第七話 想われる思い



=T=

「ライブ喫茶?」

それまで慌しさがようやく落着き、賑やかさも薄らぎ始めている学食の中で、セットに付いてくるオレンジジュースを口に含みながら、健斗の発した一言に琴音が首をひねっている。

「あぁ、函館という街は多くのミュージシャンを多数輩出しているだろ? そういうのにも興味があるんだ……親のせいなのかもしれないけれど」

 食後のコーヒーを飲みながら、健斗はそんな驚きの表情を浮かべている琴音の顔を見る。

北島三郎さんやGLAYさんを筆頭として、函館出身のミュージシャンが多数いるのは、それだけこの街には音楽に対する愛着や、楽しむ情景、何よりもそれが出来る環境が揃っているのかもしれないよな? あのお店も函館に引っ越してきてから何回か行ったが、マスターの音楽に対する愛情というのが伝わってきたし、人柄もいいからやってみたい気持があった……時給が安いというのが玉に瑕なんだけれど……。

「その店って、ひょっとして五稜郭公園の近くの『おんぷ』の事か?」

 咽込んでいても皆から無視されまくっていた雄二がようやく復活の兆しを見せ始める。

「あぁ、知っているのか?」

この男だけには絶対に縁がないだろうと思っていただけに、その台詞に驚きを隠せない健斗はその端正な顔立ちに顔を向けるが、その顔はさっきまでのひょうきんな顔をしておらず、少し眉毛をゆがめながら健斗の事を見ている。

「あそこならあたしも知っているけれど……ちょっと」

言葉尻を濁して花織もちょっと表情を曇らせながら健斗を見る。

「なんで? 何回か俺も行ったけれど結構雰囲気いいお店だったけれどな? マスターも気さくな人で気に入ったし、そんな嫌な雰囲気じゃなかったけれどなぁ」

 四人が健斗に向ける目は様々だが、その視線は粗方健斗の案に対しての戸惑いと賛成しかねるといった雰囲気が流れている。

確かに、ちょっと青少年たちにはディープな印象を与えるような店構えだが、マスターは気さくで音楽をこよなく愛している事が、話をしていてもよくわかる。

「あのお店は不良のたまり場という言葉がよく似合う場所だと思うな……そんな所で健斗さんがバイトをするというのは……ちょっと」

明らかに心配そうな顔をしている由衣に、健斗は苦笑いで答えるしかなく、その不安に輪をかけるような事を花織が言うと、さらにその表情が曇ってゆく。

「あたしがまだ高校生だった頃は暴走族のたまり場になっているってよく聞いたけれど、確か陵星工業の生徒がよく行く店でしょ? あまり感心しないなぁ」

 暴走族のたまり場とまで言うか?

眉間にしわを寄せ眇めた目で健斗を見る花織、その言葉の中に出た学校名に琴音は心配そうな視線を健斗に向ける。

「陵星工業って、よく喧嘩騒動を起こす所でしょ? うちの男子もよくカラまれるって言っていたし、先生もあの学校の事は良く言わないよ? あなたがそんなお店で働くのはいやだなぁ」

はは、だいぶ品位を落としているようで……というよりもかなりの誤解があるようだ。

「誤解だよ、確かに不良っぽい格好をした連中が出入りしているようだけれど、お昼はランチをやっていて近くのOLさんとかも来ているみたいだし、夜は落着いた雰囲気のバーだぜ? そういう連中が出入りしているのは、夕方バンドの練習で来ている連中だろう」

