雪の石畳の路……

Autumn Edition

第二話 展示会へのお誘い



=雨の朝=

「ふわぁ〜……」

 まだ薄暗い部屋の様子がまだ完全に覚醒しきっていない勇斗の視界に入り込んでくると、無意識に枕元にある目覚まし時計で時間を確認する。

「七時……今日は、お店はお休み……ゆえに俺はここで再び夢の旅人になってもかまわないはずだよな……」

 その台詞とは裏腹に、勇斗の意識は徐々にではあるが覚醒し始めるのは、窓を叩く雨の音からなのであろう。

 ……生憎と天気予報が当たったみたいだな。

 脳裏に昨夜の穂波の残念そうな表情が浮かび上がり、勇斗の意識はそこで完全に覚醒した。

「なんで起きちゃうのかねぇ……ふわぁ〜」

 誰に言うでもなく勇斗はあくびをしながらタバコを手に取り、それに火をつけると部屋の中を見回す。

 大分散らかってきたなぁ……今日は一日、掃除でもしようかな?

 勇斗は紫煙を吐きながら、床に転がっていた雑誌に視線を向けると階下から穂波の声が聞こえてくる。

「いってらっしゃい」

 階段を下りると同時に裏口であり、有川家の玄関でもある扉が、ちょうどパタンと閉まったところだった。

「おはようございます勇斗さん、早いですね?」

 朝の爽やかさをそのまま顔に映しこんだような笑顔で穂波が勇斗に振り向く。

「おはよ、なんだか目が覚めちゃってね? 一葉さんはお出かけかい?」

 この家で穂波に言っていらっしゃいといわれる人物は、今ここにいる二名の他だけであり、消去法を用いらなくてもその人物はすぐに特定できる。

「ハイ、人に会うといっていましたけれど……デートですかね、やっぱり」

 穂波はそう言いながら試すような表情を浮かべながら勇斗の顔を覗き込む。

「一葉さんがデートねぇ……」

 ちょっと意外な感じがするというか、まぁ、一葉さんの容姿であればそんな人の一人や二人いてもおかしくないだろうし、今までそんな噂がなかった事自体が不思議なぐらいだけれども、やっぱり……。

「……ちょっと意外だな?」

 思わず勇斗がそうつぶやくと、穂波の表情はホッとしたようなものになり、続いてニッコリと微笑が浮ぶ。

「それは一葉さんに失礼ですよ、一葉さんだって彼氏さんぐらいいるでしょ? あれだけおめかしをして行ったぐらいだからきっと本命さんじゃないですかね?」

 穂波の一言に勇斗が反応する。

「そんなにおめかししていたの?」

「ハイ、一葉さんには珍しくスカートなんか履いていましたよ」

 普段の一葉はGパンやコットンパンツなどのズボン姿が多く、スカートを履いている一葉の様子がなかなか勇斗の頭の中に浮かび上がってこない。

「そうかぁ……見たかったなぁ」

 心底残念そうに言う勇斗に対し、穂波の目がつりあがる。

「勇斗さん、朝食は御自分でどうぞ!」

 いきなりの穂波の剣幕に、勇斗は自分の言動に何が含まれていたかを思い、慌てた様子で手を振る。

「ち、違うぞ? 別にそういった訳じゃなくってだなぁ、ただ純粋に一葉さんのスカート姿が珍しいかなと思って見てみたかった訳で、変な意味はないから……」

 モゴモゴと言い訳をする勇斗の台詞を背中で受け止める穂波の表情からは、それまで見せいていた剣呑な感じはなく、むしろ微笑が浮んでいる。

「本当ですかぁ?」

 穂波は意地の悪い顔をして振り向き、べぇ〜と桜色の舌を出す。



「ふぅ〜」

 食後のコーヒーを満足そうに飲み干す勇斗の表情は、食事にありつけたという安堵感からなのであろうか、穂波の失笑を買うには十分なものだった。

「もぉ、あたしだってそんなに意地悪じゃないですよ?」

 空いた皿を手に取り穂波は微笑みながらキッチンとの往復を繰り返している。

「まぁそうだけれど……」

 ……穂波が怒ると、微笑みながらも本当にやるという事を自分自身で気が付いていないようだな?

