坂の街の小さな恋……
〜♪〜 はじまりの春 〜♪〜
第一話 出会い
=プロローグ=
「……この度は御参列頂きまして有難うございました」
葬儀社の人から渡された紙を読み上げ頭を下げる、手には今までの俺の親父だった男の位牌、そして隣にいる妹の郁子の手には母親だった女の位牌が持たれている。
俺たちを見る皆の目は真っ赤に泣き腫らしているが、当人達はいたって冷静である……というより、まだ事の経緯を理解しきっていないと言った方がいいのであろう。
この世に命を受けてからたかが十三年、まさか『喪主』などという大役をやらされるとは思ってもいなかった……生まれて初めての葬式参列が自分の親だなんて思ってもいなかった。まったく子不幸な親だな……。
二人で『買い物にいってくる』と言ったまま、この世を去ってしまった。なんだか、今にも帰ってきそうだ『ゴメン、遅くなっちゃった』とかいいながら……でも、この棺桶の中に横たわっている二人は紛れも無い現実。
読経が流れ、雪の降り出した斎場には線香の香りが否応なく漂い、それが葬儀である事をまだ幼い二人に告げている。
「……幸作君」
雪の函館、二台の霊柩車を目前にし、業務的に話される葬儀社の指示を聞いている時、不意に中学の同級生である宝城千鶴が声をかけてくる。その千鶴も目に涙を湛えている。
「千鶴か? 悪いな、わざわざ来てもらって」
振り向くとそこには三つ編みにセーラー服という格好をした千鶴が俺の袖を引っ張りながら、湛えている涙をこぼしはじめる。
「幸作ぅ」
その隣にはショートヘアーの所々が寝癖なのかぴょんと立っている女の子、野木初音も涙を堪えるような表情で幸作の事を見る。
「初音も来てくれたのか」
その一言に初音は言葉無くうなずくが、たたえていた涙が頬をつたう。
「……幸作くぅん」
そして隣ではまるで重力を失ったかのように千鶴はその場にしゃがみこむ。
「宝城さん……大丈夫かい? 戸田、気をしっかり持てよ!」
崩れ落ちるその千鶴を支えたのは、幸作のクラス担任の佐木誠先生だ。丸いメガネにいつもニコニコしている顔は今日に限って沈痛な面持ちになっている。
「先生……」
その瞬間に発生したあくびをこらえると、目頭に涙が浮かぶ。
いけね、何かと忙しくってろくに寝ていなかったからなぁ。
「戸田! なんでも相談にのるから、だから……だから……今は、我慢しろ!」
佐木はそう言いながらも辛そうに天を仰ぎながら涙をこらえている、その隣では初音と千鶴が我慢できないかのようにその場で抱き合うようにして泣きはじめる。
きっと誤解しているのだろうけれど、今はそういうことにしておいた方が良さそうだな? そんな雰囲気が周囲に流れているよ……。
幸作はその様子を見ながら心の中で苦笑いを浮かべる。
「ご出棺です……」
沈痛なおもむきの葬儀社の社員の声に、すすり泣く声が一段と大きくなる。
パァ〜ン。
霊柩車のクラクションが鳴り響く。周囲の人はそれぞれに手を合わせながら見送る。助手席に座る兄妹を近所の大人たちは同情する目で見送っている。
なんだかヒーロー、ヒロインにでもなったようだな。
「幸作君、気をしっかり持つんだよ?」
「何かあったらなんでも叔母さんに言いな、いつでも手伝ってあげるから」
火葬場に着き、二人の棺が炉に入った瞬間に二人が現実に突き詰められた。
まるで人の立ち入りを拒むかのような音を立てるその炉はまさに『焼く』という作業を忠実に守っているが、その中に入っていくのは昨日まで自分の両親だった人たち……。
「……親父……」
幸作のその一言に郁子が声を上げる。
「おかぁさん!」
