雪の石畳の路……

Autumn Edition

第九話 二人の北へ。



=羽田空港=

「やっと検査が終わりましたね?」

 苦笑いを浮かべる穂波の視線の先には、うんざり顔でベルトを締め直して靴を履く勇斗の姿があった。

 まったくなんだって必ずこのゲートに引っかかるんだか自分でもわからないぜ、携帯にしても小銭入れにしても金属製のものは全て身から離しているのにもかかわらずに鳴るというのは、もしかして裏で人の顔を見て鳴らしていたりするんじゃないか?

 勇斗がギロリと睨むのは手荷物検査場の金属探知機で、穂波は一回でパスするのに、勇斗は何回かそのゲートをくぐる羽目になり、最後には女性の警備員にボディーチェックされるほどだった。

「まったくだ、まるで人を悪人みたいな顔で見ていやがる……見た目で判断するな!」

 勇斗はそんな警備員の見えないところでアカンベーをし、その様子に穂波は微笑む。

「もしかして勇斗さんの体の中に、何か金属が埋め込まれていたりして、それに反応しているとかありませんかねぇ」

「ありえない、骨折は何度かした事があるけれど、ボルトを埋め込むほどの大怪我はしたことがないし、そんなものを埋め込んだ記憶はまったくない」

 苦笑いの勇斗に対し、穂波は真剣に悩んだような表情になる。

「もしかして記憶を消されているとか……地球外生命体に」

 おいおい、一気に現実離れしてきたなぁ……それにしても、そのキラキラした目は一体なんなんだ? まるで憧れの人を見るようなその目は……。

 ワクワクという擬音が聞こえてきそうな笑顔で穂波は勇斗の顔を覗き込んでくる。

「お生憎さま、俺にはそういった機械が取り付けられていないことは、医者が証明してくれるはずだよ」

 コツンと穂波の頭を小突きながら言うと、穂波はつまらなそうに頬を膨らませる。

「ぶぅ〜、ちょっとつまらないかも……」

 あのですね、つまるとかつまらないという問題ではないんですが……自分の彼氏がサイボーグであってもらいたいのかな? 君は……。

 苦笑いを浮かべつつ二人が歩くと、平日ということもあり、背広姿のビジネスマンと一緒になるがその多勢は、札幌行きの便に向かってゆき、カジュアルな服装の客が多くは函館行きの出発待ち合わせロビーに集まっている。

