雪の石畳の路……
Autumn Edition
第五話 東京の夜
=真島家と一緒=
「勇斗さんたちのホテルはどこなんだい?」
レインボーブリッジを眺めるレストランで、勇斗と太一は酒をあおり、穂波と暁子、泉美は豪快に鉄板の上で焼かれた料理に舌鼓を打っている。
「大森です、大森のビジネスホテルを用意してくれました」
目の前に置かれたグラスに手を伸ばしながら勇斗が答えると、太一は難しそうな顔をする。
「なんだ、もっと良い所に取ればいいのに……うちの会社も気が利かないなぁ」
舌打ちをするように太一もグラスに手を伸ばす。
「ハハ、いいですよ、大森なら元々俺が住んでいた街ですからよく知っているし、へんに高い所になんかに泊まったら肩が凝って仕方が無いよ……」
勇斗は苦笑いを浮かべながら太一の顔を見るが、太一はそれでも憤然としているみたいだ。
「だけどさ……まぁ、勇斗さんが良いと言うなら良いんだけれど」
納得しないように口を尖らせながら太一は勇斗の顔を見る。
「はぁ〜、美味しいです、やっぱり東京は美味しいものがいっぱいあるんですね?」
穂波は箸を止め、勇斗の顔を覗き込んでくるが、その表情は心底満足といったもので、大きな目が無くなってしまったのではないかと言う位に目を細めている。
おいおい、なんだか穂波のヤツ今日に限って遠慮なく食べているなぁ。
苦笑いを浮かべる勇斗の目の前で暁子は穂波を見て優しく微笑む。
「そうね、東京にいれば何でも食べる事ができるわよね? 日本料理だけじゃなくっても、それこそ世界中のものが食べられるわね?」
「でも、あたしは函館の方が美味しいものいっぱいあったと思うなぁ……」
泉美はサラダを突っつきながら暁子の意見に異論を唱えると、その隣に座っている太一も大きく頷く。
「そうだな、東京ではそれこそ種類は豊富だけれど、結局はその地元で食べた方が美味しいというだけかもしれないな? 東京ではただ単に珍しいからというだけで、モテ囃されているだけなのかもしれないな」
太一の目は優しく暁子を見つめると、それを承知したかのように暁子は頷き、優しい微笑を再び穂波に向ける。
「そういえばみんな元気かしら? 真奈ちゃんとか、直也君とか」
懐かしそうな顔をして暁子は勇斗たちの顔を覗き込んでくるが、その隣にいた太一はグラスに注がれているビールを口にふくみながら、暁子の顔を見る。
「あれ? 言わなかったっけ? 真奈ちゃんなら明日会場にお手伝いに来るらしいよ、一昨日電話があって、暁子にも会いたいって言っていた」
太一のその一言に暁子の眼がつりあがる。
「聞いていないわよ! あぁ、もしかして真奈ちゃんと二人きりで……デートしようとか思っていたんでしょ、この浮気モン!」
暁子の怒り方はさっきまでと違っての冗談ではないようで、どうやら本気になって怒っているようだ。
「そんなこと無いって、真菜ちゃんだってお前に会いたいって言っているぐらいなんだから、そんな事するわけ無いだろ?」
明らかに旗色が悪い太一はすがるような目で勇斗のことを見つめてくる。
いや……そこで俺にふられても、どうしようもないんですけれど……。
「……ママ、そんなにカッカカッカしないほうがいいよ? 身体に毒だよ……」
泉美は料理に箸を進めながら慣れたように暁子を促すが、その一言に勇斗は何か引っかかりを感じた。
「身体に毒って? もしかして……」
勇斗の疑問に、それまで眼をつり上げていた暁子と、困惑していた太一の顔が息を合わせたように同時に真っ赤に変化し、それが何を意味しているかを勇斗は一瞬間を置いてからだが気が付いた。
