坂の街の小さな恋U

第二話 二人を取り巻く人たち



=カレイドスコープの人々=

「いらっしゃいませ」

 赤レンガ倉庫郡が立ち並ぶベイエリアに近い喫茶『カレイドスコープ』の店内に麻里萌の笑顔と共に元気な声が響き渡り、その笑顔につられるように訪れた客も笑顔になる。

「ブレンドね?」

「ハイ! ありがとうございます、幸作クン、ブレンドひとつ」

 テーブルにお冷を置き、オーダーを受けた麻里萌はエプロンを翻しながらカウンターの中でグラスを磨いている幸作に声をかける。

「あいよ」

 幸作はそのオーダーに見合ったビンを取り出し、その中に入っている挽きたてのコーヒーの粉をサイフォンに移し、その中に水を注入して火をつける。

「ピザトーストあがったよ、二番さん」

 厨房に続く配膳カウンターからはメガネをかけたマスターが顔を出し、大きめに盛られたピザトーストを置くと、それに笑顔で麻里萌が答えながら、その笑顔を絶やさずにテーブル席で談笑しているサラリーマン氏に届ける。

「すみません、おあいそ」

 カウンターに座っていた馴染みの女性が伝票を持ちながら立ち上がると、麻里萌はすぐにそれに反応して小走りにレジに向かう。

「ありがとうございましたぁ〜」

 ペコリと頭を下げる麻里萌に、その女性客も満足したように軽く手を上げながら出てゆく。

 この店でバイトをし始めて二ヶ月あまりというのに、すっかりと店に馴染んでいるよな? 杏子さんが早めに産休に入るという気になったのもわかるかも知れない。

 マスターの奥さんであり、このお店のママさんでもある杏子(きょうこ)が産休を申し出たのは一週間前、まだできると最初は言っていたにもかかわらず、いきなりの方針変更にマスターを含めたみんなが首を傾げた。

「麻里萌ちゃんがいれば、あたしもゆっくりと自宅の家事もできるし、何よりも胎教に専念する事ができるわ……とりあえず、レンタルビデオを借りまくらなきゃ!」

 生き生きとした顔をした杏子にみんなが苦笑いを浮かべたのを覚えている。まぁ、杏子さんも病院に行ったりして大変だったのであろうが、最終日に見せた寂しそうな笑顔は今でも幸作の脳裏に焼きついている。

「こんにちはぁ〜」

 お店の扉が勢いよく開くと、そこには髪の毛をひとつに束ねた女の子がニッコリと微笑みながら幸作を見ながらパタパタと手を振っている。

「よぉ、千鶴」

 私立の学校の制服を着ているのは、初音と同じくして俺の幼馴染である宝城千鶴(ほうじょうちづる)で、学校は違うけれどこのお店にはよく顔を見せてくる常連さんでもあり、その容姿は幼馴染という贔屓目を差し引いてもレベルは高位置だと思うし、その証拠として客の中には結構彼女のファンがいるのも事実だ。

「こんちゃ、幸作」

 おどけたように千鶴はカウンターの中にいる幸作に微笑みかけると、いつも座るハイチェストタイプのスツールに腰掛けると、短い制服のスカートからは白いフトモモが露になり、気のせいなのか他の客から熱を帯びたため息が聞こえたように思える。

「いつものでいいですか?」

 そんな熱っぽい視線に気がつかない麻里萌がお冷を千鶴にそれを提供すると、いつものようには即答せず、ちょっと思案顔を浮かべるとメニューを開き見る。

 いつもであればフルーツパフェ千鶴バージョン(フルーツが若干多めになっており、それを隠すように生クリームも多めになっている)にシナモンティーと決まっているのだが、今日はメニューを見て悩むなんて珍しい事もあるな?

