coffeeの香り

第九話 真菜の思い



=体温計 mana=

「そうしたら、直也君は資料の得意先を今日廻ってもらうわね?」

 朝のミーティング、いつも進行役の太一課長の場所には暁子係長が立って、みんなに指示を出すが、内容はまるで太一課長から聞いているようだった。

「それと、今日から始める『太一当番』は、真菜ちゃんからお願いするわね?」

 はは……『太一当番』って……。

「はい」

 真菜は、昨日の太一の様子を思い出しながら微笑む。

 しばらくは無理かな? でもあんまり無理をさせてもいけないし、今日は腕によりを掛けてスタミナ料理でも作ろうかしら?

「うん、ごめんね? 本当はあたしが行こうと思ったんだけれど、今朝になって急にお客が来るっていうから……とりあえずメモしておいたから、それを用意して持っていって、あたしも来客が終わったら行くようにするから、そうしたら交代しようね?」

 別に交代しなくってもいいんだけれど……一日中でもお世話してもかまわないよ、あたし的には。

「……とりあえずなんだからね? 真菜ちゃん、あなたにだってお客さんいるんだし、それを放っておく訳にはいかないでしょ、なるべく早めにあたしも行くようにするから、そうしたら交代しましょう、それまでちょっと頑張っていてね? 後はあたしがやるから」

 なんとなく暁子係長の視線が厳しかったように感じるけれど……でも……。

「わかっています、今日はとりあえず体温計を買って行きます!」

 真菜の口調もちょっときつくなっているのはお互い気のせいなのだろうか?

「た、体温計? って、何で?」

 直也が驚いた様子で暁子の顔を見る。

「ウフ、なるほどねぇ……」

 みゆきの意味深な微笑。

「絵里香はあさって行きます、真島課長にそう言っておいて下さい」

 花粉症なのか、いつも以上に鼻声の絵里香は真菜にそう言う。

「……とりあえず、これがメモよ、必要そうなのは書き留めておいたわ、必要経費にはならないから後で太一に請求って言う形になるわね?」

 暁子は苦笑いを浮かべながら真菜にそのメモを渡す。

「これ……すごいかも」

 メモと言うよりは既にレポートというような量のそれには事細かに書いてあり、必要なものもこれ以上ないだろうというものばかり書かれている。

「まぁ、ちょっとだけれど取り急ぎ書いたものだから……後、真菜ちゃんの気がついたものもあったらそれもお願いね?」

 暁子はそう言いながら自分のデスクに戻っていく。

 ちょっとじゃないだろうな、このメモの量はきっと必死に考えたものなんだろうな? 暁子係長はやっぱり太一課長のことが……なのかなぁ。

 真菜はそのメモと暁子の横顔を見ながらそう考える。



「とりあえず、体温計と……」

 考えてみれば体温計なんて買った記憶がないなぁ、気がついたら家にあるアイテムよね? そのアイテムが無いというのは太一課長らしいというか……。

 会社からまず向かったのは薬局だった、そこで体温計と、風邪薬を買うが、暁子メモには『あまり熱があるようならば医者に連れて行くように』と書かれている。

 確かに昨日の様子じゃあかなり熱があるでしょうね?



「太一課長?」

 アパートに着き部屋をノックするが応答が無い。

 医者にでも行っているのかしら? まさか倒れていたりして……。

 真菜は自分で出した疑念に対して首を大きく振り、昨日渡された合鍵を扉に差し込む。

「太一課長?」

 扉をそっと開け部屋の内部をのぞくが見える範囲には太一の姿は見えず、台所にあるテレビだけがついている。

 出かけているわけではなさそうね……まさか本当に急に具合が悪くなって倒れたんじゃ……。

「太一課長!」

 真菜は、飛び込むように部屋に入り込むが、やはり太一の姿は見えない。

 ザァー……。

 風呂場のほうからシャワーの音であろうか、水の流れる音がする。

 お風呂場でよく具合が悪くなって倒れるってよくあること……まさか!