 苦笑いを浮かべている勇斗の視線の先ではテレビが、東京の様子を映し出した画面に変わる。

「これはどこからの映像なんですかね? よく見るんですけれどさっぱり分からないんですよ、『聖路加』って書いてあるのは分かるんですけれど、それがどこなのか……」

 ちょうど『聖路加病院』の屋上からの映像であろう、勇斗から見れば半年前に飽きるほど毎朝見ていた映像だった。

「ここはね、ちょうど『汐留』になるのかなぁ? 今話題の所だよ、ほら、『東京タワー』が見えるだろ?」

 勇斗の指差す先には紅白の東京タワーが綺麗に写っており、その後ろには日本最高峰である富士山の姿も見える。

「あれが富士山なんですか? 東京でも富士山が見えるんですね?」

 穂波は画面にかじり付くかのように見つめる。

「あぁ、東京でも寒い時や、風で大気が入れ替わった時に高い所から富士山を見ることができるよ、でも、この時期に富士山が見えるのは珍しいかもしれないな……東京も大分冷え込んでいるみたいだな?」

 去年の今頃は大学に行く途中である駅から富士山が見える時は必ずといって良いほど厚着をしていたような気がする。

 吸い終わったタバコを灰皿に押し付け火を消し、名残惜しそうに紫煙をゆっくりと吐き出す。

「……よく『東京の方が寒い』って聞きますけれど、本当ですか?」

 穂波はちょっと寂しそうな表情で勇斗の顔を覗きこみ、それに勇斗はただ頷く。

「確かにそうかもしれないな? 東京という街は寒いよ……」

勇斗はそう言いながら虚空を見上げ、手元にあるであろうタバコに手を伸ばす。

本当に寒い街だったよな? 東京という街は……。

ため息を付きながらタバコに火をつける勇斗のそんな様子に穂波は、息を呑みながら、ほんのりと頬を赤く染めている。

「……あの街は人の交流を拒否するような街かもしれないな? でもそんな中に妙な人情があったりして不思議な街だよ……でも、きっと俺には似合わないと思う」

 紫煙を吐き出しながら勇斗はそう言い切ると、穂波の顔に笑顔が浮かぶ。



「片付けなければ……」

 勇斗は自分の部屋に戻り、周囲を見渡しながら地の底から這い上がるような声を上げ、その台詞にはどことなく迫力すら感じる。

 やばいよな……、こんな状況を穂波に見られたら何を言われるか分かったものではない、それ以前に、何だって……。

 勇斗がため息交じりの見下ろす雑誌の山、八割方は普通の雑誌やら資料代わりの観光案内などだが、一部には綺麗なお姉さんが挑発的な格好をしているものもあり、これを穂波に見られたら間違いなく軽蔑の眼差しを受けるであろう。

 ……酔った勢いとはいえ、何だってこんなものを買っちゃうんだろうなぁ。

 勇斗はそれが分からない様に一般の雑誌などの間に挟みこみ、本の山を作り上げてゆくが、色っぽいお姉さんの最新号を手に取った時に部屋の扉がノックされる。

「勇斗さん」

 扉の向こうからはこの状況を見せてはいけない穂波の声がして一瞬心臓が止まる、いや本当に止まった訳ではなく、一気に鼓動が激しくなった為なのか、そんな錯覚にとらわれつつも、最重要課題をクリアしていない以上これを見せるわけにはいかない。

