坂の街の小さな恋……
〜♪〜 はじまりの春 〜♪〜
第十話 麻里萌の気持ち
=運命とは?=
「お兄ちゃんちょっとコンビニでパン買ってきて、買ってくるのを忘れちゃったのぉ」
風呂から出てくると郁子が申し訳なさそうな表情で頭をさげてくる。
「えぇ、これからかよ……また風邪ひいちゃうぜ」
ぶつぶつと文句を言う幸作に郁子の厳しい視線が飛ぶ。
「じゃあ明日朝食抜きでもいいの? あたしはこれからお風呂に入りたいし……だからぁ、お願い! おにいちゃん!」
郁子はそう言い幸作に向け拝むように手をあわせる。
「わかったよ……」
幸作は渋々とうなずき、再び着替えて部屋を出る、幸作の体にまとわりつく風は冬のそれとはまったく違い、心地のよさを感じさせる程のさわやかな風が吹いている。ゴールデンウィークが過ぎ満開に咲き乱れた桜の花が散り始めた頃、見上げる函館の空の様子からするときっと明日はきっといい天気であろう。
「フゥ」
幸作の吐くため息は既に白く濁ることもない、ヒヤッとした空気ではない、まさに春といった空気が幸作の周囲を包囲している。
今年はなんだか駆け足で過ぎているような気がするなぁ、新学期に麻里萌と出会い、桜の咲く頃には幼馴染の二人……初音と千鶴に告白もされた、まだ俺自身の気持ちがわかっていない為その後二人とは何の進展もないし、一週間が経った今でも彼女達はいつもと同じように接してくれたのがせめてもの救いだった。
「ありがとうございました」
コンビニで目的の物の買い物を済ませ、ついでに雑誌まで買った幸作は鼻歌交じりに満足げな表情でアパートに足を向ける。
「あれ?」
幸作が麻里萌の家の前に近づくと、その家の前に麻里萌の姿と、男の姿が見え幸作の心がちょっとゆすぶられる。
こんな時間に一体誰なんだ?
既に時計の針は良い子の寝る時間を指し示しているはずだ……十九時を回ったところだが。
「……何でこんなところまでくるの? よりによってお母さんがいない時に」
困惑したような麻里萌の声が幸作の耳に飛び込んでくる。
「いいじゃないか……俺にとってみればそのほうが好都合だ」
あまり穏やかな話ではなさそうだ……幸作はそっとその二人に向かい進路を変更する。
「麻里萌、俺と一緒に来ないか?」
男がいきなり麻里萌の腕を掴み持ち上げる。
「きゃっ」
麻里萌が小さい悲鳴を上げる、その瞬間幸作の頭に一気に血が昇る。
助けなければ!
幸作の頭の中には、それだけしか考えることが出来なくなっていた。
「何しているんだぁー!」
幸作の声に麻里萌の視線が向き、続いて男の顔が向く、その顔は幸作が予想していた人物より年齢は高く、おじさんといっても良さそうな年代に見られるが、そんな事はお構いなしに幸作は麻里萌の腕を握っているその手を引き剥がす。
「こ、幸作君?」
驚いたような表情で麻里萌とおじさんらしき男性は幸作の事を見る、幸作は興奮冷めやらぬといった面持ちで息を切らしている。
「何をやっているんだぁ、このロリコン野郎!」
今にも掴みかかる勢いで幸作が男性に向け罵るようにいう。
「何ぃー!」
男性もその一言に憤慨したのであろう、幸作の胸倉を掴む。
「やめてぇ、幸作君、お父さんもぉ〜」
お父さん?
