第九話 素直な気持ち



=八月十六日= たいせつ

『おかけになった電話は現在電波の届かないところにおられるか電源が入っていないためかかりません』

 何度も聞いた機械的な音声にため息を付きながら視線を窓に向けると、そのカーテンの向こうの輪郭がはっきりしはじめて空が白んできたことがわかる。でも……もう失いたくないの、わたしの大切な気持ち。

雪音は、数分おきに携帯のメモリーを押すが、結果は同じだった。

陽平さんの電話に繋がれば……あなたの電話に繋がる事ができれば、わたしは自分の気持ちに対して素直になれるような気がする。

しかし、陽平の声はいつになっても聞くことができない、昨日から言われる台詞はずっと同じ、もしかしたらと嫌な考えになることもしばしばあったが、それを吹っ切りたいそんな思いでずっとダイヤルをしている。

「お姉ちゃん、まだ電話していたの?」

いつの間にかソファーで寝てしまっていた亜美が眠そうに目を擦りながら体を起こす。

「うん」

雪音はフッとため息をつきながら宙を見上げ、眉間を指でもむが、それでその疲れが取れる、物でもない。

さすがに疲れてきたかもしれない……でもそんな事を言っている場合じゃない、疲れたなんて言っている場合じゃないでしょ!

雪音は自分を奮い立たすように頬を両手でパンと叩き、テーブルに置いてあった携帯を取り上げると再びメモリーを押す。

「そんなに何回もかけたって同じだよぉ」

亜美は目を擦りながら口を尖らし、ふわぁっと大きなあくびを浮べる。

そんな事はよくわかっている、でも何もしていないと悪い事ばかり考えてしまう。

携帯を耳に当てながら同じ声を聞きため息をつきながら、それをテーブルに置く、そんな雪音を見ながら、亜美は諦めたような表情を浮かべる。

「ウフ、お姉ちゃんの本当の気持ちがわかったよ……」

亜美はにっこりと微笑み雪音の顔を覗き込む。

『朝のニュースです。今朝二時過ぎ、森町の国道五号線で自動車同士の事故があり、ワゴン車を運転していた男性が頭を強く打ち、搬送された病院で亡くなりました』

 それまでテレビショッピングを流していたテレビが朝一番ニュースと銘打って道内で起きたニュースを流し、その内容に二人がハッとした顔でテレビを見つめ、次に二人顔を見合わせるが、その被害者の名前は一瞬想像した人の名前ではなくホッと胸をなでおろす。

よかった、あの人じゃない……。

涙目になっている雪音の横で、崩れ落ちるように脱力する亜美は、

「まったく、こんなタイミングにそんな変なニュースをやらないでよね、びっくりして目が覚めちゃったじゃないのよぉ」

ブツブツと文句を言いながら亜美は台所に姿を消すが、雪音にもわかるようなそのぎこちない動きはかなり動揺しているみたいだった。

亜美ったら強がりを言っちゃって……。

「それにしても……」

ニュース……そうだ! 新聞、何かあればきっと新聞に載るはず!

精一杯考えた末に雪音が出した回答に目を輝かせて、新聞を取ろうと勢いよく腰を上げると、

ブロロ……。

聞き覚えのある車の音とともに駐車場に車が止まる気配がし、雪音は迷う事無く玄関に向かって走り出していた。

台所にいた亜美に少し遅れながら玄関を出て、駐車場を見るとそこには大きなワンボックスカーが止まり、その運転席から降り立つのは、わたしの大切に想っている人が……待ちわびていたその人が立っていた。

