坂の街の小さな恋……
〜♪〜 はじまりの春 〜♪〜
第五話 アルバイト
=麻里萌と千鶴=
「バイト……かぁ」
コーヒーを一口つけ麻里萌がそのカップの淵を眺めながらつぶやく。
「うん?」
幸作は他の客に入れるコーヒーを抽出しながら、その麻里萌のつぶやきに答える。
「ううん、なんでもない……」
幸作は、その言葉を聞いてか聞かずかのうちに新たに入ってきた客の注文を聞きに店中を走り回っている。
早く夫婦喧嘩終わらせてくれないかなぁ……忙しいぜぇ。
後からどんどん入ってくるオーダーに幸作の表情から徐々に笑顔が消えてゆく。
「幸作君?」
厨房とカウンターを一人で行ったり来たりしている幸作に麻里萌は声をかけようとするがあまりにも忙しそうでそのタイミングを失っている。
だぁぁ、何でこの時間帯にこんなに客が入ってくるんだぁ? いつもは暇なこの時間にぃ。
忌々しそうに談笑する客を幸作は気付かれないように睨む。
「いらっしゃいませぇ」
にこやかに微笑むのは杏子さんではなく制服にエプロンをした麻里萌だった。
「あれぇ? 幸作君、今日は彼女と一緒なのかい?」
馴染みのお客さんが幸作の事を冷やかすように言うと、幸作はその台詞の度に頬を赤らめながら麻里萌と顔を見合わせる。
「いやだななぁ……そんなわけない……と思う」
カウンター内の厨房で、幸作は照れ笑いを浮かべながら客のオーダーに対応する。そのオーダーを運んでくるのは麻里萌だった。
「幸作君、ブレンドとプリンアラモード」
麻里萌もエプロンを翻しながら厨房と客席を行ったり来たりしている。
別に手伝うように頼んだ訳ではないが、忙しそうにしている幸作を気遣ってか、いつの間にか店を手伝ってくれている。
「こんちわぁ〜、って……」
次にお店の扉を開いたのは千鶴だった。
「いらっしゃいませぇ〜」
麻里萌はそんな事も知らずに千鶴に向けて最良の笑みを送る。
「エッ? 新人さん?」
千鶴はキョトンとした顔でいつも座るカウンター席につき、周りを見わたす。
「いえ、ちょっと忙しいものでお手伝いを……」
麻里萌は慌てた様子ながらも、きちんと千鶴にお冷とおしぼりを提供する。
「マスターは? 杏子さんも……」
疑問符を投げかける前に、麻里萌は他の客に呼ばれてそっちに向い歩く。
「ちょっとぉ、どうなっているの? 店主のいないお店って一体何なの?」
千鶴はキョトンとしながらも必死に首をかしげ、厨房を見ると、そこには一人忙しそうに動いている幸作の姿が目に写る。
「ちょっ、ちょっと、幸作? これは一体どういうことなの?」
厨房に向け千鶴が声をかけると、ぐったりとした表情の幸作が作った笑顔を向けてくる。
「おぉ〜、千鶴かぁ……色々とあってこの様だぁ……」
眉間にしわを寄せながらフライパンをあおる幸作の顔には笑顔がすでに消失していた。
「幸作君、オーダー入ります! ナポリ一、フルパ一、ブレンド二です」
千鶴の横から麻里萌がオーダーを入れてくる。
「幸作君って……マスターは? 杏子さんは?」
千鶴は呆気に取られたような表情を浮かべ幸作を見るが、幸作はそれどころではないようだ、忙しそうに厨房の中を駆けずり回っている。
「マスターと杏子さんは二階で大人の会話中だ! 俺らが出る幕ではない、いまの最優先課題は、このお客さんたちに対応することだぁ〜」
やけになりながら幸作はパスタを茹でだす、その額には玉のような汗が光っている。
「大人のって……」
千鶴は天井を見上げながらため息に似た息を吐き出す。
「おねぇちゃん、コーヒー追加」
見慣れない客は容赦なく麻里萌に対してオーダーを出す。麻里萌はそのオーダーを必死にメモにして、厨房にいる幸作に出す。
「ねぇ、パスタまだぁ」
「ハイ、ただいまぁ」
麻里萌の表情は今にも泣き出しそうなものになる。
