第三十六話 待ち人……



=T=

「医者?」

 遅い朝を迎えた健斗がリビングに下りると、出迎えてくれたのは意地悪い顔をした琴音や、優しい笑みを湛えた深雪ではなく、ソファーに寝転がりながらテレビを見ている知果だった。

「うん、琴姉ちゃんがなんだか具合が悪いからってお母さんが医者に連れていったみたい」

 視線をそのままにする知果の言葉に健斗は首を傾げる。

 具合が悪いのかぁ……このところ学内選考の勉強とかで遅くまでおきていたみたいだし、風邪でもひいたのかなぁ琴音の奴……風邪をひいたんじゃあクリスマスイルミネーションなんて行けないんじゃないかな?

「琴姉ちゃんも学内選考が受かってホッとしたんじゃないの?」

 クリスマスイブに琴音の元に届いた通知は、学内選考に合格をしたというもので、昨夜はそのお祝いをかねたクリスマスパーティーが開催され、まだアルコールの抜けきらないような顔をしている現在の健斗に至る。

「確かにそうかもしれないな?」

 若干残っているアルコールを覚まそうと冷蔵庫の中から一年中常備されている麦茶を取り出す健斗の背中に、知果の冷かしたような声が掛けられる。

「おにいちゃんもついていないね? せっかく琴姉ちゃんの合格が決まったんだから、ゆっくり二人っきりでクリスマスデートができるはずだったのに、キヒヒ」

 振り返って言い返そうとするが、知果の一言に引っ掛かりを覚える。

「そんなに具合が悪そうだったのか? 琴音は」

 振り返りながら聞く健斗に、知果は少し顔を上げながらその様子を思い出しているようで、アゴに指を置きながら思案顔を浮かべる。

「ん、ボクが下りてきた時はお母さんと一緒に真剣な顔をしてしたよ? その時の琴姉ちゃんの顔色はあまりよくなかったし……その後すぐに医者に行くって言って出かけたし」

 深雪さんと琴音が真剣な顔をして話をしていた? そんなに深刻なのかなぁ。それにしても、深雪さんじゃなくって俺に相談してくれてもいいのに……そうすれば俺が医者に連れてゆくというのに、なんだって深雪さんと一緒に行ったんだろう。

 怪訝な顔をする健斗に対し、さほど気にした様子を見せない知果は再び視線をテレビに向けようとすると、テーブルの上に置かれていた知果の携帯がメールの着信を告げる。

「アッ……エヘへ」

 慌てて携帯を取り上げる知果は、ディスプレーを見るとどこか嬉しそうな表情を浮かべながらその内容を読み始め、その表情を徐々にほころばせてゆく。

 なんだ? いつもの知果と様子が違うようだが……もしかして。

 徐々に健斗の表情が意地悪く歪んでゆき、ソッとそのメールを覗き込もうとすると、それまで夢中に見ていた知果が慌てて携帯を背後に隠し、真っ赤な顔を健斗に向ける。

「ちょ、ちょっとおにいちゃん」

 茹で上がったような顔をしている知果は文句を言うように健斗の顔を見上げているが、その瞳は慌しく周囲を見渡しており、一向に健斗に向く事は無い。

「随分と熱心に読んでいるけれど……もしかして……」

 ニヘラァと健斗の口が開くと、知果の顔はまるで音を立てるかのように一気に赤らみ、モジモジと携帯を弄び始め、その様子に健斗は勘が当たっていたと確信する。

 なるほどねぇ、まぁ、知果ほどの素材の女の子であれば今までそういう人間がいなかった方が不思議なぐらいだが、小さい頃から知っている俺としては、なんとなく複雑な心境かもしれないな? 知果に彼氏ねぇ……。

「べ、別にまだ正式に付き合っているわけじゃないよ? 確かにちょっと気になる存在ではあったし、向こうから告白された時はちょっと戸惑ったけれど……」

「ほぉ、知果の方がコクられたんだぁ……なかなかスミにおけないねぇ」

 明らかに動揺をして言わなくともいい事を話しだす知果に対し、健斗はニコッと微笑みながら、その小さな頭をポフポフと撫でる。

 中学一年生で恋愛ねぇ。俺らの時代は気になる女の子がいたとしても、それが周囲の男子に知られるのが恥ずかしくってそんな大胆な行動をとる事は出来なかったものだが、十年一昔とでも言うのか、時は流れているんだねぇ……。

