坂の街の小さな恋……

〜♪〜 はじまりの春 〜♪〜

第三話 季節はずれの雪



=お買い物=

「お先に失礼します」

 マスターをはじめ夜の部をまかなっている美都子さんに声をかけ店を後にする。

「幸作君、お疲れ様」

 猫目かかった美都子の目は優しく幸作のことを見送る。

「ハイ、お疲れ様です、マスター帰ります」

 幸作は厨房で忙しそうに動き回っているマスターに声をかけ店の扉を押す。

「オウ、お疲れさん、気をつけて帰れよ」

 その背後からはマスターの気さくな声が聞こえてきて幸作はその声に手を上げ答える。

街並みは既に暗くなり、空気が冷えてきた……昼間は暖かいといっても、さすがに日が暮れるとまだ寒いな。

幸作は身震いをひとつしてコートの襟を立て家路に向う。

マフラーこそ今は必要の無いものの、首を冷やすなって良くお袋から言われたよな? 首を冷やすと風邪をひくって。

幸作は幼い頃から言われていたことを思い出しながらフッとため息を漏らすと、それは寒さを象徴するように白く濁る。

「さて、買い物して帰らないと、また郁子に文句言われるなぁ」

 幸作は、ポケットから郁子の丸っこい字が書かれているメモを取り出す。そこにはトイレットペーパーやティッシュなどの生活用品の名前がびっしりと書き込まれている。しかも、これ特売と赤字で注意事項まで書かれている。

「ハハ……こんなにあるのかよぉ、参ったね」

 ため息交じりに幸作は十字街の電停を通り過ぎ、アパートの近くにあるお店の方角に向って歩いてゆく。

「それにしても……さみいなぁぃ」

 海からの風を浴びながら幸作は身震いをひとつして首をすくめる。



『みんなの街のぉ〜……♪』

 アパートの近くにある函館地域限定のチェーンスーパーに入ると耳に残る音楽がまるで洗脳するように流れ続け、その音楽に踊らされているかのように買い物客が右往左往している。

「エェッと……これと、トイレットペーパーは……、やった、今日は安いな、ラッキー」

 特売と書かれているそのトイレットペーパーは普段より安くなっており、しかも残りがわずかということもあって、それを見つけた瞬間に幸作は小さくガッツポーズを作る。

なんだか高校生でありながら主婦みたいなささやかな幸せだな。

幸作はそれで喜んでいる自分に対し苦笑いを浮かべる。

「あれぇ? 幸作君?」

 苦笑いを浮かべている幸作に対し女の子の声がかかる。聞き覚えはあまり無いものの恐らく同じ学校の女子であろう。

あぁ、こんな所を同級生に見られるなんて最悪だぁ、きっと笑われるだろう。

幸作は、高らかに笑われることを覚悟してその声に向って顔を向ける。

「あれ?」

「やっぱりそうだぁ……なんで?」

 そこにいるのはさっきまでの制服姿ではなく、普段着姿の麻里萌が立っている。その表情は笑うでもなく、なぜそこに幸作がいるのか理解が出来ないと言ったような表情だった。

「何でって……買い物だよ」

 幸作も照れ臭さを隠すようにちょっとうつむき加減に麻里萌に答える。

「ヘェ、幸作君も買い物なんてするんだぁ……ちょっと意外かも」

 意外というのはどういう意味なのかな?