「ちょ、ちょっと待ってくれ、今部屋を片付けているから……」

 少し上ずった声を出しながら勇斗はその本を積み上げていた本の間にしまいこみ、任務を完了した達成感からかホッと一息を付く。

「なんだ?」

 平静を装いつつも、扉を開けるとうつむき加減で穂波が立っており、それが開かれた気配に顔をあげるが、勇斗はその顔から視線を泳がせる。

 少しでも後ろめたい事があると目を合わせる事が出来なくなると言うのは本当だな……気をつけるようにしよう。

「ゴメンなさい忙しい所……お部屋の片付けをしているんだったら、いってくれればあたしもお手伝いしますよ?」

 扉の隙間から穂波が部屋の中を覗き込もうとするが、勇斗は苦笑いを浮かべ、それを阻止しながら後ろ手に扉を閉める。

 まさかあの状況で手伝ってもらうわけにはいかないだろうが……。

「さんきゅ、後でお願いするよ……それよりどうかしたのか?」

 勇斗の一言に穂波はハッとした顔になる。

「いけない、お客さんです」

 ニッコリと微笑む穂波のその表情から見知った人間の来訪である事は容易に想像がつくが、お店の休みの時に来るというのは一体誰だろうとその客を特定する事はできないでいた。



「アッ、勇斗さん、お休みのところにスミマセンです」

 玄関先に立っていたのは、高い背に似合う今風の三つ釦スーツを着込んでいる色男、この男には勇斗の記憶がすぐにHITする、そうしてその隣にいる小柄な女性もだ。

「こんにちは!」

 小柄な女性もペコリと頭を下げ、次に顔をあげたときは笑顔になっていた。

「やぁ、直也君と真菜ちゃん、二人で来るなんてどうしたんだい?」

 お店に品物を卸している『とらべるわーくす』の営業が二人揃って来訪とは珍しい事もあるものだ、何かいい話でも持ってきてくれたのかな?

 勇斗の顔は、それまでの休日モードからビジネスモードに切り替わったようで二人に上がるように目配せする。

「穂波、悪いけれど……」

 勇斗は二人を居間にいざないながら穂波に声をかけるが、既に彼女はキッチンでお湯を沸かし、コーヒーカップを三つ並べ、勇斗がこれからお願いしようとしていた事の準備に取り掛かっていた。

 はは……よく気が付く事で、ありがたいよ。

「エヘ、穂波さんもだいぶお店になれてきたんですねぇ……まるで勇斗さんの本当の奥さんみたいですよ?」

 意地の悪い顔をしながら真菜が勇斗の顔を覗き込んでくると、その隣で直也はわけがわからないといった表情で首をかしげている。

「おいおい、茶化さないでくれよ……」

 顔を赤らめながら勇斗は居間にあるいつもの場所に腰をすえると、その目の前に二人も腰かけるが、真菜の表情はニッコリと微笑んだままだった。

「さて、今日は何かいい話を持って来てくれたのかな?」

 勇斗ははぐらかすように話題を切り替え、その表情はビジネスモードになっていた。

「ハイ、今日はですねぇ……」

 真菜の表情も一転し、表情はビジネスモードに変わったようで、直也が持っていたカバンの中からチラシを取り出し、勇斗の前にスッとそれを差し出す。

「Tokyoトラベルフェアー……これは?」

 手に取りながら勇斗が首をかしげると、目の前で真菜が持っていたショルダーバックから手帳を取り出し、その内容を説明し始める。

「えっとですね、このフェアーは東京のビックサイトで開催されるもので、日本全国のお土産物が一堂に会する唯一の展示会です。お土産物メーカーやうちの会社みたいな卸会社が新作を発表する場でもあります」

 手帳に書いてあったメモを一気に読み上げたのであろう、その台詞は恐らく真菜の上司あたりが朝礼で言ったものであるということは容易に想像がつき、直也も苦笑いを浮かべる。

「はは、今年はこの地域のメーカーも多数参加するみたいですし、ここ数年北海道ブームという事も手伝って、全国メーカーも新しいものを発表するみたいですからもし良かったらと思いまして持って来たんですよ……勇斗さんの所なら何かを得てくれると思いましてね」

