雪の石畳の路……
Summer Edition
第六話 お盆(前編)
=忙しいお店=
『この放送を、帰省した実家で聴いておられる方もいらっしゃると思います』
BGM代わりに店内に流れているのは、日本初のコミュニティFM局で函館の情報を発信している『FMいるか』、店内にはさほど大きな音量ではないが、小さなスピーカーからはDJの楽しそうな声が聞こえてくる。どうやらこの函館という街は、帰省で帰ってくる人間のほうが多いらしい。
「ちょっとお兄ちゃん、これなんやけど……」
店内には、様々な地方のなまりが聞こえてくる。
「ちょっと、お姉ちゃん、これ十個欲しいんじゃけんどのぉ……」
「はいぃ〜ただいまお伺いいたします」
ちょっと前まで、お店がつぶれてしまうのではないかというほどの暇を懐かしむぐらいに忙しくなっている店内、勇斗と穂波がお客の相手をし、一葉が陳列してある商品の整理整頓、夏穂と和也がレジ打ちと、それぞれ各人が役割を果たしている。
「わぁお」
ショートカットの女性がその雑然とした店内を見渡し、声をあげる。
「ん? よぉ、直子」
関西弁のおばちゃんからやっと解放された勇斗は、ちょっと食傷気味な表情でその女性の顔を見る。
「これは、喜ばしい事ね?」
ニッコリと微笑む直子に向かい、勇斗は微笑み返す。
「あぁ、直子のおかげだ……有難う」
素直に頭を下げる勇斗に。驚いた表情を作る直子。
「ちょ、ちょっとガラにもないことしないでよね? 照れるじゃない」
頬を赤らめながら直子は勇斗から視線をはずすが、そのはずした視線の先にはニッコリと微笑を浮かべた穂波が立っていた。
「そんなことないですよ? あのホームページを見て来たっていうお客さん結構いますし、口コミで来てくれる人も多いです、本当にあれのおかげです」
穂波も深々と頭を下げる。
「ちょ、ちょっとらしくないなぁ」
直子は居心地の悪そうな表情を浮かべながら頭をバリバリとかきむしる。
「あたしはスタートラインを引いただけ、そこからスタートしたのが勇斗たちの実力だと思うよ? まぁ、でも、編集部には『あのページに写っている女の子の事教えろ』みたいなメールは結構きているけれど」
意地の悪い顔で直子は穂波の事を見る。
「そ、そんな教えないでください、ただでさえ最近『写真撮らせてくれ』って言われて困っているんですからぁ」
穂波の眉毛が情けなく八の字にたれる。
それは事実だ、穂波によく声をかける男が増えている。中には一緒に写真撮ったりして仕事がはかどらなくていけない。
勇斗の目つきがちょっと険しくなる。そんな表情を直子は読み取って勇斗の胸にひじを突きつけ、嫌味っぽい顔をする。
「ハハァン、勇斗、穂波ちゃん取られちゃったらどうする?」
「そんな、あたし見ず知らずの人について行ったりしません!」
いや、子供じゃないんだから、それは当たり前なんだけれど……でも……。
そう話している時も、遠巻きに女の子が穂波の事を見てひそひそ話をしているのが見える。
「アハハ、大丈夫、編集部では必ず答えないようにしているから、まぁ、現地に来て気に入っちゃったらそれはそれだけれどね? でも、勇斗、本当にうかうかしていられないかもよ?」
直子のその一言に勇斗は曖昧な笑顔を見せるが、穂波は困った表情のままでいた。
「……あのぉ」
ちょっと遠慮がちに女の子の声がする。
「ハイいらっしゃい!」
悲しいかな、条件反射だよな?
満面の営業用スマイルを浮かべる勇斗の先にいたのは、高校生であろう、夏物のセーラー服を着たその女の子はちょっと頬を赤らめながらうつむいている。
「ご、ごめんなさい、もうお土産は買いました……」
肩をピクリと反応させる女の子の手には確かにお店の袋が持たれていた。
「毎度あり……それで?」
このシチュエーションは間違いがない、この夏何度となく繰り返したことだ。
「あのですね……写真を……」
ビンゴ!