 悩んでいる千鶴を珍しいものでも見るような顔をして幸作は見つめるが、当人は真剣に悩み始めたようで、あまりレパートリーが豊富ではないメニューの中身をジッと見つめている。

「どぉ〜しようかなぁ……これもカロリー高そうだし……」

 口を尖らせながらメニューを見つめている千鶴の悩みに気がついたのか、麻里萌は苦笑いを浮かべながらそのメニューの中身を覗き込みながら指をさす。

「これなんて比較的カロリー控えめですよ?」

「そうなの?」

 麻里萌の助言に対して素直に目を丸くする千鶴だが、幸作はまるで蚊帳の外といった感じで、その会話の意味を成すことがわからないでいる。

「じゃあ麻里萌ちゃんのお勧めにしようかな?」

 やがて確定したのであろうか、千鶴はメニューを閉じると麻里萌に対して笑顔でそれをオーダーすると、麻里萌もニコッと微笑み返す。

「ハムサラダでよかったですか?」

 伝票にそのオーダーを書き込み、厨房であくびをかみ殺しているマスターに声をかける。

「何だ、今日はパフェじゃなくっていいのか?」

 千鶴が入ってきた時点でパフェ用のグラスを用意していた幸作は、その用意が無駄になった事を知り、所在無さげにそのグラスを弄ぶと、千鶴の頬に朱がさす。

「あは……あはは、いいの今日はちょっと気分を変えてみたかっただけなんだから……本当にそれだけなのよ? 別に太ったとかそんなんじゃないから」

 誤魔化すように千鶴はそう言いながらもハッとした顔をして幸作を見上げる、その顔は明らかに紅潮しており、しまったと言う雰囲気を醸し出す視線が虚空を舞う視線が物語っている。

 なるほどね? 想定外……ってやつですか?

「あは、そんなに気にする事ないと思うけれどなぁ」

 店内にいる客に対してメニューの提供が終了し終わった麻里萌が一息つきながら千鶴を見るが、それに対して千鶴の頬はプクッと膨れ上がる。

「麻里萌ちゃんは細いからいいわよ、あたしなんて少しでも肉が付くと……ほらぁ」

「そんな事ないですよぉ、あたしだって最近運動していないせいなのか、ちょっとお肉が付いちゃって、付いてほしい所に付かないで……ふみゅぅ……」

「いえてるぅ〜、そうなのよね? 付いてほしい所に限って付かないのよね? そのくせやせる時は真っ先に落ちてゆくし」

 キャイキャイと言うこの会話はすでに聞き慣れたものだが、女というのは何でそんな微々たる変化を気にするのかねぇ? 俺にはよくわからんよ……。

 カラン……。

 店の扉が開く音に無意識に反応するのは幸作も麻里萌も同じで、顔を上げるタイミングはまるで計ったように同時だった。

「いらっしゃいませぇ〜」

 わずかな変化ではあったが、麻里萌の笑顔が営業用から素直な笑顔に変わった事を幸作は見逃さなかった。そうしてその笑顔の先に立っている客は、誰かを探すように店内を見渡し、麻里萌に気がつくと、その端正な顔を際立たせるように微笑む。

「やぁ、笹森さん」

 さわやかな微笑と共に、嫌味の無い仕草で麻里萌に挨拶をするのは、本日転校して来たイケメン高校生の柏崎智也だった。

「柏崎クン? 何で?」

 何気ない仕草でありながらも、その格好が様になっている智也がカウンターのスツールに座ると同時に、麻里萌はお冷を提供し、持っていたトレイを胸に当てながら、すこし意外そうな表情を浮かべてその端正な顔立ちを見つめている。

 なんだか麻里萌のやつ頬を赤くしていないか? 俺の気のせいか?

 憮然とした表情をあからさまに見せる幸作の腕が、誰かによって突っつかれ、その不機嫌そうな顔をその主に対して提供する。

「ちょ、ちょっとぉ幸作、あの人は一体誰なの?」

 そんな幸作の不機嫌そうな顔など気にした様子もなく、突っついた張本人もそのイケメンの顔に少し見とれたような顔をして見つめているのは千鶴で、その目はまるでハートマークが散っているようでもある。