 直也はそう言いながら勇斗の顔をまっすぐに見つめてくる。

「フム……だったら仕入を担当している、親父や一葉さんのほうが効果的ではないか? 俺は販売実務だからな」

 鼻先を掻きながらそのチラシを見つめていると穂波がコーヒーの香りを漂わせながらそのカップをそれぞれの前に置き、勇斗の見入っているそのチラシを見つめる。

「ありがとう穂波さん……いい香り」

 置かれたカップに顔を近づけながら真菜は嬉しそうな顔をする。

「ハイ、さっき社長の所にお邪魔したら、こっちにその話は持って行けと言われまして……」

 親父がこっちに?

「ハイ、実際に販売している人間がそういう物を見て売れるかどうかを判断した方がいいといっておられました」

 コーヒーに口をつけながら嬉しそうに真菜が鉄平の台詞を代弁する。

「親父がねぇ……」

 勇斗はそのコーヒーに口をつけながら呟くようにいう。

「勇斗さん、これって東京ですよね?」

 チラシの写真には三角形を逆さまにしたような独特の形をした『東京ビックサイト』が写っており、穂波はそれを見ながら嬉々とした表情を浮かべている。

「そうだよ、それがどうかしたのか?」

「いえ、別に……東京だなぁって」

 勇斗の反応に穂波は少し落胆したような表情に変わり、恨めしそうな目で勇斗を見ていた事に気が付いたのは真菜だけだったようだ。

「そういえば一葉さんはどうしたんですか? こちらにいると思っていたんですが」

 コーヒーをすすりながら直也は気がついたように周囲を見回す。

「一葉さんならデートみたいだよ」

 勇斗の一言に直也はすすっていたコーヒーを拭き出しそうになりこらえてむせ返る。

「で、デートォ〜、一葉さんがぁ……」

 あからさまにがっかりしたような表情を浮かべ、がっくりと肩を落とす直也に対し、真菜はその肩をポンポンとなだめるように叩くが、その表情は楽しそうだ。

「まぁまぁ、そんながっかりしないでくださいよ」

 そう言いながらもやはり真菜は楽しげな表情を浮かべている。

「同情しないでくれよ……俺ってフラれキャラなのかなぁ」

 がっくりとうなだれながら直也は今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。

 ……ここにも一葉ファンがいたか……結構モテるよな一葉さんって。



「フム……」

 静けさを取り戻した居間で、勇斗は顎に手をやりながらテーブルに置かれているそのチラシと封筒をジッと見つめている。その封筒には『お得意様』と書かれており、その中にはフェアーの招待券が二枚入っている。

 行くのはかまわない、いやむしろ行って色々見てみたいし情報を仕入れてみたい、期間はちょうど暇になる時期だから店を閉めてもかまわないが……二枚なんだよなぁ。

 勇斗は手元にあるタバコに手を伸ばし、一本取り出すとそれに火をつける。

 誰と一緒に行くかだ……、常識的に考えれば今現在仕入を担当している一葉さんが順当でもある、しかし、穂波にもそう言うものを見て、女性ならではの意見も聞いてみたい、いや、穂波と一葉さんの二人で行ってもらうのも良いかも知れないのか?

「勇斗さん、どうしたんですか? そんな難しい顔をして」

 気が付けばいつの間にか穂波の顔が間近に迫っており、勇斗の頬が少し赤らむ。

「いや……」

「あぁ、トラベルフェアーですね? これは勇斗さんと一葉さんの二人で行った方がいいですよね? あたしはお留守番していますよ」

 思いもよらない穂波の申し出に勇斗は少し呆気にとられたような表情になり、キョトンとした目で穂波の事を見る。

「で、でも……」

 まさか穂波が自ら身を引くなんて思っていなかったので拍子抜けした。

「当たり前じゃないですか、勇斗さんはこのお店の店長でこのお店を考えなければいけないし、一葉さんは仕入の面で色々見ることが出来ます。あたしは今度の機会でいいですよ」

