第九話 プレゼントの相手



=T=

「フワァー……春眠暁を覚えず、かな? 眠いぜぇ」

ベッドの中でもぞもぞと動き、そこから離れたくないという気持ちと格闘を始める。程よく温まった布団の中、寒くはない布団の外、目を開けたくないという気持ちと、目を開けて爽やかに目覚めたいという気持ち、さまざまな気持ちがそれぞれせめぎあう。

「ちょっと健斗、いつまで寝ているのよ!」

そんな格闘の最中に思いも知れない強敵が現れた、それは起きろぉ軍の助人であろう。その一声に、寝ていたぁい軍はやむなく撤退を余儀なくされた。

なにもこんな朝っぱらから、そんなにツンツンしなくたっていいだろうに……。

「ん〜、琴音かぁ」

まどろんだ健斗の視界の中には、いつもと同じように、髪の毛をポニーテールにまとめ、デニムのハーフパンツに黒のポロシャツを着て、既にいつでも外出できる格好をし、腰に手をやり呆れかえった様な顔をして健斗の顔を睨みつけている琴音の姿があった。

「まったくもぉ、『ん〜』じゃないでしょ? 早く起きてよ、外はいいお天気だよ」

この部屋の主である健斗の事を無視するように琴音は呆れ顔を浮かべながら、ズカズカと部屋の中に入り込み、大きなカーテンを勢いよく開くと、その窓の外からは気持ちのいい朝日が部屋の中に注がれる。

「あぁ、そうかぁ……」

そうだ確か今日は、琴音と買い物に行くんだったよな? といってもこんな早い時間に男の部屋に乱入してくるのはどうかと思うけれども……まぁ、今に始まった事ではないな?

諦め顔を浮かべながら、健斗はベッドの上に身を起こし、パジャマ代わりに着ているフリースのトレーナーを脱ぎはじめると、カーテンを開け終え呆れ顔を浮かべたまま振り返る琴音が、急激にその顔を真っ赤にして顔をそらせる。

「な、なにをいきなり脱ぎはじめているのよぉ〜、レディーが部屋の中にいるんだから、少しは気を使いなさいよね! じゃなかったらただの変態よ?」

 トレーナーに下には何も着ていない、ちょうど上半身裸状態の健斗の姿を見ないように、琴音は顔をそらしたまま苦言を述べる。

 変態とまで言われてしまうのか? それは酷過ぎると思いますが……それに、そこまで言うのであれば、この部屋から退出していただけると幸いなんですが?

「レディーねぇ、そのレディーは朝っぱらから男の部屋に入ってくる事は問題ないとでもおっしゃるのでしょうか? それに早く着替えろってお前が言うから……別に俺は構わんが?」

 健斗がズボンに目をやると、琴音は頭から湯気を出すような勢いで部屋を出て行く。



「おはよー」

顔を洗い、眠気を完全に拭ったところで健斗はリビングに顔を出すと、そこには琴音をはじめ、知果と深雪が既に朝食を取っている。

「おにいちゃん、おはよー、早起きだね?」

髪の毛をツインテールにして、学校の制服であるセーラー服を着た知果は、ニッコリと微笑みながら健斗に挨拶をする。

「ウン、誰かさんのおかげでね?」

嫌味を込めたような顔をしながら、健斗は琴音をチラッと見ると、まだ頬に赤味を残したままカップを傾けている。

「何よ、女の子に起こしてもらうなんて名誉な事よ?」

ハハ、名誉ねぇ?

