coffeeの香り

第十六話 別れ……



=決意 taichi=

「部長……以前からのお話……お受けします」

 その台詞に太一の目の前に座っている森山は笑顔をほころばせる。

「やっとその気になってくれたか! うん、よかった……」

 森山はウンウンとうなずきながら太一を見るが、その太一の顔には笑顔がない。

「……失礼します」

 太一はそう言いながら森山に背を向け、会議室を後にする。

 ……ついに決めてしまった……。

 給湯室前にある喫煙所で立ち止まり、太一はタバコに火をつける。

「フゥ……」

 太一の吐いた紫煙は空気清浄機の威力を図るかのように灰皿についているその機械に吸い込まれる。

「太一課長、どうかしたんですか?」

 太一がその煙の行き先をボォッと眺めていると給湯室の方からいきなり声をかけられる。

「ん? アァ真菜ちゃんかぁ、ちょっとね……そうだ、お茶もらえるかな」

 太一がそういうと真菜の顔に笑顔が溢れる。

「コーヒーでいいですよね? エヘ、最近美味しい入れ方を覚えたんです」

 真菜はそう言い太一の返事も聞かずに再び給湯室に消えてゆく。



「あれ? こちらでお飲みになるんですか?」

 五分も待たなかっただろう、真菜は湯気を湛えたコーヒーカップをお盆にのせて給湯室から姿を現し、太一の顔を見る。

「あぁ、ここのほうがゆっくりと出来るからね」

 太一はニッコリと微笑みながら喫煙所から見える景色を眺める。そこから見えるのは函館一の繁華街といって良いだろう、本町の街並みが見え、市電と車が入り乱れ、今にもその雑踏が聞こえてきそうな光景だ。

「エヘ、そんなことを言っているとまた暁子係長に怒られますよ? 『太一どこでサボっていたの!』って、ウフフ」

 真菜は微笑みながら太一の顔を覗き込む。

「ハハ、そうだな……」

 太一は曖昧な笑顔を浮かべながら完成に近づいた『新五稜郭タワー』を眺めコーヒーを口に含む。その様子を真菜は心配そうな表情で見ている。

「おっ! これは美味いなぁ……」

 太一がそう言いながら笑顔で真菜を見ると、真菜の表情は弾けた様に明るくなる。

「でしょ! 家で結構勉強したんです、美味しいコーヒーの入れ方とか読んで、最近ではあたしもすっかりコーヒー党になりました」

 ハハ、これは嬉しい援軍だな。

 太一は嬉しそうにお盆を抱える真菜の顔を見つめる。

 確か、初めて彼女に会ったのもここだったよな? 彼女にコーヒーを入れてあげた記憶がある、そして今では彼女に入れてもらうようになるとはな……。

「ん? 太一課長どうかしましたか?」

 思わず真菜を見つめている太一に対して真菜はちょっと頬を赤らめながら首をかしげる。

「……わりぃ、ちょっと思い出してね、確か真菜ちゃんがはじめて出社したとき、コーヒーを入れてあげたっけなぁって」

 なんだかずいぶん前のような気がするけれど、今年の春だったよな。

「ハイ! あの時のあのコーヒーの味は忘れません」

 真菜はニッコリと微笑みながら太一を見る。

「お世辞でも嬉しいね、今度はもっと美味しいコーヒーを飲ませてあげるよ」

 太一もその一言に嬉しくなる。

「ハイ! 期待していますよぉ、あっ、そろそろ戻りますね」

 真菜は慌てたように腕時計を見る。

「あぁ、俺はもうちょっとここにいるよ……あっ、真菜ちゃん」

 太一の呼びかけに真菜はきょとんとした顔で太一に振り返る。

「ハイ?」

 首をかしげる真菜に太一は微笑む。

「……暁子には内緒にしておいてくれ、サボっていると怒られるから、頼むよ」

 太一は真菜を拝むようにして手を合わせる。

「クス、わかりました、内緒にしておきますから、早く帰ってきてくださいね?」

 真菜は何が笑いを浮かべながら太一の顔を見て、踵を返す。

 ホント、最近慣れてきたよな真菜ちゃん、俺の受持っていた得意先もある程度まで引き継いだし、もう大丈夫だろう。

 太一は再びコーヒーに口をつけながら再び外を眺めるその視線の先には二つの塔、現役の五稜郭タワーと、新五稜郭タワーが並んで見える、こうやって並んでいる姿を見られるのはあとわずかであろう。

