信かもしれません……まぁ、お義父さんからすれば『はんかくせぇ』と思われるかも知れませんが、これが俺のわかり得る彼女への想いです」

 淀む事無く真っ直ぐに目を見ながら答える健斗の言葉に、惣一は一瞬呆気に取られたような顔をすると、やがて諦めたようにビールを一気に煽ると、その表情を崩す。

「――ったく、俺はアイツの父親だぞ? 親の前でいけしゃしゃと臆面も無くよくそんな事が言えたもんだぜ……ほれ、オメェのグラスが空っぽだぞ、飲め」

 吹っ切れたような顔をして缶を持ち上げながらわずかに残るビールを飲み干すように促す惣一に対し、健斗は虚を衝かれたような顔をする。

「す、すみません……」

 グラスに残っていたビールを一気に飲み干し、慌てて差し出す健斗の事を惣一はさっきまでの険のある顔ではなく、穏やかな顔をして見つめている。

「……アイツは今まで俺に刃向った事が無いんだよ……父親っ娘って言うのかな? いつも俺の後ろを付いて来ては『お父さん』と言っていた……アイツが俺に向かってあんなに刃向ったのは初めての事だよ……もう、俺の出番じゃないんだな? アイツに今必要なのは俺じゃない。きっとキミなのかもしれないぜよ……」

 小さく嘆息しながらカチンとグラスを合わせてくる惣一は、どこか寂しそうな顔をしている。

「――そんな事は無いと思いますよ? 琴音にとっては……父親はいつまでたっても父親です。親は親なんですよ、いくら俺が足掻(あが)いたとしても、俺は一生お義父さんの足元に及ぶ事は出来ないんです。これはその家庭に生まれた以上変らない事だと思いますし、多分に女の子の初恋の男性は父親だともいいますしね?」

 浮かび上がる安ど感に肩の力が抜けた健斗は思わず自分の理論を語ってしまう。

 って、ヤベ。俺も酔っぱらってきたのかなぁ……つい饒舌になっちまった。

 しかし、そんな健斗の懸念は次の惣一の表情によって打ち消される。

「そう思うか? そうだよな? いくつになっても琴音は俺の可愛い娘でしかないんだ、たとえキミの事が好きだとはいえ、あいつは俺の娘なんだよ……それに変わりは無い!」

「ハァ……」

 熱く語りはじめる惣一に、健斗は曖昧な笑みを浮かべつつもその気持ちを汲み取る。

 ――もしも、俺に娘がいたらきっとお義父さんと同じ事を言うだろうな? いままで自分の事を好きと懐いていた娘が、ある日突然どこの誰ともわからない男と一緒になりたいと言われた時のいたたまれない気持ちは、なんとなくわかるような気がする。

「だが、まだ早い!」

 同情をしはじめた健斗の耳に聞こえる惣一からの台詞は元の木阿弥に戻るものだった。

 ……おいおい、いま一瞬浮かんでいた感動を返してくれと言いたいのだが……。

 視線を上げる先に見える惣一の顔は、さっきまでと同じ険しい顔をしており、軟化していたという健斗の概念を覆していた。

「まだキミも大学生だし、琴音においては高校生だ……お互いの気持ちがいつ変るかもしれない。今は熱くなっているかもしれないが、いつその気持ちが冷めるかわからない……そういう話しはもう少し時間を置いて、お互いの気持ちが固まってからの方が……」

 しかし、そんな険しい表情を一気に和らがせると、胸のポケットから煙草を取り出してライターに火をつけている惣一の表情は健斗にはわからないだろうが苦渋に満ちており、その先に言われるであろう言葉を予想していた健斗は自信に満ちたような表情を浮かべる。

「はい。ちゃんと時間は置きます……でも、俺の気持ちは……琴音……さんに対する気持ちはいつまでも変わりませんので、お義父さんには申し訳ありませんが、あしからず」

 キッパリと言い切る健斗の真剣な表情に、惣一はポカンとした顔をし、やがて諦めたように力なく首を横に振り紫煙をゆっくりと吐き出す。

「――若いな? 若さゆえの何とかにならない事を祈るよ……」

「若いから言い切る事が出来るんじゃないですか?」

 やっとホッとした顔をする健斗に対して惣一は一瞬呆気にとられたような顔をするが、やがてその顔を安心したように綻ばせる。



=U=

「まだ話をしているのかなぁ……」

 リビングから追いやられて既に一時間近くが経過しており、琴音は自分の部屋の中で様々な事を考えながら健斗や惣一が迎えに来るのを待っていた。

 まさかお父さんにあんなに反対されるなんて思っていなかった……多少の反対は想像していたけれど、あんなにまで激しく反対されるなんて……しかも、ここから出て行くという話しまで持ち出してくるとは思ってもいなかった。今、二人はどんな話をしているんだろう……。