「やぁ、おはよう」

言葉が出てこなく口をパクつかせている雪音の目の前には、少し照れくさそうな顔をした彼の顔があった。

彼の顔が涙で滲む。彼の顔がまともに見ることができない、ただわたしは……。

「おにいちゃぁ〜ん」

飛びつこうと思って一歩を踏み出した時には既に彼の胸の中には亜美がいた。

「亜美ちゃん? 何で? 合宿は?」

彼は、一体何が起きたのかわからないといった表情をしながら苦笑いを浮かべて、視線を雪音に向けてくる。

「お帰りなさい、陽平さん」

ちょっと諦め顔になりながらも、雪音は陽平を優しく見つめた。

「あっ、はい、ただいま」

ぶぅ、昨日はあんな事をお姉ちゃんに言ったけれど、やっぱり気分のいいものじゃあないわねぇ……お姉ちゃんとお兄ちゃん、なんだかいい雰囲気。

亜美がさらに陽平にギュッとしがみつくと、クシャという音がその耳に聞こえてくる。

「おいおい、亜美ちゃんどうしたんだよ」

苦笑いを浮かべている彼、ふふふ、亜美ったら。



「で、新聞がこうなってしまったと?」

クシャクシャになった新聞紙を、苦労しながら妙子が開く。

「何でそんなになっちゃったのかしらねぇ? ホホホ」

雪音は苦笑いを浮かべながら湯気をたたえているコーヒーを陽平に渡す。

「……にしても、亜美ちゃん大丈夫なのかい? 足は」

陽平は心配そうに亜美の足を見つめる。

「うん、先生が言うには捻挫だって……でもね後でお医者さんに行かなければいけないんだけれど……えっとぉ〜」

亜美、なに甘えた顔を作っているのかな? そんな顔をして、陽平さんに連れて行ってもらおうという魂胆だな。

懇願するように上目遣いで陽平を見る亜美に対して頬を膨らませる雪音の好対照さにコーヒーを飲んでいた妙子が思わず吹き出しそうにしている。

「うん、いいよ、場所さえ教えてくれれば俺が連れて行ってあげるよ、その足じゃあ歩くのが大変だろうから」

やた、作戦成功、お兄ちゃん優しいからそう言ってくれると思っていたんだぁ。

ちょ、ちょっとぉ〜、陽平さんったら優しすぎ!

「亜美、陽平さんだって疲れているんだろうから……」

 何とか理由をつけようとする雪音に対して今度は亜美が頬を膨らませる。

「じゃあお姉ちゃんはあたしに歩いて行けというの? 足が痛いのに?」

 その一言に雪音は言葉に詰まってしまう。

「だったらわたしも付き合います。病院はわたしがよく知っているし、車はわたしの車の方が小さくっていいから、よし、決まり」

そうはいきますか!

「えぇ〜」

ブーイングをする亜美と、シレッとした顔をしている雪音、二人の姉妹の間に火花が散っているように見えるであろうこの光景に、妙子が苦笑いを浮かべながら仲裁に入る。

「だったら三人で仲良くいけばいいじゃないか? どうせ今日はお店も休みなんだから」

 この家の主である妙子に対して異論を唱える事の出来ない二人は顔を見合わせながら互いに頬を膨らませる。

 ちぇ、お兄ちゃんと二人っきりになんて思っていたのに……。

 何とか亜美と二人きりにするという事態は避けることができたけれど……でも陽平さん変に思わなかったかなぁ……年下の妹に対してこんなにムキになっちゃうなんて、ちょっと恥ずかしいかも……。



Youhei 三人

「はぁ、それにしてもごめんね」

神妙な顔をしながら改めて三人に頭を下げる陽平。

「別にみんなに心配をかけるつもりはなかったんだけれど……」

陽平は照れ笑いを浮かべながら、鼻先を掻く。

「思ったより北海道というのは広いんだね?」

本当に広い、あの後ふと頭にひらめいたのは小樽だった。しかしその考えが浅はかだったことに気が付くのはあっちに向かっている最中だった。小樽までの所要時間は約五時間強、いくら混んでいたからといってもヘキヘキしてしまった。

小樽に着いて、ちょっと観光地をめぐったり、お土産を買ったりしていたら既に周りには闇が訪れはじめていた。向こうを出たのは十八時半、夜中だというのに事故渋滞で函館という看板を見つけたのは既に日付が変わってからだ。

