第三十五話 夢(Dream)



=T=

「ねぇ、おにいちゃんたちはデートしないの?」

 テレビを見ていた知果がいきなり冷かすような視線を健斗に向けてくる。

「デ、デートって……」

 既に健斗と琴音が付き合っているのを知っている知果は、照れ臭そうな顔をしている健斗の事をニヤニヤしながら覗き込むと、さらにその口角を横に広げて意地悪い表情を作り上げる。

「だってぇ〜、年に一度のクリスマスだよ? クリスマスって恋人同士がイチャイチャする日と相場は決まっているじゃん? だからおにいちゃんと琴姉ちゃんも、クリスマスの日はイチャイチャするのかなぁって思ったのぉ」

 ――イチャイチャって、どこでそんな知識を仕入れてくるんだか……最近の知果は富に耳年増になっていっているような気がして仕方が無いぜ……。

 ウリウリと肘をわき腹に当ててくる知果に、健斗は呆れたような表情を浮かべる。

「さてね? それは琴音に聞いてくれ。ちょうどその前日に学内選考の結果が出るんだ。合格をしていれば最高のクリスマスになるだろうけれど、その逆だったら……」

 全てを語らなくともその言葉の意味を理解したのか、わき腹に当てていた知果の腕がピタリと止まると固まったような顔をしながらもその喉だけがゴクリと動く。

「――史上最悪のクリスマスになっちゃうよね? ボクだったらイチャついているカップルに向けて無差別に石を投げつけるかも……」

 危険な事を言う娘だなぁ……まぁ、琴音の合否に関しては、あまり心配はしていないんだけれどね? 意外にアイツって頭が良いみたいだし……。

 以前健斗のところに答えを教えてくれと言ってきた琴音の過去問題集を見て、健斗は軽いめまいを覚えた事を思い出して、思わず苦笑いを浮かべる。

 学内選考の方が難しいんじゃないか? あれなら一般受験の問題の方が簡単かもしれない。

「なにを物騒な話をしているの?」

 気がつけばリビングの入口には、世界的に有名な白黒のビーグル犬のイラストの入ったTシャツと、同じイラストがワンポイントに入っているハーフパンツというラフな格好をしている琴音が腰に手を置きながら立って健斗と知果の事を見据えている。

 氷点下である外では雪が降りしきっているというのに相反して、琴音だけではなくこの場にいる全員が半袖のTシャツなどの薄手の格好をしているのは、真夏のように暖房が効いている部屋のせいだ。いくら寒いからといってこんなにまで暖房を効かせる必要は無いのでは無いかとも思うが、深雪さん曰く『これが北海道では当たり前』らしい。

「ウウン、なんでもないよ……ね? おにいちゃん」

 おいおい、いきなり人の話を振らないでいただきたいんですが……。

 怪訝な顔をした琴音の視線から知果は逃げるように顔をそらすと、その隣で苦笑いを浮かべている健斗に向けられ、その視線に習うように琴音の視線も健斗に向いてくる。

「なぁに健斗……その顔は……」

 目を眇め、まるで舐めいるように健斗の顔を覗き込んでくるその琴音の表情に、思わず身を反らしてしまい、さらに苦笑いを浮かべてしまう。

 何気なくいつもよりも迫力が増量されているようなんですが……。

「な、なんでもないよ……ただ、そろそろクリスマスだねって話をしていたところだよ」

 取り繕うように言う健斗だが、琴音は目を眇めたままで元に戻る事はなく、疑り深い表情を健斗に向けたままでいる。

「なんだってクリスマスが近いのと、知果ちゃんがカップルに対して無差別投石をしなければいけないという事がつながるの? 別に関係ないじゃない」

 腰に手を置きながら顔を突き出してくる琴音に、健斗の背筋はピンと伸び、知果は気配を消すようにコソッとその場から逃げ出してゆく。

 あっ、きたねぇぞ? 知果ぁ、元々はお前がまいた種だろ?