「でも、知果だってまんざらじゃないんだろ? その男の子の事は」

 姪っこに対してというよりも、既に父親に近いような感情になっている健斗の語り掛けに対して、知果は恥ずかしそうに赤くなっている首をコクリと縦に振る。

「うん……こっちの小学校に転校してきた時からずっと同じクラスで、この間の終業式の時に呼び出されて……告白されたの……」

 ハハ……ホント、複雑な心境だぜ……今度折を見てその相手の男に会いに行く必要があるかもしれないよな? 父親代理として……。

 複雑な笑みを浮かべる健斗は、頭のてっぺんまで赤くなっているのでは無いかというような熱を持つ知果の頭を撫で続ける。

「ボクね? おにいちゃんの事が好きなの……でも、明クンの事も好きかも……」

 思いも寄らない知果の告白に健斗は一瞬驚いてしまうが、知果の言う『好き』の意味を肉親に向けたものと解釈した健斗は優しい微笑を向ける。

「――光栄な事だけれど、俺にも好きな女の子がいるんだ……だから知果も自分の本当の気持ちに素直になった方がいいと思うよ?」



「風邪? 大丈夫だよ。大学が決まってちょっとホッとしたら体調を崩しちゃったみたい」

 一時間ぐらい経ってからだろうか、帰ってきた琴音の表情は知果から聞いていたほど悪くはなく、内心ホッと胸を撫で下ろすが、付き添っていた深雪の表情にはいつものような笑顔がなく、健斗の心配の火はまだくすぶったままでいる。

