雪の石畳の路……
Summer Edition
第七話 お盆(後編)
=日帰り温泉の世界?=
「あっちぃ〜」
脱衣所で身体をふくものの、温泉の効用なのであろう、汗が後から拭きだしてきて、いつまでたっても着替えることができない、隣には、勇斗にやや遅れて出てきた和也が同じようにタオルで身体を拭くが、その顔はまるで浜茹でになった毛ガニの様な色合いになっている。
「のぼせたよ……」
ようやく汗が引き始めた勇斗はノソノソと下着を着だすが、新陳代謝の激しい和也にいたってはタオル一枚でベンチに座って汗を拭っている。
……なんだか和也の事をチラチラ見ていく男が多いような気もする、まさかとは思うが……。
苦笑いを浮かべる勇斗だが、事実、数人が和也のその姿を見て、まだ風呂に入っていないのにもかかわらず頬を赤らめている男性が数人いたことを勇斗は確認している。
なんだか変な世界に和也が連れて行かれそうで怖いかも……早いとこここから脱出したほうが良さそうだな。
勇斗はため息をつきながら和也の腕を引き、ほぼ強引に着替えさせると、どこからともなく舌打ちする声が聞こえたような気がする。
アブねぇ世界だな……。
「暑い! 暑い! 暑い!」
Tシャツ姿の勇斗は、止まらない汗を拭いながら、シャツの裾をばたつかせ、身体にいくらかでも涼しい風を送り込もうと試みるものの、まったく吹き出す汗は止まる事を知らない。
「ホント温まったよ、なんか飲む物ないかなぁ」
和也はニッコリと微笑み、ロビーに置かれているジュースの自動販売機を物色しているが、その表情は額に少し汗を浮かべているぐらいで、勇斗のように滝のような汗は流していない。
何で同じ人間でこんなにも違うのだろう……片や爽やかな風呂上り、こちとら、汗だくの変な男という構図が成り立っているではないか。
「兄貴、牛乳飲む?」
和也は、自動販売機に並んでいる牛乳を見つけ嬉しそうに勇斗に進める。
「いや……俺は……」
勇斗の視線の先には、どこかのお父さんなのだろう人間が黄金色の液体に白い泡をたたえたグラスに向く。
「……兄貴、帰りの車の運転だってあるんだからダメだよ」
和也は、呆れ顔で勇斗に言うが、勇斗の視線はその物からなかなか離れようとはしない。
はぁ〜、美味いだろうなぁ……風呂上りに、ウグウグウグプハァ〜……やりてぇ〜。
勇斗の口は半開きになり、今にも涎を垂らさんばかりになっている。
「勇斗……だらしない顔をしないでよね?」
そんな勇斗の背後から声がかかる。
「だらしないとは失礼な言われようだな……こんなに風呂上りの爽やかな表情は、滅多にないと思うがな……こんな姿は君もあまり見た事ないだろう千草」
勇斗が振り向くと、そこには長い髪をアップにし、長袖のTシャツに、コットンパンツ姿という千草の姿があり、その姿はかなり色っぽく、周囲にいる女性もちょっと霞んでしまうほどで、近くにいた和也にいたっては、再び温泉に入ってきたのかと思うほどに顔を真っ赤に変化させている。
「アラ? 変ねぇ、あたしはもう一度風呂に入り直した方がいいわよといいたかったんだけれども?」
首からタオルを下げて、色っぽいというには程遠い姿をした直子が、意地の悪い顔をして千草の後ろから顔を出す。
「直子、お前どういう意味だ!」
勇斗がその顔を睨みつけると、直子はベェーっと勇斗に向かって舌を出す。
「そおいう意味だよぉ〜だ」
直子はそう言いながら、意地の悪い表情を浮かべて勇斗の顔を見る。
いかん、ここで血圧を上げると再び汗が出てきた……やっぱり飲みてぇなぁ。
勇斗は、再び黄金色の液体を見つめ、舌なめずりする。
「あの、勇斗さん飲んでもかまいませんよ?」
どこからともなく聞こえるその一言を聞いて、勇斗は無意識に小走りでその物を売っているカウンターに向かう。まるで、何かに操られているかのように……。
「あ、兄貴、ダメ……惑わされている」
遠くから和也のそんな声が聞こえるが、既に走り出した俺の気持ちは揺るぐ事はない……もう少しだ、もう少しであの泡に口をつけることができる。
勇斗の目の前で注がれるその黄金色の液体に勇斗は口を半開きにしてその時を待っている。
「いただきまぁ〜す」
ウングウングウング……カハァ〜……生きているってすばらしい!
