坂の街の小さな恋U

第十話 Breakfast



=麻里萌の思いやり=

「麻里萌? どうしたのこんな早い時間に……」

 まだ完全に目が覚めきっていない顔をした麻里萌がダイニングに下りると、素直に驚いたように麻里萌の母親である貴和子(きわこ)がキッチンから顔を出してくる。

「ん〜? 幸作クンの朝ごはん……」

 寝ぼけ眼の麻里萌はそう言いながら洗面所に姿を消し、その後姿を貴和子は、ため息を吐き出しながらも優しい笑みを浮かべながら見送る。

「幸作クンねぇ……あの娘、二言目には幸作クンなんだから……」

 ふと昨日学校から帰ってきた麻里萌の様子を思い出しながら貴和子はため息を吐き出す。

「初めてよね? あの娘があそこまでムキになるなんて……昨日も帰ってくるなり『幸作クンに夜食を準備するから』といって、自分の夕食を蔑にして作っていたわよね? よほど幸作クンが好きなのかしら? 親としてはちょっと寂しいながらも、応援したい気持ちもするかな?」

 苦笑いを浮かべながらも、それまでの作業を中断し、昨夜麻里萌の持って行った弁当箱の準備に取り掛かると、さっきまでの寝ぼけ眼を完全に払拭した麻里萌が洗面所から戻ってくる。

「あっ、お母さんありがとう。準備してくれたんだ」

 タオルを首から提げた格好の麻里萌は、嬉しそうな顔をしながら、貴和子の手元に置かれている弁当箱に視線を向ける。

「ウフ、あなたの大事な幸作クンのために朝食を作るんでしょ? 微力ながらもあたしも協力させてもらうわよ?」

 意地悪い顔をする貴和子に対して、タオルで顔を拭っていた麻里萌は一気にその顔を赤らめ、視線を忙しなく周囲に泳がし、その様子に貴和子はケラケラと笑いながらやかんに水を注ぐ。

「って、大事な幸作クンって……」

 耳まで真っ赤にしている麻里萌に、貴和子は優しい笑顔を浮かべながらやかんを火にかけ、動きが完全に沈黙してしまっている麻里萌の肩をポンと叩く。

「あら? 違うのかしら? あたしからは何はともあれ幸作クンの事を思いやんで仕方がないという感じにしか見えないんだけれど? 『もう幸作クン以外の男なんて考えられない! あたしは一生幸作クンの事を愛しています』ってね?」

 クネクネと一人芝居する貴和子が茶化すように言うと、麻里萌の顔は面白いほど赤くなってゆき、それまで沈黙していたのが嘘のように激しく手足をばたつかせて否定の態度を取るが、その言葉は的を射ない状態になっている。

「そ、そんな、幸作クンは、あたしのかわりに学園祭の代表で学校に泊まって一生懸命だし、だからあたしがやらなければいけないのは、そんな幸作クンのサポートをしなければいけなくって、だから幸作クンの朝食を作ってあげないといけないの!」

 一体何回『幸作』の名前を出したのかわからないながらも、一気にまくし立てた麻里萌は赤い顔のまま貴和子の顔を睨みつける。

「ハイハイ、わかりましたよ。そういう事にしておきましょうかね? それよりも、いとしの幸作クンに持っていくお弁当作るのを手伝おうか?」

口を尖らせている麻里萌にキッチンを明け渡す貴和子は、リビングに戻りその様子を眺める。

「ウウン、お母さんは別の事をしていていいよ、大変だろうし……台所だけ借りるね?」

頬の膨らみをおさめながら麻里萌は少し考えるように視線を虚空に向けると、何かメニューを思いついたのであろう、幸せそうな顔をしながらエプロンをして、冷蔵庫に顔を突っ込む。

「ねぇお母さん、卵使ってもいい? それと操が使っているポットも貸してくれる? 温かいコーヒーを入れて行くから……」

 慌しく動き出した娘の様子に、貴和子は優しい微笑を浮かべる。

 昨日は郁子ちゃんに手伝ってもらったから、今日はあたし一人で作って持っていこう。幸作クンはコーヒーが好きだからちゃんとしたレギュラーコーヒーに、コーヒーだったらやっぱりサンドイッチの方がいいのかな?