「あたしぃ……お風呂に入ってきちゃおぉっとっ!」

 素早く立ち上がると一目散にバスルームに姿を消そうとしている知果の腕を慌てて引こうとする健斗の手が琴音によって掴まれる。

「健斗ぉ……何の話をしていたの? 怒らないからちゃんと話してちょうだい!」

 穏やかな口調なれど、琴音のその表情は異論を許さないという顔をしており、健斗の眉毛は困ったようにハの字に下がってしまう。

 こうなったら正直に話すしかないよな? あまり琴音にプレッシャーを与えたくないのだが。

「――知果が『クリスマスは琴姉ちゃんとデートをしないの』って……」

 その迫力に諦めたようにいう健斗の言葉に、琴音はそれまでプックリと膨らんでいた頬を一気に萎めさせると今度は紅潮させる。

「デ、デートって……」

 モジモジと手を動かす琴音に健斗は、少しホッとしたような表情を浮かべながらポニーテールにまとめられている琴音の頭にポンと手を置く。

「わかっているよ? 琴音だって学内選考やらで色々大変だろうし、そんなゆとりが無いという事もな? だから、ハッキリと進路が決まってからゆっくりとデートをしようよ」

 ポフポフと頭を撫でる健斗の手の重みに、琴音は心地良さそうに瞳を細くするが、すぐにその表情をしかめ健斗の顔を見上げてくる。

「でも、クリスマスだよ?」

 いじけたように口を尖らせ、大きな瞳を少し潤ませながら見上げてくる琴音の表情に、健斗の胸が一瞬高鳴る。

 普段は気が強いのに、不意に見せるこの表情がなんとも可愛い……って、決してノロケじゃないぞ? 本当に……って、誰に言い訳しているんだか……。

 不意にわき上がってきた頬に感じる火照りを悟られないように、健斗は琴音の頭に乗せた手を乱暴にグリグリと動かす。

「き、気にしなくても良いだろ? クリスマスは今年だけじゃないんだ、来年だってずっとあるんだから、何も今年にこだわらなくっても……」

「でも、今年のクリスマスはあたしの中で特別なんだよ?」

「特別?」

 グリグリと頭をなでられ、乱れた髪の毛を直しながらもいつものように怒ったようなものは無く、どこか寂しそうな顔をしている琴音の表情に健斗は首を傾げる。

「うん……いまベイエリアで『クリスマスファンタジー』ってやっているでしょ?」

 平成十年に始まった函館の冬の恒例ベントであり、毎年十二月一日からクリスマスである二十五日まで金森倉庫で行われており、健斗は『おんぷ』に張り出されているライトアップされた金森倉庫やイルミネーションに飾りつけられたベイエリアのポスターを思い出す。

「そのクリスマスツリーを一度見てみたいの……」

「クリスマスツリー?」

「うん、函館湾に浮ぶ巨大なクリスマスツリー。函館市と姉妹都市であるカナダのハリファックス市から毎年贈られているもみの木を、五万個近い電球で装飾しているの……」

 その情景を思い浮かべるように少しウットリとした顔で話しをする琴音に、さらに健斗の首は大きく傾いてしまう。

「見てみたいって琴音は地元じゃないか? 見た事ないの?」

 浮かび上がった疑問を素直に琴音に向けると、その顔は見る見る曇ってゆく。

 少なくとも琴音はこの街に来てから三年が経過しているはず、という事は最低でも二回はクリスマスを過ごした事があるはずなのだが。

「だって、あたしが初めて函館に来た年にはあんな事があったし……それに……」

 あんな事に関しては触れてはいけないと思いつつ、琴音の顔を見つめると、曇っていた表情を恥ずかしそうなものに変え、頬には朱をささせながら上目遣いに健斗の事を見つめてくる。

「この辺りの女子高生の間では、『二人でウォールートのプレートにその人の名前を書いて一緒にツリーを見ると結ばれる』と言う都市伝説があるの……」

 都市伝説ねぇ、琴音もそういうジンクスに流される乙女だったのね?