 部屋の中でリビングでの話し声などまったく聞こえる事無く、所在なく抱しめていたぬいぐるみをベッドの上に投げ出すと、意を決したように立ち上がりソッと部屋の扉を開く。と、

「ヘッ? 深雪さん?」

 視線の先には廊下にひざまずきながら階段の上から階下の様子を伺うようにする深雪の姿があり、琴音の声に驚いた顔で振り向くと、慌てて自分の指を唇に押し当てる。

「シッ! 静かにして……」

 いつに無く真剣な顔をした深雪は、そう言うとすぐに階下に視線を向け、その雰囲気に気圧されたように琴音もそれに従うように深雪の隣にひざまずく。

「何を?」

 声を潜める琴音に深雪は相変わらず聞き耳を階下に向けながら答える。

「琴ちゃんだって気になるでしょ? あの二人がどんな話をしているのか……」

 いつものホンワカした笑顔はなりをひそめ、深雪は用心深そうに階下に視線を向けると、琴音は合点がいったというような顔をして深雪と同じように階下に向けて聞き耳を立てる。

「聞こえますか?」

 しかし、聞き耳を立てる琴音の耳には階下からは人がいるという程度の物音しかしてこない。

「聞こえない……罵声も聞こえないし、どうやら穏やかに話しは進んでいるみたいだけれど、果たしてそれはどっちの方向に向かっているのか……琴ちゃんと健斗クンの仲を認めるのか、それとも琴ちゃんがここから出て行くという事になるのか……」

 肩をすくめながらも表情は締めたままの深雪の言葉に、琴音の表情が曇る。

 あたしがここを出ていかなければいけないなんて絶対にイヤ。健斗と一緒にいたいというのと同じぐらいに深雪さんや知果ちゃんともこれからずっと一緒にいたいんだもん……。でも、その事が原因でお父さんと健斗の仲が悪くなるのもイヤ……二人には仲好くなってもらいたい。

「あたしは健斗クンと琴ちゃんの味方。もしも琴ちゃんをここから連れて出て行くなんていう事になったら、ウチの旦那から文句を言ってもらうわよ!」

 フン然極まりないという顔をした深雪はポンと自分の大きな胸を叩き、励ますような表情を向けてくると、温かい深雪のその言葉に対し琴音の胸の内はありがたい気持ちでいっぱいになり、思わず目頭が熱くなってくる。

「あ……ありがとう……深雪さん……」

 涙に声を詰まらせる琴音の事を見据えた深雪は、ニパッと口角を広げる。

「ウフフ、大丈夫、もしもダメなら二人で既成事実を作っちゃえばいいのよ」

 あまりに突飛よしもない深雪の提案に琴音はキョトンとした顔をして深雪の顔を見るが、その表情は本気とも冗談とも取れないものだった。

 き、既成事実って……もしかして…………赤ちゃん?

 たどり着いた考えに一気に顔を赤くした琴音の耳に、階下から惣一の笑い声が聞こえてきて、思わず深雪と二人で顔を見合わせうなずき合うと、足音を忍ばせながら階段を降りる。

 一体二人で何の話をしているの? どんな結論に至ったの?

「どうする?」

 リビングの光が漏れている扉からは惣一の笑い声が断続的に聞こえてきて、声を潜める深雪は困ったような顔をして琴音を見るが、琴音は意を決したように立ち上がるとその扉を開く。

「お父さんっ!」

 突然開かれた扉に動じる事無く惣一は赤ら顔を上げ、その向かいに座っていた健斗も、少し紅潮した顔を振り向かせてくる。

「おぉぃ〜、琴音ぇ」

 既に酔いがまわっているのだろう力無くヒラヒラと手を振る惣一は、さっきまでの険しい顔ではなく、どこか楽しそうな顔をしており、健斗もその表情を和らげている。

 これって……?

