第八話 健斗の気持



=T=

「おにいちゃん、お帰りぃー」

元気なく玄関を開けると、リビングから知果が笑顔で顔を覗かせながら迎えてくれる。ちょうど知果も今帰ってきたばかりなのだろう、まだ真新しい明和大付属中学校の制服であるセーラー服を着たままでいる。

「うん……ただいま……」

しかし、考え事をしているがために、知果のその姿に動じる事のない健斗は、お座なりにそれに答えながら、自室のある二階に上がってゆく。

「ちょ、ちょっと、おにいちゃん?」

 虚を衝かれたような顔をしている知果は、階段を力なく上ってゆく健斗の背中を見つめるが、それが、知果を向く事は無く、その目は怪訝に見上げるだけだった。

なんだか背後から知果ちゃんの声が聞こえたような気がするけれど、いまは申し訳ないけれどそれに答える気力がないんだよ……なんだか今日一日だけでものすごく疲れたような気がするんだ、精神的に……ものすごく。

 自分の部屋の扉を開き、朝起きた時と同じ状況になっているベッドに、ヘンな疲れ方をしている自分の身体を投げ出すと、中学一年から使っている年季のこもったベッドのスプリングがキィッという耳障りな悲鳴をあげる。

「ふぅ……」

春だというのに、何でこんな憂鬱な気持ちにならなければいけないんだろう……美音は単刀直入に告白をしてきたからわかったとして、さっきの花織先輩の一言だ……あまりそういう場面には慣れていないけれども、恐らく彼女の言いたかった事は、美音のそれと同じと考えて良いのかもしれないよな? でも、そうだったらどうするんだ? それに対して俺は明確な答えを出す事ができるのか? 高校時代にずっと一緒にいた美音に出さえ明確な答えが出す事ができなかったのに、つい最近知り合った花織先輩に対して出せるわけがない……俺って、こんな中途半端な気持ちでいいのかな? いま自分の事がすごく嫌な存在に思えてくる。

眼を瞑るとさっきまで一緒だった幼さと大人っぽさを持った先輩の顔と、学校で一、二を争う美少女の顔が交互に浮かび上がってくるような気がして、健斗は枕に乗せたその頭をグルグルと横に振りそれを排除しようとする。

なんだかイヤだな? 俺ってこんなに優柔不断な男だったのか? 怯えている……そうだな、慣れていない事が身の回りで起きて、それに怯えているのかもしれない、恋愛なんていうものに無縁だったために……それよりも、こんな男のどこがいいんだろう美音や、花織先輩は……。

違う事を考えようと健斗はベッドから立ち上がり、読みかけだった小説を手にすると不意にその脳裏に琴音の嬉しそうな笑顔が浮かんでくる。

な、なんだって琴音の顔が? そうか……この小説のせいだな?

引越し荷物を片付けている時に琴音に貸して、彼女が喜んで一気に読みきってしまった小説の続編が、いま健斗が読んでいる小説だった。

そういえば、この小説に出てくる主人公の男の子もえらく優柔不断だったよな? 読み始めた時は、この主人公が羨ましくとも思っていたけれど、いまとなっては同情の念すら浮かんできているかも……なんでなんだろう、気がつけば俺も同じような事をしているような気がする。そんな事がきっと琴音に気づかれたら絶対に『最低男!』って罵詈雑言を浴びせられるのは間違いないだろうなぁ……それもちょっとヘコむかも……って、琴音にそう言われるのはいつもの事だろ? いまさらヘコむ事は無いだろう、むしろ、美音に冷たい目をしながら言われた方が厳しいかもしれないぜ……って、そうだ。

頭を振りながら本に挟んだしおりに手を伸ばしていた健斗は、それを外さないでそのまま閉じ、放り投げ出されているジャケットを、かったるそうに引きずり寄せる。

「メール……美音からメールが来ていたんだ」

健斗はさっきの美音からメールの事を思い出し、ジャケットのポケットに入ったままになっていた携帯を取り出すとそれを開き、masのメンバーや高校時代の悪友たちから来ている色々なメールの中から、美音からの物を探し出す。