「えっ?」
しかし勇斗の隣で料理を頬張っていた穂波には何の事だかわからないらしく、首をしきりに傾けている。
「そうかぁ……それは泉美ちゃんもお姉さんになるって言う事だよね?」
勇斗の一言に、泉美は満面の笑顔を膨らませながら大きく頷き、穂波はそれでやっとわかったのか、顔をほころばせる。
「本当ですか? 暁子さん! おめでとうございます、良かったですね?」
穂波の祝福の声に、太一は頭を掻きながら、暁子はうつむきながら応える。
「それでなんだなぁ、久しぶりに会った時に暁子さんのイメージが違って感じたのは……言われればちょっと顔がふっくらして母親らしい顔つきになったのかな?」
勇斗の一言に、暁子の眼が一気に悲しそうなものに変わる。
「という事は、あたし太ったの? 久しぶりに会った人からそう見えるって太ったのかしら? アァン、どうしよう太一、あたし太ったの?」
オロオロした様子の暁子は太一の腕にすがりつき今にも涙をこぼさんばかりの表情で太一を見上げるが、それに対し太一は苦笑いを浮かべるだけだった。
「ママが太っていたら、あたしなんてどうするのよ……ただのおデブって言う事になっちゃうじゃない」
「そうです、暁子さんが太っていたら……あたしなんて……」
泉美は太一の事を、穂波は勇斗の事を、それぞれ頬を膨らませながら睨みつけてくる。
あのなぁ……別に俺が悪い訳じゃないだろ? ただ母親らしい顔になったって言いたかっただけなんだけれど……難しいお年頃なのね、みんな……トホホ。
「じゃあまた今度」
地下にある『りんかい線』のホームで暁子は穂波たちに手をあげる。
「ハイ、暁子さんもお元気で、赤ちゃんが生まれたら連絡してくださいね?」
帰る方角が逆になり、太一たちの乗る方角の電車が先にホームに滑り込んでくる。
「ウン、穂波ちゃんもがんばってね?」
意地悪い顔で穂波の胸をポンと叩く暁子に対し、穂波は笑顔を浮かべているものの、その頬は赤くなっている。
何をがんばるんだか……。
「勇斗さん、場所は大丈夫だよね?」
ネクタイを緩めながら、ちょっと赤ら顔をしている太一はそう言いながら勇斗の顔を見る。
「ウン、大丈夫です、明日はよろしくお願いしますね?」
人で混みあう電車の中に真島家ご一行様は吸い込まれ、チャイムの音と共に扉が閉まると、その姿は人混みと共にあっという間に流れてゆく。
……相変わらず混んでいるなぁ。
これから向かうべく方面のホームにも、既に人の列が出来上がっており、その列を見つめる勇斗は少しうんざり顔を浮かべる。
「勇斗さん、この人たちがみんな乗るんですか?」
隣からそんな声が聞こえ、その意味を理解するのに思わず勇斗の首が傾く。
「みんなって……穂波さん?」
勇斗がその顔を見ると、素直な目をした穂波はその人の列を見つめている。
『まもなく一番線に大崎行きがまいります……』
ホームに放送が鳴り響き、勇斗は穂波の手を取りながら、その人達の列の最後尾に加わると、銀色の電車がホームに着き、その列が動き出す。
「わ、わ、わ」
その流れに、穂波は素直に流されそうになるが、つながれていた勇斗の手をギュッと握り締め、かろうじて流されていく事はなかった。
「ほら、のんびりしていると、押しつぶされちゃうぞ」
勇斗は穂波の腕をひき、ちょうどドアの角にその身体を収め、それに覆いかぶさるように自分の身体を割り込ませる。
「は、ハイ……」
外では肌寒いぐらいだったが、電車の中は蒸し暑いぐらいで、恐らくこの電車の中ではクーラーがかかっているのではないだろうか?