「太一課長!」

 お風呂場に勢い良く飛び込む真菜の視線の先には上半身裸になっている太一の姿。

「ん?」

 水音で聞こえないのか太一は誰かが来た様な雰囲気だけで顔を上げる。

「きゃ! ご、ごめんなさい!」

 思わぬ半裸状態の太一を見て真菜は顔を赤らめ背を向ける。

「あぁ、真菜ちゃんか? ゴメン、汗かいて気持ち悪かったからちょっと体拭いていたんだ」

 真っ赤な顔をしている真菜に対し太一はタオルで顔を拭きながら笑顔を見せる。

 風呂場から出てきた太一課長の様子は昨日と同じ……ウウン、むしろ悪くなっているかもしれない、視点が定まっていないような目は熱を帯びているよう。

「すみません、あたしこそいきなり入り込んで……」

 真菜のまぶたにはさっき見た太一の姿が焼き付いている。

 結構がっしりしたタイプなのね? 見た目は線が細そうに感じるけれど、胸板は厚い感じって……やだ、あたしなに思い出しているんだろう……恥ずかしいなぁ。

 真菜は顔を真っ赤にしてうつむくが、太一はそんな様子をぼんやりと見ているだけだった。

「そ、そうです、体温計を買ってきました、測ってください」

 頬に赤みを残しながら買ってきた体温計を太一に渡すと、太一は面倒くさそうにそれを脇の下に入れる。

「太一課長、朝はちゃんと食べました?」

 昨日作ったお粥の残りがあったはずだけれど、それに手をつけた形跡は無い。

「いや、今さっきまで寝ていたから……ゴメン、みんな仕事だったね」

 今の時間は十一時、朝というよりもお昼といってもおかしくない時間だ。

「いいえ、疲れているんですね? ゆっくり休んだほうがいいです」

 真菜は、テーブルの上におかれていたグラスを片付けながら周囲を見渡す。

 女っけの無い部屋……独身男性の典型的な部屋といっても過言ではないかもしれないわね? 洒落た小物が置いてあるわけでもないし……ホント、もう少し女の香りのする部屋だと思っていたからむしろ拍子抜けしちゃったかも。

「ありゃりゃぁ……」

 真菜が部屋を見渡して苦笑いを浮かべていると太一の声が聞こえてくる。

「どうでしたか?」

 振り向くとそこにはやはり苦笑いを浮かべていた太一が体温計を見つめている。

「ん? 大丈夫だよ……ハハ……アハハ」

 怪しい……なんだか隠しているような素振りかも……。

「太一課長、ちょっと見せてもらえますか?」

 真菜がそう言うと太一は力なく首を振る。まるでイヤイヤをする子供のよう。

「大丈夫だよ……」

 まるで体温計を隠すように太一は身をよじる。

「課長、子供じゃないんだからぁ」

 体温計を取ろうと太一の腕を持つ。

「エッ?」

 その腕の温度は通常の体温とは違いが明らかなほどに熱い、まるで、湯たんぽを触っているかのようだった。

「太一課長、全然大丈夫じゃないですよ……こんな熱くって……」

 そして太一の手に持たれていた体温計の水銀柱を見てさらに驚く。

「駄目! すぐにお医者さん行きましょう、保険証はどこですか?」

 真菜の目がつりあがる。

 こんな体温尋常な値じゃないわよ、すぐにお医者さんに行かないと……もしかしてそのまま入院なんかになったらどうすればいいのかな?