 高らかに笑われると予想をしていた幸作の予想に反し、麻里萌は真剣に幸作の顔を見つめている。

「意外かな?」

 幸作はちょっと顔を赤らめながら麻里萌の事を見て首をかしげる。

「うん、幸作君って家では何もしないような感じがするよ」

 麻里萌はにっこりと微笑み幸作を見る。

あぁ、まただ、この笑顔を向けられると、なんだかホッとするような、温かいようなそんな気がしてくるんだ。

「そうかな?」

 照れ臭そうに幸作は鼻先を掻きながら麻里萌を見る。

「うん、そんな感じ」

 それに対してにっこりと微笑みながら麻里萌は大げさなまでに首を縦に振る。

「ハハ……それはどうも……」

 幸作はそう言いながらメモを見て次の買い物を再開する。

「後は何を買うの?」

 思いも寄らない展開に幸作の足が止まる。麻里萌が幸作に付いて歩き出したのだ。

「エッ? いや、後は、トイレの芳香剤とかかなって、そうじゃなくって! 麻里……いや笹森さんは買い物終わったのかい?」

 確かに麻里萌は買い物カゴを持っているものの、その中にはまだ何も投入されていない。きっとこれから買い物を開始しようという感じである。

「ヤダなぁ、麻里萌……でいいよ幸作君」

 麻里萌はちょっと頬を赤らめながら幸作に向かってそういう。

「あっ……っと、じゃあ、麻里萌……ちゃんは何を買いに来たのかな?」

 照れる、初音や、千鶴たちは小さいときから呼びなれているから気にもしていないけれど、ほぼ初対面の娘に向って名前で呼ぶのは照れくさい。

「エェ〜とですね、引越しの片付けをしていたらこんな時間になっちゃって、このあたりで何かを取るにしても良く分からなし、このお店で出来合いの惣菜を買ってしまおうと思ったの、エヘ、うちの家族みんな無精者だから」

 そんな幸作の事など気にした素振も見せずに、麻里萌はペロッと舌を出しておどける。

 ハハなんだか既に昔からの友達みたいだ……気取らないというか……。

 幸作はそんな麻里萌を横目で見ながら、一つの案を提案する。

「だったら、惣菜コーナーにいってみるといいよ、この時間ならタイムサービスをやっていると思うから」

 言うが早いか動くが早いか、幸作はそこを目指しながら一直線に歩き出す。

「ちょっ、幸作君?」

 麻里萌が驚いた表情で幸作の後をついてくる。

 勝手知っているこのお店のことはこの幸作君にお任せだよ!

「ここの惣菜は『カツ』がお勧め、揚げ物も美味しいけれど、もともと水産会社だから、魚も美味しいよ、アッ、今日はぶりの照り焼きが安い……」

 特売の文字を見つめながらも幸作は目移りするように惣菜売り場を眺め回す。

「本当に美味しそう……これは? 安くなっているよ」

 麻里萌は三十%OFFのシールの張られたパックに入っている惣菜を見てにっこりと微笑む。

「いや、こっちだな、素材がこっちの方がいいよ……それにこれも良いかも知れないな」

 幸作はそう言い、パックを麻里萌に渡す。麻里萌もそのパックをおとなしく受け取る。

アッ、ホッケの塩焼きタイムサービスだ……うん、素材も良し! これは買いだな?

そんな様子の幸作を見ながら麻里萌はクスッと微笑む。

「ウフ、幸作君って主婦みたいだね? ちょっとかっこいいかも」

 はたと気が付くとそこには麻里萌の微笑と、パックの惣菜の入ったカゴがあった。

「ごめん、多すぎたかな?」

 幸作は頭をさげる。

「大丈夫だよ、お母さんも食べるし、弟も食べるだろうからこれぐらいあっても大丈夫だよ、それに全部美味しそうだから、ウン平気だよ!」

 麻里萌はそう言いながらレジに向う。



「あれ? 幸作君今日は彼女と一緒かい?」

 レジには生憎と言うべきであろう、顔なじみのおばさんがいて、案の定であろう冷やかすような目で麻里萌と幸作の顔を見比べている。

「おばさん、違うよ……何勘違いしているんだい」

 きっと顔は赤くなっているだろうな?

