第二話 津軽海峡夏景色



=八月十二日 待ち人……=

「申し訳ございません、本日ダイヤは乱れていまして、出航は大幅に遅れる見込みです、乗船案内は放送でご案内いたしますので……はい、三時間ぐらい遅れそうですね」

 ようやく乗船手続きのため窓口にたどりつく事が出来たのは、それから十分ぐらいしてからだろうか。出航状況を聞くと窓口の女性は申し訳なさそうな顔で陽平を見る。

「三時間……まぁ、急ぐ旅でもないし、のんびりとかまえるかな?」

 陽平はため息をつきながら、大きく伸びをする。

「お姉ちゃんどうする? あたしたちこのあと二時間もこうやって待っているのぉ?」

 おや? さっきの姉妹だ、車じゃないのかな?

ターミナルの出入り口、ライダースーツを着込んだ男連中が諦めきったように寝転がっているその片隅に、大きなカバンを抱きしめるように二人はしゃがみこんでいる。

「さっきはどうも」

陽平は特に親しいわけではないが、とりあえず二人に声をかけ立ち去ろうとすると亜美が嬉しそうな声を上げる。

「あぁ! 陽平さんだぁ……」

 声を上げると同時に陽平は亜美に袖をつかまれ、その行く手を阻まれる。

「そうだ!」

 亜美は何かひらめいたように、雪音に耳打ちする。

「あら? それはグットアイデアね」

 その提案に納得をしたのか雪音の顔にも笑顔が浮ぶ。

「あのぉ……お兄ちゃん?」

 亜美が猫なで声で陽平の顔を見上げる。

お兄ちゃん? お兄ちゃん? お兄ちゃん? なんだぁ?

 陽平はぎょっとした表情を浮かべながら、二人の姉妹を見ると、恐らく何かをたくらんでいるのであろう、二人してニコニコしながら陽平の事を上目遣いで見つめている。

「エヘヘ、エッと、お兄ちゃんは車なのかな?」

 亜美は甘えたような表情を陽平に向け、その様子に陽平は苦笑いを浮かべる。

「はは、そうだよ」

「やた! ねぇ、お兄ちゃん、実はお願いがあるんだけれど……」

 亜美の顔はさらに甘えた表情を浮かべ、体をモジモジさせ陽平に擦り寄ってくるが、既に陽平にはこれから亜美が言わんとする事が想像できた。

「その〜、ですね実は……船が出るまでの居所がなくって、あのぉ〜、もし良かったら話し相手というか、なんと言うのか……」

 亜美は目を潤ませながら陽平の顔を覗き込む、その表情は真剣に困っているといった様子にも見える。

「……はは、いいよ二人とも、俺の車でゆっくりするといい、俺も一人で車にいるのもつまらないし、それにこんな可愛い娘さん達が話し相手になってくれるのなら、俺だって大歓迎だよ」

そう言いながら陽平は、二人の足元に置いてあったカバンを持ち上げると、亜美はその仕草を見て意外そうな表情を浮かべている。

「可愛いだなんて……照れちゃうわね」

陽平の一言に、素直に雪音の顔が赤らむ。

「お姉ちゃん! そんなところで照れていないで、早く」

亜美が、雪音の腕を取り立ち上がらせる。



「さてと、それでお兄ちゃんの車はどれかな?」

陽平をせかせるように亜美が陽平の持っているカバンを引く。

「……亜美ちゃん、その『お兄ちゃん』はやめてくれないかな? 照れくさいよ」

 さっきから亜美は当たり前のようにそう呼んでくるが、妹のいない俺からすると、ちょっと照れくさい。

「えぇ、だって男の人って『お兄ちゃん』って呼ばれるのが好きなんでしょ? 後メガネをかけた娘とか、ネコ耳付けた娘とか」

その知識は間違っているぞ!

陽平は心の中で激しく突っ込みがっくりとうなだれるが、亜美はおかまいなしに続ける。

「今日は、コンタクトだからなぁ、メガネはかけていないのよねぇ……今度機会があったら見せてあげるね、お兄ちゃん!」

ニッコリと微笑む亜美の顔にはやはりあどけなさが残っている。

好きな人間にはたまらないシチュエーションなのだろうけれどね?