 少しムッとしたような顔をして健斗がその誤解を必死に解こうとするが、他の四人はまだ疑い深い目で見つめている。

「でも、なんで健斗がそんなお店の事を知っているの?」

 不思議に思ったのか、琴音が首を傾げて健斗を見据えると、健斗は照れたように頭を掻きながらボソボソと声のトーンを落とす。

「あそこのマスターが、俺のオヤジと仲が良かったらしくって、俺がこっちに引っ越してきたのを知っていてね……それで勧められた」

「なんで健ちゃんのお父さんと『おんぷ』のマスターが知り合いなの?」

 首を傾げる花織に、健斗はさらに恥ずかしそうに顔をうつむかせる。

「いや……そのぉ……なんと言いましょうか……」

 言葉を濁している健斗に前に座る琴音が先に口を開く。

「健斗のお父さんって、ミュージシャンなんです。その関係でなんでしょ?」

 少し苛立ったように言う琴音に健斗は渋そうな顔を向けているが、花織と由衣はその瞳を輝かせて健斗ににじり寄る。

「健ちゃんのお父さんってそんなにすごい人なの?」

「いや、そんな……」

「ちょっと待って? 健斗さんの苗字って確か『茅沼』よね? 茅沼……カヤヌマ……」

 頭の記憶を引き寄せるように由衣が目をつぶり、何度も健斗の苗字を念仏のように呟いていたが、何かにヒットしたのだろう、顔をパァッと輝かせてその顔を健斗に向ける。

「シノブカヤヌマ! 世界的に有名なギタリスト! もしかして健斗さんって……」

 由衣の出した答えに、健斗を覗いた全員が目を見開いて恥ずかしそうな顔をしてうつむいている健斗に視線を向けている。

「ウン……」

 蚊の泣くような声で答える健斗に真っ先に噛み付いたのはやっぱり琴音だった。

「なんだってそういう重要な事を教えてくれないのよぉ〜!」



=U=

「健斗ぉ〜」

午後の講義を終えてヤレヤレ顔をしながら高等部のグラウンドの脇を歩いていると、そのグランドから琴音が呼び止めてくる。

「ん? どうしたんだ、血相を変えて……」

 珍しいなぁ、琴音の方から俺に声をかけてくるなんて……また雪でも降るんじゃないか? せっかく道端の雪が消えたというのに……。

そんな失礼な事を健斗が考えているというのは当然知らないのであろう、琴音は部活の途中なのだろう、額に少し汗を光らせ、所属している陸上部のジャージ姿で駆け寄ってくる。

「ウン、明日ちょっと付き合ってもらいたい所があるんだけれど……いいかな?」

少し照れたようにうつむく琴音は、ボソボソと小声で健斗に言う。

「おやぁ? 琴音さんからデートのお誘いとは珍しいねぇ……明日は雪かな?」

琴音の言葉に健斗は少し戸惑いながらも、わざとらしく大げさに空を見上げて冷やかすように言うと、琴音の顔がまるでボンという音を立てたように一瞬にして真っ赤になる。

な、なんだぁ? 照れて……いるのか?

予想していたのと違う琴音の反応に、健斗も少し戸惑い頬を赤らめ、わざと視線を彼女から外すと、トラックを走っている他の女子に向ける。

「バッ、バァカ、そんなのじゃないわよ! ちょっと買い物をしたいだけ! そうじゃなかったらあんたなんかを誘ったりしないわよ!」

 プイッと顔をそっぽ向かせる琴音だが、見えている耳は真っ赤になっておりポニーテールにして露になっているうなじも少し赤く染まっている。

エッと、俺のいままで培ってきた認識の中ではその事をデートというのだが、ひょっとしてそれは一般常識では間違った認識だったのかな?

キョトンとした顔をしている健斗に、琴音は少しイラついたような顔をして近づけてくる。

「それでどうするの付き合うの? 付き合わないの?」

 眉根を寄せて怒った表情を作り上げている琴音の顔は健斗が良く知っている顔で、それに苦笑いを浮かべていると、さらにその眉根が寄る。

なんだって俺が怒られなければいけないんだ? 頼まれているのはこっちの方なんだけれど、もう少し人に頼む時は下手に出ていただきたいものだが……でも明日かぁ……。

ため息交じりの健斗だったが、その頭の中にある明日のスケジュールと、琴音の提案するスケジュールの一部に妥協点を見出す。

「わかった、付き合うよ。俺も明日はちょっと行きたい所があったし、そっちに琴音が付き合ってくれるというのであればの話だけれど?」

 一種の交換条件という奴だよな? 琴音がこの条件を呑めばよしだ。

虚空を見上げるように健斗は頬を掻きながらそう言うと、琴音は少し思案顔を浮かべて、やがて仕方がないというような表情を浮かべながら首を縦に振る。

「仕方がないわねぇ、あなたがそこまで言うのなら付き合ってあげるわよ、それじゃあね!」

他の女子に呼ばれて琴音は笑顔を浮かべながらそう言い、健斗に軽く手を上げて再びグラウンドに駆け戻っていった。

「――なんだか、俺が付き合ってもらうような言われ方なんですけれど……提案者は琴音だろうに……でも、まぁいいかぁ」

少し考えるように首を傾げ苦笑いを浮かべながら、健斗は琴音の消えていったグランドに視線を向けると、ジャージを脱ぎノースリーブのランニングシャツに短パンという姿になる琴音の姿が眼に入り、思わず動き出していた足を止めてしまう。