 冷蔵庫の中からハムやレタス、キュウリに卵などの素材を取り出し、気がつくと鼻歌を歌いながらまな板に向って腕を振るう。



「やっばぁ〜、もう七時になるよぉ〜っ!」

 制服に着替えた麻里萌は、慌てた様子でテーブルの上に置かれている可愛らしい弁当包みに包まれている弁当箱と、少し大きめのポットを手にして慌てて家の玄関を飛び出す。

 確か朝一番の電車って七時六分だったよね? それを逃すと十分は待たなければいけない。早くこれを幸作クンに渡してあげないと……きっと幸作クンお腹を空かせているよ。

 慌てたように宝来町の電停に向って駆けて行く麻里萌は、しかし、なぜだかその顔をほころばせており、チラチラと手に持ったポットに視線を向けている。

コーヒーに慣れている幸作クンの口に合うかちょっと不安かもしれないけれど、いつものインスタントじゃなくって、ちゃんとレギュラーコーヒーを落としたんだもんね?

 付き合いはじめてから家に常備するようになったレギュラーコーヒーは、カレイドスコープのマスターから貰ったもので、お店で幸作が入れているのを見様見真似で落としたもの。

「実は操を実験台にして何度か入れた事があるのよね? 美味しく入っていたらいいなぁ」

 まだ朝靄がかかり人通りの少ない通りを麻里萌は駆けながら、一人呟きながら電停を目指していると、いつもの交差点の先に電車の丸い顔が見える。

 ちょ、ちょっと早くない? まだあと一分はあるわよ? なんでそこにいるのよぉ。

 足に込める力をさらに強くした麻里萌は全速力で駆け出し、電停に到着すると待っていたかのように派手な広告に彩られた電車が到着する。

『整理券をお取り下さい。整理券をお取り下さい。この電車は函館駅前、松風町、五稜郭公園前経由、湯の川行きです』

 まだ人もまばらな電車の中に、テープでの案内が流れ、息を切らせながら唯一乗り込んだ麻里萌が席に座ると同時に電車は発車。ペホという音と共に、次の電停の案内テープが流れる。

『次は十字街、十字街です……』

 何とか間に合ったわね?

 あまり客の乗っていない車内にもかかわらず、案内のテープは律儀にもその仕事を全うし、海外からの観光客が増えてきているためなのか、丁寧に英語の放送まで流れる。

 まだ街も完全に起ききっていないというような雰囲気ね? もう七時を過ぎているというのに、歩いている人が少ないなぁ、東京ならもう通勤ラッシュが始まっている時間なのに。

 視線を向けた窓の外はまだ朝のまどろみを引きずっているような街の風景で、誰が開けたのか、開いている窓からは、日中とは違った爽やかな風が車内に流れ込んでくる。

 内地の湿った風と違って心地がいいわよね? 東京にいたらこの時期もうクーラーを付けないとやっていけなかったのに、窓から入ってくる風がこんなに気持ちがいいよ。

 ガタゴトと揺れる市電の中には麻里萌の他に数人しか乗っておらず、どこか朝のまったりとした雰囲気が車内に流れている。



「やっぱり誰もまだ来ていないわよね?」

 最寄りである柏木町の電停を降り、いつもなら同じ制服を着た生徒が我がもの顔で歩いている坂道にその姿は無く、見渡してもいるのは犬の散歩をしている近所の奥さんぐらいで、その光景を麻里萌は苦笑いを浮かべながら見つめる。

 まだ学校がはじまるまで一時間近く早いもんね? みんな来ていないのは当たり前かぁ。そういえば幸作クンもう起きているかなぁ……作業はもう終わるような事を言っていたけれど、学校に泊まって風邪なんてひいていなければいいけれど……。

 心配そうな顔をする麻里萌の視線の先には朝日に照らしだされ、青々している街路樹がそよ風になびいており、いつものように賑やかな声はそこには聞こえず、朝の景色を作り上げているその光景はどこの街でも見る事の出来る平凡な朝の景色に麻里萌はその顔をほころばせ、それさえも新鮮に思えてくるのは、麻里萌が手にしている弁当包みとポットのせいであろう。麻里萌は小さく肩をすくめながら手に持つ包みに視線を向ける。