「ハイ、お待たせしました、ナポリタンに、ブレンドです」
気が付くと、お店のエプロンをしながら千鶴が料理を提供している。
「えっ?」
それに首をかしげる麻里萌だが、疑問符を千鶴に投げかけている場合ではない、他のお客も色々と騒ぎ出している。
「幸作! プリンアラモードは?」
千鶴はそう言いながらサイフォンに水を入れ、次々とコーヒーの準備を整える。
「……助かるぜぇ、ちょっと待って、今作っているから……ハイよ、エスプレッソの完成だ、次は……ホイ、パスタ行くよ!」
幸作はそう言いながら、オーダーをこなしてゆく。
「お客様は、エスプレッソでよかったでしょうか?」
麻里萌は疲れているであろうが笑顔を絶やさずにお客に接している。
「幸作、パフェまだ?」
苛立った様子で千鶴は厨房の幸作に声をかける。
「ちょっと待って、今作っている……お待ち! プリンアラモード!」
額に汗しながら幸作は芸術的なプリンアラモードを作り上げそれをカウンターに出す。
「幸作くぅ〜ん、ぱすたぁ」
麻里萌は涙を流しているのではと言う表情を浮かべている。
「待った、今は待ってくれ、それしか俺には言えない!」
その隣では千鶴が鬼のような形相で幸作を睨む。
「幸作! コーヒーのお代わり!」
「わかっているって! ほれ、パスタ」
「幸作君、パフェ」
「ちょと待ってくれぃ」
三人の声がお店に響き渡る。
「ほぉ……」
お店がやっと落ち着いてきた頃『大人の会話』を終わらせた二人が二階から下りてくる。
マスターが感嘆の声を上げるのは、店にいる全員に料理が提供されて、その店内がお客の笑い声で溢れていた事による。
「……ハハ、疲れたぜぇ」
厨房では満身創痍といった表情の幸作がぐったりとしており、カウンターでは笑顔を絶やさないものの、目がちょっとうつろになっている麻里萌の姿が。
「何なのよぉ? あたしはお客の筈なのにぃ」
洗い場では口を尖らせながらぶつぶつ言いながら力任せにお皿やカップを洗っている千鶴の姿がある。
「マスター達がすぐに降りて来ないから、みんな迷惑しているじゃないですか! 千鶴はともかく、麻里萌ちゃんまでお店を手伝ったんですよ?」
降りてきたマスターの顔を見て、力いっぱい文句をいう幸作に、それをなだめる麻里萌。
「まぁまぁ、マスター達にも色々あるんでしょうし……」
弁護するように麻里萌は苦笑いを浮かべる。
「わっ、わりぃなぁ……」
マスターは、そう言いながら頭をかく。
「あなた達だけでやったの? すごいわね?」
感心した表情で杏子が言いながらその店内を見渡すと、店の中はこの時間帯では珍しいぐらいのお客の数、その人間全てに対してオーダーされたものが提供されており、杏子は感嘆の表情を浮かべながら再び幸作の顔を見る。
「あぁ、まさかここまで客が入るなんて思っていなかったよ……本当に悪かったな?」
マスターは脱帽といった表情で幸作たちを見る。
「まぁ、俺はバイトだから構わないけれど、でも手伝った麻里萌ちゃんや千鶴には何かやってくれよ……本当に助かったんだから……」
幸作は厨房で麻里萌が出してくれたお冷を美味そうに飲み干す。
「あぁ、当然だ、何でも好きなものを言ってくれ、サービスするよ」
マスターがそういうと麻里萌と千鶴は顔を見合わせ口が横にニィーと広がる。
「じゃぁ、フルーツパフェが食べたい」
嬉々とした表情で千鶴がそう言う。
ちょっと待ってくれよぉ、それじゃあまた俺が作らなければいけないじゃないかぁ〜。
「あんたら鬼やぁー」
幸作の一声に、麻里萌の顔も笑顔になる。
「あたし幸作君の作ったプリンアラモード食べてみたいな?」
麻里萌さんまで……。
幸作はそのオーダーを聞き、肩をガックリと落とす。
鬼! 悪魔! エゴイストォ〜、俺を少しぐらい労わろうという気持ちはないのかぁ!
