第三話 船旅
=八月十二日 青函航路=
「はい、そうしたらぁ、甲板員の指示通りに車を止めてください」
津軽訛りの強い係員にチケットを見せ、笑顔なく業務的に指示されるがままに、大きく口を開いているその船の中に車を進める。
ガコン、ガコン……ゴゴゴ……船へのランプウェイ鉄板の凸凹が大きな音と振動を伴いながら直接尻に伝わってくる。ここで中途半端に口を開くと舌をかむかもしれないなぁ。
「オーライ、オーライ……はいストップ! サイドを引いて!」
甲板員は、陽平の車を誘導し、車を止める場所へと導き命令口調で陽平に言うとすぐに違う車に向かって指示を出す。
――まぁ、黒いタキシードを着てお出迎えしろとまでは言わないが、もうちょっと優しく言ってもらいたいものだな。
陽平は少し不満げな顔をしながらも、最小限の荷物を持ちながら車を降りて、薄暗い甲板の中で輝く『客室口』と書かれた案内板に従って甲板を歩く。足元は海水なのかちょっとぬれており、滑りそうだ。
「ほぉ……」
車両甲板から客室に向かう通路に出ると、それまで無機質なイメージだった船倉から、エスカレーターに乗せられたかと思うと、いきなり絨毯が敷かれたちょっと洒落たビジネスホテルにでも入ったかのような感覚にとらわれる。
「これはまた……」
そこはまるで高級なビジネスホテルのロビーようになっており、ホテルのフロントよろしくシャンデリアの煌くその下にまさにホテルのようなフロントカウンターがある。
「沢井様ですね、こちらがキーになりますので下船の際にはこちらにお戻しください」
こちらは、ちゃんと黒服を着たホテルボーイ……いや、船員さんなのか? が、陽平にルームキーを渡す。
良かったな、ちょっと奮発してでも特等室を取っておいて……運が良く取れたから良かったものの、取れなかったら……あの、二等室かぁ?
陽平が辺りを見渡すとそこにはロビーから桟敷席からと、行き場を失ったように人が溢れかえっており、それぞれロビーのテレビでやっている高校野球を見上げる者や、自動販売機でジュースを買う者、お土産やお菓子を買う者等いろいろな人が入り乱れており、さながら、列車の出る直前の駅の待合室、もしくは上映間近の映画館のロビーのようになっている。
まだまだ運がある方なのかもしれないなぁ俺って……。
ため息をつきながら、陽平は案内板に従いながら指定されて部屋に向かう。
「ほぉ……これはまた」
陽平は鍵に刻印されている部屋の鍵を開け部屋の中を見ると、その部屋の中の様子に再び感嘆の声をあげる。
「これは、ビジネスホテルというより、立派な日本旅館だな」
陽平がチョイスされた部屋は、特等でも和室の特等だった。六畳ぐらいの部屋だろうか、窓にはカーテンではなく障子が配され、テレビも完備されている。さすがに、お出迎えのお茶菓子はないものの、一瞬船の中ということを忘れてしまいそうだ。
「これなら、ゆっくりと休めそうだ」
どっかりと陽平は荷物を置きため息を付くが、安心したせいなのか、今まで忘れていた空腹感が陽平のお腹を刺激し始める。
「さてと、腹が空いては何とやら、とりあえず何か食い物でも仕入れてくるかな?」
誰に言うともなく陽平は再びルームキーを持ち出して、陽平は再びロビーに向かう、そこは薄暗く個室が並ぶ区画になっており、まるでそこ一角だけは別世界のように静かだったが、再びロビー付近にまで行くとさっきの喧騒が再び訪れる。
「仕方が無いよ、ここにいるべ?」
子供連れは探しつかれたようにロビーにある絨毯スペースにレジャーシートを引き、子供たちにそこに座るように促している。
そういえば、あの二人はどうしたのかな? ちゃんとこの船に乗る事ができたのかな? 確かこの便だったと思ったけれど……。
ロングヘアーの雪音と、ウェーブヘアーの亜美の二人の笑顔を思い出しながら陽平はらせん階段を見上げると、そこにはレストランの案内看板が置かれていた。
レストランがあるのか? 売店で弁当も売っているし、これなら空腹には何とか耐えうる事ができそうだ♪ これでいいかな……フム、これも美味そうだし……カップラーメンも捨てがたいが、朝にそばを食ったから昼は違うものにしたいなぁ……缶コーヒーでも買ってパンにしようかな?