「それでどうしたの?」

亜美が好奇心旺盛な顔をして陽平の顔を覗き込む。

「途中で心配するといけないなと思って電話をしようと思ったけれど、気が付いたら携帯の電池が切れていて、それで電話ができなくって……それで、ごめん」

陽平が再び頭を下げる。

携帯がないと何もできないなぁ、と痛感しました、はい。

陽平は、二人の姉妹からその後叱咤叱責の嵐を受けることになる。



「じゃあお母さんいってきます」

雪音が玄関先から声をかける。

「保険証は持ったかい?」

妙子は玄関先に顔を出して雪音と陽平に声をかける。

「大丈夫よぉ、子供じゃあないんだから、ちゃんと持った!」

雪音はふくれっ面を妙子に見せる。

はは、母親にしてみれば、いつまで経っても自分の娘は子供なんだなぁ。ちょっと考えさせられるなぁ。

陽平は、そのやり取りを、なんとなく暖かい気持ちになりながら見つめる。

「もう! お母さんたらいつまでもわたしの事を子供と思っているんだからぁ」

膨れたままの雪音は、その表情を崩すことなく助手席に座る。

「まぁまぁ、お母さんも心配なんだよ」

あの、北沢妙子がこんなに普通の人とは思ってもいなかった、もっとこう、厳しくって、美容一筋と思っていたけれど、やっぱり人の親なんだなぁ。

陽平は、そう思いながら、車のキーをまわす。

「それで、どう行ったらいいのかな?」

「あぁ、ごめんなさい、この辺りで整形外科といったらやっぱりあそこかしらね?」

雪音は思案顔になりながら頭の中で道筋をトレースしている。

「お姉ちゃん、どこに行くつもり?」

「やっぱり、森先生の所がいいかなって、亜美の行きつけでしょ?」

行きつけって、医者の行きつけはもうちょっと年を取ってからでいいのではないかな?

陽平はそう思いながら運転席で苦笑いを浮かべる。

「やっぱり……また怒られるよぉ『集中していないからだぁ』とか言って」

亜美は口を尖らせながら、後部座席でうなだれる。

「仕方がないじゃないのよ、事実集中していなかったんでしょ?」

「それは、お姉ちゃん達のせいでもあるんだからねぇ」

たちって、ひょっとして俺もそれに含まれているのかな?

「あぁ、まぁそれについては、後日ね」

雪音は慌てたように狭い車の中で手をばたつかせながら顔を赤らめ、それを亜美は楽しそうに眺めている。



「じゃあ車はそこの駐車場において」

普通の開業医と聞いており、小さな病院だと想像していたが、なかなか規模は大きく入院施設まで整っているようだ。駐車場も十分に広く、十台近く止められそうだが、既にその駐車場も満車に近くまで入っている。

「混んでいそうだな」

陽平がその駐車場の車の量を見ながら雪音にいう。

「うん、ここの先生は整形外科では結構有名で、お年寄りとかも良くおみえになっているんです、だからいつも混んでいるんですよね」

病院内に入ると、雪音が予想したとおりにお年寄りが多く、待合椅子はその憩いの場と化しているようだった。

「あら雪音ちゃん、今日はどうしたの?」

雪音の知り合いであろうか、一人のお年寄りが雪音に声をかけると、それを合図のように数人のお年寄りに雪音は取り囲まれていた。

「お姉ちゃんの仕事柄、ああいうお年寄りとか面識があるから」

陽平の隣で亜美はうんざりとした表情でいるが、当の本人である雪音はニコニコと、その談笑の輪になじんでいった。



「亜美ちゃん!」

診察室から出てきた亜美の姿は、足首を包帯で固定されており、松葉杖を突いている痛々しい姿だった。

「亜美、折れていたの?」

お年寄りの井戸端会議から開放された雪音は、心配そうな顔で亜美を見る。

「ううん、折れてはいなかったけれど、じん帯を傷めているから、しばらくは固定しておいた方がいいって、はは、こんなになってしまったぁ」

亜美は、苦笑いを浮かべながら自分の足首を見つめる。

「まだ痛いのかい?」

その様子を見た陽平は、眉間にしわを寄せまるで自分が痛いような表情を見せている。

昔友達とふざけて足首を捻挫したことがあるけれど、あの時よりきっと痛いんだろうな。

「アハ、大丈夫だよ、お兄ちゃんがそんな顔をしないでよぉ、別にお兄ちゃんが痛い訳じゃないでしょ?」

そりゃそうだ。

「さてと、せっかくここまで来たんだから、何か買い物でもして帰りましょうか? もうお昼になるし」

少し不機嫌そうな顔をした雪音は、亜美に歩調を合わせながらゆっくりと歩き、今日のお昼の買出しを宣言する。

「賛成! ここだったら『とり弁』にしようよ」

とり弁?