「はは、ありがとう、でも、それで喜ぶのは特殊な人間だから気をつけたほうがいいよ……ちなみに俺はそういった趣味ないからね?」

陽平は、トホホな顔をして亜美を見る。

「でも、だったらなんて呼んだらいいのかしら? 沢井さん? なんかつまらないし、陽平さん? なんだかよそよそしいし、陽ちゃん?」

亜美は、真剣な顔で首を傾げる……頼むから陽ちゃんだけはやめてくれ。

「やっぱり、お兄ちゃんが一番呼びやすいかも」

にっこりと亜美は微笑み、陽平を見上げる。どうやら、亜美の中では『お兄ちゃん』が確定したようだ。


「この車だよ、さっ、入って」

駐車場の一角に置いてあった陽平の車のスライドドアーを開き、二人を招きいれる。

「お兄ちゃん、一人旅なのよねぇ?」

さっきの話の中で、二人には一人旅という事は告げてある。

亜美は驚いたように口をあんぐりと開けてその車を見つめている。その視線の先にあるのは、ワンボックスカーキャンピングカー仕様もどき、が止まっている。

「大きな車ですね? キャンピングカーなのかしら?」

雪音も、大きな目をさらに大きくして陽平の車を見る。

「はは、長距離のドライブが好きだからね、ゆっくり出来るように大きい車にしたんだよ、別にキャンプとかするわけじゃないけれど、旅館とかに泊まれない事が多いし、野宿する方が安上がりだからいつの間にかこんなになってしまった」

会社の同僚は、この車を『動くリビングルーム』と呼ぶ人間もいるらしい。

「お金かかっていそう、お兄ちゃんってひょっとしてお金持ち?」

亜美が感心したような表情で陽平を見つめる。

「はは、金なんて持っていないよ、独身貴族っていうのかな? 生活費を切り詰めてこんな車を作っちゃったぐらいから」

この車が、ここまで出来上がるまで、五年の歳月がかかっている、だから結婚できないんだろうなぁきっと……いや絶対そうに決まっている!

陽平は、二人に見つからないようにちょっとため息をつく。

「お兄ちゃんって独身なの?」

亜美が、素っ頓狂な声をあげるが、そんなに驚くことないだろう、こうやって見ても、まだ若いといわれる分類に入るし、まだ、俺と同期で結婚をしていない人間の方が……っと、一、二……片手で足りるか? まぁともかく、まだまだだと思っている。

陽平は、ちょっとムッとした表情になる。

「お姉ちゃん! お兄ちゃんも独身だって、よかったね?」

亜美がにっこりと微笑みながら雪音を見るが別に独身でも珍しくないだろう?

「別に雪音さんが独身だっておかしくないだろう?」

陽平はきょとんとした顔で雪音を見ると見る見るうちにその頬は赤らんでゆく。

「亜美そんな事言わないでよ、陽平さん、わたしだってそろそろあせってくる歳ですよ?」

雪音が、助けを請うような目で陽平を見つめる。

「はは、そうかい? でも雪音ちゃんはまだあせる必要はないと思うよ。まぁ俺みたいに三十になっちゃうと、一種あきらめみたいなものもあるけれど」

そうニッコリと微笑みながら陽平が雪音を見ると、雪音はうつむいている。

「あのぉ……陽平さん、わたし、今年で二十九になりますぅ」

雪音は口を尖らせ、すねたような表情で陽平の顔を睨みつける。

「えっ!」

陽平は、絶句する。

二十九って、まさか、エッ?

「しかも早生まれだから、もしかすると陽平さんと同じ学年かも……」

なんとなく雪音さんの目に涙が浮んでいるようにさえ見えるが、同学年? 俺と? エッ?