勇斗は差し出されたそれを一気に飲み干し、その顔は至極の極みというような笑顔を浮かべている。
「あぁ〜あ……やっちゃったよ」
そんな笑顔とは正反対に、顔を手で覆う和也に対して、口の周りに付いた泡を舌でなめ取りながら勇斗の首が傾く。
「……何をだ?」
勇斗はそう言いながら周囲を見渡すと、そこにいるのは、がっくりした表情を浮かべている和也に、呆れ顔の千草と直子……他にいるのは一葉。
ちょっと待ってくれ、今俺に『飲んでいい』といったのは一体誰だ? その台詞が出るというのは車の運転ができる、イコール免許をもっているということだが、和也は未成年だから持っていないし、千草も持っていない……直子には聞いた事ないが、そんな気の利いた事を言うはずがない、となると……このメンバーの中で免許をもっているのは……。
勇斗の顔から一気に血の気が引く。
「ウフ、ちょっと大きい車ですけれど、慣れれば大丈夫ですから」
一葉はニッコリと微笑みながら勇斗を見るが、一葉の運転をよく知っている勇斗と和也の表情は、風呂上りとは思えないようなどんよりとした表情に変わっている。
考えろ……考えるんだ勇斗……何か良い手立てがあるはずだ、よく考えるんだ。
勇斗は眉間に指をやり、じっくりと考える。その考えの中では既に酔いは覚めたから、自分で運転するなどという不埒な考えすら浮んでくる。
「直子、お前、車の運転できるか?」
僅かの望みをかけて、勇斗は直子の顔を見る。
「出来ない事はないけれど、まだ仮免許よ?」
それはどうも……早く免許取れるようにがんばってください。
勇斗の頭の中には絶望という言葉が浮かび上がる。
「おにいちゃぁ〜ん」
女湯ののれんが揺らぎ、そこからピンク色のスエットを着た夏穂と、三本ラインの入った、ある番組で言うところの『勝負服』であるジャージ姿の穂波が姿を見せる。
……なぜにジャージ? お色気半減だぜぇ、しかも『休日のお父さん』仕様か?
勇斗はそれまでの緊急事態を棚上げして、ちょっと色っぽい姿の穂波を予想していたらしく、その顔は明らかにガッカリした表情だ。
「どうかしたんですか? そんな暗い顔をして」
穂波はタオルで汗を拭いながら勇斗の顔を覗き込む、するとその瞬間その身体から石鹸の香りは立ち上り勇斗の脳髄を刺激し、お色気半分のはずの穂波を抱きしめそうになる。
ヤバイ……堪えろ……煩悩を排除するんだ……ここでそんな事をすれば、どういうことになるかお前にもわかるだろ? そうだ、あそこにいる人を見れば……。
勇斗は、視線を一気にロビーでくつろいでいるかなり年のいったお姉さんの、胸とも腹ともつかない部分に向けると、棚上げされていた緊急事態が再び勇斗の元に舞い降りてくる。
「いや……実は……」
予想以上の効果に勇斗の意識は一気に元に戻る……恐るべし中年パワー。
=懐かしい再会と酒=
「それで先輩は、飲んじゃったんですか?」
穂波は勇斗の説明を聞き、ちょっと呆れ顔になるものの、その瞳には嫌悪感はなかった、むしろ、仕方がないという雰囲気さえ受け取れるような優しい目で勇斗を見ていた。
「……わりぃ……つい欲望に目がくらんだ」
勇斗も、申し訳無さそうに頭を掻く。