「そういえば、今日琴姉ちゃんたちお出かけするんでしょ?」

口を尖らせ知果が残念そうな顔で言う。

「知果は学校で部活……つまらないなぁ……ボクも一緒に行きたいよ」

カップを置きながら知果は、まるでアヒルのような口をしながら、恨めしそうな顔をして、自分の着ているセーラー服を睨み下ろす。

「まだ一年生じゃあ仕方がないでしょ? 一年の時から部活をサボったりすると、後々面倒な事になるから諦めなさい」

エプロン姿の深雪が、コーヒーを健斗の前に置きながら、知果をなだめるように言うが、それだけで知果の頬の膨らみが取れるものではなかった。

「ウフ、そうそう、あたしも一年の時は、部活で先輩にしごかれたものよ? そうやって徐々に先輩になっていくものなの、知果ちゃんガンバ!」

少し意地の悪い顔をしながら琴音も笑顔を知果に送るが、知果は完全に納得していないようで、ブツブツと文句を言いながらトーストをかじっている。

確か知果ちゃんも琴音と同じ陸上部と言っていたよな? 体育会系の部活ではサボりは絶対にご法度、しかも一番下端である一年生がサボるなんて言語道断と言われるだろう。

「ぶぅ、じゃあいってきまぁ〜す」

膨れっ面のまま知果はブツブツ言いながら席を立つと、大きなスポーツバッグを持ち上げ玄関に向かうと、健斗と琴音は顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。

 大変だよな? 俺は文化系だったからそこまで厳しくなかったけれど、それでも先輩の荷物持ちぐらいはやらされたものな?

 コーヒーを口に含みながら知果に同情していると、見送りに行っていた深雪が、少し苦笑いを浮かべながらリビングに戻ってくる。

「まったく、あの娘ったら……それで、お二人さんはどこにデートに行くのかな?」

テーブルに座りホッとため息を吐き出す深雪は、意地の悪い顔をしながら健斗と琴音の顔を交互に見据えてくる。

「デッ、デートなんかじゃないですよぉ、ただ、健斗にちょっと買い物に付き合ってもらうだけで、そんなんじゃあありません!」

シドロモドロになりながらも琴音は、顔を真っ赤にしながら全身を使って、力一杯にそれを否定してくるが、もう一人の当事者である健斗は少し寂しそうな顔をしていた。

そんな全身を使って否定をしなくたっていいじゃないか、ちょっと傷付いたぞ?

「あら? それをデートって言うんじゃないのかしら?」

ハハ、俺もそう思って進言してみたんですけれど、琴音の観点では違うらしいですよ。

「だからぁ、デートって言うのは男と女で一緒に買い物をするんですけれど、でも、あたしたちは違う……いや違わないけれど……」

そんなわけのわからない討論をしているのを眺めながら、健斗はコーヒーを口に含み、その隣では、琴音がかなり疲れたような顔をして説明を続けている。

『ここ五稜郭では、桜の開花を待ちわびた人たちが訪れ……』

 ただつけっぱなしになっていたテレビから、レポーターのそんな声が聞こえ、健斗は視線をそちらに向けると、ピンク色の花を咲かせている桜の様子が映し出されている。

これか、昨日の美音のメールに書いてあったのは。もうゴールデンウィーク直前だというのに、今頃桜が開花したとは、やっぱりここは北国なんだな? 高校の卒業式の時に東京の桜を見て、その年のゴールデンウィークに函館でもう一度桜を見るとは思わなかった。美音じゃないけれど、やっぱり遠いなぁ、東京と函館って。

「ちょうどゴールデンウィーク頃が見ごろになりそうね?」

喧々諤々と琴音とのやり取りをしていた深雪が、にこやかな顔をしながら健斗に声をかけてくるという事は、どうやら年の功で深雪の勝利で終わったらしい。少し離れた所に座っている琴音は、負けを認めるようにがっくりとうなだれている。

少し琴音が可哀想かな? だてに年輪を重ねていないと言うのか、深雪さんのあの理路整然とした質問に立ち向かえるはずがないよ……きっと俺だって打ち負かされるのが目に見えるぜ。

