坂の街の小さな恋……
〜♪〜 はじまりの春 〜♪〜
第二話 様々な思い
=休み時間=
「ねぇ、笹森さんって東京から来たの?」
休み時間になったとたん、初音と留美をはじめとした女子軍団が幸作の席を制圧する。その攻撃力には後退を余儀なくさせられ、幸作はまるで弾き飛ばされるように窓際に追いやられる格好になり、ため息をつきながら校庭を眺める。
「まだ寒いな……」
負け犬の遠吠えではないが無性に悔しく、そうつぶやく。
東京ではもう桜が咲いたらしいが、この北国でもある函館の春はまだ先の話で、例年だとゴールデンウィークごろが満開になるはずだ。今頃は、ちょうど三寒四温というのか、暖かい日の比率が徐々に増えてくる。しかし、今日は寒い……空にはどんよりとした鉛色の雲が垂れ込めている。
「幸作、なんだか大変そうだな」
今にも雪が降り出しそうな空を窓から眺めていると亮が声をかけてくる。その隣には啓太も一緒にいる。
なんだか仲間とあまり思われたくないメンバーだな。
幸作は苦笑いを浮かべながらその友人たちの温かい言葉を受け入れる。
「……席が占拠されちまったからな……参ったよ」
幸作は肩を落としながら、自席を見ると女子生徒が鈴なりになっている。
「得てして女というのは新しいものが好きだからな? しかも東京からの来人となれば話は格段であろう、だから女なんていうのは愚かな……」
ウンチクを語りながら亮はため息混じりにその集団を眺める。
「でも……可愛いよな? 麻里萌ちゃんだったっけ? ……先生も可愛いし、俺にすればパラダイスのようだよ」
啓太は、そう言いながらにやりと微笑む。普通にしていればなんていう事のない平凡な男だが、一言そういう話題になると目つきが変わるな? 年に数回東京に行くらしいし。
「まぁ、確かに可愛いけれど……俺は中学生ぐらいだと思っていたよ、郁子と同い年ぐらいだと……まさか同級生とは思っていなかった」
今朝あったことをふっと思い出す。そういえば、俺はあの娘に抱きつかれたんだよな? 小さいというイメージしかなかったし、ときめくような感覚が無かったなぁ。
「……あの娘はきっと、ナインちゃんだ」
啓太が、ボソッとそういう。
……この男は何を言っているのだ?
幸作は何の事だかわからないで啓太の顔を上げる。
「ナインちゃん?」
幸作は、呆れたような顔で啓太の事を見る。
「そう、あの娘はきっと天然のナインちゃんだ、あぁ、秋葉原で出会っていればきっと彼女は秋葉原のヒロインになれたに違いない!」
こぶしを振り上げ啓太が力説する。
秋葉原のヒロイン?