《先輩、元気?》

メールのタイトルは、いつも明るい美音らしいものだった。

なんでなんだろうか、美音とメールのやり取りを始めたのは昨日今日じゃあないのに、彼女からのメールにこんなにドキドキしているんだろうか……。

今でも毎日ではないものの、一週間に数回はやり取りをしている美音とのメールに、今日に限っては胸が高鳴っている事に首を傾げる。

《元気にしていますか先輩? 美音は(あいかわらず)元気ですよぉ(笑)。ついでに文芸部の皆も元気です(あくまでもついでです)。今日も文化祭に発表する作品の打ち合わせをみんなでしました。今回のお題は『恋愛』です。先輩の得意とする分野ですよね? あたしも頑張りますよぉ〜(エッヘン)。でも、先輩と一緒に物語の内容を話し合う事ができないのがちょっと寂しいかな? なぁんてエヘへ……函館で桜が開花したと東京のニュースでもやっていました。東京では既に散って、もう葉桜になってしまっているのにね? やっぱりなんだかんだいっても遠いのかな? 東京と函館は……(涙)。でも、ビッグニュースですよぉ! なぁんと夏休みには先輩に会いに函館に行く事ができそうです(バイトを一生懸命やってお金を貯めたんですよぉ〜)その時は函館の街を案内してくださいね? それでは。PS、新しい小説が出来たら先輩のPCの方にメールしますね、ぜひとも先輩の感想をお願いします。美音》

 顔文字や絵文字が色々な所に使われている美音のメールを何度と無く眺めるが、その内容に健斗は携帯を持つ手に力がこめられる。

「フーンそっかぁ、来るのかこっちに……」

そっけない言い方で呟くものの、健斗のその顔には本人の気が付かない笑顔が膨らんでおり、傍から見るとちょっと不気味にさえ見えるかもしれない。

美音が……この街に来る。

それまで花織や琴音の顔が思い浮かんでいた頭の中には、文芸部時代に二人で作品を考えながら頭をつき合わせている時の様子や、二人で小説家になりたいという夢を語り合っている美音の眩いばかりの笑顔……そうして……、

『あたし、茅沼先輩の事が好きです……』

 コートが邪魔くさく感じるほどに暖かな高校卒業の日、桜の散る体育館裏で目に涙を湛えながら、そう言いながら健斗の顔を見上げている美音の顔。

 やっぱり俺は美音の事が好きなのかな? 彼女が遊びに来てくれるというだけでこんなにも気分が変わってしまうぐらいなのだから……。

 健斗は美音から何度か着ているメールを再度読み返す。それに綴られている文字は、美音の書く小説を思い浮かべさせられるような内容の物もあれば、いまどきの女子高生のように愚痴っぽい物もあるが、全てのメールに書かれているのは、

《東京と函館は遠いよ……》

 そうだな? 確かに遠いよ、東京は……もしも、自分の好きな人が遠い空の元にいて、その人の気持ちがわからないのであれば、きっと心配で仕方が無いはずだ。その人が自分の知らない土地でどう暮らしているのか、もしも、その人に好きな人ができてしまったらとか考えるときがきでは無いと思う。その気持ちが、彼女がいつも綴っているこの言葉に凝縮されているのだろう『東京と函館は遠い』というのが彼女の本心なのだと思う。

「おにいちゃーん、東京から手紙が来ているよ?」

階下から聞こえる知果の呼ぶ声に、さっきまでの不機嫌そうな様子はすっかり消え、機嫌良さそうな顔をして携帯を折りたたみ、ベッドから飛び起きる。

「はいよ、今いくよ」

 ベッドから起き上がると、再び年季の入ったベッドはキィッと悲鳴をあげるが、今回はそんなに耳障りにも感じないのは、気の持ちようというやつなのであろう、その場に足がついていないような軽い足取りで階段を下りる健斗がたてるその音は、まさにリズミカルにトントンと軽やかな音を立てている。

我ながら単純だと思うよ、美音が俺の事を慕ってくれて、わざわざ函館まで来てくれるという事だけで、こんなにも上機嫌になるなんて思っていなかった……やっぱり俺の気持ちというのは美音なのかもしれない、離れてはじめてわかったような気がするな? 夏に美音が訪れてくれた時にちゃんとした答えを出そう……俺の気持ちを彼女に伝えよう。



=U=

「さんきゅ」

健斗が声をかけるリビングには、さっきのセーラー服姿から部屋着のフリースのスウェットに着替えた知果がソファーに転がり、メロンパンを咥えながら健斗の部屋から持ち出した文庫本に視線を落としたままテーブルの上を指で差すと、そこには色気も何も無い業務用の茶色い封筒が置かれている事に気がつく。

