坂の街の小さな恋U

第三話 函館すてーしょん



=朝いちの光景=

「それで? なんでわざわざ函館駅で待ち合わせなの?」

 朝食の片付けをしながら郁子が首をかしげながら幸作の顔を見てくるが、その視線の先の幸作は既に着替えを終え、後は出かけるだけの状態で郁子の疑問に対して首を傾げている。

 さて? なぜなんでしょうかね? あの後の麻里萌と交わした会話はこうだ。



「エッと、午後からは市民体育館で千鶴さんの試合でしょ? 市民体育館って確か市電の『市民会館前』の近くだったわよね?」

 思案顔を浮かべる麻里萌は、コクリとうなずく幸作を確認するように見つめる。

「んだ、市民会館の敷地の中に体育館があるんだ」

 記憶をたどるように言う幸作に対して、麻里萌は思案顔のまま虚空を見上げていたが、やがて何か妙案でも浮かんだのであろうか、満面に笑みを浮かべてその顔を幸作に向ける。

「だったら函館駅で待ち合わせにしない?」

 はいぃ? 何で待ち合わせが必要なんですか?

 俺の家と麻里萌の家との距離は僅かに数十メートル、どんなに多く見積もっても百メートルも離れていない、その近距離にお互いに住んでいながらなぜ待ち合わせが必要なの? しかもここからかなり離れた距離にある函館駅で待ち合わせなんだかよくわからない。

「へ? 何で待ち合わせが必要なんだ?」

 頭に浮かんだ素直な疑問を麻里萌にぶつけると、少し口を尖らせながらいじけたようにプイッとそっぽを向く。

「もぉ、幸作君は待ち合わせの醍醐味がわかっていないなぁ」

 再び振り返った麻里萌の顔は、いつもにも増して満面の笑顔だった。



「――醍醐味……だそうだ」

 幸作の言葉に泡の付いた皿を持ちながら、麻里萌の意見に対して合点のいったような表情を浮かべる郁子はニィッと口角を横に広げながら幸作に向き直る。

 どういう醍醐味なんだかさっぱり俺にはわからんよ、そもそも待ち合わせなんかに醍醐味なんてあるのかねぇ……苛立ちはあっても醍醐味なんかを感じた事は無いぜ?

「なるほどねぇ……まぁ良いわ……おにいちゃんそんな事より時間はいいの? 女の子を待たせるなんて男の風上にも置けないからね?」

 ニィッと意地の悪い顔をする郁子の顔は、それまでの妹の顔ではなく、一人の女の子というような顔をしていたように感じるのは幸作の考えすぎなのだろうか?

「ん? あぁ、まだ時間は有る、一時間ぐらいは余裕だな?」

 小さい頃に父親が買ってきた壁に掛けられている時計に視線を向けると、待ち合わせの時間のちょうど一時間前を示しており、それを告げると郁子の表情が一気に変わる。

「ちょっとぉ、なにを言っているのよ! あと一時間しかないの? 早く出かけないと! 待ち合わせの三十分前にはそこに行っているのが男のたしなみよ!」

 急き立てるように言う郁子に背中を押されながら、幸作はまるで追い出されるように部屋から押し出される。

「いつも麻里萌ねぇちゃんに迎えに来てもらっているんだから、たまには『待つ』という醍醐味を味わってみたら? おにいちゃん?」

 んな事言ったってよぉ、ここから駅までは多く見積もったって三十分もあれば行くべ? 何でこんな早くに行かなきゃいけないんだ?

 意味深な笑みを浮かべながら送り出した(ほっぽり出した?)郁子の顔はピシャリと閉められた部屋の扉に阻まれ見えず、幸作は恨めしそうな顔でその扉を見つめながら、渋々と最寄の電停でもある『宝来町』まで歩いてゆく。

 宝来町の電停まで歩いて五分、そこから電車に乗って函館駅まで十五分……小学生が計算したって待ち合わせ時間の三十分前に付くだろ? なんでそれが男のたしなみなんだよ! そんなに大量にある時間をどうやって潰せばいいんだ?

