第四話 北の玄関口
=八月十二日夜 上陸と想い=
「よし、行くか!」
甲板員の指示が陽平の大きな車に対して動かせの指示を出すと、ハンドルを握る手に自然と力がこもる。
北の大地に上陸!
どこと無く満足げな表情を浮かべながら陽平は目の前に広がる景色を目に焼き付ける。
「さてと、確かあの人の家は函館市内だと思ったけれど……」
陽平は、既に目的地を把握しているのであろう車たちが様々な方向に走り去っていく様を尻目にしながら駐車スペースに車を止める。
住所は……。
陽平は、会社でメモして来た紙を取り出し、ナビにその住所をインプットしようとリモコンに手を伸ばすと、ドリンクホルダーに置かれた缶コーヒーに目が行く。
確か雪音さんと言ったよな? ここからどうやって市内に行くのだろう。
陽平は視線をめぐらせるが、市内行きのバスが止まっているわけでもなく、タクシーは後から乗客を乗せては走り去ってゆき、タクシー乗り場のストックは既に底を付く寸前だった。
Ami 道は続く……。
「はぁ〜」
徐々に船のロビーから人がいなくなっていくその様子を見ながらついため息をついてしまう。あの人はもう既に上陸したのよね? もう、どこかまで走り去ってしまっているのかしら?
「はぁ〜」
亜美はロビーのソファーに深々と座り、何度目とも分からなくなってきているため息をつく。
「どうしたの、亜美?」
トイレから帰ってきた雪音が、亜美の顔を覗き込む。
「べぇ〜つぅ〜にぃ〜……なんでもないよぉ〜」
亜美は、けだるそうに答える。
本当になんでもないのかなぁ……さっきから気がつくと頭の中ではお兄ちゃんの事ばかり考えている。違う事を考えようとしても、いつの間にかあの笑顔が浮かんでくるし……やっばいなぁ、本気でなのかな?
亜美は少し火照る頬を手で触ると、案の定そこだけが熱くなっている事を感じる。
「なんでもないこと無いでしょ? あなたさっきから、『はぁ〜はぁ〜』って、変なため息ばかりついて……もしかしてあなた……」
雪音が、ちょっと驚いた表情を亜美に向ける。
もしかしてお姉ちゃん気がついたの? いつもはもっと鈍感なんだけれども、なぜか今日に限ってはなんだか鋭いの?
「お腹でも空いたの?」
ガク! やっぱり鈍いなぁ……よかったよぉ、ホッ。
亜美は思わずそんなお気楽な事を言っている雪音の顔を見ながら諦めたような、少しホッとしたようなそんな顔をしながら見つめる。
「違うよ、それにさっき食べたばっかりでしょ? あんまり食べちゃうと太っちゃうよぉ」
亜美は、怪訝な顔をして見つめてくる雪音に対して苦笑いを少し混ぜた微笑を向ける。
「そう? じゃあどうしたのよ?」
雪音はその微笑に安心したような笑みを浮かべるが、怪訝そうな表情がそれから消えることはなかった。
「だからなんでもないって、あっ、降りられるみたいだから行こう、お姉ちゃん!」
係りの人間が大きな声で下船を促すと同時に船内にも下船を告げる放送が聞こえてきて、亜美はそれまでの事をごまかす様に言い、雪音の腕を取りながら下船の仕度をはじめる。
「排気ガスの匂い……」
二人は車両甲板に導かれ車両甲板から下船する。そこには既に車の姿は無い、すべての車を下船させてから人が降りるといったスタイルなのは事故防止のためだから仕方が無いことなのだろうが、排気ガスの匂いはまだ充満したままだった。
「ふぅ」
船から降りると、亜美はそれまでの排気ガスを含んだ空気を吐き出すかのように大きく深呼吸をする。
八月とはいえ、さすがに夜は冷え込むなぁ、長袖のTシャツを着ておけばよかった。ちょっと肌寒いかも……。
亜美は、タンクトップから伸びる自分の細い腕を摺り合わせる。
「亜美、寒いの? もう、そんな格好をしているからよ……もうバスないし、タクシーも今は出払っているみたいだし」
雪音は、車のいないタクシー乗り場を見ながらため息混じりにいう。