 予想外の光景に首を傾げる琴音に、惣一は酔いのせいなのか少しフラつきながら立ち上がると、入口で立ちすくんでいる琴音の肩に手を置き、それまでの笑顔を引き締める。

「……まだ結婚は早い」

 再びさっきまでと同じ台詞が惣一の口から発せられると琴音は表情を硬くして、アルコール臭い父親の顔を睨み上げる。

「…………まぁ、そんな怖い顔をするな。まだ結婚は早いが、お前たちの持っている最終目標がそれであるという事は健斗クンから聞いた……」

 睨みつけてくる琴音に苦笑いを浮かべる惣一は、立ち上がってこちらの様子を見つめている健斗に顔を向けると、その表情を柔らかくほぐす。

「――不思議な男だよ……健斗クンにできると言われると、なんだってすべてができそうな気になってくる。まったく曇りも迷いもない、澄んだ良い目をしている……」

 さっきまで健斗の事をよく言わなかった惣一の口から出てきたのは、まるきり方向が変った健斗を褒め称える言葉ばかりで、琴音の表情がほぐれてゆく。

「じゃぁ……」

 満面の笑顔に変わった琴音に、惣一は少し意地悪い表情を作る。

「早とちりするなよ? 二人の仲は認めるが結婚なんていうのはまだ先だ……」

 ポンと肩を叩く惣一の大きく硬い手に温かい琴音の涙がこぼれ落ちると、諦めたようにその小さな肩を押すと、琴音は押された勢いと自らの意思が相まって一目散に健斗の胸に飛びついてゆき、そんな二人の様子を惣一は深雪と共に優しい目で見つめる。

「――ついこの間まで子供だと思っていたのに、いつの間にか一人前の女になっちゃって……」

鼻をすすり寂しそうな顔をする惣一の隣で、深雪は感慨深そうな顔をして、涙を浮かべながら健斗を見上げる琴音と、その視線を優しく受け止めている健斗の二人を見つめている。

「ウフ、女は好きな男ができると、あっという間に一人前になっちゃうものなんですよ? 特にあの健斗クンという男の子に惚れたのなら余計じゃないかしらネ?」

 ウィンクをしながらヒョイッと首をすくめて言う深雪に、惣一は意地の悪い表情を作り穏やかな笑みをたたえている深雪の顔を見据える。

「随分と健斗クンを褒めるんですね? 黒石さん」

「ウフフ……そうですね? あたしももう少し若かったら健斗クンに惚れていたかもしれませんよ? その理由は沢村さんにもわかるんじゃないですか?」

 意味深な笑みを浮かべる深雪に、惣一は納得したような表情を浮かべる。

「夢をもっている若者には敵わないですよ……」



「気をつけてね?」

 翌朝、玄関先で背広姿の惣一を見送るのは琴音を中心に健斗と深雪、それとまだ眠たそうな顔をしている知果だった。

「あぁ、今日あたりは雪になりそうだな?」

 車のエンジンを掛けながら空に視線を向ける惣一につられるように琴音と健斗も空を見上げると、そこには鉛色をした雲が垂れ込めており、津軽海峡から吹きつけてくる海風もそれまでのものとは様相が違い、身を刺すように冷たい。

「うん……中山峠とか凍結しているかもしれないから気をつけてよね?」

 これから札幌に戻るという惣一に、琴音は道中の難所でもある峠の名前を出し心配そうな顔をするが、当の惣一はニカッと笑みをこぼしながら大きな手を琴音の頭にのせる。

「大丈夫だ、何回も走っているからな? 心配には及ばんよ……さてと」

 助手席に背広の上着を投げ入れた惣一の胸元を見て、琴音の表情が朗らかになる。

「お父さんそのネクタイ……」

 突然の琴音の声に、惣一はキョトンとした顔をしながら絞めているネクタイを手に取る。

 アハ、お父さんの誕生日に健斗に付き合ってもらって買ったエンジ色のネクタイ。あの時はまだ桜が咲き始めた頃だったわよね? まだ健斗と知り合って間もなかったのに、今では彼の存在があたしの中でこんなにまで大きくなっている……。

「あぁ、これか? 誕生日に琴音から貰ったネクタイじゃないか。結構気に入っていてよく絞めているんだが、これが一体どうにかしたのか?」

 嬉しそうな顔をした惣一が手にしているネクタイに健斗も思い出したのか、納得したような顔をしており、その二人の顔を見た惣一は首を傾げている。

 そっか、気に入っていたかぁ……アハ、お父さんの趣味って健斗の趣味と同じなのかな?

