坂の街の小さな恋U

第十二話 すれ違う気持ち



=初音の声=

「いったいどうしちゃったんだよ今日は……散々だったじゃないかぁ」

 責めるような視線を向けてくるのは、このメイド喫茶の運営に一番力を注いでいたと言っても過言ではないであろう啓太で、その視線の先にはシュンとした顔をしている幸作が佇む。

「まぁ、そう言わないでよ……ちょっと……そう、ちょっとした行き違いというのかしら、それがあっただけで……」

 弁護するように言う初音を制する幸作は、深々と頭を下げる。

「すまん……今日の失敗は俺の責任だ……オーダーを間違えてしまったり、仕込みを忘れてしまったりしたのは全て俺がボンヤリしていたせいだ……ゴメン」

 オーダーミスの連発に、準備をしておかなければいけないミートソースを切らしてしまうなどの単純ミスが続き、やがてはオーダーされたメニューの半分もこなせなくなってしまい、結果的に客足が途絶えてしまった。

「まぁ、三宅君もそこまで言わなくってもいいでしょ? 結果的には2−Bよりも売り上げはあったんだから完敗ではないし、戸田君の働きのおかげでここまで頑張れたんだから……」

 困り顔を浮かべながらも、労をねぎらうような表情を浮かべる担任教諭の絵梨子も、幸作の事を擁護にはしり、啓太も口を噤んでしまう。

「何にせよ学園祭は終了、あとは後夜祭だけだからみんなゆっくりと羽を伸ばして? とくに戸田君。あなたは笹森さんとほとんど話をする時間がなかったでしょ? 後夜祭ぐらい一緒にいてあげなさいよ……って、笹森さんの姿を見ないわね?」

 その時点ではじめて麻里萌の姿が教室内に無い事に気がついた絵梨子は、改めて教室の中を見渡すが、誰もその姿を知らないと首を横に振る。

「……こーさく」

 心配げな顔をした初音が幸作の顔を覗き込んでくるが、その視線には曖昧な笑みを浮かべるだけで、つけていたエプロンを外すとフラッと教室を後にする。その幸作の後姿にはいつものような元気はなく、ひとまわり小さくも見える。

 麻里萌だけじゃない……柏崎もいないんだ……きっと今頃二人でいるのだろう……。あの後麻里萌と話をする機会はいくらでもあった、でも、麻里萌はまるで俺の事を避けるようにしていたし、俺も話しづらいというのがあったせいで朝から話をしていない。

 気がつけばいつも使っている自分の教室に辿り着き、いつも麻里萌の座っている机に視線を向けるが、当然ながらそこに麻里萌がいるわけでもない。

 一体二人で何をしているんだ……どこにいるんだ……。誤解だと言いたいけれど、麻里萌がそういう風に俺と初音の事を見ていたのであれば弁解する余地はない……いくら弁明したとしても、その根底に原因があるのだから……。

 見るともなく窓辺に向かうと、校庭の中央には後夜祭に使うキャンプファイアー用に木が組み重なっており、火が投入されるのを待つばかりの状態になっている。

 去年は亮や啓太たちと馬鹿をやりながらあれを見ていたんだよな? 学校の伝説で『キャンプファイアーを一緒に見たカップルは結ばれる』というのがあって、それを馬鹿にしていたんだっけ……結局、初音や留美も混じって一緒に見た記憶があるよ……今年は麻里萌と見たいなんて思っていたんだけれど……。

「――――こーさく?」

 薄暗くなってきた教室に、初音の声が聞こえ振り向く。

「初音か……どうしたんだ? もう後夜祭がはじまるぞ?」

 ため息混じりに言う幸作に対して初音からの返答はない。その表情も周囲が暗いためにうかがい知る事もできず、幸作は首を傾げる。

「……だよ」

 然程賑やかではないのに、初音が発した言葉は幸作の耳に届く事はない。

「へ?」

「イヤだよっ! あたしはこーさくと一緒に後夜祭に出るんだよっ!」

 叫ぶように言う初音の声は、教室中に響き渡りさすがの幸作もその声に目を丸くしてしまう。

「…………だって、あたしはこーさくの事が好きなんだよ? 覚えている?」

 感情的になっていた初音ではあるが、必死にその気持ちを押しとどめようとしているのだろう、何度か深呼吸をするように息を整えながら幸作に問いかけてくる。

 覚えているも……正直に言えばその時は嬉しかったというのが本音だ。俺だって知っている女の子に告白されるなんて思っていなかったし、嫌な気はしなかった……でも、その時には俺の気持ちは既に麻里萌に向いていた……タイミングと言えば俺のエゴになってしまうかもしれないが、はじめて異性を感じたのは幼馴染である千鶴と初音だった事には間違いない。