 少し意地の悪い顔をしている健斗を見抜いたのか、琴音は照れくさそうにしていたその顔を一気に膨れ上がらせ睨みつけてくる。

「何よぉ、あたしだってまだ現役の女子高校生なんですからね? そういうジンクスって結構気にしているんだぞ?」

 いじけたように膨れた顔のままで言う琴音に健斗は思わず吹き出してしまい、さらに琴音の顔を膨らませる原因になる。

「アハハ、わりぃ、琴音がそういう事を気にするとは思っていなかったからつい……わかったよ、琴音の方は午前中に結論が出るだろ? 結果はどうであれ一緒に見に行こうよ」

 再び頭をポフポフと叩きながら言う健斗に、琴音は嬉しそうに目を細める。

「さて、そうとなると早いところ済ませておかないといけないな?」

 頭に手を乗せたまま少し考えるよう視線を虚空に向ける健斗に、琴音は心地よさそうにその重みを感じつつも上目遣いに見上げてくる。

「済ませるって?」

「ん、年賀状……」

 あまりにも予想外の回答だったのか、琴音は一瞬キョトンとした顔をして健斗の顔を凝視すると、やがて堪えきれなくなったかのように吹き出す。

「ヘェ〜ッ、健斗って年賀状を書くんだぁ。ちょっと意外かもぉ」

 ケラケラと笑う琴音に対して健斗は不満そうな表情を浮かべて睨み返す。

「なんだよぉ、一年の計は元旦にあり。年賀状はきちんと書かないと……」

「ゴメン、健斗ってそういう事はもっとずぼらだと思っていたよ……意外にマメなのね?」

 笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭いながら琴音は健斗の不機嫌な顔を見上げる。

「一応ね? 日本の伝統といっても良いでしょ? 年賀状って、小さい頃友達からもらったのが嬉しかったし、今でもその気持ちを忘れたくないから……」

 少し照れくさそうに言う健斗に琴音は感心した様な顔をして見つめると、自らもウンと大きくうなずきながら手をパンと叩く。

「確か元旦に年賀状が届くようにするにはクリスマスまでに投函しないといけなかったわね? あたしも頑張って書こうかな?」

 同意を求めるような琴音の表情に、健斗が優しい笑みを浮かべると、頭に感じる健斗の手の重みに安心したような琴音も微笑み返し、どちらともなく二人の距離が縮まる。

「――こらこら……二人がラブラブなのは百も承知だけれど、そういう事は二人っきりの時にしてくれるかしら? ここにはまだ中学生の多感な女の子と、滅多に旦那が帰ってこないで欲求不満気味の人妻がいるんですからね?」

 コホンと言う咳払いに二人は飛びのくように離れ、その声に振り返ると、腰に手を当てながらもどこか羨ましそうな顔をした深雪が二人の事を見つめており、いい塩梅に知果はまだバスルームから出てきていないようだった。

 微妙にきわどい事を言いませんでしたか? 深雪さんったら……。

 照れたような顔をした健斗の隣では、琴音が顔を真っ赤にしてうつむいている。



=U=

「健斗起きている?」

 既に時計の針がクリスマスイブに突入してから一時間が経過した頃、遠慮がちに健斗の部屋の扉がノックされ、蚊の鳴くような小さな声で琴音の声が聞こえてくる。

「あぁ……どうした?」

 声に反応してゆっくりと扉が開くと、そこからは申し訳無さそうな顔をした琴音が部屋の様子を伺うように顔だけを覗き込ませてくる。

「ん、ちょっと眠れなくって……健斗は年賀状書き?」

 こうこうと光を漏らしているパソコンのディスプレーに琴音が視線を向けると、健斗は慌ててそれを消し、何事もなかったかのように椅子から立ち上がる。

「いや、年賀状は書き終わったよ……これは……そう、サークルの課題だ」

 明らかに挙動不審な行動を見せる健斗に、普段であれば琴音はその行為を様々な方向(特にエッチ系)に解釈し問い詰めてくるはずなのだが、今日に限れば心ここにあらずのような表情で鼻を鳴らし、特別気にした様子を見せない。

