最終話 Snow Crystal(後編)
=再び北へ。=
「寒い……しばれるって言うやつかな?」
函館空港の到着ロビーからタクシー乗り場に向かうと、寒風が陽平の頬を刺す。空からは止め処もなく白いものが落ちてくる。
一瞬にして顔が凍りつきそうだぜ。
「函館ロイヤルグリーンホテルまで」
陽平は、客待ちをしていたタクシーにそそくさと乗り込み、展示会が開催されるホテルの名を告げ走り出すとホッと一息つく。
懐かしい景色が車窓に流れている。亜美と訪れた啄木小公園、雪音と訪れた元町界隈、しかし、夏のそれとは表情を変え、今はその全ては雪景色だな。
「お客さんは東京の人ですか?」
運転手がバックミラー越しに気さくに声をかけてくる。
「はい、わかりますか?」
適当に話を合わせるように陽平が答えると、バックミラーに写る運転手が、優しそうな笑顔を浮かべている。
「えぇ、よく内地の人は、北海道は寒いからと言って厚着をしてくる人が多いですからね、でも、その格好だとたぶん汗をかきますよ。北海道の冬は、東京より暖かいですから」
運転手の言う事がいまいちわからない。北海道は東京より暖かい?
首を傾げる陽平に、再び運転手は人懐っこい笑顔を浮かべる。
「ホテルに着けばわかりますよお客さん」
運転手はそう言いながら、白く化粧をしている臥牛山……函館山に向かって進路を変更する。
「やっぱり寒いじゃないかっ!」
ホテルでタクシーを降りると、再び寒風が陽平の頬を刺し、無意識に陽平はコートの襟を立ててその寒風から顔をかばう。
ホテルに着いてもわからん。やっぱり寒いものは寒いぜぇ。
大きなガラスの自動ドアが開くと、中からはムワッとした暖かな空気が流れ、フロントで展示会場の場所を聞く頃には体中から寒さが消え、運転手の言った言葉が理解できはじめる。
確かにちょっと熱くなってきたなぁ、暖房が効きすぎなんじゃないか?
「よぉ、沢井課長、待っていたぜ?」
会場になっている宴会場の入口では赤坂が忙しそうに動き、函館営業所の連中だろう人間たちにテキパキと指示を出している。
「待っていたのか?」
陽平は意地の悪い顔を赤坂に投げかけながら、コートとマフラーを脱ぐ。
「言葉のあやだ、気にするな。しかし、なんで、お前までがここに来なければいけないんだ? 俺も昨日本部長に言われて仰天したぞ?」
作業の手を止めながら、赤坂は驚きの表情を隠さないで陽平の顔を見つめている。
はは、それは俺が聞きたいよ。
「沢井君! そんな所で突っ立っていないで、早く荷物をクロークに預けて、搬入の手伝いをしなさい、まったく……赤坂君もっ! 会場まで時間がないんだから!」
背後から頭のてっぺんに響き渡るような甲高い声が聞こえてきて、赤坂は慌てて動きはじめ、陽平は嫌そうな顔をしながら首をすくめる。
この地で聞きたくない声だな、営業本部長の声は。
「やけにピリピリしていますよね本部長」
本部長の背中に舌を出している陽平に、小柄な女の子が気さくに声をかけてくるが、陽平はその娘には見覚えがなく、恐らく函館営業所の女の子であろうという事で自己解決する。
「あぁ、社長が来るというから何かにつけてハイテンションになっているんだろ? 成功すれば自分の株が上がるし失敗すれば文句を言われるからね?」
苦笑いを浮かべる陽平に釣られるように、女の子も曖昧な笑みを浮かべている。
この娘もやけに幼く見えるよな? 函館の女の子というのは幼く見えるのかな? 雪音しかり亜美ちゃんしかり……そういえば朝市のあの娘も函館の娘だったっけ?
