第八話 ゆれる想い
《前編》
=八月十五日= いつもと同じ?
「おはよう、陽平さん」
いつもと同じ笑顔で雪音は俺を出迎えてくれる。その光景はこの家に泊まるようになってから毎日同じ光景。妙子さんや北沢さんがテレビを見ながら談笑している食卓に部外者である俺がいる。そうして雪音が当たり前のように俺の前にお茶を置いてくれる。
昨日あの後、二人は無言のままで店に帰ってきた、妙子さんや北沢さんは『もうちょっとゆっくりしてくれば』と言っていたが、雪音のその顔を見て二人とも黙り込んでしまった。
その顔は、何かに取り付かれたように強張り、食事も取らないで自室に引きこもってしまい、その後会話をすることはなかった。
妙子さんや北沢さんからはその事について聞かれる事はなく、いつもと同じように接してくれたのが俺にとっては救われた。
『ごめん……やっぱり、わたしだめ……』
雪音の言うその意味は十分すぎるほどわかるつもりでいる。彼女の中にいる彼の事を忘れるわけがない、でも、俺の気持ちはやっぱり……。
「陽平君?」
いつしか目の前に置かれていたお茶をジッと見つめていたのであろう、妙子が怪訝な顔をして陽平の顔を覗き込んできている。
「はい?」
陽平は妙子の一言にはっと我に返ったように返事をするが、妙子は少し呆れたような表情をつくり小さなため息をつく。
「あぁ……いや、なんでもないよ……ただ今日は一人で……悪いね?」
妙子がため息交じりに視線を向ける先にいる雪音は元気に振舞っているように見えるが、台所でたまに考え事をするように動きが止まったり、ため息をついたりしており明らかに普段とは違う事がわかる
「はい、そうさせてもらいます」
陽平もため息を付きながら、そういい食卓を離れる。
さて、どうしたものか? 今日このままこの家にいるのもなんだか居心地が悪いし、どこかにとりあえず出かけるしかないか?
「ちょっと出かけてきます」
陽平が台所に声をかけながら支度をするとそれまでしていた音が一瞬止まり、
「……いってらっしゃい」
姿を見せない雪音の声が玄関先にむなしく響き渡る。
Yukine わたしの気持ち
「はぁ……なんなのかしら、この気持ち……」
雪音はそう呟きながらベランダに干してある洗濯物を取り込みながら、今日何度目となるのかわからないため息を天井に向かってつく。
今までこんな感じはなかったわよね? 少なくともあの人が来るまでは……あの人が来てから自分自身が変なのは気が付いていた。でも、こんな気持ちにまでなるとは思わなかった。初めて会ったとき、人懐っこい顔をする人と思っていたし、亜美が助けてもらった時あの人はにっこりと微笑んで『こんな娘に抱き付かれるなんて光栄だよ』なんて言っていた。他の人なら、格好をつけて言っているのだろうが、あの人は本当に普通だった、最初は慣れているのかしらとも思ったけれど、彼は格好をつける事も何もしない、だってそれが彼の普通なんだもの。
亜美はきっと彼の事が好きだと思う。あの娘の態度を見ていればそれはすぐにわかる。あの娘の理想の人は姉であるわたしにはよくわかっている、陽平さんはその理想にぴったり当てはまっていることもわかる……でも歳に差がありすぎるし、ちょっと賛成ができない気がするかもしれない……でも、賛成出来ないのは本当にそれだけなの?
陽平の洗濯物を無意識にギュッと握り締め、動きが完全に停止する。
本当にそれだけで賛成できないのかしら?
もう一人のわたしが首を持ち上げる。
あなたの気持ちは?
わたしの気持ちは八年前から変わらない、日向さんを愛する気持ちだけ。わたしはあの人を忘れない、わたしの心の一部となっているという気持ちだけ。
本当に? あなたの気持ちは本当にそうなの? 陽平さんに対する気持ちはどうなの?
わたしの陽平さんに対する気持ち……ただのお友達? 観光客の一人? 亜美を助けてくれた恩人? 違う、陽平さんはそんなただの人ではない、あの人は、きっとわたしを変えてくれる人に間違いない……わたしの事を導いてくれる人……。
だったらなぜ素直に受け入れないの?
もう一人の雪音が意地悪く笑う。
それは……きっと怖いから……。
「雪音、予約の鮎川さんがお見えだよ」
お店からお母さんの声が聞こえる。
うん、今は仕事仕事!