「ほれ、幸作お客さんのオーダーだ、素直に承ってくれないかな?」
マスターは意地の悪い顔をして見ると、幸作は力なくカウンター内にある厨房に向い、せっせとそれを作り出す。
「ほれ、幸作コーヒーでも飲んでちょっとゆっくりしろ」
マスターがぐったりしている幸作の目の前に、アイスコーヒーを置く。
「こりゃ、ご馳走様です」
幸作はカウンターにひれ伏しながら視線だけをマスターに向ける。
もぉ、何も出来ない、くたくただぁ。
「おいしー、やっぱり幸作の作るパフェは最高ね」
千鶴は笑顔のままに目の前のそれをこぼさないように器用に食べるが、隣の麻里萌は、きょとんとした顔をして、そのプリンアラモードと幸作の顔を比べ見る。
「麻里萌ちゃんどうしたの?」
杏子が厨房から戻り、そんな麻里萌に声をかける。
「いえ……幸作君がこれ作ったのよね?」
プリンアラモードを見て再び幸作の顔を見る、麻里萌はそんなことを提供されたときから繰り返す。
「幸作はね、このお店のパティシエといっても過言ではないのよ、タウン誌にも紹介されるぐらいなの、昔から結構器用だったよね?」
千鶴が微笑みながら麻里萌の事を見る。
「そうなんですかぁ……」
そうつぶやくと麻里萌はにっこりと微笑み、それを食べはじめる。
ヘヘ、こうやって見ると同級生とは思えないな、パクパク食べて、まるで郁子みたいだ。
幸作の顔が優しいものに変わるのを千鶴は見逃さなかった。
「幸作、そういえばこの娘は誰なの?」
千鶴はちょっと険しい顔をしながらシナモンティーを飲み、それは美味しそうにプリンアラモードをパクつく麻里萌の顔を見る。
「ん? あぁ、同級生の笹森さんだよ」
「どっ、同級生?」
千鶴の声が裏返る。その驚きといったら危なく口に含んでいるシナモンティーを全部マスターに吹きかけそうになるほどだった。
きっと千鶴も俺と同じ勘違いをしていたんだろうな?
「はい、幸作君と同級生の笹森麻里萌です、よろしくお願いします」
スプーンを咥えながら麻里萌はペコリと千鶴にお辞儀をする。
にっこりと微笑む麻里萌の顔を遠慮なく見つめる千鶴。
「どうも……同級生ということは、あたしと同い年なのよね?」
納得のいかない表情を浮かべている千鶴に幸作は苦笑いを浮かべる。
「この娘は宝城千鶴、初音と同じで小学校からの腐れ縁」
その台詞に、千鶴のその表情はちょっと寂しそうにも見えたが、すぐに笑顔に戻る。
「フーン、麻里萌ちゃんかぁ……よろしくね?」
千鶴はそう言いながらも笑顔が引きつる。
「あなたが千鶴さんですか? 幸作君や初音さんからよく名前は伺っています、こちらこそよろしくお願いします」
にっこりと微笑む麻里萌に気おされするような表情を千鶴は浮かべる。
「ねぇ幸作、麻里萌ちゃん可愛いわね?」
再びプリンをぱくつく麻里萌を横目に意地の悪い顔をして千鶴は幸作に声をかける。
「あぁ、なんだか放っておけないという感じなのかな?」
幸作から返ってきた答えは千鶴の予想しているものとまったく違ったようで、千鶴の表情に動揺が浮ぶ。
「そっ、そうなの?」
そんな千鶴に対し、幸作はあわててそれを訂正する。
「いや、その……なんだぁ、そういうわけじゃなくってだ……」
