坂の街の小さな恋……

〜♪〜 はじまりの春 〜♪〜

第九話 戸田家



=はるかぜ=

「おにいちゃん、行って来るけれど……ちゃんと薬飲んで、大人しくしていないと駄目だよ?」

 玄関先で郁子は心配げな表情を浮かべ、マスクで顔を覆っている幸作のことを見つめる。

「あぁ、だいじょぶだぁ……」

 鼻が詰まる……息が思うようにできない……そして鼻水が垂れる。

「ぶびぃ〜……行ってらっしゃい」

 鼻をかみながら郁子を送り出す。

 久しぶりにこんな酷い風邪を引いたなぁ……昨日の朝起きたときには既に世界がゆがんでいた、医者に行って久しぶりに注射を打たれた……思わず涙がこぼれたよ、注射を発明した人間は、人類の敵といってもいいんじゃないか? でも、注射のおかげで病気が治るのかぁ……。

 訳の分からないことを考えながら幸作はひきっ放しになっている布団にもぐりこむ。

「恋愛って……いやだなぁ、今までのものが全部壊れちゃうのかな?」

 うなるように呟きながら幸作の意識は深い所に沈んでゆくような気になってくる。



「幸作、はっきりしてよ!」

 目の前には険しい顔をした千鶴が腰に手を当てながら幸作を睨みつけている。

「はっきりって……」

「そうよ、あたしと千鶴、はっきりと決めてよ!」

 千鶴の顔が初音に変わる、その顔もまるで般若のように目をつり上げている。

「はっきりって……俺は」

「幸作君……あたし……」

 幸作の背後から声がかかる、その声の主は寂しそうな顔をした麻里萌。

「麻里萌……俺の気持ちは……」

 幸作は、まるで渦に巻き込まれるように深い所に落ちてゆく。

 俺の気持ちは……。

「うぅ〜ん……」

「……君、……さく君……幸作君」

 意識が覚醒しきらない……熱が再び上がってきたのか、頭が痛い。

「大丈夫? 幸作君」

 視界いっぱいに広がるのは麻里萌の心配そうな顔。

「ん……麻里萌……ちゃん?」

 完全に意識が戻っていない幸作は、そのことが理解できないような表情で麻里萌の顔を見ている。

「大丈夫? うなされていたみたいだったけれど……」

 麻里萌が目の前にいる……と言う事は、これはまだ夢の世界なのか?

「おにいちゃん、ちゃんと薬飲んだ?」

 郁子の声も聞こえる……と言う事は、これは夢ではないのか?

 幸作の意識は徐々に覚醒してゆく。

「麻里萌ちゃん?」

 ガバッと起き上がる幸作を見て麻里萌は、優しくその肩に近くにあったカーディガンをかけてくれる。

「ハイ、郁子ちゃんにお願いしてお見舞いにきちゃった、大丈夫?」

 麻里萌はそう言いながら幸作の顔を覗き込む。

「来ちゃったって……」

「おにいちゃんが爆睡していたから、麻里萌お姉ちゃん、玄関先であたしが帰ってくるの待っていたんだよ」

 プリプリと怒った表情を浮かべながら郁子が部屋に入ってくる。

「待っていた?」

 キョトンとする幸作に、麻里萌はあわてて手を振る。

「勝手に来ちゃっただけだし、呼び鈴を押せばよかっただけなの、勝手に待っていただけ」

 頬を赤らめながら麻里萌はそう否定をするが、郁子は怒り収まらないといった感じだ。

「それでもぉ……アァ、おにいちゃん着替えないと、汗かいているでしょ?」

 額に汗を浮かべている幸作の顔を見て、郁子は慌てた様子で近くにあったパジャマの着替えを幸作に渡す。

「サンキュ……汗でベトベトだぁ」

 おもむろに幸作は着ていたパジャマを脱ぎ捨てる。

「キャ!」

 と、近くから麻里萌の声が上がる。

「ん?」

 既に上半身裸になっている幸作は、そんな麻里萌の事を見る。

「ご、ごめんなさい、席外すね?」

 麻里萌は真っ赤な顔をして部屋を出て行く。

「おにいちゃん、できれば女の子のいる目の前で着替えはしないほうがいいと思うけれど」

 そんなものなんですかねぇ?