「もぉ……いいですよ、帰りはあたしが運転しますから、先輩は飲んでもかまわないですよ?」
ほ、穂波さま……。
勇斗の動きがすべて停止し、穂波の少し赤らんだ顔を見つめる。
「せ、先輩?」
湯上りの赤色とは違う赤みの注した頬をしながら穂波は勇斗の事を見る。
「……今、穂波の顔が天使に見えた」
勇斗はそう言いながら無意識に穂波の手を取り、それを上下に振る。
「ちょっと、先輩、それはおだて過ぎですよ……アハハ」
「……良いんですか? もしなんだったら、あたしが運転しますけれど」
一葉のその意見に、勇斗と和也は相変わらず息が良いところを見せ、
「いいえ! 一葉さんも、ゆっくりとくつろいで下さい!」
一字一句違わない二人の息は、やはり兄弟なのかなと、痛感する勇斗だった。
ハハ、穂波がいて本当に良かった……。
勇斗は、嬉しそうに勇斗にビールを持ってくる穂波の姿を見て、優しい表情を浮かべている。
「生き返るぜぇ」
白い泡を湛えた黄金の液体を、勇斗は喉を鳴らしながら一気にあおると、その顔は、至福の喜びといったような表情を浮かべる。
「先輩ったらぁ……エヘヘ」
そんな表情を、運転を買って出た穂波も嬉しそうに見つめている。
「いやぁ〜、やっぱり風呂上りといったらこれ! これがあるから、一日の労働に我慢ができるって言うものだよ……うまい!」
いささかオーバーアクションのような気のする勇斗の顔を覗き込みながら微笑む穂波、その様子を、頬を膨らませながら千草と直子が見つめている。
「……なんだか、入り込む隙がないっていう感じ?」
千草はビールのカップを持ちながら、眉間にしわを寄せている。
「うん……でも、悔しいけれどいい笑顔」
直子もビールのカップを両手で持ち、チビッとそれに口をつける。
「ちょっと妬けますねぇ」
二人の背後で、違う方を向きながら呟く一葉に対し、二人は素直に驚きの表情を浮かべながら振り返る。
「アッと、ごめんなさい、どうぞ、お続けください」
一葉は、その呟きを否定するように二人の微笑を向けるが、その二人の表情から疑問が払拭される事はなかった。
「ん? あれぇ黒川じゃないか? 勇斗も……」
怪訝な表情を浮かべていた直子に対して、どこからともなく一人の男性から声をかけられる。
「えっ? あぁ〜、たぁちゃん」
直子のその一言に、勇斗は顔をあげ、その男性の顔を見る、その顔は高校時代に毎日見て飽きる顔だったが、今では懐かしく、思わず自分が高校時代に戻ったような感覚に陥る。
「よぉ、久しぶりだな藤本、四年ぶりか?」
勇斗は満面の笑みを浮かべながら藤本と呼ぶ男性と手を合わせる。
「たぁちゃん?」
面識のない千草と一葉はキョトンとした顔で、ニコニコ微笑んでいるその姿をみつめる。
「あぁ、俺の高校時代の同級生」
勇斗はそう言いながらたぁちゃんの肩を叩く。
「はじめまして、藤本です、勇斗とは高校時代悪友やっていましたって、お前、いつ函館に帰ってきたんだ?」
首をかしげるたぁちゃんに対し、苦笑いを浮かべる勇斗。
「ハハ、いろいろあってな、春に帰ってきたよ」
苦笑いを浮かべる勇斗の隣で、微笑んでいる穂波に気が付いたたぁちゃんは、ちょっと意地の悪い顔を浮かべる。