だったらどういう訳だ? 自分でもわからないような訂正の仕方だ、ただ、放って置けない感じがするのは事実だし、それがどういう意味なのかはまだ自分でもよくわからない。異性としてみるのか、それとも郁子などと同じような意味なのか、それはわからない。
「ふーん」
千鶴は怪訝な表情を浮かべながら幸作の顔を覗き込むが、それ以上の詮索はしなかった。
「ねぇ、麻里萌ちゃんうちでバイトしない?」
夜の部を担当している美都子が来た頃杏子がいきなり麻里萌に向かって提案する。
「へ? バイト……ですか?」
麻里萌の顔が唖然としたものに変わる。
「杏子さん、なんで?」
千鶴が噛み付くように杏子に向かう。
「だって、千鶴ちゃんは部活があるでしょ? それにあなたの学校はバイト禁止って聞いているし、麻里萌ちゃんなら幸作君と同じ学校だから、結構融通利くと思うのよ」
杏子は懇願するような目を麻里萌に向け、麻里萌は目を閉じてじっと考える。
「バイト……あたしなんかでいいんですかねぇ」
麻里萌はそう言いながらマスターと杏子そして幸作の順で視線を動かす。
その表情は困惑したといったほうがいいのであろうが、その隅にちょっと好奇心が顔をのぞかしているけれど多分断るだろうな?
そんな結論を幸作は自分の頭の中に浮かべる。
確か家の食事の手伝いとかしなければいけないなんて言っていたし、バイトをする様な感じには見えないし。
「とりあえず家と相談しますけれど、多分大丈夫だと思います」
ほらな? やっぱりだ……できな……って今なんて言った? 今家と相談、多分大丈夫って言わなかったか?
「ホント? そうしてくれると助かるなぁ、正直知らない人を雇うよりも知っている人のほうがいいでしょ?」
杏子が喜びの声をあげる前にマスターが声をあげる。
「でも、あたし、今日はじめてこのお店に来たんですし……知り合いじゃぁ……」
「いや! 幸作の友達という事はお店の知り合いだからまったくもってオーケー」
むちゃくちゃな理論だな……もしかして本当にマスター好み? 麻里萌って。
「……あなた、まぁ確かにそうね? 幸作君もそのほうが教えやすいでしょうし、接客には慣れているみたいだしね、あたしからもぜひお願いするわ」
杏子はマスターの耳を引っ張りながら麻里萌に笑顔を向ける。その麻里萌も二人に笑顔を返すが、カウンターに座っている千鶴は一人機嫌の悪い顔をしてシナモンティーをすすっている。
=お互いの家庭=
「じゃあ、お疲れ様でしたぁ」
店内に声をかけ、幸作と麻里萌はお店を後にする。
店の中からはマスターと杏子が笑顔で見送るが、その笑顔は全て麻里萌に向けられているような気がするなぁ。
「で?」
いつものようにスーパーに向う道すがら、いつもと違って今日は麻里萌が隣にいる、その麻里萌にちょっと憮然とした表情で幸作は声をかける。
「ハイ?」
にっこりと微笑みながらも麻里萌はその問いの意味が理解できないような答えを幸作に向ける。
「だから、バイト! あんなに安易に受けちゃって大丈夫なのか? 家の人と相談したりとかしなければいけないんじゃないの?」
なんだか納得がいかないのは、幸作の心のせいなのか? こっちは生活費のためにやっているんだ、お嬢さんが社会勉強のためにやるのとは違うんだという嫉妬に近いような気持ちが幸作の心の奥底にあるみたいだ。
「ハイ、今日から弟も部活ですし、それにあたしが少しでも稼げばいくらか足しになるんじゃないかなって……」
足し? なんのだ?
