坂の街の小さな恋U

第七話 オフクロの味



=買い物=

「お疲れ様でしたぁ〜」

 二人でバイトをはじめた時にはドップリと日が沈んでしまっていたのだが、夏間近の七月にもなるとまだ辺りは明るく、赤レンガ倉庫にも観光客の姿がまだ多く見られる。

「幸作クンはお買い物してから帰るの?」

 カレイドスコープからの帰り道、隣を歩く麻里萌が幸作の顔を見上げるように聞いてくると、幸作は少し考えたような顔をし、少し離れた所に見えるスーパーの看板に視線を向ける。

「確か今日は郁子が部活だから……俺が夕食当番かぁ……面倒臭いなぁ」

 今日は金曜日、郁子が部活の時は俺が夕食を作らなければいけない……バイトで疲れて、家で飯を作ると言うのも面倒なのだが、郁子にも頑張ってもらいたいからいたし方がない。

 渋い顔をする幸作に、麻里萌はやさしい微笑みを浮かべる。

「ウフ、そんな事を言っていても、結局家に帰ると郁子ちゃんのためにちゃんと料理するんでしょ? 偉いよね、幸作クンって、あたしはお母さんが用意してくれるからその辺ラクかも」

 ペロッと舌を出す麻里萌に、幸作は胸を高鳴らせる。

 一瞬俺も啓太やマスター(?)と同じ所属種になってしまうのかなって思っちゃうんだよね? 麻里萌のこのあどけない表情を見るとドキッとするんだよな?

 おどけたような顔をしている麻里萌は同じ高校生とは思えず、中一の郁子と同じ年と言っても通用するようなそんな表情をたまに浮かべる事がある。

「と、とりあえず買い物には行くよ……」

 顔が赤らんでいる事を麻里萌に悟られないように、幸作はそっぽを向きながら歩き、徐々に近く見えてくるスーパーの看板に視線を向ける。

「じゃあ、あたしもお付き合いしよっと」

 思いもよらなかった麻里萌の提案に、幸作は素直にその驚を顔で表現している。

 お付き合いって……なんだって夕食の買い物に麻里萌がついてくるんだ? 嫌ではないのだが、ちょっと照れ臭いような気もする。

 顔を赤らめている幸作に気がついた麻里萌は、恥ずかしそうに顔をうつむかせる。

「もう少し、幸作クンと一緒にいたいかなって……」

 周囲の雑踏にかき消されてしまいそうなか細い声ではあるが、幸作の耳には麻里萌の言った言葉がきちんと幸作の耳に届き、音を立てたようにその顔を真っ赤にする。

 こ、こういう場合って何か気の利いた事を言うものだよな? たとえば『俺も麻里萌と一緒にいたい』とか『同じ考えだよ』とか……しかしなぜかそれが口から出てこない。

 考え込みすぎて無言になってしまった幸作に誤解をしたのか、麻里萌は少し寂しそうな顔をしてその顔を見上げてくる。

「もしかして……邪魔?」

 かけているメガネの奥にある大きな瞳は潤んでいるようにも見え、幸作はめまいを感じるほどまでに力いっぱい首を振ると、やっとその表情が和らぐ。

「確か今日はブタコマが安かったと思ったよ?」

 そう言いながら麻里萌は幸作の手をキュッと握ってくると、その温かな体温が伝わってくる。

 最近の二人の最大の進展はこれだ。二人きりでもあまり手をつないだり腕を組んだりしなかったのだが、最近では自然と手をつなぐ事が出来るようになった。これは特筆すべき点だ。

 二人は気がついていないだろうが、その仕草にはお互いにまだぎこちなく、周囲にはまだ若いカップルという微笑ましさを提供している。

「ブタコマかぁ……モヤシとニラを買ってモヤシ炒めにしようかな? 手間もかからないし」

 素材を提案してくれた事によって夕飯のメニューが一つ思い浮かんだ幸作は、頭の中にそのレシピを思い描くが、隣にいる麻里萌はそれに納得していないような顔をしている。

「でも、ブタコマがあるんだったら肉ジャガもよくない? ジャガイモとにんじんとシラタキを買って一緒に煮込むの、あたしの得意料理の一つだったりするの」

 自慢げな顔をする麻里萌に、幸作は苦笑いが浮かべる。

「肉ジャガは郁子がうるさいんだよなぁ、『味が薄い』とか『ジャガイモが崩れている』とか言ってなかなか合格点をもらえないんだよ」

 麻里萌とつないでいる手とは反対の手で鼻先を掻く幸作の顔を麻里萌が覗き込む。

「そうなの?」

「あぁ、煮物だけは何度やっても郁子の作った方が美味いんだよ」

 お袋が死んだ時、郁子はまだ小学校二年生だった。そんな郁子がお袋に一回だけ教わったという肉ジャガ、その時の事を思い出して作ったというその味はまさにお袋の味で、幸作はその味をいつまで経っても作る事ができない。