勇斗の頭上にある吹き出し口からは、その蒸し暑さを払うかのように涼しい風が流れてくる。
「勇斗さん?」
勇斗の腕の中から、か細い穂波の声が聞こえてくる。
「ん? どうした」
すっぽりと勇斗の身体に入り込んでいる格好の穂波は、顔を赤らめながら勇斗の事を見上げている。
「すごいですね? これが東京の通勤ラッシュっていうやつですか?」
感心したように周囲を見渡す穂波は素直に驚いているようだった。
「まあね、夜だからそれほどじゃないけれど、朝なんてもっと凄いよ? 俺が学校に通っているときは、荷物が手を離れても落ちないぐらいなんだぜ?」
ちょっと自慢げにいう勇斗の顔を、穂波はまるで尊敬の眼差しで見るようにキラキラした瞳で勇斗の顔を見上げてくる。
そんな顔で見られても困るんですけれど……でもそれは事実だよな? 人の圧力で荷物から手が離れても床に落ちる事は無い、仮に落ちたらその荷物を拾い上げるのはほぼ不可能に近いであろう。
「そんななんですか? そうですよねぇ……」
感心したように言う穂波は周囲を何度も見渡しながらため息をつく。
「ここで乗り換えるよ」
それまでいっぱいだった電車から、そのほとんどの人が降り立ったのは『大井町』駅で、人の流れはまるで川のように数箇所にあるエスカレーターに向かってゆく。
「はいぃ〜」
穂波は既に疲れ顔を浮かべながら勇斗の手を握り締める。
「大丈夫か? 疲れているみたいだけれど……」
勇斗の一言に穂波は笑顔を浮かべるが、その笑顔にも力が無い。
「へへ、大丈夫です……って、こ、これは……随分と長いエスカレーターですねぇ」
穂波が見上げるエスカレーターは、終点が小さく見えるほどのもので、その長さに穂波の動きが一瞬止まる。
「東京は地下に配管が色々あったり、土地の問題があるせいなのか、新しい路線はこうやって深い所に駅があるんだ、ちなみにこの駅の場合改札は地下一階で乗り換えるには二階まで上がらなければいけないんだ、その為にこれだけ長いエスカレーターになったらしいよ」
左に寄りながらエスカレーターに乗ると、その二人の横をすり抜けるようにサラリーマンが歩きながら上ってゆく。
「歩いて上る人もいるんですね?」
感心した顔で穂波はそのサラリーマンの背後を見つめる。
「普段運動する機会がないからなんじゃない? ちょうど良い運動になると思うよ」
勇斗もそう言いながら、なかなか近づいてこないその終点を見上げるものの、そこを歩いて昇る気にはならないようだ。
=手違い=
「お疲れ様です」
駅直結のホテルのフロントに名前を告げると、フロント氏は業務に忠実にマニュアルどおりの動きをする……。
「こちらがカギになります、お出かけの際にはこの鍵はフロントにお預けください」
着々と続くその話に、二人はついて行けないようにそのカギから目が離せないでいた。
「それではごゆっくり……」
フロント氏が、話をそこでまとめるが、それと同時に勇斗と穂波の口からそれを否定する言葉がそれぞれから発せられる。
「ちょっと、なんで……」
「なんでカギがひとつなんですか?」
二人の異論に対し、フロント氏は驚いた表情を浮かべながら、そのカギを見つめる。
「えっ?」
小さな言葉を発しながらフロント氏は手元にあったデータ帳を見ながら首をかしげ、明らかに作った笑顔を浮かべながら勇斗の顔を見つめる。
「えっと……有川様ですよね?」
フロント氏は怪訝な顔をしながらそう言い勇斗と穂波の顔を見比べる。
「ハイ、そうですが……」
その一言に気を良くしたのか、フロント氏は饒舌になる。
「有川勇人様と」
フロント氏は手で勇斗の事を指す。
「そうですよ」
ムッとした顔をする勇斗を無視するかのように氏はその視線をスルーする。
「有川穂波様ですよね?」
次にフロント氏は穂波にその手先を穂波に向ける。
「ハイ、間違いありません……」
困惑したように穂波が答えると、氏は勝ち誇ったかのような笑顔を浮かべる。
「ご夫婦という事で、ツインルームをご用意させていただいておりますが、何か問題でも?」
ご、ご夫婦だぁ〜!