「ん? 転校生だ……」

 勤めて平静を装いながら言う幸作の顔を千鶴は見上げ、やがてその表情は意地の悪いものに変わってゆくと、シャンプーの香りを携えながら顔を近づけてくる。

「ずいぶんとカッコいい人ね? 麻里萌ちゃんもずいぶんと親しげだし……幸作もうかうかしていられないんじゃないの?」

 二人の視線の先には、今日出会ったばかりとは思えないほどに親しそうに談笑している麻里萌と智也の姿、その様子に自然と幸作の顔は渋柿を食べたようにしかめられる。

「アハハ、そうなんだぁ、奇遇ね?」

 今まで聞いた事のないような麻里萌の声に智也は優しい微笑を浮かべてさらに何かを語りかけると、さらに麻里萌の顔には笑顔があふれる、その笑顔に幸作は嫉妬のような感情を覚える。

 ケッ! なにが奇遇だよ。そんなの偶然に決まっているべ?

「幸作、ハムサラダ上がったぞ」

 厨房から呑気な声をかけてくるマスターに対し、幸作は険しい視線を向けると、その表情に気圧されたようにマスターは怯んでしまい、幸作はその置かれたハムサラダを少し乱暴に持つと、提供先である千鶴の前にムッツリ顔のまま置く。

「ちょっと幸作……冗談だってば」

 その様子に千鶴は困ったような表情を浮かべながらフォークでレタスを突っつくが、幸作の視線から険が取れることなく、談笑する二人を見つめている。

 今日転校して来たばかりという境遇も似ているし、同じ東京出身と言う事で盛り上がっているだけだろう、きっとそうだ……そうに決まっている!

 幸作は自分の中で一般的な仮定を付けるが、それとは反比例するように、心の中にある疑惑がどんどんと幸作の中で膨れ上がってゆき、磨いていた手に持っているお冷用のグラスが、ピキッと悲鳴を上げる。

「フン!」

 亀裂が入っているようなグラスを『軟弱者!』と睨みつけ、幸作は鼻を鳴らしながらそっぽを向くが、そのゾウさんのように大きくなった耳はしっかりと二人の会話を捕らえている。

「そうそう、あそこならあたしも行ったよ」

 どこだ?

「前評判はあまりよくなかったけれど、意外に面白かったよな」

 ちょっと言葉遣いが馴れ馴れしくなっていませんか?

「でも、友達も結構楽しんでいたし、案外と穴場スポットだったりしてぇ」

 友達って誰だ?

 麻里萌たちの会話にいちいち幸作のこめかみをヒクッと反応させるその様子を見ながら、千鶴はフォークを口に咥えたまま思案顔を浮かべるがやがて、その顔に笑顔を浮かべる。

「ねぇ幸作」

 今にも息がかかりそうな距離まで幸作の顔に千鶴は顔を近づけると、それまで不機嫌な顔をしていたその表情が一変して照れくさそうなものに変わる。

「な、何だよ」

 慌てて視線をあらゆる所に向けている幸作に対して、千鶴はニッコリと微笑む。

「今度の日曜日バスケの試合なんだけれど、応援に来てくれないかなぁ?」

 腕組みをしている幸作の腕にそっと手を置きながら、懇願するような目で千鶴は見上げると、幸作の視線は困ったように宙を舞い、少し離れた所で談笑している麻里萌の事をチラリと見る。

「に、日曜日はバイトだからダメだよ……今に始まった事じゃないだろ?」

 このお店の立地は観光地にあるわけだから、日本全国休日と名の付く日は、お店にとっては書き入れ時になる、ゆえにそんな書入れ時にお店を休める筈が無い。

「店だったらいいぞ? たまには日曜日ぐらい遊びに行ってこいよ。最近忙しかったから俺も店を休むつもりでいたから……ちなみに杏子の許可も取ってある」

 厨房からのんびりした声でマスターが告げると、幸作の険しい視線がマスターを刺すように睨み付けられ、その視線に、マスターは怯えた小動物のような表情になる。

 ったく、杏子さんに許可を取ったって、チョッと情けない……というよりも、いい大人なんだからそのあたりの話はうまく合わせてくれよぉ……杏子さんが言う通り間の悪い男だなぁ。