幸作は何の事なのかわからずに首をかしげる。
「既に東京では絶滅したといわれる、つるペタ科のナインちゃんいわゆる『貧乳』ちゃんがここにいて、しかも天然! 珍しい、今度ネコ耳でもつけてくれないだろうか……」
それに天然も人工もあるのか? しかし確かにそうかもしれないな、抱きつかれたときにその感覚がなかったのも事実だし……一緒にいる初音などと比べると……ハハハ……この話題は俺の中に封印しておこう。
幸作は苦笑いを浮かべながら視線を再び外に戻す。
「はぁ〜い、席についてぇ」
再びアニメ声が教室に響き渡る、この後ホームルームを済ませ寒い体育館にみんなで移動し校長の有難くもない話を聞かなければいけないと思うとちょっとウンザリする。
「でぇあるから、我が校に入学された皆さんは伝統を重んじ、勉学に励み……」
そんな事はどうでもいいだろうよ。きっと在校生の九割はそう思っているに違いない。足元から深々と冷えが体中をめぐってくるぜ。
去年の対面式は反対側に立っていた幸作達だが、一年経ってこの学校の内情を知った今は、寒さとの戦いと、長話をする校長を軽く睨みつける事しか考えていなかった。
「寒いな……校長の奴スイッチ入ったんじゃないか?」
隣で亮も足踏みするように寒さをしのいでいる。
「あぁ、今日は一時間コースじゃないか?」
暖房がついているため顔は温かいのだが、いかんせん足元から深々と冷え込むのは辛い、床暖房にしてもらいたいぐらいだ。
「そんなに長いんですか?」
近くでやはり体をゆすっている麻里萌が驚いた表情で幸作の顔を見る。
「あぁ、伝説の二時間朝礼だってあるぐらいだ、あの朝礼で何人のか弱い女子が保健室に担ぎ込まれたか……」
夏休み前の全体朝礼でこの校長はそれを遂行するという暴挙に出た。
その日はさほど暑くは無かったものの、一人目が倒れたかと思うとまるで後を追うように何人もの人が倒れていき朝礼終了後の保健室は満員御礼だったようだ。
「それは……嫌かも」
麻里萌の顔が嫌そうにゆがむ。
「俺だって嫌だよ……」
しかし幸作達の思いも通じず、校長の話はその後三十分は続いた。
「幸作、今日もバイトなのか?」
倒れることなく無事に朝礼を終え、教室でカバンを取ろうとする幸作に対して陸上部の部員らしくジャージ姿の亮がちょっと寂しそうな目を向ける。
今日は授業もなく校長の長話で終了。部活もやっていない俺はそのままバイト先に直行だ。
「そうだよ、生活費だからな」
両親が亡くなった後、国や市などから補助金を貰っているものの、やはり生活に支障が出る、学校も本来禁止なのだが特例として認められている。
「幸作帰るんでしょ? 途中まで一緒に帰ろうよ!」
背後から初音の声が聞こえる。
「エッ? 野木も一緒に帰るのか?」
初音が幸作の肩を叩きながらカバンを渡すとその様子を見て亮の表情が見る見るうちに曇る。
「悪いわね亮くん、あたし達のテニス部は明日からなんだよぉ〜べぇ〜」
初音はそう言い亮に向けて舌を出す。
どうやら、初音は他の女の子と違い亮の容姿になんとも思っていないようだ。
「ちぇ、なんだよ……俺も休もうかな……」
舌打ちをしながら亮は幸作の顔を見る。
「そうもいかないんだろ? 次期部長候補!」
スポーツ万能であるが為に陸上部でもトップクラスの記録保持者である亮は一年の時からすでに部長候補と呼ばれていて、顧問もそれを認めている。
「……でも」
亮が幸作の顔を見上げていると同じ陸上部の部員が声をかけてくる。
「ほら、お呼びよ、大変ね? 部長候補ともなると」
意地の悪い顔で初音が亮の顔を見ると、その表情は今にも泣き出しそうなものになっていた。
「くそぉ〜……」
亮は忌々しそうに初音の顔を見る。
「ヘヘェだ、いこ、幸作」
初音はわざと亮に見せ付けるように幸作の腕を取り歩き出す。その時幸作の腕には初音の柔らかいものの感覚がはしり顔を赤らめる。
たまにこうやって初音は腕を組んでくるがさっき啓太たちとあんな話をしていたせいで、妙に気になる……ハハ、初音もいろんな意味で大きくなったんだな?
幸作は不自然なまでに顔をその感覚の元から目をそらす。
「アハハ、亮君のあの顔、面白かったなぁ」
学校の最寄駅になる函館市電の柏木町の電停に向う最中、初音は愉快そうに微笑みながら歩いている。
「何で、あいつがあんな顔をしているんだ? あいつは初音の事が好きなのかな?」
幸作はわけがわからんといった表情で初音の顔を見る。
「わっ、わからないの?」
初音は拍子抜けしたような表情で幸作の顔を見上げる。
わかっていれば、俺は君に聞いたりしないが?
