第三十七話 聖夜



=T=

「なんで? なんで? なんで?」

 琴音の口から発せられる言葉は、冷たく冷え込んだ夜の街の中に白く濁って消えてゆく。

 なんで? なんで? なんで?

 足元はさっきから降り続いている雪が積もり、慣れていない人々が足元を気にしながら歩くのを横目に、琴音はこの日のために買った膝丈スカートを乱しながら駆け抜けてゆき、その頭の中には深雪からの電話を受けた時から浮かんでいる三文字以外が出てくる事は無い。

「なんで? なんで? なんで?」

 ライトアップされている五稜郭タワーのすぐ近く、それまでクリスマス一色だった街とはまったく違った雰囲気の場所を琴音は息を乱しながら見上げる。

「なんで?」

 色とりどりのクリスマスイルミネーションではなく、ただ無機質に赤く光っているその文字に琴音の胸は何かに押し潰されてしまいそうな感覚に襲われる。

「救急入口……」

 乱れている息を整えようとはせずに琴音はそう書かれている扉をくぐると、それまで冷え切った身体に暖かくも消毒液臭い空気がまとわりつき、一気に現実に引き戻される。

 なんで? なんであたしはこんな所にいるの? あたしは健斗と函館駅で待ち合わせをしていたはず……病院になんて用事は無いのに……。

 最低限の電気しか点いていないそこには、街中で流れていたクリスマスソングは聞こえる事は無く、無機質な電子音が聞こえるだけだった。

 イヤだ……こんな所にいたくない。函館駅に戻らないと……健斗が待っているのに……。

 いまだに現実が理解しきれていない琴音は、足元をふらつかせながら煌々と電気が点き、どことなく慌しさを感じさせられる場所に向かうと、制服を着た警察官と話をしている深雪の姿が目に飛び込んでくる。

「深雪さんっ!」

 病院という事を忘れて大きな声を上げ慌てて駆け寄る琴音に、いつもの笑顔を失い、神妙な面持ちの深雪が顔を向けてくる。

「琴ちゃん……」

 どこからともなく漂ってくる重苦しい空気に憔悴しきったような顔をした深雪と、その場にいた警官二人、そして見知らぬ親子二人も深雪の隣から同じように琴音に視線を向けてくる。

「こちらは?」

 初老の男性警察官は視線を琴音に向けたまま深雪に質問を向ける。

「彼女は……」

 辛そうに表情を固めた深雪は、その視線を警察官と隣にいる親子に視線を向ける。

「健斗は? 健斗は?」

 しかしそんな不穏な雰囲気さえも感じる事ができない琴音は、警官の質問に答えようとしている深雪の腕を力いっぱいに握り、切羽詰ったような表情を割り込ませる。

「琴ちゃん…………」

 いつものノホホンとした笑顔はなりを潜め、今は苦渋の表情を浮かべたままの深雪は琴音の名をポツリと呟くと、怪訝な顔をした警察官に対峙する。

「彼女は健斗クン……茅沼健斗の恋人……いえ、婚約者と言ってもいいでしょう……」

 絞り出すような深雪の声は途中から涙声に変わり、その言葉に過敏に反応したのは隣で沈痛な面持ちで立っていた女性で、耐えられなくなったように跪くと、その隣ではおでこに大きなバンソウコウをした女の子が訳わからずにキョトンとした顔をして様子を見据えている。

「あたしが……あたしがぁ」

 リノリュウムの無機質な床にしゃがみ込み、両手で顔を覆いながら泣き始める女性を横目に、警官はさすがにその状況に同情するような視線を女性に向ける。

「奥さん、この事故は奥さんのせいではありませんよ……」

 事故? なんで事故に健斗が関係しているの?