女の子はよほどシャイなのであろう、蚊のなくような小さな声に追い討ちをかけるように小さく縮こまってしまったために、その言葉を理解できる者がほとんどいなかったが、勇斗の耳ではその超音波的に小さな声が『一緒に写真』を意味していることを解読していた。
「……ほら、穂波」
勇斗がそう言いながら穂波の肩をぽんとたたくと、穂波もすでに心得ているかのように一つため息をつきながら営業スマイルを浮かべる。
「はい、いいですよ」
しかし、穂波が声をかけると、その女の子はちょっと躊躇したような表情を浮かべながら再びモジモジとうつむく。
「いえ……えぇ〜っとですねぇ……」
再び超音波的な小さな声になる女の子に穂波が顔を近づけ、それを解読しようと必死になっていたが、次の瞬間穂波の顔色が一気に変化した。
「えっ?」
直子と話の続きをはじめようとした瞬間、その穂波の声に勇斗は思わず振り向いた。
写真じゃなかったのか?
「そうなんですか?」
振り向いた時、穂波の視線が勇斗の視線と交錯する。その隣ではコクコクと頷いている女の子の姿も見える。
? 何で穂波はこっちを向いているんだ? 写真を取るのなら別に俺のことを見る必要はないはずだし、まさか俺も一緒になんていうことも億万分の一もありえないであろう。
「先輩……」
穂波の口が開かれる、その口はニィーっと左右に広がり、その目尻には、どことなく意地悪い雰囲気が漂っている。
……まさかその億万分の一の……物好き? って、自分で言って悲しくなる。
「な、なんだよ」
穂波はまるで、今まで冷やかされていた鬱憤を晴らすかのような笑顔を勇斗に向ける。
「エへへ、彼女先輩と一緒に写真が撮りたいんですって!」
勇斗の周囲の動きのある物がすべて止まる、いや、勇斗の動きが止まったといったほうが正しいであろうか、呆気に取られた勇斗の表情は、恐らく付き合いの長い穂波でさえあまり見たことのないものだったに違いがない。
「……ヘッ?」
やっと動くことのできた勇斗の口からは、認識が取れなかったように再度穂波の台詞を希望していた。
「もぉ、なにそんなに呆けているんですか? この娘は、先輩と一緒に写真が撮りたいそうです……ヘヘ、モテモテですね?」
普段であれば恐らくやきもちを妬くであろう穂波だが、相手は客だからなのだろうか、それとも余裕なのだろうか、今はニコニコと微笑みながら勇斗のことを見つめている。
……これはどこかの国の一年間の国家予算分の一の確率だな……宝くじでも買おう。
まるで油の切れたロボットのようなぎこちない動きを開始する勇斗に対し、その超音波発生少女はうつむいた状態でも顔が真っ赤になっていることがよくわかる。
「ハイ、お客さん、カメラ貸して……先輩、証明写真を取るわけじゃないんだから、もっとリラックスしてくださいよ」
デジカメのモニターに写っている勇斗は、まるでこれから面接を受けに行くかのような緊張した面持ち、そうして、そのモニターの下の部分には顔を真っ赤にしてうつむいている女の子。
「お、おう」
勇斗はニカッと笑……っているのか、頬を引きつらせ、むしろ不気味さが増したような感じもするが……。
「……にしても、身長差がありすぎるわね?」
直子がそのモニターを覗き込みながら呟く、確かにそうだ、勇斗の顔に中心をもっていくと女の子の顔が半分以上フレームアウトしてしまう。
「先輩、しゃがんでください、目線を女の子に合わせるように」
穂波はそう言いながら勇斗に注文をつけるが、その後シャッターが押されるまでは恐らく十分以上はかかったであろう。
「有難うございました!」
夕暮れ時、ちょうど観光客の大半は函館山の夜景を見に行くところであろう、この時間に一瞬客足が鈍る、その時間がお店の夕食時間になる。
「和也と夏穂ちゃんは食事に入って、今日は上がっていいよ」
レジカウンターで疲れたような表情を浮かべている和也に勇斗が声をかけると、その顔に安どの表情が浮ぶ。
夏休みの宿題もまだ残っているだろうが、毎日手伝ってくれるのはありがたい、しかし、お盆明けになる来週から二学期が始まるので、二人のバイトは今日で終わりだ。
「奥に親父がいるからバイト代貰っていけよ?」
居間では、和也たちの代わりになる鉄平がテレビを見ながら大笑いしている頃であろう、あんなのでも、俺よりも長くこの商売をやっているから助かる。
和也と夏穂は、その声に微笑み、急ぎ足で居間に向かっていった。
「和也君たちも来週から学校ですね?」
店の整理を終わらせた穂波が勇斗の隣に立ち、二人の消えた方を見つめている。
「あぁ、今週末には『湯の川漁火まつり』が行われる、それが終われば、シーズンもひと段落だな」
ため息をつきながら勇斗はカウンターにある丸いすに腰掛ける。
湯の川で行われる漁火まつり。函館ではこれがお盆休み最後の大きなイベントになる、そうすればいくらかお店も落ち着くし、落ち着いたらどこかにでも行こうかな?