炉に近づく郁子と幸作の体を、見覚えのない親戚が阻止する。その光景を皆で涙を流しながら見ていた。
その後どうなったのか良くおぼえていない、大人たちはなんだか楽しそうに話をしていたが、俺と郁子は煙突から流れていく白い煙をただ見つめているだけだった。
「あの煙が、お父さんとお母さんなのかなぁ」
郁子のその一言に幸作はうなずくだけだった。
「そうだな……ああやって天国に行くんだろうな?」
幸作はそう言いながらその煙をいつまでも見つめていた。
「おにいちゃん、二人きりになっちゃったね?」
一通りの儀式を終えやっと自宅に帰ってきたのは夜遅くなってからだった。近所も既に寝静まっているのかシンとしている。
「そうだな……二人きりだ……」
鍵のかかっている部屋に入るのは、俺と俺がこれからずっと守っていかなければいけない妹がうつむいている。
真っ暗な部屋、そこには今まで優しく向い入れてくれたお袋の顔や、厳しいなりにも色々教えてくれた親父の顔はもう無い……冷え切った部屋の中にどこからともなく線香の香りが漂う。
そんな寂しげな幸作たちを向かい入れてくれたのは、写真の中で仲良さそうにしている両親の写真だけ、その二人は今小さな骨壷の中に眠っている……もう二度と起きる事のない眠りについている。
本当に……本当に子不幸な親だな?
そう考えた瞬間に、幸作の目の前にある景色が一気に滲む。
「お、おにいちゃん?」
郁子は、一瞬驚いたような顔をして幸作の顔を覗き込むが、次第にその郁子の表情も崩れてゆく。
「……エッ……クゥ……ヒック……ハァァァ……」
何故だかわからない、なんだか部屋に戻ったら急に……急に切なくなってきた。今まで我慢していた気持ちが爆発したようだ。心の奥底がなんだかぎゅっとワシ掴みされるような感覚。なんともいえない切なくも、悲しい気持ち……。
「お……にぃ……ちゃ……ん……ウェ……ヒ〜ン」
その様子を見た郁子が幸作に抱きつきながら泣き出す。
「ウッ……ク……な、泣くなよぉ……」
幸作は、そう言いながらも、まだ小さな郁子の頭を撫ぜるだけだった。
まだ……そうだ、まだはじまったばかりなんだ、これからは俺がしっかりしなければいけないんだ。俺がこの娘を守っていかなければいけないんだ……でも、今日ぐらいは、いいよな? 親父、お袋……。
部屋の中には二人の鳴き声がしばらく響き渡っていた。
=出会い? 運命?=
「おにいちゃん、早く起きないとぉ」
夢の中で、郁子の声が聞こえるがこれは夢の中だ、そして、俺は夢の中の旅人だから、故に起きなくていいはずだ。そうだ、そうに決まっている。
幸作は、一つ寝返りをうつと再び深い眠りについていった。
「もう、おにいちゃん!」
再び郁子の声が聞こえるが、これは夢だよ、夢! そう思った一瞬、顔に冷たい感覚が走るが本当に一瞬だけであった、しかし、その感覚の後徐々に口や鼻から入ってこなければいけない物……酸素が入ってこなくなる。血中の二酸化炭素の濃度が高くなってくる。
「……ウ……クッ」
それまで見ていた夢がお花畑の映像に変わって行く気がする。
「……プハァー」
慌てて目を覚まし、排出されなかった二酸化炭素を力いっぱい吐き出し、新鮮といえるかわからない酸素を肺いっぱいに吸い込む……今、一瞬だけれど親父とお袋が手招いていたように見えたが?
起き上がった幸作の手に落ちたものは、濡れたタオルだった。
「郁子! お前俺を殺す気か?」
部屋を飛び出し、台所で幸せそうにトーストを噛り付きながらテレビを見ている郁子に対し幸作が鬼のような形相で詰め寄る。
「おにいちゃん……時間」
お前、最近ちょっとクールだな?