 真菜の頭の中にはさまざまな憶測が流れる。

「でも……」

「デモもストライキもありません! すぐに行くんです、着替えて!」

 まだ、決心がつかないような表情を浮かべていた太一に向かい鬼のような形相で真菜はピシャリと言い切り、携帯を取り出す。

「暁子係長は今頃来客中だろうし……哀ちゃんならこのあたりの病院知っているかな? 詳しそうだったし」

 真菜は哀に電話する。

『もしもぉ〜し、どうかしたん?』

 電話の向こうからは能天気な声で哀が対応してくる。どうやら今日は外回りで、今は一人みたいだ。

「哀ちゃん? ゴメンね忙しいところ、実は、ちょっと聞きたいんだけれど……」

 真菜は、切羽詰ったように話し出すと、電話の向こうで哀の息を呑む声がする。

『なんで? なんで太一課長が……それだったら、その近くだと……電車通り沿いにある病院がいいかも、そこは総合病院だから』

 さっきまでの能天気な声と変わって、必死に記憶をフル回転させて哀は近くにある病院の名前をナビゲートする。

「ありがとう、助かったわ」

『ちょっと、真菜、太一課長は……』

 電話をきる際に哀が何か言っていたようだったが、それどころではない真菜は話し終えると一気に携帯を切り、太一が渋々出した保険証を見る。

「あれ?」

 その保険証にちょっと違和感を覚えるが、すぐに太一が顔を見せる。

「真菜ちゃん本当に……」

 ちょうど電話を切ったとき、背後から太一の声がする。

「着替え終わりましたね? はい行きましょう」

 真菜はそう言いながら、太一の背中を押すように部屋を出る。



=central hospital mana=

「昼休みみたいだね?」

 なんだか太一はほっとしたような表情を浮かべながら真菜の顔を見る。

「いえ! こっちに救急外来があります、こっちです!」

 真菜は案内板に書かれているのを見つけそれに従い太一の腕を引く。

「救急って……そんな重症じゃないけれど……」

「いいえ! 重症です!」

 真菜のその勢いに太一はため息をつく。

「ここが受付ですね? スミマセン……」

 受付にいる事務員に事の経緯を話す。

「……はぁ、それで今はどれぐらいですかねぇ」

 どれぐらいって、そんなに何回も体温を測るものじゃないでしょ? 今言ったじゃないのよ! まったく、どうして医者って言うのはこうも理屈っぽいのかしら?

「さっきは三十九度八分でした……」

 真菜は上唇を尖らせながら事務員にあの時に体温計の示した数字を伝える。

「……ずいぶんと高いですね? 今当直の先生を呼びますので、そこでお待ちください」

 事務員は、その数値にさすがに驚いたのか、表情をちょっと変えて部屋の奥に姿を消す。



「今先生来ますので……真島さん、大丈夫ですか?」

 事務員に代わって女性看護師が太一の顔を覗き込む。

「はぁ」

 太一はそういうものの、ぐったりと待合のソファーに身をゆだねている。

「あんまり大丈夫ではなさそうねぇ……」

 看護師はそう言いながら胸ポケットからペンライトを取り出して太一の喉を見たりしている。

「う〜ん……」

 看護師はペンライトをポケットに差しながらちょっと難しい顔をする。

「あのぉ〜……どうでしょうか」

 真菜はその表情にちょっと戸惑いながら声をかける。

「うん、風邪だと思うけれど、かなり喉が赤いわね……大丈夫」

 髪の毛をアップにしたその看護師はニッコリと微笑みながら真菜の顔を見る。

「早田さん、先生見えたから患者さんを……」

 病室から年配の女性看護師が声をかけてくると、早田と呼ばれたその看護師は太一の腕を取り診察室に向かう。



「真島さん?」

 背後からさっきの女性の事務員が真菜の顔を見ている。

 真島さんって……そうか、太一課長の付き添いだからかな?

 真菜はその事務員に顔を向けるとその事務員はにっこりと微笑む。

「アァ、そうです、保険証をお返ししておきますから……」

 事務員はそう言いながら真菜に向かいながらそれを手渡す。

「はぁ、スミマセン……」

 真菜はそう言いながらそれを受け取る。

 あれ?

 真菜はそれを見ながらちょっと違和感を覚える。

「大丈夫よ、お兄さんはきっと良くなるから」

 おっ、お兄さん?

 真菜は目を丸くしてその事務員を見る。

「そう、風邪だと思うけれど、ちょっと熱が高いのが気になるわね? でも、大丈夫だから心配する事はないわよ」

 事務員は励ますように真菜の顔を見つめる。

 はは、勘違いしているよ、この人……でも、お兄さんかぁ、せめて奥さんに勘違いしてくれたら……って、なに考えているんだろうあたし。

 真菜はひとり顔を赤くし、その様子を事務員は怪訝な顔で見つめる。

「はは、ありがとうございます……」

 真菜は、それを否定する気にならず、素直にそれを受け止めるが、手に持たれた保険証を再度見つめ、その違和感の原因を見つける。

「これは?」

 保険所に書かれている住所は函館の住所だった、その文字は、まるで若い女の子が書いたような丸い文字、いわゆる漫画字で書かれている。

 住所は函館になっているわね? ということは太一課長が函館に来てから書かれたと推測される、ここ三年の間に書かれたのね?