「ヘェ、そうなんだぁ……なんだかそんな事を聞いちゃうと、ちょっとチャレンジしたくなるわね? 郁子ちゃんの味に……」

 麻里萌さん? どうしたんですか? そんな挑戦者のような顔をして……。

 キョトンとした顔をしている幸作の手を解くと、麻里萌はカバンの中から携帯を取り出し、どこかに電話をはじめている。

「もしもし、お母さん? 今日幸作クンの家のご飯を作ってから帰るからちょっと遅くなるよ」

 はい? ちょっと麻里萌さん? なんですか? その決定事項は……。

「……ウン、大丈夫だよぉ……エッ?」

 突然麻里萌の視線が幸作に向けると、その顔を一気に赤らめて、慌てて逸らされた視線は気まずそうに辺りをさ迷いはじめる。

「な、なにを言っているのよぉ、郁子ちゃんだっているんだし……そんな事に……もぉ」

 完熟トマトのように顔を赤くしたまま麻里萌は携帯を折りたたむと、少し口を尖らせながらブツブツと文句を言っている。

「まったく、何を考えているのかしらお母さんって……幸作クンとそんな事になるなんて」

 相変わらずキョトンとした顔をしている幸作に視線を向けた麻里萌は、どこかボンという音を立てたようにその顔をさらに赤くさせる。

「と、というわけで、今日の戸田家の夕飯はあたしにお任せ下さい! ちゃんとお母さんにも了解を取ったから……ちょっと遅くなってもいいような事いっていたし……モショモショ」

 最初の方は元気に言っていた麻里萌だが、徐々にその台詞は尻すぼみになり、最後の方は幸作にも聞いてとる事が出来ないほどにまで小さくなっていた。

 何となくお母さんとのやり取りが見えたような気がする……お母さんは俺たちが付き合っているのを知っているんだよな? その彼氏の家で飯を作る、時間は夜……理解力のある母親というのもちょっと怖いかもしれない。

「どうしたの?」

 再び幸作の手を握ってくる麻里萌に、幸作は曖昧な笑みを浮かべる。

「なんでもないよ。じゃあ麻里萌のお言葉に甘えちゃおうかな?」

 ギュッと握り返す幸作の手の力に、麻里萌の頬が赤らむ。



「あれ? おにいちゃんと麻里萌さん?」

 スーパーマーケットに入り、第一の目標地点(精肉売り場)に到達した時、見覚えのあるセーラー服を着たポニーテールの郁子が驚いたような顔をして二人に視線を向けている。

「郁子? お前今日部活じゃなかったのか?」

 なんだぁ……。

このまま二人で仲良く買い物をして、郁子が帰ってくるまで麻里萌と二人きりになれるという甘い考えを浮かべていた幸作は、あからさまにガッカリとした顔をしており、その表情に郁子も気がついたのか意地悪くその目を眇める。

 決して邪な考えじゃないぞ? ただ、俺は麻里萌が家に来てくれて、料理をしている後姿をボンヤリと眺めていたいと思っていただけで、そんな不純な意味合いはまったく(いや、ちょっとはあるかもしれないけれど……)ない!

 誰に対して言い訳をしているのかわからないが、とっさに幸作は言い訳を考えながら特売のブタコマを手にしている郁子に視線を戻す。

 兄妹だなぁ……考える事は同じだぁ。

「顧問の先生に用事があって、今日は早く終わったの。それよりも、あたしの質問にも答えてくれるかしら? 何でおにいちゃんと麻里萌さんが仲良く……手なんてつなぎながら買い物をしているの? まるで新婚さんみたい」