陽平の頭の上にはクエスチョンマークが相当数飛び出ているであろう。

「本当に?」

陽平は、まだ信じられないといった表情で雪音の顔をまじまじと見つめると、少し大きなその瞳はキョトキョトとせわしなく動いており、それがさらに陽平の疑問を増長させる。

「本当だよ、お姉ちゃんは来年の一月二十六日で、満三十歳でぇ〜っす」

亜美が横から茶々を入れる。

「はは、それは……なんと申しましょうか……ハハハ……」

陽平は、そういったきり次の言葉が出なくなり、二人の間に沈黙が訪れる。

気まずい……どうも気まずい、なんていえばいいのだろうか。チラッと雪音の顔を見る、その横顔は綺麗というよりは可愛らしいと言った方が正しいであろうし、背中まである長い髪の毛は落ち着いた雰囲気で少しマニキュアをしているのであろう少し茶色掛かっていて、服装は亜美が言っていた年齢を感じさせなく若々しさを演出している。

可愛いなぁ……。

「あっ! お姉ちゃん、この車テレビがついているよ? あのテレビ見られるかも!」

沈黙を破るように亜美が声をあげると、雪音に見惚れていた陽平は慌てふためく。

「本当に?」

亜美の一言に雪音の顔がぱぁっと華やかになる。

「うん、確かあの番組全国ネットだから、ここでも見られるはず……えーっと……」

そう言いながら、亜美はチャンネルを回す。

「あれぇ? そうか、函館と違うから、えっと、何チャンネルなんだろう」

亜美はチャンネルを弄り回しながら首を傾げ思案顔になる。

「テレビの番組表があれば良いのにね」

雪音の顔には諦めの色が浮かびはじめている。

「テレビ番組表なら、確かさっき買ったスポーツ新聞に載っていたような気がするな……」

陽平が新聞を取り出しなれた手つきで数ページめくると、駅売りのそれとは違うのかテレビの番組表が現れる。

「やた、お兄ちゃんさえているぅ」

亜美がぎゅっと親指を突き立て陽平に突き出す。

「陽平さん、ありがとうございますぅ」

顔いっぱいに笑顔を浮かべながら、手を取り陽平に礼を言う雪音に対し、陽平はその手の温もりに照れ臭さを隠しきれないで頬を赤める。

別に、そんなに感謝されるほどではないと思うけれど、でも役得なのだろうかな?

「あった! お姉ちゃんあったよ、へぇ、ここだとこんなチャンネルでやっているんだね」

亜美が、お目当ての番組を番組表から見つけ、すばやくチャンネルを回す。

『さて、それでは今日のゲストをご紹介します、お子様から、そのお母さんまでのアイドル! 鮎川龍さんで〜す』

テレビでは司会者が若い俳優を紹介しており、その姿を雪音は言葉無くじっと見つめている。

「あのぉ、この……」

「しっ!」

「はい……」

雪音の顔がそれまでの、のほほんとしたものから真剣な眼差しに変わり、そのテレビの画面を見つめている。

「はは、お姉ちゃん龍君の事が大好きだから、こうなっちゃうと何も耳に入らないよ」

横から亜美が苦笑いを浮かべ顔を覗かせる。

「そのようだな?」

陽平は諦め顔で車を降り、胸ポケットから取り出したタバコに火をつけながら車の中に視線を向けると、そこには食い入るようにテレビを見入る雪音の姿がある。

「……昔売れる前に一度、お姉ちゃんのお店に龍君が来たんだって、それからかな? お姉ちゃんが龍君ファンになったのは、結構ああいうタイプがすきなのかな?」

 陽平の隣で亜美が呆れ顔で言う。

 さっきテレビに出ていた若い俳優は俺も知っている。鮎川龍、特撮番組のヒーロー役をやってから子供だけではなく、その親までが彼のファンになると言うのは新聞の芸能欄に載っていたのを見たことがある、確かに自分の店に来たことがあるのなら親近感を持つよな?

