坂の街の小さな恋U

第四話 幸作の観光案内



=湯の川=

「それで? 今日はどこに連れて行ってくれるのかな?」

 なにやら嬉しそうな顔をしながら幸作の顔を見上げる麻里萌に対して、幸作は既に疲れきったような顔をしてその顔を見つめ、気が付かれない様に小さなため息をつく。

「――とりあえず『一日乗車券』を買っていこうか? これなら『市電』と『函バス(函館バス)』両方に乗る事ができるし、行きたい所にいけるから……」

 覇気のない顔をしながらも、幸作はロータリーにある案内所に向かって歩き出す。

「『一日乗車券』?」

 キョトンとした顔をしながら麻里萌は幸作の後を追うように歩き出すと、幸作はニコッと微笑みながら振り向く。

「そうだよ。函館見物をするのならこれが一番! バスはエリアが限られているけれど、あまり問題はないと思うし、千円で一日中乗り放題だからかなりの観光地を巡る事ができるからね? 市電だけ乗る事のできる『一日乗車券』も使えるけれど、今日はこっちだ」

 綺麗に整備された駅前のバスロータリーの一角にある案内所に入り、幸作は窓口に座る女性にそれを買う意思を伝え、そのカードと冊子を受け取るとその一枚を麻里萌に差し出す。

「あっ、料金……」

 慌てたように麻里萌はそう言い、自分の財布を取り出そうとポシェットに手を入れようとすると、その手を幸作は押さえながら照れ臭そうに鼻先を掻きながら視線を逸らす。

「いいよ、これぐらい俺が出すよ……」

 頬を少し赤らめながら幸作はそう言い、窓口の女性に二人分の代金を払うと、麻里萌の背を押すように案内所から出る。

「でも、悪いよ……」

 申し訳なさそうな顔を振り返らせながら麻里萌は見つめるが、そんな顔に笑顔を向ける。

「なんもさ、気にする事はないよ……そのぉ……お詫びもかねてね?」

 照れくさそうに言う幸作の台詞に、一瞬麻里萌はわからないと首を傾げるが、視線を合わせようとしない様子に、その意味を理解したのか顔を赤らめて頬をぷっくりと膨らませる。

「もぉ〜、やっぱり幸作クンのエッチ!」

 頬を染めた麻里萌はそう言いながら幸作に舌を出し、その後姿を追い函館駅前の電停に向かうと、ちょうど二人の目の前に『湯の川温泉』行きの電車がゆっくりと入ってくる。

『整理券をお取り下さい……整理券をお取り下さい……この電車は……』

 油臭い電車の中は、観光客がガイドブックを持ちながらどこに行こうかと模索するように意見を飛び交わしており、その様子に麻里萌は頼もしそうに幸作の顔を見上げる。



「ここは?」

 市電を終点の『湯の川』の電停で降りて、大きなホテルやパチンコ店などの合間を縫うように海に向かいながら歩く事約十分、ガラス張りの温室のようなものが海沿いに建っている。

「ここは『函館市営熱帯植物園』で、湯の川温泉の源泉の熱を利用しているんだって」

 初めてながらも、馬脚をあらわさないように幸作はそう言いながら料金を払い中に入ると、消して広くはないものの、公園のようなスペースがあり、そこでは家族連れであろう観光客が、小さな子供と一緒に遊んでおり、その中心にガラス張りの温室がある。

「へぇ、でも幸作クンが植物園に来るなんてちょっと意外かも……」

 へへ、こう見えても一生懸命勉強したんよ? 女の子が喜びそうな場所を探すんで……。

 必死になって考えたプランに麻里萌が思ったとおりの反応を示してくれた事に気を良くした幸作は、鼻先を人差指で掻きながらその温室に続く扉を開くと、一気に真夏になったような湿っぽい空気が二人の事を取り巻く。

「だぁ、暑いぜぇ……」

 よく北海道には梅雨が無いと言われるが、道南に限って言えば蝦夷梅雨という長雨があるのがこの六月で、今日だって決していい天気ではなく、どんよりとした曇り空は内地と違って湿度がないためジメッとした感じはなく、むしろ肌寒く感じる事があるため、服装は真冬ほどの厚着ではないものの、それなりに暖かめの格好をしており、それが仇になったようだ。