運転席に座り、きょとんとした表情を浮かべている陽平に対し雪音が笑顔で答える。

「そ、函館名物の『とり弁』一度食べておく価値はアリよ!」

 自慢げに鼻をひくつかせる雪音のナビに従い、陽平は車をスタートさせる。

「大分……デコボコして……舌噛みそうだな……」

 雪音がナビゲートする裏道はうねっていたり所々に大きな穴が開いていたりしており、そんな道を走ること数分、お尻が痛くなってきた頃。

「そこから入って、はい到着!」

雪音に誘導されるがままに付いたのは一軒のコンビニエンスストアー、というより、規模の小さいスーパーマーケットといった感じだろうか? 確かに駐車場には、大きく『やきとり弁当』の文字がかかっているけれど、どういうものなのだろうか?

「ここの『やきとり弁当は』テレビとかで紹介されたり、函館出身の『GLAY』の人が紹介したりで、全国的にも有名なんだけれど、お兄ちゃん知らない?」

はは、あまりそういった情報を仕入れていないもので……。

陽平は、亜美に促されるようにお店の中に入る。

ここは、コンビニ? それともお弁当屋さん?

入ってすぐの印象は、コンビニエンスストアーのようだが、入って正面に大きく場所を裂いている厨房からは美味しそうな匂いとともに煙が立ち上っており、左手を見れば酒屋のようにお酒が並び右手にはレジの向こうにパン屋のように焼き立てパンが並んでいる。

「この『ハセガワストアー』は、函館ローカルのコンビニなの、その中でも有名なのがこの『ヤキトリ弁当』、観光客もお土産にするぐらいに有名なのよ?」

 キョトンとしている陽平の袖を引っ張りながら亜美がそういい、所狭しと弁当の並べられた場所に一直線で向かう。

「亜美は何にするの? いつもの大の塩でいい? 私は小の塩で、お母さんは確か小のタレが好きだったわよねぇ」

店の中にある厨房の前で雪音は腕組みをしながら思案顔になっている。

「いつもの大って、そんな大きな声で言わないでよね? まるであたしが食いしん坊みたいじゃないのよぉ……お兄ちゃんは何にする? ここのお弁当は折り紙つき! 美味しいから」

亜美は、そういいながら陽平の腕を取る。

「そうだなぁ、何にしようかな? 雪音ちゃんのお勧めは?」

「そうね、ここの塩味は、ただの塩味と違うからとても美味しいし、タレもくどくなくっていいし、うーん、どっちもお勧めね?」

雪音の眉間にしわがよる。

そんなに悩むほど旨いのかな?

「もう、お姉ちゃん、だったら、『ミックス』にすれば?」

亜美があきれた表情で雪音の顔を覗き込む。

「なにその『ミックス』って?」

「ミックスって言うのはこのとり弁の裏技なの、塩とタレ両方食べられるのよ」

亜美は自信満々の顔をして鼻をぴくつかせる。

「そうか、うん、そうしたらすみませ〜ん……」

雪音が厨房に注文を入れる。

「このお弁当は注文を聞いてから焼くからちょっと時間がかかるの、でも待ってでも食べたい味なのよね。地元グルメというか、結構こだわりがあるかも……」

「そうなの?」

「そうっ! 函館だけでのチェーン店なんだけれど、どこのお店でもこの『とり弁』はその場で焼いてくれるの、だからやっぱりそのお店によって微妙に味が違って感じるの。別にまずいとかじゃなくって、どこでも美味しいんだけれど。あたしはこの中道の『とり弁』が一番好きかもしれないなぁ、同級生の間では『ベイエリア店』が美味しいという娘もいるし……」

