坂の街の小さな恋U

第十一話 誤解



=表と裏=

「いらっしゃいませぇ〜」

 家庭科実習室を改造した『メイド喫茶』は、噂が噂を呼びかなりの人数で賑わっており、メイド役の女子は忙しそうにお店の中を駆け回っている。

「すごい反響ね?」

 様子を見にきた担任教師の絵梨子は満足そうな顔をして賑わっている店内に視線を向けながら、厨房で陣頭指揮を取っている幸作に声をかける。

「おかげさまで、お昼もまともに食べる事ができないぐらいです。ほいよ、フルパ上がったよ」

 額から流れる汗を料理に落とさないよう、幸作はタオルと鉢巻代わりにして即席厨房の中で駆け回っており、それにつられるように料理研究会の女子も慌しく動いている。

 だぁぁぁ、本当に忙しいぜぇ! 他の女の子たちはなんとか休憩させてあげる事ができたけれど、俺はここ(即席厨房)でサンドイッチを流し込んだだけだもんな?

「こーさく! チョコパとハムサラダ、ブレンドとミートスパがオールワン!」

 メイド服姿の初音が配膳台から顔を見せると矢継ぎ早にオーダーを入れてゆく。

「らじゃ! っと、初音!」

 オーダーを通し再び店内に戻ろうとする初音に幸作が声をかけると、急ブレーキをかけたようにその身体が止まり、慣性の法則に法って短めのスカートがフワリと浮かび上がる。

「なに?」

 再び小さな配膳台から顔を覗き込ませる初音の表情は、いつもの元気印だが、その顔のいたるところには疲労も見え隠れしている。

「これが出来るまでちょっと休んでいいよ?」

 店内は面倒見のいい初音が取り仕切っており、先ほどからほとんど休憩を取っていないのは幸作にもわかっていた。

「でも、あたしが抜けちゃうと……」

「そうだよ、野木はほとんど休んでいないんだから休憩しなよ、お店はあたしと笹森たちで何とか回ると思うから、それに野木が休まないと他のメンバーも休めないんだよね?」

 大柄な身体をメイド服に包んだ音子が初音の肩をポンと叩きながら声をかけてくる。

 今回の学園祭最大の驚きだよな? 音子にメイド服が似合うというのが……口が裂けても本人の前でそんな事は言えないが……。

「じゃあ遠慮なく休憩させてもらうね? こーさくは……休めそうにもないね?」

 既にパスタを鍋に投入し、パフェグラスを手馴れた手つきで取り出すと、下ごしらえしてあったフルーツを取り出しパフェの作成に入っている。



「何とか落ち着いたな?」

 店内の客は減ってはいないものの、各テーブルにオーダーされたものは提供されており、どこかマッタリとした空気が流れている。

「内偵に行って来たよぉ〜」

 幸作がホッとため息を付いていると満面に笑みを湛えた啓太が厨房の中に入ってきて、待ち構えたかのように絵梨子がその幼顔を近づけ、その距離の近さに啓太は顔を赤らめる。

「どうだった三宅クン、2―Bの方の客の入りは?」

 勝手になのだろうが担任である絵梨子がライバル視しているもう一軒のメイド喫茶。神蔵大吾率いる2―Bの様子を、存在感が皆無に等しい男である啓太に隠密行動を命じたのだった。

「やっぱり企画がしっかりしているウチのクラスの方が上ですね? あっちはあまりお客が入っていないようです。まぁ、マーケットリサーチの賜物とでも言うのでしょうかね?」

 フフンと鼻を鳴らす啓太に、絵梨子は満足げな表情を浮かべる。

「ウチのクラスは、初音ちゃんや麻里萌ちゃんのような萌え系のメイド」

 ロリータフェイスの初音と麻里萌がその分類になるらしいな?

