雪の石畳の路……
Summer Edition
第八話 穂波の想い
=気だるい朝=
「ウウン……」
ちょっと寒いかな?
畳の部屋にひかれている布団の中で、穂波は寝返りをうちカーテンを見るが、その向こう側からは、いつものような日差しは無く、その代わりに雨の音が聞こえてきて、妙に気だるく感じるその身体は起きる事を無意識に躊躇させる。
まだ雨が降っているんだ……お客さんが減っちゃうなぁ……。
再び寝返りをうち、枕元にある目覚まし時計を見るといつも起きる時間を指しているが、相変わらず穂波は布団の中でモゾモゾ動くだけにとどめている。
……先輩と顔を合わせにくいかも。
昨夜はあの後一人で帰ってきて、勇斗と顔を合わせることなく自分の部屋にこもってしまった為に、穂波は勇斗と顔を合わせていない。
……なんであんな態度になっちゃったんだろう、別に先輩が悪いわけじゃないし、千草さんが悪いわけでもない。でも、なぜだかあんな態度を取ってしまったのは、あたしの嫉妬なのかしら、それとも同情?
「はぁ……」
穂波はため息をつきながら体を起こすと、気のせいなのか、身体の節々が痛むような気がして、思わず天井を見上げる。
同情なのかな? ただ千草さんの部屋を見て、なんともいえない気持ちになったのは間違いないし、何よりもあの千草さんの一言……。
寒気を感じ、膝元に落ちている毛布を肩にかける。
「……大好き……かぁ」
そうして、先輩に対して……キスした……。
穂波は頬が熱くなる事を覚え、それに手を触れると、かなりの熱をそこは持っていた。
あの時、千草さんは起きていたのかなぁ……ウウン、そんなことは無い、多分まだ寝ていたんだと思う、でも、それだからこそあれが千草さんの本心。
胸の中を何かにギュッとつかまれるような感覚がしたかと思うと、穂波の頬から熱が取れることはなく、ずっと赤らんだままでいる。
「はぁ、ホント、何でなんだろう」
穂波はさっきから同じ考えを頭にめぐらせていたが、結論もやはり同じだった。
……とりあえず先輩には謝ろう、あたしの事を心配してああやって迎えに来てくれたのに、あんな態度を取ったんだもの、もしかしたら嫌われちゃったかもしれない、でも謝らないといけないよね?
穂波は自分を奮い立たすようにパジャマを脱ぎ捨て、着替えを始めると、部屋の外に置かれている車のエンジンがかかる音がして、着替え途中にもかかわらず穂波はカーテンを開け、その様子を見る。
先輩? どこに行くのかしら……。
穂波の目からはあまりその表情はよく見えないものの、車のドアを開けている勇斗の行動から察する所機嫌が悪そうである。
あたしのせいなのかしら……。
その様子に、穂波の胸が再び何かに掴まれる様な感覚に落ちるが、そんなことに気がつくはずのない勇斗は、車に乗り込みそのまま走り去っていった。
「おはよう穂波ちゃん」
少し慌てて居間に降りると、出迎えてくれたのは一葉だった。
「おはようございます一葉さん……先輩は出かけたんですか?」
いつもならテレビを見ながら、タバコを吸っているいつもの場所に勇斗の姿は当然ない。
「ウン、旦那さんに朝早く起こされたみたいで、今さっき出かけていったわよ」
一葉は苦笑いを浮かべてそう言いながら、急須から注いだばかりのお茶を穂波の前に置き、自分の湯飲みにもそれを注ぐ。
「それより穂波ちゃんは大丈夫なの? ちょっと顔が赤いようだけれど、風邪ひいていない?」
一葉は穂波の顔を覗き込みながら心配そうな顔をする。穂波が昨日ずぶ濡れになって帰って来た事を一葉は知っているが、その経緯についてはあえて聞こうとしなかった。