まぁ食べたい盛りというのは俺も含めていえる事なんだけれど、少しは太ると言う事を気にするお年頃になるんじゃないのかな? 知果ちゃんは……。

「恵比寿堂?」

封筒の裏にはそう印刷されており、確かにその宛名は健斗になっているが、送り先であるその名前に対する記憶が曖昧な健斗は一瞬首を傾げるが、それに思い当たる節があったのであろう、ややあってその顔に押し殺したような笑顔を浮かび上がり、それに気がついた知果がキョトンとした顔をして健斗の顔を覗きこむ。

「なに屋さんなの?」

文章のきりがよくなったのか、知果は体を起こしてソファーに腰掛けながら、ほくそ笑むような表情を浮かべながら封筒を見つめている健斗の横にちょこんと座り覗き込んでくる。

「出版会社だよ、以前にここの小説大賞に投稿して、確かいい線までいっていたはずだ、わざわざ手紙を送ってくるという事は、もしかして……」

淡い期待と膨大な夢を見ながら、健斗は慌ててその封筒を開けて、中に入っていた便箋に視線を巡らせるが、すぐにその動きがフリーズする。

「ネネ、なんだって?」

嬉々とした表情で知果が健斗の顔を覗きこんでくるが、凍てついた顔をしている健斗の表情に、その顔を曇らせる。

「ハハ、だめだぁ、落選だぁ……」

諦め顔をしながら健斗はその手紙をテーブルの上に投げ出し、無意識に肩に入っていた力を抜き、ヘンに疲れた体をソファーに投げ出す。

俺にはやっぱり才能がないのかな? これで何回目だろう落選したのは……今回の作品はちょっと自信があったんだけれどやっぱりダメだったかぁ。なんだか心配になってくるよ、高校の頃に書いた作品は結構面白いとか言われて、同人誌でもそれなりに人気があったものの、やはり商業誌というかプロというのは甘くないなぁ。

両手を頭の後ろで組み、仏頂面を作りながらため息を吐き出している健斗の顔を、知果が少し心配そうな顔をして見下ろしてくる。

「そっかぁ、残念だったね? でも、つぎも頑張ろうよ、ね? おにいちゃんの夢なんだから、その夢が叶うようにボクも一生懸命応援するから!」

ニィーッと口を横に広げながら、知果は元気付けるように健斗のおでこに指を置く。

 夢を叶えるためかぁ……そうだな? 諦めてしまえばその夢は潰えてしまう。諦めなければいずれはその夢は現実となるはずだ、今はそれを信じよう。

 一瞬頭に浮かんだ諦めを知果に諭されたような気になり、健斗はソファーに埋もれていた体を起こして知果の小さな頭に手を乗せる。

「アハハ、サンキュー知果ちゃん、頑張るぞ!」

 おどけたように言う健斗の顔を見上げる知果の頬は、少し赤みが差し、恥ずかしそうにその視線を辺りに向いたり健斗に向いたりしている。

「健斗クン帰ったの?」

 キッチンで洗い物でもしていたのだろうか、深雪がエプロンで手を拭きながら、笑顔を浮かべて顔を出し、その笑顔に健斗も笑顔で答える。

「はい、ただいま帰りました」

 それまで自分の頭の上に置かれていた健斗の手が無くなり、それまで嬉しそうに目を細めていた知果は不満げに頬を少し膨らませている。

「エッとぉ、そうしたら健斗クンにお願いしちゃおうかな?」

 少し考えるようにしながら、深雪は健斗の顔を小首傾げながら見据えてくると、健斗にはその『お願い』の内容がわかり、ソファーから立ち上がる。

「了解です。どこまで買い物に行けばいいんですか?」

 全てお見通しといった感じの健斗の一言に、深雪はその年齢を感じさせないような仕草をみせながら桜色をした舌をペロリと覗かせる。

 ハハ、まるで高校生のようだぜ深雪さんって、琴音たちと同じ制服を着ていても恐らく何も違和感無いかもしれないよな? 似合っちゃったりして……タハハ。

 頬を少し赤らめる健斗の顔を、知果は怪訝な顔をして見上げる。

「エヘヘ、わかっちゃった? 昨日の夜からちょっと立て込んじゃって、夕飯の支度を何もしていないのよぉ、作る時間も取れそうにも無いから、健斗クンの好きなお惣菜でかまわないから買ってきてくれないかしら?」

