第五話 函館っこ
=八月十三日= はこだての思い
「ふゎぁぁ〜」
完全に飲み過ぎたな……二日酔いどころかもしかしたら、まだ酔っ払っているかもしれない。
物理的には目が覚めたのかもしれないが、陽平の頭の中には霞どころか暗雲が立ち込め、それは今までの経験上、今すぐに起き上がることを躊躇させる。目の前にある蛍光灯はぐるぐると円を描きながら回っているように見えるし、昨日起きた事実を思い出すのにおそらく、数分はかかったであろう。
「お兄ちゃんまだ寝ているのかな?」
隣の部屋からは、お味噌汁のいい香りとともに元気な亜美の声が聞こえるが、その事でさえ、一瞬何事なのかわからないほどまで記憶は混沌としている。
一体俺は……そうか、昨日北海道に上陸して雪音さんたちと知り合って、北沢さんの家に泊まった……でよかったんだよな?
ゆっくりと身体を起こすが、それで抜けるようなアルコールの量ではなかったようで、自分の体臭が酒臭く感じ、その匂いで何かがこみ上げてくる。
「昨日、遅くまで飲んでいたみたいだから、静かにしていてあげて」
霞の中にも記憶のある雪音の声は、どことなくまだ寝たりないといった感じを受ける。
そうだ、昨日北沢さんのところに泊めてもらって……。
雪音の声がカンフル剤になったのか陽平の意識は一気に晴れ渡り、お土産代わりの頭痛を頭に残し意識は戻ってきた。
「おはよー」
陽平は勤めて元気に振舞ったつもりでいるが、やはりそのお土産のせいなのか思ったような挨拶は出来なかった。
頭いて……。
眉間にしわを寄せながら笑顔を浮かべる陽平のその顔はおおよそ不気味で、その顔を見た雪音と鮎美の顔には苦笑いと心配そうに眉を八の字にしている。
「あっ、お兄ちゃんおはよ〜って……ちょっと大丈夫?」
やっぱり……、亜美に心配されるのだから、よほど酷い顔色なんだろう。
「アハ、陽平さんおはよ、顔洗ってくる? 亜美、陽平さんを洗面所に案内してあげて」
台所から、エプロンをした雪音が顔を出す。
はは、雪音さん、昨日と髪型が違うんだな、昨日は、おとなしめに髪をおろしていたけれど、今日は、頭の後ろで結っているから昨日よりもさらに若く見えるなぁ。
「えぇ、だって叔父さんがお風呂使っているじゃない、また『事件』が起きるよぉ」
事件って一体?
一瞬の思考の中に、若い女の子がいる家でよくある事件が想像でき納得したように陽平は無意識に頷いてしまう。
「そうだったっわねぇ、じゃあお店を使ってもらうしかないかな?」
雪音はそういい、一枚の引き戸を見ると、どうやらその引き戸が店舗との境界線になっているようで、亜美は大きく頷きながら陽平の手を取る。
「うん、お兄ちゃん、こっちだよ」
亜美が学校の制服のスカートを翻しお店への引き戸を開くと、独特の香りとともにシャンプー専用のシンクや、卵をぶら下げたような形をしている器具、それに椅子が数脚置いてあり、その隙間には所狭しとカラフルな色のタオルが干されている。そう、お店は美容室、陽平の勤めているB‐ネットのお客さんになる。
嫌だねぇ、この匂いをかいで一瞬にして酔いから醒めたよ……職業病だな?