「ホント、まるで夏のようね?」

 温室の中は常夏とまでは言わないがかなり暑く、幸作の額には一気に汗が吹き出し、着ていた上着をまどろっこしそうに脱ぎだすが、麻里萌においては言っている台詞と裏腹に涼しげな表情を浮かべている。

「って、暑くないか?」

 ワンピースの上にハウスピンク色のカーディガンを羽織っている麻里萌はそれを脱ごうともしないで、パタパタと手で空気を動かす仕草を見せるだけだ。

「ううん、そんな大慌てするほどじゃないかな? って言うか結構快適?」

 快適って……俺にはかなり暑いんですけれど……。

 顔がとろけてしまいそうな顔をする幸作に対して、涼しげな顔をしながら麻里萌はそう言い満面の笑顔を向けると、何かを発見したのだろうか宙を見上げながら破顔する。

「わぁ〜、幸作クン見てぇ! インコが飛んでいるよ?」

 満面の笑みを浮かべた麻里萌は無意識になのだろう、幸作の腕を取ってその顔を近づけてくると、幸作はドキドキした気持ちを抑えながら、その指差す方に視線を向ける。

 ちょっとぉ、麻里萌さんずいぶんと距離が近いんじゃないですか? ほんのりとシャンプーの香りがして、その匂いが俺の脳髄を刺激しまくっているんですが……。

「インコ? どこに?」

 キョロキョロしながら麻里萌と同じ視線の高さまで膝をかがめると、その笑顔が幸作の真横に来て、シャンプーの香りがさらに濃くなるのと比例するように幸作の頬の赤みも濃くなる。

「あそこだよ? ほらぁ、すっごく綺麗な羽をしている……あは、二人で仲良く寄り添っているから、もしかして恋人同士なのかな?」

 不意に麻里萌が幸作の事を見ると、二人のその距離は数センチしか離れておらず、その距離近さに気がついた麻里萌は、真っ赤な顔をしてうつむいてしまう。

「そ、そうかもしれないな……あっちにもいるし、ずいぶんといっぱいいるんだなぁ」

 よく見れば、室内のあちらこちらに綺麗な羽をしたインコが飛び交っており、中にはジュウシマツも飛んでいるようで、様々な鳥の声が温室内に響き渡っている。

「ガイドさんが言うには、ここではインコを放鳥しているらしいよ? ただ餌をあげているだけで、他にはなにもしていないらしいね?」

「入口も常に開いていているから勝手に入ってきちゃうってさっきかかりの人が言ってたよ」

 背後を観光客がそんな事を言いながら通り過ぎていくが、幸作と麻里萌はまるでその場に固まってしまったようにそのままの姿勢を貫いている。

「そ、そんなんだぁ……アハハ」

 照れくさそうに幸作が屈めていた足を伸ばすと、いつもの身長差が麻里萌との間に生まれる。



「ここがここの名物と言っていいかもしれないよ?」

 まるで露天風呂のような所には、やたらと毛深い人……いや、猿がこれまた心地良さそうな顔をしてそこに浸かっている。

「猿? ねぇ幸作クン、お猿さんだよ? 気持ちよさそぉ」

 再び嬉しそうな顔をして、麻里萌が幸作に絡みつくように寄り添ってくると、再びシャンプーの香りが幸作の鼻腔をくすぐる。

 無防備すぎないか? デートというのはこんなにも官能的で、かつ危険なものだと生まれてはじめて知ったような気がするよ……。

 少し強すぎる刺激に、幸作は再び麻里萌と少し距離を保ちながら、温泉に浸かる猿を見つめると、その顔は恐らく今の幸作と同じであろう真っ赤な顔をした猿が、まるで極楽浄土を眺めているような表情を浮かべている。

 ハハ……人間と同じなんだな? 意味合いは違うかもしれないけれど……。

「気持ち良さそうだよね? なんだかあたしも温泉に入りたくなっちゃうよ……」

 でれぇ〜っと目尻を下げる麻里萌の表情は、まるで自分も温泉に浸かっているようなそんな表情を浮かべている。

「だったら行くかい? 温泉」



=湯上り=

「ここは?」

 住宅街といってもおかしくない場所には、不釣合いな温泉マークと駐車場に乗用車が所狭しと止まっているその様子は、周囲の風景から浮き立っているようで、麻里萌は不思議そうにその看板を見上げており、そんな表情に幸作はこみ上げてくる笑みを必至にこらえ、麻里萌は怪訝な顔をしながらその顔を覗き込んでくる。