「それに、音子ちゃんや留美のようなお姉様系メイド」

 小柄な体型ながらもクールなイメージの留美と、意外(失言)にもメイド姿が似合っている長身の音子がその分類になるらしい。

「そして! 勝負の分かれ目になったのが、女子生徒の動向であり、そのハートをギュッとキャッチしたバトラー姿の亮と柏崎の存在ですね?」

 本来はメイドだけで運用する予定だったのだが、急遽決まったのが学校での一、二位を争うイケメンである亮と智也の執事(バトラー)姿で、その狙いはバッチリと当たったようで、男子だけではなく女子の姿が多く見受けられた。

「それに、幸作の料理も評判よかったぞ? 特に女子の反響は多いな?」

 その一言に思わず幸作はにやけてしまう。

「うん、本当に戸田君の作ったパフェ美味しいよね? 学園祭でこんなに美味しいパフェが食べられるなんて思ってもいなかったよ」

 ニコニコした絵梨子は幸作の腰の辺りをポンポンと叩きながら、先ほど幸作に作ってもらったフルーツパフェをパクついて、とろけてしまいそうな笑顔を浮かべていた。

「だって、カレイドスコープのパティシェだもんね? こーさくは。みんなが美味しいって言うのは当たり前だよ?」

 まるで自分が褒められたかの様な顔をして厨房を覗き込んでくるのは、メイドの必須アイテム(と啓太が言っていた)である純白フリフリのカチューシャをした初音だ。

「本当よね? 戸田クンの作った料理って他のも美味しいわよね? 戸田クンのお嫁さんになる人がちょっとうらやましかったりしてぇ」

 料理研究会で幸作のサポートをする千恵子がそう言うと、誰ともなくお店の中にいる麻里萌に視線を向け、ニヤニヤとした笑みが幸作に向けられる。

「な、なんだよ……俺たちはまだ高校生だぜ? まだ結婚とかなんて考えていないし、まだこれからどうなるかなんてわからないじゃないか……」

 とりあえずブツブツと否定はするものの、幸作の顔は風呂上りのように真っ赤になっており、その言葉を裏付けるには説得力に欠ける。

 確かにあの時、麻里萌は俺のお嫁さんにしてくれなんて言っていたけれど、その真意はいまだにわかっていないし、彼女も勢いで言ってしまったような気もする。

「確かにそうね? 麻里萌ちゃんを狙っている男子も多いみたいだし、いつまでも自分の置かれている立場にあぐらを掻いていると、他の男子に取られちゃうわよ」

 初音と同じように頭の上にカチューシャをつけた留美が、厨房の中に入ってくると意地の悪い顔をしながらグラスに入ったお冷を飲み干す。

「それはあたし的には願ったり叶ったりなんだけれどぉ、もしこーさくが麻里萌ちゃんに捨てられたらあたしが彼女に立候補してあげるから心配ないよ?」

 ケラケラと笑いながら言う初音に、幸作はとりあえず曖昧な笑みで答える。

 確かに進展は無いよな? 最大の進展といえば買い物の時に手をつなぐぐらいで、それ以上の事はいまだに……キスだって、俺の誕生日のあの時だけで……。

「――一体何を考えているの?」

 冷めた口調で言う留美の声に幸作はハッと顔を上げる。その顔は既に湯気が出ていてもおかしくないほどにまで真っ赤になっており、周囲からの冷たい視線が突き刺さる。

「べ、別に何も考えていないよ、いやらしい事なんて考えていない本当だ、信じてくれ!」

 弁解すれば弁解するほどに周囲の視線は冷たくなり、幸作はその視線から逃げるように材料が入っている冷蔵庫のある準備室に入る。

「エッと、確かチョコソースが少なくなっていたよな?」

 誰に言うでもなく冷蔵庫を開き、中を確認するふりをして火照った顔を冷やす。

 そういえば今日は朝からバタバタしていて、麻里萌とほとんどしゃべっていないよな? 今朝のお弁当の一件もあるから、お詫びがてら一緒に校内を回ってみようかな?

 冷蔵庫の冷気によって顔の火照りが消えたのを確認し、幸作が再び厨房に戻ると、ちょうどバトラー姿の智也が入ってくるところだった。

「ちょうどよかった、お店もひと段落したみたいだから、ちょっと校内を見に行ってきてもいいかな? まだ学校にもあまり慣れていないし……」

 相変わらず爽やかな笑顔と、人懐っこい口調で言う智也に幸作はコクリと首を縦に振る。

「かまわないよ、初めての学園祭だからゆっくりと見てきていいよ、あとは亮にでもやらせておくから気にしないでいいよ」

 ほとんど午前中いなかった亮を変わりに店に入れておけばいいだろう、柏崎だって初めての学校の学園祭なんだ、見て回りたいというのが真情だろう。

「ありがとう、じゃあ行って来るよ」

 呆気ないぐらいに幸作が了解を出した事に智也は少し驚いた様な顔をするが、やがて爽やかな笑顔を浮かべ、軽く手を上げると厨房から出て行った。

「さてと、午後は……」

 不足していた材料を並べながら店内に視線を向けると、ちょうど智也と麻里萌が何かを話しているようで、麻里萌はいつも幸作に向けるような屈託のない笑顔を智也に提供しており、その表情に幸作の胸の奥はグッと何かに掴まれたような感覚に陥る。