「あたしが、あたしがちゃんとこの娘の手を引いていれば……こんな事に……彼だってこんな事にはならなかったはず……」

 警官に腕をひかれるも女性はその手を振りほどき、床に座ったままで涙で濡れ申し分けなさそうな色を浮かべた瞳を琴音に向けてくる。

「詳細についてご説明します」

 手帳を開いていた若い警官が業務的に事の経緯を話しはじめる。

「本日午後四時三十分頃、本町交差点にて交通人身事故が発生いたしました。酒気帯び運転によってハンドル操作を誤り、信号待ちをしていた歩行者に突入するものです」

 感情の抑揚の無い若い警官の言葉は、琴音の耳に残る事は無い。

 この人は何を言っているの? そんな事故の話しは聞きたくないよ……健斗が関係しているはずないじゃない……健斗がその事故をおこした犯人だって言いたいの?

 キッと睨みつける琴音の表情に少し戸惑ったような顔をする若い警官に変わって、初老の警官がため息混じりに口を開く。

「その現場に居合わせたのがこの親子連れと……茅沼健斗君で、茅沼君はこのお嬢さんをかばうように突き飛ばし…………車にはねられた……」

 さすがに辛らつとした表情を浮かべながら、初老の警察官はその首をたれ、若い警官もそれにつられる様に視線を琴音から外す。

「彼はこの娘を助けるために突き飛ばして……そして……代わりに……」

 その場に跪き、まるで土下座をするように上目遣いに琴音の事を見上げる母親の表情は、その場面が頭の中をよぎっているのだろう恐怖に慄いたように引きつっている。

 ちょ、ちょっとまってよ……冗談にしては随分と悪趣味じゃない? 確かに健斗がその場所に居合わせたらきっとそういう行動をとるとは思うけれど……じゃあ、はねられたって健斗?

 やっと状況が飲み込む事ができた琴音は、しかし、その状況を否定したい気持ちで視線をその場にいる人間全員に向けるが、誰しもその表情を和らげる事なく、皆一様に表情を硬くしたままでいるが、女の子だけは琴音に顔を見るとニコッと微笑む。

「この娘はおかげさまでおでこをすりむく程度の軽症で済んだのですが、彼は……」

 再び発せられる母親の声は嗚咽に包み込まれ、その後の言葉を聞き取る事はできない。

「お兄ちゃんは、あたしに『大丈夫?』って聞いてくれたんだよ?」

 状況が分からないのであろう。おでこのバンソウコウが痛々しいながらも、ニコッと微笑む幼子の黒目がちな大きな瞳が琴音の姿を映し出す。

「あたしが泣いていたら、お兄ちゃんが大丈夫だよって言ってくれたの」

 女の子がそう言うと母親はその小さな体をギュっと抱きしめ嗚咽をこぼす。

「…………被疑者においては無傷で身柄を確保。現在警察において事情聴取中です……被害者である茅沼健斗さんにおいては……」

 被害者って……健斗はどうなの?

「……現在も意識不明で、集中治療室にて治療をおこなっていますが……」

 言い難そうな警官の声に、琴音は全身から力を失ったようにガックリと崩れ落ち、慌てて深雪がその身体を支えに入る。

 意識不明……そんなの……、

「――――嘘よ……健斗はあたしとの約束を破るわけがないじゃない……今頃慌てて函館駅に向かっている頃よ……そうだ、あたしも行かなきゃ……健斗が待っているはず……あたしも行かなきゃ怒られちゃうよ……約束したんだから……二人で一緒にツリーを見るって……ウォールアートのプレートにお互いの気持ちを書くんだって……だから……あたし行かなきゃ」

 意識がぼんやりとする。今あたしの目の前で起きている事はきっと夢の中の出来事。きっとあたしは健斗の事を待っていながら眠ってしまったんだ、だから早く起きなきゃ。

「ちょ、琴ちゃん」

 夢遊病者のようにふらつきながら立ち上がる琴音の身体を、深雪が慌てて支えに入る。

「あなたの心中は察しますがこれも仕事という事で……この被害者の携帯にある着信履歴はあなたが掛けたもので間違いはありませんね?」

 申し訳なさそうな顔をした初老の警察官が取り出したのは、ビニール袋に保管されている携帯電話で、幾度となくそれを見た事のある琴音には当然見覚えがあるものだが、それには既にどす黒く変色した物が付着しており、思わず顔をそむけてしまう。