 喜んでくれるかなぁ、幸作クン……朝早く起きて作った朝ごはん。正直に言うとちょっと眠いけれど、学校じゃあロクな朝ごはん食べられないだろうから頑張っちゃった。

 逸る気持ちを抑えきれないのか麻里萌は歩む足を早め、徐々に駆け足になりながら見えてきた学校の校門に向う。



=音子の思いやり=

「……だ、戸田!」

 誰だ、やっとの事で眠りに付いた俺の事を呼ぶのは……作業はもう既に終わっている。だから今はゆっくりと眠らせてくれ。

 徒歩で通っている連中を帰宅させ、学校に泊り込む覚悟の連中だけで店を完成させたのは、日付が変わってから一時間ぐらいが経過した頃だった。

「戸田ぁ」

 鬱陶しそうにその声に寝返りをして抗議をする幸作に、さらに声が聞こえる。

 頼む、あと五分でいいから寝かせてくれ。ダンボールの布団で寝るにはなかなか寝付けなくって、やっと寝る事ができたんだ……もう少し…………ん?

 眠りたいという意識とは裏腹に、覚醒しはじめた意識は、幸作の名前を呼ぶ女子が一体誰なのかを模索しはじめる。

 どこかで聞き覚えのある声だよな? なぜだか俺の眠気を一掃させるようなこの声は……もしかして音子なのか?

 ゆっくりと開く視界は、まだピントがうまく合わずにぼやけているが、そのシルエットはウェーブのかかったヘアスタイルの音子だった。

「……もぉ、せっかく早く来てあげたのに……でも、疲れているのかな?」

 スッと幸作の頭に向けて手を伸ばそうとする音子の優しい視線と、やっと開ききった幸作の目がかち合い、その瞬間伸ばされていた音子の手がピタッと止まる。

「音子?」

「と、と、戸田ぁ? あんた起きていたの?」

 手を伸ばしたままの音子は、まるでキタキツネに遭遇した様な顔をして、まだ眠たそうに目をこすっている幸作の事を見る。

「いま起きた所だ……くはぁぁぁ〜……ずいぶんと早くないか?」

 だらしなくあくびをしながら身体を起こす幸作に対して、音子は慌てて伸ばしていた手を自分の背中に隠す。

「エッ? そ、そうか? ちょっと早く……そうだ、ちょっと早く目が覚めちゃったから」

 どうもいつもと様子の違う音子に、幸作は首を傾げる。

「そっか?」

「んだ、家にいても仕方がないし、もしも間に合わなかったらあたしだって困っちゃうから早く来ただけで、他意はないよ……それにしても、よく間に合ったな?」

 話を逸らすように音子は教室の中に視線を向け、感心した顔をすると、大きく伸びをしながら幸作も立ち上がり、自慢するように鼻をピクつかせる。

「まぁな、みんなで力を合わせた集大成といった所だろう」

 最期は数人しかいなかったにしても、みんなギリギリまで教室に残ってくれて作業を手伝ってくれた。これは俺だけじゃない、みんなの力を合わせた結果だよ。

 昨日音子たちが帰る頃にはまだ骨組みにしか見えなかった教室内は、すっかりとその様相を喫茶店風に仕上げられており、所々に散らばっている道具を片付ければすぐにでもお客を案内する事ができるまでになっていた。