 確かに美男美女の組み合わせだよな? 傍から見ればナイスカップルといった雰囲気だろうし、どこかいつもの麻里萌よりも可愛く見えるのは、俺のねたみのせいかもしれない……。

 劣等感を吐き出すように軽くため息をつき、そんな二人から視線を逸らせようとするとその瞬間、智也はまるで麻里萌の事をエスコートするように肩に手を置き、麻里萌もどこか嬉しそうな顔をしてお店を出て行ってしまう。

 ちょ、ちょっと? いったいどういう事なんだ? なんだって麻里萌と柏崎が一緒にお店を出て行くんだよ。確かに見学しに行って良いとは言ったけれど、麻里萌は聞いていないぞ?

 あまりにも突然の事で呆気に取られていると、店にいた初音が不思議そうな顔をして幸作に詰め寄ってくる。

「ねぇこーさく、麻里萌ちゃんも校内を見て来たいって言っていたから、あたしが休憩するのを許可したけれど、よかったのかな? いつの間にか柏崎君と一緒に見に行く事になったみたいだけれど……って……あまりよくなかったみたいね……」

 見る見るうちに幸作の表情が強張ってゆき、その変化に長い付き合いの初音も気圧されしたように小柄な体をさらに小さくしてゆく。

 んだよ麻里萌の奴、俺と一緒に校内を見て回りたいなんて言っていたくせに、そんなに柏崎の方がいいのかね? 最近何かにつけて柏崎と一緒にいる事が多いんじゃねぇか?

「戸田ぁ、フルパ……って、どうしたんだ? そんなにおっかない顔をして」

 オーダーを聞いてきた音子もあまり見た事のない幸作の形相に、さすがに後に引いてしまう。

「別に何でもねぇよ、フルパがワンだろ? わかっているよ!」

 別に学園祭は今日だけじゃないんだぜ? なんだって初日に柏崎と二人っきりで見学に行くんだよ、そんなに柏崎の方がいいのかよ……やっぱりそうなのかな? 華やかな美男美女の二人は表の仕事で、俺みたいな平凡な男は裏方でそれを支えるしかないのかもしれないな?

 自虐的な事を考え始めてしまい、それによって徐々に気弱になってゆく幸作の事を、初音は心配そうな顔をして見つめていた。



=誤解と誤解=

「おにいちゃん? なんだか学園祭の下準備をするからって、朝早くに自転車で学校に行ったよ? お姉ちゃんに何も言っていないの?」

 学園祭二日目、麻里萌はいつもと同じように幸作の事を迎えにアパートに来たが、それを出迎えてくれたのは、不思議そうな顔をした郁子だった。

「うん……昨日も帰りが別だったから……」

 幸作の事をけなすように罵詈雑言を言う郁子に苦笑いを浮かべながら扉を閉めると、それまで浮かんでいた笑顔が一気に曇る。

 前日は学校に泊まりになっちゃったし、昨日も片づけがあるからといって幸作クンは学校に残っていた。そして今日も先に学校に行ってしまった……最近幸作クンとゆっくり話をしていないような気がするよ……ちょっと寂しいかな?