憤然きわまる幸作に対し、涼しい顔で郁子が指差すテレビの画像は、既にいつも幸作が出て行く時間と同じものをやっていた。
「アァ〜? もうこんな時間なのかよぉ? 何で起こしてくれなかったんだ!」
その台詞に郁子の柔らかな瞳がつり上がる。
「よく言うわよ! おにいちゃん起こして既に一時間が経過したわよ? あたしだって遅刻したくないもん、せっかくの入学式なんだからぁ!」
頬をふぐと競い合っているのでは、と言うぐらいに膨らませているが、それは今度の事にしておこう、とりあえず、最優先事項は遅刻しないようにすることだ!
「だぁぁー、行ってきます! 郁子、ちゃんとじょっぴんかってから行けよ!」
急いでいる幸作は、思わず訛りながら郁子に『鍵をかけて行け』と言い、起きてから三分の速さで部屋を飛び出す、しかしその努力の甲斐なく定刻から五分以上は遅れている。
普段であれば、最寄りの函館市電の電停である『宝来町』までは歩いて十分ぐらいだが、あと猶予のある時間は、五分を切っているではないか! やばい、新学期早々に遅刻をすると生活指導のイヤミ……いや南波の必殺技を受ける事になるであろう『ん? どうした、今日は重役にでもなったのか』と言う、グーで殴りたくなるような親父ギャグで一日のやる気を無いものにされてしまう。
「間に合うのか?」
腕時計をちらりと見ると、いつもなら既に電停でほっと一息ついている時間をそれは無常に告げている、しかし、幸作の行程はその半分も来ていない。
「やばい、あの信号に引っかかると、きっと間に合わない」
幸作の目前にある信号は現在青、しかし、時間的にはそろそろ変わってもおかしくないはずだ、その信号には電車の鼻先が見えている。あの電車に乗らないと、間違いなくイヤミの渦中に飛び込む事になる。それはさわやかな高校二年の春をおそらく一年中暗いものに変えるであろう。
「加速装置!」
昔見たアニメでそんなのがあったと思うが、それはアニメの話だけだと思う、しかし事実幸作は一気に加速をした。それは全力疾走といっても過言ではないであろう、足元に水溜りがあってもなんのその、一気に突っ走る。しかし信号は業務に従順で、歩行者用の信号がウィンクを送るように点滅を始める。
大丈夫、俺ならいける! このスピードを維持すれば大丈夫だぁぁ……。
正面にあった信号は赤に変わる寸前であっただろう、にわかに電車も動いていたような気がするが、それもきっと気のせいだ!
ぷわぁ〜ん。
「ハヒィ〜……フゥ……ヘェヘェ……ヒイヒイ……ゼェ〜」
間一髪と言うのはこういう事を言うのであろう。電停に滑り込むのとほぼ同時に電車が入ってくる。
「クス……」
幸作が、呼吸の回数を減らそうと必死になっているとき、列の前にいた女の子の肩がピクリと揺れる。
はは笑われちゃった、まぁ、ゆっくりと進む列のおかげで、電車に乗り込んだときにはだいぶ息が整ってきたよ。
「フウィ〜……」
幸作は、ため息ともつかない息を吐き出すと、再び目の前にいた女の子の肩が揺れる。
はは、また笑われちゃったよ……郁子と同い年ぐらいかな? 女の子の顔はうつむいて肩を震わせているためよく見えないが、長いであろう髪の毛は頭の後ろで一つに結わかれており、その髪の毛の結び目には、可愛らしいリボンが結ばれている。身長は郁子と同じ位だから百四十センチ位だろうか? 小さい分類に入るであろう。