「今頃なんですね?桜」

少し同情したような視線で健斗は琴音をチラッと見つつ、テレビに映る桜を眺める。

「そう、例年通りね? こっちの桜はゴールデンウィークが見頃になるのよ」

桜の下で、美菜に告白されて、二人は離れ離れになった……その桜をゴールデンウィークに函館も街でもう一度見るのかぁ。

「どうかしたの?」

テレビに映る桜を、感慨深げに見つめている健斗に琴音が声をかけてくる。



=U=

「それで、どこに行くんだ? 俺は函館初心者なんだから、あまりややこしい所には行けないからそのつもりでいてくれよ?」

車のエンジンをかけながら、健斗は助手席に座る琴音に声をかけると、その当人である琴音は、少し困ったような顔をしている。

「ウン、どこと言われても、まだ決めていないのよねぇ」

照れ臭そうな顔で琴音はそういうが、運転席に座る健斗は呆れたような顔をしている。

「あのなぁ……付き合えって言ったのは琴音の方だろ? 発案者が悩んでいたら、随行者はもっと困ってしまうぞ?」

拍子抜けした顔で健斗は琴音を見る、その横顔は困ったような表情のままで、本気で悩んでいる、そういった表情がうかがい知れる。

「わかっているわよぉ……わかっているんだけれど……ねぇ、健斗は女の子から貰うプレゼントで一番嬉しいのは何かなぁ?」

はぁ? なんだいそれは……。

とりあえず健斗は車を走らせながらも、琴音の言った意味をなかなか理解できず、首を傾げながらハンドルを握る。

「それは『プレゼントをもらうなら何がいい』という風に理解してもいいのかな?」

なんで? なんだって琴音からプレゼントを貰えるんだ? 特に親しいわけでもないし、むしろいつも文句を言われっぱなしなんだから、そんな事はまずありえない。だとしたら、いったい誰なんだ? そのプレゼントの相手は……。

「ウン、そう……だからといって誤解しないでよね? 最初に言っておきますけれど、別にあなたにプレゼントする訳じゃないの。男の人にプレゼントをするというのが……そのぉ、初めてみたいなものだし……どういうのがいいのかを男の人に意見を聞くのもいいのかなって思ったから……でも、相談できる男の人って健斗しかいないし……」

まるで、車の床にしゃがみこんでしまいそうな勢いで、琴音は顔を赤くしながらうつむき、運転席に座る健斗の顔は、どこか不満げな表情を浮かべている。

「フーン、なるほどね……」

何とか冷静を保ったように健斗は鼻で答えるが、ちょっと心中は穏やかではなかった。

そっか、男にプレゼントねぇ。それの買い物に俺を付き合せるなんて、本当になんとも思われていないんだな? なんだかつまらないなぁ、って、なんで俺が怒らなければいけないんだ?

「ごめんね、健斗……もしかして怒っちゃった?」

申し訳なさそうな声を上げるが、その表情を見る事は今の健斗にはできず、なんとか平穏そうに表情を作り上げるものの、健斗の握るハンドルからは、無意識に力をこめたせいなのか、ギリッという音がする。

「別に怒りはしないよ、なんだって俺が怒る必要があるんだ?」

前の車に続きながら車をスタートさせながら、シラをきるように言うが、その半面でちょっときつい言い方だったかなと、健斗は言った直後に後悔する。

別に俺が関係する事じゃない。琴音だって比較的可愛い分類に入る女の子なんだから、ボーイフレンドだっているだろうし、その……恋人ぐらいいるだろう。

その考えに至った時点で健斗は、自分では気がついていないのかもしれないが、かなり険しい顔をして正面を向いていた。

「そっか……そうよね、とりあえず函館駅に向かいましょうか」

それに気がついたのか琴音は正面を見つめなおし、少し寂しそうな顔をしながらその視線を、窓の外に向け、その口はあまり語らなくなる。

そうだよな? どうせ俺はついこの間函館に来たばかりの人間だ。俺が知っている琴音なんてたかが数週間だけ……そんな人間が口を挟む事なんてできるはずがない。って、なんでこんなにモヤモヤした気持ちになるんだ俺は? 別に関係ないだろう、琴音がどうであれ……。

深いため息を吐く健斗に、一瞬琴音が視線を向けてくるが、その視線は、目の前でいきなりウィンカーを立てて止まってしまう車に向いていた。

ったく、曲がりたいんだったら、事前に自分の行きたい方向を意思表示してくれよ!