おりょ? 琴音って陸上部だったんだ……ハハ、なんとなくそんな雰囲気があるよな? 元気いっぱいという琴音には似合っているよ、それにしても、琴音のああいう姿を見るのは初めてだよなぁ……なかなかどうして……。

 健康的な色に日焼けした細い腕と細長い足をブラブラとストレッチさせている姿に、一瞬健斗の視線が釘付けになるが、ハタと我に返り慌てて視線を元に戻す。

 これじゃあまるで女子高覗きをしているヘンなおじさんみたいじゃないか……。

 少し後ろ髪を引かれるような思いを持ちながら、健斗は歩みを正門に向ける。



「あら? 健ちゃんもこれから帰りなの?」

正門を抜けると、背後から不意に肩を叩かれ、その主に顔を向けるとそこには大きなダークブラウンの瞳にベリーショートの黒髪を揺らした花織がにこやかに立っている。

「あぁ、花織先輩」

その微笑に答えるように健斗の頬は無意識に赤らむのは無理がないであろう。膝丈のコートの裾からはストッキングを履いているものの細い足がしっかりと大地を捉えており、時折吹く風にその裾が儚げに揺れている。

琴音が健康的な足だとすれば、花織先輩は色気を感じる足というところなのかな? 少なくとも琴音よりも花織先輩の方が足首は細いと思う……ってそんな事を言ったら琴音に引っ叩かれるだろうけれど……。

「もぅ、その先輩はやめてよ、花織でいいから、それにこの歳になると先輩と呼ばれるのもちょっと照れるからやめてくれないかしら……」

――こんな事をいうと失礼かもしれないけれど、俺と一学年しか違わないとはいえ、たまに先輩とは思えない表情をするよなぁ、正直に言って可愛い。

花織も心なしか頬を染めながらそう言いながら少し頬を膨らませている。

「じゃ、じゃぁ……花織……さん」

そんな花織の事を正視できない健斗は少しうつむき加減。

「ちょ、ちょっとぉ、あたしだって健ちゃんって呼んでいるんだからもっとこう、なんていうのかなぁフレンドリーに呼んでよぉ」

 とはいえ他になんて呼んだらいいんだ? 花織ちゃん? フレンドリーすぎるし、カオちゃんって、考えただけでも赤面しちゃうぜ……となると残された選択肢は……。

「か、花織……」

「ハイッ! 健ちゃん!」

 健斗が渋々そう呼ぶと、首筋まで真っ赤にした花織は一瞬だけ驚いた顔をするが、すぐにその顔一杯に笑顔を膨らませる。

「ん? どした?」

 その花織の浮かべた表情に驚きの色を浮かべる健斗の視線に、花織は小首をかしげながら、しかし笑顔を絶やさないままに健斗の顔を覗きこんでくる。

 か……可愛い……やっぱり第一印象とはこの人は違うぜ……第一印象はできる美人という感じだったけれど今の印象は全然違う……琴音や美音と同じ可愛らしい女の子という感じだ。

「努力します……」

自分では気が付いていないかもしれないが、蚊の鳴くような声でいう健斗の顔は、まるで風呂上りに一杯やった親父さんのように真っ赤になっており、その頭から湯気が出ているのではないかと言わんばかりの勢いだ。

琴音とか美音ならば平気なんだけれど……どうも呼び難いよなぁ……見た目は美人で、性格は可愛らしい女の人というギャップのせいなのだろうか……。

健斗はそう思いながら再び花織の横顔をチラッと覗き見つめると、シャンプーなのか石鹸なのか、それともコロンなのか女性特有の少し甘い匂いが、やっと吹きだしてきた春らしい温かな風とともに健斗の鼻腔をくすぐる。

「う〜ん……気持ちいいなぁ、やっと春らしくなってきたわね?」

髪をかき上げながら気持ち良さそうに目を細める花織の表情は、さっきまでとは打って変わって色気を感じるほどの大人っぽい表情、そんな仕草に健斗の心臓がさらに早打ちを始め、動揺を隠すように視線を虚空に向ける。

子供っぽいと思ったら大人っぽい仕草を見せる……これは違反だろう?