仕事柄このシーズンの休みはなく、勇斗たちにしても例外ではない、八月に始まった『函館港まつり』から約二週間休みなしで働き続け、ようやくゴールが見えてきた感覚だ。
「……一段落したらどこか行きたいですね?」
どうやら穂波も同じ意見だったみたいだ。
「あぁ、そうだな、しかし海にはもう遅いし、これからはやっぱり温泉かな?」
勇斗のその一言に穂波が微笑む。
「先輩、なんだかオジサン臭いですよぉ」
そうかな? 好きなんだけれど、温泉。
勇斗は苦笑いを浮かべながら穂波を見つめる。
「でも……いいなぁ、先輩と一緒に温泉かぁ……行ってみたいですね?」
ちょっと穂波の頬が赤らむと、その赤味が勇斗の頬にも伝染する。
「……なんだかいい雰囲気……」
「ホント……ちょっとしゃくにさわるわよね?」
その声に慌てて店先を見ると、そこには、不機嫌そうに頬を膨らませた千草と、興味津々という言葉を体現している直子の姿があった。
「な、なんだよ」
勇斗は照れ隠しに千草の顔をにらみつけるものの、その効果はまったく無い。それもその筈で、勇斗の頬は紅潮したままで、目には怒りを感じさせる光が無いからだ。
「ネネ、やっぱりこの二人、高校時代からの想いを持ち続けているんじゃない?」
直子は楽しそうにそういうが、千草は、まったくもってけしからんと言わんばかりに、膨らんでいた頬をさらに増量させる。
「……ぐぅ〜」
千草の口からはうめきともなんとも言えない声……いや、音を発し、こっちをじっと見つめている……これはかなり怖い。
「そ、そんな……あたしは、ただ先輩と一緒に温泉に行きたいかなって……」
穂波を慌てふためいたように言うが、しかしそれはフォローになっておらず、むしろ二人に油を注いでしまったようだ。
「二人で温泉……」
「しっぽりと……浴衣姿の穂波ちゃんに、勇斗の理性は……」
千草の目つきはさらに厳しく、直子の猫のような目はさらに好奇心に満ち溢れている。
「な、何を二人で昼ドラみたいな想像をしているんだよ、みんなでだ! みんなでゆっくり温泉に行きたいと言う事だ」
思わず勇斗の声が大きくなると、店の奥から鉄平がノホホンとした顔を見せる。
「なんだ勇斗、温泉に行きたいのか? 春に登別に行っただろう……」
恐らく会話の途中から聞いていたのであろう、鉄平は呆れたと言うような表情で勇斗のことを見据える。
「じゃなくってだ……あぁ、もういいよ」
勇斗は説明するのも面倒くさくなり、強制的に会話を終了させるが、鉄平はなにやら楽しそうに会話を続けようとする。
「行ってくれば良いだろ? ちょうど疲れも溜まってきている頃だろう、みんなで行って来い、店番は俺と穂乃美さんでやっているから……まだ和也たちもいるだろう……」
なんだかとんとん拍子に話が進んでいくって、ちょっと待て、和也たちもいるってこれから行くという事か?