「クス……ククク……プクク……」
そんなに堪えているときっとお腹がつるよ? 腹筋が、ピキッと……。
幸作が見るとも無く見る女の子の結わかれている毛先は、電車の揺れに左右にふれる。
『次は十字街……』
電車の中に、感情のこもっていないテープの放送が流れたと思うと電車が急停車する。おそらく誰かみたいに慌てて信号を渡った人間でもいたのであろう、それは急停車と言うには十分なもので、幸作の体もつり革につかまっていなければ飛ばされるところだった。
「きゃぁ〜!」
目前にいた笑い姫は、多分にもれずその重力に勝てないように幸作に抱きつくというか体当たりを食らわす。
「おっとぉ……」
幸作は、その小さな体を支えるとその小ささに驚きの表情を浮かべる。
うぉ、ちっちゃいなぁ、見た目なんかよりもずっと華奢な感じだ、まるで俺の体にすっぽりと収まってしまうのではないかと言う位にちっちゃいなぁ。
「ご、ごめんなさい」
幸作が顔を向ける余裕すら与えない間に女の子は今度頭をさげてしまった。その為に彼女の顔を見ることが出来ない。
徐々に幸作の頭の中にどんな顔をしているか興味が湧いてくる。
「いや、大丈夫かい?」
幸作は努めてさわやかにその女の子に声をかける。
「はい……クス」
女の子がはじめて顔を上げるその顔を見た幸作は一気に頬を染める。
これは、なかなかどうして……可愛い娘だな。小柄な背格好にマッチしたようなファニーフェイスと言うのだろうか? メガネがちょっとマイナスかとも思うが、しかしその容姿を引き立てているようにも見える、見覚えの無い制服はこの路線の沿線の中学かな?
思わず見つめている幸作に対して、女の子はにっこりと微笑む。
「ウフ、ごめんなさい……でも、あなたがあんな格好で……ククク」
女の子は再び、過去に晒した幸作の醜態を思い出したのであろう、再び顔をうつむけながら肩を震わせている。
「はは……それはどうも……」
幸作は苦笑いを浮かべながら視線を車内に移し無意味に車内広告を眺める。その広告には春を告げるような花の写真が並んでいた。
「おはよう! 幸作」
学校に最寄の電停で電車を降りると同級生の一ノ瀬亮(いちのせりょう)が幸作に駆け寄り声をかけてくる。
また同じクラスになるのかな? 俺、ちょっと苦手なんだよな、こいつ、やたらと近づいてくるし、意味もなく腕をつかんできたりして。
「……亮も同じ電車だったか」
幸作は苦笑いを浮かべ亮の事を見る。普通にしていれば色男なこの男、身長は百九十近くある幸作より低いものの、出来上がった端正な顔立ちは幸作のそれなどを真っ向から否定しているようで、成績優秀のお墨付き、しかもスポーツ万能というオプション装着しているというまるで男子生徒の敵のような奴なのだが、なぜだか幸作になついている。
こいつがいつも一緒のおかげできっと俺はモテないのだ、そうだ、そうに決まっている! しかし、新学期、こいつとクラスが分かれる可能性は高い。そうすれば、俺にも春が来るはずだ!
「今年も同じクラスになれればいいな」
端正な顔でにっこりと微笑むとまるで女の子にいわれているようで心地がいい……って、そんなはずないだろ! こいつは男なんだ! 少なくとも俺にはそのケは無い!