「そっか……」

 会話終了かよ……ったく、何をガラにもなく緊張しているんだろうね? 琴音の奴は。確かに心中察して余りあるかもしれんが、らしくないな?

 クリスマスの前日であるクリスマスイブ。例年では浮かれているはずの日なのだが、学校の陰謀なのか、今年は琴音の学内選考発表の日である。

「そんな所に突っ立っていないで、座ったらどうだ? いくら暖房が効いているからといってもそこが開いていると寒いぜ」

 まるで真夏のように効いている暖房ではあるが、夜中になればいささかその効きも悪く、琴音の立っている扉からは部屋の暖気と入れ替わりに少し冷えた冷気が入ってくる。

「ゴメン……ちょっとお邪魔するね?」

 いつもの勝気な琴音とは違い、どこかしおらしい雰囲気に健斗は心の中で小さくため息を吐き出しながらも、久しぶりの二人っきりというシチュエーションに胸を高鳴らせている。

 東京に行った時以来かな? 夜に二人っきりになるのって……いかんいかん、彼女は緊張して俺の所に来ているんだ、そんな邪な考えを持ったらいかん!

 心の中で苦笑いを浮かべている健斗を見ようとはせず、そっと部屋の中に入ってくる琴音は、どこに行くともなく所在なげに立ち尽くしている。

「アハ、なんだか眠れなくって……」

 笑顔を浮かべているつもりなのだろうが、顔を上げた琴音の表情は上手くそれを表現する事ができず、素直に不安を現したような不思議な表情を作り上げている。

「緊張して……もしくは心配で……だろ?」

 ベッドに腰掛けながら琴音を見上げる健斗は、優しい表情を浮かべたまま一人分のスペースのある隣をポンポンと叩き、そこに座るよう目で促す。

「ん……確かに自信はあるんだけれど……ちょっち……ね?」

 既に健斗にはお見通しと言う事を悟った琴音は、小さく息を吐きながら健斗の隣に腰掛けると、コツンとその頭を肩に持たれかける。

「ねぇ……」

 視線を薄暗い部屋の中にさ迷わせながら琴音が小さく呟くように声をかけてくる。

「ん?」

 普段はポニーテールにしている髪の毛を下ろした格好の琴音の小さな頭を見つめ、パジャマの上からカーディガンをまとったその肩を抱こうかどうしようか悩んでいた健斗は手を止め、琴音が見据えているだろう視線の先に自らの視線も向ける。

「――健斗の夢ってやっぱり小説家になる事?」

 それまでさ迷わせていた視線を健斗に向けて来る琴音に対し、健斗は少し照れくさそうに鼻先を掻き、戸惑ったような視線を虚空に向ける。

「フム…………確かにそれが叶えばベストだろうけれど、現実的では無いというのは自分がよくわかっているよ……それに……」

 何かを悟ったように健斗はフッとため息を吐き出す。

「それに?」

 その答えが意外だったのか、その顔を上目遣いに見上げてくる琴音の瞳は大きく開き、やがて興味津々な表情を作ると、その視線に気がついた健斗は無意識に優しい表情を浮かべる。

「ん……夏にマスターたちとセッションを組んでライブをしたでしょ? あの時の充実感がいまだに忘れられないんだよ……俺の両親が音楽に打ち込む気持ちがわかったような気がするんだよね? 今さらながらなんだけれど……」