めまいにも似た感覚が勇斗の事を襲う。
「あの、空き部屋は……」
体制を整えようと勇斗は言うが、それを蹴落とすかのようにフロント氏は言う。
「生憎本日は満室になっております」
「はぁ〜……」
部屋に入り、勇斗は深くため息をつきながら二つ並んでいるベッドに荷物を投げ出し、窓際に置かれているソファーに腰かける。
まさか、あの手違いがこんな所に派生するとは思わなかったよ。
勇斗は今朝の、直也の一言が今になってリフレインされる。
「あはは……さて、一体どうしたものか?」
訳の分からない事を言っているのは自分でも十分承知している、しかしこの状況から、何か言わないと、間が持たないで仕方が無い。
「……」
穂波はさっきからうつむいたまま無言でいる。
あぁ〜、話題が……。
勇斗は心の中で自分の頭をかきむしる。
「……」
ついに勇斗の口からも言葉が発せられなくなった。
「…………」
「…………えっと」
たたたぁ〜ん、たたたたったた、たたたぁ〜ん、たたたたったたん……。
とあるゲームの主題歌をかたどった着メロの勇斗の携帯が、その沈黙を破るように着信を告げると、二人は息を合わせたかのように肩をびくつかせる。
「……勇斗さん、携帯が……」
穂波は勇斗に視線を合わせないように、その着信を告げると、勇斗もワザとらしくそれに今気が付いたように反応する。
「お? おう、そうだな……誰だ?」
携帯を開き見ると、その液晶画面には千草の名前が浮かび上がっていた。
「ハイよ、勇斗だ」
気のせいなのかもしれないけれど、なんとなく救われたような気になり、その携帯に出る勇斗の表情に、穂波はつまらなそうな表情を浮かべる。
『勇斗? あはは、よかったぁ、今電話に出る事ができませんなんて言われたらどうしようかと思ったよ……』
電話の向こうからはいつもと同じ千草の声が聞こえてきて、なんとなくホッとした感覚に落ちる。
「ばぁか、そんな事あるわけねえべ?」
勇斗のその一言に、電話の向こうの千草は何かを感づいたのであろうか息を呑む雰囲気が伝わってくる。
『勇斗、まさか本当に穂波ちゃんと同衾なんていうこと無いでしょうねぇ』
……す、鋭いなぁ。
思わず勇斗の表情に苦笑いが浮かぶと、その表情を見逃さないように穂波の視線が勇斗のことを見つめる。
「あ、あはは、そ、そんなことあるかよ……」
『ちょっと! 勇斗今の言い方怪しいわね? まさか本当に穂波ちゃんと同じ部屋なんていうこと無いでしょうねぇ!』
叫び声にも似たその疑い深そうにそうに言う千草の台詞は、勇斗の脳髄に響き渡る。
「アハ、そんなわけないだろ……あれ? 千草? なんだか電波の調子が悪いのか?」
勇斗は耳からその携帯を離しそれを見つめるが電波の量を測るアンテナはちゃんと三本立っている、しかし、そのノイズは電話の向こうの千草の声を途切れ途切れにしているのは間違いの無い事実だ。
『誤魔化……ないでよ、ちょ……と勇斗……と聞こえてい……の?』
言葉は聞き取れないにしても、千草の口調からして、確実に誤解をしているようだ……誤解じゃないけれど……。
「千草、ホントだ、本当に電波の状態が悪いみたいなんだよ」
勇斗の口から千草の名前が挙がったとき、穂波は肩をピクリと反応させるが、勇斗はそれに気が付かないでいた。
『えっ……って……き……ない……ちょ……うと? ――プー、プー……』
ついにその携帯からは、通話の途切れた音が聞こえてくる。
「おかしいなぁ、三本立っているのに、電波の調子が悪いのかなぁ……」
恨めしそうに携帯を見つめる勇斗の前に人影が揺れ、無意識のそれに反応した勇斗はそれを見上げる。
「……今の電話千草さんからですか?」
穏やかな表情を浮かべている……ように見えるが、どことなく怒りをかみ殺しているようなそんな表情だ。
「あぁ、なんだか誤解をしていたみたいだけれど……帰ったら色々聞かれるかもしれないから、穂波も覚悟しておいたほうがいいよ」
勇斗の一言に穂波は考え込むようにうつむくが、すぐに顔をあげたかと思うと、その顔には満面の笑みが浮かんでいた、少し頬に赤みが差しているようにも見えるが。
「誤解じゃなくしたらどうなんでしょうかね?」
――穂波さん、君今凄い事を言ったという自覚はありますか?