「だって! ねぇ〜幸作来てよ」

 腕をぐいぐいと引っ張る千鶴に、作ったような笑顔を浮かべながら次の手立てを考える幸作、その二人の表情は面白いほど好対照だ。

「戸田君その娘は?」

 そんな騒ぎに気がついたのか、智也が幸作に声をかけてくる。

「あぁ、彼女は俺の幼馴染だよ……ってぇ?」

 悪気の無さそうな智也の一言に振り返った幸作は、その隣にいた麻里萌は頬を思いっきり膨らませ、目を吊り上げながら幸作の事を睨みつけている表情に、素っ頓狂な声を上げてしまう。

 な、なんだって俺がそんな目で見られなければいけないんだよ……麻里萌だって柏崎と仲良く話をしていたじゃないか……。

 少し理不尽さを感じながらも、体裁をつくろう幸作はコホンと咳払いをしながら腕をつかんでいる千鶴の手をそっと離す。

「幼馴染かぁ、ちょっと羨ましいなぁ……うちの家庭は昔から転勤族だったから一箇所に長く居座った事がないから、幼馴染という仲に憧れるんだよね?」

 ため息を吐くように智也はそう言いながら少し寂しそうな笑顔を浮かべ、その表情は同性でもある幸作ですらドキッとするような憂いのある表情だった。

「智也クンもそうなんだぁ……あたしも同じだよ?」

 智也クンだぁ? いつからそんな馴れ馴れしい呼び方をするようになったんだ?

 同情するような目で麻里萌は智也の事を見つめ、それに憮然とした表情をしている幸作の顔とを交互に千鶴は見つめると、その表情に策士のような不敵な笑みが浮かぶ。

「はじめまして、宝城千鶴です」

 そんな表情を隠しながらニッコリと微笑みながら智也に頭を下げる千鶴に対して、智也は微笑を絶やさないまま千鶴に対して右手を差し出す。

「はじめまして宝城さん、柏崎智也です……エッと、初対面の女性にこんな事を聞くのは不躾なんですが、宝城さんは戸田君の恋人なんですか?」

 本当に悪気のない天然な智也の一言に、千鶴は虚をつかれたように目をまん丸にし、その頬を真っ赤に染め、幸作は慌てふためくように両手を振りながら否定の行動をとり、麻里萌はその頬をふぐと競るように大きく膨らませる。

「ち、ちが……」

「違います! 幸作クンの彼女は……」

 勢いよく幸作の台詞を遮る麻里萌の一言は、徐々に尻つぼみになり、その顔をうつむかせ、その声が智也には届かなかった。

「アハハ、そう見えちゃいますぅ〜? でもぉ、あたしも幸作にフラれたクチなんですよね?」

 おちゃらけるようにペロッと舌を出しながら千鶴が言うと、素直に驚きを見せる智也は幸作と千鶴の顔を交互に見て肩をすくめる。

「あたしもって、他にも戸田君にフラれた娘がいるんだ……戸田君はモテるんだね? こんな可愛い娘をフルだなんて……よほど好きな娘がいるんだ」

 サラッと言う智也に対して幸作と麻里萌の顔は真っ赤に変わり、当事者である千鶴もどこと無く頬を上気させている。

 この場面では肯定しなければいけないのだが、それをする事によって、この場の雰囲気と言うのはものすごく悪くできる事は先般承知の事だが、背に腹は変えられない。

 幸作が意を決したように大きく息を吸い込み、事実を伝えようと口を開く。

「――そうだな? そうかもしれない……俺の好きな娘は……」

 意を決したように幸作の視線が麻里萌に向き、麻里萌も覚悟を決めたような表情を浮かべる。

「やっほぉ〜!」

 同時に店の扉が勢い開くと長い髪の毛をたなびかせ、その様相には少し不釣合いなマタニティードレスを着た女性が満面の笑みを浮かべながら立っている。

「きょ、杏子さん?」

 このお店のママであり、現在産休でお休みをしているマスターの奥さん杏子さんが、満面に笑顔を浮かべながらお店の様子を眺めている。

「ハァ〜イ幸作君、元気?」

 やけにハイテンションだなぁ……気に入った映画を見たのかな?