「それで? その相手はどんなやつなんだ」

函館駅前にある『棒二森屋(通称ボーニさん)』の駐車場から、本館に向かって歩きながら、琴音に声をかける。車の中からなんだかちょっと気まずい雰囲気が流れていることは確かだが、このままずっとお互いに気まずいままでは息が詰まってしまう。

四階と五階の中間にある連絡橋から華やかな感じのする店内に入り、健斗は後ろを歩いている琴音に振り返りながら声をかけると、琴音の顔も少しホッとしたようなものに変わる。

「どんなって……うーん、一言で言えば真面目なのかな? 仕事一筋だし……」

 トトトと健斗に近付く琴音は、いつもとは違って照れたような声で、それに健斗は顔を少し険しくし、その歩調は気持ち早くなる。

仕事一筋っていう事は社会人だろう。という事は琴音の相手は年上なのか?

「もう、結構な歳だけれど、あんまり感じさせないなぁ歳は……そうねぇ、精神年齢は健斗と同じかもしれないかな? 頼りない所といい、ちょっとエッチな所といい……」

 少し意地悪い顔をしながら『エッチな所』という辺りで、健斗の足がピタリと止まる。

 おいおい、自分よりも年上の人が、そのプレゼントの対象だと? しかもエッチ?

「ダンディーというとひいき目になるかもしれないけれど、あたしは大好きかな? って、どした健斗? そんな所に立ち止まって……」

立ち止まった健斗に琴音は再び機嫌を損ねたと思ったのか、顔を覗き込んでくる。

って、おじ様趣味だったのかぁ、琴音って……でも、それってもしかすると、世間では不倫と呼ばれるものじゃないのか? その男はいくつなのだか知らないが、女子高生に手を出す男というのは信じられん。

「どした? もしかしてまた怒っちゃったの?」

呆然とした顔をしている健斗に、琴音は少し寂しげな顔をして首を傾げるが、そんな様子は健斗には見えていないだろう、その視線は琴音に向いていない。

「……」

確かに、恋愛というのは人それぞれの形はあるかもしれないし、それを俺は否定する気はない。だけれど、不倫は自分が傷つくだけではない。相手も傷つくし、色々な人が傷つく。何よりも、一番達成できない最悪の愛の形だと思う……そんな辛い恋を琴音はしているのか?