 普段であれば当たり前のように隣には幸作が歩き、その歩調に合わせるように麻里萌は足の運びを少し早めており、今ではそれが当たり前のように感じていたのだが、一人で歩くとなるとずいぶんと自分は早足で歩いていたんだと歩いていたんだと感じる。

 昨日だってほとんど話をしなかった。朝食にと思って持っていったお弁当も食べてもらえなかったし、お昼もほとんど幸作クンは厨房から出る事が出来なかったし、やっと会話らしい会話ができたのは、帰り際の『先に帰っていていいよ』ぐらいだった……。

 ボンヤリと歩きながら着いた『宝来町』の電停には、丸いスタイルが多い市電の中で最近増えてきた四角いシルエットの車両が止まっていた。

 どうしちゃったんだろう幸作クン、なんとなく帰り際の幸作クンの雰囲気がいつもと違っていたような気もするし……。

 普段であれば通勤時間帯でかなり混雑している車内も、土曜日という事もあり乗客の姿は少なく、麻里萌も席に座ることができたのだが、考える事は幸作の事ばかり。

 最近忙しかったから疲れているのかなぁ……それにしても、昨日の朝、なんで古瀬さんはあんな朝早く学校に行ったんだろう……みんなにお弁当まで作って、素直に考えればみんなの事を気遣って早く行ったという事なのかもしれないけれど、やっぱり古瀬さんって幸作クンの事が好きなんじゃないかしら……それで……って、もしかして今日も?

 自分の考えに焦りを感じ、ゆったりと流れている車窓風景がもどかしく感じる。

 もっと早く気がつけばよかったよ、そうすればもっと早く学校に行くのに……もぉ、なんでこの電車こんなに遅いの? もっとチャッチャと走ってよぉ、そうしないと……。

 どんどん考えが自分にとって悪い方向に向ってしまう麻里萌は、時間通りに運転をしている運転手さんの事を睨みつけてしまう。

 ヤダよ……そんなの絶対に嫌だから……あたしは……。



「くはぁ……ここ数日の睡眠時間はひょっとしてナポレオンと同じぐらいかもしれないぜ」

 まだ誰もいないメイド喫茶、昨日の賑わいのままの状態になっている店内を見渡しながら幸作は大きなあくびをする。

 ある程度の片付けは終わっているけれど、仕込みをしないといけないんだよね? 多めに用意していた食材も昨日でほとんど使っちゃったからな? 啓太が登校したら『自由市場』で食材を仕入れさせよう。

 簡易厨房に入り、クラスのみんなでお揃いに作ったエプロンをすると、幸作は準備室の冷蔵庫の中身を確認し、買ってくる食材のチェックを始める。

 そういえば、結局昨日は麻里萌とほとんど話をしなかったな? 話をしたのは帰り際にいわれた『一緒に帰ろう?』だけだったような気がする。麻里萌と知り合ってから三ヶ月、彼女とこんなに話をしなかった事は無いよな?

 買い足すものをメモ書きし、仕込みに必要な食材を取り出すと、幸作は厨房に戻る。

 まずはパフェに使うフルーツをカットして、ミートソースの鍋も焦げ付かないように湯せんに掛けておかないといけない。それと……。

「やっぱりこーさくは早く来たんだね?」

 突然背後から声をかけられ、幸作は驚きのあまりその場で飛び上がってしまう。

「ひょぇっ? って、なんだ初音かぁ……驚かすなよ」

 あまりにも驚いた幸作の姿がおかしかったのだろう、クリンとした瞳を一瞬大きく見開いたかと思うと突然笑い転げはじめる。

 おいおい、ちょっと笑いすぎだぜ? 確かに自分でも情けない声を発したと反省はしているが、何も腹を抱えて笑う事は無いだろう。

「きゃははははははははっ! なぁにこーさく、いまの声……プク、ククク、アハハハハ」

 おなかを押さえ、瞳からは涙を流しながら笑う初音に、幸作は不満げな表情を浮かべ、無言でフルーツのカットをはじめる。

「ハヒハヒ……ゴ、ゴメンってばぁ、まさかこーさくがあんなに可愛い悲鳴をあげるなんて思っていなかったから……いじけないでよぉ」

 目に浮かんだ涙を拭いながら、すがり付いてくる初音だが、まだ笑いの種をどこかに残しているようで、時々口角をヒクつかせており、幸作は無言で作業を続行させる。

「ゴメンよぉ、もう笑わない、ホント、絶対、神に誓って」

 無理に顔を引き締める初音は顔の前で両手を合わせ、ペコペコと頭を下げる。

「ったく……それにしてもずいぶんと早いじゃないか? 一体どうしたんだ?」

 やっと作業の手を止めた幸作が呆れた様な顔を向けると、初音にしては珍しくはにかんだような表情を浮かべ、机の上に置いてあった大きく膨れたスーパーの袋に視線を向け、コホンと咳払いをする。