 在宅で知り合いの経理関係のデータ処理の仕事をしている(自称パート)深雪は、どうやらそれがまだ終わっていないようで、健斗の同意が得られるとエプロン姿のままで書斎と呼ばれている一角にすぐに姿を消す。

「昨日の夜に急に仕事が来たんだって、しかも納期ギリギリのやつが……お母さんったら、お昼もろくに食べないでやっているみたい……」

 隣にいる知果が心配そうな顔をして、深雪の消えていった書斎スペースに視線を向けると、マウスとテンキーを扱いながらディスプレーを睨み付けている。



=V=

「知果ちゃんのお勧めは?」

 七人乗りのワンボックスカーに乗っているのは知果と健斗の二人だけ。もったいないような気がするが、小さな軽自動車は深雪専用車両となっているために、やむを得ず健斗が使用できるのはこのワンボックスになってしまう。

「ボクは『ハセガワストア』の『やきとり弁当』がお勧めかな? ボク大好きなんだよねぇ〜」

 幸せそうな顔をする知果は、今にも舌なめずりしそうな勢いで身を乗り出すが、健斗はその意味がわからず、ハンドルを握りながらも首を傾げる。

「やきとり? それをお弁当にしているの?」

 健斗の頭に浮かんでいるのは、よく居酒屋などでサラリーマンのお父さん御用達の串焼きが浮かび上がり、それと弁当のコラボレーションが、いまいち理解できないような顔をする。

 焼き鳥といったらお酒の肴人気ランキングの上位に必ず顔を見せるやつだよな? それが弁当になっている? ちょっと物足りないかも……むしろ、焼き鳥だけでキュッと……って、お酒は二十歳になってからだよね?

 まだ二十歳になっていないものの、それなりにお酒というものがどういうものか知っている健斗は、つい甘辛いタレに浸かっている焼き鳥を想像し、ペロッと唇を舐めてしまう。

「アハ、おにいちゃんも勘違いしているな? 焼き鳥といっても函館の焼き鳥は違うんだよ?」

 楽しそうに笑う知果に、健斗の首はさらに傾ぐ。

「だって、焼き鳥は焼き鳥だろ? どう違うんだ?」

 前の車のブレーキランプに気がつき健斗はゆっくりとブレーキを踏み、助手席の知果の顔を覗き込むが、その顔は楽しそうに微笑んでいるだけだった。

「エヘへ、『ハセスト』の『とり弁』は焼き鳥じゃなくって『豚精肉』を使っているんだよ? 良くお店の人は内地(本州)の人に『豚肉なのになんで焼き鳥なの?』って聞かれるらしいわね? 確かにちょっと不思議かもしれないけれど、ここ函館のある道南地区で『焼き鳥』といったら『豚精肉』なの。それの由来は諸説色々あるけれど、鶏肉よりも豚肉が安く手に入るというのが一番の理由かもしれないなぁ、あと、厳しいこの土地で働く人たちには、疲労回復に効果があると言われているビタミンB1が多く含まれている『精肉』に着目したのかも……函館を代表する映画の『居酒屋兆治』で高倉健さんが焼いていたのも、この『豚精肉』なのよ?」

 自信満々に話す知果の言葉に、健斗はただヘェッと感心するしかできないでいた。

 なるほどねぇ、そういう理由があるとは知らなかった、ちょっと食べてみたいなという食指は動くかもしれないけれど、少なくともそれは『弁当』であって『惣菜』では無いと思うよ、いま俺らが買いに行かなければいけないのは……。

 家を出てくる時に炊飯器を確認した所、忙しい中でも深雪は米を研いでいたのであろう、きちんとその中には炊き立てのご飯が入っていた事を健斗は確認してあった。

「確かにそれも魅力的かもしれないけれどね? でも、忙しい中せっかくご飯を深雪さんが炊いてくれているんだから、弁当というのもどうかな?」

 弁当を買って、せっかく炊いてくれたご飯を食べないと言うのは、どこか深雪さんに申し訳ないような気がするよ。

 知果はそんな健斗の意見に対して同じ事を考えたのであろう、『そっか』と呟いたかと思うと助手席で腕を組みながら思案顔を浮かべる。

「でも、今日は琴姉ちゃん部活で遅くなるって言っていたし……どぉしよう」

 おいおい、自分で作るという発想は出てこないのかい? 知果ちゃん……確かにまだ子供とはいえども、もう中学一年生の女の子なんだから、少しは自分で作るという案が出てきてもおかしくないんだけれど……。