「足しって……もしかして」
幸作はそこまで言うと麻里萌の顔を見つめる。しかしそこにあった麻里萌の表情は別になんていうことのないといった顔をしている……いや作っている。
「お前……も?」
その後の台詞が幸作から出てこない。
言って良いものなのか、どうなのか? いままでの自分の経験からすると同情されるのが一番辛い。
「も?」
麻里萌は驚いた表情で幸作の顔を見上げる、その表情は我が事のような寂しそうな顔。
「幸作君も……なの?」
ついに麻里萌の歩みが止まる。
「……あぁ、俺は中学に入ってすぐのときだったな? 家を出てそれっきりだ……」
幸作はそのときの様子を鮮明に覚えている。
「買い物に行って来るわね……今日はハンバーグにするから?」
にっこりと微笑みながら父親の後について歩いてゆく母親。ちょうどそのとき幸作は風邪をひいて一緒に買い物に行けなかった為に幼い郁子と一緒に留守番になってしまった。
今考えると、ここに俺の運命が確定していたのかもしれないな。
「おかぁさん、桃の缶詰も買ってきてぇ」
熱のある幸作は一生懸命に駄々をこねると、その幸作のわがままを母親は優しく聞き入れてくれた。
「はいはい、じゃあ言ってきますよ幸作、ちゃんと横になっていないとまた熱が上がるからね? ちゃんと寝ていなさい!」
わざと怒った様な表情を浮かべる母親……それでも目だけはとても優しく、その目を今でも思い出す。
「いってきます」
玄関先で手を振る郁子と、どてらを羽織っている幸作を笑顔で一瞥して両親は玄関を閉める。それが最後だった。
「けいさつ?」
小学校二年になったばかりの郁子が電話を取ると、その電話を無言で幸作に持ってくる。その顔は蒼白という表現がぴったりだった。
「戸田さんのお宅ですね? こちらは……」
電話の向こうからは業務的な報告が聞こえてくるが、幸作にしてみれば、まるでドラマやアニメなどでしか見た事のない世界。
「おにいちゃん?」
無言で電話を切る幸作を、心配そうな表情で郁子が見上げる。
「……いたずら電話だろ? だって……お母さんと、お父さんが……」
そこまでいうと幸作の目から不意に涙がこぼれおちる。
「死んだって……」
その後自分達がどうやって警察まで行ったのか良く覚えていない、ただ、そこについたときは薄暗い部屋に二人布をかぶって横たわっている姿だった。女性の警察官が郁子をなだめるように抱きしめ、幸作の肩を警察官が同情するようにたたいてくれた事だけを鮮明に覚えている。
「……さく君……幸作君?」
麻里萌の声に我に返る。参った、思い出しちまった。幸作のその表情を見ながら麻里萌は心配そうな顔を幸作に向ける。
「……わりぃ」
幸作はちょっと麻里萌から顔を背けながら答える。
もしかしたらいまの俺はすごく情けない表情になっているかもしれない。
「そうなんだ……幸作君の家も……離婚したの」
離婚? 幸作はハッとした顔をして麻里萌の顔を見る。
「離婚? 麻里萌のところは……離婚?」
驚いた表情の幸作とは違い、麻里萌はちょっと寂しそうな表情を浮かべている。
なぁんだぁ、違ったのかぁ……よかった。
「……幸作君のところは?」
ちょっと涙ぐみながら麻里萌が幸作の顔を見上げる。
そうだよな、なまじ死んでしまうよりも、生き別れの方がむしろ辛いかもしれない。
「ゴメン、うちは……死別だ」
その台詞に麻里萌は息を呑む。
「そんな……だって、幸作君は……そんなに」
麻里萌の大きな瞳から涙が溢れ出す。
ちょっと待って、こんなところで泣かれたら、近所の手前もあるし、色々と誤解を生む事になってしまいますから。
慌てふためく幸作などお構いなしに麻里萌はその場で泣き出す。
「あぁ〜そんな気にすることないから……だからぁ」
困った顔をするしかない幸作のその脇を意味深な目で見て通過してゆく見知らぬ通行人達。
きっと明日の皆様の話題を提供したに違いがないであろう……とほほ。
「ゴメン……でも……可哀想だよ……幸作君」