「ウ……ウン、暖かくなってきた……ですね?」

まるでエイトビートを刻んでいるような心臓を押さえつける様に言う健斗だが、言葉のところどころにそれが表れてしまっているようだ。

「ウフ、ちょっと遠回りして帰らない?」

その台詞とともに、健斗の腕には柔らかくも温かな物が触れられ、それに健斗が視線を向けると、そこには花織の腕が絡められていた。

「うわぁっ!」

飛びのく勢いで健斗はその腕を振りほどき、焦った顔を素直に浮かべながらそんな行為をしてきた花織の事を見据える。

か、花織先輩? それって付き合っている男女が取る行為なんじゃないですか? 俺たちは別に付き合っているわけでもなく、ただの先輩後輩という間柄なんですよ? そんな不用意に腕なんて組んでいいものなのですか?

高校三年間、いや、生まれてこの方異性と付き合った事のない健斗は、そんな花織の行動に目を白黒させ、口をパクパクさせている。

「なっ? 何、どうかしたの?」

そんな過敏なほどまでの健斗の反応に、こちらも驚いた表情を見せる花織は少し考え、今度は意地悪い表情を浮かべると、抱きつくような勢いで再び健斗の腕を取る。

「健ちゃんは、女の子と付き合った事がないのかな?」

 二十センチぐらいの身長差なのであろうか、意地の悪い顔をしている花織の顔はちょうど健斗の肩先にあり、そのお互いの顔の距離はその身長差イコールぐらいまで近づいている。

「……ウン、そのぉ……無い……です。それに、俺にはあまりそういうのに興味がないッス」

腕に触れる柔らかい感触の正体に気がついた健斗は、それに対して体中の血液が顔に集中しているのがよくわかり、自分の体温は確実に上昇するのと同時に、先ほどから高鳴っている胸の鼓動は十六ビートまで跳ね上がっている。

同じ人間なのに、女の人ってこんなにも柔らかいのかぁ……。

生まれて初めてと言っていい女性のその感触に、健斗の顔は既に赤を通り越して、赤紫色のようにまでなっている。

「あら? 興味がないなんて聞き捨てならないわねぇ……もしかして、なにか女ですごく嫌な思いをした過去があるとかなのかな?」

あまりにも無頓着(実はそれどころでは無いのだが)な健斗の言い回しと、その年代にしてはウブ過ぎるその反応に、花織はそれまでの意地悪い表情を無くし、ちょっと心配そうな顔をしながら健斗の顔を覗き込む。

「いや、そんな事は無いけれど……なんだろう、タイミングが悪いんッスかね?」

健斗の脳裏には、卒業式に見た美音の泣き顔が一瞬浮かび上がる。

別に女に興味がないとか、恋愛で手痛い仕打ちを受けたとか、そういうのではない。人並みに初恋もしたし、女の子を好きになった事もあるが、それぞれが恋愛にまで発展した事は無かった。俺の中での恋愛感というのはそれが当たり前のような気になっていたけれど、美音の登場によって少しずつだが変わってきているのは自分でも分かる。

ボンヤリとしている健斗の視線は、まるで遠くの過去を見るようなものに変わっており、そんな健斗の顔を花織は心配そうにジッと覗き込んでいる。

美音においては恋愛感情という以前の問題だよな? 彼女とはじめて出会ったその頃には、既に俺の中にある恋愛というものは物語の中でしか行われないものだと思っていた。ネクラと言われれば否定ができないが、少なくとも自分の持っている世界ではそうだった。そして彼女に告白されて、自分の中での恋愛感というものが徐々にだが出来始めてきているのも事実であろう。しかし、それが急に発展するという事があるとは思っていない。お互い住んでいる場所が離れているし、何よりも俺の気持ちがまだはっきりしていないというのも事実だ。彼女の事が好きか嫌いかと問われれば、俺は好きと答えるであろうが、果たしてその『好き』が俺の中で『LIKE』なのか『LOVE』なのかと問われてしまうと答えに窮してしまうであろう。