そんな格好といっても、普通の格好だよ? タンクトップだけれど……う〜待たなければいけないのかぁ、そう考えると余計寒さを感じるなぁ、それに、下腹部にちょっと生理的欲求を感じるようになったかも……。
「お姉ちゃん、トイレに行って来る」
亜美はそういい、フェリーターミナル内にあるお手洗いに駆け込んだ。
「はぁ〜、我慢は大敵よねぇ」
手を拭きながら、どことなくドンヨリとした空気のフェリーターミナル内を歩くと、そこには見るからにトラックの運転手というような人が数人テレビでやっている野球のナイターを見ながら歓声を上げていたり、みやげ物を物色する家族連れや、どんな関係なのか聞きたくなる様なカップルなど様々な人間がロビーにあるベンチに腰をすえていた。
夜行便があるせいなのかしら? 人がいっぱいいるなぁ、もう十二時になるというのに。
亜美は、そんな人混みを眺めつつ、雪音の待つタクシー乗り場に足を向ける。
「あれ?」
駐車場で、亜美の足が止まる。
「お兄ちゃん?」
亜美の視線の先には、さっき船の中で別れた人の後姿がちらりと見えたような気がする。
まさかまだいるなんていう事ないわよね? もうあの人は車でどこかに走り去っているはず、こんな所にいるわけが無いわよね? でも……。
亜美は、自分が一瞬出した答えを自身で否定するが、それを素直に受け止める事が出来ない。
「はぁ……」
再びため息病が発症したのは歩き出した時だった。亜美は、きょろきょろとさっき影が消えたあたりに視線を投げかける。
いるはずが無いとは思うけれどつい探してしまうのよねぇ?
しかし、その視線の先には陽平の特徴ある車は止まっていない。
「やっぱりなぁ〜、いるわけないかぁ」
そうそううまいお話があるわけないし、あの人は東京から来た……ただの観光客で、あたしたちと一緒にいたのはただの偶然……。
亜美は不意に感じた目頭の熱いものを振りほどくように首を振り、雪音の元に歩みを戻すとその場所に今まで探していた車が止まっていることに気が付き、無意識に亜美のその足は早足になり、そうしてついには駆け足になる。
お兄ちゃん……お兄ちゃんがいるの?
信号も何もないため、通路を走る車やバイクに気をつけるが、それももどかしそうに亜美の視線はその大きな車に向けられている。
「おっ、亜美ちゃん」
車の前では陽平と雪音が話をしており、亜美に気が付いた陽平が優しい笑顔を見せる。
「お兄ちゃん!」
やだ、なんだかすごく長い間あっていなかったような感じかも……ヒヤッとした空気が熱くなった目頭を冷やしてくれているみたいで心地いい。
亜美は少し乱れた息を整えるように小さく吐息する。
「トイレ混んでいたの?」
――お兄ちゃん、それは、レディーに対して失礼だよ……。
亜美は談笑している二人の前で急ブレーキするように立ち止まり、そんな失礼な事をいうその人の顔を見上げる。
「ぶぅ」
亜美は、頬を膨らませながら陽平を見る。
「ウフフ、いいじゃないのよ亜美、それよりも陽平さんが家まで送ってくれるって!」
雪音のその一言で、それまで頬を膨らませていた亜美の顔がまるで嘘のように一気にはじけて笑顔が膨れあがる。
「さっすがぁ、お兄ちゃん!」
亜美は思わず陽平の腕に抱きつく、その腕は温かく細い印象の風貌だけれど、意外に筋肉質で見た目よりも太い腕。
「おいおい、亜美ちゃん」
陽平は苦笑いを浮かべながら亜美を見る。
「フフ、さっきまでの表情はどこにいっちゃったのかしらねぇ?」
雪音が、意地の悪い顔で亜美の顔を見る。
「何の事?」
陽平はきょとんとした表情で腕に絡みついている亜美の顔を見つめる。
「さっきまでね、亜美ったら……」
「あぁ〜、いっ、良いじゃないそんなこと、それより早く行こうよ、家に着くのがどんどん遅くなっちゃうよ」
雪音の台詞を途中で遮るように、亜美は言う。
「???」
陽平はわけが分からんといった表情で亜美に促されるままに車に乗り込む。
エヘヘ、お兄ちゃんが一緒だぁ。
