第一話 北の大地へ。

=プロローグ=

「沢井課長は、お盆休みはどこか行くんですかぁ?」

 会社の出口で、沢井陽平は同僚の女の子に声をかけられる。昨日の台風の影響なのか、海に近いこの辺りはまだ風が強く、女の子は乱れる髪の毛を気にしながらも、ニッコリと微笑みながら陽平の顔を見る。

「あぁ、佐々木さんかぁ、うん、今年は北に行くんだ……初めての土地」

 陽平はそう言いながら、空を眺めると、雲が勢いよく流れてゆき、その雲の合間には月が浮んでいる。

「北? ですか?」

 女の子は、訳が分からないといった表情で陽平を見つめる。

「そう、北の街……函館にね」

 生まれて初めて渡る土地である北海道、その玄関口の函館が今年の休みの目的地だ。

「函館ですかぁ」

女の子は、やっとわかったのかニッコリと微笑みを陽平に向ける。

「楽しんできてくださいね? あたしは行った事がないですけれど、とても素敵な街ということですから」

 その問いに対して、陽平は笑顔で答える。

=八月十一日 深夜〜 一人旅=

「ふう……」

 陽平は、ため息をつきながら、暑苦しい背広を脱ぎ捨てネクタイをはずす。

今日から一週間は、この格好をしなくてすむと思うとそれだけで心が晴れやかになる、うちの会社もクールビズを導入してもらいたいものだ。

鬱憤を晴らすようにネクタイを投げ捨て、陽平はTシャツにチノパンといったカジュアルな様相に着替え、一息つく。

『台風一過となった東京の今日は、昨日とはうって変わっての好天に恵まれましたが、気温もうなぎ登りとなり、最高気温は三十七度まで上がり、都内のプールでは……』

 見るともなく、BGM代わりにつけているテレビからは天気予報の声が聞こえる。

昨日は台風が近づいたおかげで、電車は止まるし、スタッフは軒並み遅れて来るしで、えらい事だったけれど今日は一転しての晴天で、普段以上に一気に気温が上がった。

『続いて各地の天気です、札幌の天気は……』

陽平はその声に思わず耳を傾ける。東京のテレビでは函館を特定した天気予報をあまりやらないため、どうしても札幌の天気を気にするしかない。

『最高気温は二十八度……』

 ……いくら北海道といっても、やっぱり暑いんだな、まぁ東京の三十七度に比べればいくらかましだがな?

陽平はその天気予報に苦笑いを浮かべる。

『続いてスポーツニュースです……』

 陽平はテレビを消し、手元に用意してあったカバンを取る。

「さてと、行ってきますか? 北の街へ……」

 陽平は部屋の電気を消し、部屋の中の闇を確認し、玄関の鍵を施錠する。



「ガソリンは満タン、北海道までよろしく頼むぜ、相棒!」

 陽平は、ハンドルをぽんとたたく。一人で乗るには大きすぎる車も、長距離を走るにはちょうど良い。

「さて、ナビの設定もOK! 出発進行」

 ギアをドライブに投入し、はやる気持ちを抑えながら車を動かす、これから首都高速を抜けて東北道を北上し、とりあえず青森までの約七百キロを走破しなければならない。

「安全運転が最優先事項、しかし……」

 渋滞のメッカの首都高速道路、時間は既に午後十一時を過ぎているというのに、この車のテールライトの列は一体なんなんだろう。これでは、東京を抜けるのにきっと日付が変わってしまうなぁ。

「はぁ……」

 陽平は、渋い顔をしながらその車の列の最後尾につく。

『帰省のために、車の中でこの放送を聞いている方も多くいらっしゃると思いますが、夜にもかかわらず、結構渋滞していますよぉ、この先も安全運転でお願いしますね』

車のラジオからは、DJが軽やかに言うが、夜の渋滞なんて洒落にならないよ。そもそもだなぁ、道路の造りがいけないんだ! どう考えても渋滞するようにしか設計していないだろう、その昔の漫才で渋滞の先頭ってどうなっているんだろうというのあったが、本当に俺もそう思うよ……ちゃっちゃと走ってくれぇ。

陽平はそう毒を吐きながらも苦笑いを浮かべ、渋滞の先を見つめる。



「いくらか流れてきたな」

 今まで、息をつくようなのろのろ運転から、やっと生気を取り戻したように車の流れが軽やかになる。

時間は夜の二時を過ぎているのに、まだ車は行程の三分の一も走っていないよ、フェリーの時間に間に合うまでに青森につけるのかちょっと心配になってくるな。

「ラジオが聞き難いかも……」

 山間部に入り、陽平はラジオのチューナーをいじりまわすが、なかなかクリアーに聞こえる局がない。聞こえてくるのは日本語ではない放送局と、眠たくなるような話を延々と話し続けているラジオだけだ。

