雪の石畳の路……
Autumn Edition
第八話 新しい朝
=住んでいた街=
「ふぁ〜」
薄暗かった部屋の中が徐々に朝日に満たされてゆくなか、勇斗なるべく振動を与えないようにベッドからそっと起き上がる。
いつ寝たのかよくわからないけれど、記憶だけはしっかりとしているな。
ベッドを降り、捲れ上がっている毛布を元に戻すが、その瞬間ベッドの中に白いものがちらりと見え一瞬躊躇する。
また変な気になりそうだ……顔でも洗ってシャンとしよう。
勇斗はベッドの盛り上がりが規則正しく上下しているのを確認し、洗面所へと向かう。
「はは、ひでぇー顔しているなぁ……顔だけ見たら二日酔いの親父だぜぇ」
鏡に移る勇斗の眼の下には黒っぽくクマができ、目は充血し、髪の毛はボサボサで、まるで自分の父親が二日酔いで朝帰りというような顔をしている。
やっぱり俺は親父に似ているのか……悲しいけれど。
諦めともつかないため息をつきながら洗面台の蛇口をあけ、水を勢いよく流す。
「モゴモゴ……グワラ」
歯磨きをしながら再び鏡を見つめ勇斗は昨日の自分の足取りを確認するように記憶をたどり、そうして音を立てるように顔を赤面させる。
穂波と……。
その赤みを落ち着かせるように勇斗は顔を洗い、鏡の中の自分を見るが、その顔は照れくさそうにしており、顔の赤みも取れないでいる。
「こういう場合、どうやって話し出せばいいんだろう……」
勇斗は頭の中で何回かシュミレーションするが、やがてそんなことに意味が無いという事に気が付く。
よそよそしくなるのが一番嫌なんじゃないかな? 自然に接するのが一番だろう。
近くにあったタオルで顔を拭きながら勇斗が洗面所を出ると、ベッドの上に座り込んでいる穂波の姿が見える。
あちゃ〜、よりによって起きているよ。
予想外の展開に勇斗は心の奥で苦虫を潰すような表情になるが、大きく深呼吸をして平静を装いながら穂波のその背中に声をかける。
「おはよう、穂波……」
その声にピクリと反応したかと思うと、穂波はまるで油の切れたロボットのようなぎこちない動きで、首だけを勇斗に向ける。
「お……おはようございます」
尻切れトンボのように、フェードアウトする声を発している穂波の顔は、浜茹でされた花咲ガニのように真っ赤になっており、その目は涙で潤んでいる。
ヤバイ……完全に予想外の反応だ……もしかしたら後悔しているのかも……。
勇斗の表情に、まるで落胆したかのような表情が生まれると、その顔に気が付いた穂波が慌てたように手を振る。
「ち、違うんです、別に勇斗さんと……そのぉ……事に後悔とかしているという訳じゃなくってですね……その逆で勇斗さんと一緒になれて嬉しかったと言うか……ってなに言っているんだろうあたし」
さらに穂波の顔は赤くなり、そこまで赤くなると、血圧の事を心配した方がいいのでは? と思うほど赤くなっている。
「い……いや……アハハ、それは何よりでした……」
勇斗は視線を穂波に向けながら顔を赤らめると、それに気が付いた穂波は自分の姿を見下ろして慌てて毛布を頭からかぶる。
いやぁ……昨日は暗くてよく見えなかったけれど、穂波もなかなか出ているところは出ているようで……。
勇斗のその視線に対し、穂波は毛布から顔だけ出して、思い切り頬を膨らませる。
「勇斗さんのえっち!」
「まだ七時になったばかりなんですね?」
つけていたテレビに表示されている時計は七時を少し回った事を告げており、着替えを終えた穂波はそのテレビを覗き込んでくる。
「穂波は目が悪かったっけ?」
たまに穂波は今みたいに目を細めながらテレビを見ることがある。
「はい、そんなに酷くはないんですが、最近ちょっと見難くなりましたかね? そろそろメガネを考えないといけないのかなぁ」
はにかむような顔をして穂波は勇斗の顔を見る、その顔にはさっきまでの赤みはほとんど残っておらず、いつもと同じだが、しかし、まだ視線を泳がせているのはお互い様かもしれない。
「コンタクトはどうなんだ?」
勇斗も既に着替えを終え、そのテレビの正面にあるソファーに腰をすえ、かばんの中に荷物をしまいこんでいる穂波の様子を見る。