 真菜は周りの人物を思い出しながらこの文字を書く人物を予想するが、その人物にHITしない。

 暁子係長の字はこんなに可愛い文字じゃないし、みゆきさんはもっと落ち着いた字だし……絵里香さんは声に似合わずすごい達筆……、一体誰の文字なの?

 真菜の頭の中には得体の知れない第三者の影が浮かび上がる。

 一体誰なの?



=つながらない電話、ひろがる不安 akiko=

「有難うございました」

 エレベーターの扉が閉まり、暁子はほっと息をつく。

「お疲れ様でした、どうでしたか?」

 みゆきはお茶を持ちながら暁子に声をかける。

「うん、ばっちりよ、来月から取引を開始するわ」

 暁子はそう言いながら制服の胸元のリボンをちょっと緩める。

 なんで社内にいるときは制服を着なければいけないんだろう、ちょっと不満なのよね、まぁ可愛いから許せるけれど。

 エンジ色の制服は会社の制服としては比較的可愛い方だと思うが、年を重ねるごとに徐々に似合わなくなってきている様な気がするのは暁子だけなのだろうか。

「暁子係長、昨日太一課長から貰った資料のお店行ってきました、ばっちりです近いうちに詳細を持って来てくれと言われましたよ」

 外回りから帰ってきた直也が嬉しそうに暁子に報告する。

「そう、よかったわね、カタログと販促用のリーフレット用意するように言っておいた方がいいわよ、みゆきさんお願いできるかしら?」

 暁子はそう言いながらみゆきを見ると、みゆきはニッコリと微笑みうなずく。

「さて、真菜ちゃんと代わろうかな? 太一にちょっと聞きたいこともあるし」

 いい訳っぽいかな? でも事実太一に聞いておきたい事もあるし、真菜ちゃんもお客さんの所に行ってもらわないと仕事がおろそかになっちゃうし。

 暁子は携帯を取り出して真菜の携帯に電話する。

『おかけになった電話は電波の届かないところにあるか……』

 あら? もしかして病院にいるのかしら。

 携帯の電源は二十四時間付けておけと言うのは太一の持論だが、さすがにマナー上病院内で付けておく訳にはいかないであろう。

 液晶画面を見つめながら暁子は首をかしげる。

「出ないの?」

 その隣でみゆきが暁子の顔を覗き込んでくる。

「うん、電源が入っていないみたい……」

 暁子はそう言いながらもちょっと困惑した表情になる。

 ひどい時には病院に連れて行けと指示を出したのは確かにあたしだけれど……病院に行くほどひどいのかなぁ。



『おかけになった電話は……』

 既に一時間以上が経過した、その間暁子はもう十回以上リダイヤルするものの、聞こえてくる台詞は同じものだった

「おかしいわねぇ……」

 暁子の頭に疑念が浮かび上がる。

「真菜ちゃんつかまらないんですかぁ?」

 絵里香は鼻声で暁子の顔を対面のデスクから眺める。

「うん……そんなにひどいのかなぁ」

 暁子の顔が曇る。

「えへ、もしかして太一課長と真菜ちゃん、デートの真っ最中だったりしてぇ」

 絵里香は意地の悪い笑みを浮かべ暁子の顔をじっと見る。

 デート? 携帯の電源を切って? 仕事中よ!