「そ、そうだな……」
幸作はうなだれながら邪念を払うように頭を振り学校に向って歩き出す、その隣には亮が嬉しそうな表情を浮かべたまま寄り添っている。周りでは新入生であろう女の子達がキャァキャァいっているが、おそらくその声は全て亮に対してのものだろう。視線は間違いなく皆亮に向いている。
「モテモテだな」
イヤミっぽく幸作が亮に言うとにっこりと微笑む亮は首を横に振る。
「僕は、君と一緒にいるほうが嬉しいよ」
なに訳のわからないことを……。
幸作はうなだれながらまだ桜の花は固いつぼみに閉ざされている校門をくぐる。
「同じク・ラ・ス……だね?」
市立高校、この少子化が騒がれている時代でクラスが四クラスもあるのにその四分の一をこいつと分け合わなければいけないんだ? まだ春は先かぁ……。
「それは、おめでとう」
幸作はちょっとイヤミをこめて亮にいうが、そんなイヤミは跳ね返されるような笑顔を浮かべ幸作を見ている。
「うん、これで、今年一年はハッピーだよ……あれ?」
俺はこの一年アンハッピーかもしれないよ……。
心の中で毒を吐く幸作の隣で嬉しそうに再び掲示板を見る亮の顔に、ちょっと戸惑いが生まれる。
「どうした?」
幸作も再び掲示板を見る。そこには四十人のクラスメイトの名前と一緒にクラス担任の名前が書き出されている。
「湯田絵梨子(ゆだえりこ)? 新任の先生だな」
「……らしいな、ほらあそこで初音たちが騒いでいるよ」
幸作の視線の先には、このあたりでは結構可愛いと評判の制服を着た女子集団がキャアキャアとまるで波止場で鳴いているウミネコのように騒いでいる。
「どんな先生なのかなぁ? 若いかな? 楽しみよねぇ」
そんなことはどうでもいいだろうと思いつつも、その集団を避けるように幸作は校舎に向かって歩き出す。
「幸作、オハヨ! また同じクラスだね?」
その集団の中にいたショートカットの女の子が幸作に向けて気さくに声をかけてくる。
「おはよ、そうか? また初音と一緒なのか」
幸作はちょっと照れくさそうにチラッとその女の子……初音の事を見る。小学校からの同級生で、いわゆる幼馴染というところだが、最近ちょっと女の子らしくなってきたようにも思え気軽に声をかけられるのが少し照れくさい。
「ちょっとぉ、その『また一緒』というところに、嫌そうなニュアンスが含まれていたようだけれど? あたしの気のせいかしら?」
ちょっと猫目かかったその瞳が、ちょっと厳しくなる。
「いいえ! 今年も初音ちゃんと一緒になれて嬉しいです!」
幸作はやけ気味にわざとらしく背筋を伸ばしそういう。
「あら、そんな本当の事をいって……」
にっこりと微笑む初音はそう言いながら近づき幸作のわき腹を突っつく。
「な、なんだよ」
ちょっと膨れっ面の幸作は、隣に来た初音を見下ろす。
「こんなあたしが好きなくせに!」
意地の悪い表情で初音は幸作を見上げる。
「馬鹿こくな!」
いかん、つい訛ってしまった。……確かに嫌いではないが、多分恋愛感情の対象になっていない……と思う……ともかく特定の女子に対して恋愛感情などというものを持った記憶はいまだかつて俺にはまったくない。
そう思う幸作が真っ赤な顔をして初音に対応していると、思いがけない台詞が二人に投げかけられる。
「エェ、違うの? 幸作君は初音と付き合っていると思っていたよ、あたしの勘違いだったのかな?」
その台詞は初音より一つ頭が飛び出しているロングヘアーの女の子……堺谷留美(さかいやるみ)から発せられると、それまでの漂々としていた初音の顔が不意に赤く変化する。
「ち、違うわよ、ねぇ……留美の勘違い」
初音は困った顔をして助けを乞うように幸作の顔を見上げる。
「うん、違う」
幸作もコクリコクリとうなずきながらはっきりとそれを否定する。しかし、初音のその表情が一瞬寂しそうなものに変わった事に気が付いたのは誰もいなかった。
「なんだぁ、気のせいだったのか」
留美はそう言いながら初音の表情を読み取るように眺めている。
「いいべ、早く教室に入らないと遅刻するぞ!」
幸作はなんとなく照れくさくなり、きびすを返し教室に向う。その後ろを初音はちょっと笑顔になり、留美は意地の悪い笑顔を浮かべ、亮はつまらなそうに付いて歩く。
「よりによって一番奥の教室かよ」
一番奥の教室……学食から離れている教室、これはかなり不利な状況かもしれないな、あの地獄の昼休みをどうやって乗り切るかが今後の課題になりそうだな。
二階に上がり、教室の扉を開くと見覚えのある顔や見覚えのない顔が様々入り混じっている。そんな中まず自分の席を探すが……。
「なんで……」
クラスに入り自分の名前が書かれている机は、探すまでもなく真っ先に目に入り込んできた。だって入口入ったすぐの席しかも一番前……。
「ハハ、幸作その……うん、真っ先に学食にいけるというメリットがその席にあるわよ? 人間全てにおいてポジティブにならないと、ネ?」
初音は励ますような目で幸作を見る。しかし幸作の目はどんよりと、まるで死んだ魚のような目になっている。
……既にこの教室になった時点で負け組みかも……。
「……はは、後は隣に可愛い女の子が来るといいわねぇ?」
留美も同情するような、しかしなんとなく笑いをかみ殺しているような表情で自席を捜し歩きだす。
君たちは薄情者と将来罵られるであろうよ……それにしても可愛い女の子か……後はそれを期待するしかないかな?