「コンタクトはダメです、手を目に触れるなんてそんな恐ろしい事できません、そんな事をするならまだ見えないほうがいいです」
力説する穂波の勢いに、少し気おされしながら勇斗は苦笑いを浮かべると、テレビの画面が天気予報に変わる。
『昨日、北海道の札幌で初雪が降りました……』
そんなアナウンサーの声と共に、画面はテレビ塔からの映像であろう、大通公園に降りしきる雪の様子が映し出されていた。
「札幌は雪かぁ……」
ため息混じりになる……いずれは函館も雪が降り出すであろう、そうして十二月の中頃になればそれが根雪になり、やがて雪の上で暮らすようになる。
「本当ですね? 今年は暖冬といっていましたけれど、やはり雪は降るんですね?」
荷造りを終えた穂波は勇斗の隣に立ち、そのテレビの画像を覗き込んでいるが、やはりその横顔はこれからはじまる冬への思いなのだろう、寂しそうにも見えた。
「そうだな、東京ならまだ知らず、北海道で雪が無かったら困る事もあるだろう?」
「困る事?」
勇斗の台詞に穂波は首をかしげる。
「そう、雪に閉ざされるからこそ、その雪を使ったお祭りがいっぱいあるんだ、有名なのは『さっぽろ雪まつり』とか、函館なら『大沼氷の祭典』とかね?」
ニカッとした笑みを浮かべる勇斗の顔を見て、はじめはわからないといった顔をしていた穂波だが、やがてその意味を理解できたかのように笑顔を浮かべながら大きく頷く。
「そうですね、そうしないとお客さんもこなくなって困っちゃいます!」
「今日はどちらまで行くんですか?」
チェックアウトするには時間が早すぎる八時前、フロントにカギを預けてホテルを後にする勇斗の足取りは、迷う事のない動きで進んでゆく。
「ウン、こっちにいた時よく行っていたお店があって、そこのコーヒーが美味しいから穂波と一緒に飲もうかなと思ってさ」
勇斗はそう言いながら、かつて歩きなれたバス通りを歩いてゆく。
「モーニングコーヒーですかね?」
穂波は何気ない意味合いで言ったのであろうが、勇斗の頬はその一言で赤らみ、それに気がついたのか穂波も顔を赤くしてうつむく。
「そ、それにしても朝早いのに人がいっぱいいますね?」
話をはぐらかすように、穂波は周囲を歩いている人波を見る。
「あぁ、このあたりは住宅街だからね、それに小さな工場や、オフィスもあるから、これから通勤する人と、会社に来た人とがちょうど入り混じっているのかもしれないよ」
それを示すように、背広を着て駅のほうに向かって歩いてゆく人や、逆に駅から早足でゆっくり歩く二人を追い越してゆく人など様々だ。
「でも、この街って、何となくホッとしますね?」
「ホッとする?」
穂波の意外な一言に勇斗の首は傾げるが、周りの風景を見る穂波のその表情は落ち着き、優しい微笑が浮んでいる。
「はい、東京に来てずっと思っていたんですけれど、前に勇斗さんが言っていた『息苦しさ』というのを実感しました」
以前穂波にそんな事を話した様な気がするなぁ、でもなんだって今頃。
さらに首をかしげる勇斗に、穂波は微笑みながら、その顔を覗き込んでくる。
「なんだか東京って余所行きの顔をした街というか、なんだか気を張っていないといけないような雰囲気があったんです……たまたまそんな所にしか行っていないからなのかもしれませんけれど……でも、ここに来たら急に東京という街が身近に感じられました」
穂波はそう言いながらペロッと舌を出し、おどけた表情になる。
「ここは普段着姿の街なんだなって、そんな気がしたんです、東京の事をあまりよく言わない勇斗さんが四年も暮らしていたのがわかる様な気がしますね?」
穂波の一言に勇斗の頬が赤らむ。
――全てお見通しだな? 俺もアパートがこの街でなかったらきっと四年もの間東京にいられなかっただろう。
「正解だよ、そして四年間お世話になったのがこのアパートであり、お世話をしてくれたのがこのお店なんだ」
お世辞にもあまり綺麗ではないアパートを見上げる。
まだ一年経っていないのに、このアパートがこんなに懐かしく感じるなんて思っていなかった、このアパートには俺の東京時代の想い出が詰め込まれているわけだからかもしれないな?