『すぐにあたしと付き合ってくださいなんて言いません、ただ先輩の記憶の中にあたしを残してくれて、もしも彼女の候補になる事ができるのであれば、あたしは嬉しいです』

 それまで泣き荒んでいた彼女は、最後に俺に対してそう言い、ニッコリと微笑みながら俺に手を振ってくれた……俺の気持ちを聞こうとしないで。

「そうなの? でも、確かにそうかもしれないわね? 恋愛なんていうものはタイミングが全てかもしれないな? 早すぎたり遅すぎたり、思い返せば後悔の繰り返しよ……」

少し難しい顔をしている健斗の事を見上げていた花織は、思案顔を浮かべ視線を宙に泳がせるが、やがてニコッとした優しい微笑を浮かべて、再びその視線を健斗に向ける。

「でもね、弱気になっていたらはじまらないじゃない? いつだって後悔はしたくないし、同じ過ちを繰り返したくもないよ」

花織のその一言に、健斗の胸は何かに突かれたような気持ちになる。

後悔をしたくないかぁ……恋愛で……美音も確かあの時に同じ事を言っていたよな? 後悔したくないから告白しますって、意外に俺の方が逃げていたんじゃないかな? 己が傷付きたくないとか、人を傷付けたくないとか綺麗な事を言いながら。

「――そうかもしれませんね? 後ろを向くよりも前を向きたい……人間は前を向いて歩いてゆく生き物、だから向上心が生まれて、豊かになっていく……夢もこれ然り」

 高校の文芸部の顧問に言われた言葉が健斗の口から自然とこぼれ、花織が見るその顔にはどこか納得したようなそんな表情を浮かべていた。

いつの間にか逃げ腰になっていたのかな? うまくいかないって。

「ウフ、何か吹っ切れたのかな?」

さらに身体を押し付けてくる花織に、健斗のそれまで毅然としていた表情が崩れ、その顔は再び紅潮し、少し身体をひねるが、花織のその身体が健斗の身体から離れる事は無く、心地いい温かさが健斗の身体に流れ込んでくる。

「いや別に……ちょっと考え事をしていただけ……です」

 逃げ腰になりながら言う健斗の顔を、花織はどこか納得したような表情をしながら見上げ、意地の悪い表情を浮かべる。

「ふーん……」

 鼻で答えながら、花織は何かを考えるようにその視線を足元に落とす。

「ねぇ、健ちゃんは東京に彼女とかいなかったの?」

いきなりの質問に、健斗の眼が大きく見開きながら、どこと無くモジモジしている花織の事を見下ろすと、その表情はよく見えないものの、耳が少し赤らんでいるようにも見える。

「――いないッス……さっきも言ったとおりに自分でもまだわかっていないんです」

 美音はまだ俺の彼女でもなんでもない友達の一人だ、彼女の気持ちは受け取ったけれども、俺の気持ちがまだはっきりしていないから正直何といっていいかわからない……少なくとも俺がそんな買い被ったような事を言える立場では無い事だけは間違いないはずだ。

 少し間を開けながらも健斗がそう言うと、それまでうつむいていた花織の顔が一気に健斗に向く、その表情はやはり驚いたような疑い深いような不思議な顔をしている。

「本当にぃ?」

疑い深く目を眇めながら花織は健斗の顔を見るが、そんな表情の中にも少し嬉しそうなものが所々に散りばめられているようにも見える。

「本当ですよ……」

 自嘲したような顔をしている健斗の顔を見据えている花織は、肩から力が抜けたような柔らかな笑みを浮かべている。

「――まぁ、別にいてもいなくってもいいけれどね?」

妙にサバサバした表情を浮かべながら花織は絡めていた腕を解き、健斗の正面にまるで立ち塞がる様に立ち止まりその眼を正面から上目遣いに見上げる。

「?」

 そんな花織の行動に、健斗の頭にはクエスチョンマークしか浮かび上がってこないで、キョトンとした顔をしてその幼いような大人っぽいような顔を見下ろす。

「だってさ? いまあたしが健ちゃんの一番近くにいるんでしょ? だから、どうであれあたしがいまの状況では一番有利なんだなって……」

そう言い顔を上げた花織の目は熱い瞳をしているように見えるが、健斗には彼女の言わんとする事がいまいち理解出来ずに首をひねる。

『メール着信中! 即刻返信せよ! メール着信中! 即刻……』

二人の間に微妙な空気が流れている最中、いきなり健斗の携帯がメールの着信を知らせ、健斗は内心それに感謝をするが、すぐにそのメールが誰からなのかの疑問がわきあがってくる。