「うん」
素直に幸作はうなずくと、初音は意地の悪い表情を浮かべる。
「かわいそうに亮君、やっぱりこの男は鈍感男なんだねぇ」
ちらりと幸作の顔を見ると、ため息を吐きながら同情するような顔で初音は首を振る。幸作はきょとんとした表情のまま初音の顔を見つめるだけだ。
「あのね、亮君は幸作の事が好きなのよ……男の子だけれどね? でも、幸作はそんなことをぜんぜん気にしていないって言うこと、そして、それは禁じられた恋……あぁ、ドラマや小説での中の世界が、今あたしの目の前に繰り広げられているかも……」
初音は恍惚の表情を浮かべながら宙を見上げる。
「……そんなわけないでしょ?」
真剣な顔で幸作はそれを否定する。
頼むからそれははっきりと否定させてくれ……そんなアブノーマルな世界は青少年には不健全極まりない。
「あたしもそう思うよ……」
瞬時に初音の顔は真顔になる。
「このあたしにでさえ彼氏とかいないのよ? そのあたしを差し置いて幸作に彼女が出来るなんて許されるわけ無いじゃない」
「彼女って、あいつは男だぜ? それに俺にはその手の趣味は無い!」
話の観点が大幅に狂っているような気がするぜ。
幸作は苦笑いを浮かべながら再び電停に向って歩き出すと、電停には見慣れない、いや、既に見慣れた見慣れない制服(?)の女の子が電車を待っている。
「あら? あれ麻里萌ちゃんじゃない? ヤッホ〜麻里萌ちゃん」
初音は幸作の腕を引っ張りながら麻里萌に向かって歩き出す。
「麻里萌ちゃんもこっちの路線なの?」
初音はお構いなしに麻里萌の前でにっこりと微笑む。
「あ、野木さん、野木さんと……戸田君……」
腕を組んで歩いている二人を見て一瞬浮かんだ麻里萌の笑顔が瞬時に陰る。
「野木さんなんて、そんなよそよそしい言い方はなし! あたしは初音で良いわよ、それにこれは幸作で十分!」
これって、ひょっとして俺のことか?
幸作が噛み付く間もなく、初音の指は幸作にむいていた。
「初音……お前にこれって言われる筋合いはないと思うが……」
「アハハ、ゴメン、でも、そんなよそよそしい言い方は無しにしよ、ネ?」
まぁ確かによそよそしい言い方は俺も好きではないが。
麻里萌はそんなやり取りを見てうつむき加減で二人を見上げる。
「仲が良いんですね? お二人は」
ちょっと待て? この二人のやり取りが、仲がいいというのは日本全国の仲の良い人たちをすべて敵に回していないか?
「な、仲が良いの? あたし達が?」
「ウン、幸作……さんは、初音さんの彼氏ですか?」
チラッと組んでいる腕を見ながら麻里萌が言う。
「か、か、彼氏ぃ〜?」
幸作と初音は思わず顔を見合わせ慌てて組んでいた腕を解く。
「そんなわけないでしょ? ただ俺と初音とは小学校からの腐れ縁みたいなもの、そんなこと考えた事なんて今まで……なかった……よ」
そう言いながら、自分の顔が真っ赤に変化することがわかる。そう、初音は千鶴と同じ小学校からの友達で、それ以上でもそれ以下でもない。確かに向こうの親とも顔見知りだし付き合っているように見えるかもしれないが、それは第三者者からの視点でしかなく、俺たちにお互いそんな感情はない……多分。
「そ、そうだよ、あたし達は別にそんな感情無い……無いわよ」
ちょっと言いにくそうに初音はそう言い幸作の顔を見上げる。
「じゃあね、麻里萌ちゃん、幸作、また明日ね!」