「我々が現場検証をしている時にこの電話が着信を告げておりました……履歴に残っている電話の相手はあなたでよろしいですね」

 着信履歴には琴音の名前がはっきりと浮かんでおり、その時祈るような気持ちで掛けていた事を思い出した琴音は目に大きな涙を浮かべながらコクリとうなずく。

 なんで待ち合わせなんてしてしまったんだろう……待ち合わせなんてしなければこんな事にはならなかったはず……なんで……なんで……。

浮かび上がってくる自虐の念に胸をつまされている琴音に、一同は声をかける事が出来なくなったかのように言葉を失っていると、目の前にあった無機質な扉がゆっくりと開かれ、そこから青い手術着を着た医師が姿を現すと一同は視線を向ける。

「先生!」

 疲れきったような様子の医師に深雪をはじめとした関係者が駆け寄るが、琴音だけは動く事ができないかのようにその場に佇んでいる。

「正直言って危険な状況は変りません……」

 マスクをしているためその表情を細かくうかがい知ることは出来ないものの、その深く刻まれた眉間のシワによってその事態は好転していない事を示している。

「そんな……」

 フラフラした足取りで医師による琴音はか細い声でそうつぶやく。

「彼女は?」

 そんな琴音の様子に医師はギョッとした顔をしながら警官に視線を向ける。

「彼女は被害者である茅沼健斗さんの恋人で……」

「そんな軽薄なものじゃないっ! あたしは身も心も健斗のお嫁さんです!」

 手帳をめくりながら答えようとする警官の言葉を噛み付くような勢いで遮る琴音の声に、一同は驚いたような顔をしている。

「もしかして……あなたが琴音さん?」

 疲れたようにマスクを外しながら医師が琴音の名前を言い当てると、琴音は少し驚いたような表情を浮かべながらも、コクリと力強く首を縦に振る。

 なんで先生があたしの名前を知っているの?

「そうですか……では、看護師と一緒にこちらにお越し下さい……キミ、彼女に……」

 思い当たる節があるのだろう、辛らつな顔を浮かべながらため息交じりに言う医師は、近くにいた女性看護師に声をかけると、重たそうな足取りで集中治療室と書かれた部屋の中に入ってゆき、看護師に促されながら琴音も神妙な面持ちで後についてゆき、その様子に深雪は何かを悟ったのであろう、ガックリと肩を落とし嗚咽をこぼしており、そのような事態には仕事柄慣れているであろう警察官も制帽を取り、辛そうな顔をして頭を下げている。



「処置中に何度もあなたの名前を呟いていたんです……」

 付添いの看護師にそう言われながら、様々な電子音に包まれた部屋に術着を着せられた琴音が入ると、その中心には包帯に巻かれ様々な器具をとりつけられて痛々しい姿をしている健斗が横たわっており、その姿に琴音は思わず駆け寄ってしまう。

「健斗……健斗ぉ、何しているのよぉ、こんな所で寝ていないで? 今日でクリスマスファンタジーが終わっちゃうよ? 一緒にツリーを見に行こうよ……」

 既にその声は涙声にかわっており、その姿に感銘したのか女性看護師も涙を浮かべる。

「もぉ、今回も健斗の遅刻には間違いがないんだからね? またおごってもらわないと……ねぇ、健斗ぉ聞いているの?」

 包帯でぐるぐる巻きになっている健斗の手に触るが、それに反応する事はなく、まるで氷を触っているような冷たい感覚しかない。

「しょうがないなぁ、実はあたしからプレゼントがあるんだからぁ……あたしが編んだマフラーだぞ? ありがたく思えよ?」

 すでに琴音の瞳からはとめどもなく大粒の涙がこぼれおちており、琴音の視界は涙に歪んでハッキリと健斗の姿が見る事が出来なくなっている。

「それにもう一つ……あたしのお腹の中にもあなたからの授かりものがあるの……」

 その言葉の意味に病室内にいる全員が驚いたような表情を浮かべ、ベッド際で懇願するようにしゃがみ込みながら健斗に語りかけている琴音の姿を見据える。

 そう、数日間体調が悪く今日深雪さんに付き添ってもらって病院に行った。結果は妊娠三ヶ月目に入ったところだった。でも、困ったという気はしなかった。これは当たり前の結果で、不思議と嬉しいという気持ちの方が強かった……あなたからの贈り物という気持ちが……。