「ここは『花園温泉』といって、函館でも老舗の『温泉銭湯』なんだよ、最近ではスーパー銭湯のように施設が充実している所が多くなってきたけれど、こういった所もいいよ? 早朝からやっているから結構地元の人も通っているみたいだしね?」

 このご時勢には良心的な料金を払いロビーに入ると、既に地元の人や観光客の家族連れでごった返しており、ここの人気を計るには十分である。

「でも、タオルとかは……」

 少し躊躇している麻里萌であるが、そんな事を気にしないと幸作はフロントにあったタオルのセットを二つ手に取り、そのひとつを麻里萌に手渡す。

「温泉好きの函館っ子だからこういう施設がいっぱいあるんだよ、出たらここで待っていて?」



「だぁ、気持ちがいいぜぇ〜」

 大きな湯船に浸かりながら、年寄り臭い台詞を吐く幸作だが、それは周りにいるみんなの意見を代弁しているようなものであろう。

 まずは大きな湯船で体を温めてから露天風呂に行って、ここの名物であるソルトサウナに移行するというのがこの温泉の流儀であろう。

かけ流しのお湯が流れる洗い場を抜けて、幸作は少しのぼせはじめている身体を冷やすように露天風呂に向かう。

「朝風呂とまでは言わないけれど、やっぱり気持ちがいいねぇ〜」

 日が陰っているせいなのか、涼しい空気によって一瞬にして冷えた身体に、少し熱く感じる温泉の暖かさが染み込んでくる。

「極楽極楽……だぁよぉ〜」

 年寄りのように呟く幸作の耳に、意外な所から声が聞こえてくる。

「うん……気持ちがいいよね?」

 遠慮がちに聞こえてくる声は、恐らく幸作にしか聞こえなかったであろうほどの小さな声だが、その声の持ち主である麻里萌の現在の姿を想像すると、

 鼻血が出そうなんですけれど……。

 ツンとしたその鼻頭を押さえながらも幸作は、その湯船から出る事ができなくなっていた。



「のぼせたぜぇ〜」

 相変わらず人の多いロビーのソファーで幸作は、まるでトロけてしまったようにその身体を預け、大きく胸を開いたシャツから地肌に周囲の空気を送り込む。

 函館の温泉というのは気がつかないうちに身体が温まってしまうんだよね? うかうかと長風呂をしているとこの様になるという事は何回も味わっているのだが……今日は止むを得ない事情があったからという事を付け足しておこう。

 どんどん吹き出す汗をタオルで拭う幸作であるが、そのタオルは徐々に重みを増してゆくだけで、その汗がおさまる気配は無い。

「お待たせ幸作クン」

 背後から聞こえる声に対して、幸作はどんよりした顔を向けると、思いのほかに近くにあった麻里萌の顔に、今まで吹き出していた汗とは違った汗が全身から吹き出す。

「――おっ、おう……」

 少し濡れた髪の毛をかき上げながら幸作を見るその顔は、ほんのりと桜色に染まりその表情は、落ち着いていた部分を刺激するには十分な威力があり、無意識に視線を外す。

「ホント気持ちよかったよね? 近くにこんな温泉があるなんて幸せかも……ん? どうしたのそんな顔をして……のぼせちゃたの?」

 メガネを外したままのせいなのか、いつもよりも至近距離で小首を傾げられるというのは健全な青少年には刺激が強すぎます……しかもシャンプーの香り付き。

「んわぁ、なんでもないよ……うん、ちょっと温まりすぎたかもしれないな?」

 情けない声をあげながらながら、幸作は近くにあった自動販売機に眼をやると、そこには風呂上りにはこれしかないというような飲料水が数多く取り揃えられている。

 商売上手だよね? 風呂に入って汗を出させた後に、こういった飲み物を見せられれば、誰だって飲みたくなるのが人間の心情でしょ? ちょっと市場価より高い気がするけれど……。