「仕入部の沢井課長ですよね? 会場にご案内します」
女の子はそう言いながら雑然としているホテルのクロークに陽平を案内する。
「たしか十時会場だったよな? エッと……」
陽平は腕時計を見ながら隣で案内してくれている女の子に声をかける。
「アッ、ごめんなさいあたし函館営業所の沢村香奈(さわむらかな)です」
香奈は申し訳無さそうに頭を下げる。
「別に気にしないで良いよ……しかし、この状況で間に合うのかねぇ」
クロークに向かう道すがら垣間見える会場は雑然としており、至る所に開梱されていない段ボール箱が積み上げられ、まだ商品の展示も完全に終わっていないようで、あと二時間もない開場に間に合うのか心配になってくる。
「はぁ、間に合いますかねぇ」
香奈も俄かに心配なのであろう。苦笑いを浮かべてその様子に視線をめぐらせている。
「間に合わなければ、あのオヤジの慌てふためく顔が拝めるんだけれどな?」
そういいながら陽平と香奈は、かなり血圧が上がっているのであろう、甲高い声で周囲の人間に怒鳴り散らしている営業本部長の南原の赤くなった顔を見つめる。
怒鳴り散らす前に自分で動けよな? ったく……。
「はぁ、でも、そういうわけにはいきませんよねぇ? そんな事になったら後でどんな事を言われるかわかりませんからぁ……」
困ったような顔をしながら香奈は首をすくめて陽平に言う。
ハハ、営業本部長の悪名は、こんな地方の営業所までまかり通っているのか、ある意味それはすごい事だと思うぜ。
ため息を混じらせながら陽平はクロークに荷物とコート、背広の上着までも脱ぐとそれを預け、ネクタイを緩めながらワイシャツの袖をめくりあげる。
やっぱり暑いや、これで開梱して陳列するまでという作業を行なえば、大汗をかくのは間違いないな? あの運転手の言っている意味がわかったよ。
「キミのおっしゃる通りだよ、とばっちりは全てこっちに来るからね、さぁ、がんばろうか」
香奈の肩をポンと叩いて会場に飛び出してゆく陽平の事を、香奈は少し呆気に取られたような顔をして見送る。
さてと、営業時代に培った腕をご披露しましょうかね? 陳列の神様とまでいわれたんだぜ? 本部長のへこたれた顔は見てみたいけれど、後でとばっちりは食いたくないからな?
「赤坂課長、こっちに少し人員を回してくれ」
嫌だねぇ、昔の血が騒ぐというのはこういう事を言うのだろう、ワクワクしてきたぜぇ。
陽平が陳列を始めたのを見た赤坂も、ホッとしたような顔をして若い営業を陽平にあてがう。
『業務連絡します。まもなく開場いたします、各係員は配置についてください』
どうにかまとまった展示会場に放送が鳴り響くが、セレモニーなどには関係のない陽平は、お揃いのハッピを着て近くにいた知り合いのメーカーの担当者と雑談をしている。
会場の入口付近は華やかにざわついているが、こっちは蚊帳の外といった感じだな。
「陽平、そういえば彼女には連絡したのか?」
いつの間に現れたのか、背広姿の赤坂が陽平のわき腹を突っつく。
「いや、バタバタしていてまだ連絡していないんだよ」
そういえば、急遽決まったから連絡していない、昨日も結局連絡できなかったし、まぁいいか、ちょっと驚かそうかな、後でこっそりとお店に行って。ウフフ……。
「おまえなぁ気色悪い笑い方をするなよ……」
思わず顔がにやける陽平に、気味悪がって赤坂が一歩引くように、後ずさりする。
「うるせぇ、それよりもお前は行かなくって良いのか、この展示会の実行委員だろ?」
冷やかすような顔をしている赤坂に、照れ隠しに陽平は睨みつけると、赤坂は嘆息しながらそのセレモニーが行われているであろう人溜に視線を向ける。
「お偉いさんがいっぱい来ているからな、俺は関係ないんだよ」
「先生、これはこうやって使って、ほら」
「はぁ、なるほどねぇ……」
客はそう言って試供品だけを貰っては、離れていくだけで、なかなか思うように売り込む事ができずに、ちょっとヘキヘキしてくる。
みんな妙子さんの講習目的なんだろうなぁ……。
どこのブースもそうなのか、客の数の割りになかなか商品が売れていないというのが、アイコンタクトで交わされる。
「先生、ちょっとこれ使ってみませんか? この成分が髪の毛に浸透して……」
しかし売れないからといって、手をこまねいているわけにはいかない。ノルマもあるし、仕入の担当としては、予想して仕入れた数をこなさなければ、仕入部長から咎められてしまう。
陽平は、目の合った美容師であろう男性や、女性に声をかけてはその商品の、特性を話すが、やはり結果は同じだった。
「いかがですか?」
椅子に座り込み、対策を練っているとエプロン姿の香奈が声をかけてくる。
「いまのところ惨敗かな? 北沢妙子の知名度をここに来て思い知らされたよ……沢村さんは、喫茶担当なの?」
商談になった際に、コーヒーなどを提供するのが喫茶担当で、会場内にある商談スペースに提供するほか、一部のブースにも配達したりするようだ。
「ハイ、結構忙しいです」
幼い笑顔を浮かべながら、香奈は手を振って陽平の元を離れていく。
はぁ、俺もコーヒー飲みたいなぁ。思い出せば、今日は朝からコーヒーを飲んでいないぜ? という事はこの不調はそのせいなのか?