「だからぁ……早く目を覚ましてよ……今度は親子三人で函館の街を見ようよ……ねぇ」

 それまで無反応だった健斗の手がピクリと反応し、カサカサに乾いた唇がゆっくりと動き始めるが、それははっきりと聞き取る事はできない。

「なに健斗?」

 顔を近づける琴音に健斗はゆっくりと目を開く。

「そ、そんな馬鹿な……」

 状況から既に諦めていた医師たちは、そんな健斗の反応に驚きを隠す事はできないように目を丸くし、二人のやり取りを見つめる。

「プレゼントを……琴音に……俺……から……」

 何かを探すような健斗の視線に琴音は医師に視線を向けると、隣にいた看護師が血に汚れた小さな包みを取り出し健斗の目の前に差し出すと、その表情が和らぐ。

「搬送されてきた時に彼の着ていたコートの中に入っていた物です。たぶん彼はこれの事を言っているんだと思いますよ?」

 看護師はそう言いながらその小包を渡すと、琴音はコクリとうなずく。

「貰ったよ? 開けてもいい?」

 手を震わせながらも包装紙を剥がす琴音の様子を見ているのか、虚ろな視線の健斗は表情を和らげているようにも見える。

「健斗……これ」

 スウェード調の小箱の中にはメッセージカードと共にシンプルな指輪がささっており、それに琴音は驚いたような表情を浮かべる。

「貰って……くれると……嬉しい……」

 かすれたような健斗の声に、琴音は辛そうな表情を浮かべ『二人はまだ夢の途中……』と書かれたメッセージカードに視線を落とす。

「あ……当たり前じゃない……あたしの方が嬉しいよ……」

 しかし、健斗の視線は琴音に向いているわけではなく虚空を見据えているだけで、琴音は慌ててその指輪を左手の薬指にはめて、その指を健斗の視野に割り込ませる。

「ホラ、これであたしは健斗の奥さんだよ……だから……早く……」

 ポツリと健斗の頬に琴音の涙がこぼれ落ちると、動くはずのない手が琴音の頬を触れる。

「何を……泣いて……いるんだ……琴音……笑顔を見せてくれ……よ」

 力ない健斗の声に琴音は必死に泣き笑いの表情を作り上げる。

「な……泣いてなんていないもん。ただ、あんたが珍しくキザな事をするから……でも、ちょっとだけ……感動したかも……しれないよ」

 いつもと同じように振舞おうとするも、琴音の瞳からは涙が溢れて止まらない。

「へへ……感動して……くれたら……嬉しい……よ……これからも……夢を……二人で……一生をかけて……追う……んだ」

 はにかんだような笑顔を浮かべる健斗に琴音は涙をぬぐうと、満面に笑顔を浮かべ、虚空に向いている視界の中にその笑顔を割り込ませる。

「ん、ありがとう健斗……あたしの夢を叶えてくれて……そしてこれからも……あたしの夢を叶えて……続けて……お願い」

 目に涙を湛えながらもニコッと微笑む琴音に、やっと健斗は視線を向けニコリと微笑み、包帯の巻かれた手でその涙をぬぐう。

「涙……」

 頬を伝う涙をぬぐってくれる健斗の手に、琴音はそのまま頬を摺り寄せる。

「ウン……健斗がカッコよく見えたから……ちょっと泣いちゃった……これからも一緒にいようよ健斗……だから早く……早く良くなってよ……ね?」

 摺り寄せる琴音の頬の感触に、健斗は穏やかな笑みを浮かべ、

「あぁ……ずっと…………琴音と……一緒…………だ」

 穏やかな顔をしたまま健斗の瞳がゆっくりとつぶられると、琴音の手の中にあった包帯に巻かれた手が重力に従うようにゆっくりと落ち、それまで不安定ながらもリズムを刻んでいた電子音が、一定の音をたてる。

 ちょ? なに?