「ヘェ、たいしたもんだ……あれ? あそこ……」

 そんな教室内を見渡していた音子が、何かに気がついたのか、一箇所にその視線をとどまらせ、幸作の服を引っ張る。

「ん?」

「あそこの壁紙が少しはがれかかっているよ?」

 そう言いながら音子が指を差すと、それを追うように幸作が視線を向けるが、指摘された場所が分からず、音子の視線まで幸作は腰を落とす。

「どこだよ……完璧だったはずだぜ?」

「あそこだよ……ったく、戸田は頭だけじゃなくって目も悪いのか? って……」

 憎まれ口を聞くように音子は顔を幸作に向けると、その距離の近さにその顔は、まるで音を立てるように一気に赤く染まる。

「頭が悪いのは否定できないが、目が悪いのは聞き捨てならんなぁ」

「えと……う、うるさいなぁ、まだわからないのか? あそこだ! あの看板の下の所、ちょっと角が剥がれているだろ?」

 真っ赤な顔をしたままの音子は、しかし、どこか嬉しそうな顔をしながら幸作に寄り添い、その視線を誘導するように指を差す。

「ん? あっ、本当だ……昨日は途中で眠たくなっちゃったからな? 直さないとちょっとかっこ悪いなぁ……エッと、確か壁紙を張るコテが……」

 ボリボリと頭を掻きむしりながら、少しかったるそうに動き出す幸作は床に置かれていたヘラのような物を取ると、はがれかけている壁紙の下に脚立を立てる。

「ちょ、ちょっと一人で大丈夫なの?」

 年季の入った脚立は少し歪んでいるのだろうか、自立はするものの、かなりガタガタと揺れ、幸作が足をかけるとさらにその傾きが顕著に現れる。

「まだ他の奴は寝ているんだ、これぐらいなら一人で大丈夫だよ」

 そう言いながら壁紙の補修に入ると、それまでガタガタと揺れていた脚立が急に安定し、不思議に思った幸作が足元に視線を向けると、照れくさそうな顔をしながらも音子がその脚立を押さえていた。

「珍しいなぁ、音子に手伝ってもらうなんて思ってもいなかったよ、サンキュ」

 意地悪く言う幸作に対して、音子はプクッと頬を膨らませる。

「別に、ただあんたがここで怪我なんてすると、他の連中が困っちゃうからな? ここまで頑張ったんだ、せっかくなら成功させたいというのは、あたしもこのクラスの一員だからだ」

 決して顔をあわせようとしない音子に、幸作は小さく肩をすくめ、剥がれている壁紙にのりを付けヘラで押さえつけるようにして補修を完了させる。

「よし、これでいいだろう」

 ゆっくりと脚立を下りた幸作は満足そうにその補修箇所を見据え、ウンウンとうなずくが、その瞬間幸作のお腹からグゥという音が聞こえてくる。

 ハハ、そういえば昨日麻里萌の作ってきた弁当を食べたっきりだからな? さすがに腹が減ってきたぜぇ……コンビニにでも行ってなんか買ってくるかな?

 お腹をさする幸作に、音子は照れくさそうな顔をして自分のカバンを手繰り寄せる。

「なんだぁ戸田、お腹が空いているのか? 仕方がないなぁ、ほら……」

 カバンの中から音子が取り出したのは、普段の言動とは正反対に可愛らしいイラストの描かれている巾着袋だった。

「ほらって……なんだ?」

 あまりにもいつもとは違う音子の雰囲気に、幸作は怪訝な顔をしてその顔を覗き込むと、逸らしながらもチラッと見えた音子の顔は、風呂上りのように上気しているのがわかる。

「あんたがお腹を空かしているみたいだから……これを食べなよ……言っておくけれど、仕方が無くなんだからね? べ、別にあんたのために作ってきたわけじゃあないんだから……」

 言いよどむ音子はいつもと同じように、ガタガタと音を立てながら机の上に巾着袋の中から取り出した弁当箱(かなり大きめ)を置く。

「別に、あんたのためにじゃないんだからね? みんなお腹を空かせていると可哀想と思ったから作っただけであって、決してあんたのためじゃあない!」

 ――どうでもいいけれど、なんだって音子に『あんた』呼ばわれしなければいけないんだ? しかも連呼するように……しかし、ありがたいのは確かだぜ。

 一向に顔をあわせようとしない音子に、幸作は苦笑いを浮かべつつも、感謝を込めて机の上に置かれている弁当箱のフタをあける。

「おぉ? これはすごいなぁ……」

 弁当箱の中には綺麗に焼けている卵焼きや、タコを象ったウィンナー、小さなハンバーグに付け合せのプチトマトを中心にしたサラダなど、かなりのボリュームがあり他の包みには一つ一つ丁寧にラップに包まれているおにぎり(これもかなり大きめ)が六個、入っていた。