 おんぷの記念ライブを終えた後の充実感は今まで感じた事がないほどのものだったのを今でも鮮明に覚えている。それまでみんなで作り上げたものが聴衆に受け入れられたというのか、あの時のみんなから受けた拍手は一生忘れる事ができないと思う。

「と言う事はミュージシャン?」

 嬉しそうながらも困ったような顔をする琴音に、健斗も難しそうに首を傾げる。

「それは小説家になるよりも難しいんじゃないかな? 確かに親の七光り的にデビューは出来るかもしれないけれど、それは俺が受け入れられるわけじゃない……素質があれば何とかなるかもしれないけれど、それこそ未知数だよ……現実的には保障も何もない……」

 健斗の言っている意味がわからないのか、琴音は小首をかしげる。

「保障?」

「そう、保障……やっぱり安定した収入が無いといけないと思うんだよ……俺の夢には……」

 現実的な夢。その矛盾に琴音の首はさらにかしぐ。

「夢に現実的な収入って……なに? わからないよぉ」

 言っている意味がわからず観念したように琴音は顔を健斗に向け、いじけたように口を尖らせながら問いただすと、健斗は意地の悪い笑みを琴音に向ける。

「わからないの? 不安定な収入と、安定した収入があるので比べると琴音はどっちが良い?」

 クスッと微笑みながら言う健斗。しかしその瞳はあくまでも真剣だ。

「そりゃぁ、安定した収入の方が良いに決まっているけれど……って!」

 今更になって気がついたように琴音は顔を真っ赤に染めて健斗の顔を見据えると、意外なまでに穏やかな笑みを湛えた顔がそこにあった。

「でしょ? 今の俺が一番の夢にあげるのは、大事な人をいつまでも幸せにしてあげる事なんだよね? そのためには嫌な事かも知れないけれど安定した収入を得る事が必須条件になってくるんだ……だって、それが俺の夢であって現実なのだから……ね?」

 柔らかい笑顔を浮かべる健斗に対し、琴音の大きな瞳はウルウルと潤んでくる。

「健斗ぉ……」

「誤解するなよ? 俺は夢を捨てたわけじゃない。小説家になる事だって、ミュージシャンになる事だって諦めたわけじゃない……これからはそれを趣味にしていこうと思っているだけであって、あわよくばと言うスケベな考え方……」

 照れ臭そうに言う健斗の言葉を最後まで聞かないうちに、琴音はその胸に顔を埋める。

「――知っているよ……健斗はスケベだ……」

 見た目よりも意外に厚い健斗の胸に頬を摺り寄せながら琴音が呟く。

「ん……否定しないぜ……」

 フワッと琴音の髪の毛から発せられるシャンプーの香りを鼻腔一杯に吸い込みながら、健斗はその小さい肩を抱きながら苦笑いを浮かべる。

「……スケベでぇ、えっちでぇ、超鈍感男だよぉ……でも……」

 おいおい、そこまで言うか? たしかに否定できないかもしれないけれど……仮にも彼氏の事をそこまで言わなくともいいかと……。

 憎まれ口を聞きながらも、琴音の体重は徐々に心地よく健斗にのしかかってくる。

「でも……でもぉ…………健斗は……あなたは……あたしの事を…………いっぱい……いっぱい救ってくれている……あなたはあたしの事を必死に守ってくれている……そんな……そんな、あたなの事があたしは……大好き……だから……あたしもあなたの事を守りたい……あなたの夢を叶えるためにあたしは役に立ちたい……よぉ」

 顔を上げた琴音は泣き笑いの表情を浮かべており、ぐしゃぐしゃになった顔には湛えきれなくなった涙が大きな瞳から溢れ出しており、赤く火照っている頬を冷ますかのように伝い流れ、小さく震える肩を健斗はソッと抱きしめる。