 映画好きな杏子は気に入った映画を見つけるとテンションが高くなり、すこぶる機嫌がよくなるという事は旦那であるマスターから聞いているし、幸作も何度か見た事がある。

「杏子?」

 予想もしなかったのか厨房からマスターが慌てて顔を出してくると、杏子は緩みきっているその口の端をさらに緩ませる。

「アハハ、久しぶりにいい映画を見たよぉ〜、もぉそれは感動物ですぜぇ」

 やっぱりね……。

 デレェッとしたその顔は、普段の毅然としたものとはまったく違い、その事を知っているマスターと幸作は、杏子に気がつかれないようにため息をつき、恐らくはじめて見たのであろう麻里萌はキョトンとした顔をしてその様子を見つめている。

「麻里萌ちゃんは初めてかもしれないね? こんなにテンションの高い杏子さんを見るのは、あたしも久しぶりに見たかも……」

 常連客であり、杏子の生態(失言)を知っている千鶴はその事を麻里萌に説明すると、苦笑いを浮かべながら納得したような顔をしてうなずき、良いも悪いも聞かないで厨房に入り込み、マスターに作品の論評を始めている杏子の姿を見つめる。



=約束=

「驚いちゃったよ……本当に杏子さんって映画が好きなのね?」

 バイト帰りの道。以前は麻里萌と一緒に歩く帰り道は暗く夜の帳が下りていたのだが、六月に入りその暗さは徐々に薄らぎ、車もスモールライトを点灯させる位の明るさを残している。

「まあね、元気だよなぁ、つわりが酷いっなんてマスターが言っていたけれど、それを真っ向から否定するようにアグレッシブさだよね?」

 にこやかにレンタルビデオ店やシネコンを闊歩する杏子を想像して、幸作が苦笑いを浮かべていると、麻里萌はアゴに人差指を当てながら小首を傾げる。

「でも杏子さんって自分で映画を作るのが好きなんでしょ? 何で人の映画を見るのかな?」

「それはね? 人の作った映画を見て自分を高めてゆくのが彼女の勉強らしいよ? 井の中の蛙にはなりたくない、大海を知らなければ意味がないと言うのが杏子さんの信念らしい」

 以前今の麻里萌と同じ質問を直接杏子さんに向けた事がある。その時に返ってきた答えがそれだった。自分がいいと思っていてもそれはあくまでも自分の世界の中での事。他にも良い作品はあるはずだから、色々な作品を見て自分を磨いて行きたい。というのが杏子さんの思いらしく、今でもそれが信念になっているらしいし、俺にも今になってなんとなく自分でもわかったような気がする。自分の世界観だけではなく、視野を広げろという事なのかもしれない。

「へぇ〜、杏子さんらしいなぁ、自分が絶対と思っていない当たりが勉強家なんだろうね?」

 感心したような麻里萌は、少し熱を帯びたような瞳で幸作の顔を見上げてくる。

「人それぞれなんじゃないの? 俺は勉強が嫌いだからそこまでしないと思うよ」

 両手を首の後ろで組み、空を見上げながら幸作がそう言い、どこに帰って行くのかわからないカモメが一羽その頭上を飛び去って行く。

「そうかな? あたしから見ると幸作クンも勉強家だと思うけれど……」

 優しい笑みを浮かべながら麻里萌は幸作の顔を覗き込んでくると、幸作は照れくさそうに鼻先を掻き、そんな顔を見られないようにそっぽを向く。

「それは俺の事を買いかぶり過ぎているんだよ……」

そう言いながら麻里萌の小さな頭に手を乗せると、照れくさそうに頬を赤らめてうつむく。

 いい雰囲気でないかい? 麻里萌とこんな雰囲気になるのは久しぶりのような気がする。いつも周りには初音や千鶴がいてそんな雰囲気になる事は滅多にないよなぁ。

 高鳴る胸を押さえつつも幸作は無意識に辺りの様子を伺うが、周囲にいるのは買い物帰りの奥さん方と、会社帰りのサラリーマン風の男性達しかおらず、そんな二人の雰囲気をぶち壊すような人物は見受けられない。