「なんだ勇斗、お前まだ飯島と続いていたのか?」
そう言いながらも、たぁちゃんは優しい表情で二人を見つめていた。
「ご無沙汰しております、藤本先輩」
ニッコリと微笑む穂波に対したぁちゃんはウンウンという表情で見つめる。
「藤本先輩も元気そうでよかったですね? 今は塾の先生ですって?」
穂波はニコニコしながら勇斗に話しかけている。
「あぁ、名古屋のほうにある塾で講師をやっているらしいよ、たまたまこっちに里帰りしていたらしいな? まさか、あいつに会えるとは思わなかったよ、悪友に会えるというのも良いものだな?」
勇斗も嬉しそうな顔をしながらビールに口をつけようとするが、既にその中身は無くなっており、勇斗は寂しそうな表情を浮かべながら穂波を見る。
「はいはい、買ってきますよ」
ニッコリと微笑みながら、かいがいしく穂波はピンク色の小銭入れを持ち、ビールを買いに行く、その姿を見ながら千草は再び頬を膨らませ、直子はちょっとウットリしたような表情を作っている。
「なんだか……ホント、良い雰囲気」
既に何杯目かわからないほど飲んでいる千草は、物足りないといった様子で、さらにビールをあおる。
「穂波ちゃん……なんだか可愛いなぁ」
直子のその一言に、千草の表情が変わる。
「へ? 直子さん、今なんて?」
毒気を抜かれたような表情で千草は直子を見つめると、それを否定するように直子は手をばたつかせる。
「なんでもないよ、アハハ」
ごまかすように、直子は作り笑いを浮かべている。
「はぁあ、いい気分」
旧友に出会ってから既に三杯目のビールを飲み干し、勇斗の頬は湯上りの赤みとは違う赤みが浮かび上がっている。
「兄貴、穂波さんが運転してくれるからって、少し飲みすぎじゃないのか?」
和也は仏頂面で勇斗を睨みつけると、その意見に賛成といったような顔をして直子も勇斗を睨みつける。
「そ、そうかなぁ……そんなに飲んだつもりはないけれど」
勇斗も、その二人の視線に申し訳無さそうな表情を浮かべ、穂波の事を上目遣いで見る。
「だったらぁ、この後うちに来て二次会やろ〜よ? エヘへ、良い案でしょ?」
そう言う千草は、勇斗よりもさらに真っ赤になり、酔っていると言うよりは、既に泥酔しているようで、既に目が据わっている。
おいおい、なに風呂上りでそんなになるまで飲むんだよ……明らかにロレツが回っていないじゃないか。
苦笑いを浮かべる勇斗の視線の先では、へらへらと笑いながら、足元がおぼつかない千草の姿があり、やはりその姿は立派に酔っ払っている。
「兄貴、本当に大丈夫か?」
穂波の運転するワンボックス車は、函館西地区にある古い洋館の前に横付けされ、和也と夏穂を降ろすが、その和也は心配そうな表情を浮かべながら、助手席に頭を突っ込みながら勇斗の顔を見る。
「大丈夫だ、心配するな」
勇斗はそう言いながらセカンドシートで、赤い顔をしながら寝息をたてている千草の様子をチラッと見る。
千草って、こんなに弱かったかなぁ……以前は夜通し一緒に飲んでいたのに、まぁ、疲れもあるだろうし、温泉で温まりすぎて一気に酔いが回ったんだろうな?