雪音はもう一人の雪音を打ち払うかのように頭を振る。
「那美ちゃん! いらっしゃい、今日はどうする?」
店に出る雪音の顔は既に営業用スマイルに変わっていた。
Ami あたしの気持ち
「おはよ〜」
いつ寝たのかわからない、気が付いたら空が白んでいた……。
寝不足という顔をした亜美は、小さくあくびをしながらみんなが揃う食堂に顔を出す。
「森沢どうだ? 大丈夫か?」
味噌汁と干物の魚が置かれ、まさに朝食と言うメニューが並ぶ食卓を目の前に腰掛けると、心配顔をした木村哲也が亜美の隣に座る。
「やっ、やだなぁ先輩、あたしは別になんでもないですよ?」
そういいながらも目線を逸らす。昨日、あれだけ動揺したのを見られたという照れくささもあるかもしれないが、やはり弱みを見られたような気になってしまう。
あの後、あたしはどうしたのかよく覚えていない、ただ先輩に促されるままに動いていただけのような気がする。その後の記憶はほとんどない。
「ならいいけれど……」
哲也は少し寂しそうな顔をしながら出された味噌汁をすする。
「はい、いいです……」
亜美もそう言いながら味噌汁をすする。
「亜美ぃ……ちょっと木村先輩といい雰囲気じゃない?」
朝食をとり終えて、部屋で着替えていると奈津美がニヤニヤしながら亜美のわき腹をひじで突っつく。
「そう?」
亜美は着ていたジャージの上着を脱ぎ捨て、Tシャツ姿になりながらまったくそれに対して関心がないと言った風に黙々と着替えを続行する。
「そうって? あんた、あの『キムテツ』とあんなに仲良く話ができて、周り後輩たちもハンカチを咥えて口惜しそうにしていたわよ」
奈津美はまるで唾がかかるかのように食って掛かってくるけれど、ゴメンそれに付き合う元気が今のあたしにはないのよね?
「別に、先輩なんてどうでもいいわよ……」
亜美は、その後輩たちすべてを敵に回したようなことをサラッといいながら、Tシャツの上から道着を着て帯を締める。
確かに格好が良くって人気のある先輩なのは認めるけれど、それはあたしの中では『先輩』という認識しかない。
「……何かあったの?」
そんな亜美の様子に気がついたのか、奈津美は心配するような表情で亜美を見る。
「昨日、先輩と買出しに行ってから亜美なんだか変だよ? 何かあったの?」
奈津美の一言に亜美の帯を締めようとする手が止まる。
奈津美ちゃんゴメン、今はその事を思い出したくないの、そのうち笑顔でその事を話すようにするから、だから今は……ゴメン。
沈痛な顔をする亜美に気がついた奈津美は心配げな顔をするが、小さくため息をつきながら亜美の肩をポンと叩く。
「……わかったわ、とりあえずはっきり言える事は……」
スゥーと大きく息を吸って……。
「今はあんたに先輩に対してそういった感情がないということだよね!」
近くにいた亜美が顔をしかめるほど奈津美が大げさなほどに大きな声で言うと、まるでその部屋の空気が膨れ上がるほどのため息が吐かれる。
「……なんだぁ」
サワサワとそういう声が、更衣室代わりになっている部屋のいたるところから声が上がり、今まで尖っていた部屋の空気が和らいだような気がする。
「ねっ! こういうことははっきりしておかないと、後々面倒になるからね」
いまだに道着に着替える途中の奈津美はウィンクを亜美に送る。
「ほらぁ、そこ!」
道場に顧問である高橋りつ子の声が響きわたる。合同合宿とはいえ、男女が一緒に練習する事はなく、男子柔道部には別の顧問がついているのだが、その声は聞いたことがない。いつも聞こえる声は、この高橋の声だけだ。
というよりもただ声がデカイだけな様な気がするけれど……。
「稲木! もっと相手を引き付けろ! 脇があいているぞ!」
竹刀をピッと直美に向けるりつ子に怯えたように奈津美は脇を締める仕草をする。
「はい!」
いつもはおちゃらけている奈津美も、練習の時は真剣で表情が違い必死な顔をして打ち込みをしているわよね? そんな奈津美の顔って生き生きしているような気がするよ。
その様子をわき目にしながら亜美も、ウォーミングアップを終わらせ、おろしていた髪の毛を結わき上げながら呼吸を整える。
「森沢! あんたはこっちに来て乱取りをしな!」
高橋先生の般若のような顔があたしを見る。
普段は優しい顔をするくせに、事柔道の事になると、まるで夜叉のような顔になるのよね? だから『鬼』なんていわれるのよ。
「はい」
すぅっと息を吐きながら立ち上がる亜美。
なんだか身体が思うように動かない、なんだか集中が出来ないかな? そんな事を考えても仕方が無い、とりあえずは練習メニューをこなさない事にははじまらない。
「亜美、あたしとやろう」
ゆっくりと立ち上がる亜美に対して三年生の上野麻里亜が声をかけてくる。麻里亜という可愛らしい名前とは裏腹に、ごつい体をしており当然亜美とは階級がまったく違う。
麻里亜先輩とかぁ……参ったなぁ……。
苦笑いを浮かべつつも、先輩の申し入れを断るわけにはいかないと言う体育会系の掟のようなものに気を引き締める。
「あっ、はい」
階級が違っても乱取りをおこなうのはよくあることで珍しくない、この際は小さいあたしが胸を借りるようになるのよね?