「さて、買い物をして帰ろ?」

 そうきましたかぁ……やっぱり……トホホ……。



『みんなの街のぉ〜♪』

 まるで洗脳するように流れているテーマソングが流れ続けているスーパーに入り込み、買い物カゴを持つ二人は、互いに特売の食材を吟味し献立を頭の中に描いてゆく。

「幸作クンの所はなににするの?」

 精肉売り場に足を入れたところで麻里萌が振り向き微笑む。

「う〜ん、今日は郁子が作るって言っていたから……俺の買い物はトイレットペーパーとか雑貨品ぐらいかな?」

 創立記念日で休みである郁子が本日の料理当番であり、小柄な彼女が買い物しきれない大きな雑貨品を買うのが幸作の仕事だった。

「だったらあたしに付き合う必要ないじゃない?」

 困惑したような表情を浮かべながら麻里萌は幸作の顔を見上げるが、その顔に対して幸作はニッコリと微笑む。

「別に? 好きだから付き合っているから気にならないよ?」

 サラッと言う幸作の一言に、麻里萌な何かを勘違いしたのか、さっきの野菜売り場に置いてあった完熟トマトのように真っ赤な顔をする。

 んだ?

「そんな……照れちゃうよ……好きだからって……」

 ウネウネと身をくねらせる麻里萌に、幸作はキョトンとした顔をしてみているが、やがて自分の発した台詞の中にその要素があった事に気がつき顔を赤らめる。

 我ながらキザな事をサラッと言ったものだ……気がつかなかったとはいえ……照れるぜぇ。

「あれぇ? おにいちゃん?」

 お互いに顔を赤らめながらパック詰めの肉を眺めている二人の背後から、聞き覚えのある声が掛けられる。

「なんだ、いま買い物に来たのか?」

 声の主は、幸作がそこにいるとは思っていなかったのか、大きな目をさらに大きくして顔全体で驚きを表しているが、やがて幸作の隣にいる麻里萌に気がつきその顔を徐々に意地悪いものに変えてゆく。

「郁子ちゃんこんばんは」

微笑みながら麻里萌はパーカー姿の郁子に挨拶をすると、郁子も微笑み返す。

「麻里萌ねえさんこんばんは。ビックリしたよ、思わずハマっている二人の雰囲気にちょっと驚いちゃったよ……新婚さんみたい」

 冷やかすような郁子の視線の先には買い物カゴを持つ幸作に、今まさに肉のパックを入れようとしている麻里萌のその姿は、まさに仲良く買い物をする新婚夫婦といった感じだろうか?

「な、な、なにいっているんだ! お前こそこんな時間に買い物をして遊び歩いていたのか?」

 真っ赤な顔をして言う幸作の一言に、郁子はその優しい瞳を厳しく吊り上げ、胸ぐらをつかむような勢いでその顔を幸作に近づける。

「そんなはず無いでしょ! 天気がよかったから洗濯して、部屋の掃除をして、色々やっていたらこんな時間になっちゃったの、そんな事を言うとおにいちゃんの夕食抜きにするよ?」