「朝市の知り合いのおばあちゃんから貰ったの。売れ残りのメロンだけれど……」

 スーパー袋の中には小ぶりながらも立派なメロンが入っており、売れ残りとはいえ十分にパフェに使うことができそうなものだった。

「サンキュー、助かるよ……メロンは単価が高いから無くなったらどうしようと思っていたんだよ、これなら明日までもつよ、助かったぜ初音!」

 満面に笑顔を浮かべた幸作に、初音は少し顔を赤らめながら、カバンと一緒に持っていた巾着袋を幸作の目の前に差し出す。

「あと、お弁当……たぶんこーさくの事だから朝早く来て準備をしているだろうと思って作ったの。こーさくの料理に比べるとあたしなんて全然だけれど、無いよりはマシかなって」

 巾着袋の中から出てきた弁当箱の中には、ホットドックが何本か入っており、他の容器の中にはプチトマトの入ったサラダが付け合せられている。

「ヘェ、初音が作ったのか? しかしよくわかったなぁ、俺が早く来て準備をするって、他の人間には何も言わなかったんだぜ?」

 ホットドックを咥えながら、火にかかっているミートソースの鍋をかき回す幸作の背中を、初音は少し寂しそうな顔をして見つめる。

「わかるよぉ、だって、あたしはこーさくの幼馴染なんだぞ? この学校の中で一番こーさくの事を知っているつもりだよ……」

「確かにそうかもしれないな? 俺と初音と千鶴は小学校入学の頃からの付き合いだから、もう十年以上になるのか……」

「そうだよ、だからこーさくがどんな悪さをしたかもよく知っているよ」

 意地悪い顔をする初音に幸作が苦笑いを浮かべながら振り返る。

「あのなぁ、悪さって人聞きの悪い事を言わないでくれるか? 確かに悪い事もしたかもしれないけれど、世の中では許容範囲内だと思うぞ」

 フルーツのカット作業に移った幸作を初音は机に頬杖をつきながら見つめる。

「まぁね? あたしだってこーさくにいろいろな事を知られているし……エヘ」

 さりげなく意味深な事をおっしゃいましたが、一体それは何を指しているのでしょうか? 俺が初音のいろいろを知っているって……。

 まだ小学校一年生ぐらいの頃、初音と千鶴の三人でよく風呂に入った事を不意に思い出した幸作は思わず顔を赤らめてしまう。

「あぁ、こーさく今エッチな事を想像したでしょぉ、違うよ、こーさくがあたしの事を知っているというのは、あたしの素直な気持ち……だよ」

 普段の幼さを持ったような表情とは違った、少し大人びたような表情を浮かべている初音は、そっと幸作に近づくと、その背中に手を置く。



『ありがとうございましたぁ?』

 イラついた様子の麻里萌は、電停を告げるテープを聞く前に降車ボタンを押し、降りる電停が近づいてきた時には既に降車口の近くまで移動し、恨みがましい視線を運転手に向ける。

 ありがたくなんて無いわよ! 三十分近く乗っていたあたしにすれば、まるで一年一生の思いだったのよぉっ!

開く扉ももどかしげに、まるで印籠を見せるように通学定期をその若い運転手に突きつける麻里萌のその思いが伝わったのか、それとも勢いに気圧されたのか、車内にその声を響き渡らせながら、その身体を反らして降車口の扉を開く。

早く、早く幸作クンの所に行かないとすごく後悔するような気がする……そして、今日はずっと幸作クンと一緒にいよう。

電車を降り、目の前にある歩行者用の青信号が瞬き始めているが、麻里萌はそこを一気に駆け抜け、通いなれた道を小走りに歩く。

「あれ? 笹森さん? どうしたのそんなに慌てて。まだ時間には早いよ?」

 校門が見え始めた時、前を歩いていた男子が麻里萌の足音に気がついたのか振り返り、すがすがしい朝の空気にピッタリの爽やかな笑顔を向けてくる。

「あっ、おはよう智也クン」

 せかせかと運んでいた足を止め、ニコニコと微笑んでいる智也に挨拶をする。

「ウン、おはよう。どうしたの? 随分と急いでいたみたいだけれど……」

 笑顔を浮べたまま智也は麻里萌の顔を覗き込んでくるが、なんと答えたらいいのかわからない麻里萌はその答えに窮してしまう。

 まさか幸作クンが心配だからなんて、恥ずかしくって言えないわよね?