 視線を逸らすようにしながらも幸作はうなずく。

「あたしってすごくイヤな娘かも知れないよ……だって、こーさくと麻里萌ちゃんがこのままダメになってしまえばいいって思っているんだもん」

 ギョッとした顔をして幸作は初音の顔を見るが、その顔にはまるで自らの事の様に辛そうな顔をした表情が浮かんでいる。

「……初音」

「だって、もしも幸作と麻里萌ちゃんの仲がこのままになったら、あたしにもチャンスはあるんでしょ? 幸作に好かれるという……千鶴にもそのチャンスがあるかもしれないけれど、でも、今のように絶望に近い確立じゃないと思うの……」

 一言一言を選ぶように言う初音は、幸作に視線を合わせないように呟く。

「絶望って……」

「絶望よっ! こーさくって何でも麻里萌ちゃんの事ばかりだし、あたしの事なんてまったく考えてくれていない! 正直に言うと辛いのよ? こーさくが麻里萌ちゃんと仲良くしていたのが……でも、こーさくが麻里萌ちゃんの事を本気で好きで、麻里萌ちゃんも本当にこーさくの事が好きなのは、あたしにはよくわかるの……」

 ガバッと顔を上げる初音の瞳には、薄暗いながらも涙が浮んでいるのがよくわかる。

「初音……」

「……あたしも自分のお人好しさに呆れている所よ。自分の好きな人と、友達が仲良くなるのを願うなんて尋常じゃないと思うわ? でも、こーさくがそんな顔をしているのは見ていたくないの、魂を引き抜かれたそんな不抜けたこーさくなんてあたしの好きなこーさくじゃないの。あたしの好きなこーさくは、鈍感で優柔不断でどうにもならない男なの、なのに、あたしはそんな男の事が好きになってしまったの……だから、あたしにそんな顔を見せないでよっ!」

 言葉こそ攻め立てるように言う初音だが、その顔は涙で顔をグシャグシャにして真っ直ぐに幸作の顔を見据えており、その視線に思わず身を反らしてしまう。

 ……ったく、そこまで滅茶苦茶に言わなくってもいいんじゃないか? 否定は出来ないかもしれないけれど、確かに俺らしくないかもしれないよな? イジイジしていないですっぱりと言い切って、それでダメなら諦める……それが俺の生き様だ……諦めるのは辛いかもしれないけれど、親が死んだ時も諦めた……それが現実なのだから逃げるわけにはいかない、今だってそうじゃないか? 麻里萌に嫌われたらどうしようという保身的な考えの方が、気がつかないうちに俺の中に出来上がっていたんじゃないか? 確かに嫌われたくないというのはあるかもしれないけれど、でも、彼女がそう思ってしまった以上は仕方がない事だ……。

「……ばーろい、本当にお人好しだな? もしも本当に麻里萌にフラれたらどうするんだ?」

 コツンと頭を小突く幸作に、初音は作ったように笑顔を浮かべながら悩んだような表情を浮かべ、やがてニッコリと笑顔を向ける

「したら……仕方がないから、あたしがこーさくの彼女になってあげるよ」

 泣き笑顔を浮かべる初音の頭を再度小突く幸作の表情は、さっきまでの情けないような顔ではなく、どこか晴々としたような顔をしている。

「それはないな? 悪いけれど俺の気持ちは麻里萌に伝わる……それでもダメなら、仕方がないから初音を彼女にしてやるよ……正直に言って、いま、初音に惚れそうになったぜ」

 不器用なウィンクをする幸作に、初音は諦めきったような笑みを浮かべる。

「そんなふんぞり返ったような見方は良くないよ? あたしだっていつ気持ちが変わるかわからないんだから……いまはこーさくの事が好きでも、変わっちゃうかもしれない……女心は秋の空以前に、ナマモノと同じぐらいに繊細なんだから」

 意地悪く言う初音に対して幸作は手をあげて応える。



=智也からの告白=

「なんでこんな事になっちゃったんだろう……」

 散々に終わった最終日のメイド喫茶。終了が告げられた途端に麻里萌は教室から逃げるように飛び出すと、茜色に染まりはじめた屋上に向かった。

 本当になんでこんな事になっちゃったんだろう……結局みんなにまで迷惑をかけちゃったみたいだし、楽しむはずの学園祭が散々になっちゃった。オーダーミスはするし、料理を落としちゃったり、お皿を割っちゃったり、普段なら絶対にしないミスなのに……。