「なるほどね」

陽平は車の中で、はしゃいでいる雪音の姿を遠目に見つめる。

ちょっと意外かな? 雪音ちゃんって結構ミーハーだったんだ。

「それにしても……お兄ちゃんって、結構紳士なのね?」

亜美が、上目遣いで陽平を見上げる。

「あのね……結構は余計だな、結構紳士だと自分では思っているけれど?」

「クス、お兄ちゃん、さっきお兄ちゃんはあたしの荷物をさりげなくもってくれたでしょ? それに、狭い車の中でタバコも吸おうとしなかった……意外に気を使ってくれているんだなぁって思って……ヘヘ」

なんとなく、亜美は顔を上気させながら言う。

「そうかねぇ、最近、タバコを吸う人に対して世間は冷たいものでね」

陽平は煙を吐きながら優しい瞳で亜美を見る。

「うん、ちょっとかっこいいかも……」

陽平のそんな優しい視線を浴びた亜美は慌てた様子でうつむくが、その頬が真っ赤になっている事を恐らく亜美自信は自覚しているであろう。

「ありがとう、亜美ちゃん」

陽平はその様子には気が付かないで、その小さな亜美の頭に手を置く。



Ami 一目惚? それが初恋?

「エヘヘ……」

なっ、なに照れているのかしら、あたし。

亜美は、自分で自分の顔に起きている異変をすばやく察知しうつむく。その異変は、体中の血液が一気に顔に集中したのではと思うぐらいに火照り、心拍数が異常に上昇して、もしかしたら、陽平に鼓動の音が聞こえているかもと思うぐらいだ。

なんなのこの感覚は? まるで漫画みたいに恋をしたみたい……そんな訳ないじゃない、このあたしが恋だなんって、しかも、出会ってから、まだ一時間位にしか経っていない男の人に、それも、あたしより十四歳も年上の人に? ありえないかも……。

「どうかした?」

陽平が心配そうな顔をして亜美の顔を覗き込むが、亜美はその視線から顔を逸らすように陽平に背を向ける。

「ううん、なんでもないよ、あーあ、早く船来ないかなぁ」

亜美は、そう言いながらちょうど正面になった港に目を移すが、どうも陽平の事が気になって仕方がない。

それは確かにあたしの理想通りの人かもしれないけれど、背が高くって笑顔が優しくって、ちょっとハンサムで気取っていなくって、都会的な雰囲気の人、あぁ、やっぱり理想にぴったりだぁ、考えを変えようとすると余計に気になってくるじゃないのよぉ、そもそも、あのオジサンが、いきなりお姉ちゃんを振り向くからいけないのよ、だからぶつかって、そして……抱きついちゃったのよね? この人に。

再び亜美の顔に血液が集中する。ボッ、亜美の顔からそんな音がしそうな勢いで赤くなり、陽平を見上げる。背の高さの位置関係から、陽平の顔の位置は亜美の頭の二つ分ぐらい上にあるため、常に見上げるしかない。