「さっぱりしたぁ、麻里萌ちゃんゴメン、まだちょっと頭が沸騰しているようで……」

 苦笑いを浮かべながら幸作は着替えを洗濯機に投入する。

「ううん、あたしが気を使えばよかったのよね?」

 相変わらず真っ赤な顔をして麻里萌はうつむいている。

「ほらぁ、おにいちゃん、布団で横になっていて、麻里萌お姉ちゃんはまだいてくれる? あたしちょっと買い物に行きたいの、タイムサービスやっているから」

 まるで母親に言われているみたいだな、郁子の言い方がお袋に似てきたよ。

「あたしはかまわないわよ、郁子ちゃん、代わりにあたしの分も買ってきてくれる? トイレットペーパー安売りでしょ?」

 麻里萌は首だけ郁子に向けてそう答える。

 なんだか主婦の集まりみたいな所帯臭い話題だなぁ。

「了解! じゃぁお願いします、おにいちゃん! 大人しく寝ているのよ!」

 苦笑いを浮かべながら幸作は大人しく布団にもぐりこむ。

「あは、幸作君も、郁子ちゃんには頭が上がらないみたいね?」

 麻里萌はそんな様子を微笑みながら見ている。

「そうだな」

「でも、可愛いなぁ、郁子ちゃん、お兄さんのために一生懸命っていう感じで、あたしもあんな妹がいたらいいのに……いるのは無愛想な弟だけ、ちょっと憧れちゃうな」

 バタンと慌しく玄関の締まる音がする。

「そんなもんかねぇ……最近口うるさくなってきたけれど」

 幸作はそう言いながら耳をほじる。

 熱のせいなのか、耳がやけに聴きにくいかもしれない。

「どうかしたの? 耳がおかしいの?」

 それを見た麻里萌は幸作の顔を覗き込む。

「ちょっとね? 熱のせいでしょ」

 麻里萌は辺りを見回しながら何かを探し、その探し物を見つけたのか、にっこりと微笑みながら立ち上がる。

「どうしたの?」

 幸作は上半身を起こしながらそんな麻里萌の行動を見つめる。

「エヘへ、これ! 一度やってみたかったんだぁ」

 にっこりと微笑む麻里萌の手には耳かきが持たれている。

 やってみたいって……まさか……。

「ま、麻里萌さん、まさか……」

 嬉しいような、恥ずかしいような……。

 幸作と麻里萌は二人して顔を赤らめる。

「エヘ、ほらぁ、幸作君、ここに頭のせて」

 正座する麻里萌は自分のひざをぽんぽんと叩き、そこに頭を置くように促す。

「い、いいよ……自分で出来るから……悪いし……二人っきりだし」

 自分で既に何を言っているかよく分からなくなってきている、その状況はとても嬉しい状況なのだが、実際に自分がそこに直面すると躊躇してしまう。

「き、気にしすぎだよ……ただ、自分でやるより、人にやってもらったほうが綺麗に取れるからって、何かの本に載っていたの」

 麻里萌の顔も頭から湯気が出ているのではないかというぐらいに真っ赤になっている。

「そ、そうなの?」

「そう、だからぁ! はい」

 麻里萌は強引に幸作の頭を自分のひざに横たわらせる。

 ……やわらかい……。

「動かないでよ……生まれて初めての経験なんだから」

 非常に微妙な言い回しなんですけれど……聞き方間違えると大変な事になっちゃうかも。

 幸作は麻里萌のそのぬくもりに目を閉じる。

 昔よくお袋にこうやって耳を掃除してもらったかな、懐かしい感じだ。

「わぁ、すごい……これは意外な鉱脈の発見かも……動かないでねぇ、大きな塊がここにあるのよ……」

 麻里萌はそう言いながら幸作の頭を抱きこむようにする、すると幸作の頬には柔らかなふくらみが遠慮がちに当たる。

 やばい……平常心平常心、マインドコントロールだぁ!