「エヘへ、おかげでちょっと眠いけれどね? って、別に起きようと思って早く起きたわけじゃなくってだなぁ、たまたま早く起きたから作ったんだ……」

 一瞬嬉しそうな顔をしたかと思うと、再び顔をそらせる音子に、幸作はしきりに首を傾げながらも、目の前で美味しそうな匂いを携えているそれにお腹がグゥッと反応する。

「ヘェ、音子も料理をするんだな? ちょっと意外な一面かもしれないぜ」

 冷かすような顔をする幸作に、音子はプクッと頬を膨らませる。

「あのなぁ、あたしだって女なんだ、料理ぐらいはする。今日のお弁当はちょっとお母さんに手伝ってもらったけれど、その気になれば料理の一つや二つできる!」

 ムキになって言う音子に、幸作は苦笑いを浮かべながら制して、まだ床の上で寝ている啓太たちに視線を向ける。

「わかったよ……音子は料理のできる女の子だ。さて、その音子さんの料理を俺一人で堪能するわけにはいかないよな? みんなを起すかな? ちょっと忍びないけれど……」

 恐らく俺と同じでみんな昨日の疲れをそのまま引きずっているだろうが、いつまでもダンボールの布団の上で寝かせているわけにも行かないよな?

 幸作が立ち上がると、それを制する様に音子が幸作のズボンの裾をつかむ。

「エッと……別にあんたのために作ってきたわけじゃあないけれど……でも……でもね? 戸田に最初は食べてもらいたいかな? べ、別に他意はないぞ……」

 モジモジとしている音子は、その頬をこころもち赤く染めているようにも見え、居心地の悪さを感じる沈黙が二人の間に流れる。

 なんだかいつもと雰囲気が違ってやり難いなぁ……言い口調はいつもの音子と同じなんだが、なんとなくいつもと違うんだよな? どこかしおらしいというか……まさかな?

 幸作の脳裏に一瞬、以前に麻里萌の言っていた言葉が思い出されるが、ありえないと心の中で自己解決させ、小さくため息を吐き出す。

「さて、ちょっとトイレに行って来るかな? それからありがたく頂戴するよ。もしも先に啓太たちが起きたら食べさせてやってくれ、昨夜麻里萌の持ってきた夜食しか食べていないから、あいつらも腹を減らしているだろうから」

 重く圧し掛かる沈黙に耐え切れなくなったような幸作は、まるで逃げるようにスクッと立ち上がり、少し寂しそうな顔をした音子の表情を見る事なく慌てて教室を出てゆく。

「そっか……笹森も……」

「ん? なんだかいい匂いがする…………おぉ、古瀬の差し入れか?」

 まるで死人が起き上がるように何の前触れも無く起き上がってくる啓太に、音子は素直に驚いたような表情を浮かべるが、そのターゲットが音子が手にしているおにぎりという事に気がつくと、伸びている手をバスケで培った手払いで叩き倒し、餌を取られないように威嚇をする犬のような表情で啓太の顔を睨みつける。

「ダメッ! これを食べたら!」

 シュンとした顔をする啓太を一瞥し、音子は幸作が出て行った扉に視線を向ける。

「本当に鈍感なんだから……少しは意味を理解してよね?」



=食い違い=

「意外だなぁ、音子って体育会系だから、料理はからきしダメだと思っていたんだが、なかなかどうして、美味いじゃないか」

 教室の中には、接着剤や木材の匂いに混じってノリや卵焼きなどのいい匂いが充満し、一夜を共にした男子生徒数人で音子が持参した弁当に頭をつき合わせている。

「意外とは失礼だなぁ、あたしだって料理は得意な方だぞ? 母親が夜勤の時などはあたしが妹の夕飯の準備をしてあげているんだ」

 プクッと頬を膨らませる音子に、幸作は曖昧な笑みを浮かべる。

「いやぁ、昨日の麻里萌ちゃんや郁子ちゃんの手料理も美味しかったし、今日の音子ちゃんの手料理も美味いし、これは徹夜した甲斐があったというもんだな? おっ、おはよう!」