お兄ちゃんって背が高いのね……。



「あぁ、大満足、今日も龍君は可愛かったわぁ〜、またお店に来てくれないかしらね? そうしたらサービスするのにぃ」

そう言いながら雪音が車から降りてきて、そうして大きく伸びをする。

「……ちょっと、お姉ちゃん……」

その姿を、亜美は苦笑いで見るしかなかった。

お姉ちゃんも、もう三十になるっていうのに、アイドルを見てそんなに満足な顔を見せないでよ、恥ずかしいなぁ。

「うん? どうかした?」

満足そうな表情で雪音は亜美と陽平を見る。

「いや、雪音……さんは、ああいうアイドルが結構好きなのかな?」

陽平が、苦笑いを浮かべながら雪音を見る。

はは、そういう見解をするのが普通の人だよね……お姉ちゃん、ちょっと控えたほうがいいよ、特に男の人の前では。

「いやだ、陽平さん雪音さんだなんて、照れるわね? 雪音でいいですよ……」

ちょっとお姉ちゃんなに照れているのよ。

「陽平さんだなんて呼ばれると……照れるなぁ……俺も陽平でいいよ」

ぶぅ、なんだか二人いい感じになっちゃってなによ! って、何で、あたしが不機嫌にならなければいけないのよぉ。

「どうかしたの亜美? なにをそんな膨れっ面しているの?」

雪音が、ぷぅっと頬を膨らませた亜美の顔を覗き込む。

「別になんでもないよ! あたしコーヒーでも買ってこようかな?」

亜美がフェリーターミナルに足を向けると、後ろから陽平が声をかけてくる。

「亜美ちゃん、コーヒーならあるよ、インスタントだけれど……」

亜美は一瞬、陽平の言っていることが理解できなかった。

ここは、フェリーターミナルの駐車場で、インスタントコーヒーの為にお湯を沸かす設備がどこかに置いてある訳でもない、まさか焚き火でもしてお湯を沸かすつもりじゃないだろうし、一体どうするつもりなの?

「でも、お兄ちゃん、お湯は?」

 そんな疑問を持ちながら首を傾げ亜美が陽平に対して振り向くと、その視線の先にはニッコリと微笑む陽平の姿があった。

「ヘヘ、こう見えてもコーヒーが好きでね? 朝は入れたてのコーヒーが飲みたいから、必ずインスタントコーヒーは持ち歩いているんだ、当然お湯も沸かせるように、電気コンロを車に備え付けてあるんだよ」

陽平は、自慢げに鼻をぴくぴくさせる。

すごいな、車の中に、台所があるよ? テレビは最近よく車に付いているけれど、小さいシンクがついている車って初めて見たかもしれない。

陽平は、車の中にある棚を開き、その中から小さなコンロを取り出す。

「これなら、いつでも家出が出来そう」

あたしってば馬鹿? 何を言っているんだろう。

この事を後悔先に立たずというのであろう、思わず口をついた台詞に対し、亜美はがっくりと肩を落とし、自虐の念に陥る。

「はは、亜美ちゃん、家出しようにも一人暮らしだからね」

陽平は、屈託なく笑いながら、ポットにペットボトルに入った水を汲む。

あーん、やっぱり呆れているぅ、所詮は高校生の言っていることだとか思って、相手にしてくれていないのかも……。

亜美は心の中で号泣する。



「さてと、喫茶陽平のスペシャルコーヒーをどうぞ、普通のインスタントコーヒーとはちょっと違うはずだから」

いい匂い、あたしもお姉ちゃんもコーヒー党だから嬉しいなぁ。コーヒーの香りってイライラした気持ちが抑えられるような感じがする。車の中に、コーヒーのいい匂いが充満して目を閉じていれば、そこが車の中ということを忘れてしまいそうな感じかも。

「美味しい!」

雪音が声をあげる。

「でしょ? インスタントコーヒーでも、ちょっと入れ方を工夫すると、全然違った味になるんだよ、この入れ方は家の近くにある喫茶店で教わったんだ」

陽平はさらに、鼻高々になる。

ほぇ〜、本当に美味しいなぁ、見た感じ特別なインスタントを使っているようではないのに、まぁ贅沢を言えば、紙コップじゃなければもっと美味しくいただけるのだろうけれど、でも確かに自慢できる味ね。

「亜美ちゃんはどう? お気に召さないかな?」

陽平が亜美の顔を眺めると、再び亜美の顔が紅潮する。

「ううん! 大丈夫、平気だから……」

「……ひょっとして、亜美ちゃんは、コーヒーが駄目な人?」

陽平は、ちょっと寂しそうな表情で亜美を見つめる。

そっ、そんな表情で見ないでよぉ、嫌いじゃない、好きなの……好き……

自分の気持ちの中に出てきた言葉に、自ら赤らむ。

「きっ、嫌いじゃないよ……すっ、すっ……好き」

いやだぁ……顔がゆであがっちゃうよぉ。

亜美の顔は、まるで、湯気が出ているのではというくらい真っ赤な顔をしている。

「変な亜美、どうかしたの? 顔が真っ赤だよ、熱でもあるのかな?」

雪音が、亜美のおでこを触ろうとする。

「大丈夫、ちょっと疲れちゃったみたいなのよね、ヘヘ、うん、お兄ちゃんの車の中で大人しく横になっているよ」

亜美は、雪音の手を避けるように陽平の車の中に飛び込む。

「変な娘……」

お姉ちゃんわかっているよ? 自分でも変だなって思っているよ、でも、こんな気持ちになったのは初めてだし、もしかしたら、本当に、お兄ちゃんの事好きになっちゃったのかなぁ。