「ねぇ、どうしたの?」

 声に反応しない健斗に、琴音は少し心配そうな顔をしたまま覗き込んでいるが、健斗のその顔は徐々に際しさを増してくる。

「なぁ、琴音、どんな事があったのかは俺にはわからんし、余計な事を言うつもりはない。しかし、お前はそれでいいのか? そんな男に恋心を抱くのはどうかと思うよ」

 同情するような顔をして語りかけてくる健斗に、琴音はキョトンとした顔をして顔を見返すが、健斗の瞳は冗談で言っているのではなく真剣という事がわかる。

「はぁ?」

さすがにそれまでの脈略の中で、どうなって健斗がそんな結論を出したのかわからない琴音は、キョトンとした顔のままで健斗の顔を見据える。

「なぁ、いくらでも良い男はいるんだ……同い年でもいるはずだし、自分の身近にも現われるかもしれないんだから……そんな辛い恋をとらなくてもいいんじゃないか?」

真顔で言う健斗の台詞に、琴音はキョトンとした表情から、一気に呆れ顔に変わってゆき、そのうちその意味に気が付いたのかケラケラと笑い出す。

な、何だよ、何を笑っているんだ? 琴音のやつ……。

「健斗ぉ、あなたなんだかものすごい誤解をしていない?」

笑いすぎなのか、これでも多少笑いを堪えているのか、琴音は目尻に涙を浮かべながらお腹を抱えながら健斗の顔を見上げてくる。

「へっ? ゴカイ?」

自分でもかなり間抜けな顔をしていると自覚するような表情を浮かべながら、健斗は体をくの字に曲げている琴音を見つめる。

「プッ……クク、ク……アハハハ……健斗ぉ、それ最高だよぉ!」

とうとう堪えきれなくなったのか、琴音は階段の踊場にしゃがみこみ、大笑いをはじめてしまい、脇を通り過ぎてゆく人々が不思議そうな顔で健斗たちに視線を向けてくる。

「おい、なんだよ……そ、そんな笑うような事なのかよ」

機嫌悪そうに健斗は言うが、その表情はさっきまでの険しいものではなく、どちらかというと困惑したような表情で、しゃがみ込んでいる琴音の肩を叩く。

なんだってそんな大笑いされるのかよくわからんが、しかし、どうやら琴音がそういう男と不倫をいるという疑惑は晴れたような気がする。

ピクピクと震えるその肩を叩いている頃には、健斗の表情からは完全に険が取れ、困ったような笑顔が浮かぶだけになっていた。

「ククク……ごめん、でも……すごい誤解だよ」

目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭いながら、琴音は笑みを顔に残したままよろめきながらもやっとの思いで立ち上がる。

確かに不倫疑惑は晴れたかもしれないけれど、働き者といったらやっぱり琴音より年上の人という事だろ? おじ様趣味の疑惑は晴れたわけでは無い。

「誤解って……だからどの辺が……誤解なんだよ」

再び健斗が不満げな顔をすると、大きく一つ深呼吸して、呼吸を整えながら琴音は真っ直ぐに健斗に視線を向けてくる。

「ウフ、そのプレゼントの相手だよ。いったい誰だと思ったのよ。その相手はあたしのお父さんよ? まったく何を想像したんだか……アァ、もしかして、パトロンとか、不倫しているとかって、そんな想像でもしたの? もぉ、やっぱり健斗ってエッチ」

少しプクッと頬を膨らませる琴音に、健斗は少し申し訳なさそうな顔をして、コクリとうなずくと、琴音は少し顔を赤らめながらそっぽを向く。

「……ゴメン」

素直に健斗は琴音に詫びる。

「アハ、健斗ってば本当に、単純ね? 東京の人には珍しいぐらいに……って、あ、あたしがそんな事をするとでも思ったの?」

少し寂しそうな顔を一瞬浮かべるも、すぐにニッコリと微笑み直す琴音は、うつむいたままの健斗の顔を覗き込む。

「いや……一瞬だけで、まさかとは思ったけれどでも、その……色々あるじゃないか、人が人を好きになるって……中にはそんなのもあるし……」

申し訳なさで健斗はうつむきっぱなしながらも、琴音の表情を覗き見ると、琴音は少し寂しそうな笑みを浮かべながら健斗の事を見つめている。

「――ありがと……健斗は心配してくれたの?」

いつものツンツンした様子は影を潜め、琴音はどこか嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「いや、その……別に……俺はだ……」

いま一瞬とても可愛く見えたぜ、いや確かに可愛いんだが、あんな顔をされると……。

不意に見せた琴音の優しい笑顔に、健斗は胸が高鳴る事に気がつき、顔が紅潮している事に気がつくと、視線を琴音からそらす。

「エヘ、大丈夫だよ、いまのあたしには、彼氏も……好きな人もいない……」

視線を琴音からそらしていたために、健斗は琴音の表情が曇った事に気がついていない。

「それに、そんないい人がいたら、今頃あなたなんて誘ったりしないでしょ?」

一瞬琴音の言葉に違和感を覚えた健斗が視線を戻した頃には、その表情はいつものものに戻っており、少し意地の悪い顔をしていた。

一瞬琴音の声が言いよどんだような気がしたが、俺の気のせいだったのかな?