 モギュモギュと口を動かしながら啓太は幸作の肩を叩くが、すぐに教室の入口に誰かを見つけたのだろう、幸作の肩越しにその人物に向って手を上げている。

「やぁ、おはよう……みんなずいぶんと美味しそうなものを食べているね?」

 教室の入口には朝らしく爽やかな笑みを湛えた智也が立っていた。

「柏崎君もどう?」

 既に残り少なくなっている弁当箱を音子が智也に向けると、遠慮がちに首を横に振り、既に完成しきっている教室内に視線を向ける。

「ありがとう古瀬さん。でも、いまはあまりお腹が空いていないから」

 どうやら音子はこの智也の美貌には興味が無いようで、アッサリと差し出していた弁当箱を引っ込めると、それを待っていたように啓太が食らいつく。

「昨日は暗くってあまり気にならなかったけれど、本格的なお店ができたね? これならお客さんもいっぱい入ってくれるんじゃないかな?」

 関心顔をしながら教室内を見渡し、白い歯を覗かせる。

「当たり前! 神蔵のクラスになんか絶対に負けない! なぜなら、我がクラスにはメイドさん役がぴったりの女の子が多数いるからだ! この戦は負ける気がせん!」

 おにぎりを口に頬張りながら拳を振り上げる啓太に幸作は苦笑いを浮かべるが、確かにお店としてはかなりいい雰囲気に出来上がっている。

 まぁ、啓太では無いが、メイド役である麻里萌や初音をはじめ、メイドの質では負ける気はしないぜ? 見せてもらったあの服も結構可愛かったし、あれを着た麻里萌かぁ……ちょっと楽しみではあるが、他の男子に見せたくないという気持ちもあるかもしれない……。

「おはよぉ〜……って、智也クン? それに古瀬さんも……」

 だらしがなく幸作が目尻を垂らしていると、そのだらしない顔をさせた張本人が教室の入口からやはり朝の爽やかさを携えたままの笑顔を覗かせるが、その表情も一瞬で、既に登校している音子に対し怪訝な表情を浮かべる。

「やぁ、笹森さん、おはよう……ずいぶんと大荷物だね?」

 教室に顔を見せた麻里萌に一番近くいた智也は、そう言いながら麻里萌の持っているポットや巾着袋を見据えると、やがて合点がいったのか不敵な笑みを幸作に向ける。

「エッ? あっ、う、うん……ちょっと……古瀬さんも……」

 戸惑ったように視線を辺りにさ迷わせていた麻里萌だったが、その視線が机の上に置かれている音子の弁当箱で止まると、すぐにその視線を幸作に向ける。

「音子ちゃんが朝飯を作って持ってきてくれたんだぁ。美味かったよな? 幸作!」

 不穏になりはじめている空気にまったく気がつかない啓太は、そう言いながら幸作の肩をバンと叩き、別の事を考えていた幸作はその衝撃に体をよろめかせてしまう。

 ヤバイ……もしかして麻里萌のやつ、朝食を作ってきたんじゃないか? だとしたら……。

「そう……なんだ……アハ、よかったね? あたしもみんながお腹空かせていると思って作ってきたんだけれど、食べちゃったなら……しょうがないよね?」

 明らかに気落ちしている麻里萌に対し、音子は一瞬ではあるがその口を横に広げる。

「せっかく笹森さんが作ってきてくれたんだったら食べないとバチが当たっちゃうね? もし良かったら僕がもらってもいいかな?」

 麻里萌が肩から提げていたポットと巾着袋を少し強引に智也が取ると、ニコニコ顔のまま麻里萌の腕を引き教室を出て行こうとする。

「ちょ、ちょっと智也クン。どこに行くの? 食べるならここでも……」

 戸惑いすぎてちょっとパニクッた様な顔をする麻里萌は、どうにか体をとどめる。

「ん? だってせっかく朝早いんだし、いい天気だから中庭で食べようかと思って。それにここにいたら作業の邪魔になっちゃうでしょ?」

 もっともらしい事を言う智也は、幸作に意地悪い表情を向けるが、当の幸作はいまだ自虐の念から開放されない顔をしたままで、その意味を理解できていない。

 なんだって音子の作ってきた朝食を食べちゃったんだ? 麻里萌が作ってきてくれるんじゃないかという気持ちになんでならなかったんだよ……あぁ〜っ! 俺ってば馬鹿だぁ。

「そうだった。幸作お前昨日下ごしらえをしておかないといけないって言っていたべ? お湯を沸かしたり、フルーツのカットをしたり、腹も膨れた事だしやっつけちゃおうぜ?」

 おにぎりを完全に胃袋に到達させた啓太は、今後の予定を思い出すかのように視線を虚空に泳がせると、どんよりとした顔をしたままの幸作の腕を引き上げる。

「ん? あぁ……そうだ……なんで俺はそんな事に気がつかなかったんだろう」

「何を言っているんだお前は、ホレ! 早いところ準備に取り掛かった」

 心ここにあらずの幸作は、啓太の言いなりのように立ち上がると、即席厨房の中にその姿を消し、その後姿を麻里萌は寂しそうに見送る。

第十一話に続く