 笑顔を浮かべたままの琴音は、胸元に絞められているネクタイを直す。

「うん、このネクタイを見繕ってくれたのが健斗なのよ?」

 結び目を直して納得したような顔をしている琴音に、惣一はネクタイと健斗の顔を見比べると、どこか困ったような笑みを浮かべる。

「アハハ、なるほどそういう事だったのか……だとしたら健斗クンの趣味と俺の趣味は似ているという事なのかな? あながち昨日健斗クンが言っていた事は本当かも知れないな?」

 不器用なウィンクをする惣一に健斗も微笑み返し、その内容を知らない琴音はキョトンとした顔をしながら二人の顔を交互に見る。

 昨日言っていた事?

「なに? 昨日健斗が言っていた事って」

 微笑み合っている二人の間に体を割り込ませるような琴音に、惣一は意地の悪い笑顔を浮かべながら健斗に目配せをすると、健斗もコクリと頷く。

「それは内緒だよな? 健斗クン」

「はい内緒です。これは男同士でのお話で琴音には関係ないよ」

 わざとらしく隠すように言う惣一と健斗に、琴音は頬をプクッと膨らませる。

「ねぇ健斗ぉ、一体なんなのよぉ〜、男二人の秘密なんてやらしいぞぉ」

 頬を膨らませながら詰め寄ってくる琴音に健斗は笑いながら身を反らし、そんな二人のやり取りを惣一は優しい笑顔を浮かべる。

「オイオイ琴音ぇ、あまり健斗クンの事を尻に引くんじゃないぞ? そういう気の強いところはお母さん譲りなんだから……さてと、そろそろ出発しないと……。深雪さん、琴音の事をこれからもよろしくお願いします」

 時計を見ながら惣一はペコリと深雪に頭を下げる。

「はい、それはお任せ下さい。今度は是非とも奥さんと一緒に遊びに来てくださいな」

 ニッコリと微笑む深雪に惣一はコクリとうなずく。

「はい、それはもちろん……帰ってこの話しをアイツにしたら絶対に連れて行けと言われると思いますから……健斗クン、これからも琴音の事をよろしくお願いするよ」

 右手を差し出してくる惣一に健斗は力強くうなずきその手を握ると、安心したような表情でうなずき、その隣で寂しそうな表情を浮かべて見上げてくる琴音に視線を向ける。

「うん……琴音、元気で頑張れよ?」

 ポフッと頭を撫でられた琴音は無意識に目を細めるが、車に乗り込んでシートベルトを締めている惣一の顔を、再び寂しそうな表情で見下ろしている。

「お父さんも元気でね? 大学が決まったら家に一回帰るから……」

 運転席を覗き込みながら言う琴音の大きな瞳にはうっすらと涙が浮かんでおり、その様子に惣一も感慨深そうな表情を浮かべるが、すぐにその顔を笑顔に変える。

「あぁ、そうだな、その時は絶対健斗クンに連れてきてもらえ。その方が母さんも喜ぶだろうし、俺も飲み相手ができて嬉しいから……それじゃあな?」

 機能性重視の白いライトバンから琴音が離れると、プップとクラクションを鳴らしながらゆっくりとスタートし、見送った深雪と知果は早々に家の中に戻ってゆくが、健斗と琴音はその姿が見えなくなるまで見送る。

 お父さん……ありがとう……。

 いままで感じた事のない父親への感謝に、冷え切った頬に温かな涙の滴が流れ落ちる。

「――大学が決まったら一緒に札幌に行こうな? こんな俺が一緒でよければ……」

 慰めるようにソッと肩を抱いてくる健斗の手は惣一と同じように大きく温かく、琴音はその温かさに安心しきったように涙の伝った頬を摺り寄せる。

「当たり前でしょ? 健斗と一緒に行かなきゃ、あたしがお父さんに怒られるよ」



=V=

「やっぱり降ってきたよぉ……」

 バイトから帰ってきた琴音は、ウンザリしたような顔をリビングに見せてくる。

「エェッ、雪ぃ?」

 小説を読む健斗の隣にチョコンと座りながらテレビを見ていた知果も嫌そうな顔をして、リビングの窓に掛かっているカーテンをめくると、すでに暗くなり点いている街灯の光を反射させキラキラと光ながら落ちる雪が見え、読書を中断させた健斗も覗き込んでくる。