「それよりも、今日はどうするんだ? クリスマスイルミネーション」

 当人が大丈夫だというのであれば大丈夫なのであろう、深雪さんの表情が引っかかるが……。

「行くよ! せっかく進学も決まったんだし、これからはゆっくりと羽を伸ばさないとね?」

 確かに少し顔色が優れないものの、琴音の態度は医者帰りとは思えないほどいつもと同じで、その姿にそれまで持っていた引っ掛かりが薄れてゆく。

「だったら待ち合わせにしようか?」

「待ち合わせ? なんで?」

 ホッとしたような表情を浮かべている健斗の顔を琴音が覗き込んでくる。

「ちょっとおんぷのマスターに用事があって……バイトじゃないからそんなに時間は掛からないと思うけれど、琴音は先に行っていてくれないか?」

 以前マスターにお願いしていた物が届いているという連絡があったのは、昨夜の琴音合格お祝いパーティー&クリスマスパーティーの最中だった。

 何とかクリスマスに間に合ったという所だぜ。

「ん、わかった。どこで待ち合わせにする?」

 怪訝な表情を浮かべながら琴音は健斗の意見に同意したようで、コクリとうなずき、なぜか視線を深雪に向けるが、健斗はそれに気がついていない。

「そうだなぁ……おんぷに車を置いて電車で向かうから函館駅でどうだ?」

「うん、わかった……遅刻は厳禁だぞ?」

 なぜか少しはにかんだような表情を浮かべる琴音に気がついていないのか、健斗は苦笑いを浮かべながら了解の意思を示すように手を振る。

「わかっているって……それと、おんぷに行く途中郵便局に寄るけれど何かある? 年内に出さなければいけない郵便物とか……深雪さんも」

 いきなり健斗に視線を向けられた深雪は珍しく慌てふためいたように体をビクつかせ、視線をあらぬほうに向けている。

「あ、あたしの方は何も無いわよ……ねぇ琴ちゃん」

「あ、あたし? あたしもないよ」

「おかあさん、ボクちょっと出かけてくるねぇ!」

 明らかに動揺している二人に健斗は心の中で首を傾げていると、玄関先から元気な知果の声が聞こえてきて、深雪は助かったというような顔をしながら飛び出してゆく。



「何かあったのかねぇ……」

 クリスマスの飾り付けのされているおんぷの店内。まだ開店前のため客の姿はなく、マスターもいつもの黒服ではなくジーパンにラフなシャツという姿で煙草をふかしている。

「さぁ? いつも元気な琴音が医者に行く事自体が珍しい事なんですけれどね?」

 セルフサービスで入れたコーヒーを口に含みながら、健斗は思い当たる節を必死に模索するが、その答えが見つかるわけでもない。

「深雪さんが付き添ったというのも良くわからないな? 具合が悪いのなら自分の彼氏に頼り対というのが女の本音だろう……弱い一面を見せつけるというのが常套手段だ」

 何か思い当たる事でもあるのか、マスターは声を潜めて視線を厨房の奥にいるであろうマキの方に向けると、健斗は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

「そうなんですよ、わざわざ深雪さんに付き添われなくっても俺に言えばいいのに……」

 なにかヘンな気でも使ったのかなぁ琴音の奴……だとしたらちょっと水臭くねぇか? 俺の事をもっと頼ってもらいたいんだがな?

 健斗が不満げに口を尖らせていると、厨房の奥からミニワンピースを着たマキが小さい紙袋を手にしながら顔を見せてくる。

「そりゃ琴音ちゃんだって女だから、坊やと一緒に行けない病院だってあるわよ」

 意地悪い顔をしながら言うマキの一言に健斗は訳がわからず首を傾げるが、手元に置かれた紙袋に視線を向けるとすぐに笑顔がこぼれる。

「坊やにお願いされたものがこれよ?」

 紙袋から取り出された小さな包みをマスターとマキは冷かすような目で見るが、健斗は感慨深そうな顔をしてその白い包みを見つめる。

「さすがに忍の息子だな? 見せてもらったけれどなかなか良いセンスをしていると思うよ」

 煙草を消しながら言うマスターの表情は、口調こそ冷かすようなものだったが、その視線は優しく、隣にいるマキも同じように穏やかな笑みを浮かべている。

「そうですか? こんなのを人にあげるのは初めてだから良くわからなくって……でも、マキさんの知り合いに相談してよかったですよ」

 大切そうにその包みをコートのポケットにしまう健斗をマキは小さく首を振って答える。

「でも、最終的にそのデザインを決めたのは坊やじゃない? 正直あたしも欲しくなっちゃったぐらいよ……ねぇ剛ぃ……あたしにもぉクリスマスプレゼントぉ」

 擦り寄るようにするマキに対し、マスターは困ったように身を反らしながら避けるが、さらにその身体を摺り寄せられ逃げ場を失う。

「何を言っているんだよ、これは坊主から彼女へのプレゼントだろ? しかもクリスマスプレゼントだけじゃなくって……なっ?」

 俺を隠れ蓑にしないで頂きたいんですが? 確かにそうだけれど……。

 困ったような顔をしたマスターは助けを請うように健斗に視線を向けると、その視線を受けた健斗はコクリと力強くうなずき、その様子にマキは羨ましそうな表情を浮かべる。

「やっぱり羨ましいなぁ……何年前だって? 剛にこうやってプレゼントを貰ったのは」

 意地悪い視線を向けられたマスターは照れ臭そうに咳払いをし、マキの左手の薬指に光っている指輪に視線を向ける。

「――もう二十年近く前だろ?」

 ヘイヘイごちそう様です。さてと、二人のラブラブな時間を邪魔してはいけないな?

 既に冷えているコーヒーを一気に口に含んだ健斗は、ピョンとハイチェアーから下りて、既にイチャイチャモードに入り始めているマスターとマキに遠慮するように店を後にしようとするが、その背中にマキの声が掛けられる。