 ニッコリと微笑みながら穂波がそう言うと、勇斗の心の中ではその身体をギュッと抱きしめたくなる衝動に駆られる。

 いじらしい……。

 勇斗の胸が徐々に高鳴り、そんな様子に穂波も気が付いたのか勇斗の顔を見つめて頬を赤く染めてゆく。

 この家には今は二人だけ……。

 徐々に二人の距離が近づき、勇斗の心の中には邪な気持ちが浮かび上がってゆく。

「勇斗さん……」

「穂波……」

 二人の顔は既に息がかかるほどの距離まで近づき、視線の焦点が合い難くなってゆく。

「お兄ちゃんいる〜!」

 突然ドドドという廊下の音と共に、セーラー服姿の夏穂が居間に顔を出す。

「ん? どうしたのそんな所でそっぽを向いて……また喧嘩でもしたの?」

 夏穂はそう言いながらソファーに座りながら無駄な動きをしている勇斗と、キッチンにつながっているカウンターに、これまた変な格好で手を付いている穂波を交互に見て首をかしげる。

「け、喧嘩なんかしていないわよ」

 夏穂の一言に穂波は真っ赤な顔をしてそれを否定する。

「夏穂ちゃんの方こそどうしたんだ? 学校帰りに寄るなんて珍しいじゃないか」

 勇斗の顔も赤みが取れずにそのままになっている。

「ウン、お兄ちゃんにCDを借りようと思って学校から直行したんだ」

 夏穂はそう言いながら勇斗の顔を見て、そうしてテーブルの上に置かれている封筒を目ざとく見つける。

「なにこれ? あぁ、東京だぁ、お兄ちゃん行くの?」

 目をキラキラさせながら夏穂は勇斗の顔を見上げてくる。

「あぁ、せっかくだからね」

「いいなぁ……あたしも行きたいけれど、この日は学校だし無理かぁ、ねね、お姉ちゃんと一緒に行くのかな?」

 夏穂は冷やかすような目で勇斗と穂波の事を見るが、穂波は苦笑いを浮かべながらその意見に首を振って否定する。

「遊びに行くわけじゃないのよ? それと、これは勇斗さんと一葉さんの二人で行くの」

 穂波のその意見に、夏穂は大げさなまでに首をかしげ疑問を持ったようだが、すぐに本題を思い出したように勇斗の腕を引く。

「ねね、CD借りて行っていいでしょ?」

 夏穂はそう言いながらも既に身体を勇斗の部屋に向けていた。

 叶わないなぁ夏穂ちゃんには……って、ちょっと待て! 今あの部屋に入られたら……非常にまずいのではないか?

 勇斗の脳裏にさっき部屋を片付けてそのままだったことを思い出し、慌てて駆け足で夏穂の後を追ってゆく。



=デート?=

「勇斗いる?」

 キッチンで勇斗がジャガイモと格闘していると千草がそこに顔を見せてくる。

「おう、どうした千草」

 エプロンをしながら包丁を握っている勇斗に対し、千草は目をまん丸にして驚きの表情を浮かべている。

「……勇斗、ついに穂波ちゃんに逃げられちゃったの?」

 なんでそうなるんだ……。

 千草はそう言いながら口に手をやり、哀れむような目で勇斗の事を見つめる。

「あのな……」

「あたしが面倒見てあげるから」

 勇斗が否定しようとするが、お構いなく千草は涙を見せながら勇斗の胸に抱きついてくる。

「ちょ、ちょっと危ないって、俺今包丁持っているんだからぁ」

 包丁を千草から放すようにまるで万歳をするような格好をしている勇斗に対し、そのお腹の辺りを千草はグリグリと顔をすり寄せてくる。

「千草さん、なにやっているんですか!」

 背後から聞こえる穂波の声に勇斗だけではなく千草の肩も激しく反応する。

「ほ、穂波ちゃん? 何だぁ……いたんだぁ」

 あからさまにがっかりしたような口ぶりで話す千草ではあるが、その表情はなんとなくホッとしたようなものに感じるのは気のせいなのか?