車に乗り込み、自分のカバンに顔を埋めながら、亜美は思案顔になる。

「……って、もしかしたら、あたしの初恋って言うこと?」

そうかも……よく考えたらあたし、男の人のことを好きになったことないかもしれない。

亜美は、顔を埋めたカバンをぎゅっと抱きしめる。

困ったよぉ、どぉしよぉ……。あたしの初恋がこんなに出会ってすぐの人だなんて、それも東京にいる年の離れた大人の人なんて……。

「どぉしよぉ〜」

 困ったような、でも嬉しそうな表情を浮かべながら亜美はそのカバンをさらに抱きしめる。



yukine 不思議……。

「どうしたのかしら、あの娘?」

雪音は、首を傾げ亜美の消えた車を見る。

あんなに顔を真っ赤にして、熱でもあるのかしら? それにしては様子が変だったし、あそこで緊張していたから余計かしら?

「ふぅ……」

「どうかした?」

雪音がため息をつくと不意に陽平が声をかけてくる。

なんでだろう? 急に声をかけられたのに驚かなかった。むしろ、今の一声で何となく胸のつかえが取れたような感じというか、なんだか落ち着いたというか、不思議な感じ。

雪音は、ついボーっと陽平の顔を見る。

彼に似ているのかしら? ううん、ぜんぜん似ていないわよね?

「えっ? あっ、はっ……はい?」

 思わず素っ頓狂な声を上げ、その声に恥ずかしくなり雪音は手でその口を塞ぐが、そんな事は陽平には気にならなかったようだ。

「いや、なんだか心配そうな顔をしていたから、それにしても亜美ちゃんどうしたのかなぁ? 具合でも悪いのかな?」

彼も心配そうに亜美の乗っている車を見つめている。その表情は本気で亜美の事を心配しているような表情、きっと、あなたは優しい人なのね? さっき出会ったばかりの亜美の事をそんなに真剣に心配してくれるなんて……。

雪音は、いつしか陽平の顔をまじまじと眺めていた。

「雪音……さん?」

眺めていた陽平の顔が急にこちらに向く。

「はっ、はい?」

雪音は再び素っ頓狂な声を上げて、同じように自分の手でその口を覆う。

「いや、亜美ちゃんの事ですよ、ゆっくりさせてあげた方が良いかなって思って、ちょっとその辺でもぶらつきませんか?」

陽平の頬にちょっと赤みがさす、そしてその赤みはまる伝染したかのように雪音の頬にも浮かび上がる。

「そっ、そうですね、ちょっとぶらつきましょうか……」

男の人と二人きりで歩くのって久しぶりだな、いつ以来だろうこうやって歩くのは。ちょっと心地がいいかもしれないなぁ。

「ここでは、こんなに晴れているのに船は遅れているんだね? 沖の波が荒いせいなのかな?」

 陽平は海を眺めながら声をかけてくる。

「そうかもしれませんね、海上を台風が通過しているって言っていたし、昨日こっちもひどい嵐でした」

そう、ひどい嵐だった、傘をさしながらだったけれど両肩はびしょ濡れになるし、足元もグチョグチョになってしまった。

「そうかも知れませんね? 東京もひどいものでしたよ、電車は止まるし」

陽平の顔は、うんざりした顔になる。

「うふ、ここもひどかったんですよ、まるで今のこの風景が嘘のように大荒れでした」

まるで、このまま雨が上がらずに、ずっとこの嵐が続くのではないかと思うほどだった。しかし、一晩あけてのこの天気はまるで『昨日はごめんね、お詫びに今日は天気を良くするから』と言うような一転したような空模様。本当にいい天気、海の色をそのまま空に持ち上げたような色、空色っていうのは、こんな色なのねって本当に思うわ。