「坊や。人を好きになってそれを渡そうという気持ちは一生忘れない事だと思うよ? 当然貰う相手も一生忘れる事は無い……だから、キッチリと決めてきなよ」

 振り返ると幸せそうにマスターの首にぶら下がりながら、マキは親指をグッと立てて健斗に向けており、マスターも困り顔を浮かべながら小さく親指を立てている。

 ――ガンバレ……バンドを組んだ時に失敗した時や、アドリブを入れろという時にバンド仲間から向けられる励ましの合図……。

「うん、ありがとう。マキさんもマスターも」

 なんとなく元気をもらったような気になった健斗は、二人と同じように親指をグッと立てると、カランとカウベルの音を立てながら扉を開く。

 決めてこい……かぁ……何を決めるのかわからないけれど、ただ、俺は琴音にコレをプレゼントしてあげたい……彼女を思う気持ちの証として……。

 薄暗い階段を昇るとクリスマス色に染まった本町の街並が広がり、さっきまでやんでいた雪が再び街を白く染めはじめていた。

 さみぃ……日が陰った途端に気温が下がってきたなぁ……当然の事ながら函館はホワイトクリスマスなのかぁ……東京でならロマンチックな光景の一言で済まされるだろうが、こっちでは当たり前の光景だよな? 俺がこっちに来た頃と同じ季節まで雪に閉ざされるんだ……。

 カップルの目立つ街中を健斗ははやる気持ちを抑えながらも、少し急ぎ歩きで市電の乗り場である『五稜郭公園前』の電停に向かって歩き始めるが、生憎と赤信号に行く手を阻まれる。

 チェッ、ついていないぜぇ……まぁ、まだ待ち合わせの時間まで時間はあるけれど……遅刻なんてしたら何を言われるかわからないからな? 琴音に……。

 心の中で舌打ちをしながらもポンとコートのポケットに入っている包みの存在を確認すると思わず表情をほころばせてしまい、照れ隠しに正面の赤信号に視線を向けるが、その瞬間、

 エッ?



=U=

「本当に大丈夫なの?」

 再び雪が降り始めた黒石家の玄関先で心配そうな顔をした深雪が、リボンの付いたピンク色のハイネックにダッフルコートを羽織りながらニッコリと微笑んでいる琴音を見送っている。

「大丈夫ですよ、雪には慣れているし……」

「そうじゃなくって」

 珍しくキッパリと言葉を遮る深雪に、琴音は一瞬驚いたような表情を浮かべるが、やがてその言葉の意味を理解したように小さくうなずく。

「――大丈夫です……これはあたしと健斗の問題ですから、深雪さんがそんなに心配する事は無いです……ちょっと順番がおかしくなっちゃいましたけれど……」

 おどけたように舌を出す琴音の表情に深雪の表情がほぐれる事はない。

「……それに、アイツがそんな事で逃げ出すような男じゃないと思っています……だから、この事はあたしの口からちゃんと伝えます……だから、深雪さんはあくまでも知らなかった事にしておいて下さい……」