「います! 今洗濯物を片付けていたんですって、なに抱きついているんですか! 勇斗さんも危ないですからそんな物は置いてください!」

 穂波はそう言いながら勇斗の振り上げている包丁を見つめ、一瞬顔を蒼ざめる。

「そんなキャンキャン言わないでよぉ……あら? 穂波ちゃんの握り締めているのは……」

 千草はそう言いながら穂波の持っている洗濯物に視線を移し、勇斗もつられるようにそれに視線を移すが、その布地には見覚えのある柄がプリントされていた。

「え? こ、これは……別にそんなつもりじゃなくって……たまたまというか、勇斗さんの洗濯物も一緒に洗っちゃえって言うか……」

 穂波の手の中でそれはさらに形を変形させる……かわいそうな俺のパンツ。

 有名キャラクターをモチーフにした柄のトランクスは、まるでハンカチのように小さく握り締められ、今にも穂波のかいている冷や汗を拭き取らされそうだ。

「一緒に洗っちゃえ、かぁ……」

 千草はそう言いながら、真っ赤な顔をしている穂波に顔を近づけながらぼそぼそと呟くが、その内容は勇斗に伝わる事はなかった。

「なっ! 何を言っているんですか!」

 まるでボンというような音を立てるかのように穂波は顔を真っ赤にし、顔をうつむかせるが、台詞を言い放った千草はキヒヒと意地の悪い顔でその穂波の事を見つめている。

「可愛いなぁ、穂波ちゃん……あたしも違った趣味に走っちゃいそうよ?」

 意地の悪い顔をしている千草はそう言いながら今度は勇斗の顔を見つめてくる。

「な、何だよ……」

 勇斗はその千草の表情にちょっと動揺しながらも、体制を立て直そうと必死になるが、それがかえって仇になっているようだ。

「べぇ〜つにぃ〜……ただ……」

 千草は、今度は勇斗のだけにしか聞こえないような声で呟く。

「彼女は間違いなくバージンだね……」

「なっ!」

 勇斗の顔もきっとボンと言う音を立てたであろう、今まで冷たかった周囲の空気が熱を増したように感じる。

「エヘへ、勇斗、なに可愛い顔をしているのよぉ……」

 意地悪くも、諦めたような表情で千草は勇斗の顔を見つめてくる。

「な、なに言っているんだ、お前こそ何か用事があってきたんだろうに!」

 千草はその一言にハッとしたような表情を浮かべ、口からペロッと舌を小さく見せる。

「そうそう、さっきベイに行ったら一葉さんがすごくカッコいい人と歩いていたから、一体誰なんだろうなと思って、勇斗知らない?」

 その様子に思いふけるみたいに千草は手を胸の前で組み、まるで拝むかのように虚空を見上げている。

「あぁ、それが一葉さんの彼氏なのかな?」

「一葉さんに彼氏?」

 まるで噛み付かんばかりに勇斗の顔を見る千草の表情は、真剣に驚いたような目をし、やがてその色は羨望に変わってゆく。

「一葉さんに彼氏かぁ……お似合いだったよなぁ……」

「千草さん、その男性ってどんな人でした?」

 洗濯物を片付け終わった穂波が嬉々とした表情で千草に詰め寄る。

「そりゃぁカッコいい人だったわよ、少し年上ぐらいかしら、背が高くって……」

 キャイキャイと千草と穂波は話に没頭し始め、その様子にため息をつきながら勇斗は再びジャガイモの皮むきを始めた。

 女の会話には混ざらない方が良さそうだ。



「兄貴いるかぁ〜」

 今度は和也か……やけに今日は来客が多いな。

「なに用だ?」

 今の勇斗の姿は、エプロン装着しながらおたまを右手に持っている。

「なんだ? とうとう穂波姉さんにフラれたのか?」