「幸作クンは何か飲む?」

 その視線に気がついた麻里萌は小首を傾げながら幸作を覗き込み、自動販売機に足を向ける。

「ウン、風呂上りにはやっぱりこれだよね?」

 自動販売機に並んでいるのは、その名の通り乳白色の牛乳に、フルーツ牛乳とコーヒー牛乳、健康志向の為なのか豆乳も売っている。

 風呂上りにはビールといきたい所だけれど、まだ高校生ゆえそれをチョイスするには何かと問題がある為、無難な線で、白色、黄色、黒のいずれかのチョイスになるであろう。

「幸作クンは『コーヒー』派? それとも『フルーツ』派? それとも『牛乳』派?」

 無邪気な顔をして麻里萌は自動販売機の前で幸作の顔を見上げてくるが、着ているワンピースの胸元は大きく開き、そこからは白い肌がチラリと見え、そこからは湯上りの『オンナ』が発する独特の香りが立ち上り、その匂いは幸作の脳髄をクリティカルヒットする。

 ――鼻血出そうなんですけれど……無防備すぎると言うか、無邪気というか……子悪魔的な攻撃をここまで受けると、俺の理性がどこまでもつのか心配になってくるぜぇ。

 視線を虚空に漂わせながら幸作は鼻筋を押さえる仕草を見せるが、麻里萌の攻撃はそれに留まる事をしないで、波状攻撃をかけるように攻撃をくりひろげる。

「あたしは『フルーツ牛乳』派なの、やっぱり風呂上りにはこれよね? この何ともいえない甘さが、小さい時に銭湯で腰に手を当てながら飲んだ事を思い出すのよね?」

 ガコンと取り出し口に出てくる牛乳瓶を嬉しそうな表情を浮かべながら取り出す麻里萌のその胸元は一層無防備になり、大きく開いた薄暗い闇の奥に見える布地の柄は……おそろい?

 先ほどの光景と相まって光景に一気に顔を上に向け、ジンとしたその鼻頭を強く抑える。

「ん? どうかしたの? 幸作クン鼻なんか押さえて……花粉症?」

 まったくそんな気持ちがないのだろう、ニコニコッと幸作を見上げる麻里萌の顔は無垢で、そんな邪な心を持っていた幸作は己を恥じるが……、

 俺だって健全な男の子なんだ、そんな事にときめいたって良いじゃないかぁ〜!

 打ち惹かれたようにその場にへたり込む幸作の事を、麻里萌は不思議そうに見つめるが、その顔には邪なものはなく素直にその首をかしげている。

 ――今度悪い大人について行かないように、それとなく注意しておこう……。



=大森浜の景色=

「次はどこに行くの?」

 交通機関を市電からバスに切り替えた二人は『函館バスターミナル』行きのバスの中にその身を落ち着けるが、幸作の顔は未だに赤い顔をしているようにも見える。

「エッと、次はちょっと文学……なのかな?」

 赤ら顔を隠すように視線を合わせない幸作の一言に、麻里萌の笑顔がはじける。

「文学って、もしかしたら『石川啄木』なの?」

 あまりにも嬉しそうな顔をする麻里萌のその表情に気圧されたような形になっている幸作は、内心『しまった』と舌打ちをするが、麻里萌は笑顔を膨らませている。

 結構文学少女だったりするんだよな? この娘……現国の成績も良いし、休み時間によく文庫本に視線を落としている姿を見た事がある。

「だったらやっぱり『大森浜』かしらね? 確かあそこには『石川啄木記念館』があったと思うし、エヘへ楽しみだなぁ」

 ――よくご存知で……俺の立場無しだぜぇ……。

 どこか顔色が冴えない幸作に対して、ワクワク顔の麻里萌の二人というのは好対照で、銀色に赤いラインの入ったバスは、大きなホテルの立ち並ぶ湯の川温泉街を抜けてゆく。



「麻里萌は石川啄木も読んだの?」

 お世辞にもあまり綺麗でないバスの中はさほど混んでいるわけでは無いが、座席は大方埋まってしまっており、がたがた揺れる車内で二人はつり革につかまりながら肩を寄せ合う。

「ううん、正直に言うとあまりよく知らないのよね? 知っているのは岩手県盛岡出身の歌詩人で、その各作品は純愛物が多いと言うぐらいかしら?」

 ペロッと舌を出しながら幸作を見上げる麻里萌に対して幸作は地元の面目躍如とばかりに、今までに教わった啄木の知識を(昨夜仕入れた情報が多数あり)フル動員する。

「石川啄木は千八百八十六年、現在の盛岡市に生まれて、千九百六年五月、二十一歳の時にここ函館に移って来た。彼が函館に滞在していたのは僅かに百三十二日間、その間に啄木は妻子をこの街に呼び寄せ平穏に暮らしていたが、八月に起きた函館大火によって職を失い、妻子を函館に残して小樽や札幌、釧路を経て東京に至るんだ」