幸作のその顔は温風器に当たっているように顔だけが火照って仕方がない……。その隣では同じように顔を赤らめている麻里萌の姿。

「違うのかい? さっきチラッと見たら、なんだか仲のいい若夫婦みたいな雰囲気だったけれどねぇ」

意地の悪い顔でおばさんは二人を眺める。

「若夫婦って……」

 麻里萌はまるで沸騰しているかのように顔を真っ赤にしてうつむいている。

「おばさん! 早く後ろがつかえちゃうよ?」

 ……といっても後ろには並んでいる人などはおらず、十分におばさんが幸作たちを冷やかす時間はありそうだ。

「でも、幸作君が郁子ちゃんや千鶴ちゃん以外の女の子と一緒にいるのをはじめて見たような気がするよ……あの小さかった幸作君が彼女を作る歳になるなんてねぇ……あたしも歳を取るはずだよねぇ」

 おばさん、何をそこでしんみりしているのかな? それにもうおばさんは麻里萌のことを彼女と決め付けているし……って、彼女かぁ……。

幸作は麻里萌の顔を見ると、その顔には既に笑顔に変わっている。

 彼女ねぇ……こんな娘が彼女だったりしたら……良いかもしれないなぁ。

 幸作の顔が少しにやける。



「毎度どうも……彼女、幸作君はいい子だから見捨てないでやってよ」

 レジを打ち終わりおばさんは麻里萌の顔を見ながら真剣な表情で言う。

 見捨てないでやってって、おばさん、そりゃないよ。

幸作がうなだれていると、麻里萌はにっこりと微笑んでおばさんにうなずいているようにも見えた。



「面白いおばさんね? 幸作君の知っている人?」

 知っているも何も、小さいときから買い物に来ているこのお店で知らない顔の店員さんの方が少ないかもしれないな……。

「うん、昔からよく来ていたから……」

 幸作は照れくさそうにうなずきながら店の外に出ると既に外は夜の帳が下り、ヒヤッとした風が幸作たちの体を包み込む。

「さむぅ〜いぃ〜」

 麻里萌は小さい体をさらに縮みこませる、それもそのはずだ、麻里萌の着ている服はまだ着るには早そうな春物の洋服にカーディガンを羽織っているだけだ。

「そんな格好じゃ寒いよ……これを着な」

 幸作はそう言い、着ていたコートを突きつけるように麻里萌に渡す。

「でも、幸作君がそれじゃ……」

 麻里萌は心配そうな表情で幸作を見上げる。

「俺なら大丈夫だよ、道産子だからね? 寒いのには慣れている」

 そう言いながら、幸作はガッツポーズを作って見せる。

 でも、本当はちょっと寒いかも……。

「本当に借りちゃってもいいの?」

 もともと大きい幸作のコートは麻里萌の体型に合うわけがなく、ぶかぶかというよりも潜っているといった表現の方が良さそうなほどだ、しかしその顔は嬉しそうに微笑んでおり、その顔に幸作は満足感を得る。

「かまわないって……気にするな」

 幸作は相変わらずぶっきらぼうに言うもののその横目ではそのコートを羽織っている麻里萌を見て満足する。

 やっぱり可愛いかもしれない……。

「アハ、ぶかぶかだぁ、幸作君のコート大きいなぁ、お父さんのと同じよう……それにやっぱり……暖かい」

 ぶかぶかのコートに顔を埋める麻里萌の表情がちょっと寂しそうだったことを幸作は見落としていた。

「ハハ、それは幸いだよ」

二人が歩き出すと間もなく頬に白く冷たいものが当たる。



=夕食時=

「あら? 雪?」

 スーパーを出てそれこそ数歩歩いた所で空から白いものが落ちてくる。それに気が付き麻里萌は空を見上げる。

「本当だ、もう降らないと思っていたのに、まだ降るのかよ……」

 嬉しそうな表情を浮かべる麻里萌とは裏腹に幸作はうんざりした表情が生まれる。

せっかく道端の雪が消え始めて、歩くときも足元を気にしないで良くなってきたというのにまた雪かぁ、積もらないといいな。

「……初雪ね?」

 麻里萌がそう呟くのが幸作に聞こえる。

初雪?