 そう心の中で毒づきながらも電停までいつもの歩調で歩き、少し段差のある電停上で待っていると、ため息を吐く幸作の目の前には、十分間隔で来る市電が待ち構えたようにその車体を横付け、気の抜けたような音を立てながら業務に忠実に扉を開く。

 はは、時間ドンピシャリ、どうやら俺には余分な時間を作らせないようだな……。

 時間通りに走っている市電だからそんな邪なものは無いのであろうが、幸作からすればそのグットなタイミングで来る電車に対して恨み言を言いたくなってしまう。

 さてと、どうやら函館駅に着いてからの時間の潰し方を考えていた方がよさそうだな? 駅の構内にある本屋で立ち読みをするか、お土産物屋を冷やかすか……いずれにせよ、このままで行けば時間は十二分にあるよな?

 休日の、しかも朝もまだ早いせいなのか、客の少ない市電の車内には油の匂いが充満し、ガタゴトと揺れる車内ではその揺れにあわせてつり革が揺れる。

 一体なんなんだよ……待ち合わせの醍醐味って……麻里萌だけじゃなくって郁子も言っていたよな? 女の子に関する事なのだろうか……。

 薄く開いている電車の窓からは、初夏を思わせるような香りが漂ってきて、それだけで心が和んでくるが、幸作の脳裏に浮かんだ考えがそんな和みを消し去る。

 ちょっと待て? という事は郁子もこうやって異性と待ち合わせをした事があるという事なのか? そんな、まだ中学一年生で他の男子と二人っきりで待ち合わせをするなんて早い!



「やっぱり早すぎたじゃないか……時間まであと三十分以上あるぜ?」

 市電を降り少し磯の香りを含んだ潮風に当たると、それまで沸騰寸前だった幸作の頭は冷やされ、当初の目的を思い出し腕時計を見ると、そこに示されていた時間は、昨日の別れ際に麻里萌と約束した時間よりも三十八分ほど早い。しかも、観光客が訪れるにはちょうどいい時間帯なのか、ほのかに駅構内は混雑しており、そこを一人でうろつくというのも芸がない。

 やはり本屋で立ち読みがいいのかな?

 心の中で小さく嘆息すると、幸作はロビーから少し奥まった所にある本屋に足を入れるが、やはり観光地の駅らしく、函館の観光ガイドや歴史書からタウン誌までが並んでおり、おおよそ地元の人間が読んでも面白いというものがあまり見受けられず、かろうじて雑誌なども置いてあるものの、立ち読みしづらい雰囲気がその本屋の中に流れており、すぐに店外へ戻ると隣にあるコンビニタイプのKIOSKに気が付き、ガラス越しになっているその店内を覗き込むと、雑誌なども置かれているが立ち読みでもしようものなら、その背後を人が通れる隙間はなくなってしまうほどのスペースしかなく、諦めたようにそこに背を向け再び時計に眼をやるがそれによって潰せた時間は僅かに三分。

 仕方がない、時間を少し潰してからくるかな?

 西口玄関から外に出ると、先ほど感じた心地のいい潮風が幸作の前髪を揺らす。



「らっしゃい! お兄さん観光かい? どぉだい? カニ安くしておくよぉ!」

 ブラブラと歩く函館朝市の中では、威勢のいい声がひっきりなしに幸作に降りかかり、その都度曖昧な笑みを浮かべながら歩き去ってゆく。

 何もわざわざここで買わなくってもいいし、もし買うのであれば……。

「いらっしゃぁ〜い! 今日は活きのいいイカが入っているよ!」

 ――イカ最高?