「――仕方がない、カレーライスでいいかい?」

 健斗の発案に、知果は大きな瞳をさらに大きくして、車の中という事を忘れたようにその顔を覗き込んでくるが、その小さな頭は車の進行方向に陰を作り危険極まりない。

「カレーライス? 確かに調理実習で作った事はあるけれど、その時は友達に『ジッと見ているだけで良い』って言われたのよねぇ……」

 ――調理実習で戦力外通告ですか? 知果ちゃんの作る料理にはちょっと危険な香りがするかもしれないなぁ……今後気をつけよう。

 シュンとした顔をしている知果の頭に、健斗は手を乗せながら笑顔を浮かべる。

「カレーぐらいだったら俺が作れるよ。中一の時から六年間も一人暮らしをしているんだ、苦手なりにもレパートリーの一つや二つはあるよ、ただ片付けが嫌いだから滅多には作らないけれどね? たまに友達にも振舞ったりする事だってあるんだぜ?」

 高校生のもなると、一人暮らしの友達というのが希少なのであろう、友達が良く遊びに来ては青少年が飲んではいけない飲料水を飲んだり、見てはいけないビデオを見たりしていて、その時に作ったりもしたものだ。

「ヘェ……ちょっと意外かも…………でも、その友達って……」

 ニヘラッと笑いながら知果は、小指を立てて、ズイッと健斗に突き出す。

「付き合っている彼女だったりする? そのままお泊りコースで、一緒に仲良くお風呂になんか入っちゃって……イヤン、おにいちゃんったら大胆なんだからぁ」

 腸ねん転でも起こしているのではないかと疑いたくなるように知果は体をくねらせ、少し頬を紅潮させながら妄想にふけっている。

 おいおい、なにを想像しているんだ? まだ中学一年生だろ? そんな想像をするには五年ぐらい早いと思うぞ? いや、それ以前についこの間まで小学生だった彼女がそういう事を知っているという方が俺には驚きなんだが……いわゆる耳年間というやつなのか?



「カレーだと、ジャガイモとにんじんでしょ? あとは……豚肉?」

 知果が深雪とよく行くというスーパーは、ちょっと近未来的な造りの建物で、半信半疑といった顔で入る健斗はその品揃えに感心した顔をする。

 ほぉ、なかなかどうして、他の商材は東京にいた時と代わらないけれど、肉などの生鮮品はさすがというのか、素人目にも鮮度が良さそうに見えるし、何よりも安い。

「おにいちゃん、さすがにカレーにホッケは入れないでしょ……てか、絶対にやめていただきたいんですが……」

 鮮魚コーナーで大きな真ボッケの開きをジッと見つめている健斗に、知果は心底嫌そうな顔をしている。

 それぐらい俺だってわかっているよ、カレーにホッケはちょっと……いや、かなり合わない食材であるという事ぐらいは。

「いや、安いなぁって思って見ていただけだよ」

 苦笑いの健斗の事を、知果はニコッと微笑みながら見つめ、ポンと手を叩く。

「そうなの! 東京の物価を知っている人だったら絶対に安いと思うよね? でも、友達とかに聞くと決して安くないという答えが返ってくるの、たぶん、東京の収入と、北海道の収入の差なのかもしれないよね?」

 それは確かだろう、確かにこっちの賃金というのは、東京のそれに比べるとかなり安く感じたのは、最近バイトを探しているせいであろう。ファミレス辺りを比べると東京の時給に比べると二割ほど安い。

「まぁ、それは仕方のない事だと思うよ、店の数とかも影響しているんだろうし、東京なら需要が多いから金額も高くなるんだろう。まあ、そんな事はいいよ、早いところ食材を買って帰らないと、腹を減らせて帰ってくる琴音に怒られちゃうぜ」