「ウン、早めに行って教室の片付けをしようかなって思ったから……アハハ」

 とっさに出た麻里萌の言葉に智也は少し考えたような顔をし、再びその顔に笑顔を浮かべる。

「そうだね? 戸田君ばかりにお願いするのも悪いし、僕たちも手伝わないといけないよね?」

 あれ? なんか智也クンの言葉に違和感が……。

「戸田君にって、幸作クンが早く来ているのを智也クンは知っているの?」

 そう、いま智也クンは戸田君ばかりにお願いするのはよくないといっていた。と言う事は幸作クンが早くに学校に来ているのを知っていると言う事なの?

「うん、今朝ラッキーの散歩でこの近くまで来たら、自転車に乗った戸田君の姿が見えて、その帰りには野木さんに会ったよ? なんだか重たそうな袋を持って歩いていたなぁ」

 野木さんって、初音ちゃん? 昨日は古瀬さんで今日は初音ちゃん? もしかして、いつもあたしは出遅れているだけなの? みんなは幸作クンの事を手伝うんで、朝早くから手伝っているの? あたしだけ幸作クンの事を手伝っていないの?

「ちょ、ちょっと笹森さん? どうしたの?」

 それまで爽やか笑顔を浮かべていた智也の表情が、一瞬にして困惑したものになる。それは見上げていた麻里萌の瞳から一気に涙が溢れてきたからだった。

 それって……あたし彼女として失格なんじゃないの? 幸作クンが頑張っているのを何も手伝えなくって、でもみんなは幸作クンの事をよく知っているから色々な手伝いをしている。

 顔をうつむかせ、小さな肩を小刻みに震わせている麻里萌に、登校してくる生徒たちは、興味深そうな顔をしてその様子を見つめてゆくが、やがてその小さな肩に大きな手のぬくもりに包まれるとやっと麻里萌は顔を上げる。

 ヘッ? 智也クン?

 まるで周りの好奇な視線から麻里萌の事を隠すように肩を抱く智也は、いつものような笑顔はなく何も言わないで、肩を抱いたまま学校に向ってゆっくりと歩き始める。

「智也クン……ゴメン……」

 慌てながらもまだ大粒の涙が頬を伝う麻里萌は、躊躇しながらもその肩を智也に預ける。

 優しいね智也クンって、あたしみたいに気が利かない女の子なんかよりもすごく気を使ってくれている。昨日も疲れたあたしに声をかけてくれたし……彼って幸作クンとは少し違った優しさを持っているのかな? 女の子にモテるのもわかる気がするよ。



「どわぁっ! 何だよ……」

 不意に背中に感じた初音の手の温もりに、幸作は思わず慌てて手に持っていたモモの缶詰を投げ出してしまいそうになる。

「ぶぅ、そんなに驚く事ないでしょ? 女の子が積極的にこーさくとスキンシップを計ろうとしているのに、そんな道端でクマと遭遇したような反応をしないでよね?」

 そういう反応を示すのが健全な男子校生だと思うが? てか、なんだってスキンシップを計ろうなんて思っているんだ? ここは学校で、でもまだ他の生徒は登校していないし、この教室は先生の盲点的な場所である事に違いが無いが、スキンシップって……。

 見る見るうちに顔を赤くし、口をパクパクと動かす幸作の顔を見た初音は、その思い描いている想像がわかったのか、目を眇めながら睨みつける。

「あぁ、こーさくまたエッチな想像をしているぅ。ヘンな事を考えないでよね? ただ久しぶりにこーさくの背中を見てちょっとビックリしただけ。いつの間にかお父さんと同じように背中が大きくなったんだなぁって思ったの……こーさくもやっぱり男の子なんだってね?」

 意地悪い顔をする初音は、再度幸作の背中に手を置くと、今度は頬を摺り寄せる。

 おいおい、誰かがこんな所を見たら絶対に勘違いする事間違いないぜ? 少し俺が男だという事を知らしめなければいけないかもしれないな?