さすがに出来たてのパンまではいかないものの、昔学食で買ったような惣菜パンをいくつかチョイスし、対面にある自動販売機コーナーに足を向け、いつも好んで飲んでいる缶コーヒーのボタンを押して出てきたそれを見つめていると不意に、陽平の頭に嬉しそうな顔をしてそれを渡してくれた雪音の顔が浮かぶ。
後で、船内を探してみようかな? どうせ四時間弱の船旅だ、暇なのは良くわかっているし、彼女達とはなんだかこれからも色々ありそうな気がするよ……。
陽平は取り出し口からその缶コーヒーを取り出し、自分の部屋に向けて歩き出すが、その視線はロングへアーとウェーブヘアーの姉妹を探すように周囲に配られていた。
yukine&ami 船上での再会
「もぉー、お姉ちゃんが乗船前にトイレになんか行くから、完全に出遅れちゃったじゃないのよ! どおするの? この雑踏……」
亜美は、まるでハムスターのように頬を膨らませながら、無駄に足を動かせるが、その向く先に人垣の空白を見出す事はできないでいた。
「だって、生理的欲求は、我慢しないほうがいいってなんかの本に書いてあったし……」
「それは、時と場合によるの!」
亜美にピシャリと言われると雪音はシュンとした顔をして黙り込む。
それにしても本当にどうしたものかしらねぇ? 二等の桟敷席は既に立っているぐらいのスペースしか空いていないし、椅子らしい椅子には人が鈴なりだし、後残されている場所といったらあそこしかないのかしら?
「……お姉ちゃん、あたし甲板に四時間も居るのなんて嫌だからね」
雪音が甲板をチラッと見たに気が付いたのか、亜美は口を尖らす。
「でも……」
助けを請うように雪音がまだ座るスペースの残っている甲板にあるベンチに視線を向ける。
「い・や・だ! こんな天気の日に外にいたら日に焼けちゃうじゃないのよぉ〜」
最近の高校生は、日に焼けるのを嫌がるのかしら? わたしたちの時代はこんがり小麦色なんて言っていたのに……。
雪音は亜美に気が付かれない様にため息を付くと亜美は容赦なく台詞を続ける。
「お姉ちゃんだって、日に焼けたくないでしょ? その頬にあるそばかす……増えるよ?」
亜美が指差す雪音の顔の先のには、目と頬の間にさほど目立たないものの、青ノリを振りかけたようなそばかすがあり、それには雪音本人もちょっと気にしている。
「亜美、人が気にしていることを、そうやってズカズカと言わないようにしないと……」
シュンとしながらも頬を膨らませる雪音だが、容赦なく亜美は今置かれている二人の現状を突きつけてくる。
「でも、だったらどうするのよ、これから約四時間」
北国とはいえ、お盆休みの夏真っ盛りのその空は紫外線を満タンに蓄えながらその甲板に降り注がせており、その光は見るからに暑そうだ。
そうだ、今はそばかす云々の問題ではなく、目前にある問題点の解決に焦点を合わせなければいけない。下手をすれば約四時間もの間、ずっとあの光の下で立ちっぱなしになる可能性も否定できなくなってきている。
雪音が諦めたようにロビーに視線を戻すと、
「あら?」
雪音の視線の先には、港で別れた人が缶コーヒーを持ちながらキョロキョロとしている。
「陽平さ……」
「おにぃ〜ちゃぁ〜ん!」
雪音がはじかせながら声をかける僅か前に、既に亜美は既にそれを実行に移すように猫なで声を上げながら陽平の腕に飛びついていた。
「おっ? おっ? な、なんだぁ」
彼は目を白黒させながら亜美の事を見ている。それはそうだ、思いがけないところでいきなり腕をつかまれれば、誰だって驚くわよ。
雪音の頬が無意識に膨らむが、その視線の先では亜美がなついたネコのように頬を陽平の腕にすり寄せている。
ちょっと羨ましいそうに感じるのは気のせいかしら?
「んもぅ、忘れちゃったのぉ?」
亜美が口を尖らせながら頬を膨らませる。
「あぁ、亜美ちゃんかぁ、びっくりしたよ」
亜美の事を認識して陽平の表情から硬さが取れ、再び優しい笑顔が戻った。
この、亜美に対する彼の笑顔は優しいと言うだけではないわよね? なんと言うのか、包容力のあるというか、亜美がなつく理由もわかるような気もするけれど……。
そんな二人を見つめる雪音は複雑な笑顔を浮かべる。
「……ぇちゃん……お姉ちゃん!」
亜美の声とともに、雪音の腕が引っ張られる。
エッ? なに?