 視線を泳がせ必死に覚え(暗記?)ている知識を振り絞る幸作の隣では、麻里萌がちょっと驚いた表情を浮かべて幸作を見上げている。

「その僅かな間啄木は様々な詩を作り、最期に東京で亡くなる前には『函館で死にたい』と言っていたそうだね? その遺志を汲んで『立待岬』に『啄木一族の墓』があるんだ」

 ホッとため息を吐きながら言い切る幸作は、視線を感じて隣に視線を落とすと、そこには瞳をキラキラさせた麻里萌の顔があり、その表情にギョッとする。

「すっごぉ〜い、幸作クンよく知っているね?」

 崇敬の念を抱いたような面持ちの麻里萌に対して、幸作は訳も無く照れ臭くなり、車内吊りの広告に視線を移すが、その本音は悪い気がしないのか口の端は微妙に上がっている。

「が、学校で教わっただけだよ」

 ほんの一部だけだけれどね? 後は調べました。昨日の夜に図書室で借りてきた本を読んで。

「それでもすごいよ、やっぱり地元の人はみんな知っているんだろうね?」

 ――きっとそんな事は無いと思います……俺みたいな見栄っ張りの人間だけだ。

 頬を掻きながら窓の外に視線を移すと、やっと空が晴れ上がり始めていた。

「やっと晴れてきたな?」

 六月に入り、内地(本州)では入梅したというニュースが飛び込んでくる。よく『北海道には梅雨が無い』と言われるが、それは便宜上のものであって、函館では『蝦夷梅雨』なるものがある。長雨が続き洗濯物が乾かないと郁子がよくこぼしているのを耳にする。

「ウン、海がキラキラしているよね?」

 嬉しそうな顔をしている麻里萌は目の前に広がる津軽海峡に向けると、その瞳にはまるでその瞬きが写りこんでいるみたいに煌いており、その表情に幸作は胸を高鳴らせる。

「もう少しすれば夏になるよ」



「ここが『啄木小公園』だよ、その隣にある建物が『啄木浪漫館』と『土方歳三記念館』、ここには石川啄木のロボットがあるらしいけれど、今日の目的はここ」

 国道二百七十八号線、通称『漁火通り』沿いにある小さな公園の一角に銅像が鎮座しており、その前で写真を撮っている観光客が数人いる。

「ヘェ、ここがそうなんだ……もう少し大きな公園だと思っていた」

 苦笑いを浮かべながら、記念写真を撮り終えた観光客と入れ替わりにその座像に近寄る麻里萌は、その台座にある詩を見つめる。

『潮かをる、北の浜辺の砂山の、かの浜薔薇よ今年も咲けるや』

啄木の坐像の台座に埋め込まれ、風雪にもまれたせいなのか、少し読みにくくなっているプレートを、麻里萌が読み上げる。

「この詩は啄木が東京時代に書いたといわれているらしいよ? 東京時代にこの函館の情景を思い描いて書いたらしい」

 山頂まで綺麗に見る事のできるようになった函館山に視線を向けながら、幸作は記憶をフル稼働させながら再び一夜漬け知識を思い出し話し出す。

「この歌は『一握(いちあく)の砂』という歌集に掲載されている。その実は俺も読んだ事は無いけれど、この他にも函館を現す作品が結構あるらしい。啄木が家族を函館に移した際に読んだのが、『函館の、青柳町こそかなしけれ、友の恋歌、矢ぐるまの花』だよ」

 この詩は幸作も知っていた、ただ知っている地名が詩の中にあっただけという理由だけで、その意味など理解はしていないんですが……ハハ。

「意外に幸作クンも文学少年だったりして……」

 意地悪い顔をする麻里萌の顔は、幸作が昨夜郁子にどやされながら覚えたという事を知っているかのような顔をしており、一瞬驚いてしまう。

「そんな事は無いよ……しいて言うのであれば、地元の民の意地ですかね?」

 幸作も疲れたというような顔をして、啄木知識を落とすように首を振ると、どこか嬉しそうな顔をして麻里萌が微笑む。

「エヘ、すごい勉強になったよ……ありがと幸作クン、あたしのために一生懸命覚えてくれたんでしょ? それだけで十分嬉しいよ」

 ニコッと微笑みながら麻里萌はそう言い、幸作の腕に自分の腕を絡めると座像から離れ歩き出し、浜辺に下りる階段から海岸に下りる。

「まだ少し風が冷たいかな?」

 季節は春から夏に変わる六月とはいえ、津軽海峡から吹く風はまだ冷たく、沖で立つ白波もどことなく険が立っているようにも見える。

「まぁね、この季節に海辺に立つにはまだ早いかもしれないよ」

 東京ではそうでもないのかもしれないけれど、津軽海峡から吹く風はまだ冷たいぜ?