 まだ夏色を帯びている風が撫でる麻里萌の目尻は徐々に熱を帯びはじめ、薄く涙が浮かび上がるのは自分の不甲斐なさからなのか、それとも……。

 全然集中できなかった……今朝見たあの事が気になっちゃって……。

 今朝見た光景、それは幸作と初音が顔をつき合わせている場面で、麻里萌からは二人がキスをしているようにも見えた。それだけでもショッキングな出来事だったのだが、それにくわえて、自分がいかに幸作の事を知らないでいたかと言う腹立たしさに教室を飛び出してしまい、その後の経過は自分にもわからない。

 あたしって幸作クンの事を何も理解していないのかもしれない……いつだって幸作クンに助けてもらうだけで、あたしは彼の事を手伝ってあげる事ができない。初音ちゃんだって古瀬さんだって、幸作クンの行動を良く理解しているからこそ、何も言われないでも手伝いに来ているのに、あたしは理解ができていなかった……。

 浮かび上がってくる自身に対する呵責に、メガネの奥にある大きな瞳からは涙が溢れ始める。

「……あたしは幸作クンに甘えすぎていたんだ……だから、初音ちゃんと……」

 頬を伝う涙はコンクリート製の床に黒いシミを作り、麻里萌の口からは嗚咽だけが吐き出され、力を失ってしまったようにその場にしゃがみ込んでしまう。

 ヤダよ……幸作クンを失うなんて考えられないよ……あんなに楽しかった時の事を忘れる事なんてできないよ……初音ちゃんに幸作クンを取られたくないよ……。

「――笹森さん」

 しゃくりあげながら涙を流す麻里萌の背中に声が掛けられ、無意識に顔を隠しながら涙を拭い、ソッとその声の主に顔を向ける。

「……と、智也……クン……どうして……」

 既に赤く充血した目を向ける先には、いつもは爽やかな笑顔を浮かべている智也が、心配そうな顔をしながら覗き込んでくる。

 ヤダ……あたし酷い顔をしているよ。こんな顔を人に見られたくない……。

 顔を背けるも、智也の顔はそれを追うように覗き込んでくる。

「笹森さんの様子が心配だったから追ってきたんだ……ゴメン、まさかそんなに深刻だなんて思ってなかったから……」

 申し訳無さそうな顔をする智也に、麻里萌は力なくも首に横に振る。

「ウウン、ありがとう心配してくれて……でも、いまは一人にしてもらいたいの……」

「それはヤダよ……ボクは笹森さんの近くにいる。誰かがそばにいた方が、笹森さんだって少しは安心できるでしょ? 頼りないかもしれないけれど……」

 そう言いながら智也はしゃがみ込んでいる麻里萌の隣に腰を下ろすと、視線を正面に向けたまま、その理由を聞こうともせずに黙り込む。

 智也クン……優しいね? 理由を知っているのに何も聞こうとはしない。そういえば今朝も智也クンがあたしの事を追いかけてきてくれた……あたしの事を心配してくれるように。そして今も何も聞こうとはせずに、ただ隣にいてくれる……不思議とそれだけで安心できる。

 体育座をするようにしている麻里萌は、その顔を両膝の間に割り込ませ視線をコンクリートに向けると、そこには目からこぼれ落ちる涙によって後から後から黒いシミが出来上がってゆき、口からは再び嗚咽がこぼれる。

「ヒッ、くぅ……ふぇぇ……」

 堪えていた声が、麻里萌の中だけではなくやがて智也の耳にもはっきりと聞く事が出来るほどまでに大きくなると、不意に小刻みに震えている麻里萌の肩が、温かく大きな手に包まれ、見た目によらずに厚い胸にその顔が押し付けられる。

 ヘッ? 智也クン?

 思いがけずに寄りかかる事を許された麻里萌は、一瞬驚いたような表情を浮かべるが、その温もりと寄りかかる心地良さに身を任せてしまう。

「こんなボクでも笹森さんの役に立つ事が出来れば嬉しいよ……その涙の理由が、たとえ戸田君にあったとしてもね?」

 正面に視線を向けたまま言う智也に、麻里萌はその顔を見上げる。

 どういう意味なの? あたしの役に立つ事って……幸作クンが理由って……。

 ゆっくりと優しい智也の顔が麻里萌に向けられ、その穏やかな表情に麻里萌はホッとしたような、ドキッとしたようなそんな胸の高鳴りを覚える。

「――笹森さんが悩んでいるのは戸田君の事でしょ? 今朝見たあの事だと思う……実はあのあと笹森さんの所に来る前に、ボクは戸田君に文句を言ったんだ」

 文句? 智也クンが幸作クンに?