「見事に二極化しているかもしれないな……札幌行きはビジネス、函館はやはり観光になるみたいだな?」

 その客層を見つめる勇斗の横顔を見上げながら穂波はホッとしたような笑みを浮かべている。

「観光都市ですからね? それがあたしたちの住んでいる街なんですよ」

 椅子に座りながら穂波はそう言い、勇斗の顔を見上げる。

「そうだな、そのお客さんたちがうちのお店のお客さんになるように頑張らないといけないし、そんなお客さんが喜んでくれるお店を作りたいな」

「はい、そうすればみんながいつまでも一緒にいる事ができます」

 穂波のその台詞に勇斗は優しい笑顔を浮かべながら、穂波のその小さな頭をポンと叩く。

「頼んだよ、これからもずっと……」

 穂波は勇斗のその一言に頬を染め、嬉しそうな顔で勇斗を見上げて満面の笑顔を勇斗にプレゼントする。



『お客様にご案内いたします、当機はまもなく函館空港に向けて離陸いたします現地の天候は雪で……』

 キャビンアテンダントの放送に二人は顔を見合わせる。

「雪だって……」

 忘れていたけれど、函館はもう雪が降っておかしくない時期なんだよな? そうして、雪に再び閉ざされるのかぁ……。

「雪ですか……やはり東京と函館は離れているんですね?」

 勇斗の手をぎゅっと握り締めながら穂波は勇斗の顔を見上げる、その顔はなんだかとても寂しそうに感じる。

「……勇斗さんが東京にいたときは、あたしは函館にいたんです、お互いに勘違いをしていたけれど、でもその時二人は完全に離れていた……」

 今にも涙を流しそうな顔の穂波に対し、勇斗はその動揺を隠すことができないでいる。

「そうしてこの東京の空の元では……あなたの隣にいたのはあたしじゃない……千草さんだったわけで……でも……」

 うつむく穂波の頭をポンと叩きながら勇斗は穂波の背後に見える滑走路を見る。

「そろそろだな」

 その滑走路上からは、その機体に取り付いていた様々な車が離れ、作業員も飛行機から離れており、出発が近い事を物語っていた。

「えっ?」

 穂波はその一言に勇斗の視線を追うように窓の外に視線を向けると、ほぼ同時に外の景色がゆっくりと動き出し、機内にはキャビンアテンダントから様々な注意が流れ始める。

「もうまもなく離陸する……東京を後にするんだ」

 勇斗の台詞を実現するように、その機体は徐々に速度を上げ始める。

「――この前ここを出発する俺の気持ちは、完全に負け犬だった、東京で何もできずに自分の生まれ故郷……函館に帰る自分に対して情けない気持ちで一杯だった。でも、向こうに帰ったらどうだ、お前がいて、和也や夏穂ちゃん、一葉さんが一生懸命に俺の生まれた場所を守っていてくれた」

 勇斗のその台詞を理解しようと一所懸命に聞いているのであろう、穂波の表情は真剣に勇斗の横顔を眺めている。

「俺は、そんなみんなの気持ちを危うく踏みにじるところだった、だから今の状況は親父や、神様に感謝するよ」

「勇斗さん……」

「俺がこんな事を言えた義理ではないかもしれないけれど」

 機体が滑走を手前で一旦停止する。

「勇斗さん?」

 機内にエンジンの轟音が響きわたり、嫌がおうにも離陸の雰囲気が伝わってくる。

「もうお前とは離れたくない……ずっと俺のそばにいてくれ」

 爆音と共に、二人の体が、座席の背もたれに押し付けられる。

「勇斗さん、それって……」

 来る時はそれに怯えていた穂波だったが、今はそれどころではないのだろう、必死にかかる重力に反抗しながら勇斗の横顔を見つめる。

「……そう受取ってもらっていいと思う……お前次第だけれどな? 俺はそんな事を言える義理ではないけれど……」

 窓から見える景色が斜めになり、グレー色の街並みが徐々に小さくなってゆく。

「そんなことないです……あたしはいつまでだって、あなたのそばにいたいです」

 穂波はそう言いながら勇斗の腕に頭を摺り寄せる、その表情はホッとしたようなそんな表情を浮かべながら目をつぶっている。



=函館の街=

「本当に雪ですね?」

 日が傾きかけた函館空港に降りた飛行機の窓の外には大粒の雪がまだ降り続いており、滑走路の一部はうっすらと雪景色に変わり始めている。

「あぁ……考えてみればもう十一月も終わりだ、来月になればクリスマスや年末もあって忙しくなるな」

 ターンテーブルから荷物を取り上げ、ロビーに出ると観光客らしい姿はちょっと大げさではないかと思うような冬の様相で観光バスに吸い込まれてゆく。

「バスにしますか?」

 バス乗り場に足を向けながら穂波は勇斗に振り向くが、勇斗は首をかしげながらちょっと思案顔を浮かべる。

「うーん、タクシーにしようかな? 親父の所に行って展示会の報告もしないといけないだろうし、それに……」

 穂波の顔を見つめる勇斗の緊張した面持ちに穂波はその意味がちょっと理解できないように首を傾げるが、やがて頷きながらタクシー乗り場に進路を変える。

「そうですね? そうすればちょうどお母さんや和也君、夏穂にお土産をあげる事ができますし一石二鳥ですね?」

 ニコニコ微笑む穂波に対し、勇斗はちょっと苦笑いを浮かべる。

「まぁ、そうともかもしれないけれど……」

 もっと違う報告をしなければいけないんだよな?