 心の中で首を傾げながらも琴音がいつもと同じ様子に戻った事になのか、それ以外なのかわからないながらも、健斗はホッと胸を撫で下ろす。

「それもそうだな? 琴音を彼女になんかしたら、絶対に苦労するだろうよ」

「ちょっ、ちょっと、それどういう意味よ!」

茶化す健斗に、琴音は頬をプクッと膨らませて睨みつけてくると、さらに健斗は茶化す。

「ほら、その表情! そんな顔は彼氏に見せられねーぞ?」

「ヘーンだ、彼氏じゃない男の人には見せられるも〜んだぁ!」

頬を膨らませたままの琴音は、そういいながらベェッと舌を出す。



「これなんてどうかしら?」

階段を下りた四階にある紳士服売り場で二人で寄り添いながら物色をしていると、琴音は目に付いたネクタイを手に取る。

「うーん、いいとは思うけれどね?」

手に持ちながら琴音が示したのは、結構大き目の柄が入っており、若い健斗からすると色も地味な感じがして、言葉を濁す。

「なんかお気に召さないみたいね?」

残念そうな、でも少し嬉しそうな顔をしながら琴音はそう言い、そのネクタイを元にあった場所に戻すと、健斗の顔を覗き込んでくる。

「だったらぁ、健斗はどういうのが好みなのかな?」

少し意地の悪い顔をしながらも、ニッコリと微笑んでいる琴音が顔を覗き込んでくると、健斗は少し困ったような顔をしながら、そこに並んでいるネクタイに視線を向ける。

「どういうのが良いと言われても、高校時代は学ランだったし、ネクタイをするなんて大学の入学式の時ぐらいで、その他にそんなシーンに遭遇した事がないから良く分からないよ。あくまでも個人の趣味だと、こういうのが好きかな?」

視線を向けていた先で、目に止まった一つのネクタイを示す。それは、細かい柄が入っており、色も春らしく明るい色合いの物だが、締める年齢層にもよると俺は思うよ?

健斗の手に持たれているネクタイを見て、琴音は思案顔を浮かべる。

「これ? フーン、結構健斗っていい趣味しているわね? あたしもいいと思うよ」

ニコッと微笑みながら、琴音はそれを手に取りじっとそれを見つめるが、プレゼントをする相手にイメージを重ねたのか、徐々にその顔に苦笑いが浮かんでくる。

「でも、ちょっと若すぎないかしら?」

ネクタイを健斗から受け取った琴音は、いきなり健斗の胸に合わせると、ニコッと微笑を浮かべながらその顔を見上げてくる。

「確かに健斗には似合うかもしれないわねぇ……フム」

健斗の胸にネクタイを合わせたまま、琴音は首をひねり、再び思案顔を浮かべていたと思うと、なぜか突然顔を赤らめ健斗の顔を再び見上げてくる。

な、なんだぁ? 俺は何もしていないぞ?

しかし琴音からは文句を言われる事なく、その顔はうつむいてしまう。

「ま、まぁ、これもそんなに高くないし、一応押さえで買っておこうかな? あくまでも押さえだけれど……ヘンに誤解しないでよね?」

少し赤い顔をしたまま琴音はそういい、そのネクタイを持ちレジに向かう。

俺が何を誤解するっていうんだ? 相変わらず良くわからん娘だ……。



「ここは、全国チェーン店だよね? 随分と大きいなぁ?」

青函フェリーターミナルを過ぎ、産業道路から右折して広い駐車場に車を入れる時にその看板を見上げながら健斗が呟く。そこは、『ダイエー上磯店』で、健斗が以前住んでいたアパートの近くにも同じ店舗があったものの、その規模をはるかに上回っている大きさだ。

北海道らしいとでも言うのだろうか、規模が違うよな? 明和大学にしたって敷地面積は、半端なく広い(教授などは、教室の移動に車を使っているほど)し、民家だって一軒一軒の家の大きさも、東京なんかよりも大きい、東京の郊外に行っても、ここまで大きなショッピングセンターはないんじゃないかな?