 キョトンとした顔をして見上げる麻里萌に対して、智也はコクリとうなずく。

「うん、彼の態度があまりにも不甲斐なくってね? ボクのライバルとしてはあまりにも情けないからつい……言っちゃった」

 ライバルってどういう事なの? 幸作クンが智也クンのライバルって、どういう意味なの?

「ボクは、笹森さんの事が好きだっていう事だよ」



=キズ=

「どこにいるんだろう……」

 一般客は既にいないはずの校舎内なのだが、知らない学校の制服を着た女子や、見覚えのない男子が校庭に向かおうとする流れに逆らうように幸作は教室の一つ一つをくまなく探すが、その姿はいまだ見つけ出す事ができないでいる。

 何をやっているんだよ実行委員会は! 部外者がこんなに大勢残っていたら探すのが大変じゃないか、早く追い出してくれっ! 八つ当たりという事は良くわかっているよ、でも、他にこの怒りをぶつける場所が無いんだからしたたがねぇべ? 快く受け取ってくれや!

 理不尽な言い訳を心の中でしながらも、幸作は校庭でキャンプファイアーの準備をする実行委員会の連中を睨みつける。

 これだけ探していないという事はもしかして先に家に帰ったのか? いや、それはありえないだろう。教室には麻里萌のカバンがまだ残っていたし、アイツが帰る時は、必ず俺に声を掛けてくれるはずだ……って、オレのおごりかもしれないけれど……。

「戸田ぁ、後夜祭には出ないのか? そろそろはじまるぞ?」

 肩を落とす幸作の背後から事情を知らない同級生が声をかけてくる。

「あぁ、ちょっとな? それよりも麻里萌を知らないか?」

 藁をも掴む願いで同級生に声をかけると、簡単に回答が帰ってくる。

「麻里萌? あぁ、笹森の事か? そういえば、さっき屋上に上がって行く姿を見かけたけれど……なんだ? もう夫婦喧嘩か?」

 冷かすようにいう同級生に、とりあえず礼代わりに蹴りを一発お見舞いし、近くにあった階段に視線を向ける。

 そうか、屋上は普段は閉鎖されているけれど、学園祭の時は多くの生徒が出入りするから開放しているんだったよな? 忘れていたぜぇ。

 何事かを言う同級生を無視するように幸作は屋上に向かう階段を駆け上り、突き当たりにある重そうなうえに錆付きさらに重さを増したような鉄扉を額に汗をしながら、ギギィッと音を立てて開く扉を開くと、それまで校内に重くよどんだような暑苦しい空気とは違い、暑い中にもサッパリとしたような空気を持った風が流れ込んでくる。

「ここにいるはずだ……麻里萌は絶対に……」

 根拠も何も無いがただそう思う幸作は一人ごちながら、既に茜色に染まりはじめている屋上に散らかっている机や椅子をかき分けるように探しはじめていると、校庭から聞こえてくる生徒たちの歓声に混じって、

「――ボクは笹森さんの事が好きだという事だよ」

 はっきりと幸作の耳にはその言葉が聞こえてくる。

 好きって……この声は柏崎……笹森さんって、麻里萌?

 高く積みあがっている机の隙間からその声の聞こえた方に顔を向けると、そこには優しい顔をした智也に、身体を任せるようにしなだれかかっている麻里萌の姿が映る。

 そ、そんな……麻里萌と…………柏崎が……。

 どこか安心したような顔をして智也にもたれかかっている麻里萌の表情に、幸作の胸は激しく何かに握り締められたような感じになり、全身から力が抜けてしまう。

 そうか……麻里萌は……。

 正視するに堪えがたい光景に、幸作は背を向けそっと屋上を後にする。

 当然と言えば当然だよな? 俺は柏崎のように気の利いた男ではないし、勉強もできないし、スポーツもたいしてできない、そんな男に告白をされれば麻里萌だって……。

「くそっ!」

 湧き上がってくる怒りに耐えきれなくなった幸作は、無意味に壁に拳を打ち付けると、ズンという重々しい音が周囲に響き、何人かの生徒が何事かと幸作を見据えてくる。

 くそっ、くそっ! なんなんだこのわけのわからない感じは。怒り? それは誰に対してなんだ? 麻里萌に対して? 違う、この感情は彼女に対する憤りではない、だとすれば俺自身に対しての怒りでしかないだろう……やり場のない怒りと言うやつだ。