幸作は麻里萌の言っていることがちょっと理解できなかった。

「ううん、函館に来て初めての雪だから初雪かなって……」

 麻里萌のそういう横顔はそれまでの表情とは違った、幼さを待たない大人っぽいというか、何か思い深げな表情だった。

「そうか……でも、この季節の雪は冬の雪と違って湿った雪だから濡れちゃうよ、早く帰ったほうがいい、麻里萌ちゃんはこっちなの?」

 幸作は麻里萌の顔を見る、するとそこには真っ赤な顔をした麻里萌の顔があった。

「ウン、でも……」

「コートは明日にでも返してくれればいいよ、早く帰らないと風邪をひいちゃう、じゃぁ気をつけて帰るんだよ」

 幸作はそう言い軽く手を上げ麻里萌に別れを告げ小走りに自宅に向かうがその顔はやっぱり嬉しいようなそんな表情を浮かべていた。



「ただいまぁ」

玄関を開けるとほっとするような暖気と共にお味噌汁のいい香りが部屋の中から漂ってくる。

「おにいちゃんお帰り〜」

 お味噌汁のいい香りと共に郁子が飛び出してくるがその姿はまだ制服を着たままだ。

「なんだ、まだ着替えていないのか?」

 呆れた顔をする幸作の目の前にいる郁子は中学のセーラー服を着たままで、その上からエプロンをしている。

「なんだってなによぉ」

 郁子は瞬時に頬を膨らませながら抗議の目を幸作に向ける。それには、なにやら迫力すら感じるぐらいだ。

なんだか中学に入ってから迫力が増したような……まさか何かのセールみたいに何十パーセント増量なんていうことはないのだろうけれど、年々迫力がこうやって増していって、そして女は強くなっていくのかな?

「いや……でもぉ……ですね?」

 いかん郁子の気迫に押されている。

「でも、じゃない!」

「はい!」

 やっぱり中学に入ってから迫力が二十パーセント位増量されているような……。

 ふと今買ってきたトイレの芳香剤の歌い文句を思い浮かべてしまう。

「学校から帰ってきて、洗濯して、そしてお買物行って、お風呂を掃除して、そして気がついたら暗くなってきたから慌てて料理をしていたらおにいちゃんが帰ってきたの!」

 一気に話し切る郁子。

「はい! お疲れ様です!」

 幸作はそう言いながら敬礼をするように郁子に頭を下げる。その郁子は毒気を抜かれたようにフッとため息をつき幸作の着ている物の異変に気が付く。

「そういえばお兄ちゃん、コートはどうしたの?」

 それはコートを羽織っていない幸作に疑問を持ったようで、郁子は首をかしげながら幸作の顔を見る。

「あぁ、ちょっと寒そうな格好をした同級生がいたから貸してあげた」

 照れたように言う幸作の顔を見ながら郁子は鼻を鳴らす。

 嘘はいっていない、同級生は同級生だ。

「……フーン、可愛い娘なのかな?」

 鋭い! 我が妹なれど侮れないな。

 幸作は苦笑いを浮かべるとその表情を読み取った郁子の口が横にニィーっと広がる。

「おにいちゃんにも春が来そうなのかな?」

「馬鹿こくな!」

 幸作の一言で郁子は逃げるように台所に姿を消す。



「おにいちゃん、今日はホッケの開きよ、おにいちゃんは早くお風呂に入ってきて」

 せかされるように肩を押され幸作は風呂場に押し込められる。

「ホッケの開きねぇ……ハハ、さすがは兄妹だな?」

幸作は制服を脱ぎ捨てお風呂に足を向ける。

「なんだかいろいろあった一日だったな」

 バシャ……。

 幸作は、ゆったりとお湯につかりながら今日あった出来事を思い浮かべながら湯船に浸かる、そして不意に浮かんでくるのは麻里萌の笑顔だった。

 なんだか不思議な娘だよな? 今日会ったばかりなのに分かれる頃にはもう昔からの友達のようになっていた……都会の娘はみんなそうなのかな?