「気持ちいい……」

雪音は桟橋でつい口をつく。たいした距離ではないのだが、何となく歩くという行為がすごく気持ちのいいものに感じる。

「本当に、潮風って気持ちいいよね?」

陽平は、全身に潮風を浴びながら心地よさそうな顔をして伸びをする。

「エッ? あっ……はい、海風ってなんだか落ち着くのよねぇ、不思議……」

いつの間にか、桟橋の突端まで歩ききってしまった。頬をなでる潮風が心地よい、蒸し暑さが落ち着き気温は高いものの、湿気がない分ちょっと爽やかささえ感じる。

「そういえば、雪音さんって函館の人っていっていたけれど、青森には何しに来たの?」

二人海を眺めながら、話をしていると、いきなり陽平が雪音に聞いてくる。

「……はい、法事なんです」

雪音は、その質問に対し、ギュッと口を噛みながら海を眺め答える。

「へぇ、親戚の方の?」

親戚……本当は、親戚でもなんでもない赤の他人なのだけれど、でも……親戚と同じ。ううん、それ以上の人……。

「……違います……エヘ、わたしの、婚約者……だった人のなんです」

雪音は、寂しげな笑顔とともに顔を上げ陽平を見る。そして陽平は息を呑み、ギョッとした顔をして雪音の顔を見つめる。

「ごめん、変な事聞いちゃったね」

陽平は、心底申し訳ないといった表情で頭を下げる。

「ううん、大丈夫、もう七回忌だから、今となっては想い出になってきています」

本当に? 本当に想い出なの? 違う、まだ、わたしの気持ちの中では整理できていない、まだ、あの人を心のどこかで忘れる事ができていない。

「失礼な事を聞いたついでに聞いちゃうけれど、雪音さんと……その方はお見合いで?」

陽平が、おずおずと雪音の顔を見る。

「いえ、一応、恋愛……です」

顔が火照る、人に向かって恋愛なんて言うのははじめてかもしれない。

「だったら、想い出じゃないでしょ? 雪音さんの心の中に、まだ、その婚約者は生き続けているんじゃないかな、忘れたくないから法要に行ったり、お墓にお参りに行ったりするんじゃないのかな?」

「えっ?」

雪音は、驚いた表情で陽平を見る。その視線の先にいる陽平は、にっこりと優しく微笑んで雪音を見ている。

心の中に生きている? 何であなたにはわかってしまうの? 確かにそうかも知れない、忘れなければと思う気持ちと、忘れてはいけないという気持ちがせめぎあって、そうしてあの人は、わたしの気持ちの中に留まる、それが最近では当たり前という気持ちになってきている。

「うふ、よくお分かりですね? 確かにそうかもしれません。あの人は、もうわたしの心の一部なのかもしれない……別に操を立てているわけではないけれども……ウフフ、あなたも、ずいぶんと経験されているみたいですね?」

雪音は、にっこりと微笑み陽平を見る。その目には涙がにじんでいるようだ。

「はは、まぁ人並みにね?」

彼は、はにかんだ様な笑顔を浮かべながら私を見つめる。アハ、可愛い笑顔……三十代の男性を捕まえてこんな言い方は失礼かもしれないけれど、素直な笑顔というのかな、わたしの周りにいるタイプの人とは違うかも。

「さてと、亜美ちゃんが心配しちゃうかな? 車に戻ろうか?」

陽平は、そう言いながら身体の向きを変え、自分の車に向かい歩き出す。

「はい!」

雪音も陽平につられる様に長い髪の毛を翻し、歩き出す。

不思議な人ね? 初対面なのにもかかわらず、なんだか昔からの知り合いみたい。こうやって後姿を見て歩いているのも、なんだかすごく自然な感じ……フフ、やっぱり、あの人にちょっと似ているかも。

「へぇくしょん! うぃぃー……誰か噂でもしているのかな?」

はは……あの人より、ちょっと親父っぽいかな?