 ジンとした痛みが拳から手の甲全体に行渡るが、その痛みはいま幸作が味わっている失望感に比べればたいした事はなく、事実幸作は痛みを気にした様子もなく、まるで魂の抜け切ってしまったような足取りで歩いてゆく。

「戸田? どうしたの?」

 まるで覇気のない幸作の事を遠巻きに見ていた生徒の中から、先ほどまで着ていたメイド服からいつもと同じ学校の制服に着替えた長身の女子が、心配そうな顔をして近寄ってくる。

「ん? 音子か……なんでもないよ…………」

 どうにか顔を作りながらも、力のない声で答える幸作の顔を、音子は怪訝な顔をしながら覗き込みダランと下げられている手に気がつき顔を強張らせる。

「なんでもないって、何でもありそうだから声をかけたんだが? って、あんた手をどうしたの? 血が出ているじゃないの」

 さっき壁に打ちつけた拳はいたる所でささくれ立ち、そこからは大量ではないものの血が流れ、何本かの筋になり指先にまで到達している。

「あぁ、そうだな……」

 しかし幸作はそれを見ようとせずに、再びフラフラした足取りで教室に向かって歩いてゆき、かける言葉が見つからない音子は、その後姿を見送るしかできなかった。

「戸田……」

 痛々しくも見える幸作の背中に、音子は呟くように声をかける。



「こーさく!」

 既に撤収が完了した家庭科室は、まだ学園祭の余韻を残しながらも夕焼け色に染まっており、その中で初音が幸作の事を待っていた。

「初音? どうしたんだ? 後夜祭に行ったんじゃないのか?」

 置きっぱなしになっていたカバンを取りながら初音に声をかけるが、その声にはやはり元気がなく、初音もそれに気がつく。

「うん……こーさくの事が気になって…………」

 きっと麻里萌と一緒に戻ってくると予想していた幸作が一人で戻って来たという事に、初音は戸惑い、拳から流れている血に気がつく。

「ちょっとこーさく! 手を怪我しているじゃないのよ……ちょっと待っていて」

 手元に置いてあったカバンの中をゴソゴソと漁り、可愛らしいイラストの描かれたバンソウコウを取り出すと、強引に幸作の腕を引き血の出ている箇所にそれを張ろうとするが、そのキズは広範囲にわたっており、持っているバンソウコウだけでは抑える事ができない。