 いつかは登ってみたいな、新五稜郭タワー、五稜郭が星型に見えるみたいだし、あれが出来ればきっとがっかりする観光客も減るだろう。

 太一はタバコの火を消してカップに残っていたコーヒーを一気に飲む。



「お先に失礼します」

 真菜がペコリと頭を下げて部屋を出て行くと残ったのは太一と暁子の二人だけ、それはいつもと同じメンバーだ。

「さて、あたしもこれぐらいにしておこうかな? 太一、何か手伝う事ある?」

 暁子は大きく伸びをしながら太一の顔を見る。

「いや、大丈夫だ、俺も終わらせるよ」

 太一もそう言いながらパソコンの電源を落とす作業に入る。

「……今日はいくらか早く終わったわね、週末いつもこの時間に終わってくれると助かるのよねぇ……、これから寒くなると特にそう思うわ」

 暁子はそう言いながら苦笑いを浮かべ太一を見る。

「確かにそうかも知れないな? ……なぁ、暁子……」

 太一は伸びをしてそのまま万歳の状態で暁子に声をかける。

「ん? どした?」

 その格好を見て暁子は呆れたような微笑を浮かべる。

「……その、今日ちょっと行かないか?」

 お猪口を傾ける仕草をする太一に暁子は驚いた顔をしている。

「珍しいわねぇ……というよりも初めてじゃない? 太一があたしを誘うなんて」

 暁子は意地の悪い顔をしながらも照れたように頬を赤らめている。

「そうかもしれないな……前科があるもので、特定の女の子を誘う勇気がなかったよ」

 そうだ、美奈の件があったから函館に来てから女の子と二人きりで飲みに行くことなどなかったよな。

「だったらあたしならいいのかしら?」

 暁子はそう言いながら意地の悪い顔を太一に向けるが、その表情の中には少し嬉しい表情が混じっている。

「いや、そんなことはないよ……むしろ……」

 太一はそこまで言いながら言葉を濁す。

「ウフまぁいいわ、今着替えてくるからちょっと待っていて」

 暁子はそう言いながら小物の入ったポーチを持ちながら部屋を出て行く。その後姿はどことなく嬉しそうだった。



=異動? akiko=

「乾杯!」

 本町にある行きつけのスナックで暁子と太一はグラスを合わせる。

「ふぅ〜……旨いなぁ」

 太一はビールを一気にあおりニッコリと微笑む。

「うふ、やっぱり太一はノンベね? 今幸せそうな顔をしていたわよ」

 暁子が意地悪な顔で太一の顔を覗き込むと太一も苦笑いを浮かべる。

「はは、仕事が終わって飲むビールが一番だよ……さてと、次は何にしようかな? 水割りにしようかな」

 太一はそう言いながら目の前にあるメニューを見る。

「何よ、完全に飲むモードになっているじゃない……あっ、あたしカンパリソーダ」

 ウフフ、なんだか太一と二人きりで飲むだけでも嬉しいかも……あたしって単純?

「何だよ、暁子だってそうじゃないか」

 苦笑いを浮かべながら太一はバーテンにオーダーを入れる。

「エヘへ、飲みつぶれたら太一に送ってもらおうかな?」

 暁子はそういいながらグラスに残っているビールを飲む。

 半分冗談、半分本気だったりして……太一に送ってもらうんだったら嫌な気はしない。

「はは、送り狼になっちゃうかもよ?」

 太一はおどけるように暁子に言うと、暁子の微笑みながらそれをあしらう。

「ヘヘ、できるもんならやってみなさい、返り討ちにしてくれる」

 暁子はそう言いながら太一に対して舌を出しおどける。

 本当に楽しいなぁ、他のみんなには申し訳ないけれど、今日の太一はあたし一人で独占しちゃうわね?