 苦笑いの健斗に、知果も思い出したような顔をして、ペロッと舌を出す。

「そうだね? 買って早く帰ろう」

 豊富にそろっている食材から、健斗と知果はカレーに使うべき材料と、ペットボトル入りの飲料を買い込み、店を出ると、既に周囲は暗くなり始めている。

「ありゃ、ずいぶんと長居しちゃったのかな?」

 暗くなってきた事によって気温もだいぶ下がり始め、知果はそう言いながら首をすくめる。

「いや、天気が悪くなってきたんだな? ほら、鉛色の雲がいつの間にか垂れ込んできている。これは一雨降ってくるかも知れない、急いで帰るようにしよう」

 健斗に促されると、知果は少し不安そうな顔をする。

「確か琴姉ちゃん傘を持って行かなかったような……大丈夫かなぁ」

 運転席に乗り込む健斗の耳には、そんな知果の呟きがチラッと聞こえた。



「あちゃー、やっぱり降ってきたよ」

 黒石家まであとわずかというところで、ぽつぽつと降り出した雨は、家に着く頃には既に土砂降りの雨に変わり、車から荷物を降ろすだけでも濡れてしまうほどだった。

「あ〜ん、濡れちゃったよぉ」

 玄関先でばたばたしていると、少し疲れたような顔をしている深雪が顔を覗かせてくる。

「あらあら、雨が降ってきたのね? 知果、そんな濡れた格好をしていると風邪をひくから、お風呂に入っちゃいなさい、健斗クンはその後……それとも知果と一緒に入る?」

 ――深雪さん、いまサラッと過激な事を言いませんでしたか? 知果ちゃんだって男と一緒に風呂に入る年齢は過ぎているでしょう。

「な、なにを言っているのよお母さん、そんなのダメに決まっているじゃない」

 顔を真っ赤にし、着替えを取りに部屋に戻る知果を、深雪は楽しそうに微笑みながら見つめ、健斗が惣菜じゃないものを持っている事に怪訝な表情を浮かべる。

「あら? それは?」

「あぁ、カレーでも作ろうかと……あまり味は保障できませんけれどね? 学校給食のカレーぐらいの味なら何とか出せる自身はありますので」

 元ホテルのシェフをやっていた深雪さんには叶わないという事は重々承知の上だが、俺の持っているレパートリーはこれだけしかないため、おのずとメニューは決まってしまう。

「それは楽しみだわ、あたし学校の給食で出てきたカレーって好きだったから、じゃあ遠慮なくお願いしちゃうね?」

 ニッコリと微笑みながら、深雪は再び書斎スペースに戻ってゆく。

 ヘイ! 任されましたよと。さてと、まずは、ジャガイモの皮を剥くところからはじめないといけないよな? 包丁と……。

 若干ギクシャクとした動きではあるが、キッチンの中で健斗が動き回るたびに、徐々にそこにはいい匂いが立ち込め始める。

 後は市販のカレールーを割って入れて、よくかき混ぜれば大体完成だ。

「おにいちゃん、カレーのいい匂いがお風呂場までしていたよ? どれどれ……わぁ、美味しそうな匂い。もう完成?」

 風呂上りの知果は、いつものツインテールをほどき、タオルでその頭をゴシゴシと拭きながら鍋をかき回している健斗の手元を覗き込んでくるが、その瞬間、フワッとした石鹸の香りがその鼻腔の中に広がる。

 おぉ、子供とはいえ知果ちゃんも女の子なんだなぁ。

「いや、もう少し弱火で焦がさないように火に掛けておいた方が美味しいと思う……」

 グリグリとかき回していると、黒石家の固定電話が鳴る。



=W=

「ったく……」

 舌打ちをしながら健斗は学校に向けて車を走らせている。

『この雨は、今夜中には上がるでしょう。でも、すごい雨ですよね?』

 車のラジオからは、そんなDJの声が聞こえてくるが、本当にすごい雨だ、ワイパーがあまり役に立っていないよ。

 車体に打ち付ける雨は、車内にまでその音を轟かせるほどで、道路も一部が冠水している所もあるほどだった。

 しかし、タイミングが良いのか悪いのか、琴音のやつは。ちょうどカレーが出来上がったところで電話をしてきやがって、どこかに監視カメラでも仕掛けられているんじゃないかと、本気になって周囲を見渡しちまったじゃないか。

 置き傘も無く、帰るに帰られないという電話をかけてきた琴音の事を迎えに行くというのが、今の健斗の置かれている状況である。

 確かにこの雨じゃあ、帰るに帰れないというのはわかるけれどね?