市電の函館駅前で降りる初音の顔はいまだにちょっと頬を赤らめているような気がする。
「ウン、初音ちゃんも明日ね」
元気に手を振る麻里萌はそれまでのイメージとは違った、元気のいい女の子になっていた。
「幸作君、初音ちゃんは函館駅の近くに住んでいるの?」
電車が動き出すと同時に麻里萌は幸作の顔を見上げる。
「いや、住んでいるわけじゃないんだけれど、お店の手伝いをしているんだ」
初音は函館の朝市にある魚屋の一人娘で、部活の無い日は学校が終わるとお店の手伝いに行く、だから函館駅前で降りるのである。
「お店?」
麻里萌は当然の事ながら首をかしげる。
「そ、初音の家は朝市でお店をやっていてその手伝いをやっているって言うこと」
ガタゴトと揺れる市電の中、ぶら下がっているつり革はその動きに忠実にゆれている。
「えらいなぁ……」
ふとそう漏らす麻里萌の顔がいままでとは違いちょっと大人っぽく見える。
「えらい?」
幸作は、首をかしげながら自分の肩より下にある麻里萌の事を見る。その顔はさっき一瞬見せた大人っぽい表情ではなく、再びいつもと同じように微笑んでいるファニーフェイスに戻っていた。
「うん、あたしの家ってサラリーマンだったから、家の手伝いと言ったらお母さんの手伝いぐらいしか思いつかない……」
麻里萌は苦笑いを浮かべながら幸作の顔を見上げる。
「それだってえらいじゃないか? 家の手伝いをする、家族の事を思っていると言うことだよ、内容がえらい訳じゃないでしょ? 気持ちだよ」
そう、手伝いをするのに大きいも小さいも無い、手伝う気持ちそれが重要なんだよね?
「気持ち……ウン! そうだよね?」
満面の笑顔を麻里萌が向けてくる。おっ、やっぱり可愛いなぁ……。同い年とは思えないその笑顔はどことなくあどけなさが残っており、恋愛感情の対象になるのか疑問符ではあるが、正直、可愛らしい笑顔であることは間違いないなぁ。
不意に幸作の頬が熱を持ち、それを悟られないように幸作は車内に張ってある広告に視線を移す。
『次は十字街です……』
アナウンスと同時に幸作は降車ボタンを押す。
「あれ? 幸作君は今朝『宝来町』から乗らなかったっけ?」
その幸作の行動を麻里萌は不思議そうに見ている。
「あぁ、家は『宝来町』だけれど、バイト先に直行だから……」
幸作は鼻先をかきながら、麻里萌のその視線に対応する。
「バイトしているの?」
麻里萌のその視線が尊敬の眼差しのようにきらめく。
「うん、ベイエリアの喫茶店でね……今度来てよ」
幸作は急ぐように降り電車の外から麻里萌に手を軽く振る。
=喫茶「カレイドスコープ」=
「おはようございます」
店の中に幸作の声が響き渡る。
「おぉ、幸作、今日は学校半ドンだったのか?」
カウンターの中からこのお店のマスターがにっこりと微笑み幸作を迎え入れる。
「今日は始業式だから早いんですよ」
幸作はそう言いながら厨房に入り込み使い慣れているエプロンを手にする。
「そうかぁ、学校は今日からだったよな……商売をやっているとそういう行事がわからなくなるよなぁ」
マスターはタバコを咥えるとカウンターに寄りかかる。
「まぁ、長い休みは学生と学校の先生の特権ですからねぇ」
そう言いながら幸作は厨房に使われたまま置かれている皿を洗い出す。
いつもならマスターの奥さん……杏子さんがやっているはずなのに今日はやっていない、それに姿も見えないけれど、どうかしたのかな?