「ごめんね、散らかっているけど」
亜美は、乾いているタオルを片付けながら陽平に詫びる。
「気にしなくていいよ、見慣れているから」
今では仕入部に在籍しているものの、二年前までは現場の営業としてやっていたんだ、このような状況は、開店前の美容室にはありがちな光景だよ。
陽平が慣れた手つきで辛苦の蛇口をひねり、出てくるお湯の温度を確かめる様子は既に無意識に行っている行動、ついでに水圧なども気にしているようだ。
「見慣れているって?」
亜美が不思議そうな顔をして陽平を見る。そして陽平は昨日雪音に対して説明したものと同じ説明を亜美にする。
フム、ここでまさか市場開拓するなんて思っていなかったよ……。
「えぇ、お兄ちゃんって叔父さんの部下だったの?」
よく通る亜美の声がお店の中に響き渡り、それに驚いたのであろうか、雪音が店に顔だけを見せる。
「どうかしたの?」
「お姉ちゃん知っていた? お兄ちゃんってば……」
雪音をまくし立てるような勢いで亜美が事の経緯を雪音に説明すると、柔らかい笑みを浮かべながら雪音はそれを聞きながら陽平にウィンクする。
「ちょっと! お姉ちゃん聞いているの!」
剣幕を立てながら亜美は雪音の顔を睨みつけるが、それをさらっと雪音は聞き流す。
「はいはい……陽平さん、朝食用意してありますから食べてくださいね?」
意外に雪音さんって大物なのかもしれないな……。
「オウ、沢井、昨日はよく眠れたか?」
「はは、おかげさまで……」
陽平は、苦笑いを浮かべながら亜美に促されながら席に着く。
「お兄ちゃん、今日は何か用事あるの?」
隣に座る亜美は、さっきまでの剣幕を忘れたように嬉しそうな顔をして陽平を見るその姿は既に学校に行く準備は万端に整っており、後はカバンを持てばいい状態になっている。
――こうやって見ると亜美ちゃんも高校生に見えるよな? やっぱりアイテムによって女の子の見た目年齢は変わるよな?
「いや、特には決めていないけれど」
「だったら、学校から帰ってきたら、どこかに行こうよ、ネ!」
おねだりをするような目で、亜美は陽平を見る。
そんな目で見られたら拒否する事できないよな?
「そうだね、じゃぁ亜美ちゃんの案内で、函館巡りでもしようか?」
陽平はにっこりと微笑み亜美を見る。
「うん! って、あぁ、いけない、学校遅れちゃうよぉ」
陽平の回答に満面の笑みを浮かべながら亜美は、あわただしく家を飛び出してゆく。
「沢井、ちょっと付き合えるか?」
雪音が朝食の片づけをしている時、それまで何気なくテレビを見ていた北沢が視線をそのままに不意に陽平に声をかける。
「はい? 別に俺はかまいませんが……」
陽平は、きょとんとした顔で北沢を見ると、はじめて北沢がその視線を陽平に向けてくるが、その表情はいつものようにおどけたようなものでは無い。
「だったら話は早い、雪音ちょっと沢井と出かけてくるから留守は頼んだぞ!」
思い立ったら何とかで、北沢は落ち着けていた腰を上げるその姿は、昔の営業部で見ていたのと同じ姿で、その頃を思い出したのか陽平も無意識に立ち上がる。
「どこに行くの?」
台所から雪音の声が聞こえるが、そんなものは聞こえないように北沢はズカズカと玄関に向かって歩き出す。
「早くしろぃ沢井! 営業マンはフットワークが大事だって教えただろ? グズグズしていると函館湾に沈めるぞ!」
躊躇している陽平に北沢の怒声が降りかかってきて、思わずその首をすくめる。
はは、なんだか昔の北沢さんを思い出すなぁ。
「どこに行くんですか?」
雪音に見送られながら家を出たところで陽平は、ちょっと渋い顔をした北沢の顔を眺める。
「ヘヘ、別にどこに行くなんて決めていないさ、ゆっくりとお前さんと話がしたかっただけだ、何の当てがあるもんでもねぇさ」
北沢はその玄関先から雪音の姿が消えている事を確認してから楽しそうに笑いながら、どこと無く歩き出す。
「なぁ沢井、俺の姪っ子達どう思う?」
磯の香りが強い函館ベイエリアを北沢の後姿について歩いていると、急に立ち止まったかと思うと、いきなりの質問を陽平に向けてくる。
「どうって? うーん、可愛い事は確かですが、それがどうかしましたか?」
不意の質問に陽平は首を傾げ、北沢のその顔を見つめると海からさらに磯臭い風が強く吹いてくる。
気温的には暑いものの、海から吹くその風が東京とは違うことを自己主張しているようだよな? 東京で吹く風といえば生温く不快なだけだが、ここで吹く風は湿気が内分心地よく、火照った身体を優しく包んでくれるようで心地がいい。
「そうだろう? 姪という贔屓目を覗いても可愛い類に入ると俺も思っているぜ」
嬉しそうな表情を浮かべる北沢だが、その顔が一気に引き締まる。
「……聞いたか? 雪音とフィアンセの事を」
北沢は視線を陽平から逸らしてウミネコが揺らめいている海を眺める。
「――はい、亡くなったとまでは聞いています」
陽平は、北沢の後ろに立ちつぶやく様に言う。
あの時の雪音は、間違いなくまだその人を想っていた。操を立てている訳ではないと言っていたが、操を立てているのと同じであろう……雪音はいまだにあの人を想っている。
そんな思いに陽平の胸の一部に引っかかりを感じる。
「それで、沢井、うちの姪っ子をどう想う?」
北沢は、今度は意地の悪い顔で聞いてくる。
「……はい、素敵な娘だと思います……もし自分がそこまで想ってくれるのなら、俺もいつでも、あっちにいけます」
俺のどこの口を探ればそんな臭い台詞が出てくるんだ?