「そうだぜ? 俺は男なんだ、こんな人目に付かない所で二人っきりになるというのは……」

 わざとらしく振り向き、力尽くに初音の肩を掴むが、その大きさは小学校の頃と変わらないのではないかと勘違いするほどに小さく、勢いが余ってしまい、その小柄な初音の身体を抱しめるような格好になる。

 ちょ、ちょっとぉ? これは予想していなかった体勢なんですけれど?

「こ、こーさく? そんな……あたしにも心の準備が……」

 冗談を言うように話す初音だが、まさにスッポリというような格好で幸作の胸の中に収まってしまい、顔を紅潮させながらもその自分の自由を幸作に委ねている。

 な、なんだって身を預けてくるんだよ? この状態は完全に想定外の状況なんですが? まるで古い映画のワンシーンのようではありませんか? てか、初音の顔近すぎだぜぇ。

 まるで初音のその肌のきめを見る事ができるほどの近さに、幸作は動揺してしまうが、既に自ら行なってしまったその行動によって、初音との距離はその睫の数を数える事が出来るほどまで近付き、お互いの息吹を感じる事ができるほどまでの急接近だった。

「って…………それぐらい注意しないとだなぁ……」

 あわてて初音の体を離そうとするが、なかなか離れてはくれず、少し潤んだような瞳をしながら幸作の顔を見上げてくる。

「ぶぅ、こーさくが抱きしめてくれるから淡い期待を寄せちゃったじゃないのよぉ、あたしは別にかまわないわよ? 麻里萌ちゃんがいても」

「何を言っているんだ、他の人間に見られたら誤解されるだろうに……」

 チラッと窓の外に視線を向けると、登校し始めた生徒が校門をくぐっているのが見える。

 こんな場面を他の人間に見られたら絶対に誤解されるよな? ただでさえ俺と麻里萌が付き合っているのはクラス全員が知っている(担任の絵梨子先生まで)事だし、その誰かから麻里萌の耳に入るのは時間の問題だろう……って、あれは?

 抱きついている初音の体を押しのけ慌てて窓に近づくと、回りの生徒から注目を浴びている二人の生徒に目を凝らす。

「いたぁい、もぉ、そんな乱暴にしなくってもいいじゃないのよぉ……って、あれは……」

 膨れっ面をしながら幸作の顔を睨みつける初音が、その視線を追うように窓の外に向けると、ちょうど校門を入ってきた麻里萌と智也の姿が目に入ってくる。

「あれ……麻里萌ちゃんと柏崎君……なんで?」

 不思議なものを見る様な顔をする初音と、呆然とした様な顔をしている幸作。その二人の視線の先にいる智也は麻里萌の肩を優しく抱くようにし、麻里萌もそれに寄り添うような格好をしていて、傍から見れば仲のいいカップルにしか見えない。

 なんで……麻里萌と柏崎が一緒に……しかも……。

 真っ白になるほど唇をかみ締める幸作の顔を、初音は心配そうに見上げる。

「な、何かあったんだよ……麻里萌ちゃんがそんなわけ……」

 麻里萌を弁護するように言う初音だが、その声はまったく幸作の耳に入ってくる事はなく、二人の姿が校舎の中に消えるまでその視線は向けられていた。

 そっか……麻里萌はやっぱり柏崎の方が……そうだよな? アイツの方が色男だし、格好良いし、何よりも同じ東京出身だから話が合うんだろうな?

 打ち拉がれたような顔をした幸作は、体を少しふらつかせながら近くにあった椅子に力尽きたように座り込む。その顔は完全に憔悴しきっていた。

「……こーさく」

「どうせ俺なんて格好もよくないし、垢抜けていない田舎者だからな? そんな男より、同郷の色男の方がいいんだよ……麻里萌も……」

 あまりにも腑抜けてしまっている幸作に初音は声をかけようとするが、何を言っても無駄と思ったのか、座っている幸作の背後に回ると、首筋をギュッと抱きしめる。

「そんな自分の事を卑下しないでよ、そんな事をこーさくに言われたら、あなたの事が大好きなあたしはどうなるの? そんなこーさくだからあたしも麻里萌ちゃんも好きなんだよ?」