「すみません、これの使い方は……って?」
「はいはい、これはですねぇ……あっ!」
いまいち調子の出ない事を、色々な事案のせいにしようとしている陽平は、声をかけてきたお客に笑顔を振りまくが、一瞬にしてその顔が凍りついたように固まると、その視線の先にいた女性客もまったく陽平と同じような表情のままに固まっている。
雪音? 早い、早すぎるよ、もうちょっと他の所見てから来たっていいじゃないか
雪音はまるでクマにでもであったような顔をして陽平の顔を見つめたまま、酸欠の金魚のように口をパクパクさせている。
感動の再会みたいなシチュエーションがほしかったんだけれど、もう無理か……。
「はは、ひっ、久しぶり……だね?」
陽平の一言はパァンという乾いた音にかき消される。
「なるほど、そう言う訳なの……ビックリしたよ」
叩かれた左の頬の赤みが取れ始めている陽平は、苦笑いを浮かべたまま喫茶スペースで雪音に事の経緯を説明すると、ようやく理由が飲み込めたのか、雪音の顔にも笑顔が戻り始める。
電話では毎日のように話をしているけれど、こうやって顔を見ながら話をするというのはやっぱり嬉しいな? いきなり頬っぺたを叩かれたのにはビックリしたけれど……。
陽平の存在に気がついた雪音は、どうやら信じられなくなり、夢では無いかと思って陽平の頬を叩いたらしく、その後人目もはばからずに抱きついてきた。
「なに?」
ニッコリと微笑みながら雪音は美味しそうにコーヒーに口をつけていると、陽平の視線に気が付いたのか、その頬を少し赤らめる。
「いや、本当に久しぶりだなって思ってさ……」
優しい口調の陽平の言葉に、雪音も穏やかな笑みを浮かべる。
「ウン、本当に久しぶり……会いたかったよ……でも仕事じゃなくって、プライベートだったらもっとよかったのにぃ、エヘヘ」
雪音は頬を膨らませるものの、ちょっと照れたようにうつむきながら呟くように言う。その瞳には、うっすらと光るものが見え思わず抱きしめたい衝動に駆られるが、ここは展示会というビジネスチャンスの場で、回りでは様々な社員がお客相手にセールスを行っており、感動の再会というには程遠いものだよな?
「雪音……」
愛しい、たまらない愛しさが陽平の頭の中に浮かび上がってくる。
「沢井課長、商談中にすみません……社長がお呼びです」
香奈は申し訳無さそうな顔をして雪音に頭を下げて、声を潜めながら陽平に耳打ちする。
はは、まぁ、商談中ではないけれどね、立場上そういうふうにしておいた方がいいだろう、どこにあの本部長の目があるかわからないだろうしね?
「了解です、すぐに行きます」
とうとう呼び出しかぁ、一体こんな所まで人を呼び出してきて、何の事なのだろうな?
立ち上がる陽平の顔つきが変わる。今までの優しい笑顔から、ちょっとキリっとした顔に変わり、その顔は雪音が今まで見た事のない顔つきをしている。
「陽平?」
そんな陽平の顔つきに、何か不安を感じ取ったのだろうか、雪音が心配そうな顔をしながら立ち上がったその顔を見上げる。
「――心配ないよ」
チラリといつもの優しい笑顔を浮かべるが、その顔には緊張の色が見える。
「沢井です」
雑然としている会場の奥に用意されている一部屋に、香奈から聞いた講習会控え室の張り紙がしてあり、そのドアをノックする。
「入りなさい」
部屋の奥からは、聞き覚えのある野太い声が聞こえてくる。
「失礼します」
陽平は頭を下げながら部屋に入るが、部屋の中は講習会に使う道具や、スタッフ用のお弁当などが所狭しといった感じで並べられており、社長が居るような様相ではない。
「あぁ、沢井君、こっちに来てかけたまえ」
雑多な荷物の奥から社長がにっこりと微笑みながら顔を出し色気の無い事務椅子を手で指す。そして社長の隣には一人の女性が立っている……。
「はい、ありがとうございます」
女性は陽平が入ってきた事に気が付かないように、窓の外を眺めている。
あの後姿どこかで見たことがあるよな?