 一瞬三課のメンバーが頭によぎる、みんな太一と一緒に飲みに行くのが好きなメンバーだ、きっとこれだけ人気のある上司というのも珍しいだろう、普通ならば部下は上司と一緒に飲みに行きたくないものだが、みんな折が会うと太一を一番に誘う、三課だけではなく最近は一課や総務からもお声がかかるらしい。

「はぁ、久しぶりかもしれないなぁ。こうやって心から楽しくお酒を飲めるのなんて」

 太一の一言が暁子の心をくすぐる。

「そうなの? いつも飲みに行くと太一も楽しそうに飲んでいるからあたしてっきり楽しんでいるものだとばかり思っていたわ」

 暁子は驚いた表情を浮かべながら太一の顔を見つめる。

「ハハハ! そうでもないよ、結構気を使って飲んでいるんだよ……馬鹿ばかりやっていてみんなに変な顔されるのも困るしね? 特に女の子には気を使うよ」

 ウィンクをしながら太一はそういい暁子の顔を見る。

 ドキ! 何なの、今の太一の落ち着いた笑顔は……今日の太一はなんだかいつもと違う、なんだろうこの感じ、楽しい中にもちょっと緊張感があるような……。

 暁子は頬を赤らめながらうつむく。

「だ、だったら今日は気を使っていないのかしら?」

 暁子はそう言いながら上目遣いに太一の顔を見ると、その太一は楽しそうに笑う。

「違った意味で気を使っているかもしれないなぁ、暁子も女の子だし、こんな男と噂になったら困るだろ? だから、会社の奴がいないかこうキョロキョロと……」

太一はおどけたように周囲を見回す。

「そうかもね、太一と噂になんてなったら、何人の女の子に恨まれるか……」

 暁子も舌を出しながら太一のことを見る。

「エッ! そんなに俺って人気あるの?」

 太一は身を乗り出して暁子の事を見る。

 これだから男って……。

「そんなわけないでしょ? 女の子に人気があるのはあ・た・し」

 暁子はそう言いながら自分の胸に親指を向けてシレッとした顔をする。

「なんだぁ……ちぇっ」

 太一は残念そうに舌打ちをして目の前に置かれた水割りのグラスを傾ける。

 うふ、うそよ、何人あなたの事を慕っている娘がいるか分からないぐらいなんだから。

 暁子は心の中でこっそりと舌を出す。



「ふぅ〜」

 程よく酔ってきたわね? あまり飲むとつぶれてしまうかも。

 暁子は頬が熱を持つことを感じ、飲むスピードを落とすが、隣にいる太一は一向にスピードを落とす気配がない。

「ちょっと、太一飲み過ぎじゃないの?」

 暁子は心配になり太一の顔を覗き込むが、その顔色はまったく平然としている。

「ん、酔わないんだよね……なんだか今日は……」

 太一はちょっと諦めにも似たような表情を浮かべる。

「……何があったの? 部長と話をしてから様子がおかしいようだけれど」

 そう、部長と会議室に行ってから太一の様子はいつもと違っていた……正確に言えば周りには分からない些細なことなのだろうけれど、でもあたしの目から見れば明らかに違う。

「そうか? 変わらんと思うがな……って、暁子が相手じゃ分かるかぁ」

 太一はちょっと嬉しそうな表情を浮かべながら暁子の顔を見る。

「分かるわよ……教えてもらえる?」

 暁子は太一の方を向き真剣な表情を浮かべる。

 あなたのそんな顔をしているのははじめて見た……一体何があったの?

 そういう暁子に太一はふっとため息をつきながら、暁子の顔を見つめる。

「……あぁ、実は……」

 ごくりと息を飲む音がしそう、周りは賑やかなのに、あたしと太一の周りだけがまるで隔離されたように静かな気がする。

 暁子の額には得体の知れない汗が流れてくる。

「…………東京に帰ることになった」

「!」

 一瞬暁子の目の前が真っ白になる。

 なに? 今あなたはなんていったの?