「仕方がない」

 陽平は、ラジオの電源を切ると、車の中にはタイヤから発せられるロードノイズと、車のエンジン音だけに包まれる。

「やっと、福島県に入ったか……まだ先は長いな」

 郡山インターチェンジの標識を見て、陽平は苦笑いを浮かべる。

「やっぱり遠いな、北海道は……」

 陽平の脳裏に描かれている初めての北海道は、まだ、遥か遠くに霞み見えるだけだ。

 まだ半分ぐらいしか走っていないだろうな? まだまだ先は長い、安全運転を最優先に、慌てず騒がず急がないと。

車が盛岡インターチェンジを過ぎたあたりから、周囲が今までの闇から開放されるように白みかかりだし、空の色が、漆黒から、深い青色に変わってくる。

長い経験から、この時間帯が一番眠くなる、注意しながら走らないといけないな、ん? 

陽平の狭い視線の中、まだ目覚めていないであろう民家らしい家の庭先に、ちょうちんのようなものが吊り下げられている。

この辺りのお盆の風習なのかな? その土地によって、さまざまだからなぁ……、おっ、青森までの看板が出てきた、もう一頑張りだな。

陽平は、眠たい目を擦りながらも、先に見え隠れしている岩手山を眺めながら車を走らせる。



「ふわぁー……」

 車のセカンドシートで、陽平は大きくあくびをする。

「眠い……」

 陽平はまだ開ききっていない目を強引に開け、車のカーテンを開けるとさっきまで薄らかな陽光だった光が、夏本番といった光に変わっており、車に装備されているデジタル時計を見ると時間は九時を回ったところだ。

「ちょっと目を覚ますかな?」

 陽平は、そういいながら自分を奮い立たせるように車のドアを開き、東京とは違う風を全身に浴びる。

「ほう……これはなかなかどうして」

 東北道最後の県である青森県の津軽サービスエリアで大きく陽平は伸びをすると、目前には大きな岩木山が飛び込んでくる。

「ほら、あれが岩木山だよ? 地元ではお岩木山って呼ばれているんだ」

 たまたま隣にいたカップルの彼氏が、彼女に向かって言う。

「へぇ、そうなんだぁ、あれが有名なお岩木山なのね?」

 彼女は、彼に寄り添い歩いてゆく。

いいなぁ、俺にもああやって一緒にドライブできる相手がいれば、いくらか楽しいドライブになるのだろうが……とほほ。

「コーヒーでも買っていこうかな?」

 陽平は肩を落とし、苦笑いを浮かべながらエリア内にある自動販売機に向かう。

「さすがに津軽路だな、りんごジュースやアップルパイかぁ……りんご尽くしだな」

 サービスエリアのお土産物売り場にはこれでもかという位りんご関連の商材がおかれている。

「フム、朝飯は立ち食いそばで決まりだな?」

 陽平はそう言い、湯気の立っている休憩所の一角にある立ち食いコーナーに向かう。



『打ったぁ〜、入るか?』

 休憩所にあるテレビでは、夏の代名詞といっても過言ではないであろう、夏の高校野球をやっている。

確か、昨日の試合で青森代表の学校が勝ったといっていたよな? それにしても、いつの間にか高校野球児が年下になっているよ、以前高校野球といえば、お兄さんたちというイメージだったのだが、既に三十歳に足を踏み入れた今では、むしろ可愛い子供達といった気持ちになってくるな。

そのテレビを一瞥しながら、陽平はカウンター上にあるメニューを物色し始める。

肉そばや、山菜そば……どうしても江戸っ子なのかな? うどんよりもそばに目がいっちゃうよ……レストランでモーニングも良いのだけれど、なんとなく立ち食いそばに目がいってしまうのは、サラリーマン人生まっしぐらという所なのかな?

苦笑いを浮かべながら、陽平は肉そばをチョイスする。

……特に名産というわけではないのだけれどね?