「風邪でもひいちゃいましたかねぇ?」

雪音は苦笑いを浮かべながら、陽平に寄り添い顔を覗き込む。

「いやぁ、会社で仲間や部下達が噂しているんでしょ?『うるさいのがいなくなってせいせいした』って」

陽平が肩をすくめ、苦笑いを浮かべながら雪音を見る。

「うふ、本当にそうですかね?」

雪音は、優しい笑顔で彼を見る。案外と、会社では、もてているかも知れませんよ?



Youhei フェリー

「やっと船が来たみたいですね?」

雪音が、車の中から視線を港に向けると、その視線の先には白くて大きな船がまさに今、着岸しようとしている。

「ずいぶんと大きな船だな、想像以上かもしれない」

確かに、四時間近くも航行する船だから、そんなに小さくはないだろうとは思っていたけれど、こんなに大きいとは思っていなかった。

「うん、この『ほるす』はね、この青函航路の中でも大きい部類に入るの、あたしたちが、函館から来るときに乗った『びいな』は、もっと小さかったよね? お姉ちゃん」

亜美は雪音を見る。

「そうね、この船の半分ぐらいだったかしら」

雪音も、船を見上げていう。

「まっ、まぁ、半分っていうのはどうかと思うけれど、でも、この船は大きいなぁ」

亜美は、苦笑いを浮かべながら再び船を見上げる。その顔には、十六歳とは思えないあどけなさが浮かび上がっており、その瞳は輝いている。

「亜美ちゃんは、船が好きなのかな?」

陽平が亜美の顔を見つめると、亜美は、その顔を見て照れたようにうなずく。

「別に、船に限定するわけじゃないけれど、あたし旅行って大好きだからそれにまつわるアイテム、要は、公共の乗り物が好きなの、特に鉄道とか……が好きかも」

亜美は、恥ずかしそうに顔をうつむける。

「へん……かなぁ? 女の子なのに、鉄道マニアって」

へぇー、珍しいなぁ、女の子の鉄ちゃんかぁ。

「変ではないよ、ただ珍しいけれどね? 俺も、旅好きだから色々な乗り物に乗るけれど、小さい頃の血が騒ぐというか、鉄道で移動するときはワクワクするよ」

陽平は、亜美の顔を見てにっこりと微笑む。

「本当?」

 亜美の顔がパァッと明るくなる。

「本当さ、のんびりと汽車に揺られての旅っていうのもいいかもね、ビール片手に、ヘヘ」

陽平は、ちょっと舌を出しておどける。

「あぁ〜、お兄ちゃんはのんべだな? お酒大好きでしょ?」

亜美が、にっこりと微笑みながら陽平を見る。

「はは、ばれたかな? 昨日から飲めないから、ちょっとストレスを感じているんだ」

陽平も、その笑顔につられて笑顔を返す。

「さてと、亜美、そろそろターミナルに行っていないと」

雪音のその一言で、亜美の顔から笑顔が消える。

「……うん、そうだね」

亜美は、陽平の顔をまじまじと見つめると、不意に笑顔を見せる。

「お兄ちゃんも、あの船に乗るんだものね? また、後で会おうよね?」

亜美は、笑顔を見せているものの瞳の奥は、真剣だった。

「うん、また船の中で、ゆっくりと話をしようか」

陽平も、にっこりと微笑み、亜美を見る。

「うん!」

亜美は、大げさに首を縦に振り、車を降りる。

「陽平さん、ありがとうございました、おかげでゆっくりする事ができました」

雪音も、車から降り陽平に頭を下げる。

「いえいえ、また後で会いましょう」

陽平は、歩き去る二人を見送る。

「なんだか、急に静かになったな……」

今までにぎやかだった車の中が、静まりかえり、急に寂しさが込み上げる。雪音さんに、亜美ちゃんかぁ……なかなか可愛い姉妹だったなぁ、また船の中で会えればいいけれど。

「うふふふ……」

陽平が気味の悪い微笑を浮かべていると、係員から車を動かすように指示が出る。

はは、さてと、なんだかんだあったけれど、やっと本州に別れを告げていよいよ北の大地、北海道へ、かぁ。

陽平の握るハンドルに、力がこもる。

第三話へ続く……。