「こほん」
優しい表情で千草を見る勇斗に、こちらもやはり、少し赤い顔をした一葉がわざとらしい咳払いをする。
「まぁ、いいけれど……! イッ! 穂波姉さん、おやすみなさい」
和也が穂波の顔を見て、ハッとした顔になり、珍しく穂波の事を『姉さん』と呼ぶ。
「……先輩、ちゃんとシートベルトを締めておいてくださいね! 危ないですから!」
運転席から、やたらと力のこもった穂波の声がし、勇斗は和也に対し困ったような表情を作るが、困った顔をした和也の顔は一瞬にして後ろに去ってゆき、勇斗の身体は、シートにめり込むような感覚がする。
今、穂波の顔を見ることができない……怖すぎて。
=函館の夜=
「うぉ〜い、千草、家に着いたぞ……」
予想通り、家についてもセカンドシートの眠り姫は、目を覚ます気配がない。
「どおしましょう……」
運転席から降りてきた穂波は、思案顔を浮かべながら、勇斗と同じようにセカンドシートに首を入れる。
「カギだけでもあれば、部屋に放り込む事ができるんだがな……」
既に闇に包まれた店先で、車に顔を突っ込む男女のカップル、きっと、事情を知らない人は、かなりの高確率で俺たちを挙動不審者に思われるであろう。事実、何人か通り過ぎる通行人は声を潜めながら、こちらに視線を向けている事を感じるほどだ。
「カギならありますよ?」
いったん家に戻った一葉が、手に何か光る物を持ちながら再度出てくる。
「あるって?」
勇斗と穂波の双方から同時に同じ質問が繰り出され、ちょっと困ったような表情を浮かべている一葉。
「ハイ、千草さんから合鍵を預かっています……まさか本当に勇斗さんに渡すわけにもいかないと言って、あたしが千草さんから預かっていました」
一葉はそう言いながら、その手にあるカギをチャリンと振る。
……う〜ん、千草も気を使ってくれたのか何なのか……少し複雑な心境なんですけれど。
勇斗は、曖昧な笑みを浮かべながら、一葉の顔を見ると、その一葉は、ちょっと意地の悪い表情を浮かべている。
「はは、じゃあ、誰か開けてくれるかな?」
はい、と、一葉がお店に向かい歩いてゆくのを見届けると、勇斗が車に上半身を突っ込み、セカンドシートで眠り続ける千草の身体を引き抜く。
「!」
その姿を見た穂波は、過去最高であろうというようなほどに目をつり上げ、両方の頬は、まるでアンパンを放り込んだようなまで膨らませている。
「どっこいしょっと……ん?」
千草の体をいわゆる『お姫様抱っこ』しながら店に向くと、そこには明らかに機嫌の悪い顔をした穂波の顔が、勇斗の視界に入り込んでくる。
「…………」
穂波の眉は眉間を中心に、恐らく四十五度ぐらいまで傾き、それに比例するように、いつもはちょっとタレ気味の目じりもつりあがっているように見える。
なんだか、穂波の背中に炎が見えるような気がするんだけれど……。
「こ、これはあくまでも緊急処置だからな?」
勇斗はその表情に困惑し、自分の両腕の中で横たわっている千草を見るが、その当人は目を覚ます気配はまったくない。
「……はぁ……そうですね!」
言葉自体はさほどきつくないのだが、口調は明らかに怒りを帯びている。
……最後の、ね、の所にやたらと力がこもっていた気がするけれど……これだったら和也を連れて来ればよかったよ……。
勇斗はため息をつきながら、一葉が開けて待っているお店に向けて足を向ける。
「穂波……千草の荷物頼むわ」
勇斗は穂波に背を向けながら声をかけると、渋々といった感じの穂波の返事が返ってくる。
「はぁ〜い」
「とりあえず、ソファーに横にさせたらどうですかね?」
一葉が店内の電気のスイッチを探し当てると、まばゆいばかりに店内に光が溢れ、勇斗は思わず目を細める。
「そうだな」
その光に照らし出されたソファーに、ゆっくりと千草をおろすが、当人はまだ目覚める気配がないようで、大きめの胸の膨らみが、ゆっくりと上下に動いている。
「まったく、なにを酔い潰れているんだか……」
勇斗は、降ろした千草の隣に腰掛け、フッとため息を付きながら、その寝顔を見る。
東京の時に何度か見た顔を、ここで見るなんて思っていなかった……。
「さて、これからどうしましょうか……まさか、この場所に、このままで寝かせると湯上りなんで、きっと風邪をひいちゃいますよねぇ?」
長袖のTシャツに、コットンパンツだけと言うラフな格好をしている千草を見つめながら、一葉が困ったように腕組みをする。
確かに、暑いといってもこの格好だけで寝かせたら、間違いなく風邪をひくだろう。
千草はアルコールと温泉で温まったせいであろう、そのTシャツも汗ばみ、胸元にはXの字のような染みを作っている。
「やっぱり着替えさせてあげた方が良いですよねぇ……」
穂波は頬を膨らませたままそう言い、勇斗の顔をチラッと見る。
な、なんだよぉ、まさか、俺が着替えさせるわけにはいかないだろ?