その一言で幸作から毒気が抜かれるが、その隙に男性の放ったパンチが見事に幸作の顔にヒットする。
……きたねぇ。
「お父さん!」
幸作はだらしなく吹っ飛ばされて道路に横たわり、そのヒットした場所に思わず手をやりながら顔をゆがめる、それを心配そうに麻里萌は駆け寄り、お父さんと呼ぶその男性に対して涙を浮かべながらキッと睨み上げる。
「麻里萌?」
その視線にたじろいだ男性は、寂しそうに麻里萌を見る。
「大丈夫? 幸作君、ゴメンね」
麻里萌はそう言いながら幸作のその頬をさする。
「イテテ……大丈夫だよ、それにしても、お父さん? 麻里萌の?」
幸作が見上げる男性は、寂しそうな表情のまま二人のやり取りを見ている。
「ゴメンね……」
麻里萌は幸作にすがりつくように泣き崩れている。
「……お前は麻里萌のなんなんだ?」
予想していたよりも野太い声のその男性はそう言い幸作の顔を見るが、その表情はさっきまでの嫌悪を持ったものではなく、むしろ優しい表情で見つめている。
「……麻里萌の彼氏なのか?」
男性は続けて質問を繰り出し、赤い顔をした幸作の顔を見てふっとした笑顔を見せる。
「そんな、ちが……」
「そうよ! あたしの大切な人、あたしの大好きな人なの……」
幸作が否定しようとすると、それをさえぎるように麻里萌がスクッと立ち上がり涙目で父親に向けて抗議の視線を向ける。
いや、それ以上に今凄い事を彼女は言ったような気がしたが……。
「だから、お父さんは心配しないで……あたしだってもう子供じゃない、こうやって人を好きになることもできるし、何でもできる。だから今は遠くから見守っていてくれる方があたしは嬉しい、ほとぼりが冷めたら、きっと、あたしから会いに行くから、それまで我慢して……お願い、お父さん……」
麻里萌はそう言い、幸作の腕にしがみつく。
「そうか……幸作君といったかな?」
麻里萌のお父さんは寂しそうな表情を浮かべながらも、幸作の顔をしっかりと見つめる、その視線には力強さを感じさせるほどだった。
「その時は、君も一緒に来るのだろうか?」
幸作は事の流れがわからず、ただ雰囲気だけでうなずく。
「そうか……麻里萌の事を頼んだよ」
そう言いながらお父さんは二人の背を向け歩き去ってゆく。
「お父さん……ゴメン」
麻里萌はそう言い、お辞儀をするように去り行く父の背中に頭をさげる。
「麻里萌……」
幸作は小刻みに震える麻里萌の肩を抱き、そっと自分に寄り添わせる、きっと辛いのであろう、麻里萌はその幸作の力に抵抗することなく幸作の胸に身体を預ける。
「ゴメン、幸作君……もう少しこのままで……」
麻里萌の口からは嗚咽がこぼれ続ける。
「アァ、別に俺はかまわんよ……」
幸作はそう言い、既に暗くなった空を見上げると、そこには夏を告げる星座が瞬いている。
「ありがとう……」
消え入るような声で麻里萌は呟く。
=告白=
「ゴメンね? 遅くなっちゃったかな?」
麻里萌はそれまでの鬱憤を晴らすかのように泣きつづけ、気がつくと既に時間は一時間以上が経過していた。幸作は優しく微笑みながら麻里萌の頭を撫ぜるが、麻里萌は顔を上げようとしない。
「気にしなくっていいよ……それよりも、大丈夫?」
幸作の手はいつまでも麻里萌の肩を握っていた。麻里萌もその手に頬を寄せる。
「ウン……お父さんとお母さんの離婚の理由……」
うつむきながら麻里萌はポツリポツリと話す。
「別にそんな事……」
「聞いて、お願い……理由は、お父さんの浮気のせいらしいの……」
一瞬顔を上げる麻里萌の顔はグシャグシャと言っていいだろう、可愛らしい顔は涙でゆがんでいた。
「浮気……」
幸作は言い直す様に言うと、麻里萌はそれにうなずくだけだった。
「お母さんがその現場を目撃しちゃって……いわゆるベッドシーンというやつ……」
うつむきながらも麻里萌はきっと顔を赤らめているだろう、幸作にしてもそうだ、顔が火照っている。
これは……やたらと生々しいなぁ。