「ん? 珍しいなぁ、めったにメールなんて来ないのに……誰だ?」

わざとらしい言い回しをしながら携帯を取り出し、発信先を見て思わずそれを花織から隠すように身をよじる、そのメールの発信者は美音からだった。

「誰からなの?」

花織はその携帯を覗き込むように首を突っ込んでくるが、健斗がなんとなくそのメールを隠してしまうのは、さっき『彼女はいない』といった事への背徳感からなのだろうか? それとも花織にその存在を隠したく思う無意識のためなのだろうか?

「う、うん、高校の時の友達からです、たまにこうやってメールくれる奴がいるんですよ」

 嘘はついていないよな?

 健斗はその携帯を折りたたむと少し慌てたようにそれをポケットにねじ込み、花織の顔に微笑みかけるが、その笑みはどこか引きつっており、それを感じ取ったのか花織の表情にも少し不満そうな色が浮かんでいる。

「そう? まぁ別にいいわ、さてと……こうやって一緒にいられる時間というものはすぐに過ぎちゃうのね? もうこんな所まで来ちゃった……」

そう言いながら花織はアパートに向かう曲がり角を恨めしそうに睨む。

「あはは、そうですね?」

軽くその言葉を流しながら、軽く手を上げ花織に別れを告げようとすると、花織が健斗の袖口を引き見上げてくる、その瞳はどこか潤んでいるようにも見える。

「エッと……」

 普段はこういうまどろこしい言い方をしない花織が珍しく言いよどみながら、視線を自分の足元に落とし健斗の袖を引いている指も忙しなくうごめいているが、やがてその動きがピタリと止まったかと思うと、その顔が真っ直ぐに健斗を見上げてくる。

「あたし……レイヤーなの……」

 何かを告白するように言う花織の顔は、茹で上がっている花咲ガニのように真っ赤だ。

 レイヤーって……コスプレが好きな人という意味なのかな? ちょっと意外なような気がするけれど、花織先輩がmasにいる理由が意味づけられるな?

「だから……特殊な女なのかもしれないけれど、でも! 一人の女として……」

 あれ? このパターンって、俺がよく書く小説の一説にあるパターンだよなぁ……このままで行けば、俺はすごく羨ましい登場人物になるというパターン……まさかだよな?

「――あのぉ、花織……さん?」

「花織!」

「ハイ! それで……花織?」

 健斗にダメ出しをしながらも、花織はその湯気が立ち上っているような顔を上げようとはせずにうつむいたままでいる。

「そのぉ〜特殊ではあるけれど、人の事を思う気持ちは他の一般の人間と変わらないつもりでいる、だから……だから…………あたしはあなたの事が非常に気になる存在という事!」

 そういい残した花織は、一目散に自分のアパートに向かって駆け出してゆく。



「いったい俺は、どういう風に受け取ったらいいのだろうか……」

 花織と別れ、とぼとぼと自宅である黒石家に向かう道すがら、何度目なのか分からないため息と共に、健斗はついそう呟いてしまう。

 俺の事が気になる存在というのは、そう受け取っていいのかなぁ……でもな、相手はあの花織先輩だぜ? それはちょっと自惚れが過ぎるような気もするし……たぶん、masの小説班に入った人間という事でそれでちょっと面白い人材とかを考えているんじゃないのかな? でも、それだったらそんな回りくどい言い方をしないよなぁ……たぶん……だったら、俺は花織先輩の言葉をどう捉えればいいんだよ! 俺が思った通りに受け取っていいのか?

 ガシガシと頭を掻きながら歩いていると、大学の近くでは片側一車線だった道が、急に二車線になると、それに併せたように車の量が増え始め、お店やコンビニが増えはじめると黒石家は目前だが、それすらも気にしないように健斗はため息を吐き出すが、桜がようやく開花し、最低気温も氷点下にならなくなり始めた気候はその息を白く濁す事はなくなっている。

 春だから……なのかなぁ……アハハ、春の珍事って……自分で言ってヘコんだぜ。

 通い慣れているコンビニの脇の道を入ると、すぐ右手に、深緑色の屋根が特徴的な黒石家の大きな佇まいが目に入ってくる。

第八話へ。