ワクワクした気持ちを何とか見せないようにしているものの、亜美のその表情からはそれを払拭する事が出来ないで、助手席にその身を落ち着かせる。
「亜美、ちゃんとシートベルトしなさいよ?」
雪音の言葉の端にはどことなくトゲがあるように聞こえるが、亜美のその耳にはそんな事さえ心地よく感じてくるほどだった。
「ハァ〜イ、お兄ちゃん、安全運転よろしくね?」
そんな亜美の一言に、運転席に座る陽平は苦笑いを浮かべながら不機嫌そうな顔をしてセカンドシ−トに座る雪音の顔をバックミラーで確認する。
「さてと、それではどのように行ったら良いでしょうか、お客さん」
お兄ちゃんはシートベルトを締めるとおもむろにエンジンをかけると、車独特の振動がその車内に響き渡り、優しい瞳をあたしに向けてくる。
「うん、そうしたら、突き当りを右折して、次の角を左折。信号を右折して、国道二百二十七号線をちょっと走って」
陽平は、ほいほいとハンドルを操りながら、車を走らせる。
「亜美よく知っているわね?」
セカンドシートから雪音が声をかけてくる。
「うん、先輩とよくこっちのほうに来るから……ほら、そこのお店」
亜美の視線の先には、アメリカンポップスを題材にした風の派手な看板が目立つハンバーガーショップ――ラッキーピエロ――があった。
「先輩って、ひょっとして亜美ちゃんの彼氏?」
陽平は視線こそ正面を見据えたままだが冷やかしたような声で、亜美に声をかけてくる。
「ちっ、違う! 今年学校を卒業した女の先輩! 沢田さんって言って、綺麗な人なの……あたしは彼氏なんて……いないもん」
まるで言い訳するように言う亜美の声が尻すぼみになる。
変な誤解されたかしら? あんな言い訳じゃあまるで今付き合っている彼氏がいるみたいな言い方かも。アーン、お兄ちゃん誤解しないで、あたしはフリーだよぉ!
「へぇ、そうなんだぁ、もったいないなぁ、亜美ちゃんぐらい可愛い娘だったらより取り見取りなんじゃない? あっ、そうかぁ、だからか!」
お兄ちゃん、そこで変な風に自己完結しないでちょうだいよぉ。
「なっ、なに言っているのよぉ、別にあたしは選り好みしているわけじゃないの、ただ、理想の人がいなかったというかなんというか……」
亜美は、しどろもどろになりながら、陽平に食いつくような勢いで話す。
「いなかった? って、じゃあ今はいるって言うこと? 今、過去形だったよね?」
アーン、あたしって馬鹿? 地雷踏みまくりじゃないのよぉ。
「だからぁ、って、お兄ちゃん、次の信号を右、その次の信号を左」
亜美は、あわててナビを再開する。
「はいよ」
陽平もヒョイヒョイとハンドルを操りその大きな車を右に寄せると、亜美がそこと言ったポイントを確実にトレースする。
「倉庫街といったイメージだな……暗い道だなぁ」
今まで走っていた国道から逸れたその道は街灯が一気に減り、薄暗い上に道の至る所には穴が開いていて正直あまり走りやすい道では無い。
「そうしたら、しばらく道なりだよ、この橋が『ともえ大橋』で函館湾に沿って架かっている橋だよ」
それまでの道の雰囲気ががらりと変わったかと思うと、車は一気に高架に駆け上がっていき車窓の右手には函館湾、左手には新しくなった函館駅が見える。
「うん、綺麗な景色だね、情緒があるというのかな? うん、いい雰囲気だ」
亜美は、そういっている陽平の横顔をじっと見つめる。陽平の目には、対向車のヘッドライトや、周りのネオンの光が反射してまるできらきら光っているように見え、いつの間にか、亜美は、ボーっと陽平の横顔を眺めていた。
結構鼻が高いんだ、メガネをかけているからあまり気にならなかったけれどまつげも長いし、優しい瞳をしている、この瞳は……。
「……みちゃん、亜美ちゃん、この先は?」
車はいつの間にか橋を下りきり、次に亜美が案内しなければいけないポイントを過ぎていた。
「あっ、いけない……えっ、ここって七財橋……あちゃ〜、行き過ぎちゃった」