襟を正しながら、山のようにそびえる麻里亜の顔を見るが、その顔にはやはり覇気がないように見え、亜美の掛け声が道場内に響くがどことなくその声に元気が感じられない。
「やぁあ! せいっやぁー!」
麻里亜に技をかけるがまるっきり歯が立たない、足をかけようが体勢を崩そうとしても、山のようなその体はびくともしない、いつもならもう少し動くのに……なんで?
困惑すればするほど亜美の技が雑になりはじめ、自分では気が付かない隙があちこちにでき始めてゆく。
「どうしたの? 亜美いつものような技の切れがないじゃないのよ」
麻里亜は余裕の表情を浮かべながらそういいながら、亜美を見る。
「何か余計な事を考えているんじゃないの?」
麻里亜のその一言でちょっと力が緩んでしまう。
「やばっ!」
そう思った瞬間に体が宙に舞う。周囲の景色が反転して次に見えたのは天井で、だらしなく畳に大の字になって横たわる自分が容易に想像できる。
あ〜あ、情けないなぁ……。
「痛っ!」
情けないと思ったのは本当に一瞬だけ、その後亜美の感じたのは足首に走る激痛だけで、その顔はその痛みに歪む。
「ちょっと亜美、大丈夫?」
心配そうな麻里亜先輩の声がどこからともなく聞こえるが、今あたしが感じるのは激しい足首の痛みだけ。
Yukine 帰らないあの人
「お母さん、晩御飯どうする?」
お店が落ち着き、ロットの後片付けをしながら雪音が言うと、その会話の相手になった妙子は気のないような返事をしてくる。
「さて、どうしようかねぇ? もし何だったらちょっと買い物にでも行ってきたらどうだい? ちょうど、お客も途絶えたところみたいだから」
妙子はお店の待合スペースでタバコを咥えながら、視線を向けようとせずに真剣な顔をしながら週刊誌を読みふけっている。
もう、お母さんたら……たまには『あたしが作るよ』位のことは言えないのかしら? まあ、昔から料理はまるっきりダメだったのはよく覚えているし、それが嫌でわたしがご飯を作るようになったのだけれど……。
「じゃあ、ちょっと買い物に行って来るね」
白衣を脱ぎ捨て、外出できる洋服に着替えて妙子に声をかける。
「ああ、いって来な」
お母さんは、相変わらず週刊誌を読みふけっている。こっちの事がよくわからないといいながらいつも暇があれば読みふけっている。本当にそれだけなのかしら?
「ずいぶんと暗くなってきちゃったな……」
玄関を出ると、既に周囲は薄暗くなっている。それもその筈、気がつかなかっただけだけれど既に時間は夜の七時に近くなっており、お店が閉まる寸前である事を示している。
腕時計にチラッと視線を落としながら玄関脇にある駐車場を見ると、そこにあるのはわたしの軽自動車だけであの人の大きな車はない。
普段見慣れている風景である筈なのに、その場所に陽平の車が置かれているのが当たり前のような感覚に陥っている自分を戒めるように首を振る。
「車で出かけたのかしら?」
車で出かけた事を雪音は重々承知している。陽平が出て行く時に車の音がしたのを雪音が聞き逃すわけがない。
今朝あの人が出て行くのをわたしは見送らなかった。別にどうしても手が離せなかったわけではない、ただ、あの人と顔を合わすのがちょっと辛かったから……。
佇む雪音の頭上を家路を急ぐようにカモメが飛び去って行く。
わたしは、あの人とあなたを比べてしまっていた、その結果が……。
「そろそろ帰ってくるかしらね? きっと……」
雪音は自分に言い聞かせるようにそう呟き歩き出す。
「何にしようかしらねぇ?」
駅前のデパートにある食料品売り場、そこには様々な試食コーナーから立ち上がる匂いで充満しており、その匂いも手伝ってか思案顔になる雪音。心配していた食材不足は無いようで、いまだに試食コーナーからは空いたお腹を刺激するような香りが立ち上っている。
「今日の特売は……」
冷蔵ショーケースに並ぶ食材を吟味しながら歩く琴音の頭の中には、今夜の献立がモヤにかかったままで特定する事ができないでいる。いつもなら三人前の料理をするだけでいいのだが、今はあの家には倍の人数がいる、ちまちましたものを作る元気もないし、何よりも面倒くさい。
「あら、鮭のハラスが安いわね、これにしようかしら?」
小首を傾げながら顎に人差指を当てるその琴音の姿がふとショーウィンドウに写り、慌ててその指を引っ込める。
嫌だ、なんだか所帯じみているかしら。もう、こんな事をやっているから若く見られないのよね? 本当なら、もっとお洒落なお店に飲みに行ったりして、合コンしたり……ってなに考えているのかしら、わたしったら……。
「洋服……見て行こうかな?」
雪音は、頬を赤らめその場から立ち去る。
「遅くなっちゃったよ……」
色々と見てまわって店を出ると、外は既に夜の帳が下りており、駅前には大型の観光バスが止まり、その大きな車体の中に観光客を詰め込んでゆく。
みんな函館山に行くのね?