 ヘェ、綺麗だなぁ……函館で見る初めての雪か……。

「まだボタ雪だから積もる事は無いと思うけれど、ヤダなぁ、もう少しすると雪が積もって、バイトに行くのは徒歩かぁ……」

 ニットのコートをハンガーに掛けて、不満げに口を尖らせながら椅子に座り込む琴音に、夕食の準備を終えた深雪がエプロンで手をぬぐいながらリビングに顔を見せてくる。

「だったら健斗クンに送り迎えしてもらえばいいんじゃないの? 車だったら温かいし、夜遅くなってもあたしとしては安心できるんだけれどな? アッ、でも、違った意味で心配になっちゃったりしてぇ? うふふ」

 少し意地悪い顔をしながら意味深な事を言う深雪に、琴音は寒さのために赤くなっていた頬をさらに赤くして、知果と一緒に窓の外の雪を見ている健斗に向ける。

「ん?」

 そんな視線に気がついたのか、健斗が振り返ると琴音は慌てて顔を背ける。

「な、何でもないよ」

 明らかに動揺している琴音に健斗は首を傾げ、琴音の隣に立っている深雪はどこか嬉しそうな顔をして健斗に視線を向けている。

 なんだ? 俺がどうかしたのか?

「そうね? なんでもないから夕食にしましょ?」

 パンパンと手を叩きながらテーブルの上の準備をはじめる深雪に、知果は元気いっぱいに手を上げそれに応え、顔を赤くしたままの琴音は着替えるために自分の部屋に戻ってゆく。

 なんなんだ? 琴音の奴……。

 首を傾げながらその背中を見送る健斗の袖が、クイクイと引っ張られる。

「ねぇねぇ、おにいちゃん、琴姉ちゃんと何かあったの?」

 昨夜の出来事を知らない知果は、純粋な瞳で健斗の事を見上げてくる。

「お、俺と琴音に? 別に……」

 ――何も無かったわけじゃないよな? でも、その事を真っ直ぐに知果に伝えてしまって良いものなのかなぁ……あの深雪さんのニュアンスからすると……。

 前にちらっと深雪が言っていた知果の気持ち(健斗に恋心を抱いている)が本当であったらどうしようと困ったような顔をした健斗は、助けを請うような視線を深雪に向ける。

「そうねぇ? 健斗クンと琴ちゃんは、より一層仲がよくなったというのかしらね?」

 ウィンクをしてくる深雪に健斗は頬を少し赤らめ、驚いたような顔をした知果の表情にコクリと言葉なくうなずくと、一瞬表情を曇らせながらも、

「じゃあ、おにいちゃんと琴姉ちゃんは正真正銘のカレカノの仲になったと言う事なのかな? ウリウリ、いつの間にかしっかりとモノにしちゃうなんて……」

 モノって……中学生の女の子が言う台詞じゃないぜ?

 意地悪い顔をしながら健斗のわき腹に肘を当ててくる知果に、健斗は苦笑いを浮かべながら、ツインテールにまとめられているその小さな頭に手を乗せる。

「まぁ、カレカノと言うのか……」

 モゴモゴと言葉を濁す健斗に代わって、キッチンから鍋を持った深雪が口を開く。

「――実質的には婚約したと言っても過言じゃないわよね?」

 テーブルに置かれた鍋から温かそうに湯気を湛えたシチューを盛りながら言う深雪の言葉に、知果は少し落胆したような表情を浮かべるが、すぐに好奇心に満ち溢れたような、皮肉ったような笑顔を膨らませているが、わき腹に当てられていた肘にはそれまで以上に力が込められ、ジンワリとした痛みが伝わってきて健斗は少し顔をしかめるが、その表情に嫌そうな色は無く苦笑いを浮かべたまま知果からの攻撃(?)を受け流している。