「ハイ、大丈夫だと思います」
穂波はニッコリと微笑みながら一葉の顔を見るが、相変わらず顔が赤らんでいる為、一葉の顔は浮かないものだった。
「……今日から開店を遅くするって勇斗さんも言っていたから、もう少し二階で休んでいたらどう? 顔色もあまりさえないみたいだし……」
「先輩はどこに行ったんですか?」
心配顔の一葉の台詞をさえぎるように穂波は言い、一葉の顔を食い入るように見ている。
「あたしもよくわからないのよ、勇斗さんは憮然とした顔で、旦那さんの所に行って来ると言っただけで、詳しく聞いていないのよ」
穂波の勢いに気おされしたように一葉はため息交じりに話す。
先輩の顔が浮かんできそうだわ……それであんな機嫌が悪そうだったんだぁ。
「そう……ですか……」
穂波は残念な気持ちの反面、少しホッとした気持ちになる。
=語り継がれる歴史=
「一葉さん、穂波さん、手伝いに来たよ」
普段店を開ける時間にお店に顔を出したのは、昨日でバイトを終わらせたはずの和也だった。
「和也君、どうしたの?」
既に慣れた開店準備をしながらも、少しボォッとした顔で穂波は和也の顔を見る。
「ウン、兄貴が親父の運転手やらされて遅くなりそうだからって、その代わりにお店に手伝いに行けと言う命令が出てね、あ〜ぁ、夏休みの宿題終わらないかもしれないよ」
和也は両手を頭の後ろで組みながら苦笑いを浮かべるが、その顔はまんざらでもないようだ。
「そうなの? 助かるわ、じゃあ店長はいないけれど、お店を開けましょうか」
一葉がそう言いながらお店のシャッターを開けると、そこは雨に霞んでおり、歩行者もほとんどいないようだ。
「……これじゃあ客も来ないんじゃないか?」
既に諦め顔をしながら店の外を眺めている和也に対し、一葉は微笑を浮かべながら、お店の電気をつける。
「そうかもしれないけれど、お店を開けなければお客さんはゼロでしょ? でも開けていれば少なくっても入ってくれるはずよ、だから開けておくの」
ウィンクする一葉は、穂波の顔を見つめている。
先輩の台詞ね、きっと……。
「穂波さん、風邪でもひいたんじゃないの? 顔が真っ赤だよ?」
綺麗な顔をした和也の顔が、気がつくと自分の間近にあり、その線の細さにちょっと驚く。
「だ、大丈夫よ」
ちょっと動揺するわね? これだけ至近距離に和也君の顔があると……兄弟なのにこれだけ容姿が違うというのも珍しいんじゃないかしら? 先輩の場合はどちらかというと、泥臭いというか、やんちゃ坊と言った感じだけれど、和也くんの方は垢抜けたというか、美少年といった感じよね? これで彼女がいないというのも不思議だわ……。
「穂波さん!」
照れたような表情でいる穂波に対して、店先にはうっとうしく降る雨をものともしない爽やかな顔をした少年……守弘が、ニコニコしながら立っている。
「守弘君どうしたの? こんな雨の中」
キョトンとした顔の穂波に対し、守弘は遠慮なくお店の中に入ってくる。
「雨ならお店もそんなに忙しくないだろうから、そうすれば、穂波さんとゆっくり話すことできるかなって思って」
女の子のようにはにかんだ微笑を漏らす守弘に対して穂波は、嫌悪感はなく、むしろ、雨の中わざわざ来てくれた事に対しありがたさを感じていた。
「それでわざわざ来てくれたの?」
穂波が守弘の顔を見て微笑むと、その顔は茹で上がってしまったかのように顔を真っ赤にして照れていた。
あは、可愛いなぁ、何だか本当に女の子みたいね、ってこんな事言ったら彼に失礼かな?