観光客の大半は手にカメラやビデオを持ち、楽しそうな笑顔をこぼしながらそのバスに飲み込まれて行く。
ドン!
「あっ、ごめんなさい」
その観光客の流れを何気なく眺めて足を止めていると、一人の少女が琴音にぶつかり尻餅をついてしまった。
「大丈夫? ごめんね、わたしがこんなところに立っていたから……」
お知りをさすりながらしゃがんでいるその少女に雪音は、あわてて手を少女に差し伸べる。
「いえ、あたしもよそ見をしていたからいけないんです……ごめんなさい」
少女はニッコリと微笑みながら雪音の手を遠慮なく握りツインテールの髪の毛を揺らしながら立ち上がりながら人懐っこい笑みを浮かべる。
「エヘヘ、お姉ちゃんは優しい人なんですね? 手がすごく暖かいよ……」
琴音はニッコリと微笑むその少女の笑みにまぶしそうな顔をする。
優しい? そうなのかしら? わたしが優しのであれば、あんな事であの人にあんな仕打ちをしなかったのではないかしら?
少女の言っている意味がわからず首をかしげていると少女は優しい微笑を浮かべながら雪音の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「そうだよ、手の温かい人は心が優しい人の証拠だってパパが言っていたよ」
少女は屈託のない笑顔で雪音を見る。
心が優しい? わたしが?
首を傾げる琴音だが少女は目的の人物を見つけたのか満面の笑みを浮かべながらその人物に駆け寄る。
「あっ、パパだ、お姉ちゃんバイバイ」
少女はそういい雪音に手を振り、パパと呼ばれる人に向かって走ってゆく。
「どうした、舞子?」
「パパを探していたからあの人にぶつかっちゃったよぉ、遅いの!」
頬を膨らませながらそう言う少女は再び雪音を振り返ると雪音に手を振る。そのパパと呼ばれる男性も雪音を見て申し訳無さそうにぺこりと会釈する。
その男性はおそらくわたしと同じぐらいの年であろう、その手を引く様に離れていく。
「まだ帰ってきていない……のかぁ」
無意識に向ける自宅の駐車場にはまだ目当ての車は戻っていない。
「ただいま」
玄関を入るとちょうど叔父さんが慌てたように出かける支度をしている。
「ちょ、ちょっと叔父さんどうしたの? どこか行くの?」
雪音はきょとんとした表情を浮かべるが、北沢は靴を履きながらそんな雪音の顔を見上げる。
「東京にいる時に世話になった人が亡くなったらしい、俺はこれから東京に行ってくる、悪いが留守は頼む」
北沢の手には喪服が入っているだろうスーツケースがもたれている。
「これからいけるの?」
そんな様子にちょっと動揺しながらも、雪音は北沢に進路を譲る。
「あぁ、飛行機の最終便が取れた、今日中に向こうにつける」
北沢はそういいながら、家を飛び出していった。
「あわただしいなぁ」
「兄さんの元上司でだいぶ世話になったらしいよ、あんたが出て行った後に電話があってすぐに手配していた。さすが元営業マンだよフットワークが軽いねぇ」
部屋の奥から妙子が感心した表情で顔を出す。
「お母さん……」
妙子の一言に雪音は嘆息しながら手元の買い物袋を見る。
「義理堅いと言うのかね? 金勘定なんて考えないですっ飛んでいくさまなんてこの国でしか見られないよ、あっちじゃもっとドライな考え方さ……それがいいのかどうかはその国の文化なんだろうけどね?」
タバコを燻らしながら妙子はそう言いながら雪音の顔を見る。
「だからって採算度外視というのはどうかと思うけれど……でも、それが叔父さんらしいのかな? 損得勘定なしというのか義理で動いていると言うのか……」
苦笑いを浮かべる雪音に対して妙子は意地の悪い表情を浮かべる。
「だからさ! その良し悪しと言うのはその国が持つ固有の伝統みたいなものよ、向こうでは利益をもたらさないにそんな投資はしない、でも日本はそんな事は関係なく投資する……それがこの国の文化なんじゃないかね? あたしは嫌いじゃないよ、そんな事……」
損得勘定なく義理堅い……利益なんて考えない、自分の思ったように動く、それがこの国の民族の考え方……それは、しきたりだけなの?