 軒先に掛かっている派手なTシャツに気を取られ、思わず立ち止まっってしまった途端に威勢のいい声が幸作に掛けられる。

 しまった……立ち止まってしまった……。

 立ち止まった客には自分の店の商品を薦めて買わせると言うのがこの朝市での集客のセオリーであり、その客を中心にして他の客を集めるという戦法が常套手段であるというのは初音から聞いた事があり、幸作はその術にハマってしまったというわけだ。

「へへぇ〜、ずいぶんと若いお兄さんだね? 内地の人なのかな?」

 恐らく俺と同じ歳ぐらいであろうショートボブヘアーの女の子は、親しげに幸作に声を掛けながらその手には見るからに新鮮で活きの良さそうなイカが持たれている。

「いえ……俺は……」

「まぁいいよ、配送もやっているから親御さんに送ってあげると結構喜ばれると思うよ?」

 カラカラと笑いながら幸作の意見など微塵も聞く気がないのか、その女の子は近くにあったトロ箱の中からこれまた新鮮そうなイカを取り出しそれを幸作の鼻先に突きつける。

 イカ臭いぞ……、いや、俺が阻止なければいけない事はそれ以前の事で……。

 イカを幸作に突きつけながら微笑むその女の子の勢いに気圧されしそうになっている幸作だが、首を振り背筋を伸ばしてハッキリとその女の子に口を開く。

「俺は……」

「幸作?」

 脇から聞こえる素っ頓狂な声に、気勢をそがれた格好になった幸作はその声の主に恨めしそうな顔を向けると、幼い頃から見知った顔が不思議そうな視線で幸作の事を眺めている。

「初音? 何でお前が……」

 キツネにつままれた様な顔をしている幸作の問いに対して初音も同じような表情を浮かべていたが、すぐに呆れたような顔をして小さなため息をついている。

「あれ? 初音ちんのお友達だったりする?」

 どうやら初音とは知り合いらしく、イカ娘は初音と幸作の顔を交互に見つめている。

「ウン、温子さん彼はあたしの幼馴染、いわゆる生粋の地元の人間よ……」

 小さくため息を吐きながら初音は、温子と呼ぶその女の子に対して申し訳なさそうな顔をしながら伝えると、温子の表情は徐々に意地の悪い顔に変わってゆく。

「ふ〜ん、そうなのかぁ……なんだか初音ちんに男の香りがするような気がするかも……」

 意地悪く覗き込むような温子の視線に、初音の顔が一気に真っ赤に変わると、慌てたようにその両手を引きちぎれるような勢いで振り回す。

「ちっ! 違う誤解だよ! 彼はあたしの同級生の幼馴染で彼女がいるし……そう……彼には彼女がいて……あたしはただの幼馴染で……だから……彼女なんかじゃぁ……」

 真っ赤な顔をして否定しながらも、初音の顔が一気に寂しそうに変わった事に気がついたのか、温子は幸作だけに気がつくようにウィンクする。

「なぁんだ、内地の人だと思ったよ、初音ちんの知り合いだったらもっと安くしようか? もしなんだったらホタテをオマケにつけるけれど、どぉ?」

 恐らく温子は初音と幸作の関係に気がついたのであろうが、あえてそれに触れようとはせずに、高らかに笑いながら店の奥からトロ箱に入ったホタテを取り出してきて、それに幸作と初音は顔を見合わせながら失笑を浮かべる。

「いや、帰りにでも寄らせていただきますよ……せっかくですけれど……」

 苦し紛れに言う幸作に対して温子は意地の悪い顔をする。

「だったら初音ちんの所に行った方がいいんじゃないの? もっと安くしてくれるでしょ?」

 ウィンクをする温子の一言に、初音はホッとしたような顔をして温子の事を見つめている。



「あれで二十三歳ぃ? しかも旦那付き?」

 思わず素っ頓狂な声を上げる幸作の口を慌てたように覆うのは、仕事柄にもかかわらず意外なほどに細い初音の指だった。

「ちょっとぉ、そんな大きな声で言わないでよね? 一応あたしにだって立場があるんだからさぁ……でもそうなのよ、去年内地の人と結婚したの。たまたま旅行に来ていた人とね?」