幸作は隣の机に書かれている名前を見ようとするが、そこには何も書かれていない。置かれている名札は白紙で、それは幸作を落胆させるには十分な武器になっていた。
まさか無人かよ……寒いぜ。
事実幸作の足元からは廊下から吹き込んでくる風が冷たく、幸作のすさんだ心を逆なでしてゆくようだった。
「はぁ〜」
幸作のため息は白く濁る。
=見たことのない見覚えある制服=
「じゃあ、ちょっとここで待っていて」
廊下から、そんな会話が聞こえたかと思うと、一人の若い女性が入ってくる。恐らくそのクラスにいた男連中全員は呆気にとられたであろうその姿は、大人の女性と言うには幼すぎ、まるで同級生のような風貌である。背中まである長い髪の毛と、その顔には矛盾した大きな胸の膨らみが唯一大人の女性を象徴している。
「はぁ〜い静かにしてぇ〜」
第一声に教室内がさらにざわめく。
何だこの声は? 昔見ていたアニメのヒロインのような鼻にかかったような声、マニアにはたまらないであろうその風貌……ハッ! ヤバイ、あいつ……って、やっぱり……。
マニアの一言に幸作は思い当たる人物に視線を投げつけると、そこには鼻息を荒くし、目を血ばらしている男が一人いた。はは、啓太の好きそうなタイプだよね?
三宅啓太(みやけけいた)……いわゆるオタクという分類で、生身の女の子には興味はないと言い切っていたが、この手のシチュエーションは好みなのであろう、身を乗り出すようにして教壇に立つ教師であろう女性を鼻息荒く見つめている。
頼むから犯罪者だけにはならないでくれよ、友達談なんて言うのはしゃれにもならんからな。
幸作は苦笑いを浮かべながら再びその先生であろう女性を見る。
「ちょっとぉ、静かにしてくださぁ〜い」
相変わらずアニメ声で叫んでいるがなかなかみんなにその声は伝わらないようだ。
「はいはい、静かにしましょうね?」
パンパン……。
先生の声とはまったく違う大人っぽい女性の声が拍手と共に聞こえてくる。それはちょうど幸作の後ろから、幸作はその声の主を思わず振り返りながら見る。
そこに立っていたのは二年生のとき同じクラスの委員長でもあった湯田芽衣子(ゆだめいこ)が苦笑いを浮かべて立ち、周りをたしなめるように見まわしている。その風貌は先生と同じように背中まである髪の毛を後ろで束ねており、端正な顔をした女の子。制服を着ていなければきっと大学生かOLに間違われるであろう。
多分、この娘が先生だと言えば、みんな納得すると思うよ、きっと。
「先生も、新任なら頑張ってくださいよね?」
あらら、見た目よりきついことをいう娘だな。
「ありがとう、芽衣子ちゃん」
へ? 幸作の首が傾く。
いま先生は芽衣子の事を何も見ずに名前を言ったよな?
「はぁい、あたしは今日からこのクラスの担任になりました湯田絵梨子です、今年大学を卒業して、初めてこの学校にきましたぁ、みんなよろしくね!」
そういえば同じ湯田か……もしかして姉妹か何かなのかな?