感慨深げな表情で勇斗がそのアパートを見ていると、その隣でも穂波が真似をするようにそのたたずまいを見上げている。
「ここに勇斗さんが住んでいたんですか……」
少し寂しそうにそう呟く穂波は、珍しく自分から勇斗の腕をつかんでくる。
「穂波?」
「そうしてこのお店が勇斗さんをお世話したお店がここなんですか?」
怪訝な顔をしている勇斗の視線を跳ね返すように穂波は近くにある喫茶店に視線を移す。
「まぁ、世話になったといっても飯ぐらいだけれどね、よくここにはモーニングを食べに来ていたんだ、その味をちょっと思い出してね?」
住宅街にある小さな喫茶店の扉を開くと、数人いる客の顔が二人のほうを向き、そのうちの一人の顔がほころぶ。
「勇斗じゃねぇか!」
「どうも、棟梁もお元気そうで何よりです」
勇斗もそう言いながらその初老の男性が差し出した手を握る。
「ん? オォー、勇斗か?」
カウンターの中にいたマスターも勇斗の顔を見てその表情をほころばせている。
「やぁ、お久しぶりね?」
珍しく勇斗はペコリと頭を下げると、マスターは照れたような顔をして、空いているカウンター席に座るように勇斗を促すが、その時はじめて勇斗の隣にいた穂波の存在に気が付いたようだった。
「勇斗、そちらのカワイ娘ちゃんはお前のお連れさんかい?」
皮肉るような顔をするマスターに、勇斗は鼻先を掻きながら頷く。
「ほぉ〜、珍しい事もあるものだな、勇斗が女の子と一緒に来るなんて……そういえば、確かお前さんは函館に帰ったって言っていたけれど、向こうの彼女なのかい?」
マスターは穂波にも席を勧めながら勇斗の顔を見る。
「うん、まぁ……そんなところかな?」
ちょっと歯切れの悪い勇斗のその様子にマスターは何かを感じ取ったようで、穂波に視線を向ける。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
いきなり話をふられた穂波は慌てたように背筋を伸ばし、その質問に答える。
「はっ、はい、穂波です……有川穂波」
フルネームで自己紹介をしたとき、穂波の顔にしまったという表情が浮ぶが、既に時遅し、まるで玩具をもらった子供のような顔になるマスターに、勇斗はあきらめ顔を浮かべる。
「ゆぅ〜とぉ〜」
マスターは唸るような声を出しながら勇斗の顔を睨みつめる。
「な、なんだよ……」
その迫力に気おされするように、勇斗は身体を半身引く。
「お前、嫁をもらったのか、函館に帰って嫁をもらったんだな?」
既にマスターの中では確定のランプが点灯したようで、否定を受け入れる隙間はまったく無さそうだ。
「えと……勇斗さん」
困惑する穂波だが、勇斗はあきらめきった様子で穂波の肩をポンと叩くと、ちょっと意地の悪い表情を浮かべ、マスターに向き直る。
「……そうだよ、俺の嫁さんだ」
勇斗のその一言に穂波が驚いた顔をすると、その顔に意地の悪いウィンクを送ってくる。
「……羨ましい……俺にすら嫁がいないというのに……」
愕然とするマスターに二人は微笑む。
「まぁ、マスターの場合縁が無いと言うのかな?」
勇斗のその一言にマスターはさらにうつむき、仕事を放棄するように手元にあったダスターを投げる。
「お前に言われたくない! 少なくともお前より俺のほうがいい男というのは実証されているはずだ」
マスターはそう言いながら勇斗の顔をながめる。
「いつ?」
その質問に対して勇斗は意地の悪い顔でその顔に自分の顔を近づける。
「それは……去年のバレンタインデーだ! 勇斗よりも俺の方が二個多く貰ったぞ! これは曲げようの無い事実だ」
自信満々の顔でマスターは言い、勝ち誇った顔で勇斗の目の前でこぶしを握り締める。
「最後である今年は俺の方が多かったよね? 四つばかり……」
千草をはじめ、サークルの女の子や、後輩の女の子がくれた義理チョコの数は、去年よりも数個多くなっていたはずだし、マスターの数よりも多かったはずだ。
「ぐっ……お前はそんな正論を言って楽しいのか! 年上は敬わなければいけないんだぞ!」
マスターは涙目になりながら、勇斗に対して抗議の表情を浮かべる。
「わかったよ、今年もマスターの勝ちでいいよ」
おざなりに言う勇斗に対し、それまでの情けない顔が嘘のように晴れやかな顔をしてマスターは胸をそらす。
「わかればよろしい、よし、今日は俺のおごりだ! 何でも好きなものを注文してくれ、奥さんも遠慮なくどうぞ」
穂波はそんな二人の会話を上の空で聞いていたのか、マスターのその一言で我に帰ったようで、肩をピクリと反応させる。
「あっ……ありがとうございます」