亜美は、握りこぶしを作りながら熱く力説する。

「お兄ちゃんはどう思う?」

はは……、どう思うといわれてもまだ食べていないし、食べ比べしたわけでもないからなんともいえないよ。

陽平は、力説する亜美の横でただただ苦笑いを作り、曖昧に返事をするしかできなかった。

「ありがとうございましたぁ〜」

弁当を受け取り、レジで清算を終わらせた雪音は大事そうにそれを持ち助手席に座る。

「さて、早く帰ろ、お母さんがお腹空かせて待っているでしょ?」

車の中に『やきとり弁当』の良い匂いが充満し、陽平はその香りに今にもお腹が鳴りそうになるのを必死にこらえる。

「お兄ちゃん早く帰って早く食べようよぉ、亜美おなかペコペコだよ」

 後席から顔を覗き込ませる亜美は、今にも涎を垂らさんばかりの顔をしているが、その気持ちはわからないでもない。

 もうお昼をまわっているんだな? という事は俺がこの街にいられるのも後……。

「亜美、そんな無茶な事を陽平さんにいわないの!」

雪音ちゃんがたしなめるように言うが、後席の姫様はどうやらかなりの空腹らしく、ダァダァと前を走る車に文句を言っている。



Youhei&Yukine はこだてラストナイト

「陽平君はいつまでこっちにいるんだったかね?」

夕食を終え、妙子は陽平にビールを注ぎながら尋ねる。

「はい、明日の朝の便でこっちを発ちます」

そう、この街にいられるのは後わずかしかない、そうしてこの家にこうしていられるのも今日が最後の夜になるわけだな。

「そうかい……」

妙子は短くそう言ったきり再びテレビを見続ける。

「亜美寝ちゃったみたい、お風呂にも入らないで」

亜美の部屋から雪音が戻ってくる、お風呂に入るよう促しに行ったのだが、その相手は既に夢の中に突入していたらしい。

「痛み止めの薬が効いているんだろ? そうだ雪音と陽平君これから二人で出かけてきなさい、函館の夜は今日で最後になるんだから、雪音は陽平君に夜の函館を案内してあげなよ」

ちょっと、お母さん何を言っているのよ、それに最後って……エッ! もしかして陽平さん明日帰っちゃうの?