 幸作は市電の中で出合った時の事、そうしてホームルームの時に再会した時の事、帰る時初音に対しにっこりと微笑んでいる麻里萌の顔がよぎる。

 本当に不思議だ……今まで周りにいた娘とは違う感覚……気取ることの無い、そう、初音や千鶴と同じまるで小さい頃からの友達のような感じだ。

「同じ……なのかな?」

 初音や千鶴は幼馴染という気持ちが先行して異性という気がしない、でも麻里萌は違う……なんだろうこの気持ち、よくわからない……。

 幸作は湯船のお湯を顔にかける。

「わからんよ!」

 自分の気持ちがわからなくなった幸作は乱暴に湯船から立ち上がる。

 同級生は同級生なんだ、初音も同じ、千鶴も同じ……だからなんだって言うんだ!

 自分の訳の分からない気持ちに対し苛立ちを感じるものの、その苛立ちの原因がわからないまま幸作はそれを封印するように頭からシャワーを浴びる。



「ねぇ、おにいちゃんちょっとお願いがあるんだけれど……」

 ホッケの開きを目の前にしながらテレビを見ていると郁子が猫なで声を上げる。

こいつがこんな声を上げると言うことは何かがあるはずだ、でもなければ『お願い』などということをするはずがない。

幸作は思わずジトッとした目で郁子を見る。

「そ、そんな目で見ないでよぉ……」

 その目にちょっと気後れするように郁子は言い難そうに幸作の目を見る。

「エヘヘ、実はですねぇ……」

 目をそらしながら郁子は次の台詞を選ぶように話し出すが幸作は無言でホッケの開きの身を無心にほぐす。

「そのぉ〜……部活をやりたいなぁって思って……」

 ボソボソっと郁子は話し出す。幸作は手元にあったお茶に手を伸ばす。

「小学校のクラブでバスケやっていたでしょ? 中学でも続けたいかなって、千鶴姉ちゃんみたいに……カッコ良くなりたいし……」

 小さい頃から千鶴にべったりだった郁子らしい意見だ、それにそれを拒む理由は俺にはないし、それに郁子には普通の中学校生活を送ってもらいたいかな?

「……ズズゥ〜……ハァ」

 お茶を飲み一息つく。ご馳走様でした。

 幸作はお茶の入った湯飲みを目の前に置き、郁子の顔をまっすぐに見る。

「……おにいちゃん、どうかなぁ?」

 郁子は心配そうな顔で幸作の顔を覗き込む。

「いいんじゃないか? バスケ、やってみろよ、俺が協力できることならいくらでも協力してやるよ、千鶴に聞くのも良いかもしれないしな?」

 それまでの表情が嘘のように郁子の顔に笑顔が広がってゆく。

「ホント? おにいちゃんいいの? ……でも夕食の支度とかはどうする?」

 郁子は何よりもそれが心配だったようだ。幼いながらも両親を亡くしてから母親の見よう見まねで郁子がいつも夕飯の支度をしていた、そのせいで小学校の頃はぜんぜん友達と遊べなかったであろう。何よりそれが幸作にとっても苦々しい思いだった。

「馬鹿にするなよ? こう見えても『カレイドスコープ』のパティシエと呼ばれた腕前だ、料理だって最近はマスターが教えてくれるし、お前が遅くなるときは俺が作ってあげるよ」

 そう言い幸作は郁子にウィンクを送る。

お前には何よりも同じ年の女の子と同じように笑ったり怒ったりしてもらいたいからな……怒るのはちょっと嫌かな?