「一体どうしたの? あんたがこんな怪我をするなんて……」

 呆れた顔をしながら初音がスカートのポケットの中からハンカチを取り出し、それで拳の血を拭おうとすると、慌てて幸作はそれを拒否する。

「いいよ、ハンカチが汚れちゃうだろ?」

 ペロッと傷口を舐めながら言う幸作は、そこで初めて拳の痛みを感じる。

「べつにかまわないわよ、ちゃんと手当てをしておかないとバイキンが入っちゃうよ?」

 ちゃんと手当てをしておかなければ……かぁ、身体の怪我も心の怪我も同じなのかもしれないなぁ、早くに処置をしておかないと酷くなってしまう。

 自虐的な事を考え、力のない笑みを浮かべる幸作の顔を心配そうな顔で覗きこむ初音は、血で汚れるのも気にせずにかいがいしく傷の手当をはじめる。

「…………」

「…………」

 校庭からは後夜祭がはじまったのであろう、軽快な音楽と共に歓声が聞こえてくるが、家庭科室の二人の間には沈黙が流れ続けている。

「あたしね?」

 筋を作っていた血を濡らしたハンカチで拭い、数箇所にあった傷口にカットバンを張り終えた初音は、不意に顔を上げて幸作の顔を見つめながら口を開く。

「こーさくと一緒にキャンプファイアーが見たいの……ジンクスを覚えている?」

 しかし幸作は初音から顔を逸らすようにうつむく。

「だから待っていたの……こーさくの事を……」



=カレイドスコープ=

「いらっしゃい……って、なんだ幸作か」

 カランと言うカウベルの音と共に入って来た幸作を一瞥したマスターは、意思消沈しきったような顔をしている様子にすぐ気がつく。

「あれ? 今日は幸作君だけなの? 珍しいわね?」

 既に時間はバータイムに入っており、お店の中にいる客も普段幸作がいる時間帯の客層とはまったく違い、その場にそぐわない格好の幸作は異彩を放っている。

「あぁ、美都子さんどうも……」

 会話が成り立たない幸作の台詞に、バー部門担当のウェイトレスである美都子はその切れ長な瞳をマスターに向けると、マスターも肩をすくめる。

「――とりあえずお前がそこにいると俺が警察のご厄介になってしまうからな? 少し厨房で待っていてくれ、終わったら顔を出すから」

 マスターの声に幸作はうなずき、あまり広くない厨房に姿を消すとマスターは深いため息を吐き出し、造りかけのドライマティーニを完成させる。

「ミッちゃん悪いけれど二階から杏子を呼んでくれないか? ヘルプだって……」

 そう言いながら厨房の奥で背中を丸めて座っている幸作に視線を向け、煙草に火をつける。



「……何があったんだ?」

 紫煙を燻らせながら見下ろすマスターの顔を、幸作は力のない視線で見上げる。

「お前がこんな時間に一人で来るなんて珍しいじゃないか? 何かがあったとしか思えないんだが? それとも俺の気のせいなのか?」

 年季の入った丸椅子を引っ張りながら幸作の隣に座るマスターは、顔こそ幸作に向けないながらも全てがお見通しのように話す。

「うん……ちょっと……」

 言葉を濁らす幸作にマスターは紫煙を吐き出し、普段とは違って真面目な顔を向ける。

「――麻里萌ちゃんの事か?」

 灰皿に煙草を押し付けながら言うマスターの言葉に、幸作の方はピクリと反応をし、目ざとくマスターはその様子を確認する。

「何があったんだ? 俺に正直に話してみろ……彼女には言わない」

 優しいマスターの声に幸作はコクリとうなずき口を開く。

「……学園祭の準備に追われて、俺は全然麻里萌の事をかまっていなかった。でも、彼女はいつも俺の傍にいてくれた……それが当たり前だと思っていた」

 ポツリポツリと話しだす幸作の声はか細く、店から聞こえてくる客の声にかき消されてしまいそうなほどだったが、マスターは必死にその声に耳を傾ける。

「俺は麻里萌の気持ちにあぐらを掻いていたのかもしれない……悔しいけれどアイツ……柏崎に言われて気がついた。いつも傍にいてくれているわけでは無い、彼女なりに一生懸命俺についていてくれたんだ。そんな気持ちも知らないで俺は……」

 声が震える。既に幸作の声は涙声になりはじめている。

「――それで? 麻里萌ちゃんはなんて言っているんだ?」

 ため息とも取れない息を吐き出しながらマスターは再びタバコに火をつけ、うつむき小刻みに肩を震わせている幸作に声をかける。

「…………麻里萌は……柏崎と……」

 震える幸作の声にマスターは天を仰ぐ。

「なんだ、ちゃんと話したんじゃないのか? 麻里萌ちゃんと」

「話せるわけねぇべ? 柏崎と二人っきりで仲良く寄り添っている所に、のこのこ顔を出せるわけ無いじゃないか……麻里萌はもう俺の事なんかよりも柏崎の方がいいに決まっているよ、アイツの方が色男だし、同じ東京の人間だから話も合うだろうし……そんな奴に告白されれば麻里萌の気持ちが動いたって仕方が無いよ……」

 噛み付くような勢いでマスターの顔を見る幸作の表情は、既に涙で濡れており、強い口調ながらも言っている台詞は弱音だけしかでてこない。

 あんなに安心した麻里萌の顔を見るのは初めてだ……俺にも見せた事の無いような表情を浮かべて麻里萌は柏崎に寄りかかっていた。それが何を意味するかは俺にだってわかる。

 その時に感じた胸の痛みが再び幸作を襲い、その表情が歪むとマスターはタバコの紫煙を天井に向って吐き出す。

「なるほどな? 要するに麻里萌ちゃんは、この間お店に来たカッコいい彼氏と仲良くなっちゃったという事なのかな?」

 意地悪い表情を浮かべながら言うマスターの言葉に幸作の体はビクッと素直に反応する。

「でも、それは麻里萌ちゃんが言っていたわけじゃないだろ? 『あたしは幸作クンよりも彼の方が好き』って。だったらまだわからないんじゃないか? お前が勝手にそう決めているだけだろうに、それで早合点するのはどうかと俺は思うぞ?」

 タバコを咥えスッと息を吸い込むと先についている火の明るさが増す。その光を幸作はボンヤリした顔をして眺めている。

「それに、俺から見てもお前は麻里萌ちゃんに嫌われてもおかしくないと思うぞ?」

 短くなったタバコを名残惜しそうに灰皿に押し付け、肺の中に入っていた紫煙をゆっくりと吐き出しながら幸作に視線を向けるマスター、その視線は普段のおどけたような雰囲気は無く、厳しさすら感じられ、無意識に背筋を伸ばす。