 トホホといった顔をする勇斗の隣では、帰ってきた安心感からなのだろうか穂波はさっきから上機嫌で、今にもスキップを踏むのではないのかと思うぐらいだ。

「やっぱり空気が違いますね?」

 到着ロビーから外にでると、それまでいた東京と違って冷たい空気が二人を取り巻き、二人は無意識に首をすくめる。

「やっぱりこっちの空気の方があたしには合っているのかも知れませんね? なんとなくホッとしますよ」

 コートの襟に手をやりながら穂波は勇斗の顔を見上げると、その頬は、寒さのせいなのであろう、りんごのように赤くなっている。

「俺もそうだな? この寒さを忘れていたようだ、久しぶりの冬に慣れないといけないな?」

 五年ぶりに迎える函館の冬、一人であれば身に堪えるであろう寒さも、みんなと一緒であれば楽しく過ごす事ができるであろう。

 勇斗は空から降り続く大粒の雪を見上げる。



「お客さんは内地の人ですか?」

 タクシーに乗り込み走り出すと、気さくなドライバーは穂波に対して声をかけてくる。

「いえ、地元なんですよ……」

 恥ずかしそうに言う穂波は躊躇しながらもその問いに対して答える。

「そうでしたか、垢抜けているから内地の人かと思ったんですけれどね……ということは旦那さんが内地の人とか」

 旦那さんと言うドライバーの一言に対して穂波の頬が一気に赤らむ。

「アッ、いえ……そのぉ……」

「いえ、俺も地元なんですよ、四年ばかり東京に行っていたんですけれどね?」

 モジモジと隣で言葉を選んでいる穂波に変わって、勇斗はそのドライバーの一言を否定も肯定もせずにそう答えると、穂波は慌てたように顔をあげて勇斗の顔を見上げるが、勇斗はそんな事をおかまいないというような表情で穂波にウィンクを飛ばす。

「それでなのかな? 旦那さんが垢抜けているせいで奥さんも垢抜けているんだ、うちのかみさんも俺もそんな都会に行った事ないからなのかなぁ、東京に比べるとこの街なんて田舎でしょ? アハハ!」

 ドライバーは悪びれる様子もなく、車の中で高笑いしながら雪が積もり始めた道を勇斗の告げた行き先に向けてハンドルをさばいてゆく。

「そんなことありませんよ、この街は良い街です、何よりもみんな暖かい人たちばかりですからね、帰ってきてもすぐに受け入れてくれるような……」

 勇斗はそう言いながらうっすらと積もる雪に優しい視線を向ける。



「ただいまぁ」

 西地区にある古い洋館といえば聞こえはいいかもしれない。俺からすれば古臭い建物だが、たまに観光客が家の前で写真を撮ったりしている光景も見たことがある。

「おかぁさん?」

 周囲は既に日が暮れ、明かりのついているその家の中に勇斗と共に穂波が声をかけるが、中から人が出てくる気配がない。

「なんだ? だれもいないのか? 無用心だなぁ」

 憤然とした様子で勇斗は靴を脱ぎ、居間のある方に向けて足を踏み入れると、その居間から夏穂が元気な顔を見せる。

「やっぱりお兄ちゃんだぁ! おかえりぃ〜」

 トトトと音を立てながら夏穂が勇斗に向かって駆けてゆくと、その先からは様々な人間の顔が覗き込んでくる。

「兄貴、お帰り!」

 どことなく嬉しそうな表情の和也だが……なんだか気味が悪いな、お前に『お帰り』と言われる事自体が……。

 上機嫌な和也の顔を勇斗は見るが、その後ろから顔を出した人物によってその意味をすぐに理解することができた。

「勇斗! お帰り〜!」

 言うが早いか、その人物は勇斗の姿を見つけるなりに和也の脇をすり抜けて、嬉しそうにその胸に抱きついてくる。

「ち、千草……なんでお前がここにいるんだよ」

 千草に抱きつかれ動揺する勇斗は、無意識にちらりと隣にいる穂波の顔を見るが、穂波は仕方がないというようにため息をつきながら苦笑いを浮かべている。

「エヘへ、お父さんに招待されたのよ、勇斗たちが帰ってくれば絶対にこっちに来るはずだからって……ウ〜ン、勇斗ぉ〜会いたかったよぉ〜」

 また親父の差し金か……一体あの男は何を考えているんだ?