 幸作は頭の中に数学の公式を思い出したり、古文を思い出したりして意識を違う所に持って行こうと必死になる。

 変態になりたくなかったら平常心だぁ〜。

「とれたぁ……ほら、幸作君、こんな大きいのが入っていたよ……ん? どうかしたの?」

 満足げな麻里萌に対し、一気にやつれたような表情の幸作。

「なんでもない……ちょっと数学の公式を思い出していたところだよ……ハハ」

 怪訝な顔を見せる麻里萌は、有無を言わさず再び幸作の頭をひざに置く。

「麻里萌ちゃん、まだ?」

 驚きながら、再び数学の公式を思い出す幸作。

「反対もやらなくっちゃでしょ? こっちもすごい事になっているなぁ……ふっ」

 耳に息を吹きかけないでください、変な声が出ちゃうよぉ。

「幸作ぅ〜、生きている?」

 いきなり扉が開き、初音の元気な声が聞こえてくる、しかし、その後初音から発せられた言葉は息を呑む声だった。

「あなたたち……」

 その声に麻里萌はにっこりと微笑む。

 ここは微笑む場面なのか?

「初音ちゃん、すごいよ、幸作君の耳……きたなぁい」

 褒められているんだかけなされているんだか……いや、それ以前に初音はきっと誤解していると思うが、どうやってこの誤解を解くか。

「麻里萌ちゃん……」

 アウアウといった様子で初音は口をパクパクさせている。

「初音ちゃんもやる? 意外な鉱脈よ」

 麻里萌はそう言いながら初音を手招きする。

 そんな事に初音が乗ってくるとも思えないが。

「……ホント?」

 初音はそう言いながら麻里萌の横に正座する。

「ホントよ、ほら……見えないかぁ、じゃぁ、交代」

 麻里萌はそう言いながら幸作の頭を今度は初音のひざに乗せる。

 ……やわらかい……。

「うぁ、ホント……きたなぁい……どれどれ……アッ、大物発見!」

 今度は初音が幸作の頭を抱え込む、そうして今度は初音の胸の柔らかいものが幸作の頬を刺激する。

 やっぱり初音のほうが大きいのかな……じゃなくって、応仁の乱は……。

 数学の公式から幸作の頭の中は日本史に変わっていた。



「ぜぇ、ぜぇ……」

 息を切らしている幸作の顔を郁子が不思議そうな表情で見つめる。

「どうしたの? おにいちゃん……やつれたみたいだけれど」

 平常心を保つことがこんなに大変だとは思っていなかった……一瞬、お花畑が見えそうな気がしたよ。

 幸作は意味のない笑顔を浮かべながら談笑している初音と麻里萌を見る。

「初音姉ちゃんも来てくれたの? おにいちゃん、もてもてだねぇ」

 意地の悪い笑顔を郁子は浮かべながら幸作の事を見る。

 ハハ、今は何もいえない……熱が上がったかも。

「幸作! 風邪ひいたんだって?」

 再び扉が開くと、そこには千鶴の姿、大分慌ててきたのであろう、ちょっと肩で息をしている。

「千鶴姉ちゃんまで……おにいちゃんは罪作りな男だねぇ」

 中学一年生にそんなことを言われるなんて夢にも思わなかったよ……しかし、ありがたいといえばありがたいことだな? みんな心配してきてくれているんだから。

「お店に行ったら幸作が休んでいるって言うから」

 千鶴はそう言いながら幸作の枕元にひざまずく。

「悪いな、珍しく風邪を引いちゃったよ、今年は何とかもひくらしい」

 幸作が手を頭にやると、心配そうに千鶴がその額に手をやる、その手はちょっとひんやりしていて心地良い。

「まだ熱あるじゃないのよ、ほらぁ、ちゃんと布団かけなくっちゃって……キャァ」

 布団を取ろうとした千鶴は足がもつれたのか、そのまま幸作の上に覆いかぶさるように倒れこむ、それを聞いた初音と麻里萌、郁美は一気に視線をその二人に向ける。

「ちょっと、千鶴、何やっているのよ!」

 目をつり上げる初音。

「おにいちゃん、何しているの!」

 目をつり上げる郁美。

「幸作君……」

 寂しげな視線を向ける麻里萌……。

 だからぁ、俺は何もしていないって!