思わず自分の言った台詞に照れくさくなり、陽平は視線を北沢から逸らす。
「ハハハ、お前にあっちにいかれたら困る人間がいくらでもいるだろう」
北沢は豪快に笑ったかと思うと、再び真面目な視線を海に向ける。
「雪音は、本当に不憫だと思っている」
ぼそっと呟くように北沢は話し出す。
「あいつの母親……ようは俺の妹だが、それの影響だろう高校を卒業すると同時に美容学校に行って、十九の時に青森の美容室に修行に行った。そこで、一緒に修行をしていたのが、あいつのフィアンセさ」
雪音の母親、北沢の妹は、アメリカブロードウェイでヘアメークアーティストとして名を馳せている北沢妙子、この業界の人間なら名前は知っている。その娘なのだからやはり美容関係というのも分かる気がする。
「二人で愛を育んでな、その彼がやっと独り立ちするようになった時に、雪音はプロポーズされたのさ、あいつが二十歳の時になぁ……」
北沢の表情は寂しげで、実の娘でもないのにそんなにも思いやっているのがわかる。
「結納を終わらせて、後は式だけと言う時だったのさ、そのフィアンセが交通事故で死んじまったというのは」
知っていたものの、やはり衝撃を隠せない。
「それからの一年は、あいつはなにもできなかったよ。でも、妹……妙子が『いつまでもくよくよしているんじゃない、そんなにあの人のことが忘れられないのなら、忘れなければいい』って言ってからあいつの目の色が変わったよ、そして、小さいながらもお店を構えた、それがあのお店『ひなた』なんだ……」
北沢はそう言いながら陽平の顔を真っ直ぐに見る、その視線には何か力強さを感じる。
忘れられないのなら忘れなければいいかぁ……深いなぁ……確かにそうかもしれない、忘れられないものを忘れようと足掻くよりも、それをそのまま受け入れてしまった方が気も休まるし……それを受け入れる事ができる。
北沢に気が付かれない様に陽平は嘆息し、視線を煌く海に向ける。
「店の名前の『ひなた』って言うのは、雪音のフィアンセの名前なんだよ……いつも一緒ってあいつが名付けた」
いつも一緒かぁ、ちょっと妬けるかな? って、何で俺が妬かなければいけないんだ?
陽平は手摺にもたれかかりながら天を仰ぎ、今度は北沢にもわかるような深いため息を付くが、その時北沢の顔に一瞬笑みが浮かんだ事に気が付かなかった。
「でもな、俺はあいつ……雪音に幸せになってもらいたいんだ、いまどきあんな純粋な娘はいないと思っている。まぁ、ちょっと親戚という贔屓目もあるけれどな」
北沢は、陽平の顔をまっすぐに見る。
「沢井、お前どうだ? 雪音のこと」
はぁ?