 君たちは、なんで俺が料理をしているだけで、そこまで話のスケールが大きくなるんだ? まぁ珍しい事である事だけは間違いがないのだろうけれど……。

「和也君も来たの?」

 居間からの千草の声に和也の表情に笑顔が一気に広がると、勇斗がそこにいることさえも忘れてしまったかのように、その声の元に姿を消す。

 今あいつに尻尾をつけたら、きっとはちきれんばかりに振っているだろうよ……。

 勇斗が呆れ顔を浮かべながらコンロにかかっている鍋の中身をかき回していると、和也と交代したのか穂波がキッチンに姿を現す。

「ごめんなさい、つい話に夢中になっちゃって……今更ながらですけれどお手伝いします」

 申し訳無さそうに勇斗の隣に来た穂波は、勇斗のかき回している鍋の中身を確認するとその顔に笑顔が浮んでゆく。

「これはシチューですね? あたしシチュー大好きなんです」

 我ながら上手にできたと自負しているんだけれどね、これからの寒い季節にはもってこいだし、これは俺の得意料理の一つでもあるんだ。

 勇斗は小鼻を膨らませながら自慢げな顔を穂波に向けると、穂波のその表情は尊敬したようなものを浮かべていた。

「ヘヘ、それはもっけの幸いだな、まもなく完成だから穂波も向こうでゆっくりしていなよ」

 勇斗はそう言いながら、仲良く話し込んでいる和也と千草の二人に視線を向ける。



「これを若旦那が作ったんですか?」

 一葉は帰ってきた早々に千草や穂波から冷やかされながらそれなりに対応していたものの、その表情にはさすがに疲れが見えていた。

「ヘヘ、たまには皆様にご奉仕しないとね?」

 勇斗の差し出すシチューに一葉は素直に驚きの表情を浮かべ、何度かそれと勇斗の顔を交互に見て、やがてため息をつく。

「へぇ、若旦那って何もしないと思っていたけれど……うかうかしていられないなぁ」

 つぶやくように言う一葉の一言は勇斗の耳には届いていないようで、ニコニコ微笑みながらそれを一葉にすすめている。

「勇斗さん、お風呂お先でした」

 湯上りの暖気と共に、穂波が風呂から出てくると、勇斗は三人の顔を見渡しながら少し神妙な表情に変わる。

「二人ともそのまま聞いてくれるかな?」

 切り出す勇斗の台詞に、キッチンから麦茶を取り出しそのまま立ちすくんでいる穂波に、湯気を湛えたシチューを前にキョトンとした表情の一葉、共に勇斗を見つめる視線は不安げなものだった。

「いや、そんなに大層な話ではないんだけれどね? 実は……」

 勇斗はポケット入っている『トラベルフェアー』のチラシと、招待券等が入っている封筒をテーブルに差し出す。

「勇斗さん、それは……」

 穂波の言葉を勇斗は優しく遮り、再び二人に視線を向ける。

「これは、今度東京でやる展示会の招待状ですね? 旦那さんのところにもチラシが来ていましたけれど、これが?」

 既に親父の所には情報は入っていたのか……当たり前といえば当たり前か? 直也君も親父の所に先に行ったといっていたし、これは順当なものか……。

 首をかしげる一葉の顔を見ながら勇斗は一呼吸置いて口を開く。

「これには一葉さんと穂波の二人で行ってもらおうかなと思っている」

 勇斗のその一言に、穂波は素直に驚いた表情を浮かべ、危なく手に持っていた麦茶をそこに落としそうになりあたふたしている。

「ゆ、勇斗さん?」

 恐らく穂波はさっき出した自分の意見が決定事項であろうと思っていたのであろう、目をぱちくりとしばたつかせ、今勇斗の言った言葉が理解できないような顔でその顔を見つめている。