陽平は首をかしげながらピシッとしたスーツ姿の女性を一瞥し、社長と向き合う。
「悪いな、忙しいところにわざわざ函館まで来てもらって」
社長は微笑みながら、気さくに陽平に声をかける。
いや、俺的にはラッキーなんですとは口が裂けても言う事ができないよ……まだまだ我が身が可愛いからね?
「さて、時間がもったいないな、実は君に頼みがあるんだが」
タバコに火をつけながら社長は真剣な顔になり陽平の顔を真っ直ぐに見つめる。
社長自ら、一課長の俺に頼みなんて何だ?
「君も、仕入部の人間なら知っているよな『TaeK』を」
知っているも何も北沢妙子のブランドで、俺が担当しているメーカーのひとつ、そうして雪音のお母さんの会社。って、お母さん?
陽平は、窓の外を眺めているスーツ姿の女性が北沢妙子であるという事に気が付き、思わずその場に立ち上がる。
「そのブランドで今度美容室チェーンを日本に展開することになった、既にアメリカなどでは展開しているが、その日本法人を当社がバックアップしてゆくことになった」
妙子がゆっくりと陽平に振り向く、夏に会った印象とはまったく違うまさに目の前にいるのは『TaeK』の社長である北沢妙子だ。
「それで、その美容室で使用する材料などを調達する人材が必要になってね、それを君、沢井陽平君にお願いしたいの」
妙子はそう言うと陽平の肩に手を置く。
「日本法人名……会社の名前は『SnowCrystal』雪の結晶という意味」
そういい妙子は陽平にウィンクを投げる。
「何で俺なんですか? 別にいっぱい人がいるじゃないですか?」
陽平は、机を叩き社長と妙子の顔を見ながら唾を飛ばしながらいう。
「あら? 不満なのかしら? でもね、以前に言った事があるでしょ? あなたの評判は前々から聞いた事があるって、その評判を聞きつけて今日この席を設けてもらったの。いわゆるヘッドハンティングね」
妙子は表情を崩して陽平の顔を覗き込んでくる、その顔は夏に見た妙子のそれと同じではあったが、目だけは真剣なのが印象に残る。
「それに、あなたには、人をひきつける何かがある、それをうちの会社で花開かせて見たいの、社長さんには申し訳ないけれどね」
ニコッと微笑む妙子に対して苦笑いを浮かべる社長。
「沢井、わが社としてもお前を手放したくないと北沢さんにはお断りしていたんだ、お前の評価は色々な所から聞いているからな? しかしこれはお前にとってチャンスだと思うぞ、それにこれはお願いではなく業務命令だ」
社長の顔は穏やかに陽平を見ている。恐らく何らかの裏はあるのであろう、それに有望と言う経営者の台詞は鵜呑みにできないと言うことは長い社会人人生で学んでいる。
「……わかりました、お世話になります」
陽平は二人の視線に負けたようにうなずく。
「よかった、詳しい内容は後で書類と言う形で送付するから、あなたの力を存分に発揮してちょうだいね?」
妙子はホッとした表情を見せながら陽平を見る。
自分の力を発揮しろかぁ……出来るのかな俺に……それに……。
不安そうな顔をしている陽平を見て気がついたかのように妙子が声をかけてくる。
「陽平君、あなたになら絶対にできると思うわよ、それに、あの娘の事が心配なら大丈夫」
大丈夫って?