「ちょっ、ちょっと待ってください、何で俺なんですか?」
陽平は話の流れについていけないように目をまん丸にする。
「なんだかなぁ……」
北沢さん、なんだか好き勝手な事を言って帰って行ったなぁ、あんな事を言われると、ちょっと意識をしてしまうじゃないか……。
「ん? ここは?」
函館を代表する赤レンガ倉庫群を心ここにあらずという感じでふらついている間に、たどり着いたのは、遊覧船乗り場。
確か函館湾を約一時間かけてクルージングできるらしい。夜も運行しているらしいから、カップルに人気があるだろう。いいかもしれないな? 海からの夜景を眺めながら彼女と一緒にないとクルージングかぁ、盛り上がること間違いない。そして隣にいるのは……。
「何で雪音さんなんだぁ?」
陽平が自分の想像の中で隣に立っているのが雪音であったことに対し、思わず声を出してしまった。気のせいか周りの視線が自分を見ているような気がする。
「――暑いからねぇ……」
観光バスから降りてくる団体の視線は間違いなく陽平の顔を怪訝な顔で見ており、一部の客はお哀れむような事を呟きながら陽平の前を通り過ぎてゆく。
恥ずかしいなぁ……。
「これまたどうも、ずいぶんと洒落た造りの駅だな」
陽平がたどり着いた函館駅は、二〇〇三年六月に新しく変わった駅舎だった。綺麗になったとは、いろいろなガイドブックに書いてあったが、実際に目の当たりにすると、ずいぶんの洒落た造りになっている。駅舎中央には卵型の吹き抜けがありその中央には、橋というか、通路があり、その橋から駅の構内が見渡せるようになっておりその一角は、
「いるか文庫?」
橋を渡りきった所に展示スペースがあり、その片隅に図書室のような一角がある。そこには、鉄道関係の絵本や青函連絡船の文献などが誰でも読めるように置いてある。
青函連絡船かぁ……結局乗る事ができなかったんだよなぁ? 中学時代に一度北海道旅行のプランが浮かび上がったことがあったけれど、親に反対されて泣く泣く中止した。それから十七年、やっとこの北の地を踏むことができたな。
陽平は青函連絡船の文献をパラパラとめくりながら思い出にふけていると、遠くから汽笛のようなものが聞こえてくるが、それは汽車の汽笛であり、連絡船のそれでは無いとわかっているものの、ついそれに耳をそば立ててしまう。
「あれぇ? お兄ちゃん?」
想いにふけっていると背後から不意に声をかけられる。
「うん? あぁ、亜美ちゃん……って」
陽平がその声に顔を上げ亜美に笑顔を向けると、困惑したような亜美の表情がそこにあった。
「あちゃ〜、バットタイミングかも……」
亜美は、顔を手で多いながらうつむく。その亜美の肩越しには亜美と同じ白いブラウスに、濃い緑色のタータンチェックのスカートの制服を着た女子高生が二人立ち、陽平の顔をまるで珍しい生き物がいるような表情で見ている。
「ねぇねぇ、亜美が言っていた人って、この人?」
「オジサンなんかじゃないじゃない」
二人の視線が陽平一人に集中する。
「何? どうかした?」
亜美もそうだが、この二人もなかなかの美少女である。その美少女の視線を一手に引き受けているわけだから、陽平は戸惑ってしまう。
「アー……なんでもない、気にしないでお兄ちゃん、この二人はただの暇人だから」
亜美は、そういいながらもため息をつく。
「亜美、そんな言い方ないじゃない、せっかく亜美がほれ……ぅぐぐ」
「あらぁ〜? ほっ、本当になにを言っているのかしらこの娘ったらぁ……ホホホ」
亜美は、その友達の口を大慌てで覆い、呼吸ができないのか顔を真っ赤にしている友達を尻目に苦笑いを浮かべる。
「あの亜美がねぇ……」
もう一人の女の子が意地の悪い顔をして亜美を見るが、そんな様子に頬を染めながら慌てた様子で手を振る亜美は陽平に寄り添う。
「さっさっ、あっ、お兄ちゃん帰ろ!」
亜美は、まるでその場から逃げるかのように陽平の肩を押し、進路を変更させるがさっきまで酸欠で顔を赤くしていたい女の子が大きく酸素を吸いながら二人の前に立ちはだかる。
「亜美、紹介ぐらいしてくれてもいいじゃないよぉ」
見るからに快活そうな娘が、その頬を思い切り膨らませながら亜美を睨みつける。
「……わかったわよぉ」
亜美は渋々と二人を見ながらため息を付く。
「こっちの娘が稲木奈津美ちゃん」
奈津美と紹介されたのは、活発なイメージをそのまま髪型にしたようなショートカットの娘でボーイッシュな感じだ。
「よろしくね!」
奈津美がニコリと人懐っこい微笑み陽平を見る。
ネコ目のせいなのかな? いたずら小猫ちゃんといったイメージだね?