たいこ橋のような橋を渡ると目の前にはライトアップされている赤レンガ倉庫群が広がり、その景色を見て亜美は顔覆おう。
「へぇ、ここが七財橋かぁ、昔の映画でここが舞台になっていたよね、あの時の主人公が格好良くこの橋を渡っているのを見て憧れたんだよなぁ」
陽平は、にっこりと微笑んで周りを見渡す。
「でも、行き過ぎちゃったよぉ」
陽平に対して申し訳ないという気持ちからなのか、亜美は半泣きの状態で陽平を見る。
「別に良いじゃないか、別に気にすることは無いよ」
「でも……」
「どんな道だって、つながっているんだから、間違えたって次の道を見つければいいだけだよ、結果をくよくよするより、これからの道を探ったほうが手っ取り早い、それにそのおかげでこんなに綺麗な景色が見られたんだから結果オーライだよ」
嬉しそうな顔をしてその赤レンガ倉庫をキョロキョロと見る陽平の顔は幼くさえも見える。
お兄ちゃん……。
「さてと、それでどっちにいけば良いかな?」
陽平がニッコリと微笑みながら、亜美の顔を見る。
「うん、突き当りの信号を左!」
道はつながっている、次の道を見つければいいかぁ。
亜美の心の中に何かピキッと弾ける様な感覚が走り、運転席に座るその顔がまるでスポットライトが当たったようにまぶしく見える。
「そこを右に入って……はい到着ぅ」
函館朝市に近いお店兼自宅、赤いテントが目印のここが我が家だよ、お兄ちゃん。
「ここが、亜美ちゃんたちの家?」
陽平は車を降りて、その佇まいを唖然とした表情で見上げているがその表情は徐々に苦笑いに変わっていった。
「はは、こりゃどうも……まいどありってか?」
陽平のわけのわからない呟きを小首を傾げながら亜美は荷物を降ろす。
「ほらぁお姉ちゃん、家に着いたよ? って、ありゃぁ?」
車が止まってからも反応の無いセカンドシートに亜美は顔を向けるとそこには、幸せそうな表情で眠っている雪音の姿があった。
「どうかした? って、ありゃりゃ」
亜美の声に陽平が隣から顔を覗かせその様子を見た途端にその瞳が優しく微笑む。
「船の中で寝ていなかったみたいだし、疲れていたんだな……」
陽平のその優しい表情を雪音に向ける仕草に対して、チクッと亜美の小さな胸は痛む。
優しい顔、まるで昔のお兄ちゃんがお姉ちゃんに向けていたような表情。そう、お兄ちゃんの今の表情は、その時のお兄ちゃんと同じ表情を見せているよ……。
「亜美か?」
亜美が寂しそうな顔をしながら車の横でそんなことを考えていると、暗闇から不意に声がかけられ驚いたように亜美はその背筋を伸ばしてその声の主に視線を向ける。
「あっ、叔父さんただいまぁ、ごめんね、船が遅れてちょっと遅くなっちゃって、そうしたらこの人が家まで送ってくれるって……」
亜美が白髪のその男性に対してシドロモドロになりながら説明しているその様子を見ていた陽平の表情が一気に強張る。
「きっ、北沢さん?」
いきなり陽平が素っ頓狂な声を上げると、亜美と白髪の男性の視線が一気に向いてくる。
「うん?」
叔父さんは、お兄ちゃんのことを明らかに不機嫌そうな顔を押してジロリと睨む、って、何で、お兄ちゃんが叔父さんの名前を知っているの?
キョトンとした顔をして亜美は陽平の顔を見つめるが、さっきまでの優しい表情はそこにはなく、どこか緊張したような顔をして北沢の顔を見つめ、背筋をピンと伸ばしている。
「北沢さん俺です東京でお世話になった沢井です! ご無沙汰しています」
陽平が最敬礼で北沢に頭を下げると、それまで厳しかった北沢の目からその険が取れていき、反してその表情は懐かしい人間との再会を喜んでいるようだ。
「沢井? お〜お〜お〜、営業本部のあの若造かぁ、懐かしいなぁ元気そうで何よりだぁ」
北沢はそう言いながら陽平の手を取り握手する、そこには既にさっきまでのわだかまりは無くなっているようだった。
なっ、何? 叔父さんとお兄ちゃんと知り合いなの?