 そう、この問題はあたしと健斗の問題なの……人にとやかく言われたくないし、あたしは間違っているとは思いたくない……これが当たり前の事だと思っているから……。

 真剣な表情の琴音に、深雪は諦めたようにため息を吐き出し、しかし、心配そうな表情はそのままで顔を見つめている。

「冷えるのが今のあなたには一番毒なのよ? ちゃんとしないと……」

 そう言いながら深雪は琴音の着ているダッフルコートの裾を直しながら、意外にもサバサバしているその顔を見上げる。

「アハ、大丈夫ですよ? 先生が言うように冷やさないよう毛糸のパンツを履いているし、オーバーニーソックスを履いているから下半身は冷えませんよ」

 太股に近くまであるソックスを再度上げ直しながら微笑む琴音に、深雪は再び諦めたようなため息を吐きその顔を引き締める。

「ねぇ琴ちゃん……あなた本気で言っているの? さっき先生に言った事を……」

 真剣な顔をする深雪に、琴音は小さくもその意思がゆるぎないものという事を示すように力強くコクリとうなずくと、何度目だか分からない深雪のため息が聞こえてくる。

 そう……後悔なんてしない……この結果があたしのとって一生涯最高のクリスマスプレゼントだと思っているから……だから後悔なんてしない……。

「ハイ……あたしはこれからも一緒にいます……あたしが一生一緒にいたいと思っていた人からのプレゼントなんですから……」

 琴音は視線をおなかに抱えている紙袋に向けて、幸せそうな笑みを浮かべる。



「ちょっと早く着きすぎたかな?」

 それまで小降りだった雪は琴音が函館駅に着いた頃には本降りになりだし、徐々に暗くなりはじめた函館駅前を白く雪化粧させていた。

 だいぶ降ってきたなぁ……。

 ウンザリしたような顔をしながら、琴音はダッフルコートのフードをかぶり、心なしかいつもよりも慎重にちょこちょこと歩幅を小さくして歩く。

 あんな話を聞いたらいつもと違って歩くのが慎重になるかも……。

 一人クスッと微笑みながら、クリスマスファンタジーに来たのであろう多くのカップルが出入りしている函館駅の中に入り込む。

 確か健斗は五時ぐらいに来る事ができるような事を言っていたけれど、あまりアテにしない方がいいかな? それにしてもバイト以外におんぷに用事って一体なんなんだろう。

 少し照れたような顔をして話していた健斗の顔を思い出し、琴音は一人首を傾げてしまう。

「なぁ、今日はお泊まり大丈夫なんだろ?」

「ウ〜ン……どぉかなぁ〜?」

 目の前を歩き去って行くカップルはそんな話をしながら、今にもキスをしはじめるのでは無いかというぐらいに顔を近づけながら、琴音の前をイチャイチャしながら通り過ぎてゆく。

 なんとなくイヤだな? 日本のこの風習……カップル同士が一緒にいる事ができるというのはいい事なのかもしれないけれど、なんだかそれが恋人を作らなければいけないイベントのようになってしまっているような気がする……本来の聖夜というのは、家族や愛する人と一緒にいるというのが本場の慣わしと聞いた事がある。本来クリスマスというのはそのようなイベントなんだと思うけれどな? でも、あたしもあまり変らないのか。好きな人と……大切な人と一緒に過ごすクリスマスを満喫しているのかもしれない。

 ピーポーピーポー……。

 既に街灯が点きはじめ、夜に突入しようとしている函館駅の大きく開放的な窓の外からは、聖夜にはあまり聞きたくないサイレンの音が聞こえてくる。

 こんな日に救急車には乗りたくないわよね? 当事者の方々には申し訳ないけれど……。

 同情したような表情を浮かべた琴音の視線の先には、慌しく赤灯を回して走り去ってゆく白地に赤いラインの入った救急車が走って行き、気のせいなのか遠くどこからともなくパトカーのサイレンも聞こえてくる。

「なんだか本町の方で、でっかい交通事故があったらしいぜ?」

 通り抜けてゆくカップルの会話が不思議と琴音の耳に残る。

 本町で交通事故……かぁ…………なんなんだろう、この胸の中の嫌な感じ……。

 一抹の不安を感じながらも、琴音は打ち消すように小さく首を横に振る。



=V=

「まだ来ない……もぉ、遅れるならなんか連絡ぐらいしてくれてもいいよね?」

 待ち合わせの時間から既に一時間以上が経過した六時過ぎ、琴音は携帯電話の時計を見てその時間を確認するとプクッと頬を膨らませる。

 どうせマスターに頼まれて色々仕事を手伝っているんじゃないのかな? 本当にアイツってお人好しというか、ある意味真面目なのよね?

 おんぷのマスターにあれこれ言われて、忙しそうに薄暗い店内を動き回っている健斗の事を想像した琴音は、思わず膨らんでいたその頬を緩めてしまう。

「でも、少し遅れるって言う電話ぐらいは欲しいわよね? ほんっとに女心のわからない超鈍感男なんだから……」

 文句を言う口調で一人ごちながらも、琴音は胸に抱えた紙袋に視線を向けながら柔らかな笑みを浮かべ、出会っては楽しそうに談笑するカップルたちを眺める。

 そういえばこんなに楽しみに人の事を待ったのって久しぶりのような気がするなぁ。アイツと一緒に渋谷に行った時はヘンな男に声を掛けられたし、あくまでもあれは来るというのが当たり前だったからこんなにワクワクしなかった。でも、今回はすごくワクワクしている。アイツは喜んでくれるかな?