あまりにも突飛に声をかけられたために、雪音は軽くパニックを起こしたように目を白黒させその背の高い人の顔を見上げる。
「聞いていたの? お兄ちゃん特等の個室だからこっそりと部屋に入っちゃえばだって」
亜美の顔が雪音に近づき、声を潜めながら言う。
「でも、大丈夫なのかしら?」
「これだけ人がいればわからないでしょ?」
陽平は、なんて言う事無いといった表情で二人を見る。
「それに立ちっぱなしじゃあ疲れて仕方がないよ、もしもバレたって船員さんに事情を話せばきっと分かってくれると思うよ?」
陽平はそういいながら二人にウィンクする。
ポッ。
そんな仕草に姉妹の頬が同時に赤らむ。
いやだ、まただ、無意識にまた顔が反応しちゃうよ、なんだかさっきからお兄ちゃんの仕草に顔が反応しちゃうなぁ。
亜美はそんな顔を隠すようにうつむき、ばれないように上目遣いでその顔を見つめる。
あら? あの人と同じ仕草ね? 別に教えたわけではないのだけれど、雰囲気が似ていると行動も似てくるのかしら?
雪音は不思議そうな顔をしながら陽平の顔を見るが、そんな事に気が着いていない陽平は薄暗い個室の並んでいる区画に歩き出し、お互いにそれぞれの思いを持ちながら陽平の後をついて歩いてゆく。
「へぇ、特等って、すごいね……まるで旅館みたいだよ……」
亜美が、口をぽかんと開けたまま、畳敷きの室内を見回す。
「本当ね?」
雪音も、驚きの表情を隠さずに、部屋の様子を見る。
「さっき俺もそう思ったよ」
陽平はどっかりと腰をすえ、テレビの電源を入れると、あまり映りはよくないものの、地元のニュースが流れはじめる。
『ここ、青森フェリーターミナルでは昨日の台風の影響で……』
テレビでは、ついさっきまでいたフェリーターミナルの混雑した様子が映した画像が流れはじめると、雪音の隣にいた亜美がいきなり大きな声を上げる。
「この映像さっきターミナルで写していたやつだ!」
亜美はそう言いながらテレビにかじりつく。
「あぁ、そういえばテレビカメラを持っていた人がいたわよねぇ?」
雪音もその画像を見ながら感心したように言う。
さっきのフェリーターミナルで明らかに、テレビ局の人という感じの人がなんだか取材をしていたわよね? これがそうだったんだぁ……へぇ、ちょっと面白いかも。
「あっ! 今チラッとあたしが写った」
亜美がテレビを抱えるようにかじりつく。
「本当に?」
雪音がその場面を見ようとテレビを見るが時既に遅くその時点では違う画面に変わっていた。
「本当に! あぁ〜、知っていたらビデオに撮っておくんだったぁ」
亜美は、心底残念そうに、そして恨めしそうにそのテレビを見つめている。
ハハ、亜美、そんなことをいっても、仕方がないじゃないのよ、そんな子供みたいな事を言っていると、ほら、陽平さんが呆れているわよ?
雪音は苦笑いを浮かべて亜美を見つめると、陽平も苦笑いを浮かべながらも、優しい顔を亜美に向けている。
「あっ、動き出したみたいだな」
陽平が窓の外を見ながらいうと、その窓の外の景色がゆっくりと動き始めている。
「本当だ」
亜美が陽平に寄り添うようにその窓にかじりつく。
「船の出港って、何か、こう衝撃的なものが無いですよね、ドンと揺れるとかエンジン音が高鳴るとかっていうのが、だからいつの間にか出ちゃったっていう感じなのかしら?」
雪音は、ロビーで買ってきた缶入りのお茶を飲みながら陽平に言うと同時に軽快な音楽とともに船内での注意事項などが流れはじめる。
「確かにそうだね、もっとこう、汽笛を鳴らすとかすると思っていたよ」
陽平も、雪音の顔を見ながら微笑むと、動き出した事を体感できる揺れが徐々に部屋の中に伝わってくる。
「お姉ちゃん、船内にお風呂があるって? 一緒に行かない?」
いつの間にかもらってきた船内案内図を見つめ亜美が声を上げる。
「うーん、私は後でいいわ、亜美ひとりで行ってくれば?」
「ウン! 汗かいちゃって気持ちが悪かったからいって来るよ」
亜美はそういい、着替えの入っているカバンを持って、部屋から元気よく出て行く。
