第八話 ゆれる想い
《後編》
yukine 素直
「はぁ……」
雪音は湯船に浸かりながら再びため息をつく。
いったいどこに行ったのかしらあの人、どうせ行くなら行き先を告げてから行けって叔父さんに教わらなかったのかしら? いや、叔父さんの事だから、それは絶対に教えているだろう、私たちもうるさいぐらいに言われたぐらいなんだから……だったら何で何も言わないで出て行ったのかしら? わたしの……わたしのせいなのかなぁ……。
お湯をすくい上げ、涙と汗で湿る顔にそれを掛けるがそれで気が晴れるわけもなく、それは重力に従うように顔から身体にだらしなく流れてゆくだけだった。
「わからないよぉ」
ため息交じりの雪音の呟きが風呂場にエコーをかけながら響く。
あの人は一体わたしの事をどう思っているのだろう、わたしに好意を持ってくれているのかしら? それともわたしが一人でただ単にそう思っているだけで、実はなんとも思っていなかったりして……そんなの嫌だな。
あなた、自分の気持ちはどうなの?
再びもう一人のわたしが顔を覗かせる。
わたしの気持ち?
そう、あなたの気持ち。あなたは自分の本当の気持ちを考えたの? その気持ちに対してちゃんと正面と向かったかしら?
自分の気持ちに向かい合う……そうかも……自分の気持ちに向かい合ったからわかったのかもしれない……わたしは怯えていると言う事に……。
何で怯えるの?
もう一人のわたしがケラケラと笑う。
だってわたしには、まだあの人を忘れられない気持ちが残っている、それに、あの人と比べてしまっている自分がいる……わたしが他の人を好きになってしまうと、あの人……日向さんを否定するような気がする……それが一番怖い……。
……。
ちょっとなんなのよぉ……何とか言ってよぉ。
誰でもないもう一人の自分が、まるであざ笑うように見つめているようなそんな嫌な気がして無性に苛立つ。
――だって、本当はあなたの本当の気持ちはわかっているんじゃない? その理由は今あなたが流しているその涙が示しているんじゃないの? それがあなたの素直な気持ちなんじゃないかしら……。
そう言いながらもう一人のわたしが消えた。
わたしの……涙? 素直な気持ち?
雪音の頬には気がつかないうちに一筋の涙が流れ落ち、自分の肩にそれが当たっている。それは一粒どころではない、まるで決壊した堤防のように止め処もなく流れている。
これがわたしの本当の気持ち……あたしの素直な気持ちなの? この涙がわたしが持っているあの人に対する気持ちだと言うの? という事は、わたしは……。
拭っても流れ落ちるその涙に琴音は困惑しているが、湯船に映る表情はまるで喜んでいるような穏やかな顔にも見える。
ブロロロ……。
その瞬間、窓の外にある駐車場に車の入ってくる気配を感じ、慌ててその身体を湯船から立ち上がらせる。
帰ってきた!
無意識にそう感じた雪音は家の前に車の止まる気配に、慌てて風呂場から飛び出し身体にまとわりついた水滴を拭うが、後からもめどもなく溢れてくる汗に悪戦苦闘する。
それだけ長い間風呂に使っていたという証拠なのね? そんなに長く入っていたつもりないのに……あぁ〜もう!
きれいに乾いていたはずのタオルはすぐに水分を染み込ませてその重量を雪音のその細腕にのしかけてくる。
あん、もう何でこういう時に限って袖が通らないのかしら……早くしなければ……あの人きっとお腹すかせているだろうから、急いで夕飯の支度をしてあげなきゃ。
脱衣所にある鏡に映る琴音の顔は、慌てているものの表情そのものは柔らかく、笑みが浮かんでいるようにすら見える。
だからその顔があなたの素直な気持ちなんじゃないの?
もう一人の琴音の呟きなどまったく耳に入っていないように着替えを続行させ、やがて雪音は汗を拭く事を諦め、生乾きの身体を近くにあったシャツに無理やり袖を通すが、汗に張り付き思うようにうまく着る事ができず苛立ちながら強引に袖を通すが、それはいつもよりはるかに大きいと言う事にまだ気が付いていない。
帰ってきた……あの人が帰って来た!