 少しもったいないような気持ちを持ちながらも、幸作は麻里萌の腕をほどき、何気なく着ていたジャケットを麻里萌に渡すと、一瞬驚いた顔を浮かべて幸作の顔を見つめてくる。

「右手が函館山から続く『立待岬』で、あそこに啄木一族のお墓がある。視線を左手に移せば湯の川温泉街。ここから見る函館山やこの風景は、俺も好きポイントなんだ」

 頬を撫ぜてゆく風は幸作には冷たさを表す赤みをプレゼントしてゆくが、麻里萌にとっては頬の火照りを取るには心地のいいものだった。

「ウン、本当に穏やかな景色……函館という風景かもしれないわね?」

 差し出されたジャケットを肩から羽織ったまま麻里萌はそう言い、幸作の腕にソッと腕を絡ませて隣に寄り添い、打ち寄せる波に視線を向ける。

「そういえば知っている? 函館山って地元では『臥牛山(がぎゅうざん)』と呼ばれているんだ、よく見ると牛が寝そべったような格好に見えなくも無いよね? ここからじゃあ分からないけれど、フェリーからとか全景を見える所に行くと納得できるよ」

 腕を組まれてなのか、幸作は照れくさそうに鼻先を指で掻きながら、目の前にこんもりと盛り上がっている函館山に視線を向けたまま話し、そんな幸作の言葉に麻里萌は再び驚いたような顔をしている。

「幸作クンって本当によく知っているわよね? 函館博士みたい……どうして?」

 小首を傾げながら見つめてくる麻里萌の表情は、まるで尊敬のようなそんな色が浮かび、幸作の頬をさらに赤らめさせるには十分だった。

 ハハ……麻里萌を案内しようと思って勉強したなんていえないし……。

「じ、地元の民だからでしょ? みんな知っているよ……たぶん」

 恐らく地元の人間だからこそそんな知識を持っていないと思うよ……。

 苦笑いを浮かべながら海に視線を向ける幸作の頭上を、どこに飛んでゆくのかカモメが飛び去って行く……まるで幸作を馬鹿にしたような鳴き声を残して。

「そうなの?」

 ジッと見つめてくる麻里萌の目にはかげりがなく、その瞳に幸作は嘘がつけなくなり、思わず視線を逸らし、ガックリと首をたれる。

「……嘘です……昨夜必死になって勉強しました……」

 ポリポリと鼻先を掻きながら幸作が呟くと、麻里萌は笑顔を浮かべて幸作の手を握ってくる。

「エヘヘ、という事は、幸作クンはあたしのためにわざわざ勉強してくれたのよね? ウフフなんだか妙に嬉しいなぁ」

 満面の笑みを浮かべながら幸作の腕をギュッと握り締める麻里萌は、その笑顔を幸作の顔に近づけてくると、その髪の毛からはシャンプーの香りがして、幸作はその香りを思いっきり吸い込みたくなる衝動を抑えるのに必死だった。



=ベイエリア=

「函館の歴史はここにもいっぱいあるよ」

 観光客の多い『はこだて西波止場』を通り抜け、潮風薫る観光船乗り場に足を向けると、その片隅に珍しい格好の石碑が建てられている。

「ここは?」

 案内をされた麻里萌はそう言いながら、案内板に目をやる。

「ここは『北海道第一歩の地碑』といって、明治維新後、名実共に北海道の玄関口となった函館に内地の人……本州の人達が、北海道に上陸して初めて地を踏んだのがここなんだ、よく旧桟橋というけれど、函館駅に桟橋ができるまではここが北海道の玄関口だったという事」