「……それが初めてじゃなかったらしいからお母さん怒っちゃって、ついに離婚……よくある離婚の理由よね? きっと最低の男だとみんな言うだろうし、あたしもそう思うわ、でも、お父さんはお父さんなの、あたしは今でもお父さんの子供、お父さんの事は今でも好き……離れているのは辛いよ……でも……」
麻里萌は涙を拭いながらやっと顔を上げ幸作の顔を見る。その顔は笑顔であるが顔のいたるところが引きつっている、無理をしているということが鈍感な幸作にも良くわかる。
「麻里萌……もうちょっと抱きついていろ……まだ顔を上げるタイミングじゃない」
幸作はそう言い麻里萌の頭を胸に押し付け、細い腰を自分に引き寄せる。
「こ、幸作君?」
麻里萌の身体は最初こそちょっと抵抗をしたが、次第に落ち着いたようにその体を幸作に預ける。
「ありがとう……幸作君」
今度は麻里萌の口からは嗚咽は聞こえてこない。
「……幸作君、さっきはゴメンね?」
麻里萌が幸作の胸でささやくようにいう、その声が幸作の耳にとても心地よく響き渡る。
「何が?」
麻里萌の謝る意味が幸作にはよくわからない……お父さんのことならさっき謝られたばかりだ、他に謝れる理由がよくわからない。幸作はそう言いながらも麻里萌の温もりを胸に感じている。
「だって……さっき、あたし凄い事言ったし……」
麻里萌はそう言いながらも、身体を縮こめさせる、まるで幸作の身体にすっぽりと収まってしまいそうな感じだ。
「凄いこと?」
幸作は首をかしげながら麻里萌の事を見つめる。
「……ウン、そのぉ……『大切』とか『大事な人』とかぁ……『大好きな人』とかぁ」
麻里萌がはたと顔を上げる。その顔はさっきの泣き顔とは違って、照れたような表情を浮かべている。
「でも、違うから……その……」
真っ赤な顔をして言いにくそうにしている麻里萌の顔を見つめる幸作。
なんだぁ、やっぱり違うのかぁ、そうだよねぇ……。
幸作は心の中で思わず舌打ちすし、ちょっと残念な気持ちが自分に生まれている事に気がつく。
「ハハ、わかっているって……お芝居だろ」
そういう自分の台詞に気持ちがちくりと痛む……なんだろうこの感じは……。
「違うの!」
麻里萌が不意に真剣な表情を浮かべる。
「えっ?」
幸作はその麻里萌の表情を間近にし、ちょっと心が高鳴る。
「……そのぉ……多分、それは本気なの……でも違うの」
本気だけれど違う?
幸作は訳がわからないといった顔でうつむく麻里萌の顔を見つめる。その肩は、さっきと同じように小刻みに震えているようだ。
「本当はこんな事で言いたくないの……あたしの気持ち……もっとちゃんと言いたい、だから違う、でも……あたしの気持ちは本当」
麻里萌が顔を上げると、そのメガネの奥の瞳は熱く潤み、見ている幸作が吸い込まれてしまいそうなぐらい、そしてその瞳がぎゅっとつぶられ、麻里萌の口が開く。
「幸作君、あたしはあなたのことが好き」
麻里萌はそう言いながら、真っ赤な顔をして幸作の顔を見上げる、その二人の距離はわずかしかなく、今にも顔がくっついてしまいそうなほどだった。
「麻里萌……」
今なんていった? 麻里萌が俺の事を好きと言ったのか?
幸作の脳髄には得も言えない感覚が走り、それは生まれて初めてといってもいいような感覚だが、決して嫌な感覚ではない、むしろホッとしたようなそんな感覚。
「ゴメンね幸作君、こんな事を言って……」
麻里萌はそう言いながら離れようと幸作の胸に手をやるが、幸作の力にかなわない……幸作は麻里萌を抱きしめたままでいる。
「幸作君?」
前に初音や、千鶴から言われたときにはなかった感覚、それは嫌な感覚ではない、むしろこのまま麻里萌をずっと抱きしめていたいという感覚、そうだ、きっと俺は麻里萌のことが好きなんだ、友達とかという感覚ではなく、きっと初めて異性として彼女の事を見ているんだ。そう、俺は麻里萌のことが……。
「麻里萌、俺は……」
ごくっと息を呑み、麻里萌の顔を見つめる。その麻里萌は落ち着いた表情で幸作の顔を見つめている。
「おぉー、ラブシーンかぁ……ヒック、いいねぇ、青春だぁ……アハハハ……ウィィ……」
近くを通った酔っ払いがにやけ面で幸作たちの横を通り抜けて行く。
くそ親父、いい所だったのに、今度会ったら殺す!