 呆れ顔を浮かべている勇斗に千草はその胸に顔を摺り寄せ、離れる気はないというぐらいにギュッと抱きついてきているが、やがていつものような穂波の反撃がないことに気が付く。

「――あれ? 穂波ちゃんどうかしたの? いつもなら『だめぇ〜』って噛み付いてくるのに」

 いつもと違う穂波の反応に対して、千草は勇斗に抱きつきながらも怪訝な顔でその顔を覗き込んでいる。

「あっ……いえ別に……」

 その千草に対し、穂波はチラッと勇斗の顔を見ると作ったような微笑を浮かべる。

「あぁ〜、何かあったんでしょ……穂波ちゃんの表情に何となく余裕を感じるわ……勇斗! 正直に言いなさい、穂波ちゃんと何かあったんでしょ!」

 それまで勇斗の肩にかかっていた千草の腕が、にゅっと勇斗の首に伸びる。

「く、苦しいってば! そのつもりで来たんだよ」

 苦しそうに顔をしかめながら言う勇斗の一言に、首に巻きついていた千草の手から力が抜けると、その表情はどことなく覚悟を決めたというようなそんな表情で勇斗の顔を見上げる。



「お帰り、何か得たものはあったか?」

 居間に入ると、ほろ酔い加減の鉄平がニヤリとした表情で勇斗の事を見る。

「あぁ、色々と勉強になったよ……太一さんも親父によろしくって言っていた」

 荷物を置きながら鉄平の対面にドッカリと腰をすえる勇斗は、真剣な表情を崩さないまま鉄平を見据える。

「お帰り穂波」

 キッチンからニコニコ顔でビールを持ちながら居間に入ってくる。

「ただいまお母さん」

 穂波はそう言いながら、勇斗の隣に座る。

「お二人とも、なんだかちょっと雰囲気が変わったみたいですね?」

 穂乃美の後ろからはおつまみを持ちながら一葉が勇斗と穂波の顔を見る、その視線は二人に何があったのかを見抜かれているようなそんな顔で、勇斗は無意識に視線をはずす。

「一葉さんも帰って来ていたんですね?」

 穂波はちょっと驚いた顔をして一葉の事を見ると、一葉は微笑みながら穂波の隣に座りテーブルに置かれたグラスを勇斗に渡す。

「お二人よりちょっと先に帰ってきました」

 一葉は勇斗にビールを注ぎながら、そう言い穂波の隣に腰掛ける。

「確か実家に帰っていたんですよね?」

 注がれたビールを口から迎えにいきながら勇斗はちらりと一葉の顔を見ると、その顔はちょっと恥ずかしそうに微笑む。

「えぇ、ちょっと野暮用という奴ですかね?」

 一葉のその様子に、千草が食いつくように顔を覗き込ませる。

「もしかして、お見合いとかだったりしてぇ〜」

 意地悪く言う千草に対してそれを否定しきらないように一葉が微笑むと、穂波が珍しくその表情に気が付く。

「まさか、一葉さん本当に……」

 驚いた表情をう影ながら両手を頬に当てる穂波に対して一葉は珍しく戸惑ったような表情を浮かべる。

「違うのよ、親がどうしても一度ぐらいは帰って顔を出せってうるさいし、兄貴までこっちに出張ついでに顔を見せに来るしで……、いい機会だからちょっと顔を出したらいつの間にかそんな話になっていたんです。まぁ、事前に兄貴からその話を聞いていたから、予備知識をもって挑むことが出来たから良かったんですけれど……」