「幸作、生きているか?」

 三度目に開く扉の向こうにいるのは、なんだか着飾っている亮と、これまた目的は俺でないことがよく分かる啓太が立っている。

「やや、初音に麻里萌ちゃん」

 あからさまに亮はこの二人に対して敵対視する。

「あらぁ? 亮遅かったんじゃない?」

 フフッと意味深に微笑む初音に対し、亮の顔が蒼ざめる。

「まさか、初音……」

 勝ち誇ったような表情を浮かべる初音に対し、がっくりと肩を落とす亮。

「……あんなことや、こんなことまで……」

「だぁ〜、中学一年生のいる前で何の話をしているんだぁ!」

 幸作は顔を赤らめながら、その二人の会話に割り込む、良かったことに郁子はその意味がまだ分からないでいるようだった。

「そうそう、大人のお話は大人同士でしてもらって、郁子ちゃんはボクと一緒に……」

 べぐぅ……。

 幸作のこぶしが啓太の頬に炸裂し、そのまま啓太は倒れこむ。

「郁子! 絶対にこいつについて行っては駄目だからな!」

 フゥフゥと肩で息をしながら幸作は郁子の事を見る。

「エェ、だって啓太さん、洋服買ってくれるって言っていたよ?」

「絶対に駄目っ! こいつの半径十メートル以内に入らないようにしなさい!」

 血圧が上がることがよく分かる。

「何言っているんだい? ボクは、君と初音君たちがいつでもいちゃつけるようにと思ってだなぁ……グハァ」

 今度は啓太のボディーに幸作のストレートが炸裂する。

「あら、啓太もいいところあるのね?」

 違う……絶対にこいつの狙いは違う!

「熱が出てきたよ……」

 幸作が布団にもぐりこむと、足元に何か温かい感覚……。

「ボクが暖めてあげる……」

 幸作の股間から顔を出すのは……亮。

 何しているんだぁ!

「いい加減にしなさい!」

 幸作が力なくうなだれていると、そんな大きな声が部屋中に響き渡り、全員の動きが止まる。その声の主は、今までに見たことのないような麻里萌の顔。

「麻里萌ちゃん?」

 千鶴はそう言いながら麻里萌の顔を見るが、その麻里萌は臆することなく怒りの表情のままその騒ぎの根源である人物達を睨みつける。

「幸作君は病人なんです! お見舞いに来たのなら大人しくしていてください!」

 その形相に全員がシュンとうなだれる。



「賑やかだったよなぁ」

 夕飯の食卓、気がつけば初音と千鶴、そうして麻里萌が郁子と話をしている。

 いつの間にか寝ちゃったんだなぁ……あんな賑やかな所で。

 幸作は壁にかかっている時計の時間を確認すると既に七時を回っていた。

「……こんな遅くまで大丈夫なのか?」

 むっくりと起き上がりながら幸作は三人の顔を見る。

「幸作、目が覚めたの? どう具合は」

 千鶴はそう言いながら心配げな視線を向けてくる。

「アァ、大丈夫だ、なんだか良い匂いがするんで目が覚めたよ」

 幸作はそう言いながら郁子の頭に手を乗せながら食卓に置かれている料理を見つめる、そこには暖かそうに湯気を湛えた鍋が置かれている。

「エヘ、お兄ちゃんのためにって、初音姉ちゃんがお店から鮭を持ってきてくれたからお鍋にしてみました。おにいちゃんはこれで雑炊ね」

 鍋の中には身の厚い鮭がピンク色に染まってうまそうだ。

「初音が持ってきてくれたのか? サンキュ」

 そう言うと初音は照れたように顔をうつむける。

「ヘヘ、売り物勝手に持ってきたから、お父さんには内緒にしておいてね?」

「買い物は千鶴姉ちゃんが行ってくれたし、料理は麻里萌お姉ちゃんが手伝ってくれたし、おにいちゃんからもちゃんとお礼言ってよね」

 郁子はそう言いながら幸作の顔を見上げる。

「アァ、みんなありがとう」

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