「でっ、こっちが岬郁子ちゃん……二人とも同じクラスなの」
おとなしそうなヘアースタイルをしているおさげ頭のこの娘は、隣にいる亜美や、奈津美よりも頭ひとつ飛び出ており、同世代でもきっと背の高いほうであろう。それを気にしているのか猫背にしながらペコリと頭を下げる。
モジモジとして可愛らしいね?
「それで、この人が沢井陽平さん、東京から観光に来た人よ」
亜美に紹介され陽平は会釈しながら二人の顔を見るが、二人は相変わらず物珍しそうに陽平を珍しそうに見ている。
なんだか珍獣になったような感じ?
二人の視線に戸惑いを感じる陽平は、作った様な笑顔を浮かべる。
「はい、紹介終了、二人ともごめんね今度埋め合わせはするからね」
亜美はそういいながら二人に合掌し、陽平とともにその場を去る。
「いいのかい?」
函館朝市の出口を通り抜け二人で自宅に向かいながら、陽平は亜美に聞く。
「うん、別に約束をしていたわけじゃあないし、ただ、部活の合間にお兄ちゃんの話が出たら、その……会ってみたいなんて言って……でも、別にお兄ちゃんを変に言った訳じゃないよ? ただ話していたらあの二人が……」
亜美が慌てたように苦笑いを浮かべながら陽平の顔を見上げるが、その顔はちょっと紅潮し、視線をあわせないように泳いでいる。
よくわからんよ、最近の女子高生の考える事は……それにしても……。
「そうだ、お兄ちゃん、このまま行っちゃう? 函館観光」
スカートの裾をつまみながら亜美がいうが、陽平は疲れたような表情を浮かべる。
「とりあえず家に帰って着替えてからにしようか? 函館観光はその後で……その格好で一緒にいると何だか……」
陽平は、亜美の格好をちらりと見ながら言う。
「何で? 良いじゃないこのままでも? 可愛くないかなぁ」
亜美は、胸元に結んであるダークグリーンのリボンをちょっと引っ張りながら陽平に言う。
「いや可愛いけれど、だからこそ俺が困るんだよ、その……まるで援交しているオジサンみたいでちょっとね?」
高校の制服を着た美少女と、三十を過ぎたオジサンの図というのは、きっと世の中ではそういう目で見られるであろう。
「そうかなぁ?」
「そうだよ!」
陽平は大きくうなずく。
「ただいまぁ」
お店に戻ると、さっきとは打って変わって人が大勢いる。順番を待っている人が三人、ロットを巻かれて雑誌を読みながらドライヤー(卵がぶらさがっているような器具)をかぶっている人が一人、そうして雪音がわき目も触れずにカットしている人が一人。
「亜美ちゃんお帰りぃ」
返事が出来ない雪音に変わって、お客の一人が亜美に声をかける。
「あっ、温子さん、いらっしゃい……って、ごめんね、だいぶ待っている?」
待合椅子で女性週刊誌を読みながら微笑むショートカットの女性はなじみの客らしく、亜美はそのお客に手を合わせ詫びながら聞く。
「ちょっとだけね、まぁ、気にしなくていいわよ? あたしここに来るのはこれも楽しみの一つなんだから」
お客は週刊誌を持ち上げながら、亜美にウィンクしながら答える。
「あっ、お帰り……」
やっと雪音が二人の存在に気がつき声をかけてくるが、手先は忙しそうに動き、鏡越しに見える雪音の表情は疲れたように憔悴しきっている。
これは繁盛店だな? 腕がいいのだろう。
陽平のかつての営業の目はそう分析する。ここまで客が待っていて、しかも、待合でこれだけ長時間でも待っていてくれるというのは技術があると言う事を表している。
フム、このままじゃあちょっと作業しにくいから……。
「先生、ちょっとエプロンお借りしますね」
雪音の返事を待たずに、陽平は店の奥にかかっていたエプロンを身につけ、近くにあった箒と塵取りを持ちながらお店の床を掃きだす。
切った髪の毛が床に落ちたままだと作業しにくいし、カットしている時に足を滑らせたら大変な事になるよ、見た目もいいものじゃないしね?