 穂波のそんな表情に一葉は慌てて手を振り、その事を全身で否定し両手を肩の高さまで上げ、あからさまに嫌そうな顔をする。

「という事は断ったんですか?」

 勇斗の一言に、一葉はちょっと頬を赤らめながら上目遣いでその顔を見る。

「まだはっきりとはじゃないですけれど……でも断る気でいます」

 まっすぐに勇斗の目を見ながら一葉ははっきりと言い切るその様子に、穂波が動揺した様子を見せる。

「あの、一葉さん?」

 そんな穂波に対して、一葉は慌てて手を振るがその目は真剣に否定をしきっていないようにも見える。

「あは、そんなに心配しないでいいわよ穂波ちゃん……別にどうという訳じゃないから、ただ、あたしは自分の気持ちに素直になりたいだけですから」

 一葉はそう言いながら意地の悪いウィンクを穂波に向ける。

「って、もしかして、この間ベイで一葉さんと一緒に歩いていたのはもしかして一葉さんのお兄さんだったのかしら?」

 千草はそう言いながら、一葉の顔を申し訳無さそうな表情で見ると、その一葉はわざとらしく頬を膨らませながらその千草の顔を睨みつける。

「あら? 見られていたんですかぁ……というよりも、一体どんな勘違いをしていたんですかねぇ? 千草さん、あれはあたしの兄貴です」

 怒ったような表情を浮かべる一葉に対して千草はちょっと考えたような表情を浮かべながら、やがて一葉につかみかかるように顔を近づける。

「一葉さん、お兄さんっていくつなんですか?」

 そんな勢いに気おされたような表情になり、一葉はまるで助けを請うような顔で勇斗と穂波の顔を見るが、その二人も呆気にとられたような顔でその様子を見ている。

「兄貴ですか? 確か来年で二十八になると思いましたが……」

 渋々と答える一葉の一言に、千草はグッと親指を立てると勇斗はやれやれという顔をして手で顔を覆う。

「それならのーぽろぶれむ! あたしよりも五歳年上という事ね? 問題ないじゃない、一葉さん、お兄さんはどんな仕事をしているの?」

 千草さん、君のお尻に大きな尻尾が見えるような気がするよ……はちきれんばかりに大きく振っている尻尾がね?

 苦笑いを浮かべて千草の事を見ている勇斗の隣で、穂波は怪訝な表情を浮かべながら勇斗の顔を見上げる。

「勇斗さん、一体……?」

 穂波の疑問に対して勇斗は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「よほどの色男だったんだろうよ、まぁ確かに一葉さんのお兄さんならば、大体の想像はつくけれどね?」

 勇斗の一言に、穂波は納得したように頷き、執拗な千草の質問に苦慮している一葉の事を見つめるが、やがて何かに気がついたように再び勇斗の顔を見上げる。

「でも、千草さんってそんなタイプには思えないんですけれど……勇斗さん一筋という感じだったんですけれど……」

 穂波に一言に勇斗のビールに伸びていた手がピタッと手を止める。

 言われてみればそうだよな? 見た目はどうであれ、千草はそんな尻軽な女じゃないと思う。手前味噌かもしれないけれど、いつだって俺にべったりとくっついていて他の男にうつつを抜かす様なタイプではなかったはずだ……なんでだ?

 勇斗は首をかしげながら、一葉に詰め寄る千草の事を見ると、その視線がちょうど勇斗の事を見た千草とぶつかり合う。

「どうかしたの勇斗?」

 じっと見つめる勇斗に対して千草は首をかしげる。

「いや、別になんでもないよ……」

 少し歯切れの悪い言い方をする勇斗に対して、何かに気がついたように千草の顔が徐々に意地の悪いものに変わってゆく。

「勇斗ぉ〜、やきもち妬いているの?」

 千草はそう言いながら勇斗の顔を覗き込む。

「ち、違うよ……ただ、千草がそういうのが珍しいかなって思ってだ……」

 しどろもどろになりつつある勇斗はそう返すが、百戦錬磨のような千草はニヤリと微笑む。

「あら? 意外な発言ね? あたしってこう見えても結構面食いなのよ? あたしの見た一葉さんのお兄さんは間違いなくいい男だった!」

 こぶしをぎゅっと握り締めながら断言する千草に対して勇斗は苦笑いを浮かべ、再び一葉に詰め寄る千草を見つめる。

 ちょっと気が楽になったかな?