穂波はそう言いながら、慌ててメニューを見ているが、その顔はどことなく顔を紅潮させているようだ。
「どうした、風邪でもひいたのか? 顔が赤いぞ」
勇斗はそう言いながら穂波の額に手を当てると、その赤い顔はさらに湯気を吹き出さんばかりに赤くなる。
「だっ、大丈夫です、心配ないですからぁ」
そんな二人のやり取りを見ていたマスターは、忌々しげに舌打ちをする。
「ハイハイ、ホント仲がよろしいようで、秋だって言うのになんだか暑くって仕方がねぇなぁ、あぁ〜俺も嫁さん欲しい!」
マスターの一言に二人は顔を見合わせ、そして顔を赤らめながら二人してうつむく。
「はぁ……」
ホテルで帰り支度をしながら、時折穂波の動きが止まり、虚空を見つめたりしている、その頬はどことなく桜色の染まっているようにも見える。
「まだ飛行機まで時間があるけれどどうする? どこか行きたいところとかない?」
片付けを終わらせた勇斗のその言葉も耳に入っていないのか、穂波は虚空を眺めたままブツブツと何かを呟いている。
「俺の嫁さん……かぁ……えへへ」
よく見れば穂波はニコニコと本当に嬉しそうな顔をして宙を眺めており、時々笑い声を上げているようだが、このまま放っておくときっと変な人に見られてしまうだろう。
「穂波、どうかしたのか?」
今度は少し大きめの声で勇斗は穂波に声をかけると、やっとこっちの世界に返ってきたのか、驚いたように目をまん丸にして勇斗の顔を見る。
「へ? どうしたって……勇斗さんもう終わったんですか?」
――既に開始して三十分はかかっているよ……いくら俺でも終わらせることは出来る、それよりお前の方なんだが……。
穂波の手元にあるバックは力なく口を開いたままになっており、その中の服などが散らばったままになっているその様子を眺める勇斗は力なくため息をつく。
「さっきから様子が変だぞ、熱でもあるのか? 顔が赤いぞ?」
そう言いながら勇斗の顔が穂波に近づくと、さらにその赤みが増し、穂波は慌てふためいたように、周囲に散らかっていた服を無造作に詰め込む。
「だ、大丈夫です、全然大丈夫ですからご心配なく」
そんな穂波の勢いに、勇斗は顔を離しながら怪訝な顔を見せるが、やがて諦め顔をしながら穂波の顔を再び見つめ、さっき言った同じ質問を穂波に投げ掛ける。
「それで? この後行きたいところとかあるかい?」
勇斗のその一言に穂波は手を動かしながら首をかしげているが、やがて何かを思い出したようにその顔をぱっとあげ勇斗の顔を見つめる。
「そうだ! 真央ちゃんにお土産頼まれていたんです、お店の名前も聞いてあるんですよ」
穂波は傍らにあったコートの内ポケットを弄り、一枚のメモを勇斗に見せる。
「ん? ここって……あはは……真央ちゃんらしいというか、やっぱりだったのね?」
メモを見ながら勇斗は力なくうなだれるが、穂波はよくわからないというような表情で勇斗の顔を覗き込む。
「どういうことですか?」
閉まりにくいバッグのチャックを無理やり閉めて、帰り支度を終わらせた穂波は、勇斗の持っているメモを再度見つめる。
「いや、多分行けばわかるよ、時間もいいし、行こうか?」
カバンを持ち上げる勇斗に触発されるように穂波も腰をあげる。
「ハイ!」
=想い出の東京=
「どうだった、初めての東京」
ちょっと遅い昼食は、秋葉原の『万世橋』近くにある『肉の万世』。真央のお土産などを踏まえ勇斗が一度はここのレストランで食べてみたいという意見から実現した。
「ハイ、色々と見て回る事が出来ました、勇斗さんには怒られるかもしれませんが、この秋葉原が一番面白かったかも……」
穂波はそう言いながら、ボックス席の隣に置かれているネコミミ姿の可愛い女の娘のイラストが描かれているビニール袋に視線を向ける。その中には、真央から頼まれたという怪しげな同人誌や、穂波がキャイキャイ言いながら買ったものなど、おおよそ勇斗の頭の中にある『漫画』とは違う世界のものがびっしりと詰め込まれているはずだ。
「ハハ……それはお楽しみいただいたようで結構でした……」
疲れきった様に力なく頷く勇斗に対して、満面の笑みを浮かべる穂波は心底満足しているようだった。
やはりすごい街だったな、まるで、ネコミミをつけた女の子が普通に店先で接客していたり、メイドさんのような格好をしている女の子が気取らずに歩いていたり、電気街というよりもオタク街といったイメージだった……。中でも穂波と入ったあのお店は、まるでエロ本屋ではないかと思うような店だったけれど、女の子の方が多かったし……女は強いなのかな?