「穂波ちゃん、彼は?」
そんな穂波の雰囲気に、ちょっと憮然とした表情の一葉が声をかけてくる。
「ハイ、昔先輩とよく行った喫茶店のマスターの息子さんです」
穂波がそう紹介すると、守弘は満面の笑顔を湛えながら一葉を見て、その対象となった一葉は思わず頬を赤らめる。
「はじめまして、楠木守弘です、よろしくお願いします!」
にこぉ〜っと微笑む守弘に、一葉だけではなく、穂波も少し顔を赤らめる。
「ん? あれ? 楠木じゃないか?」
店の奥からお店のエプロンをしながら和也が出て来ると、その姿に対し守弘が過敏なほどな反応を示す。
「えっ? 有川君? なんで君がここに?」
守弘の頭の周りには、いくつものクエスチョンマークが浮かびあがり、和也の顔をしみじみ見つめている。
「なんでって言われても、ここはうちの店だからな……お前の方こそ、なんで穂波さんの事を知っているんだ?」
その一言に、守弘は考え込むように人差し指を眉間に当てる。
「有川和也……有川穂波……有川勇斗……有川」
有川という言葉を一体いくつ吐いたのかしら……。
穂波が苦笑いを浮かべながら、もうひとつ疑問に思っていた事を口にする。
「守弘君は、和也君のお知り合いなのかな?」
その一言に、有川と呟いていた守弘の顔は真っ赤に変化して和也の事を見ると、その視線の先にいた和也においては、普段の優しい顔をどこかに忘れてきたような険しい表情になる。
「お尻なんて、そんな……」
うつむきながら頬を染める守弘に対し、
「馬鹿野郎! 俺にはそんな趣味はねぇ! そもそもだなぁ、なんで俺がそんなキャラ設定になったのか、俺にはよくわからねぇえんだよ!」
……間違いなく、和也君は先輩の弟ね……そんな顔から、そんなガラの悪い台詞がポンポン出てくるわね?
苦笑いを浮かべながら二人のやり取りを見る穂波だが、その視線はどことなく焦点が合っていないような感じでいる。
「そんな怒らなくたっていいじゃないか、ボクだって困っている一人なんだよ?」
ちょっと寂しげに和也を見上げる守弘の表情は、やはり女の子のようである。
「だったら、お前の学校の女子に言ってくれ! おかげでうちの学校の女子まで騒ぎ出しやがって……なんだって、俺とお前が付き合っているとか俺が……だとか」
アハ、なるほど、そういう訳かぁ……最近の女の子の好きそうな話題よね?
「ヘェ、そんなイベントみたいなものがあるなんて珍しいわね?」
一葉は、心底感心したといった表情で、やっと落ち着きを取り戻し始めている和也と守弘を交互に見る。
ハハ、まさかあの頃に流行っていた事が、いまだに後輩たちに継承されているとは思っていなかったわよ……まさかアレが続いているとはねぇ。
苦笑いを浮かべている穂波に対し、怪訝な顔を浮かべながら一葉が顔を寄せてくる。
「なんだか穂波ちゃん知っているようだけれど……」
「こんちわぁ〜」
一葉が詰め寄ってきたとき、タイミングが良いのか悪いのか、直子が店に顔を出す。
「直子さん?」
詰め寄っている一葉を見て、一瞬その動きが止まり、やがて直子のネコ目かかっている目がさらに険しくつりあがってゆき、一葉の事を睨みつける、気のせいか、その目尻には涙が浮かんでいるようだが……。
「……そんな……やっぱり同じ屋根の下に住んでいるからなの? まさか穂波ちゃんに限ってそんな事ないと思っていたのに……」
黒川先輩……なんだかものすごい勘違いをしていませんか? それ以前にどういう誤解の仕方なんですか!
目を潤ませている直子に対し、穂波は、ただただ苦笑いを浮かべ、その現状が速やかに去ってくれる事を切に願うだけだった。
「ヘェ、あのイベントがいまだに残っているとはねぇ……」
やっと我に返った直子は麦茶を飲み干しながら、嬉しそうな表情を浮かべながら和也と守弘の顔を見つめる。すると、あまりそのようなシチュエーションに慣れていないのか、守弘は頬を染めながらうつむくが、対する和也は、慣れたのであろうか平然とした様子でその経緯を見ている。
変に場慣れして来たわねぇ……和也君。
それもその筈だ、千草に思いを寄せながらも、一葉や直子といった色気のある女性に囲まれ、しかも、その思いを寄せる女性は自分の兄の元彼女となれば、いやがおうにもすれていかなければならないだろう。
「残っているとは?」
和也は、小首をかしげながら、穂波と直子の顔を覗き込む。