雪音はボタンを留めるのももどかしそうにしながら脱衣所から飛び出す。
早くあの人に顔を見せたい……今朝顔を見せて上げられなかったから……。
雪音はいつもよりも長く感じる廊下を小走りに玄関に向かう。
「おかえり〜!」
雪音は満面の笑顔を浮かべながら開かれた玄関先にいる人物を見る。
Yukine&Ami 姉妹
「はい、ただいま? お姉ちゃん」
満面の笑顔を浮かべた雪音の視線の先にある玄関先に立っているのは、雪音の想像とは反し亜美の姿だった。しかも、学校の先生に付き添われて立っている。
「あなたどうしたの? 明日まで合宿で……って、その格好はいったい?」
凍てついたように雪音の笑みが固まり、そんな固まった笑顔のままで亜美の姿を見て、やっと雪音はその異変に気が付く。
「エヘヘ……」
照れたように笑う亜美の着ている制服の足元には痛々しいほどの包帯が巻かれている。
「お姉さんでいらっしゃいますか? 森沢さんの柔道部顧問でわたくし高橋と言います」
高橋はさっきまでうるさいほどの大声を立てていたのとは打って変わり、しおらしい声を上げている。
ちょっとぉ先生、猫をかぶっているでしょ? いつもと違ってしおらしいなぁ。
そんな亜美の視線を感じ取ったのか、高橋はちょっと咳払いをして、あらためて雪音に向かい少し緊張したような表情になる。
「この度は、妹さんに怪我をさせてしまいまして申し訳ございません」
高橋は大きな体を起用に折り曲げ、雪音に頭を下げる。
「怪我?」
雪音はそういいながらも、亜美の足に巻かれている包帯を見つめる。
「ヘヘ、受身に失敗しちゃって、この有様」
亜美は、そういいペロッと舌を出す。
「向こうの診療所で一応見てもらったのですが、とりあえず骨には異常がないということです。しかしちゃんとしたところで診てもらった方が良いという事で、遅くなってしまいましたがお連れいたしました」
深々と頭を下げる高橋に、雪音は恐縮したようにつられて頭を下げる。
「大丈夫だから明日もいるって言ったんだけれど、先生が……」
亜美は顔を膨らませながら高橋を見る。
「だって、あの痛がり方は尋常じゃなかったから、それに、みんなと夕飯だけは一緒にって、いったからこんな時間になっちゃったんじゃないか」
高橋も膨れた顔で亜美を見る。
だってみんながすっごく心配した顔をしているから……。
「すみません、この娘わがままで、本当にありがとうございます、わざわざ送って頂いて」
雪音は深々と高橋に頭を下げると、それに恐縮したように高橋も頭を下げる。
「骨はなんともないんだって?」
居間に場所を移し、心配そうな顔で雪音は亜美の足を見る。
「うん、捻挫だと思うよ?」
あっけらかんとした様に亜美はそう言いながらその包帯を見る。
「だったらもっと早く帰ってくればいいじゃないのよ! 先生はこれからまた大沼まで帰らなければいけないんでしょ? あっちに着くのは何時になると思っているのよ」
雪音の目が真剣に怒った様につりあがる。
「ごめん、みんなが心配しているから夕食まで一緒にいようと思って……先生には今度あたしから謝っておく」
そんな雪音の剣幕に亜美はシュンとした顔をして上目遣いに見上げる。
「まぁ何はともあれ、明日は朝一で医者に行ってきたほうがいいね」
そんな二人の様子に呆れたような表情を浮かべながら妙子もその包帯を見る。
「うん、そうだね? 整形外科だったよね? こういうのは……」
亜美は椅子に座りなおしため息をつき、部屋を見回す。
「そうだねぇ、じゃあわたしは寝るよ? 雪音火の元だけ見ておいてちょうだいね?」
妙子はそういいながら二階にある部屋に戻ってゆく。
「何か飲む?」
居間にはつけっぱなしになっているテレビの音がするだけになった。
「うん、お茶にしようかな? 冷たいの」