亜美は助けを請うように北沢の顔を見るが、少ししわの入ったその顔は亜美の事を見る事無く陽平の顔をジッと見つめている。
「はい、その節は大変お世話になりました!」
再び陽平は北沢に向けて頭を下げる、その顔を亜美は呆気にとられたような表情で見上げる。
当たり前なのかもしれないけれどやっぱり大人なんだなぁお兄ちゃんって、雰囲気がさっきとはまったく違う、ビジネスマンといった雰囲気がヒシヒシと伝わってくるよ。
ポヤッとした顔をしている亜美を蚊帳の外に置き、陽平と北沢の会話が進んでいる。
「何でお前が、雪音と亜美と一緒にいるんだぁ?」
やがて北沢は目を丸くしながら陽平と亜美、そうしてセカンドシートで幸せそうに眠っている雪音を見比べて首を傾げる。
「はは、まさかお二人が北沢さんのお知り合いとは……」
陽平は、鼻先を掻きながら照れ笑いを浮かべる。
「知り合いもなんも、この二人は俺の妹の子供だぞ」
北沢の一言に陽平の顔が強張る。
「えっ!」
「それより、俺の質問に答えてもらいたいんだが」
北沢は、流し目で陽平を見るその切れ長の目は、ちょっと迫力さえ感じる。
「おっ、叔父さんお兄ちゃんは、青森であたしを助けてくれて……」
亜美が今までの経緯をすべて北沢に話すと、腕組みをしながらそれを聞いていた北沢の表情が徐々に柔らかくなってゆく。
「そうかぁ……なんだか世話になったみたいだが……どうしたものかな?」
北沢はセカンドシートに眠る雪音を見て思案顔を浮かべる。
何とか叔父さんを納得させることはできたみたいだけれど、それにしてもこのセカンドシートの眠り姫を何とかしないといけないわよね?
「仕方が無いかな?」
亜美が思案顔を浮かべていると陽平の身体が亜美の視界に飛び込んできて、陽平はやおら雪音を腕で抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこの状態だ。
「!」
その瞬間、亜美の目がキッとつりあがる。
お姉ちゃんずるい!
Yukine 夢の中……。
「ふぇ〜」
身体がなんだか宙に浮ぶような感覚、懐かしいタバコの香り。今わたしの身体に何が起きているのかしら? そうだ、わたし陽平さんの車に乗っていて、それから寝ちゃったのね? という事は目を覚まさなければいけないのよね?
雪音の意識の中の霞が徐々に晴れてゆき、眠るまでの記憶が蘇ってくると目を開けろという信号が脳から発せられる。
「んぅ……」
脳からの信号にのっとりと目を開ける雪音、その開かれた世界いっぱいに写り込むのは、
「よっ、陽平さん?」
視界全体に広がったのは陽平の顔で、その状況が把握できないものの雪音は無意識に身をよじるように動かすが、それがさらに状況を悪化させる事になる。
「わぁ、危ないって……あぁ〜っ!」
ちょうど陽平が雪音をベッドに寝かせようとしていた所で、バランスを崩しやすい体勢だったこともあり簡単にそこに倒れこむ。形としては陽平が雪音を押したような格好になっている。
「きゃあ」
こっ、この体勢は……やばいよぉ。
雪音の顔と陽平の顔の間にある空間はほんのわずかしかない、さっきよりも近い陽平の顔に雪音の瞳は必死にピントを合わせようとしきりに動いているだろう。
「ごめん!」
陽平は慌てたようにぱっと身体を起こす。ほんのわずかな時間だろうが、雪音にしてみればそれは長い時間に感じた。
「なにやっているんだか……」
陽平の背後から亜美のあきれた声がする。
「亜美? ここは私の部屋?」
雪音は、落ち着きを取り戻して部屋を見渡し自分の部屋であることを認識する。
「そ、お姉ちゃんお兄ちゃんの車の中で熟睡しちゃって、お兄ちゃんがここまで運んでくれたって言う事、分かる?」
亜美は、両手を大げさに広げる。
「沢井! そっちがすんだらこっちにこい! 久しぶりに一杯一緒にやろう」
部屋の外から叔父さんの嬉しそうな声がするけれど、沢井って何で叔父さん陽平さんのことを知っているの?
雪音はきょとんとした顔をして陽平を見る。
「沢井、今日はうちに泊まっていけ、だったら良いだろ?」
北沢の勧める酒を、やんわりと拒否していた陽平だが、心の奥底にある飲兵衛の血なのか、宿泊施設が確定して落ち着いたのか、コップを差し出す。
「お兄ちゃん泊まるの? やったぁ」
シャワーを浴びた亜美は、濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、北沢からお酌されたビールを飲む陽平の隣に座り笑顔を振りまく。
「亜美、明日部活で早いんじゃなかったの?」
着替えを終えた雪音がキッチンから顔を出しながら亜美に声をかけると、亜美のその頬がぷっくりと膨らむ。
そんな顔をしたってダメ、もう十二時回っているのよ、良い子は寝る時間!
「ぶぅ……お姉ちゃんだけずるい」
冷蔵庫のあまりのもで作った即席のつまみを二人の座っている座卓に置く。
「何でよ」
ここはきつく言っておかないと、きっとこの娘の事だからいつまでも付き合ってしまう。
「……お姉ちゃんだけお姫様抱っこしてもらった」
亜美は、頬をいっぱいに膨らませたまま雪音を睨みつける。その眼はちょっと潤んでいるようにも見える。
って? お姫様抱っこ? わたしが、陽平さんに? えっ? えっ?