雪音は驚きの表情をそのままにして陽平を見る。

「うん、まだ言っていなかったよね……明日の朝の便で東京に帰る」

一瞬目の前が暗くなるのを堪えるように雪音は息を呑む。

そうか……そうよね、帰るよね? 当たり前じゃない、彼は東京の人なんだから、ここに来たのは偶然……だから……いつかは帰ってしまう……そう、帰ってしまうのよ。

「……そう、ウンだったら、函館の綺麗にライトアップされた街並みを見なければ締めくくれないわね、なまら綺麗なんだから」

思いも寄らない雪音の笑顔に陽平は素直に驚きの表情を浮かべる。

雪音ちゃん……そっか……笑顔で……かぁ。

「ほら、だったら早く行きましょ? お母さん後はお願いね? あぁ〜陽平さんビール飲んじゃったの? じゃあ徒歩で行くしかないわねぇ」

 妙にはしゃいでいるように見える雪音に陽平は唖然とするが、意を決するように立ち上がり、妙子に一礼して部屋を出る。

これが最後になるのかもしれないからな? 雪音ちゃんと一緒に歩く事ができるのは。

「うん! あっと、ちょっと待っていて、あたし上着持ってくるから、陽平さんはその格好でいいの? 大分冷えてきているみたいだよ?」

 お盆とはいえ、日が暮れると寒く感じるほどだが、あえて陽平はそんな空気を実感したいと思いその意見に首を横に振る。



「函館といえばやっぱり函館山から見た夜景が有名だし、この前夜景の専門家って言う人が調べたら『香港や、ナポリに負けていない』って太鼓判を押してもらったらしいわ」

予想通りに肌寒く感じるほどの夜風の中、薄手のジャケットを羽織る雪音と、Tシャツ姿の陽平は寄り添いながら歩く。

もうこっちは秋なんだよな。

陽平がはしゃぐ雪音の横顔を見ると、雪音からは石鹸なのかシャンプーなのかの香りがして、その香りが鼻腔をくすぐってくる。

「ん? どうかした?」

不意に雪音が陽平を見ると視線が交わる。

「いや、こっちはもう秋になるのかなぁってね」

陽平は不意をくったために頬を赤くしながらそっぽを向くようになってしまった。

「そうかもね、もう秋になるのよね……そうして、すぐに冬が来る……長い冬が」

雪に閉じ込められる冬。まだ道東や道北に比べると函館は暖かい方に入るが、やはり冬というのは物悲しいかな。

会話は途切れたものの二人の歩みは止まる事無く、ライトアップされた街並みの中をゆっくりと進んでゆく。



「うぁーロープウェイ混んでいるなぁ」

函館山に登るロープウェイ乗り場には、どこからこんなに人が集まったのというぐらいの人でごった返している。

「うーん、下でこれだけ混んでいると、きっと展望台はもっとすごい人だろうなぁ」

以前、亜美と一緒に上ったことがあるが、観光シーズン中だったこともあり夜景を見るより、人の頭を見ているような気分になり人波に酔いそうになったことがあった。

「やめよう、もっとこのあたりをぶらついてみようよ、元町の方とかをさ」

陽平は、そう言い踵を返してその人ごみに背を向ける。

「でも、ここまで来て……」

そう、せっかく函館に来たのなら、夜景を見てもらいたい。

「また今度にすればいいことでしょ? 夜景は逃げやしないよ」

にっこりと微笑む彼、どういう意味なの? 今度って、また来てくれるって受け取ってもいいのかしら? ねぇ?

「陽平さ……ブッ」

雪音は問い詰めようと陽平のその背を追うが、いきなり立ち止まった陽平の背中に見事なまでに顔を打ち付ける。

いたぁ〜いぃ……もぉ。

「ほぉー……綺麗だな」

「エッ? あぁ、『カトリック元町教会』ね、風見鶏や屋根がライトアップされていて神秘的ね、ここの祭壇はローマ教皇ベネディクト十五世から寄贈されたものなの」

雪音は鼻をさすりながら、陽平の見上げる方を眺める。

「それにこっちは?」

陽平が今度は雪音の方を振り向く。

「こっちは有名な『ハリストス正教会』で通称『ガンガン寺』、鐘の音が独特で『日本の音百選』にも選ばれているの、だから地元の人間は愛着を込めてそう呼んでいるわ……この辺りは夜来た事無いけれど……ここも綺麗ね」

ライトアップされた白壁、昼間もいい感じだけれど、夜のこの白壁はなんだか吸い込まれそうな感じ。

「雪音ちゃんも初めてなんだ、ウン、だったら夜景を見るより、こっちの方が良いかな? ゆっくりできるし、それに……」

陽平はそこまで言うと黙り込んでしまった。その様子を雪音が不思議そうな表情を浮かべながら顔を覗き込む。

「ゆっくりする事もできるしね?」



「この坂も綺麗だね? ガス灯かな?」

石畳の坂道に光が落ちているというのか、どことなくノスタルジックさをかもし出している。

「ウン、函館って言う街は坂が多いでしょ? だから冬になると大変なの、雪で足元はすべるし、車でさえスリップして登れなくなったりして大変なのよ」

雪音は頬を膨らませながら語るその様子から推測すると、彼女にはよほど坂道に苦い思い出があるようだ。

「高校の時なんて自転車で通っていたんだけれど、普通にこいでいたんじゃ登れないからみんな『立ちこぎ』なの、冬は三十分ぐらい早起きして出かけなければいけないし、本当に大変なんだからぁ」

「ねぇ、雪音ちゃん『立ちこぎ』って何?」

力説する雪音に陽平は素朴な疑問をぶつけた。

「あぁ『立ちこぎ』って言うのは、こうやって立ったまま自転車をこぐこと」

雪音は、そういいながら身振りで教えてくれる。ようはサドルに腰掛けずに立ったまま自転車をこぐっていうことらしい。

「函館の高校生は知っていて当たり前よ、亜美なんて電車なんかで通っちゃって、わたしが高校の時は『自転車で通え』ってお母さんが許してくれなかったから、雪が降れば歩いて通ったものよ、おかげで、何回坂道で転んだか」

それかぁ、雪音ちゃんが苦々しく語る理由は。

「でも、雪音ちゃんの高校時代かぁ、会ってみたかったなぁ」

いやだ、彼何を言っているのかしら。照れるわね、もう十何年も前のことなのよ。

雪音の頬が紅潮しているのは、周りが暗いおかげで陽平には気がつかれないようだ。



「赤レンガの色が際立っているね」

金森倉庫郡、亜美に案内してもらったこの景色もよかったが、ライトアップされているこの景色はどちらかというと少しアダルトな雰囲気かも知れない、それにこの景色が見られるのが今晩限りかと思うとちょっと切なく見える気もするかな?