 幸作が説明していると、停泊していた白い船がゆっくりと白波を立てながら動き出す。

「この船が『ブルームーン』でしょ? 綺麗な船よね?」

 羨望の眼差しで見る麻里萌の視線の先で、船は徐々に加速しながら函館湾の中央に向かって進路を変えて行き、航跡を二人の前に波として残してゆく。

「湾内観光船だよね? 乗った事が無いからわからないけれど、豪華クルーザーでのクルージングをしているみたいだってお店のお客さんが話しているのを聞いた事があるよ」

 お店に来るお客さんが話している事を何度か聞いた事があり乗って見たい気がするが、男同士(亮や啓太)と一緒に乗るというにはあまりにも気色が悪いのでスポット的には選外になっていたが、麻里萌と一緒に乗るというのであれば良いかも知れない。

「あたしも乗ってみたいなぁ……海から見る函館の街も違って見えるでしょうね?」

 麻里萌の瞳がなにやら幸作に訴えかけているようにも見えるが、今日はこの後の用事もあるため、今日は断念せざるを得ない。

「一時間近く掛かるみたいだし、今出ていったという事は、しばらく待つ事になるだろうから、日を改めて今度乗りに来ようよ」

 少し未練がましそうな目をしていたが、幸作の一言に麻里萌は笑顔を浮かべていた。



「さてと、少しお腹が空いてきたよね?」

 可愛らしいティディーベアーの顔が描かれている『西波止場美術館』の前で幸作が提案すると、その意見に同意したのか麻里萌も笑顔を浮かべる。

「ウン、美味しいお店を教えてよ」

 組んでいる腕にしがみつくようにして麻里萌は幸作の顔を見上げる。

「今日はちょっとボリューム重視だよ」

 ニッと意地悪い顔をする幸作は、以前に麻里萌と入った事のある『ハセスト』と『ラッキーピエロ』の並びにあるスカイブルーの建物の扉を開く。

「ここが『カルフォルニアベイベー』なんだ……」

 意外にも麻里萌は知っていたのか、その店内を珍しそうに眺めている。

「麻里萌は知っているの? このお店の事」

 窓際の空席を見つけて座る幸作は、一足遅れて座る麻里萌の顔を見上げる。

「ウン、東京で見た映画で見た事があるの……当たり前だけれど同じだぁ」

 その映画なら俺も見た事がある。確か『いつかギラギラする日』という映画だったと思う、その中でこのお店はライブハウスという設定だったよな?

「なるほどね? それで知っていたんだ」

 出されたお冷に手を伸ばしながら幸作が言うと、麻里萌は満面の笑みを浮かべながらコクリと頷き、再び視線をネオン管で飾られている店内を見つめる。

「映画が好きだから憶えていたわけじゃないけれど、友達がこのお店の事を教えてくれて、それ以来来てみたかったんだ、こういうアメリカンな内装のお店って好きなのよ」

 六十年代のアメリカのバーのような内装は確かに洒落ており、有名なのも頷けるが、このお店の有名な店はそれだけではない。

「だったら知っているでしょ? このお店の名物」

 店の中央にあるカウンターや、テーブル席でみんな同じものを食べているものが、この店の名物であり看板メニューだ。

「エヘ、今日はチャレンジしてみようかな?」

 不敵な笑みを浮かべる麻里萌に同意したように幸作は、ウェイトレスにオーダーする。

「シスコライス二つ」

 オーダーを入れてから他愛の無い話をしながら窓の外を見ると、厚手の格好をした観光客に、まだ早いと思うけれどもTシャツ一枚で歩いているのは地元の人間であろう。

「こうやって見ると、観光客なのか、地元の人間か良くわかるわよね?」

 麻里萌もそれに気がついたのか、苦笑いを浮かべながらそんな街の様子を眺めている。

「厚手の格好をしているのが観光客、薄着なのが地元の人間、この時期にはすぐ分かるよな」

 地元代表でもある幸作達にしてもそうだろう。きっと観光客からみればまだその格好は早いのではといわれるような格好をしている。

「お待たせしました、シスコライスです」

 やがて二人の前に置かれたそれに、幸作は舌なめずりし、麻里萌はそのシルエットに圧倒されたような顔をして見つめている。

「これがそうなんだ……噂では聞いたけれど、すごいボリュームね?」

 ミックスペジタブルピラフの上にフランクフルトソーセージが二本乗り、その上からミートソースが掛けられているというシンプルなものだが、そのボリュームは、

「アメリカンザイズよね?」

第五話に続く