キョトンとした顔をする勇斗を見て、穂波は慌てて両手を振りその誤解をとこうとする。
「べ、別にそう意味で言ったわけじゃなくってですねぇ……そのぉ〜」
真っ赤な顔をしているその穂波に、勇斗はなんとなく救われたような気になり、無意識にその小さな頭に手をのせる。
「わかっているよ……さてと、こんな格好でいるのは息苦しいなぁ……着替えちゃおうよ……穂波も着替えたらどうだ?」
勇斗はやおら立ち上がり、着ていたシャツのボタンを外しはじめる。
「キャッ!」
ちょうどボタンを外し終えたところで穂波から小さな悲鳴が聞こえ、そちらに顔を向けると恥ずかしそうに手で顔を覆いながらそっぽを向いている穂波の姿があり、一瞬何の事だかわからなく勇斗は首を傾げるが、すぐに自分の姿に気が付く。
「あっ、わりぃ、つい、いつもの癖で……」
シャツの下には何も着ていない勇斗の胸は半分露わになっている。
……柔道をやっている時はもっと露わになっていたような気がするけれど、やはりシチュエーションの問題なんですかねぇ?
勇斗は反射的に穂波に背を向ける。
「いえ……いきなりだったからちょっとびっくりしちゃって……」
勇斗からはその姿を見ることは出来ないが、きっと顔を真っ赤にして俺に対して背を向けているであろう……って、やっぱり……。
勇斗の目の前にある鏡に穂波のその姿が写り込み、今勇斗の想像していたような行動をとっていたが、次の瞬間穂波は勇斗の予想外の行動に移る。
ちょっ、ちょっと穂波さん、何をしているんですか?
鏡に映る穂波は、背を向けながらブラウスを脱ぎ、続いて履いていたフレアースカートも一気に脱ぎ捨てており、その様子を勇斗は動きを止めその様子を見つめるが、我に返った途端その鏡から目を逸らす。
「勇斗さん、こっち向かないでくださいね? あたしもすぐに着替えちゃいますから」
動く勇斗の気配に気が付いたのか、慌てたように穂波が言い、勇斗はその意見に対しコクコクと言葉無くうなずく。
うぐぁ〜、変な気になっちゃうじゃないか!