あの娘ったら、本当にお風呂好きだからなぁ。
「ちょっと脱ぎにくいかな?」
ゆっくりではあるがそこが船の中であるという事を象徴するように足元がゆれ、下着を脱ごうと片足で立っていると危うく転びそうになってしまう。
「えへへ、誰も入っていない」
男性のお風呂には何人か入っていくのを見たが、女性用には誰も入っておらず、亜美の貸し切りのようになっている。
「はぁ、いい気持ち……船に乗りながらお風呂に入るなんてちょっと贅沢な感じかも……」
外の景色を見ることができるでもないその浴室は、少し息苦しさを感じるが、その湯船は広く、亜美は湯船にゆったりと体を入れため息をつくと、そのお湯は船の揺れにあわせてゆっくりと波打っているが、そんなに気分の悪くなるような揺れではない。
それにしても、やっぱりお兄ちゃんとは運命なのかな? ターミナルであの人に抱きついて、そして、今一緒に船旅を楽しんでいる、不思議な感覚よね? もしかしたら、これが運命の出会いで、これからずっと……なぁんて。
「エヘヘ……」
お兄ちゃんかぁ……、いつかは陽平なんて呼んでいたりして、キャ〜。
亜美は、思わず浮かぶ笑みを抑えるように湯船に顔をつける。
「陽平さんは、あっちに着いたらどちらに行く予定なんですか?」
見ていたテレビにノイズが増え、見難くなりはじめたころ、文庫本を読んでいた雪音が不意に口を開く。
「ん? 特に決めていないかな? 函館をとりあえず見て回ろうとは思っているけれど……それに昔お世話になった人が函館にいるから、挨拶にも行こうと思っているぐらい」
陽平は見難くなったテレビを消して、鼻先を掻きながら雪音に答える。
「宿とかはどうしているんです?」
「特に決めていないなぁ、飛び込みで泊まれればラッキーだし、だめなら車で寝ればいいだろうし、風まかせ……かな?」
陽平の横顔がちょっとはにかんでいるように見える。
そうか、何も決めていないんだぁ。
少し顔をほころばせながら雪音は再び持っていた文庫本の視線を落とすが、その内容はまったくと言っていいほど入ってこない。
「さてと、悪いけれどちょっと横にさせてもらうよ、ちょっと疲れた……よ」
陽平は、そう言いながら何もひいていない畳の上にゴロンと横になる。
「陽平さん、何かひいて横になった方が……」
雪音は、慌てて周りを見渡し近くにあった座布団をとろうとするが陽平は優しく手を振り、それを拒む。
「スースー……」
雪音が、上に掛ける毛布を見つけた頃、既に陽平は寝息を立てている。
あらら、もう寝ている……そうよね、東京から一人で車を運転してきたんだもの、疲れているわよね?
雪音は、その体に押入れに入っていた毛布をそっと掛け、その横にちょこんと座り、その寝顔を覗き見る。
なんだか本当に不思議な人ね。
「あれ? お兄ちゃん寝ちゃったの?」
亜美が髪の毛を拭きながら風呂から部屋に戻ってくると、すぐに陽平の様子を眺める。
「あは、お兄ちゃん、もう熟睡しているね」
そういいながら、亜美は横たわっている陽平の横に自分も横たわる。
「ちょっ、ちょっと亜美、何しているのよ!」
雪音は狼狽しながら言う。
「何って、あたしもちょっと寝ようかなって……お姉ちゃんも寝れば?」
えーっと、ちょっと恥ずかしいなぁ……寝ている最中に彼が起きて……あんなことや、こんなことされちゃったり……やだぁ。
お姉ちゃんの顔が真っ赤になっている……まぁ、なにを想像したのかは大体わかるが、三十になる女が、そんなウブでいいのかしら?
亜美は、苦笑いを浮かべながら陽平の寝顔を見るとその頬を赤らめ、陽平の隣に横たえ、その様子を複雑な表情で雪音が見つめている。
お兄ちゃん……お兄ちゃんには彼女とかいるのかな? いつ東京に帰るの? 年下をどう思っているの?
亜美は色々な事を考えながら目をつぶる。
目が覚めると函館に着いてしまう、そうしたらあなたはその北の大地に飛び出していってしまう……あたしはもうあなたとは会えない……の……。
「亜美、あなた何か掛けないと」
あら? 亜美ったらもう寝ちゃっているの? クス、なんだか本当の兄妹みたいね?