 注意深く見つめる先に、僅かであるが光っている学校の明りが見え始める。

「正面玄関で待っていろといっておいたから、あそこで待っているはずだよな?」

 学校の私有地内に入り、大きく出来上がっている水溜りを派手にまき散らしながら、健斗は琴音に伝えた場所に車を寄せると、そこには困ったような顔をした琴音が一人、軒先でポツンと立っている事が確認でき、健斗は小さくクラクションを鳴らすと、その小柄なシルエットが車に手を振っている事がわかる。

 まいったな、屋根も何もないじゃないか……。

 軒先はいくらか出ているものの、車とその軒先の間には歩道があり、当然ながらその歩道には屋根がついておらず、その距離を駆けたとしても、この土砂降りでは、かなり濡れる事が予想され、健斗は諦めたようなため息を吐き出す。

 仕方がねぇなぁ、ガンバレよ本場のアーミージャケット、お前は決して安くなかったんだから、こういう場面でその力を発揮してくれないとな?

 運転席で軽くため息をつきながら、意を決したようにその土砂降りの中に飛び込んでゆく健斗の姿を、琴音は驚いたような顔をして見つめている。

「だぁあっ! 冷てぇ……ったく、なんだってこんな土砂降りなんだか訳がわからねぇよ、ホレ! これをかぶっていればあまり濡れないと思うから、走るぞ!」

 有無を言わさぬように、健斗に頭からアーミージャケットを被らされた琴音は、キョトンとした顔でその顔を見据える。

「ちょ、ちょっと?」

 何かを言おうとする琴音の事などお構いなく、健斗は琴音の腕を引きながら車に向かう。

「だぁっ! 冷てぇ早く乗れ!」

 車のセカンドシートに押し込められるように乗り込む琴音を確認して扉を閉める健斗は、まだその身体を土砂降りの雨に晒している。

「びしょ濡れだぁ……琴音は濡れなかったか?」

 運転席に転がり込むように入ってくる健斗は、髪の毛は雨に濡れてペチャっとして、着ているシャツも濡れて肌を透かせている。

「あ、あたしはちょっとだけ……健斗は随分と濡れちゃったね?」

 心配そうな顔をする琴音は、自分を雨から守ってくれた健斗のアーミージャケットを手に持ちながら、運転席で垂れてきている髪の毛をかき上げるその姿を見る。

「ハハ、ずぶ濡れだぁ……天気が良くなったらシートを乾かさないと、深雪さんに怒られちゃうかもしれないぜぇ、ったく、女の子なら置き傘ぐらいしておけよな?」

 十人いればかなり高い確率で、それを雑巾と呼ぶであろう布で頭を拭きながら、シートベルトを締め、健斗は車をスタートさせる。

「ゴメン、後輩が困っていたからつい貸しちゃって……こんなに降っているなんて思わなかったし、パラパラ程度なら濡れちゃっても良いかななんて思っていたから……だから、ゴメン」

 珍しくシュンとした顔をする琴音に、健斗もフッと笑みを浮かべる。

「珍しいじゃないか、琴音が俺に気を使うなんて……雪にならなければいいが?」

 素直に謝る事に少し戸惑う健斗は、少し照れ臭くなり琴音の事を冷かす。

「ば、馬鹿! あたしだって、一応あたしだって礼儀をわきまえている……つもりなんだから」

 アーミージャケットで顔を半分隠す琴音をバックミラーで確認する健斗は、肩をすくめながら正面を見据えながら小さく微笑む。

「ハハ、それは失礼つかまつりました。まぁいい、早いところ帰って風呂に入らないと本当に風邪をひいちゃうぜ」

 ハンドルを握りしめながら言う健斗の後姿を、琴音はアーミージャケットを握り締めながら見つめ、モゴモゴと言葉を濁す。

「――ウン、そうだね?」

「あと、今日の夕飯は俺が作ったから、心して食べるように」

 まだ鼻の中に、自分の作ったカレーの匂いが残っているような気がする。今日のやつは、結構美味しく出来たような気がするが、みんなの意見はいかに!

「エッと……どこか薬屋さんに寄った方がいいのかなぁ、近いうちにあたし記録会があるから、お腹を壊して寝込んでいる暇がないのよね?」

 琴音ぇ、お前絶対俺に対して喧嘩売っているだろう!

 バックミラーから見える健斗の表情が険しくなり、琴音は笑って誤魔化す。

第九話へ。