「ん…………十分すぎるほど琴音は俺の事を守ってくれていると思うよ? オマエがいるからこそ、俺は自分の事に気がついたのかもしれないよ」

 まだシャンプーの香りの強く残っている髪の毛をそっと撫でると、琴音はまるで猫のように瞳を細めながらキョトンとした顔を作り上げて見上げてくる。

「大好きな人を守ってあげる。簡単な事なのかも知れないけれど、その反面ものすごく難しい事なのかも知れない……そのために失うものもあるかもしれないし、犠牲にするものもあるかもしれない……でも、俺には失うものは無いよ……」

 優しく、まるで囁くように話す健斗の声に、琴音は照れたようなその顔をあげる。

「失うものは無い? でも……健斗は……健斗の夢は……」

「――夢っていうのは、誰にだってあるんだ……その中には叶う夢と叶わない夢が当然ある。でも、叶ったから良い、叶わなかったからダメと言うわけじゃないと思うんだよね? 俺はその夢に向って行くためのプロセスが最も重要だと思っているんだ」

 キョトンとした顔をしている琴音を、ニッコリと微笑みながら健斗はその小さな頭を撫でながら、まるで自分を諭すかのように言葉を続ける。

「叶うとか叶わないとかは結果論であって、そこに至るまで自分のしてきた事を信じるべきだと思うし、叶わなかったからといって夢を諦めるのもどうかと思うぜ? だって、それは第三者が判断するのではなく、あくまでも己が持っている気持ちだけなんだから……だから、俺はいつまでも夢を信じているし、諦めたりはしない」

 誰に言うでもなく、まるで自分に対して言い聞かせるように話す横顔を琴音は少しまぶしそうに見つめていると、健斗はいきなり立ち上がり琴音の手を引くと、雪明りに照らされた窓際まで歩いて行き、そこから見える景色に視線を向けると、そこには、こんもりとしたシルエットを作り上げている函館山を中心に光のじゅうたんのように広がる裏夜景が広がり、いつの間にか止んだ新雪が街灯に煌いている。

「――綺麗な景色だよね? 正直こっちに来るまで裏夜景という存在を知らなかったよ。でも、この家から見る夜景は、表から見る夜景にも負けず劣らずだと思う……ジンクスになるのもわかるような気がするよ……」

 苦笑いを浮かべる健斗の顔を琴音が驚いた様な顔をして見つめると、照れたように鼻先を掻きながら健斗の顔が琴音に向う。

「健斗……そのジンクス……知っていたの?」

 驚いたような顔をした琴音に、健斗は意地悪い表情を浮かべる。

「あぁ……知果から聞いたよ……『函館山の夜景を見たカップルは別れる』だろ? ある意味当たっているかもしれないし、外れているかもしれないな?」

 頑なに琴音が函館山に行きたがらなかったのは、あの件をはじめとしてこのジンクスのせいであったのかもしれない。

「外れている?」

 意味がわからずにキョトンとした顔をしている琴音の頭を健斗は、グシャグシャッと今度は少し乱暴に撫でるとその髪の毛はクシャクシャに乱れ、琴音は抗議をするように口を尖らせながら、恨みがましい視線でその顔を睨みあげる。

「だってよ、ウチの両親は結婚前に『表夜景』を見ているんだぜ? なのに、いまだに離婚の危機は訪れていないようだし、実の息子である俺から見ても恥ずかしいぐらいにイチャイチャしていやがる……ったく、息子の身になってもらいたいぐらいだぜ……」

 吐き捨てるように言う健斗に対し琴音は、以前に会った健斗の両親の事を思い出してなのだろう、その表情をほころばせながら小さく首を振る。

「そんな事ないよ……素敵なご両親だと思うけれど? 確かにちょっと目のやり場に困る時もあるかもしれないけれど……でも、相対的に見て理想のカップルだと思うな?」

 本音が八割、建前二割というような曖昧な笑顔を浮かべながら言う琴音に、健斗も困ったような、嬉しいような複雑な笑みを浮かべる。

「それは親父たちの目の前で言ってくれ、きっと喜ぶから。でも、俺もこの夜景を見て思ったんだよね? この光の粒一つ一つに、きっといろいろな人の生活があるんだろうなって。そこには当然の日常があって、その中に色々な人が生きているんだって……」