 マスターがこんな顔をするのは初めて見たような気がする。このお店でバイトしている時には見た事のない厳しい表情……。

「お前が麻里萌ちゃんの事を好きだという事はわかる。しかし、お店によく来る千鶴ちゃんや初音ちゃんの気持ちはどうなんだ? 彼女たちの気持ちも考えてやった事があるのか? 告白しても以前と同じように接してくれているのは、彼女たちなりの麻里萌ちゃんやお前に対する思いやりなんだぜ? そういう気遣いがお前には出来ていないんじゃないか?」

 険しい口調のマスターに幸作はうなだれてしまう。

「それに、そんな二人のライバルがいる麻里萌ちゃんの気持ちもだ。お前は考えてあげた事があるのか? もし、お前が麻里萌ちゃんと同じ立場だったらどうなんだ?」

 俺が麻里萌と同じ立場……柏崎か……嫉妬したよな? とても普通になんて接する事ができなかった……今日だって柏崎と寄り添っている麻里萌を見て俺は……。

「それでもお前の事を気遣って麻里萌ちゃんは千鶴ちゃんや初音ちゃんと接している、別に態度を改めろと言うわけじゃない、そういう事を理解して気遣うべき所で気遣ってあげる事によってお互いに信頼関係を作っていけるんじゃないか? あの二人とお前は小さい頃から知っているから気がつかない間に出来上がっているかもしれないが、麻里萌ちゃんとお前はまだ知り合ってから日が浅いんだ、まだまだこれから作っていく必要があるはずだと思うぜ?」

 マスターが三本目のタバコに火をつけようとすると、店の方から杏子の声が聞こえてくる。

「淳一! ちょっといいかしら?」

 配膳台から杏子が顔を覗かせてくると、マスターは渋々といった顔をしながら立ち上がり、幸作の肩をポンとたたく。

「いま行くよっ! ……幸作、俺は少なくともお前の味方のつもりだし、お前の事を弟のようにも見ているし、麻里萌ちゃんも妹のように見ている、だから俺は二人が仲良くしてくれる事を願っているんだ、お前の幼馴染二人には申し訳ないけれどね?」

 不器用にウィンクするマスターに杏子の苛立ったような声が聞こえてくる。

「淳一っ! 早くっ!」

「ハイハイ、ただいま」

 まるでスゴスゴといったようにお店に向っていくマスターは、さっきまでの凛とした雰囲気ではなくいつもと同じ雰囲気で幸作は思わず肩から力が抜けてしまう。

 弟のようにかぁ……でも、マスターには申し訳ないけれど、俺からはオヤジのような存在なんだよね? マスターって。

「なるほど、そういうわけだったのね?」

 妊娠六ヶ月目に入り、そろそろお腹が目立ち始めていながらも、マタニティードレスをカッコよく着こなしているためなのか、妊婦のように見えない杏子が嘆息しながら厨房に入ってきて、椅子に座っている幸作に気がつくと納得したように鼻を鳴らす。

「せっかくいい映画を観ていたのに、幸作君のせいで中途半端になっちゃったよ」



「いいねぇ、青春だぁ」

 事の経緯とマスターに言われた事をかいつまんで杏子に話すと、長い髪の毛をかき上げながら少し冷やかすような視線を幸作に向ける。

 そりゃ第三者から見ればそうかもしれないけれど、当人にとっては大問題なんですよ? でも、マスターや杏子さんに話をしたらいくらか落ち着いてきたかな?

 それまで胸の奥でヘドロのように沈んでいた嫌な感じは徐々に払拭されはじめており、幸作の表情も店に入って来た当初に比べるとかなり血色が戻ってきている。

「……杏子さん」

 苦笑いを浮かべる幸作に、杏子はニヤニヤした表情を引き締めようとするが、口の端からその笑みが消える事は無く、手でそれを覆い隠す。

「あぁ、ごめん……確かに幸作君たちにすれば一大事よね? でも、じゅんくんがそういう事を言うなんて、やっぱりあたしが見初めた人だけあるわね?」

 マスターの本名である淳一という名前に少し違和感を覚えながらも恨めしそうな顔を作る幸作に、杏子はさすがに申し訳なさそうな顔をする。

「じゅんくんの意見に対してあたしは賛成票を投入させてもらうわ。あのね? 幸作君って意外にモテるのよ? 本人にその自覚があるかどうかは別にしてだけれど?」

 お腹をかばいながら椅子に座る杏子に幸作は手を差し出しサポートすると、ニコッとした微笑を幸作に向けてくる。

「そういうところがモテる要因だと思うのよ。細かい気配りというのかな? フェミニストと勘違いされるかもしれないけれど実は違う、男女関係無く気遣う事が出来るのよ、幸作君って」