「健斗? ねぇ…………ちょっと?」

 それまで二人の経緯を見守っていた医師団が健斗の変化に慌てて駆け寄り脈をとると、やがて辛らつな表情を浮かべながら小さく首を横に振る。

 うそ……よ……。

「ちょっとなによ……あなたなにを寝ているの? これからあたしと一緒にクリスマスファンタジーを見に行くんでしょ? ほらぁ、外は雪だよ? 健斗が憧れていたホワイトクリスマスなんだから早く起きて? これからもずっと一緒だって言ったじゃないのよぉ、一緒に夢を叶えようって約束したじゃないのよぉ、このメッセージカードにも書いてあるじゃないの、まだあたしたちの夢は途中なの、だからぁ、もっと夢を見させてよぉ、ねぇ、健斗……健斗ぉっ! 起きてよぉ、ねぇっ! 健斗ぉぉぉぉ」

 無機質な病室に無常にも響き渡る電子音が、穏やかな表情のままで健斗が絶命した事を示し、悲痛な琴音の叫び声はいつまでもその部屋の中に響き渡っていた。

 

=U=

「琴ちゃん……」

 リビングの扉を開けて入ってきた琴音に、深雪は思わず声を掛けてしまう。

「アッ、深雪さんおはようございます。今年もよろしくお願いいたします」

 うやうやしく頭を下げながら新年の挨拶をしてくる琴音に、深雪は呆気にとられながらもあわせるように頭を下げる。

「こちらこそ」

「わぁ、雪は止んだんですね? 新雪がキラキラしてきれいかも……うん、年明け早々気持ちのいい朝が迎えられたわ」

 背中を伸ばし、心地よさそうに伸びをしながら窓の外を眺める琴音の表情にはそれまで浮かべていたような憔悴しきったようなものはなく、深雪は内心ホッとするが、しかし、完全にその心配事が払拭されたわけでは無い。

「もぉ、そんな顔をしないで下さいよぉ。あたしだって完全に復活をしたわけじゃないけれど、いつまでもウジウジと泣いてばかりなんていられませんからね?」

 心配そうな顔をしている深雪に気がついたのか、琴音は明るく微笑んでみせる。

 確かに完全に立ち直っているわけじゃない。色々とあった年末は一生分泣きはらしたような気がする。でも、いつまでも悲しんでいたらきっとアイツに怒られちゃう。

 ニコッと微笑みながら琴音はまだ真新しい祭壇に視線を向ける。そこには白い布に包まれた箱と共に、はにかんだような笑顔を浮かべた健斗の遺影が飾られている。

「さてと……健斗あけましておめでとう。今年もよろしくお願いします」

 チョコンと祭壇の前に座った琴音はペコリと頭を下げると線香に火をつけ、チンとお鈴を鳴らすと微笑みながら遺影に向かって語りはじめる。

「あたしは元気だよ? アンタの葬式の時ちょっと体調を崩したけれど全然平気だった。さすがにあなたの子供よね? なんともないって先生が言ってくれた……エッ? あたしの子供でもあるから元気なのは当然だって? 随分と失礼な言いようねぇ」

 プクッと頬を膨らませながら遺影を睨みつける琴音の様子を眺めていた深雪は、見ていられないというように姿をキッチンに隠す。

 今でも信じられないよ、あんたがこの世からいなくなっちゃうなんて……今でも夢を見ているような気がする。でも、いつまでも悲しんでなんていられないよね? この子の為にもあたしがしっかりしないといけない……茅島琴音として……。

 実子である健斗の死去に伴い緊急来日した健斗の両親から告げられたのは、戸籍上は茅沼家の『嫁』ではないものの、琴音の事を養女として茅沼家の戸籍に入れるというもので、琴音の両親や琴音はその提案を快く受け入れた。