可哀想と思うのなら、そこで泣き止んでくれるともっと助かるのだが。
「別に、もう四年経ったから大丈夫だよ、だから、ね?」
幸作は思わず麻里萌の肩を握り締める。
振り向いた麻里萌は顔をグシャグシャにしているという表現がぴったりであろう、よく漫画などでは可愛らしく泣いているのだが実際は、目から涙を流し鼻からは……これ以上はプライバシーにかかわるので割愛させていただく。
「ゴメンね? あんな所で泣いちゃって」
少し落ち着いたのか、麻里萌の顔色に血色が戻ってくる。
「少し落ち着いたかな?」
あまりにも大泣きをするため人通りの少ない路地に麻里萌をつれてくる。
別にやましい気持ちがある訳じゃあなくって、人の目があったための特別処置というやつだ。
「ウン、大丈夫……幸作君はそんな家庭環境で育ったんだぁ、強いね?」
麻里萌は目に残っている涙を拭きながら幸作の顔を見つめるその眼は熱く潤み、幸作の胸がドキッと高鳴る。
「強いのかな? 最近では当たり前みたいな感じになってきたかな?」
幸作は照れたように鼻先をかきながらそう答える。
そう、決して強いわけではない、ただ生きてゆくためにいつまでもくよくよしていられないだけだ。
「ウン、あたしなんて離婚が決まっても、まだ理解できていないような気がする。いきなりお父さんが他人になっちゃうんだもん、小さい頃お祭りに連れて行ってくれたり、旅行に連れて行ってくれたりしたお父さんがいきなり……いなくなるなんて」
麻里萌の瞳から再び涙がこぼれ落ちる。
つらいだろうな、きっと……こんな小さな身体にも辛い思い出があるんだ。
幸作はそっと麻里萌の小さな肩をたたく。
「毎度! 今日は幸作君が買い物かい?」
いつものスーパーにいつものおばさん……そして隣には麻里萌。おつりをポケットに突っ込みながらかごを持つ幸作の顔をおばさんは冷やかすような目で見る。
「だったら、彼女に作ってもらったらどうだい?」
おばさんは次に会計をしている麻里萌の顔を見つめると、その一言に顔を真っ赤に染めうつむいてしまう。
「おばさん! そんな無駄口たたいていないの」
体中の血液が顔に集中したように火照るのが自分でもよくわかる。
まったく何言っているのかなぁ……でも、ちょっといいかも。
幸作はチラッと麻里萌のその横顔を見る。
「アハハ」
レジからはおばさんの威勢のいい笑い声がこだまする。
とんだ不良パートだな……。
幸作はため息をつきながら大根などが入った袋を持ち上げる。
「幸作君の家は何にするの?」
スーパーの帰り、幸作の提げている袋を見つめながら麻里萌が聞いてくる。その袋からは入りきらない大根の葉っぱが顔をのぞかしている。あまり女の子に見られたい格好ではない。
「ウン、手っ取り早く煮物にでもしようかな? 味噌汁と、後残り物のほっけの開きがあったし、それで大丈夫でしょ」
ほっけの開きは昨日郁子が朝市に行った際に初音のお店でもある『野木鮮魚店』から頂いた物である。こういうときはあいつの友達でよかったと思うよ。
「煮物なんて作るんだぁ……幸作君って本当に意外な一面を持っているよね」
驚いた表情を隠さない麻里萌は幸作の顔を遠慮なく覗き込む。
「そう? 本人はいたって普通なんだけれど、それに結構好きなんだよ料理って」
幸作は視線をそのままで麻里萌に答える。その幸作を麻里萌は感心したように見つめる。
「エヘ、でも料理のできる男の子ってちょっとカッコいいよね?」
これってカッコいいの? 初めて女の子に褒められたような気がするな、嬉しいかも。
「姉貴?」
アパートの近くで不意に男性から声をかけられ、麻里萌がその声に振り向く。
「あぁ、操(みさお)……今帰り?」
麻里萌の声が上がり、幸作はそれに反応して振り向く。
「ウン……」
操と呼ばれた男は不機嫌な顔で無遠慮に幸作の顔を見わたす。
なんだかカンにさわる奴だなぁ……って、さっき麻里萌のことを姉貴と呼んでいたよな? ということはこれが麻里萌の弟?