陽平が顔を上げると、そこにいる妙子の表情は、さっきまでの経営者の顔ではなく、母親の、あの夏に会った時の妙子の顔に戻っていた。
「あなたの勤務地は函館、『SnowCrystal』の本社は函館に置くの、そうしてその一号店はあのお店『ひなた』よ」
ちょっ。
ガタンと椅子を鳴らしながら陽平が立ち上がる。
「ちょっと待ってください! 『ひなた』はあいつが……雪音が育てたお店じゃないですか?それをチェーン店の一つに位置付けるなんて酷くありませんか?」
『ひなた』は、雪音の婚約者の名前、雪音が忘れないようにとつけた名前だ。店名を変えるだなんて、雪音が承知するわけがない。
「酷いも何も、言い出したのはあの娘だよ? そして『SnowCrystal』の名付け親もあの娘なんだ……って、ちょっと、陽平君?」
雪音が? あの雪音がお店の名前を変えるって?
バタン!
慌てふためいている妙子と社長など眼もくれず、気が付くと陽平は部屋を飛び出し人ごみを掻き分け、雪音の姿を探し回る。
なんだってこんなに人が多いんだ、雪音は一体どこに行ったんだ?
陽平はインフォメーションセンターと書かれた場所に来て、そこにいる女の子に聞く。
「呼び出しをしてくれ美容室『ひなた』の森沢先生だ! 早く!」
陽平の迫力に押されて女の子はマイクを握る。
『お呼び出しいたします……』
会場内に放送が響き渡る。
十分、二十分とインフォメーションセンターでそわそわと待つが、そこに雪音の姿が現れる気配は無く、ただ時間だけが無駄に過ぎてゆく。
「陽平どうした? さっきお前と一緒だった先生なら帰ったぞ?」
赤坂が首をかしげながらインフォメーションセンターにいる陽平に声をかけてくる。
「帰った?」
「あぁ、お前と別れてしばらく俺が案内していたんだけれど、お店に予約が入っているからとか言っていたかな? お前に伝えておいてくれって、今さっき別れたばかりだから、まだ近くにいるんじゃないかなって……おい、どこに行くんだ?」
背後から赤坂が声をかけてくるが、そんな事はお構いなしに陽平は一目散に会場を後にして、ロビーに駆け下り、ホテルを出て周囲をキョロキョロと伺うが、そこにはさっき見た雪音の姿は見えず、空港からここに来た時よりも酷くなった雪が車寄せに新しい雪を積もらせている。
これじゃあわからないよ……としたら一番手っ取り早いのは。
陽平は車寄せに止まっているタクシーの運転席を少し乱暴に叩くと、運転席で寝ていた運転手が慌てて飛び起きて後席の扉を開く。
「豊川町にある美容室に……」
「お客さんそんなアバウトな……」
「道案内は俺がするから早くやってくれ!」
陽平の勢いに、運転手はやれやれと面倒臭そうに料金メーターを倒す。
夏に嫌っていうほど走ったこの街だ、道案内ぐらい俺だってできる。
「あっ、ここでいいです」
陽平は、見慣れた景色の中でタクシーを降りると、夏とは違う白いものが真横から吹き付けてきて身体の体温を容赦なく奪ってゆく。
目の前にあるのは夏に見たのと同じ赤いテントが張ってある美容室『ひなた』、そのテントにも雪が積もっており、印象は違ったように感じるが、佇まいは変わっていない。
帰ってきているかな?