「やっぱり『立ち食いそば』はサラリーマンのソウルフードといっても過言ではないな」

 陽平は、満足げに腹をさすりながら自分の車に足を向けると、携帯のメールが着信を告げ、それを慣れた手つきで開き見る。

「……ははは、大きなお世話だ」

 そのメールを見て陽平は苦笑いを浮かべる、相手は会社の同僚からだった。

『北の街で早く恋人を見つけろよ! 弥生』

 メールの相手は朝倉弥生、陽平と同期で、部署こそ違うものの、たまに一緒に飲みに行ったりする女性だ、少し前まではちょっと良いかな? なんて思っていたけれど、結果的には陽平が振られたようになり、それ以降も陽平とはそれ以上の関係はない。

『現在津軽路北上中、本日夕方には函館に上陸する見込み、人の事は放っておいて、旦那とイチャイチャしていろ!』

 陽平は、こんな毒のこもったメールを返信してから、再び車を高速道路にのせる。

『さぁ、帰省で故郷に帰ってきている人も多いと思います、皆さん、久しぶりの故郷を満喫してくださいねぇ』

 ラジオからは、そんな台詞が多く聞けるようになり、やはり、この地方出身の人が東京には多いのかなと、陽平はちょっと実感してしまう。そんな青空の元を車はりんご畑の中を縫うように走りながら、東北道最終の青森インターチェンジへと向かう。



「いやぁー、走った走った! 六百六十四,七キロかぁ、東京から岡山に行くまでと同じぐらいだったかな?」

 なんだか東北というと、遠く感じるけれどそんなでもないんだよな。大阪や関西九州圏だと新幹線が走っているせいで、近く感じられるようだが、実際には青森は東京から七百キロ弱、東京から岡山に行くのとほぼ同じぐらいの距離になる。しかし、車で走るのは同じ、遠いのは変わりない。

青森インターを降り、久しぶりの信号機に車を止めると、その信号機には農作業に行くのであろう老夫婦や、学校の部活に行くのであろうジャージ姿の学生が陽平の車を見ながら、渡ってゆく。

「北海道まであと少し」

 陽平は逸る気持ちを抑えながら、フェリーターミナルの看板に従って車を走らせる。



=八月十二日 出会い=

「なんだぁ、この混雑ぶりは?」

 フェリーターミナルに近づくにつれ、道路が混雑をはじめ、ターミナルの中の駐車場は混雑を極めていた。

『お客様にお知らせいたします、本日十三時三十分発室蘭行きは、台風の影響で本日欠航となります、なお、青森行きに変更されるお客様は、キャンセル待ちとなります』

 やっとも思いで駐車場に車を止め、乗船手続きを行うべくターミナルに足を踏み入れると、その中では怒鳴るように放送が繰る返し鳴り響き、まるで通勤電車のターミナル駅のように人が混み合っており、恐らく乗船手続きをするため車検証を持った人の列に、キャンセル待ちをする人の列が加わり収拾がつかない状況になっている。

「乗船手続きにどれだけ時間がかかるかな」

 陽平は、諦めきった表情でウネウネと蛇行を繰り広げる列の最後尾につく。

「函館行きの便もみんな満席らしいな、いつ乗ることが出来るのやら……」

 前に並んでいるバイク乗りらしい若者がうんざりした表情で話をしている。青函トンネルが出来たおかげで北海道と本州が陸続きになったとはいえ、あくまでもトンネルは列車専用で車やバイクは通る事ができない、そのため車などは今までと同じようにフェリーを使うしかなく、今日のように船のダイヤが乱れたときなどは、このような状態になってしまうらしい。

フランスにあるユーロトンネルなどは車などを載せて走る、いわゆる『カートレイン』が走っているらしいが、早く日本もカートレインを走らせるようにしてもらいたいものだ。

 

「やっとここまで来たか……」

 陽平は、苦笑いを浮かべながらようやく見えてきたチケットの窓口を見つめる。

「お姉ちゃん、早く……って! キャー、どいてぇ〜っ!」

 二階のラウンジに上がる階段のちょうど真下にさしかかった時、不意に真横というか真上というか、から声がし、その声に視線を向けると、ちょうど真横から女の子が手をばたつかせながら、陽平に抱きつくかのように突進してくる……いや、落ちてくるといったほうが正しいかもしれない。