幸作も無遠慮に操の顔を見る。その顔はどう見ても麻里萌より年上のような雰囲気で、背も高くいわゆる色男の分類に入るような奴。
「あぁ、紹介するね、この人はあたしの高校の同級生で戸田幸作君、そして幸作君、この子があたしの弟で操、中学一年生よ」
面倒臭そうに操は頭を下げるが、その表情は不機嫌そのものといった感じだ、しかも中一というと郁子と同い年?
麻里萌が幼いと思ったら弟は大人っぽいのね?
「よろしく、操君!」
ちょっと先輩面で操に挨拶をすると操はプイッとそっぽを向く、嫌われたかな?
「操! ちゃんと挨拶しなさい!」
麻里萌は厳しい表情で操に言うが、既に操は歩き出したところだった。
「幸作君ゴメンね? あの子ちょっと人見知りな所があって……」
麻里萌が申し訳なさそうに幸作に言う。
「ハハ、あの年代は皆そうでしょ? 気にしていないよ、さっ、早く行かないと置いてかれちゃうぞ!」
幸作がそう言い麻里萌の肩をぽんとたたき送り出す。
「ウン、じゃあ幸作君また明日ね?」
にっこりと微笑み幸作に手を振る麻里萌、その様子を操は厳しい目で見つめていたことには、二人は気がついていなかった。
「あれ? ただいま……って、早くないか?」
鍵が閉まっているであろうと思っていたアパートの玄関が開き幸作は素直に驚いた。部屋の中ではセーラー服を着たままで郁子がお湯を沸かしている。
「おかえりー、今日はミーティングだけだったから早く終わったの」
郁子はそう言いながら冷蔵庫からほっけの開きを取り出す。やはり兄妹だな、考えていた事は同じだったようだ。
「お兄ちゃんは何にするつもりだったの?」
郁子はキャラクターの柄のついたエプロンを翻しながら幸作の顔を見る。
「煮物」
「へぇ、おにいちゃんがねぇ? あたしはてっきりスッパゲッティーとかの洋食みたいな奴だろうと思っていたよ、煮物は予想外だったなぁ」
驚いた表情で郁子は幸作の顔を見る。
自分でもそう思うよ、でも好きなんだよ煮物、昔よくお袋が作ってくれた奴、最近お前も作るようになったよな。
「じゃあ、せっかくだからおにいちゃん作ってよ、煮物!」
言うが早いか行動が早いか、郁子はエプロンをはずし幸作にそれを渡す。
「よし! まかせておけ! あまりにも俺の料理が旨いからって自信無くすなよ」
幸作はそのエプロンを受取り、腕まくりをして郁子の顔を見る。郁子は笑顔を浮かべながら幸作の脱ぎ捨てた上着をハンガーにかける。
「ヘヘ、おにいちゃんの料理が上手だって、あたしにはかなわないよ」
確かに郁子の料理の腕はきっと同年代の娘のそれより上手であろう、最近はお袋の作った物の味に似てきたような気がするぐらいだ。
「ほざけ、伊達にお前の兄をやっていないという所を見せてやる」
幸作は買ってきた大根を取り出し、包丁を向ける。
「ヘヘ、楽しみだよ」
郁子はそう言いながら台所の椅子に座り、意地の悪い表情を幸作に向けている。
見ていろよ! 美味いもん作ってやるからな。