 朝市の中心である『朝市仲通り』のほぼど真ん中で幸作の口を押さえながら、苦笑いの中にもそう言う初音の表情の中には羨ましそうな色もチラリと見せる。

 それにしてもあの顔で二十三歳とはすっかり騙されたよ……俺はてっきり同い年ぐらいだと思っていたよ、綺麗と言うよりも可愛いと言った方があの人には似合うと思う。

 七三分けにして魚の髪飾りで留めているというその姿は、麻里萌たちの着る制服を着ても十分に通用すると思い、幸作は苦笑いを浮かべながら口を覆っている初音の手をそっと除ける。

「意外な所に出会いっていうのがあるんだな?」

 何気ない幸作の一言に、初音の表情が曇る。

「そうよね? 出会った頃の記憶がないほどの長い付き合いでも、そんな良い関係になる事ができなかったんだもんね?」

 ため息を吐くように呟く初音の台詞は、周囲の観光客の歓声にかき消されてしまい、幸作の耳に届く事はなかった。

「ん?」

 無意識に立ち止まっている初音に気がついた幸作は、心配そうな顔をしながらその顔を覗き込むが、その顔に初音の顔は一気に赤らむ。

「な、なんでもないよ、それより幸作こそどうしたの? 休みのこんな早い時間にここに来るなんて珍しいじゃないの?」

 話題を逸らすように初音は手を振りながら幸作から一歩引くと、その様子に幸作は首を傾げるが、その頬に少し浮かんだ赤みを初音は見逃さなかった。

「いや……別に」

「そっか……麻里萌ちゃんとデートなのかな?」

 寂しそうに初音は目を逸らしながらそう言うと、幸作の顔はまるで店先に並んでいるカニのように真っ赤になり、その様子に初音は幸作に気が付かれない様にため息をつく。

「デ、デートって、そんなんじゃなくってだなぁ……」

 明らかに動揺する幸作に対して、全てを見知ったような顔をする初音。

「待ち合わせは何時なの?」

 ニコッと微笑みながら顔を上げる初音はそう言いながら手を後ろ手にして幸作の事を見つめる、その姿は鈍感な幸作から見てもいじらしく見える。

「ヘッ? あぁ、エッと……九時……」

 少し照れ臭そうに鼻先を掻きながら答える幸作の台詞に、初音は手首にはめた時計を見てその顔色を変える。

「ちょ、ちょっともう時間になるじゃないのよ! 早く行かないと!」

 そう言いながら初音は幸作を回れ右させて、その肩をグイッと押す。

「は、初音?」

 肩越しに初音の表情を伺おうと幸作は首を曲げるが、その表情は見る事はできず、ただグイグイと押されるその力に従うように足を動かす。

「男が待ち合わせに遅刻なんてシャレにならないよ? 少し前に行って待っていないと!」

 その台詞を聞くのは今日二回目だったような気がするなぁ……。

 さっき郁子に言われた事と同じ事を初音に言われて苦笑いを浮かべる幸作は、数歩足を進めて再び肩を押していた初音の顔を見ると、そこには複雑な笑顔を浮かべて幸作に手を振っている初音の顔があった。

「ほれぇ、早く行ってあげなよ」

 シッシと手を払う初音の顔には前髪がかかり、その表情をうかがい知る事はできないが、そこにいる気まずさをなんとなく感じた幸作は、再び初音に対して背を向け、ゆっくりと歩いていく幸作の後姿に初音はヒラヒラと手を振る。



=好敵手?=

「フム、だいぶ人が減ったな?」

 ロトンダと呼ばれる卵型の吹き抜けになっている函館駅のコンコースには、さっきまで大勢いた観光客の団体はその姿を減らし、広い構内を見せ付けている。

 ちょうど列車の谷間になるのかな?