 無意識に勇斗の心の中にそんな気が湧き上がってくる。

 

「――勇斗」

 訳がわからず、いつの間にか宴会に参加させられた勇斗に対して、すっかり酔った顔の鉄平が声をかけてくる。

「なんだ?」

 疲れ果てているにもかかわらず、こんな宴会に参加している自分もどうかと思うけれども、なんとなく席を立つ機会を失っているなぁ……。

 目の前にあるビールに手を伸ばしつつ、勇斗は鉄平の顔を見るが、その表情はいつものように冷やかすようなかと違い、どちらかというとビジネスモードのような顔をしていた。

「お店が忙しくって、人手が欲しいといっていたよな?」

 以前勇斗がこぼすように言っていた事を鉄平は覚えていたのか、その事を話し出す。

「あぁ、前みたいに午前中は暇という事が少なくなってきたからな? 真央ちゃんのおかげもあるかもしれないけれど、コンスタントにお客は来てくれているし、やっぱりそれに対応するには人出が足りないかもしれない」

 真剣な鉄平の意見に対して、勇斗も真剣な表情で答える。

「そうか……少し時間をくれ、何とか対処するようにする、それまで何とか穂波ちゃんと二人でやっていてくれ」

 鉄平はそう言いながら、日本酒の入ったお猪口を口に含む。

「……親父、それに穂乃美さん……いや、お母さん」

 勇斗は鉄平と、その隣に座っていた穂乃美の顔をまっすぐに見据える。

「何だ、真剣な顔をして」

 雰囲気を汲み取ったのか、鉄平もその視線を正面から受け止め、隣の穂乃美も嬉しそうな顔をしながらも、ちょっと緊張したような面持ちになっている。

「実は、お願いがあるんだ……」

 勇斗は背筋を伸ばすようにきちんと座りなおし真剣な表情になると、隣に座る穂波も緊張した面持ちになりながら同じように座りなおす。周囲で騒いでいる千草たちもその雰囲気に気がついたのかそれまで騒ぎ立てていた声がピタリと止まる。

「何だ……」

 一気に重苦しい雰囲気になった有川家の居間の中に、鉄平の低い声がまるで響き渡るように聞こえ、どこからともなく息を呑む声がする。

「ウン……実は……」

 勇斗はそう言いながら隣で緊張した顔をしている穂波の顔を見て、小刻みに震えているその手を握るが、涼しいにもかかわらず勇斗のその手だけは汗ばんでいる。

「勇斗さん」

 これから勇斗が何を言おうとしているのか察した穂波は緊張した表情を浮かべ、それ以外の言葉を言えないかのように口を開く。

「俺は……穂波と籍をいれようと思っている」

 その一言に和也は目を丸くして、夏穂は訳がわからないのであろう首をかしげている。

「穂波を嫁にしたい……妹ではなく、穂波の事を『俺の嫁』と紹介したい、いろいろと問題もあるかもしれないけれど、でも、ここではっきりさせたいんだ、穂波は俺の妹ではなく俺の恋人であり、そして俺の嫁になる人間だという事を」

 一葉はそんな勇斗の事を頼もしそうに見つめ、千草はやれやれというような微笑を浮かべて見つめている。

「高校時代からそうだったんだ、いつも穂波は俺の事を助けてくれた。いつだって俺の事を裏から見守ってくれていた、だから、これからも俺には穂波が近くにいてくれなくっちゃいけないんだ、それは兄妹という間柄ではいけない……」