二人は反射的に離れ、そしてうつむく。
「……」
「……」
幸作は沈黙する、そしてその前で麻里萌もうつむいている。
完全にタイミングをはずしたなぁ……。
チラッと幸作は麻里萌の顔を見る。その横顔は街灯に照らされ、普段よりもちょっと青白くもみえるが、しかし、頬の辺りだけは赤みをさしている様にも見える。
「……幸作君」
その視線に気が付いたのか麻里萌は不意に顔を上げて口を開く。
「おっ、おう……なんだ?」
いかん完全に動揺している。
幸作は一瞬声を裏返し、視線を合わせないで麻里萌のほうを向く。
「さっき何か言おうとしたでしょ?」
麻里萌は再びうつむき、頬だけではなく、髪の毛の隙間から見える耳まで赤くしている。
聞いていたのか? しかしタイミングを逸してしまった以上この先なんと言えばいいんだ? まさか取り繕ったように言うのもなんだか間が抜けているし……しかしここは……。
幸作の表情が思案顔に変わり、その幸作が思い描いた一言に自身で赤面する。
「幸作君?」
麻里萌の怪訝そうな表情が幸作の顔を覗き込む。
「おっ、おう……」
幸作はさっきから『おうおう』とまるでオットセイのような声しかあげていない、まだ頭の中でなんと言おうかまとまっていないせいもあるが、それ以前に、さっき麻里萌の言った言葉が理解しきれていないのもそうだろう。さっき麻里萌は『好き』といった、しかしはたしてそれは『男』としての俺なのか、それとも友達としての……『好き』なのか。幸作には自信がなかった、しかし……。
「あたし期待し過ぎているのかなぁ……」
麻里萌のその一言で幸作はふと思った。
どうなんだ? 仮に麻里萌の気持ちが『彼氏』というニアンスではなく『友達』程度だと思っていて、俺の気持ちは変わるのか? その答えは否だ、俺の気持ちはきっと変わらない、友達でもいい、俺の気持ちはきっと……、
「好きだ……君のことが」
すっとその台詞が出てくる。まるで今まで悩んでいたことが嘘のようにその台詞が幸作の口から出てきた。それは自然に、まるでその台詞を言うのを待っていたかのように。
「えっ?」
麻里萌は、自分に対してその台詞が発せられて、その台詞を受け入れる事ができないようにキョトンとした表情を浮かべ、丸い瞳をさらに大きく見開き幸作の顔を見る。
「……何度も言わせないでよ」
幸作は頬をポリっと一掻きしながら麻里萌の顔を見据える。
「俺は、笹森麻里萌のことが好き……女の子として……俺と付き合ってくれないか?」
正面に見据えた麻里萌の目が一気に充血する。
「幸作君……」
麻里萌はブワッと涙を浮かべながら嗚咽をこぼし、言葉にならないように口を開くがその口はパクパクと動くのだが、そこから漏れる声は言葉になっていない。
「そんなに泣くほど嫌だったのか?」
「そんな事ない!」
その言葉だけは幸作の耳にはっきりと聞こえてきた。
「嬉しくって……あたし、男の人にそんな事言ってもらえるなんて、生まれて初めて……しかも……幸作君から言ってもらえるなんて思ってもいなかった……」
生まれて初めてって、そうか……フーンそうなんだ、なんとなく幸作は嬉しくなりながらも、嗚咽の中やっと麻里萌の言っていることが幸作にわかるようになってきた。
「まさか、幸作君が……あたしなんかに……」
多少落ち着いたのか、麻里萌は顔をグシャグシャにしながら幸作の顔を見る、しかしその目からは止め処もなく涙が溢れている。
「俺は麻里萌だからと思っているんだけれどね?」
幸作は照れくさくなりちょっと視線をうつむける。
俺ってこんなに恥ずかしい事を言うキャラクターじゃないんだけれどね? いつの間にこんなになってしまったのだろう。でもいいかな? 俺だって女の子を好きになるなんて今まで思ってもいなかったし、こんな出会って間もないこの娘の事がこんなに大切になるなんて思っていなかった。麻里萌と出会ったのはもしかしたら自然な成り行きだったのかな、なんて今では思っている気がする。
幸作が心の中で首をひねっていると袖が軽く引っ張られる。
「ん?」
その視線の先には真っ赤になりながらもきっと勇気を振り絞っているのだろう麻里萌が顔を上げている。その表情は穏やかなものだった。
「あたしも幸作君のことが大好き……あたしを……あたしを幸作君のお嫁さんにしてください」
落ち着いたようなその顔には安堵の様なものが浮かんでいる……って、お嫁さんにしてくださいって? エェッ!