「陽平さん?」
雪音は、驚いた表情を見せながらも、手の動きを止めないでいる。
「お兄ちゃん?」
亜美も驚いた表情でいる。
「亜美ちゃん、着替えたら申し訳ないけれどコーヒーを入れてくれるかな? それが終わったら受付に行って、次のお客さんのメニューを聞いて、荷物をお預かりして」
陽平は亜美に指示を出し、ヘアカラーをしているのであろうお客さんに対して鏡越し微笑みながら頭を下げ、少し待つようにお願いする。
「先生、こちらは?」
陽平はそう言いながらワッカがグリグリと動いている機械をどける。
「発色を見せてください……あと二つぐらいですかね?」
雪音の一言に再び機械を客の後ろに置き、タイマーをセットする。
「もう少しお待ち下さい」
微笑む陽平に客は少し頬を赤らめながら頷く。
「お兄ちゃん、コーヒーだよ」
シャンプーを終えた客を席に案内している頃亜美がコーヒーを持ってくる。
「サンキュ、すみませんもう間もなく終わりますから、もう少しお待ちください、もしよろしければ違う雑誌をお持ちしますが?」
パーマをかけているお客の目の前にコーヒーを置き、そのカウンターの上には既に読み終わった雑誌が置かれ、少し退屈そうにしている。
「あっ、ありがとうねぇ……お兄さんは、新人さん?」
お客は、陽平の顔をにっこりと微笑みながら見つめる。
「いえ、手伝いみたいなものですかね?」
ピピピ……。
話をしていると、ちょうど器具のタイマーが鳴りはじめる。
「先生、チェックお願いします」
陽平は、雪音に声をかける。
「はっ、はい、うんOKです」
雪音はちょっと戸惑ったような表情で陽平を見るが、やはりプロ、すばやくパーマのかかり具合をチェックすると、陽平に指でOKサインを出す。
「はい、じゃあこちらにどうぞ、お流ししますので」
陽平は、そういい椅子をくるりと回し、お客をシャンプーブースへと誘う。
「かゆいところとかありますか?」
客の髪の毛を流しながら陽平はニッコリと微笑むが、視線は他の客に向けられている。
「大丈夫よ、お兄さんお手伝いの割には上手ね?」
「まぁ、色々な所で手伝っていますから……」
客に話を合わせながら作業の進捗状況を確認し、受付にいる亜美に視線で次の客を案内するように訴える。
「お待たせしましたぁ〜」
亜美も陽平のそれに気がついて、先に入っていたお客の荷物を預かり、空いている席にお客を案内する。
「いらっしゃいませぇ〜」
お店には亜美の元気な声が響き渡る。
「お疲れ様でした」
看板をしまいこみ、店のドアに閉店の案内札をかける。既に時間は夜の八時を回っており、陽平はグッタリとお店の椅子に腰掛けている雪音の肩をポンと叩く。
「あっ、ううん、陽平さんの方こそお疲れ様でした」
雪音は陽平の顔を見上げながら笑顔を見せるが、やはり疲れているのだろう目だけが笑っており、口元には疲れが見え隠れしている。
「二人ともお疲れ様でした」
お店に、亜美が顔を出す。
「あぁ、亜美ちゃんもおつかれさま、お手伝いしてくれてありがとう、ごめんね色々とお願いしちゃって」
陽平は、亜美に頭を下げる。
「ううん、お兄ちゃんの指示通り動いていただけだし、お兄ちゃんの指示が良かったおかげで、お客さんも満足してくれていたみたい、ありがとうお兄ちゃん」
亜美は、頬を赤らめうつむきながら、陽平に礼を言う。
「本当に助かっちゃった、ありがとう、陽平さん」
雪音も陽平の顔を見て深々と頭を下げる。
「ご飯どうしようかぁ……何も用意していないよ?」
リビングに場所を移し、亜美がため息混じりに言う。
「そうねぇ、店屋物で済ませちゃおうか?」
ハハ、店屋物ねぇ……ずいぶんと懐かしい言い方だなぁ。
「亜美ピザがいい!」
やおら亜美が立ち上がり、チラシを取り出す。そのチラシには、北海道らしくというか、カニが大きく踊っている。