意味無く天井を見上げている勇斗は、心の中で地団駄を踏み、頭を掻きむしっているが、そんな様子を穂波に見せるわけにもいかず、ただその天井にある綿埃を注視していた。
「ハイ、お待たせしましたって、なんでまだ着替えていないんですか?」
穂波から許可が下りると同時に頭を元に戻すと鏡の中では穂波が怪訝な顔をして勇斗の事を見ている。
「いや、そうだな……あはは」
乾いた笑いを浮かべる勇斗の対し、穂波は怪訝な顔をしながら首をカクンと傾ける。
=らーめん=
「それでどこに行くんですか?」
フロントで鍵を預け、二人は夜の帳の下りた街の中に足を踏み出す。その街にはサラリーマンであろう背広姿のグループが、赤ら顔をしながらなにやら大きな声で話していたり、何気にいい雰囲気のカップルがいたりと、大勢の人が闊歩している。
「やっぱり酒を飲んだらラーメンでしょ? この近くに美味しいラーメン屋があるんだよ、穂波の口にあうかわからないけれど」
勇斗はそう言いながら、かつて知った街の地図を頭の中にインプットしながら、記憶を頼りに歩き出す。
「大丈夫です、あたしラーメン大好きですから!」
やや後ろから穂波の声がするが、狭い歩道上で穂波は前から来る人並みをうまくよけられないように、右左に身体を動かし、結果的に勇斗との距離が徐々に大きくなってゆく。
「……ほら」
立ち止まり手を差し出す勇斗に、穂波は助けられたというような顔ですがりつく。
「なんでこんなに人が多いんですかねぇ、もう夜も遅いというのに……」
穂波は頬を膨らませながら、過ぎ去ってゆく人を見るが、それに対し勇斗は苦笑いを浮かべるだけだった。
「夜遅いって、まだ十時前だぜ? まだまだ宵の口じゃないか……」
「でも、あっちじゃこの時間だと十字街とかに行かないとこんなに人いませんよ?」
あぁ〜、そうかもしれないなぁ……人口密度の違いなのか、それとも、そもそも観光客が多いせいなのか、確かにこの時間になってサラリーマンが闊歩している事はあの街ではあまり見ることは無いかもしれないなぁ。
「……まぁ、家路を急ぐサラリーマンなんだよ、みんな」
楽しそうに笑いながら二人の肩先を通り過ぎてゆくサラリーマンをチラッと見つめる勇斗に対し、その表情を怪訝な顔で見る穂波の二人の目の前には赤い看板が目に飛び込んでくる。
「ここだよ、いわゆる横浜の『家系ラーメン』なんだけれど、このこってりとしたラーメンが俺は大好きなんだ」
時間のわりに混んでいる店内は、やはりサラリーマングループが多いようだ。
「知っています! 横浜の家系ラーメンって有名ですよね? とんこつ醤油というのか、チャッチャ系というのか、コッテリ系ですよね? 一度食べてみたかったんです」
穂波は満面に笑顔を浮かべながら、店内にかかっているメニューを見上げる。
「女の子にはちょっとキツイかも知れないけれどね、でも美味しいと思うよ」
勇斗もメニューを見つめながら、自分の好きな物が残っている事に微笑む。
「エヘへ、きっと別腹なんですよ……あたしの場合」
嬉しそうに言う穂波の表情は、東京という街に緊張していた穂波ではなく普段と同じ表情に変わったような気がする。
「それは心強い一言だな……さて、俺はチャーシュー麺の並に、ライスと……やっぱりビールが欲しいかな?」
勇斗の一言に穂波は微笑む。
「勇斗さん、太りますよ? この時間にそんなに食べるとお腹に脂肪がそのまま……考えたくありませんけれど……でも、美味しいんですよね? この時間に食べるラーメン」
ペロッと舌を出す穂波は食券の販売機の前で真剣に悩んでいるようだ。
「塩にしようかな? 函館っ子代表として……」
穂波はそう言いながら塩ラーメンのボタンを押し、サイドメニューに餃子のボタンまで押す。
それではあまり意味が無いのではないかと思うけれど……あまり深く詮索するのも大人気ないかもしれないかな?