「今回のこの展示会には、全国規模のキャラクターグッズを販売しているメーカーが出展するらしい、その中にはお馴染みのご当地物もあるであろう。今流行であるご当地物は色々なキャラクターで作られている、そしてそれを購入してゆくお客さんは……」

「……女性ですよね?」

 一葉はすべても見極めたようにため息をつきながら笑顔を見せるが、穂波は訳が分からないのか、理解できないのか、相変わらずあたふたと意味の無い動きを繰り返している。

「その通り、女性の感受性と男の感受性は明らかに違っているからね? ここ最近ではこのお店でも女性客が増えている、これはノスタルジックなこの街と、最近の土方歳三ブームに起因する所が多いと思う」

 勇斗のその一言に一葉は真剣な面持ちでうなずく。

「だとすれば、やはりターゲットは……」

「……女性客、二十代の前半から三十代ですね?」

「その通り、そして幸運な事にこのお店にはその年代の女性が二人もいる。一人は仕入を担当し、一人は販売実務に赴いている……これは店にとってすればラッキーな事だ」

 勇斗はそう言いながら一葉と穂波の順で視線を動かす。

「そうして、良い商品の情報を仕入れてきてくれれば助かる」

 勇斗はそう言うと一葉の前にその封筒を差し出し、穂波の顔を見つめる。

「穂波には、色々な商品があるという事を見てきてもらいたい、お店で扱っている商品以外にもいっぱいの商品があるということも含めてね?」

 勇斗のその瞳に、穂波は怯えたように身体を硬直させながら首をフルフルと横に振り、手に持っていた麦茶をギュッと握り締める。

「あたしには無理です……今でいっぱいいっぱいなんですから、そんな情報を仕入れるなんていう高等技術は……」

 高等技術って……。

 今にも泣き出しそうな表情を浮かべる穂波に対し、苦笑いを浮かべながら口を開こうとする勇斗を一葉が何か考えがあるかのようにそっとそれを遮る。

「穂波ちゃんにそんな事を言われちゃうとあたしも困っちゃうのよねぇ」

 ちょっと意地の悪い表情を浮かべている一葉に対し、穂波だけではなく勇斗も驚いた顔をして、一葉のその顔を見つめる。

「一葉さん?」

 大きな目を更にまん丸にした穂波は一葉からの次の言葉を待つ。

「実は旦那さんからもその話は言われていたのよ、でも、その時はあたし実家に帰らなければいけないの、旦那さんもそのことは承知してくれています」

 一葉の視線が穂波から勇斗に向く。

「実家って、一葉さんの実家は……」

 そういえば聞いた事がないな? 以前は大阪にいたというし、その前は東京……と言っても小笠原だけれど、そこにいたというし……どこの生まれだかまでは聞いた事ないなぁ。

「実家は愛知なんです、愛知の瀬戸市という所です」

 勇斗の視線に答えるように一葉は微笑みながらそういう。

「確か、愛地球博をやっていたところだよね?」

 一葉はその質問に苦笑いを浮かべながらコクリと頷く。

「ハイ、その他では瀬戸物の発祥地とか言われていますけれど、正直言ってあまり有名ではないですよね? でも、さすが教員免許を持っているだけありますねぇ、普通の人はあまり知らないですよね?」

 確かにあまり有名な場所ではないよな? メイン会場の長久手などは万博が開催されなければ恐らくその知名度はもっと低かっただろう。

「でも、なんで実家になんて……」

 穂波の一言に勇斗の思考が元に戻る。

 確かにそうだよな? 季節的には中途半端なこの季節に帰るには、何か理由があるのだろうが、そこまで踏み込んで聞く事もできない。

「まぁ……ちょっと色々とありまして」

 一葉にしては珍しく、言葉を濁しながら曖昧な笑顔を勇斗に向けてくる。

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