「三大ガニをプレゼント?」
雪音は亜美の持っているそのチラシを覗き込みながら首をひねる。
「うん、今、二千円以上だと抽選でプレゼントしてくれるんだって」
今にもとろけ出してしまいそうな笑顔を浮かべながら亜美が言う、その表情から推測するにきっと亜美はカニが好物なのだろう。
「……三大ガニねぇ……どこかで聞いたことがあるけれど、陽平さんはどうする?」
雪音が、チラシを見ながら陽平の顔を見る。
「良いんじゃない? 当たればラッキーだし、それにこのピザ屋は見たことないな、初めてかもしれないなぁ」
陽平は見覚えのないそのピザ屋のチラシを見ながら言う。
「このお店は全国展開しているみたいだけれど、この函館が発祥らしいわよ」
既に亜美は電話の子機を手に持ち、オーダーする準備を万端に整えている。
「お兄ちゃん、お酒飲むでしょ? だったら、『チョリソー』がお勧めかな? ちょっとピリ辛で叔父さんも好きだし、お姉ちゃんはいつものやつで良いよね、あたしは『香味海鮮』とドリヤにしようかな?」
ぺろりと舌を出しながら亜美は頭にその味を思い描いているのだろう。
「あんたまた二つも食べるの?」
雪音の呆れたような一声に、亜美はニッコリと微笑むが、次の瞬間何かを思い出したように陽平の顔を見て顔を赤らめる。
「――あたしドリヤだけでいい……」
シュンとした顔をする亜美。
「何で? 部活をして帰ってきてお店のお手伝いをしたんだ、お腹が空いているだろ? いっぱい食べた方がいいよ?」
陽平の一言に亜美は顔を赤くしながら困惑しているようだ。
「でもぉ〜……うぐぅ〜」
心の中で葛藤しているのだろう、亜美の表情はどんどん険しくなっていく。
「亜美、そんなところで寝ていないで、自分の部屋で寝なさい!」
普段は優しい顔の雪音の目がつり上がっていてちょっと迫力さえ感じる。そんな所と言われたその場所は、ピザの箱が散乱している北沢家のダイニングに置かれているソファーの上、そして陽平の肩先であり、亜美は陽平に寄りかかって幸せそうな顔をして眠っている。
ハハ、寝顔だけ見るとやっぱり年齢よりも幼く見えるな?
「ウ〜ン、ムニャ……」
まるで、雪音の神経を逆なでするかのように、亜美は陽平にすがりつくと、むにゅっと柔らかいものが陽平の腕に押し当てられる。
前言撤回……幼くとも身体は大人。
「ハハハ、仕方がないなぁ……眠り姫を、部屋にお連れしましょうか」
陽平は少し頬を赤らめながらそう言いながら陽平はやおら亜美を抱き上げる。
「えっ!」
その瞬間雪音の顔色が変わる。
「亜美ちゃんの部屋のドアを開けてもらえるかな?」
陽平が亜美を抱き上げながら動揺した顔をしている雪音に言う、それはいわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「へぇ、現役女子高生の部屋なんて滅多に入りこむ事が出来ないからなぁ、役得かな?」
階段を昇り『ami‘s Room』と書かれた扉を入ると、薄暗いその部屋の中にうっすらとベッドのシルエットが浮かび上がり、起こさないようにその身体をそこに横たえさせる。
「ハァ、この部屋が女子高生らしいですかね?」
ベッドに亜美を寝かしつけ、陽平は部屋を見渡すとそこには可愛らしいぬいぐるみや、アイドルのポスターがおいてある……のが普通な筈だが、ぬいぐるみこそは置かれているものの、アイドルのポスター代わりに張られているのはどこで手に入れたのか『三都物語』とか『流山温泉開業』といった、駅でよく見かける旅行キャンペーンのポスターばかりで、少なくとも『女子高生らしい』と言うものにはかけ離れており、雪音と共に苦笑いを浮かべながら陽平はその部屋の扉を静かに閉める。
「それもアリでしょ? 趣味なんだから……」
確か亜美の趣味は旅行とかそういった類のもの、特に鉄道が好きと言っていたよね?