「ウン、クリスマス時期になると大きなクリスマスツリーが浮かんだり、倉庫の壁にサンタクロースがいたりして華やかになるの」

相変わらず雪音はニコニコとして陽平を案内してくれる。

「クリスマスかぁ……」

「陽平さんは誰かとお祝いしたりするの?」

あなたは東京に帰れば、クリスマスを一緒にお祝いしたりする女性がいるのかしら?

「うーん、毎年予約で一杯なんだよねぇ」

 悪戯っぽく言う陽平の顔を、自分では気が付いていないであろう雪音が険しい顔をして睨む。

あなたってそんなにいっぱいの人とデートするの? ちょっといやだぁ。

雪音の険しい視線に気がついていないのか、のほほんと海を眺めながら陽平はため息交じりに答える。

「ここ数年は仕事ばかりでね? クリスマスらしい事なんてまったくしていないよ、ケーキも食べていないし……恋人はお仕事なんて……ハァ寂しい」

 陽平の自嘲気味な笑みに、思わず雪音はプゥ〜ッと吹き出してしまう。

「アハハ、陽平さんさみしぃ〜、クリスマスまでお仕事なんだぁ」

 雪音の一言に陽平は口を尖らせる。

「雪音ちゃんはどうなんだよ……」

「えぇ〜、あたしは……秘密」

「ちょっ、ちょっと雪音ちゃん? 秘密ってどういうことなの? ねぇ」

駆け出す雪音の後を追う陽平だが、決してその顔には不快感があるわけではなく、二人とも笑顔を浮かべている。

わたしも同じよ陽平さん、そんな事あなたが一番よく知っている事でしょ? 美容室もクリスマスは忙しいという事を。

クスッと微笑む雪音だったが、その横顔は徐々に寂しそうに歪んでゆく。



「これは?」

 函館駅前まで来ると、さすがに人通りは多くなるが、その波の流れてゆくのと反対側に歩くとそこには大きな船の姿。

「摩周丸……青函連絡船だよね」

白い船体が闇夜に浮かび上がっているその姿は、まるで今にも出航できるのではないかと思うほどだ。

「ウン、昭和六十三年までの八十年間この津軽海峡を行き来していた青函連絡船。わたしは一度だけ乗ったことがあるの……それが生まれて初めての船旅、すごく気持ちがよかった、その時に乗った船がこの『摩周丸』なのよね、なんだか運命をちょっと感じる」

雪音はちょっと切なそうにその船体を眺める。

「エヘヘ、実はその時にね、わたしこの船の中で迷子になっちゃったの、はしゃぎ回っていたから両親がどこにいるのかわからかくなっちゃったのよね」

雪音は船の舳先の広場にあるベンチに腰掛けその時の様子を思い出すように話し出す。

「泣いたなぁ、お父さんとお母さんが一緒だったけれどどこにいるかわからないし、外は海でしょ? 怖くって甲板でずっと泣いていた。そうしたらね、中学生ぐらいの男の子がわたしの手を引いて両親を一緒になって探してくれたの、一人ひとり声をかけて……」

雪音の顔が赤らむのがわかる。

「やっと見つかったのは青森に着くちょっと前だった、親には怒られるし、照れくさくってその子名前も何も聞けなかったの、でもしばらくその人の事が忘れられなかった、たぶん、これがあたしの初恋なのかもしれないなぁ」

 な、何を話しているんだろう、わたし……何もこんな所で彼に話さなくってもいいのに。

「へぇ、そうなんだ……ちょっと妬いても良いかな?」

陽平はそういいながら、雪音の隣に腰を下ろす。

妬いてもって? どういう意味なの?

首を傾げる雪音に対し陽平は微笑みかけてくる。

「いや、羨ましいなぁって思ってね」

陽平は、ゆっくりとした動作で胸のポケットからタバコを取り出す。

「もっと早くに雪音ちゃんに会っていれば、俺がもしこの函館に生まれていたらどうだったんだろうって思う時があるんだ、そうして雪音ちゃんと一緒の高校に行っていたらとかね、それを考えていたら、なんだかまるで高校時代の自分に戻ったような気がしてさ」

彼は、タバコに火をつける。家ではまったく吸っていなかったタバコを美味しそうに吸い込み紫煙を吐き出している。

「初々しいでしょ? 三十になる男がこんな事を考えていていいのかな? なんて自分でも思うよ……でも、久しぶりにいい気持ちだったかな?」

 いい気持ち? 一体それはどういう事なの? 