「マスター、杏子さんはどうしたんです? 姿見えないけれど、逃げられましたか?」
幸作は厨房から意地の悪い顔でマスターを見る。
「ば、馬鹿言うなよ……その、ちょっと用事があってだな、出かけているだけだ」
そういうマスターの顔はちょっと頬が赤らんでいる。
「毎度ぉ〜」
カラン、店のドアが開くとそこには幸作の中学時代の担任の先生が入ってくる。
「いよぉ〜、今日は始業式だから早いらしいな? 佐木」
丸顔にメガネのその先生の顔は幸作が世話になっていたときとまるっきり変わらない笑顔を見せている。
「そんなことないよ、早く帰れるのは学生だけ、僕たちはこれから職員会議だ、会議の前にちょっと腹ごしらえしようと思ってね」
佐木はちょっとうんざりした顔でカウンターに座ると幸作に気がつき再び笑顔を見せる。
「おぉ、幸作、元気にしているか?」
幸作も笑顔になり厨房から佐木の顔に笑顔を送る。
「ハイ、先生もお元気そうでなによりです」
このお店のバイトを斡旋してくれたのはこの佐木先生だった。いくら補助があるとはいえ、それだけでの生活はきつく、高校進学しないと先生に相談したときにこのお店でのアルバイトを薦めてくれた。本来はいけないことらしいが、先生が各方面に頼み込んでくれて実現することが出来た、本当に俺にとって恩師である。ちなみにこのマスターと先生は高校時代からの付き合いで、奥さんの事も良く知っているらしい。
「それは良かった、郁子ちゃんも元気か?」
「ハイ」
佐木はそう言う幸作をうなずきながらメガネの奥から優しく微笑み見る
「そういえば杏子ちゃんはどうしたんだ?」
厨房でランチを作っているマスターに佐木は幸作と同じ質問を投げかける。
「あぁ、いや、その……ちょっとな……医者に行っている」
マスターはこの話題になると答え難そうにするが、なんだか変だよなぁ、さっきからこの話題になると顔を赤らめて言葉を濁すけれど、本当に何かあったのかな?
「どこか具合でも悪いの?」
佐木は心配そうな表情でマスターを見る。
「いや、具合が悪い訳じゃない……と思うけれど」
フライパンを揺すりながらマスターは佐木の顔を見るが、やはりその頬は紅潮している。
「具合悪い訳じゃないって……あぁ、もしかして」
佐木は、口に含んだお冷を吹き出しそうな勢いでマスターを見るが、徐々にその顔には笑顔が膨らんでゆく。
「おめでたかな?」
おめでたって? もしかして……赤ちゃん?
「まっ、まぁ、まだわからないけれどね? それで医者に行っていると言うことなんだよ」
マスターは真っ赤な顔をして出来上がったランチを佐木の前に置く。
「そうかぁ、君がお父さんにねぇ……おめでとう」
先生、なんだか自分のことみたいに喜んでいる、いいなぁこういう友達関係、仕事をはじめても一緒に喜びを分かち合えるなんて羨ましいな。
幸作は、その二人の様子を見ながら、ふと周囲の友人を思い浮かべる。
皆仕事を始めたらどうなるんだろうな? 離れ離れになっちゃうのかな? それともこうやっていつまでも付き合っていけるのかな?
カラン……。
マスターたちのやり取りを見ているとお店の扉が開く。そこに立っているのは腰まで髪の毛のある長身の女性……マスターの奥さんでもある杏子が立っている。
「お帰り! どうだった?」
待っていたように声をかけるマスターに対して杏子の顔には嬉しさを感じている様子ではない、もしかして違ったのかな?
「……うん」
返事にも元気がない、やっぱり違ったんだ……何か励ますことは出来ないかな?
幸作は、そう思いながらオロオロと杏子とマスターの様子を眺める。
「杏子……」
マスターの顔も徐々に沈んでいく。その様子を見ている佐木も、ランチに付いているポテトサラダの手前でフォークを止めたままになっている。
「……エヘ、三ヶ月目だって!」
一瞬にして、杏子とマスターの顔に笑顔が膨らむ。
「そうか……おぉ、そうか! やったな!」
マスターはそう言い、杏子とハイタッチを交わし、喜びを隠そうとはしない。
でも、だったらなんで、杏子さんはあんな暗い顔をしていたんだ?