鉄道ファンというと、男というイメージが強く、よく『鉄ちゃん』と呼ばれるぐらいだが、女の子の鉄道ファンは珍しいと思うが、それもアリなのかも知れない。
「そんなものですかね? わたしはもう少し女の子らしくしてもらいたいんですけれど」
口を尖らせながら雪音は深いため息を付き、困ったように眉毛を八の字にしている。
「叔父さんから、わたしと亜美の事聞いた?」
再びリビングに戻ると、雪音が口を開く。
「うん、父親が違うっていうことは」
その話は今朝北沢と話をしている時に聞いた。それによると雪音の母親は再婚で亜美は現在の父親の連れ子という事らしい。
「わたしね、初めてあの子に会った時すごく緊張したの、彼女からすればいきなり『お姉ちゃん』になるわけでしょ? 『なついてくれるかな』とか色々考えちゃったの」
雪音は、目の前に置かれ黄金色の泡を湛えているグラスを弄びながら、ポツリポツリと話す。
「でもね、あの娘いきなりわたしの事を『お姉ちゃん』って言って抱きついてきてくれたの、正直びっくりしたわ」
その時の事を思い出したように、雪音の顔に笑みがこぼれる。
「あれから十二年、今ではわたしの本当の妹みたいなの」
わかっている、本当に亜美ちゃんの事が可愛くって仕方がないというのが、雪音の行動の節々に見えているし、亜美にもきっとそれがわかっているだろう。
「だから、あの娘に彼氏が出来たら、真っ先に教えてもらいたいんだぁ」
雪音は、グラスに残っていたビールを一気に飲み干す。
「でも、亜美に彼氏ができたらちょっと寂しいかな? せめて私にも彼氏でもいればなぁ」
雪音は眉根を下げて困ったような表情を見せる。
「はは、大丈夫だよ、雪音さんだって可愛いんだから、いつだってできるよ。もし募集がかかっているのなら俺も立候補しようかな?」
陽平は、ビンに入っているビールを雪音に注ぎ、自分にも注ぎながら話す。
「そっ、そんな陽平さんが立候補なんてしたら……」
雪音の頬が真っ赤に染まる。
「あっ……」
その表情を見て、陽平も顔を赤らめる。沈黙が二人の間に流れる。一瞬ではあったが、それは陽平の中では長く感じられた。
「そっ、そういえば、北沢さんどうしたんだろう、もう九時を過ぎているけれど」
陽平は、沈黙に耐え切れず口を開く。
「あっ、うん、叔父さん毎週金曜日は仲間と飲みに行って帰ってくるのはいつも朝方なの」
ということは、今晩は雪音さんと亜美ちゃんと俺の三人だけなのか?
「そっ、そうなんだぁ、北沢さんも元気だなぁ」
やばい、今朝北沢さんに言われたことを思い出してしまった。意識するなといわれてもやっぱり意識しちゃうな。目の前にはくつろいだ格好の雪音がテレビを見ており、亜美は眠ってしまっている、北沢さんもいないし、って、何を考えているんだ!
陽平は、顔を真っ赤にして、自分の意識の中から邪な感情を排除する作業に取り掛かる。
「ん? どうかしたの」
雪音が、不意に陽平の方を見る。とびっきりの笑顔で。
「いえ、何でもありません!」
顔が火照るのが自分でもよくわかる。たぶん、この感情は北沢さんに言われたからだけではない、雪音に対する気持ちが自分の中に何か芽生えたような感覚だろうか?