 遠い目をしながら言う健斗の横顔に琴音は思わず頬を赤らめてしまうが、視線を逸らす事ができなくなり、不思議な表情を作り上げているその顔を見つめている。

「健斗……」

 穏やかな顔をしていながらも、どこか芯を持ったような健斗の表情に思わず琴音が声をあげてしまうと、その瞳が琴音に向いてきてお互いの視線が交錯する。

「だってそうじゃないか?」

 ウットリとした顔をしている琴音に気がついた健斗は照れたように再び鼻先を掻くと、コホンと咳払いをして積もった雪に瞬いている裏夜景に視線を向ける。

「光の一粒一粒にそれぞれの生活があって、それが一つにまとまって綺麗な夜景になっているのかもしれない。まるで星のように見える夜景の一つ一つの光の中には、さまざまなドラマが繰り広げられていて、その中にも色々な夢があるはずだと思う……だから、俺もこの夜景の一つとなって夢を見続けるつもりでいるんだ……一つの大きくなった夢を……大好きな女の子と一生一緒にいるという事を叶わせる事ができたのだから、俺が持っている夢もいつかは必ず叶うと信じて……だから……応援してもらえるかな?」

 視線を虚空にさ迷わせ指で鼻先を掻く健斗の一言に、琴音は無意識にその胸にしがみつく。

「…………あまり期待はしていないよ……でも、誰が何と言っても、あたしはいつでもあなたの味方でいるに決まっているじゃない……あたしの一番大切な人の夢は、あたしの夢でもあるんだから……だから、あなたも頑張って? 自分の夢に向けて……」

 キュッと胸にしがみつきながら健斗の顔を見上げる琴音に、健斗は照れたような表情を浮かべながら、その小さな肩に手を回す。

 ハハ……我ながらキザたらしい事を言っていると思うよ……不思議とそう話させる雰囲気になっているんだよな? この夜景を見ていると……これを函館マジックとでも言うのかな?

 窓から見える煌く裏夜景に視線を向けつつも、体に琴音の体温を感じる。

「あぁ……でも、琴音の夢は?」

 いまさらながらなんだけれど、琴音にだって夢があるはずだ。もしかして俺の気持ちだけを彼女に押し付けて、彼女の夢を蔑(ないがしろ)にしているのではないか?

 息がかかるほど近くにある琴音の顔に、健斗はドギマギしながらも視線を向けると、そこには少しはにかんだような表情を浮かべた顔があった。

「あたしの夢かぁ……小さい頃は他の女の子と同じで看護婦さんとか、保母さんだったし……」

 そこまで言うと、琴音はその頬に少し朱を差させながら視線を健斗から離す。

「でも……ある意味では今はその夢の一つが叶えられそうな気がするよ……」

 上目遣いの琴音の視線に、健斗はなぜか恥ずかしさを感じて視線を泳がせてしまう。

「夢の一つが叶えられそうって、それは琴音の小さい頃の夢という事?」

 視線を泳がせながら問う健斗の声に、胸に感じられていた琴音の体温がさらに温かく感じ、わずかに開いていた隙間がギュっと抱きしめられる事によって埋められる。

「そっ! あたしの小さい頃の夢は……お嫁さんになる事……だから、いまのあたしはすごく幸せなのかもしれないよ? 小さい頃の夢が叶えられそうなんだから」

 満面に笑顔を膨らませながらの琴音の一言に健斗が顔を向けると、そこには嬉しそうに瞳を細くさせて健斗の顔を見つめている琴音の顔があり、その表情はまさに夢を見る少女のようにあどけなくも、安心しきったような穏やかさをもっている。