幸作の疑問など関係ないように、絵梨子は楽しそうに話をはじめる。
今年大卒と言うことは、二十一ぐらいか? それは、同年代を正面から否定しているようで少なくとも、この学校の制服を着ていても十分似合うと思うよ……。
「それでは、みんなの自己紹介を聞く前に、今年度から一緒になる転校生を紹介しますね? まぁ、あたしも新任だから人の事言えないけれど……エヘ……さ、入ってきて」
コロンの香りなのだろうか、ちょっと良い香りを放ちながら幸作の前で廊下への扉を開く。
「ハイ……」
その前を、見覚えのない制服……いや、さっき見たから見覚えのある制服だ。目の前を通り過ぎていったのは電車の中の笑い姫? 何でここにいるんだ? と言うより高校生なのか? その背格好でか?
幸作は呆気にとられた顔でその笑い姫を見つめる。
「はいはい、静かに」
絵梨子先生もちょっと落ち着いたのか、声にはりが出てくる……アニメ声だけれど。ざわつく教室、そのざわつきの声のほとんどが男子生徒ばかりだが。
「それでは自己紹介してくれるかしら?」
黒板に名前こそ書かないものの、小さな絵梨子よりも少し小さい女の子は顔を真っ赤にして正面を見据える。
「は……はじめまして、笹森……麻里萌です……」
ザワァ〜。
教室の中にさざなみに似たざわめきが起きる。
「ハイ、ありがとう、笹森さんは、ご両親の都合で東京から引っ越してきました、函館のことなどわからないと思いますので、皆さん案内してあげてくださいねぇ」
真っ赤な顔をしたままうつむいている麻里萌の肩をぽんと叩く絵梨子は、にっこりと微笑を浮かべ、空いている幸作の隣の席を見る。そして幸作と目が合う。
ハハ、やっぱりそうなるかな?
「じゃぁ、席は多分にもれず、空いている席で……エェっと? 君は?」
絵梨子はそう言いながら幸作の顔を眺める。
「戸田です……」
幸作は、その視線から目をそらしながらいう。
「そう、戸田君の隣に座っていて……じゃぁ出席を取ります、まず男子……一ノ瀬亮君」
絵梨子は出席を取り出す。そして、幸作の隣にはフワっとシャンプーの香りがする。
「よろしくお願いします」
ペコリと言う音が聞こえてきそうな頭のさげ方をして麻里萌はうつむいたまま席に座る。
「こちらこそよろしく、笑い姫」
そういう幸作の顔を見上げる麻里萌の顔に笑顔が生まれる。
「あらぁ? あなたは、電車の中で一緒だった……同じ学校だったんですね?」
麻里萌は心底安堵したのであろう、その顔から緊張感が抜けてゆく。
なんだぁ、そんな安心しきったような顔をして……さっき電車の中でちょっと話をしただけなのに、そんな人懐っこい顔をするのかな、東京の女の子は。
幸作はそんな思いで再び視線を逸らす。
「次、戸田君……戸田幸作君」
絵梨子の声に慌てて立ち上がろうとした瞬間にひざを力いっぱい机にぶつける。
ガタァ〜ン。
大きな音が教室中に響き渡り、クラス中の視線が一気に幸作に集中する。
「いてぇ〜……あっと、戸田幸作です、よろしくお願いします」
赤面する、人様の前で話すと言うこと自体苦手なのに、こんな醜態を晒すなんて、もっと恥ずかしいかもしれない、後ろに座っている芽衣子も声を殺して笑っているし、麻里萌も肩を震わせている。
「戸田君はちょっとおっちょこちょいなのかな? 気をつけたほうがいいですねぇ」
絵梨子先生の顔も微笑んでいる。
いらぬ所で目立ってしまったなぁ……。
幸作は頬を赤らめながら席に座る、その隣では麻里萌もクスクスと微笑んでいる。