 パクパクと暁子は口を動かすものの言葉が出てこない、隣ではそう言った太一がグラスに視線を落としている。

「知っているだろ? 来年から新しくできる部署のこと……」

 太一は淡々と話を進めるが暁子は心中穏やかではなくグラスに残っていたお酒を飲み干し、動揺を収めようとする。

「……新しい部署って『店舗コンサルンティング室』のこと?」

 やっと口が聞けるようになったのはこんな仕事のことだった。

 店舗コンサルティング室……自社直営のお店のコンサルティングだけではなく、一般のお店の相談に乗る部署が新しくできるという事は以前の会議で知っていた、でも違う、あたしの本当に聞きたいことは違うの!

「……ウン」

 太一は申し訳なさそうにうなずく、そんな太一の様子を見ているのが暁子には徐々に苦痛になってくる。

「店舗マネージャーの資格を持っている俺に白羽の矢が立ったということだ、夏ぐらいからかな、森山部長から言われていたんだが、今日その話を受けた」

 太一は淡々と話す。

「……三課は?」

 既に暁子の声は涙声になっている。

「……」

 太一は沈痛な面持ちでグラスを見つめている。

 太一の気持ちは痛いほどよくわかる、三課をここまで育て上げた自負もあるだろう、でも、聞かずにはいられない。

「三課は、川村課長に任せる……奴なら大丈夫だ」

 そう言いながらも太一の表情が晴れる事はない。

「川村課長が……」

 暁子はそう呟きながらグラスに視線を落とす。

 川村課長はあたしが一課にいたときからあたしの上司としてやっていた、尊敬できる上司だし、三課が川村課長の元でやる事には反対はしない、むしろ嬉しいぐらい、でも……。

「……太一は東京に行ってしまうのね?」

 手元にあったおしぼりを無意識に握り締める。

 いやだ、涙がこぼれ落ちてくる。

 既に暁子の両目からは大粒の涙がこぼれ落ちている。

「暁子……わりぃ……俺、やっぱり泉美の近くにいてやりたいんだ……」

 太一はそう言いながら暁子に頭を下げる。

 わかっているよ……泉美ちゃんの近くにいてあげるほうがあたしだってベストだと思っているし、あたしは賛成。でも、この気持ちは一体何なの? あたしは彼のことを尊敬の目で見ていたのではないの?

 しきりに自問自答する暁子だったが、やがて微笑がこぼれる。

 うふ……なに言っているんだろう、あたし……そんなこと考えていたの?

 その微笑に太一が首をかしげる。

「暁子? どうかしたのか?」

 その太一に暁子は微笑んだまま口を開く。

「エヘ、あたしってば馬鹿よね?」

 暁子はそういいながら太一のわき腹を小突く。

「な、何だよ」

 太一は少し頬を膨らませるもののちょっとほっとしたような表情を浮かべている。

「うふ……あたしね……あたし……太一の事が好き……上司とか、同僚としてとかではなく、一個人としてあなたのことが好き……」

 暁子のその台詞に太一の目がまん丸になる。

「……酔っているわけじゃないわよ、今気が付いたのよ……あなたに対する気持ちは憧れでも尊敬でもない……あなたが好き……ただそれだけ」

 情けないなぁ……あなたがいなくなる事が分かったときに気が付くんだもん……本当に間が悪いわよね。

 コツン……暁子は苦笑いを浮かべながら太一の肩にもたれかかり、太一の顔を見上げる、しかしその両目からは涙が途絶えることはなかった。

「暁子……」

「太一!」

 暁子は太一に抱きつく。

 周囲の目なんて気にしていられない、今あたしはあなたのその胸に顔をうずめていたい。

「……暁子」

 太一はそういいながら暁子の頭を優しく撫ぜる。

「……太一、ひとつわがまま言っても良いかな」

 暁子は顔を上げ、太一の顔を正面から見る。

「今晩太一の部屋に泊めて……」

 暁子は太一の目をまっすぐに見据えながらそういう。

「……暁子」

 二人は無言のままで店を後にする。

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