「そうですねぇ、でも、ここで着替えさせるというのもなんですし、千草さんの部屋に連れて行ってあげないといけないですよね?」
一葉はそう言いながら、お店の奥に続く扉を開き、居住区画に足を踏み入れる。
という事は、また俺が千草を抱き上げないといけないという事だよな? そうすると穂波の顔がまた引きつるんじゃないのかなぁ。
勇斗は上目遣いで穂波の顔を見ると、穂波はため息をつきながら、仕方がないといった表情でその顔を見返してくる。
「……先輩、早く着替えさせてあげないと、本当に千草さんが風邪ひいちゃいますよ」
渋々なのであろう、穂波は頬を少し引きつらせながらも、微笑を作ろうとしているが、むしろその方が迫力あるようにも見える。
「ここが千草さんのお部屋みたいですね?」
一葉はそう言いながら、扉が閉められている部屋を見つめている。
確かにそうであろう、店に続くのは、居間兼休憩室のようなスペースに、トイレがある以外には何もなく、二階に上がれば、小さなキッチンにお風呂と部屋が三つあり、扉の閉まっている部屋はここだけだ。
「他の部屋には何もないですね? ちょっと寂しそうな感じかも」
穂波はその部屋の様子を見ながら、ちょっと同情するような目で、勇斗の腕の中で眠っている千草を見る。
「あぁ、一人暮らしになるわけだからな?」
その一言に、穂波の顔は少し強張り、言葉無くうなずく。
きっと、こっちに来るのには勇気がいっただろうな? いくら気が強いといったって、女の子が一人、今まで住んだことのないこの土地に来て、慣れない生活をするなんて、きっと心細いと思うよ。
勇斗が優しい視線に、穂波は何となくわけのわからない憤りを感じ、つい険しい目で勇斗のことを睨みつける。
「ヘェ、結構片付いているわね?」
一葉が部屋の扉を開き電気をつけると、小さなベッドとタンスなどの最低限の物しか置かれておらず、意外とシンプルな部屋の内装だった。
考えてみれば、東京でも千草の部屋って行った事なかったよな? 結構派手そうに見えるけれど、生活は意外にシンプルだったりして……ちょっとイメージが違ったかも。
勇斗は思わずその部屋を見渡す。
「先輩、女性の部屋をそんなにジロジロ見るものじゃありませんよ!」
穂波はそう言いながらベッドの上掛けを捲り上げ、目で千草をおろすように勇斗を促す。
「お、おう」
パイプで組まれ、少し固めのベッドに千草をおろすと、思わず勇斗の口からは安堵のため息が漏れる。
「さて、着替えだけれど……」
一葉がそう言いながら部屋を見渡すとほぼ同時に、千草の腕がまだ離れきっていない勇斗の背中に回り、力いっぱい引き寄せる。
「わっ?」
不意をつかれた様な格好になった勇斗の体勢は、あっけなく崩れ、そうして……。
「うぅん……勇斗ぉ……大好きぃ」
千草は寝言とも取れるような声でそう言いながら、勇斗の顔を自分の顔の近くに持ってゆく。
「むぐっ?」
二人の顔の距離がゼロになり、勇斗の口が千草の口によって塞がれる。
「!!!」
「……まぁ」
もがく勇斗の背後では穂波が絶句し、どことなく羨ましそうな顔をした一葉がその経緯を見守っている。
「ちょっ、ち、千草! お前……なにやって……」
勇斗は必死になり、その呪縛から離れた時には、既に穂波の姿はその部屋の中にはなかった。
「穂波?」
勇斗は無意識に部屋を飛び出し、唯一外に出られる店の扉を開くと、いつの間にか降り出した雨の中で、傘をさした直子が驚いた表情で立ち、駅の方を見つめていた。
「直子、穂波はどっちにいったか知らないか?」
キョトンとした表情の直子に、勇斗はまるで食って掛かるような勢いで話しかける。
「えっ? あっちに……ほら」
直子の指差す方角には、雨に霞ながらも確かに穂波の姿が見える。
この距離なら、見失うことなく追いつけるはずだ!