キョトンとした顔で幸作は麻里萌の顔を見るが、麻里萌は幸せそうな笑顔を浮かべながら幸作の胸に顔を埋めている。
ちょっと待て、今この娘は凄い事を言わなかったか?
「……あたしは幸作君のお嫁さんになりたい……あなたのお世話を焼きたい……」
飛躍しすぎじゃないか? まだ高校二年生だぜ? まさかこの歳で嫁をもらおうなんて思っていないぞ?
動揺したように視線を動かしながら見つめる幸作を見て麻里萌は楽しそうに微笑む。
「お母さんが言っていたの『あなたがこの先この人の為に何かをしてあげたい、世話を焼きたいと思ったらその人があなたの将来の伴侶になる人』って、だから、あたしは幸作君のお嫁さんになりたい、きっとそれがあたしの思っていた未来、あたしの幸せだと思うし、あたしは幸作君のお世話を焼きたい」
麻里萌はにっこりと微笑みながら幸作を上目遣いに見る。
……弱い、その目で見られると、俺は何も言えなくなる事をこの娘は知っているんじゃないか?
幸作はその目を見ながらも、自分の心の中に『いいかな?』と思っている自分を見つけ出す。
「……そうだな、いずれそうなれるといいかもしれないな」
幸作はそう言い、麻里萌の頭をぽんぽんと叩く。その行動に麻里萌は猫のように目をつぶり嬉しそうな表情を浮かべる。
「ううん、絶対そうなるの……きっとあたしと幸作君の出会いは運命だったのよ」
麻里萌はそう言いながら再び幸作の胸で心地良さそうなフッとため息をつく。同じことを考えていたんだな? 彼女も。
「……改めて、幸作君、あなたのことが大好きです」
ホッとしたような表情を浮かべる麻里萌に対して幸作は得も言えない愛しさが生まれ、無意識のその麻里萌の肩を抱くと麻里萌は『アッ』と小さな声を上げ幸作の顔を見つめる。
「麻里萌……」
幸作は見上げる麻里萌の前髪をそっと指でわける。その行為に嬉しそうな表情を浮かべる麻里萌は思い出したような顔をして幸作の事を見る。
「そういえば初音さんから聞いたけれど……」
ギクゥ、幸作は一瞬にして顔が蒼ざめる。初音のやつ何を話しているんだ。
「なっ、なにを?」
幸作はその後の台詞を聞くのが怖かったものの、つい聞いてしまった。アァ、俺って絶対に馬鹿だぁ……墓穴を掘っているんじゃないかなぁ……なんで聞かなくてもいい事を聞いるんだ?
「ウン……初音さんは幸作君のことが好きなんだよね?」
ギクギク……。
なんでそんなことまで知っているんだぁ?
幸作は思い当たる節を見つけようと記憶をフル回転させるが一向に糸口が見つからない、そして麻里萌からはとどめを刺すような台詞が浴びせられる。
「そして千鶴さんも幸作君のことが好きなんでしょ?」
意識が一瞬遠のく……なんで知っているの?