恐る恐るといった顔をしながら陽平がお店のノブを回そうとするが、お店の鍵はまだ閉まっており、どうやらまだ帰ってきていないようだ。
まだ帰って来ていないのか、ならば仕方がない、ここで待っていよう。
雪は横から殴りつけるように吹き込んできて、お店のテントの下に体を寄せるが雪から身を隠す事にはなっていない。
なんで雪音はお店の名前を帰るなんて言い出したんだ? 果たしてそれが雪音の本音なのか、それが俺は聞きたい……。もしも、俺の事で名前を変えようと思っているのなら……。
「陽平?」
店の前で十分ぐらい待っただろうか、陽平の前に赤いコートを着込んだ雪音が驚いた表情を浮かべながら陽平の前に立っている。
「よぉ、遅かったな?」
吹き付ける雪のせいで、陽平の肩にはうっすらと雪が積もっている。
「ウン、ちょっとお買い物して来たから、って、そんな事のんびり言っている場合じゃないでしょ? 早く入って、もう、風邪ひいちゃうじゃないのよ」
雪音は口を尖らしながら、コートのポケットから鍵を取り出し、お店の扉を開ける。
「ほら、これで頭を拭いて、今ストーブをつけるから……あーぁ、もぉ雪が肩に積もっているじゃない、早くそのハッピも脱いで」
店に干してあったタオルを陽平に投げながら、雪音は忙しそうにお店の中を動き回る。
「わりぃ……」
陽平は手を頭に置きながら雪音にわびる。
「まったく、こんな日にコートも着ないで出歩くなんて自殺行為よ? どうかしたの?」
雪音は怒った表情は浮かべているものの、陽平の事を本気で心配しているようだ。
「妙子さん……お母さんに会った」
陽平が口を開くと、コートを脱いでいた雪音の手が止まる。
「……そう」
雪音の声のトーンが落ちる。
「何で? 何でこの『ひなた』の名前を変えるんだ?」
陽平は立ち上がり雪音の肩を掴む。
「ヘヘ、お母さんがこっちに帰ってきてくれるって言ってくれたから、それでこのお店を、日本の一号店にしてくれるって言ってくれたから」
雪音は自嘲気味の笑顔を浮かべる。
「だからって、何も、あの人と決別するような……」
「決別するの!」
雪音が怒鳴るように陽平に言う、しかしその目には涙が浮かんでいる。
「いままで忘れるという事が辛かったのに、今じゃあ忘れている事の方が多くなってきたの、その代わり……あなたの事ばかり考えている自分に気が付いたわ、だから変えるの、そうすればきっと忘れることが出来る」
雪音は決心したように力強い視線で陽平を見る。
「雪音、無理をしていないか?」
「ううん、無理なんてしていない、むしろ自然に忘れられるようになってきた、完全じゃないけれど、もう、大丈夫」
雪音はニッコリと微笑みながら陽平に抱きつくと、それまで冷え切っていた身体に雪音の体温が移ってくるように暖かくなる。
「陽平? 夏にちゃんと言う事ができなかったけれど、わたしもね、あなたの事が大好きだよ、だからこのお店も変えたいの、日向さんは存在した、あなたはそんな日向さんごと、わたしの事を好きだと言ってくれた、存在をなくす訳ではないの、変わりたいの、わたしも……」
雪音の腕にギュッと力がこもる。その顔には安どの表情が浮かんでいる。
「変わって、あなたの事をこれからもずっと愛していたいの……そうして、ずっとあなたに愛してもらいたいの……だから……ね?」
「雪音……」
二人の顔の距離が徐々に近づき雪音はそっと目をつぶり、顎を上げてくると、陽平もそれに応じるように目をつぶる。既にお互いの息遣いがわかるほどまでに距離は縮んでいる。
「お姉ちゃん帰ってきたの?」
うぁぁぁ……っ!
店の奥から聞こえる声に、二人は弾かれるように離れ、その視線を母屋とつながっている扉から顔を出している寝ぼけ眼の亜美の顔に向ける。
「あっ、亜美? あんたなんでいるのよ? 学校は?」
湯気が出ているような真っ赤な顔をしながら雪音が亜美を睨みつける。
「今日お休みだよぉ、入学試験で……って、お兄ちゃん?」
目をこすり亜美は、雪音と不自然に離れて曖昧な笑顔を浮かべている陽平を見ると、その顔を輝かせ満面の笑顔を膨らませる。
「やっ、やぁ亜美ちゃん、久しぶり」
動揺している事を悟られないように陽平は頬を引きつらせながら笑顔を作るが、その顔も耳まで真っ赤な顔をしている。
「お兄ちゃんだぁ!」
亜美はなりふり構わず、裸足のまま飛び出して陽平に抱きつく。
「ははは、夏に痛めた足は完全に大丈夫みたいだね」
抱きつく亜美に困惑しながら、視線をチラチラと雪音に向けるものの、やはり再会出来た喜びが沸きあがってくる。
「ウン! 完全復活、任せてよ」
ニィッと口を横に広げながら亜美はギュッと親指を立てて、ショートパンツから伸びるその白い足をパンと叩きながら陽平に見せつける。
うぁ、白くて細い、綺麗な足をしているんだな、亜美ちゃんって……夏は幼く思ったけれどもこうやって見るとやっぱり女子高生なんだな?