勇斗が走り出そうとすると、その腕が直子によって掴まれる。
「ちょっと勇斗、何があったの? 穂波ちゃん泣いていたみたいだけれど」
直子は少し怒ったような顔をして勇斗を見ているが、勇斗はその直子の手を振りほどき、さっきよりも姿が小さくなった穂波の後を追いかける。
やばい、少し遅れた……。
=ふれあいイカ広場=
「……ったく、直子にあそこで腕を掴まれなければ追いついていたのに……」
函館駅に突き当たった所で、勇斗は穂波の姿を見失っていた。
「どっちに行ったんだろう」
息を切らせながら、勇斗は人の姿を探すが、既に日付が変わろうとする時間になっている函館駅の前には、急に降り始めた雨に戸惑ったように、観光客がタクシー乗り場に急ぎ足で向かっている姿が大半を占めていた。
考えろ……穂波が行きそうな所……。
近くを走る巴大橋からは、大型トラックの音であろう、重々しい排気音と、水を切る音がひっきりなしに聞こえる。
考えろ……穂波の事を……。
勇斗の右手には、ホテルやデパートの立ち並ぶ函館市街、左手には朝市の駐車場と、メモリアルシップ摩周丸……それに……。
……あそこか?
遠くから聞こえた汽笛と共に勇斗の頭に浮かび上がった場所に自信を持ち、勇斗は照明の消されているその場所に向かって再び走り出す。
間違いがないはずだ、ここを過ぎれば、あの場所がある……穂波と、俺の……。
既に全身びしょぬれになり、履いている靴も水を吸ってかなり重くなっているがそんなことはお構いなしに走る勇斗、その視線の先には、明かりの点いた漁船に照らし出されるように、暗い広場が見えてくる。
「……穂波?」
ザアーという雨音と、漁船のエンジン音であろう、こもったような低音だけが聞こえるその広場で、勇斗は周囲を見渡す。既にライトアップの時間が過ぎたため、一部の照明を除いて消されているその広場は暗く、人の気配もないように思えた。
違ったのか?
勇斗が、あきらめかけてイカをモチーフにしたモニュメントを見上げると、その後ろで人が動く気配に気がつく。
「穂波!」
勇斗のその一声に、その人影は、ピクリと反応する。
「……先輩?」
常夜灯の明かりに照らし出されたその人の姿は間違いなく穂波だったが、その格好は雨に濡らされ、着ているTシャツは身体に張り付き、そのラインを浮かび上がらせ、いつもは一つにまとめている髪の毛はペッタリと頬に張り付き、その顔も、どこか凍えたようになっている。
「こんなにびしょぬれになって、風邪をひいたらどうするんだよ」
駆け寄る勇斗に対し、穂波は背を向け、再び走り出そうとする。
「ちょ、ちょっとまて!」
勇斗は反射的にその腕を握り、自分に引き寄せる。
「アッ……」
穂波の身体は、その力に逆らえずに引き寄せられ、勇斗の胸に身体が収まると、その身体の冷たさに、勇斗ははっとした顔になる。
「こんな時間にどこに行くというんだよ……しかもこんなになっちまって」
勇斗はその細い身体を抱きしめると、それまで緊張していた穂波の身体から、徐々に力が抜けていくようだった。
「……エグゥ……グシィ」
穂波の口からは、言葉は聞こえず代わりに、しゃくりあげる声が聞こえてくるだけだった。
「穂波……」
勇斗の一言に顔をあげる穂波の顔には、雨とは違うものが止め処もなく溢れ、恨むような表情でその瞳は勇斗を見つめていた。
ほ、穂波?
その表情に、困惑した勇斗の腕の力が抜け、次の瞬間、力が抜けていた穂波は再び力をこめて、勇斗の体を突き放す。
「……帰ります」
穂波は呟くようにそう言い、勇斗から離れ歩き出すが、その勇斗は付いて歩く事ができず、さっき見せた穂波の表情に戸惑い、その後姿を見送るだけだった。