 改札口から出てくる人影はなく、閑散としているようなロビーには仕事に行くのか、数人のスーツ姿の男性やら女性が談笑しているだけだった。

「さて、まもなく時間になりますが……」

 これだけ人が少なければ麻里萌のその小さな姿を見つけ出すのは容易であろうと、たかをくくっていた幸作はその周囲を見渡すが、特徴といってもいいであろうその小柄な姿がその視界にロックオンされる事はなかった。

「まだ五分前だもんな?」

 トクトク切符の宣伝が流れ続けるディスプレーの前にある椅子に座り、幸作はその小柄な姿を見つけ出そうと必死に視線を当たりに配らせるが、それらしい人物に視線が止まる事は無い。

 まぁ、麻里萌だって女の子だから色々と支度があるのであろう、ここでカリカリと怒るのは大人げないというものだ。それに慌ててくる彼女の事を出迎えるなんていうのもなかなか風情があっていいじゃないか? ってこれが醍醐味なのかな?

 妄想にふけはじめる幸作の視界に、見覚えのあるジャージ姿が見え、無意識にその姿を見上げると、そこには驚いた顔をしている長身の女の子が立っている。

「戸田?」

 見知ったその顔は、酸欠の金魚のように口をパクパクさせ、幸作はその様子に呆れたような表情を作りながら仰ぎ見る。

「この顔が俺以外にいるのか? 古瀬音子(ふるせねこ)。もしいるのであればそれは俺のバッタ物だから気をつけた方がいいぞ」

 ゆるくウェーブ掛かった髪の毛の毛先は肩のラインよりも少し下で揺れ、その名前の通りにすこしネコ目かかった瞳を大きく見開き、敵を見るような視線で幸作の事を見据えてくる。

「あら? 意外にバッタ物の方がよかったりして」

 やっと落ち着いたのか、ホッとため息を吐き出したかと思うと、いつもと同じようにシレッとした顔の音子の言葉に対して、幸作の頬がヒクッと脈動するが、どうにかそれを指で揉みほぐしながらも早くこの人物がこの場から去ってくれる事を祈る。

 なんだってこの娘は俺の事をこうも目の敵にするのかわからんぜ? 高一の頃から同じクラスなのだが、いつもコイツは俺に対して好戦的なんだよな?

「――お前はこんな時間にここでなにをしているのかな?」

 必死に冷静そうに繕う幸作の一言に、音子の顔が一瞬躊躇するが、幸作はそんな僅かな変化に気が付く訳がなく、視線を合わせようとしないその顔を見上げる。

「あたしは……エッと……バスケ部だからここで……そう、ここでみんなと待ち合わせだったから、たまたまここに来ただけで、他意はない」

 気まずそうに音子はそう言いながら幸作から顔を背けるが、その動揺は隠しきれていないようで、忙しなく肩にかかっている髪の毛をいじくっている。

「だったら、あそこにいる先輩方の所に行った方がいいんじゃないか? 気のせいか物凄い形相でこっちを睨んでいるようにも見えるんだけれど」

 大きなガラスの外には音子と同じジャージ姿の男女が腕組みをしながらこちらを睨みつけているように見え、それに気がついた音子は小さくため息を吐き出す。

「あ〜ぁ、いくら遅く来たとはいえ、相手は先輩だから立てなければいけないのが辛い所よね? あんたこそ、こんな朝早くからこんな所にいるなんて珍しいじゃない」

 若干蒼ざめたような顔をしながらも、音子はそう言いながら幸作の顔を覗き込むが、その理由が幸作の口から発せられる前にその理由が声を掛けてくる。

「幸作く〜ん、ゴメェ〜ンちょっと遅くなっちゃったよ……」

 函館駅のホールの中に聞き覚えのある声が聞こえ、幸作だけではなく、隣にいた音子もその声の主に顔を向ける。

 ――バットタイミングという奴でしょうか? またコイツから冷やかされるのか……。

 顔を手で覆い、その顔をしかめる幸作に対して、どことなく不満そうにその眦をあげる音子。そんな好対照な二人を見つめるどんぐり眼の女の子――麻里萌は、かけているメガネの奥にあるその目をさらに大きく見開き、予想外の登場人物を自分の中で確認するように見つめ、すぐにそれを音子と認識したのかそれを笑顔に変える。