 暁子の目が見る見るつりあがる。

「こわぁ〜」

 絵里香はそう言いながら首をすくめ暁子から姿を隠す。

「ウフ、太一課長がそんなことするわけ無いじゃない、それに真菜ちゃんだってまだ入って来て一ヶ月よ? そんな感情にならないと思うけど……」

 そんな感情ってどんな感情よ。

 フォローを入れているみゆきの一言にも過敏になり、暁子はみゆきを睨む。

「はは、困った課長だな」

 直也はそう言いながら背広を持ち外回りに飛び出してゆく。

「ホント……どうしたのかしら……」

 暁子の頭の中には不安が湧き上がってゆく。

「そんなに心配しないで、お昼に行って来たらどうですか?」

 みゆきはそう言いながら暁子の顔を見る。

「うん、そうする……」

 暁子は渋々といった様子で部屋を出ようとすると一課のデスクに座っていた哀が暁子に慌てた様子で声をかけてくる。

「茅島係長いらっしゃったんですか? 太一課長……真島課長の様子はどうなんですか? 大分ひどいようですけれど」

 哀は今にも泣き出しそうな表情で暁子の顔を見上げている。

「ちょっ、ちょっと長谷川さん、どういうことなの?」

 今この娘は太一の様子がひどいようなことを言っていた。

「ご存じないんですか? さっき真菜から電話があって……」

 哀の話の内容を聞きながら暁子の顔が徐々に蒼ざめてゆく。

「……それで電車通り沿いの総合病院……」

 暁子はそこまで聞くと部屋を飛び出していった。

「そんな……そんなにひどいの?」

 哀の話の内容は熱が高い、すぐに病院に連れて行かなければいけないということしかわかっていない、しかし、その話の内容は暁子を動揺させるには十分な要素だった。

「電車通り沿いの総合病院って、確かあそこのはず……」

 暁子の頭には一つの大きな病院が浮かび上がり、そこに向けて暁子は駆け出して行った。



「はぁはぁはぁ……外来はしまっている……救急受付……まさか!」

 息を切らせながら暁子は救急の文字を見つけ顔を蒼ざめる。

 まさかとは思うけれど……。

 暁子は自分の出したその答えを自ら否定するように首を振りそこに入り込むと、そこには予想していた人物が疲れた様子でソファーに座っている。

「真菜ちゃん!」

 病院ということを忘れて暁子はつい大きな声を上げて真菜を見る。

「……暁子係長」

 憔悴しきったようなまなざしを真菜は暁子に向ける。

「真菜ちゃん、一体どうしたの? 太一は?」

 暁子は真菜に詰め寄るように聞くが、真菜は力なく首を横に振るだけだった。

 なにが一体起きたの?

「……太一課長は……」

 真菜の瞳に涙が光る。

「なに? どうしたの? 太一は?」

 暁子の精神状態は完全に不安定なものになっている。

「……太一課長は……」

 真菜の頬に一筋の涙が流れ落ちる。

 なに? そんな深刻な状況なの?