「エッ?」

 ちょうど初音が幸作の顔を覗き込もうとした瞬間、教室の扉が開き、その音と同時に麻里萌の小さな声が聞こえ、二人がその声に顔を向けると、智也に抱えられたような格好の麻里萌が、蒼白な顔をして二人を見つめていた。

「麻里萌?」

「麻里萌ちゃん……ちょ、ちょっと待って、誤解だからね?」

 言い訳をする初音の言葉も聞かずに麻里萌は智也を押しのけ、教室を飛び出してゆく。

「麻里萌っ!」

 首に抱きついている初音を突き飛ばすように立ち上がる幸作を、智也が制する。

「邪魔するな!」

 避けようとする幸作の腕を智也は握り締め、その容姿からは想像ができないほどの握力に思わず顔をしかめてしまう。

「追ってどうするんだ? 言い訳をするのか? 言い訳ができる状況じゃあないだろう」

 いつもの笑顔がない智也の険しい顔に、幸作は言葉を詰まらせる。

「でも放っておけないだろ? どこに行くかわからないし、後を追わなければ……」

「――笹森さんからキミの事は詳しく聞いたよ、彼女がキミを思う気持ちも、その口ぶりでよくわかった……キミの事を話す彼女はすごく輝いていた……」

 口調こそ冷静だが、智也のその言葉は完全に幸作の事を責めているという事がわかり、幸作は二の句が告げなくなり、体からも力を抜く。

「さっき彼女は泣いていたんだ……」

 泣いていた? 麻里萌が?

 顔を見返す幸作に、智也は呆れたようなため息を吐き出しながら小さく首を振る。

「どうやら自分が不甲斐なかったようだね? 古瀬さんや野木さんが戸田君の事をサポートしているのに自分はいつも出遅れて何もできないって……」

 出遅れているって……そんな事ないじゃないか、学校に泊まった時も弁当を差し入れてくれたし、昨日だって弁当を作って早く学校に来てくれたじゃないか……なんでそれを気に病まなければいけないんだ?

 考え込む様な顔をしている幸作の顔を見て、智也は再びため息を吐き出す。

「キミは彼女の事を考えてあげているのかい? 彼女の性格ならわかるだろ? 昨日だって彼女がキミのためにお弁当を作ってくるという事だって、キミの事を手伝ってあげたいって思っているって、なんで今日早く学校に行くという事を彼女に伝えなかったんだい?」

 徐々に智也の口調が厳しくなってゆく。

「別にこーさくはあたしに連絡をしたんじゃなくって、あたしが予想して早く来ただけなの」

 幸作の事をかばうように初音がいうが、それにも智也は首を横に振る。

「野木さんは戸田君の幼馴染だから彼の行動はわかるだろうよ、でも、笹森さんは戸田君と知り合ってそんなに時間が経っていないだろ? キミも無意識に期待をしていたんじゃないか? 言わなくとも笹森さんならわかってくれているんじゃないかって……それはキミのエゴであって彼女の気持ちにあぐらを掻いているだけなんじゃないのかな?」

 きっぱりと言い切る智也に対して幸作はその顔から血色をなくしてゆく。

 俺が麻里萌の気持ちに気づいていない……彼女の気持ちを考えていない……彼女の気持ちにあぐらを掻いている……。

「そんなの言い過ぎじゃ……」

「野木さんも彼の事が好きなんでしょ? 笹森さんもその事を知っている。それであの場面を見たのであれば誤解であれ、疑うのが普通だよ……」

 憤慨した様な顔をしている初音の言葉を遮る智也は、再び視線を呆然としている幸作に向けると、再度きっぱりとした口調で言い放つ。

「僕は笹森さんの事が好きだ。例え戸田君という存在があったとしてもだ。彼女ほど素直な女の子と出会った事は無い、一目惚れに近いかもしれないね?」

 ニヤッとした笑みを浮かべた智也はそれだけを言うと、いま麻里萌が出て行った扉を出てゆくが、幸作はそれを追うだけの力は残っていなかった。

 柏崎も麻里萌の事が……。

「こーさく……気にする事ないよ……誤解だって麻里萌ちゃんがわかれば、きっと許してくれるよ……だから、そんな情けない顔をしないでよ……ね?」

 励まそうとしているのだろうが、初音はその目を潤ませながら幸作の顔を覗き込んでくる。

第十二話に続く