「あれぇ? 古瀬さん、おはよぉ〜。どうしたの? こんな所で……」

 小走りに駅に入ってきた麻里萌は息を整えるように、フッと息を吐きだし、当たり前のように幸作の隣に立つと、小首を傾げながら音子の顔を見上げるが、音子はその視線をまるで無視するように顔をそむけ、殺気じみた視線を向けているバスケ部員たちがいる駅外に足を進める。

「別に……たまたまよ、試合の待ち合わせでいたら、戸田がマヌケな顔をして座っていたからからかっていただけよ」

 背中越しに手をあげる音子に、麻里萌はさらに首を傾げる。

「試合? もしかして道南大会の?」

 アゴに指を置きながら言う麻里萌の一言に、その歩みをピタッと止めて、振り向く音子の顔には動揺が生まれていた。

「そうだけれど……なんであなたが知っているの?」

 睨み付けるような顔をして麻里萌の事を見据える音子は、そのネコ目をさらに険しく眇める。

「千鶴さんの試合も確かそうだったよね? 道南大会」

 そんな険しい視線を感じていないのか、麻里萌は記憶を探るように視線を虚空に漂わせ、やがてその記憶が正しい事を確認したのか、笑顔を湛えながら幸作の顔を見つめる。

 確かそんな大会の名前だったような気がするよな? しかし、ウチのバスケ部がそんな大きな大会に出るなんて知らなかったぞ?

「ちづる?」

 何気なく発した麻里萌の言葉の中にあった名前に、今度は音子が首を傾げる。

「ウン、宝城千鶴さん、明和大付属高校のバスケ部の選手で、幸作君の幼馴染なの」

 無垢な顔をして言う麻里萌の台詞に、音子の顔は見る見るうちに蒼ざめてゆく。

「明和大付属高校のバスケ部って名門じゃない! そこの選手と幼馴染なの?」

 目を白黒させる音子であるが、千鶴の学校の実力を知らない幸作と麻里萌は、ノホホンとした顔をして首を上下に動かす。

「ウン、確か千鶴さんも選手だって言っていたよね?」

 少し不安げな顔をしながら麻里萌は幸作に視線を向けるが、以前店で千鶴からそのような話を聞いた事のある幸作は、その記憶が正しいと首を縦に振る。

「ふ〜ん……そうなんだぁ……目的がもうひとつできたわね……よし!」

 うなずく幸作の様子に、音子は自身に気合を入れるように両手に拳を作り、それをグッと腰の高さに引き、顔を引き締める。

「目的?」

 再び小首を傾げる麻里萌の素朴な疑問に対して、音子は慌てて手を振るが、その頬は少し赤みを帯びているようにも見える。

「ううん、なんでもないの。あたしの決意みたいなものだから……そっか、明和大付属ね?」

 確認するような視線を幸作に向ける音子に対して、幸作はキョトンとした顔をするしかなかったが、対する音子は明らかに慌てたように両手をばたつかせる。

 なにをそんなに気合を入れているんだ? よくわからんやつだなぁ。

 シドロモドロの音子の態度を怪訝に思いながらも、幸作はそれを否定するわけもなく、キョトンとした顔のままコクリとうなずく。

「あぁ、でも、千鶴たちの試合は午後からって言っていたぜ? 音子たちはこんなに早くから試合があるのか?」

 千鶴から聞いていたスケジュールと音子たちのスケジュールのタイムラグに気が付いた幸作の台詞に、音子は他の女子よりも大きめなその胸を押さえ、ため息を吐き出す。

「そうよ……明和大付属ぐらいになればシードになるから試合は午後からになるだろうけれど、うちみたいに弱小チームは午前中から試合をするの!」

 なんだって俺が怒られなければいけないんだ? 理不尽さを感じるぞ?