「親父、これから行くのか?」
勇斗のその疑問に鉄平は首をかしげる。
「そうだ、他になんだというんだ?」
相変わらずシレッと鉄平は勇斗の意見を聞き流す。
「だってよ、これからって行っても空いている所無いだろうよ、それにみんな準備とかもあるだろうし、いきなり過ぎないか?」
勇斗の隣で穂波も驚いた表情を浮かべている。
「用意も何もいらんだろう、シャンプーとリンスと石鹸を持って行けばいいだけの話だ、それに開いている所ならどこでもあるぞ? 深夜までやっているからな?」
……話が食い違っている……親父の言っている温泉は温泉でも『日帰り』温泉だ……でも、それもいいかもしれないな、このところずっと働き詰めでリフレッシュもできていなかったし、少しは明日の英気を養えるかもしれない。
=温泉(日帰り)=
「じゃあ、後は頼む」
店先には、社用車兼になっているワンボックスカーが止まっており、その中には……。
「いってきまぁ〜す」
サードシートに陣取る夏穂。
「行って来ます」
落ち着いた雰囲気ながらも、その目はちょっと楽しそうな一葉。
「……大丈夫、お母さん」
どこと無く心配げな表情を浮かべる穂波は、穂乃美の微笑を受けている。
「あたし助手席がいいなぁ」
いそいそと店じまいをしていたかと思えば、いつの間にかメンバーに加わっている千草。
「座れる?」
そう言いながら車内を覗き込む直子。
「千草さん、隣にどうぞ」
もうのぼせたのかというような顔をしている和也は、セカンドシートから千草を手招きする。
「……何で千草と直子が一緒なんだ?」
勇斗は顔を手で覆い、深いため息をつくと、それに千草たちは微笑む。
「だって、お隣さんじゃない!」
……その一言で決まりかよ……まぁ、大勢のほうが楽しいからいいけれど……。
勇斗はあきらめきったような笑顔を浮かべながら運転席に座ると、その見えない所で女たちのし烈な『助手席』争奪バトルが繰り広げられていた。
「千草さんと黒川先輩は後ろにどうぞ、その方が和也君も納得するみたいですし」
穂波の先制ジャブ。
「あら、あたしちょっとお尻が大きいから、スレンダーな穂波ちゃんの方がいいんじゃないかしら? それに、夏穂ちゃんだって後ろに乗っているんだもの、姉妹仲良くね?」
千草のカウンター。
「あたしセカンドでいいや……穂波ちゃんも一緒の乗ろうよ」
千草に対する直子の援護射撃、穂波ピンチ。
「うぅ〜」
「穂波、ナビ頼むわ、途中まで道知っているけれど、あまり自信ないから……」
勇斗の完璧援護によって、この勝負、穂波WIN!
「はぁ〜い」
助手席の扉を開ける穂波はまるでスキップを踏むような勢いだが、その横で千草は小さく地団駄を踏んで悔しがっていた。
「それで、どこに行きますか?」
シートベルトをしながら穂波は運転席で思案顔を浮かべている勇斗の顔を覗き込む。
「う〜ん、行ってみたいのは『函館スパランド』なんだけれど、まだ新しいから混んでいるだろうし、ゆっくりと行ってみたい気もするし」
ハンドルを抱え込むようなそぶりで勇斗は首をかしげる。
「ねぇ、そんなにいっぱい日帰り温泉があるの?」
大人三人が座るにはちょっと窮屈なセカンドシートから千草が身を乗り出し、勇斗と穂波の空いている空間に顔をねじ込んでくる。
「ハイ、函館近郊にはいっぱい日帰り温泉があるんですよ、有名なのは『花園温泉』とか『谷地頭温泉』ですね、それ以外にも住宅街の中にポツンと温泉があったり、最近ではいわゆるスーパー銭湯のような日帰り温泉もあります。意外なのが湯の川温泉のホテルではあまり日帰りをやっていない事ですかね?」
穂波は身体をちょっとひねりながら千草に話しかけると、そのわずかな空間に今度は直子が首を突っ込んでくる。
「その中でも新しくできたのが『函館スパランド』! 札幌にある施設のと同じ系列なんだけれど、こっちのほうが規模的には大きいわね? 温泉プールはもちろんの事、ウォータースライダーや、カップルバスまであって、一日いても飽きないという触れ込みもまんざら嘘ではないわ」