「このぉ、最初はお互いに嫌いみたいな事を言っていながらも、しっかりと琴姉ちゃんの事を落としていたんだぁ……アハ、でも、なんだかちょっと嬉しいかな?」

 わき腹をグリグリしていながらも、健斗の事を見上げてくる知果の瞳には涙が浮んでいるように見え、その難しい表情に健斗はハッとしたような顔をする。

 知果……もしかして本当に……? 俺の事を? だとしたらスマン……。

 心の奥で知果に対し詫びる健斗だが、知果は既に諦めがついたのか、わき腹に当てていた肘を引っこめると、いつもと同じような意地悪い顔をのぞき込ませてくる。

「そっか、おにいちゃんと琴姉ちゃんが結婚かぁ……」

「いや、まだ結婚までは……」

 トントン拍子に話を進めていく知果に健斗は苦笑いを浮かべながら制するが、

「だとしたら、次は赤ちゃんの番だね? 琴姉ちゃんとおにいちゃんの子供かぁ……きっと可愛らしい赤ちゃんだろうなぁ……あたしにも抱かせてね?」

 一気に飛躍した知果の話に健斗は苦笑いのまま顔を真っ赤に染め上げる。

 おいおい、どこまで話を飛躍させているんだ。それはまだ早いし、もしもそんな事になったらお義父さんにブッ飛ばされるよ……。

 一瞬浮かびあがった惣一の顔に、健斗は一瞬背筋を冷たくする。



「健斗?」

 食事を終えてみんながまどろんだ時間帯。小説を読んでいた健斗がやおら立ち上がると、座っていた琴音の視線がテレビから健斗に向く。

「ん? いや、ちょっと外の様子を見てくるよ……」

 雪が降るとワクワクしてしまうのは雪に慣れていない都会生まれのせいなのだろうが、なんとなく今日見る雪は特別な思い入れがあるかもしれない。

「寒いよ?」

「あぁ、わかっているよ。ちょっとだけだから大丈夫……寒かったらすぐに戻ってくるよ」

 軽く手をあげながらリビングを出ると、さすがにシンと冷えた冬の空気がそれまで暖房によって温められていた健斗の身体を取り巻いてくる。

「それだけじゃあ寒いって。ホラァ、コレを上に羽織らないと風邪をひいちゃうぞ」

 後を追うように出てきた琴音の手には、いつも羽織っているプルアップジャケットが持たれており、健斗はくすぐったそうに微笑む。

「さんきゅ……琴音も一緒にどうだ?」

 健斗の申し入れを予想していたのか、琴音の片方の手にはさっきまで着ていたニットのコートが持たれており、ニッコリとうなずいてくる。



「初雪かぁ……」

 空から落ちてくる雪は粒が大きく、いわゆるボタ雪は地面に落ちるとあっという間に溶けてしまい。わずかに緑地を薄っすらと白くしはじめている。

「ウン……もう少しすればこの辺りも雪だらけになっちゃうよ? 十二月になれば本格的に雪が降って根雪になるの。そうすると来年の四月ぐらいまで嫌なほどに雪景色になるわね?」

 街灯に照らし出される琴音の横顔はいささかウンザリしたようにも見え、健斗は思わず微笑んでしまいながら、再び空から舞い降りてくる雪を見る。

「でも、素直に綺麗だと思うよ? 雪が光に輝いてキラキラと輝いているように見える……俺が北海道に来て初めて見た雪だ……」

 呟きは吐き出す息とともに白く濁り、何かを決心したように見る健斗は寒さを感じていないようにそれを見つめ続けているが、琴音は寒そうに手を摺り合わせる。

「そっか、健斗がこっちで見る初めての雪……アハ、ある意味本当の『初雪』かもね?」

 クスッと微笑む琴音に健斗は顔を向ける事なくうなずく。

「――雪に閉ざされてしまうかもしれないけれど、だからこそ、そこには温かな家庭があるのかもしれない。俺も、いつかはそんな温かい家庭を築きたいな?」

「それって……」

「あぁ……俺は琴音とずっと一緒にいる。改めて言わせてもらうよ……琴音、これからずっと俺と一緒に温かい家庭を築いていこうよ……」

 照れくさそうに鼻先を掻きながら言う健斗の言葉を最後まで聞かなかったであろう琴音は、その胸に飛び込むと幸せそうな表情で健斗の顔を見上げてくる。

「エヘ…………エヘへ……それってプロポーズ……なのかな?」

 嬉しそうな顔をする琴音に、健斗は言葉ではなくその顔をゆっくりと近付けると、冷たくなっていながらも温かさを持った唇に、自分の唇をチョンと当てる。

「あぁ、ちゃんと言っていなかったような気がしたからね?」

 バフッと健斗の胸に顔を埋めていた琴音は、満面に笑顔を溢れさせながら上げてくる。

「あたしこそ…………これからずっと一緒にお願いします」

 煌めく雪の粒の中、二人のシルエットが重なる。

第三十五話へ。