 気遣う事が出来るって……でも、マスターは気遣う事ができていないって……。

 果汁百パーセントのジュースの入ったグラスを傾けている杏子に、その言っている意味の矛盾点に気がついた幸作は首を傾げる。

「自覚が無くって当たり前よ。あのね? この世の中には基本的に男と女しかいないの。男は狩猟に出かけるから、独りになっても負けない強い心を持っているけれど、女は狩猟に出かけた男を待つために心が弱いと言われている。いつの世でも言われているけれど『男が強く女が弱い』と言うのは力ではなく心だと思うのよね?」

 メガネをクイッと上げる杏子の表情は、さっきまでの冷やかすようなものではなく、どこか幸作を諭すようなそんな表情を浮かべている。

「気遣いと言うと軽薄に思えるかもしれないけれど、女というのはいつだって待っているの、いつだって傍にいてもらいたいものなのよ。幸作君にはそれが出来るのよ。不意に誰かに寄りかかりたい時に必ずキミがそこにいる。それは幸作君が回りの人間を気がつかないうちに気遣っているからだと思うのよね? だから弱った時に傍にいてくれる幸作君に心を許してしまい、それが恋に変わっていくの……だからモテるというのよ」

 さりげないウィンクをする杏子に、まだ納得のいかない顔をする幸作。

 でも今日は違う……麻里萌は俺じゃなくって柏崎に心を許していた。あの表情は間違いなく落ち着ききっていた表情だ。

 苦渋な表情を浮かべる幸作に杏子はクスッと笑みを浮かべる。

「だからじゅんくんに言われたんでしょ? 気遣いができていないって。そう言う事なのよ? あなたがいま一番気を使ってあげなければいけないのは誰なの?」

 優しい顔をする杏子に幸作はほとんど即答で答える。

「麻里萌」

「でしょ? でも、麻里萌ちゃんはそう思えなかったんじゃないの? 既にお互いの信頼関係が出来上がっている初音ちゃんと幸作君の仲を垣間見て不安になったと思うの、傍にいてもらいたい人が遠くに行ってしまいそうなそんな感情に押し流されたんじゃないかしらね? そんな気持ちにさせたキミは、果たして麻里萌ちゃんに対して気を使っていると言えるのかしら?」

 思い当たる節があり過ぎて幸作は頭を抱え込んでしまう。

「その性格は直せないと思うよ? 生まれながら持っているものなのだから。あとは幸作君がいかに彼女の事を大切に思うかだけだと思う……『傍にいたい』と感じているうちは恋、それがお互いに『傍にいてあげたい』と思うようになったら愛に変わると思う……ちょっとクサイ言い方だけれどね? 麻里萌ちゃんと付き合い始めてまだ一ヶ月でしょ? そんな事件これからもいっぱいあるわよ、それをお互い乗り越えていけば良いだけ……恋愛なんて難しい事は無いの。難しいのはそんな険しい道をいかに二人で乗り越えるかだけなんだから、基本は同じ事なのよ、二人が信頼し合い、お互いを気遣っていればいくらでも乗り越える事ができる。あたしとじゅんくんみたいにネ? あたしたちだってここまで来る間に色々あったんだから」

 苦笑いを浮かべる杏子に、やっと幸作は笑顔を浮かべる事が出来た。その表情は何か吹っ切れたそんな様な顔をしており、その表情に杏子もホッとした顔をする。

 お互いの信頼……もしも既に彼女の気持ちが柏崎に移ってしまったのなら仕方がない、自分の責任なのだから。でも、伝えなければいけない事、謝らなければいけない事だけは彼女に伝えておかないと俺はきっと後悔する……後悔して最悪の結果になるよりも、納得して最悪の結果になる方がいいに決まっている。

 目に力を取り戻した幸作の顔を杏子は頼もしそうに見つめ、店からはホッとした様な顔をしたマスターがその様子を覗き見ていた。

「杏子さんありがとう……それにマスターも……二人に話を打ち明けたら、なんだかホッとしちゃったよ。本当にありがとう」

 深々と頭を下げる幸作の事をまぶしそうに目を細める杏子と、覗いているのがバレたと慌てて姿を隠すマスターに、幸作は笑顔を浮かべながら素直に感謝を唱えペコリと頭を下げる。

第十三話に続く