呆気にとられている幸作の顔を杏子が覗き込む。
「幸作君、なにそんな顔をしているのよ、お祝いぐらい言ってくれてもいいんじゃない?」
意地悪い顔をしている杏子の顔だが、その表情は華やかで、ちょっと目が潤んでいる。
ハハ、なるほど、照れ隠し……なのかな?
「おめでとうございます、元気な赤ちゃんを産んでくださいね?」
幸作も素直にその台詞が出てくる。
「ありがと、幸作君!」
杏子はにっこりと微笑み幸作を見る。その笑顔には、不思議と今までになかった優しい表情が浮んでいる、母親の表情とでも言うのだろうか。
「となると、杏子がお店に出られるのもあと少しだな?」
マスターは厨房で仕込みをしながらカウンターに立っている杏子に声をかける。
「そうかも、医者から、あまり無理しないようにって言われたわよ」
幸作がカウンターの奥でお客に出すコーヒーの準備をしている時にそんな会話が二人から聞こえてくる。
「そうだよな? お前も医者に行ったりしなければいけないだろうし……」
マスターは顎に手をやりながら困ったように首を傾ける。
「こんにちわぁ〜」
店の扉が開くと今度は背中まである髪の毛をまとめ上げている女の子が立っている。幸作は良く知っている娘、そしてこのお店の常連になっている娘だ。
「やぁ、千鶴ちゃん、毎度」
宝城千鶴……幸作の幼馴染で、中学まで一緒だった。高校はお互いに違う高校に進んだが、たまにこうやってお店に顔を出す。
「マスター、こんにちは、幸作も元気?」
千鶴はにっこりと微笑みまとめ上げていた髪の毛を下ろしながらカウンターに座る。
「おう、千鶴は今日部活だったのか?」
中学時代からやっていたバスケットボールが続けたくて、地元では強いと言われている私立の高校に進学した。
「うん、来週には新人が入ってくるからね? 新人に負けられないわよ……マスター、フルーツパフェにシナモンティー」
千鶴はいつもと同じメニューをオーダーする。
「ハイよ、幸作、パフェ一丁」
「ヘ〜イ」
幸作はパフェグラスを取り出し、冷蔵庫から色とりどりのフルーツを手際よく並べる。
このお店のパフェは幸作が作る、特に手先が器用というわけではないのだが盛り付けには個人的にこだわりを持っていて、それが好評で地元のタウン誌にも紹介された事があるぐらいだ。
「ヘェ、杏子さんがおめでたかぁ……じゃあしばらくお店に出られないわよね? あ〜ぁ、あたし杏子さんに憧れていたのになぁ」
千鶴は、美味しそうに幸作の作ったパフェをぱくつきながら、残念そうな表情で杏子とマスターを見る。
確かに、メリハリのついたそのボディーラインは男のみならず、女性にも人気があるかもしれない。しかし、その細い腰に子供が入っていると言うのは人体の神秘だな。
幸作は思わず杏子の腰の辺りを眺めてしまう。
「……幸作、目つきがやらしいわよ?」
その視線を見ていたのか千鶴は幸作におしぼりを投げつける。
「な、なに言っているんだよ……俺はそんな……」
そう言いながら今度は千鶴に目がいく……いずれ、千鶴も子供を生んだりするのかなぁ、初音や、留美も……。
「もぉ、なに見ているのよぉ、幸作のえっちぃ」
頬を赤らめながら千鶴はそっぽを向く。何でえっちなんだよぉ。
「えっち言うなよ……いずれはお前や初音だって……」
幸作はそこまで言うと不意に頬を赤らめる、それに反応したように千鶴も顔を赤らめる。
「ウフフ、そうね? いずれ千鶴ちゃんや初音ちゃんだって自分の子供を生むことになるのよ? そのお父さんは一体誰かしらね?」