亜美は、ちょっと照れたような表情で雪音に言う。
「麦茶でいいわね?」
雪音はそういい冷蔵庫の中から麦茶の入ったポットを取出ためにキッチンに姿を消す、亜美はその後姿に声をかける。
「ねぇ、お姉ちゃん?」
「うん? 何」
煮出して冷やしておいた麦茶をコップに注ぎながら、背後から聞こえてきた亜美の問いにお座なりに答える。
「――――エッと……その格好は、何か狙っているの?」
一瞬亜美の言っている事がわからず首を傾げる。
「狙っているって?」
優しい笑みを浮かべながら雪音は亜美の目の前に水滴をたたえたグラスを置くと、亜美のその視線は本人が気付いていない大きく開いた胸元に向く。
「大きなシャツを着た女の人というシチュエーションなのかな?」
意地悪い顔で亜美が雪音の顔を見るとその時はじめて自分のしている格好に気がつく。
「な、な、なに言っているのよ、別にそんなんじゃなくって、たまたま近くにあったシャツがこれだっただけで……」
雪音は無意識に洗濯に出ていた陽平のシャツを着込んでしまったようで、半袖の筈の袖は雪音の肘よりも下の手首近くにあり、普段であればズボンの中にしまわれている筈の裾は膝の少し上の位置にある。それに、慌てていた為にちゃんと閉まっていないボタンは第二ボタンも留まっておらず、雪音の白い胸元がかなりの大きさであらわになっている。
これ陽平さんの……。
真っ赤な顔をしている雪音に亜美は諦めたように微笑を浮かべる……その笑みは何かを悟ったような、諦めたようなそんな複雑な表情を浮かべて意を決したように口を一文字に結ぶ。
「お姉ちゃん……昨日、大沼にいなかった?」
ピクッと、雪音の肩が亜美のその一言に反応し、それだけでその質問に答えている。
やっぱりそうか、お姉ちゃんだったのね。
亜美は予想が当たってしまったと思いながらうつむく。
「やっぱり、お兄ちゃんと一緒だったでしょ? もしかしてデートだったのかな?」
雪音は手に持った麦茶をジッと見つめたままその行動を止めてしまい、亜美もうつむきながら水滴を湛えているコップを見つめている。
「デートなんかじゃないわよ、ただ、ちょっと観光案内をしただけで……」
一瞬の間があってから雪音が呟くように言い訳をしようとするが、
「うそ! お姉ちゃんすごく楽しそうだった、あんな笑顔をしていたお姉ちゃんを見たのは久しぶりだったよ! あの顔は……あの顔は……」
亜美は雪音の言葉をさえぎる、その一言に雪音は言葉に詰まる。
そう、お姉ちゃんのあの笑顔は悔しいけれど久しぶりに見た、そう、日向のお兄ちゃんと一緒にいる時に見たのが最後かもしれない、それ以来見せた事のない笑顔をお兄ちゃんに向けていた、その理由はやっぱり……。
「亜美……」
やっぱり亜美は本気で、彼の事が……好き。
ズキン……。
心が痛むような気がする。別に彼とはなんでもないのよ、何度も言おうとしているのにその言葉が口から出てこない。
口をつぐんでいる雪音に亜美はため息に似た息を小さく吐き出す。
「ねぇ、お姉ちゃんはお兄ちゃんの事をどう思っているの」
亜美の視線が痛い……そんなまっすぐな視線をわたしに投げかけないで。
黙り込んでいる雪音を見て亜美がゆっくりとそれでもはっきりとした声で言う。
「あたしはお兄ちゃん……陽平さんの事が好き! たとえ年が離れていようが、出会って間もなかろうが関係ない、だって好きになっちゃったんだもん、それがあたしの素直な気持ち! その気持ちは変えられない」
素直な気持ち……亜美の言った言葉がささくれ立っているわたしの心に突き刺さる。わたしの気持ち……素直な気持ちは……。
雪音の持った麦茶の入ったコップの中で小さくなり始めた氷がカランと音を立て、一瞬の静寂を破る。
「わたしは……」
「お姉ちゃんの気持ちはこの際どうでもいいよ」