陽平が、それに見惚れているのを察知した雪音は頬を膨らませながら咳払いをする。
「ゴホン、でっ、陽平、仕事はいいのかしら?」
不機嫌そうに口を尖らせながら雪音が睨みつける陽平の顔は、さっきまでの赤みをなくして一気に蒼くなってゆく。
「ヤベッ! そうだった!」
あぁ、いけね! 何も言わないで出てきちゃったよ、やばいなぁまた文句言われるよ。
陽平はあわてた様子で脱いだハッピを再び着込み、店を後にした。
「あ、後でまた来る!」
陽平はそう言い、半渇きのハッピを翻らせながら店を飛び出して行き、その様子を呆気に取られたような顔をして雪音と亜美が見送る。
=エピローグ=
「いくらか片付いてきたわね?」
段ボール箱が散らかっている部屋の中を雪音が見渡す。ここは函館市内にあるマンションの一室、あわただしく引越しの支度をした割には、いい部屋に当たった。
「皆さんのおかげです」
申し訳無さそうな顔をしながら、陽平はぺこりと頭を下げる。
「それにしてもお兄ちゃん、この部屋は一人で暮らすには広すぎない?」
物珍しそうな顔をして亜美は部屋の一通り見てまわり、窓の外を眺めながら言う。窓の外には函館を象徴するように函館山が聳え立っている。
「いずれは一緒に暮らそうと思っている人がいるから、今のうちに広い所にすればいいと思ったんだろ? 違うのかい? 陽平君?」
妙子が意地悪い顔をして雪音と陽平を見る。
「おっ、お母さん、そんな、まだわたしたち……ねぇ」
真っ赤な顔をする雪音は陽平に助けを請うように視線を向けるが、陽平も戸惑ったように視線を泳がせるだけで、曖昧にうなずくだけだ。
「はは、まぁ、ねぇ」
否定とも肯定とも取れないような返事をする陽平に、亜美と妙子が視線を向ける。
「否定しなかったね、お兄ちゃん」
「否定できる訳ないだろう? 当人を目の前にして」
わざとらしく妙子と亜美が耳打ちしながら言うが、その声は筒抜けである。
おいおい、聞こえているって……。
「さてと、そろそろ夕食の時間だね、陽平君、うちで食べていくんだろ?」
二人を冷やかすのに飽きたのか、妙子はそう言いながら陽平にウィンクする。
「助かります、まだ何も買っていないもので」
冷蔵庫の中には食材などはまるっきり入っていない、今夜飲もうと思ってビールだけはちゃんと入れてあるけれど。
「じゃあ、雪音と一緒に買い物をしてから家に来なよ、みんなで飲もう」
妙子は、雪音と陽平を眺めながらニヤッと微笑みながら言う。
飲もうって……夕食じゃないんですか?
「えぇ、じゃあ亜美も一緒にぃ……むぐぅ」
不服を申し上げるように亜美が口を開こうとすると、妙子がすかさずその口を手で覆いながら亜美を引きずるようにして部屋を出てゆき、その様子をキョトンとした顔をして陽平と雪音は見送り、どちらともなく笑い出す。
「アハハ、でも本当に助かったよ、よく片付いたよな」
陽平は再び部屋を眺めながら言う。
「でも、そんなに荷物がなかったよね?」
ダンボールが散らかりながらも、どこかガランとした部屋を雪音も眺めて言う。
「一人暮らしが長かったからね、まあ、もう少しすればすぐに二人になれるかな?」
陽平は照れたよう鼻先を掻きながら、雪音の姿を見つめながら言う。
「エッ? それってまさか……」
思いもしなかった一言に、雪音が振り返ると、真面目な顔をした陽平が立っている。
「ウン、そう、雪音以外に誰がいるんだい? 大丈夫、俺はいつまででもここにいる」
一瞬呆気に取られた顔をしていた雪音だが、やがてその両目からは涙が溢れ出し、それはいくら拭っても追いつかないほどだが、雪音のその表情は穏やかで、微笑を浮かべながら真っ直ぐに陽平の顔を見つめている。
「相変わらず俺達はムードがないね? こんな引越し直後の部屋の中でする話じゃないのはわかっている、でも、今の俺の気持ちだけは雪音に知っていてもらいたかっただけだよ……雪音、俺と結婚してくれないか?」
プロポーズの言葉に雪音が陽平の広い胸に飛びついてくると、陽平は驚いた表情で、しかし穏やかな笑顔で雪音を受け止める。