「……このイベントの発起者って、実はあたしだったりして」
ペロッと舌を出す直子に対し、穂波は苦笑いを浮かべ、その渦中にある和也と守弘は、呆気に取られた表情を浮かべている。
「あたし……って、直子さんが?」
和也の頭上には大きなクエスチョンマークが浮かび上がり、対する守弘はまるで敵を見るような表情で直子の事を見る。
確かにそうかも……黒川先輩がこのイベントの主催者だった気がするよ……。
「ハハ、間違いないわよ……あたしが保障する、このイベントの言いだしっぺは、黒川先輩で、栄光あるその初代チャンピオンは……」
穂波はそこで口をつむぐ。
そう、その時の一番は……。
「勇斗だったんだよ?」
その直子の一言に対し、和也はありえないというような表情を浮かべ、守弘はまるで、負けたといったような顔をしてその場に崩れ落ちる。
……ちょっと、そんなにショックを受けることないんじゃないの? 自分のお兄さんである和也君までぇ……。
プクッと頬を膨らませる穂波を見つめながら、直子は微妙な微笑みを浮かべながら、その可愛い後輩たちを見据える。
「……信じられないでしょ? 結果を聞いた時わが耳を疑ったわよ……あれは完全に大穴だったわ……主催者であるあたしだって、信じられなかったんだから、まさか、あの勇斗が『バレンタインチョコ保有率ナンバーワン』だなんて……でも、事実、あの時の記録はいまだに破られていないと後輩から聞いているし、結構人気あったのよ? あなたの兄上は」
直子は和也に対し、意地の悪いウィンクを飛ばす。
確かにあの時先輩がもらったチョコの数が凄かったのは知っていますけれど、それは初耳かもしれない……あの時の先輩の貰った記録がいまだに一番だなんて、ちょっと自慢かも……。
嬉しそうな表情を浮かべる穂波に対し、いまだに信じられないというような表情を浮かべているのは和也だった。
「なんで、あんなのが……」
……あんなのって、えらい言われようねぇ、まかりなりにも自分の兄でしょ?
穂波の頬が再びプックリと膨れ上がる。
「まぁ、インターハイ準優勝という贔屓目を除いても、結構勇斗は女子に人気があったみたいね? 綾西の女の子だけではなく、他高からの女の子からも結構貰っていたみたいだし、なんであんなのが良いんだろうと思うけれどね?」
直子はそう言いながら、意地の悪い表情で穂波の事を見る。
なんでって、結構優しいんですよ? 見た感じぶっきらぼうかもしれないけれど、細やかな所では気を使ってくれていたりして……。
そんなことを考えていると、思わず穂波の頬は赤く染まってゆき、その様子をつまらなそうに見つめている守弘と、納得したかのような表情を浮かべている和也の顔が互いに穂波の顔を覗き込んでくる。
「へぇ、勇斗さんって結構もてていたんですね? そのライバル多きその勝負を制覇したのが……穂波ちゃんという事かぁ」
一葉はそう言いながら優しい表情で穂波の顔を見つめる。
ハハ、そうやって客観的に見られるとちょっと照れますねぇ……。でも、確かに先輩はあたしに向かって言ってくれましたよね?
穂波は、その時に勇斗の言った台詞を思い出し、ハッと顔をあげる。
仮に先輩が千草さんを好きになったとしても、あたしの気持ちは変わらないはずじゃないのかしら? だってあたしはずっと先輩の事を思い続けた……その気持ちは今でも変わらない、あたしは先輩の事が好き。
自分の出した結論に、穂波はニッコリと微笑み、頬が紅潮してゆく……というよりもずっと赤らんでいるのだが。
いやだなぁ勝手に顔が火照っちゃっているよ、本当に風邪をひいたのかしら? 体もなんだかすごくだるいし……。
穂波の目の前に見えるものが歪み、体が重力に逆らえなくなり思わずその場にひざまずく。
「ちょ、ちょっと穂波ちゃん?」
慌てたような直子の声に、やっとの思いで微笑を浮かべるが、それからの事はまったくわからなくなっていた。
あれだけいっぱいあったチョコの中からあたしのチョコレートを大事そうに食べてくれた、そして先輩は言ってくれた……あたしの事を……そう、あたしの事を、大好きと言ってくれた、あたしは、それが信じられなかったの?
ぼんやりとした意識の中で、揺らめく視界には一葉や、直子の顔が揺らめき、あの人の声が、気のせいなのか耳の中に響き渡っていた。
「穂波、おい、穂波ぃ!」
エヘへ、先輩の声が聞こえるよぉ……。