陽平は照れたように足元を見る。

「もしそうしたら、きっともっと楽しい人生になっていただろうなって、雪音ちゃんを独り占めにできたかもしれないなって思ってさ」

そう、もし、雪音を独り占めにしていれば、今頃彼女は苦しい思いや、悲しい思いをしないですんだはずだ。でも、

「でも、そうしたら、俺達がこうやって二人でこの連絡船を見ていることもなかったのかもしれない、だからこれでよかったんだと自分では思っているよ」

陽平はにっこりと微笑み雪音の顔を見つめる。

「君とフェリーターミナルで出会ったことも、フェリーの中で一緒にすごしたのもきっと偶然、そう、全ては偶然が作り出した産物なんだよ」

何を言っているの彼は? 確かに偶然かもしれないけれど、でもわたしは……確かにあの人の事を愛していた、それを……あなたは偶然というの?

「でも、これからは偶然じゃない、二人で見た大沼、二人で見たこの街、そうして二人で見ている今のこの光景、決して偶然なんかじゃない自然なんだよ」

陽平はタバコを携帯灰皿に押し込み雪音の顔を見つめる。

「だから、雪音のフィアンセ……日向さんも自然なんだ、俺の中では」

あの人、日向さんが自然? あの人が死んでしまったのが自然というの? 私の目の前からいなくなってしまったあの人の死が自然だったというの!

雪音の目から涙が溢れ出しそうしてその目は陽平を睨む、まるで敵を見るような目で。

「何で、何でそんなことが……」

言葉に詰まる、彼の死を自然だなんて考えたくない、それはあの人との想い出を否定する事になってしまうから。

「彼が亡くなったことは自然ではないのかもしれない、でも、俺の中では自然なんだよ、雪音ちゃんの中には彼がいる、それが当たり前の事なんだ、それに忘れられるわけないだろ? だって彼が君の中にいるのが自然なんだから」

そう、君は俺と出会った時から……いや、その前からずっと彼の事をその心の中にしまっている、そうしてその彼を忘れる事は絶対にありえない、そうして俺は……俺は彼を好きなままの彼女の事が……。

「君の中に彼がいるのは当たり前、だから彼を好きなままの、そのままの雪音が……」

 陽平は真っ直ぐに雪音の顔を見る、その顔は今までに見た事のないような安らかな顔をしており、その表情に雪音は何を言っているのかわからないようにキョトンとした顔をして陽平の事を見据えている。

「そんな雪音……の事が俺は好きなんだ、日向さんをひっくるめてね」

今なんていったの?

雪音はきょとんとした表情のままで陽平を見つめると、その顔は耳まで真っ赤になっているのが街灯に照らされてよくわかる。

好き? 誰が? 誰を?

「ごめん、びっくりするよね? あ〜、うかつだったなぁ、何で言っちゃったんだろう、心に閉まっておこうと思ったのに……」

陽平は頭をかきむしるようにしてうつむくと、同じように雪音もそのままうつむいてしまう。

「ごめん、忘れてくれ」

うめくように言い、そうして陽平はうつむいている雪音に声をかけ頭を下げる。

「……いや、忘れないよずっと……」

雪音は、顔をうつむかせたまま陽平に言う。

「えっ?」

陽平は、雪音の言った言葉が理解できなくなっている。

「絶対に忘れないからぁ」

雪音はそういいながら陽平に抱きつく。

自然、そうかもしれない、あの人が亡くなって心のぽっかりと穴が開いて、それを埋めてくれる人があなただった、それは自然なことなのかもしれない。

「雪音……?」

抱き付かれた陽平は、目を白黒させるだけだ。

「忘れないよ……絶対に」

胸に顔をうずめている雪音の表情は柔らかく微笑んでいた。

「あぁ、俺もだよ……この北の街で出会った君の事は絶対に忘れない」

 陽平はそう言いながら雪音の頭を優しく撫ぜる、その心地いい陽平の手の重みは雪音の中にあった塊をゆっくりと溶かしていくようだった。

第十話へ続く……。