ハッとした顔をして妙子の顔を見上げる雪音に対して妙子は優しく、久しぶりに見えるような母親の顔を雪音に向ける。
「鮭のハラス、ちょっと多かったかな? 叔父さんがいなくなる事がわかっていたらもうちょっと減らす事できたのに……まぁ仕方が無いかぁ」
お酒のおつまみにちょうどいいなと思った鮭のハラスだけれど、これほどにまで人が減ってしまうとちょっと多すぎたかもしれない。
「いいじゃないか、陽平君が帰ってきたらどうせ飲むんだろ?」
妙子はそういいながら、テレビをつける。
「……うん」
彼は帰ってくる、そう、絶対に彼は帰ってきてくれる……絶対。
洗いかけの皿を無意識に握り締め、闇に溶け込んだ窓に映る自分の顔をジッと見つめ、まるで暗示をかけるように心の中で呟く。
「それにしても陽平君遅いねぇ? どうしたんだろう」
妙子の一言に雪音はハッと我に返り、何事もなかったように握り締めていた皿を洗い桶の中に沈める。
時計の秒針がカチコチと音を立てており、既に時計の針は夜の九時を指している。買ってきた鮭のハラスはまだ生のままで冷蔵庫の中に入っている、それは彼が帰ってきてから焼こうと思っていたから……でも……。
「うんそうだね、遅いよね……それよりお母さんお風呂に入っちゃって」
妙子は『はいよ』といい腰を上げ風呂場に消える。
雪音は、その時計を見ながらふっとため息をつき、そうしてさっき一瞬不安に駆られたことが頭をよぎる。
まさか、そのままどこかに行ってしまったのかしら? わたしたちに何も言わないでそんな事をするとは思えない……いや、思いたくない。
しかし、時間は刻々と過ぎてゆく。時計の長針が動くたびにその不安の輪郭がはっきりとしていくようだ。
まさかそんな事って……彼に限って……。
気がつくと雪音の頬には何本かの涙の筋が出来上がっていた。
「雪音、お風呂あいたよ……入ってくれば?」
「……ウン……」
まったく雑音がないから聞こえるような小さな声で雪音が答えると、濡れた頭を拭きながら妙子はため息をつき、雪音の顔を覗き込むとその顔が一瞬にして凍てつく。
「雪音……あんた……」
さすがの妙子のそのクシャクシャな顔をする雪音の顔を見て驚きの表情が隠せないでいる。
「あ……は……へ、変よね? なんだか涙が止まらないよ……疲れているのかなぁ、最近家事仕事が多かったせいなのかな?」
違う、わたしが今流している涙は気のせいなんかじゃない、この涙は後悔なのかも知れない、彼を、陽平さんを見送らなかったという些細な後悔なのかも知れないけれど、それを考えているだけで涙が溢れてしまった……。
「――そう?」
妙子の視線はまるで雪音の心の奥を探るように見つめてくる。
「そうだよ……お母さんが手伝ってくれないから……」
わざとらしく頬を膨らませながら目に浮かんでいる涙を拭うが、それは止め処もなく溢れ出してきて拭い切る事ができない。
変だよ……なんだってこんなに涙が出てくるの? 些細な事じゃない、彼はたまたまこの街に観光をしに来ただけ、わたしと出会った事なんて旅の一ページにしか過ぎない……そんな人の事を考えてなんで……なんで涙が出てくるの?
「雪音……あんた……そうなんだ……」
自己完結したような顔をして妙子は雪音の顔を覗き込むと、嬉しそうな顔を満面に浮かべる。
「ほぉら! そんな顔をしていると陽平君に嫌われるぞ!」
妙子が雪音の肩をバシンと叩き、強引にその身体を風呂場のある方向に向けると、ようやく雪音は小さく頷き風呂場に向かう。