「あなたはいつもそうやって私を受け止めてくれた、だから、これからは、わたしもあなたの事を受け止める、これから一生わたしはあなたの隣にいます」
雪音の言葉に陽平はその小さな頭を抱きしめる。温かい体をギュッと抱きしめ、お互いの顔が徐々に近づいてゆき、やがてその一点だけがそっと触れ合う。
温かくも柔らかい雪音の唇は、流していた涙のせいなのだろうか、少ししょっぱく感じたけれども、でもこの温かな感覚は絶対に離したくない……。
茜色の夕日が差し込むその部屋に伸びる影は、いつまでも一つだった。
「ねぇ、覚えている? あなたの勤める会社の名前『SnowCrystal』って、わたしがつけた名前っていう事を」
近所のスーパーで買い物を済ませ、二人が腕を組みながら歩いていると、陽平の顔を覗き込むように雪音が話しかけてくる。
「うん、憶えている」
「何でだかわかる?」
「?」
意地悪く言う雪音に陽平は首を傾げる。
「あなたに貰ったこのネックレス」
雪音はそう言いながら、ハイネックのセーターの胸元からそのネックレスを取り出す。
「ああ、あの時のやつか」
夏に買ったそれに陽平は目を細める。
「あなた言ったでしょ? 『持って帰るつもりだった』って、もし持って帰っていたら、きっと、あの名前は付かなかったのよ」
雪音はそのネックレスを大事そうに胸元に戻す。
「そうだったんだ、じゃあ、あのお店の名前はそのネックレスのおかげだったんだね?」
陽平は、いつの間にか降り出した雪を見上げながら言う。
寒いと思ったら、また雪かぁ。
「ううん、違うよ、あのお店の名前の由来はね……」
思わせぶりな言い方をしながら雪音は組んでいた腕をさらに抱きしめてくる。
「あのネックレスをくれた人への思いなの」
雪音は頬を赤らめながら腕を解き、一人でスタスタと視界に入ってきた赤いテントのお店に向かって歩いてゆく。
「エッ、それって」
いまいち意味を理解していないのか、陽平は思わず立ち止まって雪音の事を見てしまう。
それって、俺の事? 俺の事を思ってあのお店の名前にしたって言う事なのかな?
「ちょっと、雪音さん、おーい」
手に持つ袋を振り上げながら、陽平はあわてて雪音の後を小走りで追いかけるが、なれない雪道のせいで足元をすくわれ、見事なほどにしりもちをつく。
「いてぇーっ!」
その様子を見た雪音が心配そうに陽平に駆け寄る。
「大丈夫? 慣れない雪道で走るからよ、雪道は走っちゃだめ、足の裏で雪をつかむようにして歩けばいいの、それに歩幅も小さくすれば大丈夫だから」
雪音は陽平の手を引いて起こしながら、雪道の歩き方を伝授してくれるが、今度は勢い余って、二人でしりもちをついてしまう。
「いたぁーい」
雪音はお尻をさすりながら立ち上がる。
「アハハ……」
陽平は思わず笑い出す。
「ウフフ……」
雪音も笑い出す。
「さぁもう少しでお店だから、ゆっくりと気をつけながらいきましょう」
そう言いながら、雪音は再び陽平の腕に自分の腕を絡ませ、そっと寄り添う。
「冬は、こうやって誰かの温もりがあると暖かいかも知れないね?」
陽平の腕に頬を摺り寄せながら、雪音は頬を赤らめる。
「ウン、寒いからこそ温もりがほしくなる。だから、これからもずっと二人で一緒に冬を越していこうよ、何年もずっと一緒に……」
空からは、二人の火照った頬を冷やすように雪がそっと降り続ける。
「あのね……」
空を見上げる陽平の顔を、雪音が頬を赤らめながら見る、その瞳は熱く潤んでいる。
「ん?」
穏やかに微笑む陽平の顔に、雪音はうつむきながらボソッと呟くように口を開く。
「わたし、あなたの事が……大好きだよ……これからもずっと……」
恥ずかしそうに雪音がそう言い、陽平の腕にしがみつく。
「そうだな……俺も大好きだよ……雪音の事が、そしてこの函館という街が……」
二人が見上げる空からは、止め処も無く降り続ける雪、スノークリスタル……雪の結晶が二人の事を優しく包み込む。
函館の街は再び雪景色に変わる。
けして寒いだけではない冬が、二人を祝福する。
そう、火照った二人の頬を冷やすかのように……。
fin