「なんだぁ? って、わぁ〜っと……」

 陽平は、思いのほか軽いその少女を受け止める。

どいてと言われて、あの状況でどけるわけがない。さすがの俺だってそこまで落ちぶれてはいないよ。

「助かったぁ」

 女の子は、目をぎゅっとつぶり陽平の胸で安どの表情を浮かべつぶやく。

「大丈夫かい?」

 陽平にしても今起きた事をすぐには理解できずに、ただマニュアル的に、女の子に声をかけるしかできない。

「あっ、はっ、はい、ありがとうございます……って、あっ!」

 女の子は、やっと自分が咄嗟に取った行動を理解したかのように顔を真っ赤にして、陽平から飛び跳ねるようにして離れてペコペコと頭を下げる。

「ごっ、ごめんなさい、踊り場でお姉ちゃんを待っていたら人にぶつかってしまって」

 言い訳をするように少女が見上げた場所は、階段で五段ぐらいあがった所で、今でも人がひしめき合っている。

あそこから落ちても命には別状はないだろうが、大怪我はするであろう。

「まぁ、なんともなくってよかったね、危なく大怪我をするところだったよ」

 陽平は、にっこりとその少女に微笑む。その少女は十代前半ぐらいだろうか、天然パーマであろうその髪の毛はフワッとしたウェーブヘアーで、柔らかく彼女の肩先で揺れている。

「はっ、はい……」

 少女は、その状況を思い出したのか照れくさそうに頬を赤く染めながらうつむく。

「亜美! 大丈夫だった?」

 さっき見上げた踊り場付近から、女性のだいぶあわてたような声がする。

「あっ、お姉ちゃん大丈夫! この人が助けてくれたよ」

 亜美と呼ばれた少女は、声の主に向かって微笑みながら陽平を見る。

「それは、どうもすみません、妹が……亜美がお世話になりまして」

 陽平の前で一人の女性が背中まである長い髪の毛を揺らしながらぺこりと頭を下げる。

ちょっと歳の離れた姉妹なのかな? お姉ちゃんと呼ばれたその女性は、落ち着いた格好をしているが二十代であろうな?

「いえ、別にたいした事をしたわけじゃないですから」

 陽平は、なんとなく照れくさくなり、鼻先をかく。

「そんなことないです、亜美の命の恩人なんですから、何か御礼をしないと」

 命の恩人って……はは、大げさな。

「そんなお礼なんていいですよ、あっ、前に動かなくっちゃ」

 気がつくと前が大きく開いている。後ろでは、まだ人がいっぱい待っているんだから、少しでも前に動かなければ迷惑だね?

「それじゃぁ気がすみませんからぁ……」

 女性は、眼を潤ませながら陽平を見つめる。

「じゃあ、コーヒーでもご馳走してもらおうかな?」

 陽平は、その表情に負けたとばかりに苦笑いを浮かべ、ちょうど横にある自動販売機をチラッと見る。

「はい!」

 女性はニッコリと微笑みながら陽平の横にあった自動販売機にお金を投入し、缶コーヒーのボタンを押す。

「この程度ですけれど」

 そういい、その缶コーヒーを陽平に渡す。

「はは、ありがとう、ご馳走になりますよ」

 陽平は、缶コーヒーを受取りにっこりと微笑む。

「あっ、自己紹介がまだでしたね? わたしは、森沢雪音で……」

「あたしは、森沢亜美! へへ現役の女子高校生だよ」

 亜美が、平均より少し薄い胸を張りながら元気よく手をあげる。

ヘ? ……って、高校生?

陽平は驚きを隠そうとせずに、亜美のその姿を頭の先から足の先まで見る。確かに着ている服装などは落ち着いていて、幼さを感じないのだが。

「……ぶぅ、確かに背は低いけれど、れっきとした十六歳!」

 亜美は、その陽平の視線を感じ取りふくれっ面になる。

「はは、ごめん、という事は、おじさんは現役の高校生に抱きつかれたって言うことかぁ」

 陽平は、頭を掻きながら亜美にいう。亜美は、ちょっと頬を赤らめながらも、相変わらず胸を張っている。

「そうね、めったにあることじゃあないと思うわよ? でも、おじさんって……えーっと」

「あぁ、ごめん俺は沢井陽平、東京から来たサラリーマンだ、もう三十歳になっちゃったよ」

 陽平は、笑顔で亜美を見る。

「へぇーそうなんだぁ、三十歳には見えないなぁ」

 今度は、亜美が陽平をしげしげと見つめる。

『お客様にお知らせいたします、本日出航予定の便は台風の影響で大幅に遅れが出ております、あらかじめご了承ください。なお、ただいま着岸しております便は九時四十分発函館行きです』

「えぇー、あれが、九時四十分発だと、次の便は一体」

 亜美がうんざりした表情で雪音を見ると雪音の顔も曇る。今の時間は十一時、ゆうに二時間は遅れている事になるな。

「本当ね、係の人に聞いてみようか? 陽平さん、本当にありがとうございました」

 そういい二人の姉妹は、陽平に頭を下げその場から立ち去る。

第二話へ続く……。