 目をつぶりながら鉄平は勇斗の言葉を噛み締めるように聴いており、穂乃美は目を潤ませながらうなずき穂波の顔を見つめている。

「だから……俺は穂波を嫁にしたい……一生一緒に穂波といたいんだ」

 穂波の手が勇斗の手をギュッと握り返し、勇斗がその顔を見ると、その穂波の目からは涙が溢れていた。

「ゆぅとさぁん……グズ」

 涙声で、いまいち言葉にならない穂波は、そう言いながら勇斗の胸におでこをすり寄せる。

「穂波、いいかな? 俺みたいなダメな奴でも……」

「ダメなわけない、あたしはいつまでも勇斗さんの隣にいる、だって……だって……あたしはこんなに勇斗さんの事が好きなんだから!」

 勇斗の顔を見上げる穂波の顔は止め処もなくあふれる涙を拭うことなく、その瞳は一点に勇斗の顔を見つめていた。

「…………」

 その場にいた全員の視線がさっきから黙っている鉄平に向けられる。

「……鉄平さん」

 隣にいる穂乃美が心配そうに鉄平の顔を見つめるがいつものような軽い反応がない。

 親父……やっぱりダメなのか? 義理とはいえ兄妹が結婚するという事が世間体的にあまりいいイメージがもたれないということは百も承知している。でも、俺は……。

 勇斗はその沈黙に耐えられないように、肩を落とす。

「……やっとその気になったのか、いつになったら言い出すかと思っていたんだが、相変わらず決断力のない奴だ」

 力なくうなだれていた勇斗は、そんな鉄平の言葉が届いていないのか、その嫌味のこもった言葉にすばやく反応する事はなかった。

「勇斗さん!」

 穂波の弾むような声が耳元で聞こえ、やっと鉄平の言っていた意味を理解する事が出来て、力なく顔をあげると、さっきまで鉄平に向いていたみんなの視線が今度は自分に向いていることに気がつく。その視線はすべて優しいものだ。

「――エッ?」

 呆けた顔をしている勇斗の視線に飛び込んできたのは、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている鉄平の顔と、微笑みながら目じりの涙を拭っている穂乃美の顔だった。

「勇斗さん、娘を……穂波をこれからもよろしくね?」

 その一言に隣にいた穂波が勇斗の腕に抱きついてくる。

「は、はい……エッと……よろしくお願いいたします」

 勇斗はそれまでの落胆した気持ちからなかなか這い出す事ができずに、ただ、その経緯に身を任せているような感じがしていた。

 もしかして認めてくれたのか親父?

 キョトンとしている勇斗に対し、千草が声をかけてくる。

「勇斗、やっと言ったわね?」

 千草はそう言いながら勇斗の鼻先に人差し指を置く。しかしその目は赤く充血していた。

「千草……その……」

 申し訳ない気持ちが勇斗の中に湧き上がってゆく、その気持ちは穂波も同じなのであろう、勇斗の隣でシュンとした表情でうなだれている。

 俺がはっきりしなかった為に一番酷い目にあったのが千草だ、俺はこの娘に対してどうやって償えばいいんだろう、もしかしたら彼女の人生を狂わせてしまったかも知れない。

「ウフフ、勇斗そんな顔をしないでよ」

 酷く情けない顔をしている勇斗に対して千草は優しい笑みを浮かべながら勇斗の予想していたのとは違う反応を返してくる。

「前にも言ったと思うけれど、あたしがこっちに来たのはこんなみんながいるからなの、こんな暖かい人たちがいるからあたしはこの函館という街に来たの、だから気にする事なんてないわ、それにお店も順調だし、結構今の生活に満足していたりして……後は、いい男でもいれば言う事ないんだけれどね?」

 千草はそう言うとウィンクしながら穂波の顔を一瞥する。

「千草さん……」

 穂波は眼で千草に対し会釈し、千草もそれに応える様にうなずく。

「さてと、夜も遅くなってきたし、明日もお仕事だから、あたし帰りますね?」

 千草はそう言いながら席を立つと、それに応じたように和也も席を立つ。

「千草さん、俺送って行きます」

 和也の申し出に、千草はニッコリと微笑む。

「そう? じゃあお願いしようかしら? ナイトの和也君」

 和也はその意見に飛び跳ねるように喜び勇みながら玄関に向かってゆき、千草はそれに微笑みながらついて行く。

「千草さん……」

 その背中に穂波が声をかけると、振り向かないまま千草は背中を向けたまま軽く手を上げる、その様子はまるで穂波に対して『まいった』という意思表示をしているようだった。

第十話へ