「おにいちゃん……」

 そういう郁子の目には涙が浮かんでいるものの顔には笑顔が浮かんでいる。

「おにいちゃん! だぁ〜い好き」

 そう言い、郁子は幸作に抱きついてくる。

ハハ、久しぶりだな、郁子にこうやって抱き付かれるのも……そのうちそれもなくなるのかなと思うとちょっと寂しいかな? ハハ、親父の気分だぜ、まるで……。

幸作は抱きついてきた小さな郁子の肩を抱き、小さな頭を撫ぜる。



「部活はね、月・水・金の週三回なんだって、それで、月に一回土曜日休みのときに違う中学校にいって対抗戦をやるって言っていた」

 生き生きとした表情で郁子は幸作に話をする。

うん、良い顔だ、やっぱり郁子はこういう笑顔が似合う女の子なんだなって、そうだ! 対抗戦で思い出した、千鶴の対抗戦、忘れたらなに言われるか……。 

幸作はおもむろに立ち上がり、カレンダーにさっき店で千鶴が言っていた日付に丸印を入れメモを書き込む。

「何おにいちゃん?」

 郁子が不思議そうにそのカレンダーのメモを見る。

「あぁ、千鶴が学校の対抗戦に出るんだって、それの応援に行く事になったからな、忘れるとまた滅茶苦茶言われるから忘れないようにと思って」

 きっとあんな事やこんな事を……ましてはあんな事まで言うに決まっている! あの娘ならきっと言うぞ、間違いなく。

 その台詞を聞くなり郁子は意地悪な笑顔を見せながら幸作のわき腹を突っつく。

「おにいちゃん、やっぱり千鶴姉ちゃんのこと好きなんじゃない? でもあたしもいいと思うな? 千鶴姉ちゃんもきっとおにいちゃんの事好きだと思うし、千鶴姉ちゃんならあたしは嬉しいかもしれないなぁ」

 おいおい、君は何を言っているのかな? 俺の思考能力をはるかに超えたところの話を勝手に進めないでくれ。

「ねぇ、おにいちゃん、悪いことは言わないから千鶴姉ちゃんと結婚しちゃえば! そうしないと一生独身のままだよ? そうしたらあたしがお嫁にいけないじゃない、エヘヘへ」

 郁子はそう言いながら逃げるように風呂場に駆け込んでいった。

「馬鹿こくなぁ〜」

 むなしく響き渡る幸作の声だが、脳裏にはさっきお店であった事が思い出される……

いずれ郁子も結婚をして子供を生むようになるのだろう、そして、その時この俺も誰かと結婚しているかもしれない、そのとき隣にいるのは一体誰だろう……ハハ、本当に親父になった気分だ、きっと郁子の結婚式にでたら泣いてしまうかもしれない。

幸作はため息ともつかない息を吐き出しながらテレビをつける、そこでは始まったばかりのプロ野球をやっていた。



「うぅ、寒くなってきたな……まだ雪は降っているみたいだし」

 郁子も自分の部屋に入り込み、寝静まった部屋の中でカーテンを開けると、そこにはさっき降り出した雪がまだ降り続いている。

麻里萌は初雪って言っていたな……ハハ、東京の人間が言いそうなことだな? これからこっちに暮らすようになれば嫌でも毎日雪が見られるというのに、そんなことで喜べるというのはちょっと平和な感覚なのかな? 

幸作は何気なく麻里萌のことを思い出す。不思議な娘と言えばそうかもしれない。初対面なのにあんな笑顔を見せて、次に会ったときにはまるで昔からの知り合いに再会できたような安堵の笑顔を見せて、そして、ちょっと大人っぽい笑顔を見せるなんて、もうちょっと都会の女の子はスレていると思っていたが勘違いだったようだ。

幸作は麻里萌の笑顔を思い出すと、無意識に赤面するのが自分でも良くわかるほどであった。

なんだろう? 気になるな、あの娘の事……。

「笹森麻里萌……かぁ」

 その夜久しぶりに親の夢を見た。親父とお袋で行った旅行の時だろうか、郁子はまだ小さく、お袋の腕の中ですやすやと眠っている。しかし、そこは行った事のない東京の景色、当然両親と行った事などないし、幸作自身も見た事のない景色だ、未来都市のようなビルがいっぱい建っていて、空は小さい……これが東京なのかな? まるで息が詰まりそうな街だな……。

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