雪音はそう思いながら横になって寝息を立てている二人を眺める。
「あたしもお風呂に行って来よう」
雪音はすっと立ち上がり着替えを持って部屋を後にする。
陽平さんなら大丈夫でしょ? そんなに悪い事をする人には見えないし。
部屋を出る瞬間、亜美の顔をチラッと見る、亜美の寝顔はなんだか幸せそうに見える。
Youhei 北の街に……。
「ん? ふぁぁ〜……よく寝た……って、わぁ〜!」
まどろんだ目を擦りながら陽平が目を覚ますと、寝息がかかるほどの至近距離に、まだちょっとあどけなさを持った亜美の寝顔がある。
「あっ、亜美ちゃん?」
無防備な彼女の寝姿から、飛び跳ねるように起き上がる。
「あっ、陽平さん起きました?」
窓の近くで文庫本を読んでいた雪音が、にっこりと陽平を見る。
「……雪音さん?」
そうだ、ゴロンとしているうちに寝てしまったんだな、それにしても、亜美ちゃん、無防備すぎるよ、出会って数時間しか経っていない男の隣で寝息を立てているなんて。
「あれ? これは」
陽平は、無意識に握り締めていた毛布に気がつく。
「雪音さんが掛けてくれたの?」
陽平は、そう言い雪音を見る。
「はい、いくら夏とはいえ上掛けはあったほうがいいですから」
雪音は、文庫本を閉じながら陽平に言う。
「ありがとう」
「いいえ」
陽平が素直に頭を下げると、雪音は恥ずかしそうに手を振る。
「あっ、イカ釣り船……もう函館に着きますね」
窓の外を見た雪音がそう言う。窓の外にはまぶしいぐらいの水銀灯を照らした漁船が数隻浮かんでいる。
「あぁ、この光が、漁火かぁ」
津軽海峡に浮かぶ光の点線、海に浮かぶこの漁火の光はとても幻想的と聞いたことがあるが、その光をこんな間近で見られるとは思わなかったよ、船が遅れたおかげかな?
「はい、その昔は、船にタイマツを乗せていたんです、その光だから『漁火』と言っていたようですが、今は電球ですよね? でもこの方が、光が強くって、イカもいっぱい集まってきてたくさん取れるでしょうし、それに見ているほうも綺麗に見えるかもしれませんね?」
二人して肩を寄せ合い窓の外を眺めるそして、その光の先にこんもりとした山が見える。
「あれが函館山?」
陽平が指を差す先を、雪音が確認するように覗き込む。
「はい、そうです、地元の人間は、臥牛山と呼ぶ人もいますね」
雪音はにっこりと微笑みながら陽平を見る。
「臥牛山?」
「はい、夜だとわかり難いかもしれませんが、まるで牛が横になった形に見えるから臥牛山。そのまんまなんですけれどね」
フワァ、シャンプーの香り? 雪音から、ほんのりとシャンプーの香りがする。二人が寝ているときにお風呂にでも入ったのであろう、服装も青森で見た格好と違っている。
陽平の顔がちょっと赤くなる。
「あぁ! お兄ちゃん達あたしが寝ている事をいいことに、ラブラブしている!」
背後から、亜美の声がする。
「ラブラブって、そんなこと無いわよぉ……ねぇ、陽平さん」
その声に、雪音はちょっと狼狽しながら応える。
「えぇーだって、あんなに二人で密着していたじゃない」
亜美の顔はハムスターを超え、ふぐのように頬を膨らませている。
『お客様に御知らせ致します、本船はまもなく函館フェリーターミナルに到着します……』
部屋に函館に到着する旨の放送が入る。
「さてと、降りる支度をしなければね」
陽平が立ち上がる。それを合図に二人の姉妹も立ち上がる。
『車でご乗船のお客様は、お車にお戻りください、徒歩でご乗船のお客様は車がすべて降りてからの下船となります』
下船準備で騒然としているロビーに放送が繰り返される。
「さてと、じゃあ俺はこの辺で……また会えるといいね?」
陽平は持っている荷物を持ち替え、二人の姉妹に手を振る。
「はい、そうですね? ……また会えそうな気がします……良い旅を続けてください」
雪音も手を振る、表情はちょっと寂しそうかな? まぁ、ちょっと寂しい気持ちは俺も一緒だな、ひょんなことで知り合って数時間だけれど一緒に旅を楽しんだ友達だ。
「お兄ちゃん、これあたしの携帯の番号とメルアド……絶対連絡ちょうだいね?」
亜美は紙切れを陽平に渡す。亜美の目には光るものがうっすらと浮かんでいる。
「うん、絶対連絡するから、ほら、そんな顔をしないで元気だして!」
陽平は、そういい、亜美の肩をぽんとたたく。
「えへへ」
亜美の笑顔は無理に作ったような感じがする。これ以上一緒にいたら、もっと寂しくなるな。
陽平は、自分の心を鬼にして、二人に手を上げ、車両甲板に足を向ける。
「何はともあれ北海道、北の大地への第一歩を踏み出すか!」
様々な車の排気ガスが充満した船倉の扉がゆっくりと開きだし、その光の先は陽平の憧れの地である北海道だ。