反射的に雪音の頬に朱が刺す。
「ほら、亜美も雪音もいい加減にして、休むことを考えろ疲れているんだろ?」
北沢が、苦笑いを浮かべながら、二人をたしなめる。
「ぶぅ……だったらお兄ちゃん、明日もうちに泊まれば? もしなんだったら、こっちにいる間ずっと泊まっちゃえ!」
亜美が勢いよく言う。
「なに言っているのよ、陽平さんだって旅行に来たんだから、明日は予定があるでしょ? そんなわがままを言ってはだめよ」
そう、彼は旅行に来ただけなんだから、いずれは向こうに帰ってしまう。
雪音は自分の言った一言にその表情を曇らせる。
「じゃあお姉ちゃんは、お兄ちゃんがいなくなってもいいの?」
チク、亜美の一言に胸が痛む。本当はゆっくりと話をしていたい、なんとなく彼と話をしていると落ち着いた気持ちになるから、でも……。
「そりゃあ名案だな、どうだ沢井、いい話だと思うがな? 三食付いて宿泊費タダだぜ、しかも美人姉妹付だぁ」
酔いが回ってきたのか北沢は冷やかすように陽平の顔を覗き込む。
叔父さんまでぇ。
雪音はそう思いながらも、心の奥では陽平がこの案に乗ってくれることを期待しているように答えに窮している陽平の顔を見る。
「いいんですかねぇ?」
陽平は困惑した顔で三人を見るが、その意見に対して真っ先に笑顔を浮かべたのは亜美で、今にも陽平に抱きつくような勢いで両手を上げる。
「そんなの良いに決まっているじゃないのよねぇ? はい決まりぃ! やったぁ、それだったら寝るよ、お休み〜」
亜美は、小躍りしながらリビングを出て行く。
「亜美ったら」
そう言いながらもわたしの心の何処かに、ちょっと嬉しいと言う気持ちがあるかもしれない。
「ワハハ、沢井! そうと決まったら、今日はとことん飲むぞ! 雪音、酒がたりねぇぞ、もっと持って来い!」
北沢が、満面の笑みを浮かべる。
叔父さんが、こんなに屈託無く笑うなんて、めったに見られるものではないわね、楽しそうに笑っている。
「お前は、まだ首都圏営業部なのか?」
叔父さんは、赤ら顔で陽平に聞く。
「いや、北沢さん、俺、今内勤なんですよ、仕入をやっています」
陽平は照れたように鼻先を掻く。
「なんでだぁ? あいつらも目が無いなぁ……俺のところに連れてくれば、こいつなんてトップの営業になれるぜぇ」
「はぁ、色々とありましてねぇ……」
叔父さん、目が据わりはじめているなぁ。
「ねぇ叔父さん、叔父さんの知り合いって言うことは、陽平さんも……」
さっきから、引っかかっていた疑問をやっと口に出すことができた。叔父さんは既に定年を過ぎ、今は隠居生活だが、昔は、全国規模の美容室などに商材を卸している会社に勤めており、最後は函館にある営業所の所長をやっていた。
「なんだぁ知らなかったのかぁ? 沢井は『B‐ネット』の現役の社員だぞ」
「はは、言う機会が無かったというか、なかなか言い出せなかったというか……」
陽平は、頭を掻きながら照れくさそうにうつむくがやがて、話を聞いていたはずの雪音の異変に気がつき、それと同時に北沢も気がついたようだった。
「なんだぁ? 雪音、寝るんだったら自分の部屋に行け」
北沢の声にはっとなる雪音。
「あっ、うん……陽平さん、隣にお布団引いてありますからゆっくりしてください……おやすみなさい」
「ウン、ありがとう、おやすみ」
陽平のおやすみの声に、心地よさを感じつつ雪音の意識は朦朧となる。
「ふわぁぁ……」
大きなあくびをして自分の部屋に戻り、今まで着ていた部屋着からパジャマに着替える。
あぁ、服を洗濯機に入れなければいけないなぁ……いいかぁ、明日で。お風呂……いいやぁ明日で。今は、目の前にある、布団の波に飛び込みたいだけだぁ。
雪音は、うつろな意識のまま布団に倒れこむ。
「はぁ、しあわせかも……」
雪音の意識が暗闇に包まれてゆく。その寝顔は安らかな顔をしている。