 暁子が息を呑む。

「太一は? 太一がどうしたの?」

 暁子は思わず真菜の肩をつかみながらゆする。

「太一課長わぁ……」

 真菜は崩れ落ちるようにそう呟きながら暁子にもたれかかる。



=本当にそれだけ? mana=

「……驚いたわよ」

 ちょうど一週間が経ち、会社に出社すると、そこには懐かしくも、いつもの光景が広がっていた。

「だから、悪かったって言っただろうに」

 自分のデスクに座りながらおにぎりをパクついているのはこの前まで入院していた人が暁子に対し申し訳なさそうな顔をしている。

「……まったく、アッ、真菜ちゃんおはよ」

 暁子はそう言いながら真菜を見る、真菜の表情は太一がそこにいるというだけで嬉しいような、ホッとしたような表情になっている。

「おはようございます、暁子係長……太一課長も今日からなんですね?」

 真菜はそう言いながら自分のデスクに荷物を置く。

「おっ、真菜ちゃんおはよう、色々とありがとうな……助かったよ」

 太一はそう言いながら真菜にペコリと頭をさげる。

「そんな……あたしは何も、暁子係長が色々としてくれたおかげですよ」

 真菜はちょっと頬を赤らめながら太一を見る。

 そう、あたしは何もできなかった、あの後は暁子係長が色々と手続きをしてくれたりしてくれたおかげ……あたしはただアタフタしていただけだった。

「そうか……改めてありがとうな、暁子」

 その一言に暁子は真っ赤に顔色を変化させる。

「そ、そんな……真菜ちゃんが……」

「真島課長、おはよう……食事が終わったらちょっときてもらえるかな?」

 そんなやり取りの最中、森山部長が不意に顔を見せる。

「アッ、部長、おはようございます、ご迷惑お掛けしました」

 太一はそう言いながら立ち上がり、森山に頭をさげる。

「はは、お前さんも働きすぎなんだよ……少しはゆっくりできたか?」

 森山のその顔は優しく、心底太一を心配していたような表情だった。

「はぁ、二、三日は良かったのですが、三日目ぐらいからウズウズしましたよ、仕事の事が心配になって……」

 太一は皮肉な顔をして森山の顔を見る。

 そんな挑発的なことを言って良いのかしら……太一課長。

 真菜はハラハラしながらその二人のやり取りを見る。

「ハハハ、お前らしいな……茅島係長も付き切りだったんだろう? 少しは労ってやれよ、それに吉村さんも心配していたようだし……羨ましいほど人気者だな、お前は」

 森山は捨て台詞のようにそう言いながら太一に手を上げ自分の席に歩いてゆく。

「そ……そんな、あは、アハハ」

 暁子はその一言に照れたように頬を赤らめながら照れ笑いを浮かべ、その隣では真菜も照れたようにうつむく。

「いや、俺もそう思ったよ……皆がお見舞いに来てくれた、ちょっと自信持ったよ『もしかしたら、俺ってみんなに好かれているかも』って」

 照れたように太一はそう言う。

「そっ……」

「そんなの当たり前じゃないですか、太一課長がいて初めての三課なんですよ? 課長がいなかったら三課らしくないです……だから……だから……お帰りなさいなんです」

 いやだ、思わず言っちゃったよ。でもそれは事実だと思う、皆ちょっと寂しそうだったし、やっぱり太一課長のいない三課はちょっと寂しいのかも……。

 目に涙を浮かべながら真菜は太一の顔を正面から見つめる。

「はは、ありがとう真菜ちゃん、お世辞でも嬉しいよ」

 太一はそう言いながら照れくさそうに鼻先をかく。

「お世辞じゃないよね? 本当に皆そう思っていたと思うわよ……あたしもそうかも……」

 暁子はそう言いながら太一の顔を優しく見つめる。

 暁子係長? もしかしたら暁子係長……やっぱり。

 その暁子の表情を見ながら真菜は暁子の気持ちを知ったような気がした……そう、あの時から真菜の心には引っかかるものがあった。

 あの後、暁子係長は毅然に色々な手続きをこなしていった、その姿はまるで本当の奥さんのようだった……事実事務員も奥さんに勘違いしていたほどだったし……あたしは妹のままだったし。でも、あの暁子係長もちょっと取り乱していたわよね? 診察室の前でいつまでもうろうろしていたし、先生が出てきたときは詰め寄るように太一課長の病状を聞いていた……あたしは? その間何もできなかった……、あたしの出来る事は……ただウロウロするだけ……暁子係長のように太一課長の身の回りのお世話を出来なかった。

「はは、暁子のことだ、困った客がいて困っていたんだろ? って、どうしたの真菜ちゃん」

 太一は驚いた様子で真菜を見ると、その真菜は両目から涙を流して泣き崩れている。

「まっ、真菜ちゃん? どうしたのよ……ほら、こっちに来て」

 暁子はそう言いながら周りの視線から真菜を隠すようにその場から離れる。

「暁子かかりちょぉ〜……あたし……あたし何も出来なかった」

 部屋を出て給湯室で真菜は暁子の胸に顔を埋め涙を流す。

「そんな事ないよ、真菜ちゃんがああやって病院に連れて行ってくれたおかげで太一はこれだけ早く現場復帰できたんだから、真菜ちゃんが功労者よ……だから泣かないの」

 暁子は優しく真菜の頭を撫ぜるが、真菜は首を振る。

「ううん、みんな暁子係長がやってくれた……あたしは何も出来なかった……太一課長のために何も……出来なかった」

 その台詞に暁子の顔に動揺が生まれる。

「真菜ちゃん……あなたもしかして……本気で?」

 あたしの気持ち……もしかしたら、あたし本気で太一課長のことが……。

 暁子の台詞に真菜は顔を上げる、その顔は涙でグシャグシャになっているものの、視線だけは暁子の事をしっかりと見据えていた。

 そうかもしれない……あたしの気持ちは……。

第十話へ