 たかが書類の上だけでの問題、あたしは健斗と同じ苗字を名乗る事ができて嬉しい。

 合わせる手には、あの日、健斗からプレゼントされた指輪が外される事がなく、ずっと琴音の左手の薬指にはめられたままになっている。

 あたしは一生あなたの妻である……この後どんな事を世間から言われようと、その気持ちは絶対に変わらない……この子供と一緒に……。

「さてと……」

 まだ目立たないお腹に視線を向け、不意に浮かび上がっていた涙を指でぬぐいとりながら、琴音は立ち上がる。

「ねぇ深雪さん、年賀状は届いている?」

「さ、さぁ、まだ見ていないわよ?」

 キッチンに姿を消し、明らかに動揺しているような声の深雪に対して、琴音は心の中でふっとため息を吐きながらも、努めて明るく言う。

 もぉ、みんながそんなに気を使うとこっちの方が疲れちゃうよぉ。

「じゃあ、あたしが見てくるよ。きっとみんなの分が着ているでしょ?」

 お腹に負担を掛けないように立ち上がる琴音の表情からは既に涙は消えていた。

「ちょっ、琴ちゃんそんな格好で玄関に行ったら身体に障るからあたしが……」

 フリースのルームウェアーだけという格好をした琴音の背後から、戸惑ったような深雪の声が聞こえてくるが、琴音は関せずと言った風に小走りに玄関先に向かい、ポストを覗き込む。

 ウフフ、着ているよ? 圧倒的に知果ちゃん宛が多いかしら? 中学生なら当然かも知れないわね? それに深雪さん宛ても結構あるわね? なぜか企業名で着ているものが多いような気もするけれど……、それにあたし宛と……健斗宛……ね。

 時期的に既に投函された後の出来事であったのだろう。故人となってしまった健斗宛にも何通か年賀状が届いており、中には葬儀に参列した人物からのものがあって、その中には琴音がよく知っている人物……美音からのものもあった。

 仕方がない事よね? 本当に迷惑な人なんだから……あたし宛は由衣と、アハ、あたしにも美音ちゃんから届いているよ……後は……エッ?

 見知った顔を思い浮かべて微笑みながら年賀状を引っくり返し差出人を確認していた琴音の手が、一通の年賀状で止まる。

『なんだよぉ、一年の計、年賀状はきちんと書かないと……』

 はにかんだような顔をした健斗の一言がいきなり琴音の脳裏に蘇る。

「琴ちゃん! もぉ! あなた一人だけの身体じゃないんだから……って、琴ちゃん?」

 後を追うように慌てて厚手の上着を持ってきた深雪は、玄関先で年賀状を見ながら肩を震わせている琴音の顔を覗き込む。

「琴ちゃん?」

 手に持たれているその年賀状を見た深雪は、一瞬ギョッとしたような表情を浮かべながらも、両目から涙をボロボロと零し、一枚の年賀状を見下ろしている琴音の肩を優しく誘いながらリビングに戻る。

「せっかく踏ん切りをつけようとしていたのに……過去の事と割り切ろうと思ったのに、これじゃあイヤでも思い出しちゃうじゃない」

 こぼれ落ちる涙は絨毯に染みを作り、深雪はその年賀状をそっと琴音に指し返す。

「天国からの年賀状……かしら?」

 浮かび上がった涙を拭いながら言う深雪の一言に琴音はコクリとうなずき、大切そうにそれを抱しめる琴音。そこには干支をキャラクター化した可愛らしいイラストと共に、お世辞にも綺麗ではないものの、慣れ親しんだ書体が並んでいた。

「なにが『あけましておめでとう』よ、なにが『今年もよろしく』よ、アンタがいなくなっちゃったら意味がないじゃない……本当に粗忽な男……」

 最後に見た元気な姿の健斗が手に持っていた年賀状が、再び琴音の手元に戻ってきている。その時の事を思い出した琴音は、柄もいえない感情に押しつぶされそうになる。

「本当にバカなんだから……せっかくもう泣かないって決めていたのに……こんな事をされたら……泣いちゃうに決まっているじゃない……」

 大切そうに琴音は『天国からの年賀状』を胸に抱しめ、小さく嗚咽をこぼす。

エピローグへ。