あえてその穂波の行動に対し異を唱える気も無く、店員に案内されるがままにテーブルに着くと、威勢のいい声で来店を歓迎され、穂波は目を白黒させる。
「いらっしゃい! お好みはいかがいたしますか!」
店員の声に勇斗は慣れたようにオーダーする。
「えっと『緬カタ油多目』で」
店員は、勇斗のオーダーに対し素直にうなづき、今度は穂波の顔を見つめると、その視線の先でおどおどした様子の穂波はメニューを見たり、壁にかかっているその由来を見ている。
「……えっと……普通がいいです」
まるで身体を小さくして、申し訳なさそうに呟く穂波に対し、店員は承知したといった様子でキッチンにオーダーを通す。
「オーダー入ります! チャー並緬カタ濃い目、塩並みお願いしまぁ〜っす」
厨房にいた面子はそれに反応し、元気な声を返してくる。
「はいよぉ〜!」
威勢のいい声に穂波は驚きながらその店を見回すと、そこにはまるで昭和初期を思わせるような造りになっており、トイレの入り口は昔の隣の家に続く木戸のようだし、店の前にはホーロー製の看板を象ったような物がかかり、その壁は波うっているトタンで覆われている。
「なんだかレトロチックというのでしょうか?」
穂波はそう言いながら勇斗の顔を見つめる。
「そうかもしれないな? 得てして東京の人間というのはこういった古い感じが好きなのかもしれないよ、だから函館も人気があるのかもしれない」
このお店は昭和レトロと言う分類になるのかもしれなく、函館のお店に共通する所もあるかもしれない、それに函館という街は……。
「ウフ、あの街はこれよりちょっと古い明治か大正ロマンという感じでしょうかね? でも、うちのお店はここに似ているから、やっぱり昭和なのかもしれませんが……」
……分かっているじゃないか穂波も。
勇斗は自分の頬が思わず緩む事を自覚し、目の前にいる穂波の顔を、頬杖をつきながらジッと見つめる。
「あ、あたし何か変な事を言いましたか?」
そんな勇斗の表情に穂波は慌てたように自分の言動をトレースバックしているようだ。
「いや、変な事じゃないよ、お前も大分あの店に染まってきたんだなぁーって思ってね?」
意地悪く言う勇斗の前にジョッキに入ったビールと、お通しのようなつまみが置かれ、それを待っていましたとばかりに勇斗は割り箸を取る。
「勇斗さんそれは?」
穂波は不思議そうな顔をしてその器の中身に視線を向ける。
「これはこのお店のおつまみでね、ネギチャーシューなのかな? 美味しいんだ」
パキッと割り箸を割り、勇斗はそれに箸を向ける。
ウ〜ン、これだぁ〜、ごま油にピリッと辛味がきいていてチャーシューのちょっとの甘さを引き立てているというのか、ウンチクはともかくこの味は好きだ。
チャーシューの一切れを箸でつまみ口に運ぶと、その様子を穂波は物欲しそうに口を半開きにして見つめている。
「……食べる?」
勇斗の一言に穂波の眼が輝く。
「いいんですか? 美味しそうだなぁって思っていたんです!」
いいんですかって、そんな顔を見せられたら差し出すしかないだろうよ……。
勇斗は苦笑いを浮かべながら箸を器の上に乗せたまま穂波の先に置くと、一瞬躊躇しながらも、その箸を使ってチャーシューをつまんで口に運ぶ。
「おいしぃ〜、ごま油とチャーシューってこんなに相性が良かったんですね?」
満面の笑みを浮かべる穂波は心底その味が気に入ったようだ。
「あぁ、隠し味があるんだろうけれど、でもこのチャーシューの味はなかなか家庭では出せないよね?」
勇斗はそう言いながらも、穂波の口に運ばれるそのチャーシューに頬を染めながら、ジョッキを口に運ぶ。
「今度チャレンジしてみますね? って、勇斗さん顔が赤いですよ? もぉ〜ビール飲み過ぎなんじゃないですか?」
口をモゴモゴさせながら穂波は勇斗の顔を覗き込んでくる。