「なるほどね? という事はウチの学校は弱いという事なんだな? そうして千鶴たちの学校は強いという事なんだな?」

 鼻息荒く駅から出てゆく音子を呆れ顔で見送る幸作は、ため息交じりに隣にいる麻里萌に質問ともつかない事を言うと、麻里萌も苦笑いを浮かべつつ幸作の顔を見上げてくる。

「そういう事みたい……でも、古瀬さんやけに気合が入っていたけれど、何かあったの?」

 少し疑念の顔をしながら幸作の顔を覗き込んでくる麻里萌に対して、理由のわからない幸作は肩をすくめて答えるしかできない。

 さっぱりわかりません……なにが彼女をそこまで熱くさせているのか、そもそも体育会系のノリというのは俺には良くわからない事でして……。

「ふぅ〜ん……そうなんだ……」

 どことなく不機嫌そうな顔をする麻里萌は幸作に背を向け、幸作の予想していた方向と違う方向に歩き出し、慌てたように幸作は麻里萌の後を追うように歩き出す、その姿はあまり格好のいいものではなく、少し情けなくさえ見える。

「ちょっと、麻里萌? 何か物凄い勘違いをしていませんか?」

 幸作のその一言に、麻里萌は見えないところでペロッと舌を出すが、慌てたような幸作はそんな事には気がつかずにその後姿を追う。

「ちょっと麻里萌?」

 さっき幸作が朝市に向かったのと同じ西口玄関に麻里萌は向かい、その後方からさっきの強風を思い出した幸作は、さらに言葉を続ける。

「風が強いから……」

 幸作の警告を待たずに開く扉の外に麻里萌が足を踏み出すと、その言葉通り麻里萌のライトグリーンの春らしいワンピースのスカートの裾をその強風が捲り上げる。

「キャァ〜〜〜〜!」

 知り合ってから今まで聞いた事のない麻里萌の金切り声は、閉まりかけた扉をすり抜け、函館駅中に響き渡ったであろう、そうして幸作の目にはピンクと白のシマシマ模様がこびり付く。

 ビバ海風! あっ……いや、そんな事を言っている場合ではなさそうだな……。

 密かに視線に妬きつかせたそのシマシマ模様は、あっという間に麻里萌の手によって隠され、それと同じくしてジトッとした目が幸作に向けられる。

「――見た?」

 疑い深い目で幸作を見つめてくる麻里萌はほんのりと頬を赤らめながらも、その瞳は涙に潤んでいるようにも見える。

「エッと……」

 そんな麻里萌の潤んだ瞳から視線を外しながら幸作は答えに詰まらせると、麻里萌はまるでその場でしゃがみ込みそうな勢いでその赤くなった顔を両手で覆う。

 そ、そんな大袈裟な事か? パンツを見られただけで……。

 そんな様子に動揺を隠せずオロオロする幸作の様子を、麻里萌は指の隙間からチラッと覗き見て、クスッとその肩を揺する。

「幸作クンのエッチ」

 わざとらしく口を尖らせながら意地悪そうに幸作の顔を見上げる。

「エッチって……事故だろ? 俺だって別に見ようと思って見たわけじゃないけれど……見えちゃったから申し訳ないかなって……」

 モゴモゴと言い訳じみた事を言う幸作に対して、麻里萌の意地の悪い笑顔は絶え間ない。

「アァ〜、やっぱり見たんだぁ、エッチ!」

 さっきまでの表情とは違って満面の笑みを浮かべる麻里萌は、嬉しそうに幸作の顔を覗き込み、まるで猫のように目を細める。

「エッチいうなぁ〜! 事故だコレは事故! 別に見たかったわけじゃなくって……」

「ふぅ〜ん?」

「いえ……ちょっと嬉しかったのは事実だけれど……」

「――やっぱりエッチ?」

 正直に言えば嬉しかったのは事実ですが、それは健康な男子なら当然でしょ?

第四話に続く