幸作の記憶回路はオーバーヒートするのではないかというぐらいにフル回転するが知られる理由がまったくわからないでいる。
「……もてるよね? 幸作君って、ちょっとショックかも……」
麻里萌は容赦なく幸作に視線を向ける、その視線が幸作の胸に深く突き刺さる。
「何で千鶴のことまで……」
幸作は墓穴堀とはわかっていながらも疑問を払拭したく麻里萌のその疑問をぶつける。
「ウン、初音さんが教えてくれた、最近よくメールしたりしているの」
一体君たちはメールで何を話題にしているんだ? まったくは恐ろしき女の情報網……その情報量に幸作はめまいを感じる。
「でも、幸作君はあたしの彼氏でいいのよね?」
麻里萌は自信なさそうな表情で幸作の顔を覗き込む。
「そうだ、自信を持っていいよ、あの二人には申し訳ないけれど、俺の気持ちはさっき言っただろ? それだけだ」
幸作は麻里萌の頭をポンポンとたたくと、麻里萌は猫のように目を細め嬉しそうな顔をする。
「幸作君……」
麻里萌の視線と幸作の視線が交じり合う……。
「麻里萌……」
お互いの顔が近づく。今度は近くに歩行者はいないから茶化される心配はない。幸作は周囲を見渡し麻里萌の肩に手を置く、するとそれを合図のように麻里萌の目がつぶられる。
「姉貴ぃ〜、お袋から電話……」
麻里萌の家の玄関先から操が麻里萌に声をかけてくる。きっと二人は、一メートル以上は遠退いたであろう、不自然な距離で立っている、その姿に操は首をかしげている。しかし麻里萌は動揺を隠しながらも、いつもの笑顔に戻りその声に手を振る。
「うん、今行くよ……じゃあね、幸作君」
麻里萌はそう言いちょっと顔を赤らめながら幸作に軽く手を上げ玄関に入ってゆく。
「邪魔したかな?」
玄関先にいる操はそう言い、バツの悪そうな顔をして麻里萌に続いて家の中に消えてゆく。まったくだ、今度お前が郁子のところに来たら俺が邪魔をしてやる。幸作はちょっと悶々とした気持ちを抑えながらアパートに足を向ける。
「お兄ちゃん遅い、何していたの?」
アパートの戻ると既に風呂から上がって麦茶を飲みながらテレビの前に座っている郁子が頬を膨らませている。
「なんでもないよ……」
幸作はそう言い買ってきたパンをテーブルに置きながら自分の部屋に入り込む。
「ちょっと、おにいちゃん? どうかしたの?」
背後では郁子の声がしたようだったが、軽くそれは聞き流す。
「フゥ……」
買ってきた雑誌を読もうとせずにそれをベッドに投げ出し、滅多に座らない机の椅子に座る。
「……俺の気持ちは決まっている、それについては麻里萌にも伝えた……しかし、俺の気持ちを待っている二人に何といえばいいのか」
幸作は自分に言い聞かせるようにそう呟くが、その横ではモヤモヤした気持ちが渦巻いているのもまた事実。
「初音……千鶴……」
この二人の気持ちを知っていながらそんな曖昧で俺はいいのか? ちゃんとしなければいけないと自分では思っている。
「俺があやふやだったからいけないのはわかっている」
幸作はカーテンの開いている外を眺めながら呟く、それは誰に言うともなく、まるで自分を責めるかのように力強いものの、実際の所どうして良いかわからない様に視線は泳ぐ。きっと、その事を話したらもう友達ではいられないだろうな? もしかすると彼女達を傷つけるかもしれない……俺はそういう事を気がつかないうちにしていたんだ。鈍感男かぁ、千鶴にまた罵られるだろうな。
「ハァ……」
幸作は深くため息をつき机に頬杖をつく。
「人を好きになるということがこんなにつらいとは思わなかった、でも、気がついた以上後戻りはできない」
いずれは初音や千鶴にこの事は話さなければいけないだろう、ずっと黙っている方が卑怯だ、でも何て話せばいいのかがわからない。