「勇斗さんは?」
満足げな穂波の微笑に対し、勇斗はちょっと気おされる。
「……フム……」
勇斗はワザとらしく顎に手をやりながら悩んだような表情を造ると、その視線の先の穂波は、ちょっと寂しそうな顔をしながら勇斗を上目遣い見上げてくる。
「……勇斗さん?」
耐え切れなくなったように穂波が勇斗を見ると、勇斗は意地の悪い顔をして穂波の鼻先を人差し指で突っつく。
「フム、満足というと語弊があるかもしれないが……」
そう言いながら、勇斗は穂波の薬指をギュッと握り締める。
「ゆ、勇斗さん?」
頬を赤らめながら穂波は勇斗のその手と顔を代わる代わる見るが、その勇斗の視線は真剣であり、ホッとするような優しい微笑を浮かべていた。
「お待たせいたしました……」
それに対して、無言で答えるようにその指を話したと時同じくしてウエイトレスが二人の元にランチを運んでくる。
「さて、これを食べたら、この東京から離れなければいけないね? 最後に美味しいものをいっぱい食べよう!」
勇斗はそう言いながら、目の前に置かれた熱々の鉄板にのっているハンバーグにフォークを突き刺すと、それに最初は不満げな表情を浮かべていた穂波であったが、目の前に置かれたそのおいしそうな料理に心を許したかのように、徐々に笑顔に変わってゆく。
「……ハイ!」
「美味しかったですぅ〜」
既に、日は西に傾き始めた東京の空、秋だといっても函館のそれには比べものにはならないその気温に、周りの温かそうな格好をしている人々よりも軽装な二人は満足げな笑顔を浮かべながら秋葉原の駅に向かって歩いてゆく。気の早いお店では、既にクリスマスのディスプレーを飾っていたりしている。
「満足頂いたようで光栄ですな?」
勇斗のその右腕には穂波が抱きつくようにしている。
「大満足ですよ! 勇斗さんが東京の事を余りいい事いわないからあまり期待していなかったんですけれど、十分すぎるほどの美味しさでした!」
穂波のその笑顔は十分に満足した事を示していたがすぐにその表情が曇る。それはちょうど駅の改札口に近づいた時だった。
「これで東京とはお別れなんですね?」
二人の手には、秋葉原駅からモノレール経由の羽田空港行きの切符が持たれており、それを意味するのは、函館に帰ると言う事実。
「どうかしたのか?」
慣れた手つきで改札から飛び出す切符を取る勇斗は、まだちょっとぎこちない手で同じ動作をする穂波を振り返る。
「はい、もうちょっといれば、この街のいいところがもっと見えてきそうな気がして……最初のイメージと大分変わりました」
穂波はそう言いながら勇斗の手をキュッと握る。
「勇斗さんは気が付かないだけかもしれませんが、あたしはこの街はやっぱりすごいと思いますよ? この街はおとぎの国みたいな街です」
満面の笑顔を浮かべつ穂波に対して勇斗は首を傾げるだけだったが、そこまで喜んでくれるというのも悪い気がしないわけでもなく、やがてその顔にも笑顔が浮ぶ。
「おとぎの国かぁ……確かにそうかもしれないな、下手をすれば人まで変えてしまうかもしれない街だ……どこかに悪い魔女がいるのかもしれない」
かろうじて見えるホームからの狭い空は、函館のそれと同じように青く高く見え、東京も秋になったという事を象徴していた。