 恥じらいもなく、怒り心頭という顔を幸作に突きつけ、まるで唾のかかる様な勢いで郁子はそう言い切ると、幸作は困ったような顔をして郁子の肩をポンと叩く。

「だぁ〜悪かったなぁい郁子ちゃん? 今日の夕食はなににするのかなぁ……ほらぁカゴをおにいちゃんが持ってあげるから、ねっ? 郁子ちゃん」

 猫なで声を上げる幸作に対してプンプンと言う擬音が聞こえてきそうに頬を膨らませている郁子の二人の様子を見ながら麻里萌は声を殺しながら笑い出す。

「本当に仲がいいのね? 幸作クンと郁子ちゃんって、ちょっと妬けちゃうかも」

 麻里萌は笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を指で拭う。

 おいおい、これが仲良いように見えるんですか? 俺は妹に虐げられているような気がして仕方が無いんですけれど……。

 助けを請うような瞳を麻里萌に向けるが、麻里萌はそんな二人を羨ましそうに見つめている。

「アハ、ご心配なく、おにいちゃんの事は熨斗をつけて麻里萌ねえさんに進呈いたしますから。あっ……といっても麻里萌ねえさんが良いと言えばの話だけれどね?」

 皮肉ったような顔をして郁子が麻里萌の顔を覗き込むと、照れ臭そうながらも麻里萌は大きく桜色に染まっているその首をコクリと縦に振る。

「チョッと待て! 熨斗を付けてってどういう意味だ? 人の事をまるでお中元やお歳暮のような扱いをしないでくれ!」

「お中元とかならいいじゃない……あたしからすると……粗品?」

 ちょっとぉ……我が妹よ、粗品ってパチンコ店の開店記念とかじゃあないんだし、熨斗の重みがまったく違うんですけれど……粗品って……俺はその程度なの?

「アハ、郁子ちゃんそれは酷いよ、幸作クンはすごく人のためになっているんだからぁ」

 取り繕うように麻里萌は言うが、あまり幸作にはフォローになっていない。

「じゃあ……駅前で配っているティッシュ?」

 買い物カゴを腕からかかげながら、真剣に悩んだような顔をしている郁子に幸作は力尽きたようにその場にひざまずいてしまう。

 俺は……消費者金融の販促品か? はたまた、美容室やエステの開店広告か?

「いや……確かに役に立つし、花粉症の人はそれに何度も助けられているとは思うけれど」

 既にフォローが利かなくなってしまった麻里萌は、申し訳無さそうな顔をする。それは郁子の意地悪に屈したという証。



「それで本当になににするつもりだったんだ?」

 レジで馴染みのおばさんに冷やかされ店を出る頃には既に周囲は完全に夜の帳が下り、俺の両手にはスーパー袋が持たれており、その重みによって細く変形した持ち手が手に食い込んできて、チョッと痛いかもしれない……。

「ウン、この間『厚沢部』の叔母さんからジャガイモを貰ったじゃない、それを使って『肉ジャガ』にしようと思っているんだけれど……どうやら賛成のようね?」

 メニューを発表する郁子を見る幸作の目はキラキラと瞬いているようで、その表情に呆れ顔を浮かべる郁子は小さくため息をつく。

「幸作クンって肉ジャガが好きなの?」

 いくらか軽そうなスーパー袋を持つ麻里萌は意外そうな顔をして幸作の顔を見る。

「大好きよね? 肉ジャガを作るとおにいちゃん一人で食べちゃうぐらいに、次の日まで残る事なんか滅多にないのよ?」

 五個パックのティッシュを持つ郁子はそう言いながら睨みつけるが、幸作の表情はそんな睨みにも耐えうるように微笑を絶やさない。

 肉ジャガぁ……嬉しいぃ……。

「肉ジャガがあればご飯なんていらない! この世にあんな美味しい料理を作り出した人物に対して国民栄誉賞を送りたいぐらいだ!」

 きっぱりと言い切る幸作の事を、郁子は呆れ果てたような冷めた視線で見るが、麻里萌はなにやら納得したかのようにウンウンと頷いている。

「そっか、幸作クンは肉ジャガが好きなんだ……」

 まさにメモを取ろうといわんばかりに麻里萌はその事実を脳内のメモにしっかりと書きとめたようで、その顔は少し満足そうでもある。

「そうね? 麻里萌ねえさんもしっかりと憶えておいた方がいいかも知れないよ? 将来的にも役に立つと思うよ? これは郁子ちゃんの一口メモでした」

 キヒヒと口にいやらしい笑みを浮かべ郁子は楽しそうにその様子を見るが、幸作から予想される次の攻撃をかわすように真横に飛ぶと、ベェッと舌を出しながらトトトと駆けて行く。