えっ? 雪音が顔を上げると、そこには晴れやかな顔をした亜美の顔があった。
「だって、お姉ちゃんが陽平お兄ちゃんの事が好きだろうとなかろうと関係ないじゃない? それによって、あたしがお兄ちゃんに対する気持ちが変わるわけじゃないもん」
そう、たとえ、お姉ちゃんがお兄ちゃんの事を好きだって、あたしの気持ちが変わるわけじゃない、だってあたしの気持ちはあたしの気持ちなんですもの。
せいせいした様な顔をしている亜美の顔を雪音は驚いたような顔をして見つめる。
亜美は強いなぁ、わたしと違ってなにをするにしても真っ直ぐ、それに比べてわたしは……。
「……お兄ちゃん遅いなぁ、どこに行ったのかしら?」
帰ってきてからお兄ちゃんの姿が見えない、どこかに行っているのは先生の車から降りるとき車がなかったからすぐにわかった。
「……わからないの」
「えっ?」
雪音はうつむいたまま首を振る。その答えに亜美は首を傾げる。
「わからないって、どういうこと?」
亜美の顔色が見る見るうちに変わってゆく。
「どこかに行ってそのまま、どこに行くともいっていなかったし……帰ってこないかも」
「なんで!」
亜美が雪音につかみかかる。
「だって……だぁってぇ」
亜美は雪音の顔を見てハッとなり、掴みかかっていた手を離す。雪音の両目には大粒の涙が溢れ、許容量を超えたそれは止め処もなくこぼれ落ちている。
「お姉ちゃん……」
そんなのいや! そんなのいや! そんなのいやぁ!
雪音は頭を振り、亜美の事などはばからずに涙を零しつづける、そんな勢いに毒気を抜かれたような顔をしている亜美は、一瞬浮かんだ仮説を口にする。
「別に決まったわけじゃないでしょ? お兄ちゃんが黙ってここから出てゆくはずないじゃない、それに、もしかしたら……事故……!」
夏になると北海道内は事故が増える。よく運転が乱暴だからとか言われるが、それだけではない。いわゆる内地の車やバイクが増え、それまで当たり前の流れが当たり前でなくなるのも否定はできない。事実、夏に事故を起こしているのは道外ナンバーが多い。
「!」
亜美の一言に雪音の顔が一気に蒼ざめる。
「お姉ちゃん! お兄ちゃんの携帯に電話とかした?」
雪音は力なく首を振る。
「わたし陽平さんの携帯の番号知らないから」
お姉ちゃん、携帯の番号やメルアドは一番先に聞くものじゃない?
軽い脱力感を感じながら亜美は軽く雪音を睨みつけるが、それどころでは無いと判断して携帯の入っているカバンをソファーから取り上げる。
「もう! えーっと、あたしの携帯は……」
あわてているとなかなか出てかないもので、あたしの携帯もカバンの中でアンテナが引っかかっているのか顔を出してくれない。
「お兄ちゃんの番号は……これ」
携帯のメモリーを手馴れた手つきで探りひとつの番号を呼び出し、発信ボタンを押す。
お願い出てお兄ちゃん! お願い!
亜美は、目をつぶり真剣な顔をして携帯を握り続けているけれど、わたしは何もできないの? そんな思いに心が押しつぶされそうになっていると亜美がわたしの顔を見て力なく首を振る。
「だめ、電波の届かないところか電源が入っていないって」
亜美は、携帯を放り出す。
「亜美、ちょっと携帯貸して」
雪音は自分の携帯を取り出し、今かけた番号を打ち込んでいる。
「いまさら何しているのよ? お姉ちゃんがもっとはっきりしていたら……」
罵詈雑言をこの女に投げつけてやろう、お姉ちゃんがはっきりしていればお兄ちゃんだってここを出て行くことなんてなかったはず、全てはお姉ちゃんが悪い、そう思ったからだけれど。
「トンネルに入っていただけかもしれないじゃない、もし万が一事故だったら、誰かがこの電話を取ってくれるはずだし」
雪音は、一心不乱に携帯を押す。
「お姉ちゃん……」
その雪音の姿は陽平に対する気持ちを素直に物語っていた。