 抱えている紙袋の中には、中学生の時に父親に編んだ以来に久しぶりに編んだと言っても過言では無い手編みのマフラーが入っている。

 我ながらいい出来だとは思っているけれど、アイツが喜んでくれるかが心配かも……。バイトに行っていなかったからあまりお金がなかったというのもあるけれど、でも、なんとなく健斗に作ってあげたいという気がしたのよね? って、あたしもクリスマスというイベントに浮かされているカップルと同じなのかな?

「ゴメン!」

 背後から聞こえる声に、それまで苦笑いを浮かべていた琴音は振り返るが、その声の主は隣に座っていた女の子に声を掛けていた。

 なによ……ちょっと勘違いしちゃっただけじゃないのよぉ……。

 バツの悪そうな顔をして、琴音は持って行き場のないその笑顔をあらぬ方に向ける。

「もぉ、遅いぞ? 心配しちゃったじゃないのよぉ〜」

 クリスマスという事で精一杯のおしゃれをしているのであろう、琴音と同じ年ぐらいの女の子は、甘えたようにその彼氏の胸をポコポコと叩いており、その様子は同性である琴音から見ても可愛らしい仕草だった。

 ちょっと可愛いかも……あたしにもできるかなぁ……って、ちょっと無理があるかな?

 方耳にそんな会話を聞く琴音は、思わずそんな自分を想像したのか頬を赤らめながら聞くともなしのそのカップルの話を聞く。

「わりぃ、本町で事故があって渋滞していたんだよ……交通整理をしていたおまわりさんの話では酔っ払い運転の車が歩道に突っ込んで、信号待ちしていた歩行者をはねたらしいぜ?」

 本町で事故……さっきもそんな話を聞いたわね? 健斗が用事のあると言って出かけたおんぷのあるのも本町……。まさかよね?

 再び襲ってくる不安な思いを断ち切るように琴音は携帯を取り出すと、まだその場に来ない待ち人の名前をメモリーから呼び出す。

「いやだぁ、こんなクリスマスの時にそんな事故に遭うなんて……」

 カップルはそう言いながら離れてゆくが、琴音は急激に襲い掛かってくる不安に押しつぶされそうな気持ちになり、呼び出した携帯のメモリーをプッシュする。

 お願い……出て……あたしに気まずそうな健斗の声を聞かせて……。

 理由など何もないし、健斗がその事故に遭遇したという確証もない。しかし、訳のわからない不安感が琴音を焦らせている。

 プルル……プルルル……。

 少しの間を置いてから琴音の耳に聞こえてきたのは健斗の携帯を呼び出す音で、その音に琴音は一瞬ホッとしたような顔をする。

 電話がつながるという事は……でも、出てよ……あなたの声を聞かせてよ。

 最悪の結果を想像していた琴音はその事に胸を撫で下ろすも、しかし、なかなか相手の声を聞くことが出来ない苛立ちを覚える。

 お願い……出てよ……いつもの申し訳無さそうにする健斗の声をあたしに聞かせてちょうだいよ……なんで? なんでこんな不安な気持ちになるの? そんなはずないじゃない……どうせアイツの事だからコートのポケットに携帯を入れたままにしているか、マナーモードにするのを忘れて着信に気がつかないだけに決まっている……。

 自分にそう言い聞かせながらも、湧き上がってくる不安感に琴音は押しつぶされそうになりながらも、何度も繰り返されるコール音から耳を離す。

 ……健斗……お願い、早く連絡をちょうだい……。

 携帯に着信履歴があればすぐに折り返しの電話があるであろうと思った琴音は、ピンク色の携帯をポケットにはしまわずに、祈るように両手で挟んで着信を待つ。

〜♪〜♪♪……。

 手の中に挟まれていた携帯が、クリスマスらしい着信メロディーを奏で、慌ててディスプレーを見つめるが、そこに表示されているのは待ち人からのものではなく、黒石家の固定電話からである事を告げていた。

 深雪さん? なんで?

 思いもしなかった場所からの電話に、琴音はさらに不安な気持ちを膨らませる。

第三十七話へ。