「郁子! お前は実の兄貴をからかってなにが楽しいんだ!」

 真っ赤な顔をしているのは幸作だけではなく、その矢先になっている麻里萌もしかりだった。

「えへへぇんだ! 事実でしょ? 先に帰っているから早く帰ってきてね?」

 既に幸作の射程範囲から逃れた郁子は踵を返すと、微笑を浮かべながらアパートに向かう道を小走りに帰ってゆく。

「そうよね? 肉ジャガの一つぐらい作れないと……今度お母さんに教わらなくっちゃ」

 ブツブツと呟く麻里萌の横顔を、幸作は脱力したように眺める。



「ありがとう、結局持ってもらっちゃったね?」

 幸作の家からさほど離れていない一軒家の前で、幸作は麻里萌に持っていたスーパー袋を手渡すと、その指先が麻里萌の指と触れ合う。

 うぁっと……。

 慌ててその手を離そうとするが、その重みのためなのか、なかなかその袋は幸作の手から離れる事はなく、麻里萌の温もりがその指から幸作に伝わってくる。

「あ……うっ……って……」

 時間にして僅か数秒であっただろうが、幸作はその温もりが、かなり長い時間のように感じ、頬を赤らめながらもその温もりが離れて行く事に少し詰まらなさを感じていた。

「ん? どうかしたの?」

 そんな事をまったく気にしていないような麻里萌は、その袋の重みに少し眉根をひそめるが、ニコッと微笑みながら幸作の顔を見つめてくる。

「あっ、いやなんでもないよ……んじゃ俺帰るから……おやすみ」

 幸作はその余韻を大切にするようにその手をそっとポケットにしまいこみ、麻里萌に背を向けるが、いつもと違ってその背中に麻里萌が声をかけてくる。

「幸作クンッ! エッと……あの……今度の日曜日……」

 消え入るような声で言う麻里萌の声は、幸作が振り向く事により伝わった事が確認される。

「ん?」

「今度の日曜日……幸作クンは行くの? 千鶴さんの試合……」

 うつむきながら言い難そうに言う麻里萌の台詞は、聞く耳を持たないときっと周囲の雑踏にかき消されてしまいそうだったが、幸作の耳にはしっかりと聞き取る事が出来た。

「まぁ、行かなければ色々な事を言われるだろうからな……行かないわけにはいかないだろうよ、まぁ、試合が午後かららしいが」

 さっき千鶴から(強引に)渡された試合のプログラム表の入っている胸ポケットをポンと叩きながら幸作は苦笑いを浮かべる。

 知らなければ無視する事もできるだろうが、知っている以上は行かないわけにはいかない。しかも千鶴からのご招待となればなおの事だ、行かなかった事が知れればきっと酷い噂を固定した人物(郁子)あたりにある事ない事を吹き込むに違いない。

「午後からだったら午前中は……」

 思案顔を浮かべる麻里萌はアゴに指を当てる。

 だから、その仕草はやめてくれ……その仕草は俺の弱点といってもおかしくないんだ。

 顔を赤らめる幸作に相反し、麻里萌は真剣に悩みぬいたようにその眉根をしかめ、やがて意を決したようにその手をポンと叩く。

「だったら午前中はあたしと一緒にどこか行きましょう、それで午後から千鶴さんの応援に行くっていう案はどうでしょうか?」

 それってさらっとデートのお誘いですか?

 久しぶりの日曜休み、考えてみれば麻里萌と一緒にそんなノホホンとした時間を過ごす事はあまりなく、付き合いはじめてからもさほど変わらない生活を過ごしている二人にとってみれば、それはかなりの進展といってもいいだろう。

「エッと……それは、二人でどこかに行こうという事なのでしょうか?」

 驚いたような顔をしながら再確認するように言う幸作の一言に、麻里萌は少しはにかんだような表情を浮かべてうなずく。

「俺は……俺は全然問題なし! そうだな、久しぶりに二人でこの街を散策してみようか? 前に案内しきれなかった所もあるし……」

 妙にワクワクした感情に駆られる幸作は、その顔から笑みを隠す事ができなくなり、頭の中には二人で歩くシミュレーションが壮大に描かれる。

 確か大森浜や啄木小公園なんかには行っていなかったよな?

「ウン! 幸作クンの案内で函館見物第二弾に行ってみたいよ!」

 少し考えたような顔をしながら提案された幸作の案に対し、麻里萌は満面の笑みを浮かべながら、そのスーパー袋をギュッと抱きしめる。

第三話に続く