杏子のその一言に幸作は顔を真っ赤にしてうつむくが、千鶴は上目遣いでちらっと幸作の事を見ていた。
「そっ、そうだ、ねぇ、幸作、今度の試合見に来てくれるよね?」
千鶴は、話題を逸らすかのようにシナモンティーを飲みながら入ってきたお客にお冷を持っていく幸作の背中に声をかける。
「試合? 何のことだ?」
幸作はその客からのオーダーを厨房に通しながらカウンターに座っている千鶴の顔を見る。
「やっぱり忘れているぅ、今度の月曜日うちの学校での対抗戦、幸作見に行くって言っていたじゃないのよぉ……あたしレギュラーで出るんだからね!」
千鶴はプックリと頬を膨らましながら幸作の顔を睨む。
「そうだっけ? でも、お前の学校じゃあ行き難いんだよな」
幸作は洗い上がったグラスを乾拭きしながらはぐらかすように言う。
千鶴の通う高校は函館山とは対面にある山の中腹にある為にバスでないと行けないという非常に不便な所にあるんだよなぁ……しかも共学とはいえ、女子の比率が高く女子高のようなノリらしく、きっと俺の苦手な雰囲気であろう。
「だぁかぁらぁ、バスで来ればいいじゃないのよ……あぁ! 嫌なんだ、あたしと一緒にいるのがばれると何か困ることでもあるの!」
千鶴はすねるようにカウンターに顔を伏せる。
「何をわけのわからんことを……」
困り果てている幸作の元に杏子が顔を出す。
「千鶴ちゃんは幸作君に応援してもらいたいんでしょ?」
杏子がそういうと、千鶴がガバッと顔を上げるとその顔は真っ赤になっている。
「そ、そんなことない、別に幸作が来なくても頑張るけれど……でも、約束したし……それに、あたしの試合している姿を見てもらいたいかなって」
モゴモゴと言うその千鶴の台詞は、幸作には聞き取ることが出来ず、杏子にしか届いていないみたいだ。
「ウフ、幸作君行って来れば? お店も休みだし、せっかく千鶴ちゃんがこうやって誘ってくれるんだもの、女の子の申し入れを断るなんて罰が当たるわよ、それもこんな可愛い娘の申し入れを!」
杏子は意地の悪い顔をして幸作の脇を突っつき二人を見る。その当人でもある二人は顔を赤らめながら互いにうつむいてしまう。
「ハァ……行ってきます」
渋々といった感じで幸作が答えると、千鶴の表情が明るくなる。
「やた、絶対だよ幸作! 忘れたら承知しないからね?」
「わかった、忘れないし約束するよ」
幸作はにっこりと微笑んで千鶴の顔を見る、その千鶴の表情は明るくにっこりと微笑み、その表情は小学校の頃の面影を少し残している。
「ウン! じゃあマスター、あたしこの辺で帰ります」
そう言いながら、千鶴は緑のチェックの入ったスカートを翻しお店を出て行った。その後姿には喜びが隠し切れないようで、背中では千鶴の気持ちを表すかのように髪の毛が揺れていた。
「……なんだかなぁ」
ため息をつきながらその姿を見送っている幸作に杏子が声をかけてくる。
「いいわね? 青春っていうやつかしら……あたしももう一回青春したいかも……」
杏子は冷やかすような表情で幸作の顔を覗き込む。
「そうですか? 俺には良くわかりませんよ……」
首をかしげながら幸作は杏子の顔を見る、その顔には優しさにも似た笑顔が浮かんでいる。
これが青春というやつなのかなぁ? 良く明るい学生生活などと言うが、俺にしてみればバイトと学校の二刀流、早く就職をしたいというのが正直な気持ちだ。
「ウフフ、わからないで当然よ、卒業して働くようになってはじめてわかると思うわよ、青春時代なんていうものは」
杏子はそう言いながら含み笑いをこぼす。
働いて初めてわかるものかぁ……。