直子は当然取材で言ったのであろう、思い出すようにその様子を事細かに話してくれる。
「へぇ、ちょっと興味あるわね? 勇斗、今度一緒に行こうよ、二人っきりで」
千草のその一言に穂波の目がつりあがる。
千草が来てから穂波の目がつりあがることが増えたよなぁ……。穂波も普段大人しいくせに、こと千草がらみになると、妙にムキになるというか……まぁ、責任の一旦は俺にあるんだけれどね……。
「まぁまぁ、だったらスパランドは今度という事で、今日は『花の湯』にしようか? あそこも新しいし、広いから俺は好きだよ」
勇斗は、ため息をつきながらそう言い、キーを回すと、『キュル』と音を立て、車の中に振動と共に静かながらもエンジン音がこもる。
「う〜ん『花の湯』だったら新道でしたよね?」
ただいま地図検索中のような顔をしながら穂波は視線を虚空にさまよわせる。
「ネネ『花の湯』もいいけれど、大野の『しんわの湯』も広くてよくない?」
セカンドシートから直子の意見が述べられると、それに便乗したのかサードシートに座っている夏穂からも意見が発せられる。
「夏穂は『遊湯』が好きかも」
……まとまらなくなってしまった。
勇斗はため息交じりにハンドルを操り、路面電車の走る国道五号線に車をのせる。
「結構混んでいそうだな」
hakodateすばるご一行様プラス二名を乗せたワンボックス車は、函館新道脇にある『花の湯』に到着したが、その駐車場は勇斗が思っていたよりも車が多く、かなり混雑している事が容易に想像がついた。
「ハイ、お盆休みという事もあるんでしょうね? 地元以外の人も来ているみたいですよ?」
穂波も助手席から降りながら駐車場の車を見渡す。そのナンバーは地元ナンバー以外にも、札幌や、帯広、品川ナンバーまである。
「これじゃあどこに行っても混んでいるわね?」
直子が穂波の隣でため息混じりにつぶやく。
「函館の人って温泉好きなのかなぁ」
千草はちょっと背伸びをして、その建物を見上げている。
「そうかもしれないな、近郊にこれだけいっぱいの日帰り施設があるのも珍しいと思うよ、さて、フロントに行って早く入ろうぜ」
ご一行様は和風旅館を想像させるエントランスに入り込み、フロントでお金を支払う。
「安いのね? 東京の銭湯より安いかも、しかも温泉で、ちょっと羨ましいなぁ」
フロントで支払う勇斗の後ろで千草は感激したような声をあげる。
「まぁ、競争といえばそうかもしれないけれど、確かにこの料金は地元民の贔屓目を差し引いても良心的だと思うし、それだから、これだけのお客が来るんだろう」
清潔感が漂う休憩所には老若男女が入り乱れ、幼子が父親に頭を拭かれている光景などがいたるところで見られる。
「さて今日は、男湯は『洋風』で女湯は『和風』みたいね? あたしこの前来たとき洋風だったから制覇だわ」
直子が嬉しそうに言う。
「黒川先輩はよく来るんですか?」
穂波はちょっと呆れたように言うと、直子はプクッと頬を膨らませる。
「あら? あたしだって一応OLなのよ? 色々とストレスがあるの、そんな時はこうやって取材がてらに日帰り温泉に来てリフレッシュしないと!」
何となく恍惚の表情を浮かべる直子に対し、勇斗は苦笑いを浮かべたまま、男湯ののれんをくぐる……が、和也が付いて来ている気配がない。
「……和也、お前そのうち痴漢に間違えられるぞ? 気をつけないと……」
のれんから顔だけ出すと、そこには未練がましく女湯ののれんを見つめており、はたから見ると立派な不審者だ。
「だぁ〜〜〜〜、生き返るぜぇ〜〜〜〜」
明るい色のタイルのせいなのか、明るく感じる浴室内は、予想以上に人でごった返し、やっとの思いで洗い場を確保し、湯船につかろうと腰を上げれば、人垣をぬって入らなければいけないほどだった。
日本人という習性なのかな? みんな浴槽の淵で浸かっているにもかかわらず湯船の真ん中にはほとんど人がいない……。広いんだから、もっと真ん中を使えば良いのにと思うが、考えてみれば、俺もそうかもしれないな?