ウキウキとしたような足取りの琴音に続いて健斗が店舗の中に入ると、さらにその広さに圧倒させられる。

店の反対側が見えないぜ、それに、贅沢な通路の使い方なんだろう。東京のお店だとショッピングカートがすれ違うのが精一杯なのに、ここの通路は催し物が出来そうなぐらいに広いし、通路にはベンチまで置かれている……規模の違いを感じるぜ。

「ヘヘ、ここはね? この地域で一番の広さを持ったお店なの。食料品以外にも色々なテナントが入っていて、おしゃれな物が揃うの。それに全国チェーン店だからこそ安いし、物もいいのが色々と選べるのよぉ」

広い通路の左右に点在するテナントを、琴音はウキウキとした顔をして見回している。

ハハ、ここはプレゼントを買いに来たというよりも、琴音が自分の物を見に来たと言った方が正しいかも知れないなぁ。

苦笑いを浮かべながら、健斗は目の前を右往左往している琴音の後姿を見る。

「あぁ、これなんて安いなぁ……うん、これも可愛いし、もうすっかり春物よねぇ……色合いも明るいのが増えてきたし」

「あのぉ、琴音さん?」

「あっ、これちょっとキープかも……健斗ぉ、悪いけれど、これをちょっと持っていてくれないかしら? 他の人に持っていかれるのも悔しいし」

二人が行き着いた売り場は、当初の目的地の紳士服売り場ではなく、婦人服売り場だった。紳士服売り場に至る間に、何件もの婦人服のテナントが軒を連ねていて、それに琴音が引っかかっているというのが正確な表現の仕方かもしれないが。

これは、きっとこのお店の戦略であろう、その戦略にまんまとハマるとは、まだまだ修行がたりんなぁ琴音は……それにしても、ずいぶんと生き生きした表情を浮かべているな琴音のやつ、うん、元気いっぱいといった感じでいいかもしれない。

 つい頬を緩めながら健斗は、楽しげに動き回っている琴音のポニーテールを眺めてしまう。

「あぁ、これ安いなぁ……ちょっと試着してみようかな?」

満足げな顔をした琴音は、ピンクのAラインシルエットのワンピースを取り出すと、それを胸に当てながら近くの鏡でその姿を写し見ている。

「うん! あたしの持っているブラウスに合わせればいい感じかも……って、あぁ、健斗ゴメン! 可愛いのがあったから、つい夢中になっちゃって……」

 申し訳なさそうな顔をしながら健斗の顔を見つめてくる琴音は、まるで怯えたような子犬のような表情を浮かべている。

「似合っているんじゃないか? 琴音にそのワンピース……その、結構……可愛いかも……」

 顔を赤くしながら言いよどむ健斗に、琴音は少し驚いたような顔をしているが、やがてその顔には満面の笑みが膨れ上がる。

「で、でしょ? 絶対にこれって可愛いわよね? そっか、あたしに似合っているかな?」

 その健斗の顔の赤味が、琴音に伝染したように赤らみ、照れ臭そうにその顔をうつむかせながらも、そのワンピースをギュッと抱しめる。

「ん、そのぉ……なんだ? 似合う……と思うぞ」

「彼氏ぃ〜、このワンピ、絶対に彼女に似合うと思うから、買ってあげたらどうかな? いまならなんと、二割引でご提供しちゃうわよ?」

 どこか軽いノリの店員に、二人は声を合わせる。

「「ちがぁ〜う!」」

第十話へ。