「確かに陸上の選手とかも夢だけれど、でも、やっぱり大好きな人のお嫁さんになるのが一番の夢かもしれない……その夢が叶ってからでも他の夢は見る事ができるもんね?」

 力尽きたようにコツンと自分の頭を健斗の胸にもたれかけてくる琴音。その重さは心地よく、健斗も思わずその小さな頭を抱き寄せる。

「あたしね? 大学に受かって健斗と一緒に学校に行くとか、一緒に学食でお昼を食べるとかすごく憧れているんだ、これもあたしの夢かもしれない。でも、最近では受からなくってもいいかなとも思っちゃっているんだよね?」

 受からなくってもいい?

 思いもしなかった琴音の言葉に思わず首を傾けていると、琴音はペロッと舌を出しながら悪戯っぽい笑みを浮かべながら健斗の首にじぶんの腕を巻きつけると、桜色をした唇を少しカサついている健斗の唇に触れさせてくる。

「エヘ、本当に健斗って隙が多いなぁ。これからちょっと心配かもしれないよ?」

 そう言いながら再び健斗の胸に頭を押し付ける琴音は、言っている言葉とは裏腹に安心しきったような表情を浮かべている。

「大学で健斗と一緒に勉強するのはあくまでもあたしの夢のオプションみたいなものなのかもしれないな? だから、ハッキリ言うと大学が受かろうがどうしようが良い。むしろ受からなければ大手を振って健斗の奥さんになる事ができるかもしれないよね?」

 強い力で胸に顔を押しあてたまま目をつむって冗談とも本音ともつかない事を言う琴音の頭を、健斗は小さく撫でおろしながら無言でその言葉の続きを聞く。

「――春にはこんな事になるなんて思ってもいなかったのに……不思議だなぁ……人生って」

 徐々に胸に押し当てられている琴音の頭が重くなり始め、小さく開かれた桜色の唇からはゆっくりとした寝息が聞こえはじめる。

 確かに不思議だよな? 人生って。たまたま見つけたこの大学に俺が受かって。深雪さんの家に下宿をしなければ琴音との出会いはなかったわけだ……思えば今年は今までにない充実した一年だったのかもしれない……一生想い出に残る一年になるのは間違いないよな?

 既にスゥスゥと心地良さそうな寝息を立てている琴音の事を起こさないように、健斗はゆっくりとその小柄な身体をいつも自分の寝ているベッドに横たわらせ部屋の電気を消すと、窓の外にはさらに宝石をちりばめたような裏夜景が広がる。

 ったく、無邪気に寝こけやがって……人の心配を考えろっていうんだ……って、そういえば。

 無邪気な寝息を立てながら眠っている琴音のベッドサイドからソッと立ち上がると、健斗はサスペンドになっているパソコンを再度立ち上げると、ボンヤリと明るく浮かび上がったディスプレーに向う。

 なんとなく今なら書けそうな気がする……課題の詩が。



 春の日の一日を振り向いてみると、はじめて見るキミの困ったような表情を浮かび上がる。

 恥ずかしそうな……恨めしそうな……そんな不思議な表情を浮かべていた。

 夏の日の一日を振り向いて見ると、はにかんだようなキミの顔が浮かび上がる。

 ホッとしたような……嬉しそうな……そんな不思議な表情を浮かべていた。

 秋の日の一日を振り向いて見ると、幸せそうなキミの表情を浮かび上がる。

 驚いたような……それでも幸せそうな……満面の笑みを浮かべていた。

 出逢いは自然の出来事かもしれない。それは偶然なのかもしれないけれど、出逢った二人にとってみれば必然の出来事なのかもしれない……。

 出逢いは不思議な事かもしれない。その事に戸惑うかもしれない。でも、それはその当事者が決める事。幸せに決まり事は無い。好きな人と一緒にいるという事は自然な事であって必然な事なのだから……だから、俺も彼女と一緒にいる。

それが俺の夢なのだから。

第三十六話へ。