まるでドーナッツのように浴槽の淵に人が集まり、その中心には、小さな子供がバシャバシャと波を立てているぐらいだった。
「……おやじ臭いなぁ」
和也はそう言いながら勇斗の隣に肩を並べる。
「ハハ、世間の荒波に耐えたため息だ……社会人になると痛感するよ、今まで子供だったんだなってな」
勇斗はそう言いながら和也の顔を見ると、その顔は訳がわからんといった表情を浮かべながら首をかしげている。
そりゃわからないだろうよ、俺だってこっちに帰ってこなければわからなかったと思う、お店の運営とか、減価償却だとか、荒利だとか、損益分岐点だとか、こっちに戻って来て覚えた単語ばかりだ、しかし、それを覚えなければ、店員でもある一葉さんや穂波は路頭に迷わなければいけなくなるし、自分たちもそうだ、何よりもみんなが別々になるということが一番いやだ、だからイヤイヤでも頑張っているつもりでいるよ。
「兄貴……露天風呂行かないか?」
和也が何かを思ったように勇斗に声をかけ、湯船から立ち上がる。
「これまた気持ちがいいものだなぁ〜」
既に夜の帳の下りた東屋のある露天風呂にはやはり人が多いものの、屋内ほどの喧騒ではなく、ちょっと落ち着いて入ることができた。
頭寒足熱というのかな? 夏とはいえ、日がくれると涼しく感じ、頬をなぜてゆく風は火照った体に心地よく感じさせてくれるよ。
勇斗は再びおやじチックなため息をつき、その隣ではまた苦笑いを浮かべる和也の顔があった。
「……あにきぃ……なんでこんな男がいいのかなぁ」
呟きとも取れる和也の台詞に勇斗は首をかしげながら見る。
「何のことだ?」
タオルを頭の上に乗せ、完全に温泉満喫モードに入っている勇斗の姿はお世辞にも若くは見えず、三十後半のおやじ寸前という雰囲気だ。
「……穂波さんにしても、千草さんにしても、何で兄貴みたいなのを彼氏に選んだのか分からないよ……」
てめ、喧嘩売っているのか? ……といってもだ、我ながら、それをキッパリと否定できないな。
勇斗は真正面から投げられた和也の意見を受取り、それをどう返球していいかわからず視線を宙に浮かべる。
「フム……物好きなのかな?」
勇斗はそう呟き、お湯を両手ですくいそれを顔にかける。
俺がもしも女だったら、迷わず正面にいる和也を取るであろう。容姿は断然いいし、兄貴という贔屓目を引いても性格も悪くない、ちょっと思い込みがちなところもあるけれど、自分をしっかりと持っていると思う。そんな和也に比べたら俺なんて……やめておこう、自分でだんだん情けなくなってきたよ。
勇斗は和也に気づかれないように小さなため息を吐く。
「……兄貴が言わないでくれよ」
和也はニヤッと勇斗の顔を見る。
「な、なんだよ……わかったような顔をするなよ」
勇斗はそう言いながらお湯をすくい、それを和也の顔めがけて発射させる。
「うわ、やったな兄貴……って、ガキじゃないんだから騒がない」
実の弟に諭されるとは思っていなかった……。
「でも……何となくそんな雰囲気をもっているんだろうな、兄貴って……変な所が親父に似ているよ、親父だってあんな可愛い奥さんもらって……それに引き換え……」
ヤバイ……和也の奴、スイッチが入ったみたいだ。
勇斗の顔が蒼ざめる。なぜか彼女のいない和也は、ちょっとその事に対してナーバスになっているようで、この話になると、和也の長い愚痴に付き合わなければならない事は、十二分に承知している。
「あぁ〜、和也、兄はちょっとのぼせたから先に出るぞ、後はゆっくり入っているといい」
そう言いながら勇斗は逃げるように湯船から立ち上がる。
事実ちょっとのぼせている感じだ、そんなに長く浸かっていないのにこれだけ温まるというのは温泉の証拠だな? はぁ、夜風が気持ちいいぜぇ。
勇斗の身体にはまるで秋風のような涼しい風がまとわり付いてくる。
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