 少し不満そうな顔をしている郁子は目を眇めながら、慌ててつないでいた麻里萌の手を離し、動揺の色が隠せない幸作の顔を覗き込んでくる。

「な、な、何を言っているんだ……別に俺は麻里萌と二人きりになりたいとか……アッ」

 あまりにも動転していたのだろう。幸作は馬脚を露わしその場で自虐の念に囚われる。

 ……俺って馬鹿だぁ。

 うなだれている幸作を、郁子は冷たい視線であしらうと、今度はニッコリと微笑を浮かべながら麻里萌に顔を向ける。

「すみませんねぇ、間抜けな兄で……苦労していません?」

「そんな事ないよ、いつも幸作クンには助けてもらってばかりだから……」

 深々と頭を下げる麻里萌に郁子は苦笑いを浮かべ、自虐の念に囚われっぱなしの幸作に対しては厳しい視線を向ける。

「まったくぅ……ほらぁ、おにいちゃん、いつまでもそんな所で鬱に入っていないで、早く買い物をしようよぉ、まだ買う物がいっぱいあるんだからぁ」

 幸作の腕を引く郁子に、麻里萌もちょっと残念そうな顔をしているが、やがて気を取り直したように口を尖らせている郁子に視線を向ける。

「ねぇ郁子ちゃん、今日の夕飯は……」

 あたしに任せてと続けるつもりだった麻里萌だが、郁子はそんな由も知らずにニッコリと微笑みながら麻里萌の顔を見据える。

「ハイ、今日の夕飯は肉ジャガにしようと思っているんです」

 ニッコリと微笑む郁子の口から出てきたメニューに、麻里萌だけではなく復活の兆しを見せていた幸作までもがその目を丸くし、チラッと横目で麻里萌の様子を伺うと、その横顔は明らかに動揺した色が浮かんでいる。

「先週厚沢部にいる親戚からジャガイモを送ってもらったので、ジャガイモが在庫過剰になっているんです。だから少しでも消費しようと思って……そうだ、麻里萌さんの所にもお裾分けしますね? 本場のメークインですよ?」

 自慢げな顔をしている郁子に、とりあえず微笑んで返している麻里萌だが、本題を思い出したかのようにその顔を引き締める。

「ウン、ありがとう……それでね?」

 意を決したような顔をしている麻里萌に、郁子はキョトンとした顔をしている。

「えと……エッとね? そのぉ…………今日の夕飯をあたしが作っちゃおうかなぁ、なんて思ったのよぉ……でも、郁子ちゃんが帰って来たなら……大丈夫ね?」

 尻すぼみになる麻里萌の言葉に、郁子の表情には徐々に意地悪いものが浮かび上がってゆく。

 おいおい、さっきまでの勢いはどこにいったんだ? と言うよりも俺がこの場を取り繕わなければいけないのかな?

 相変わらず意地の悪い顔をした郁子と、恥ずかしそうに顔をうつむかせている麻里萌の間で、幸作はオタオタとしており、その姿は小姑にいじめられている嫁をかばう気弱な夫と言うような雰囲気で、はっきり言って格好のいい姿では無い。

「フ〜ン……そっか……なるほどねぇ、そういう事なんだぁ……。じゃあ、お言葉に甘えて麻里萌さんに今日の夕飯はお願いしちゃおうかな? あたしも部活で汗を掻いちゃったし、早く家に帰ってお風呂に入りたかったところだったし、ちょうどよかったかも知れないよ……おにいちゃん、麻里萌さんの荷物持ちをよろしくね? じゃあ麻里萌さんお願いします」

 わけのわからないピースサインを幸作に向けながら、郁子はそそくさといった感じでその場から離れてゆき、残された幸作と麻里萌はお互いの顔を見合わせる。

 なんなんだあいつは? もしかして、俺たちに気を使ったのか?

「えと……とりあえず買い物再開……なのかな?」

 小柄な郁子の後姿を見送り、手に持つ空のカゴに視線を向ける麻里萌は、少し怪訝な色を残しているものの、さっきまでの明るさを取り戻したように見えるのは俺の気のせいなのか?

「あ、あぁ、そうだな? とりあえず買い物をしてから帰らない事には何もできない。ジャガイモはあるから、あとはブタコマとニンジン……玉ねぎも必要かな? あと、麻里萌の家はシラタキを入れる派なのかな?」

 その家によって作り方の違う肉ジャガ。味付けもさる事ながら、当然その家の作り方によって全然使われるその素材は違うのが当然である。

「ウ〜ン……ウチの肉ジャガにはあまりニンジンは入れないかな? 操があまりニンジン好きじゃないから……アハ」

 ハハ、あんな端正な顔立ちをしていながらニンジンが嫌いとは、大人っぽい顔をしていながらもお子様というところなのかな? 可愛い一面を見たような気がするよ。

 呆れた様な顔をしている麻里萌に、無愛想ながらもイケメンに属する操の事を思い出して幸作は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

「幸作クンは嫌いなものとかないの?」

 どこか嬉しそうな顔をしながら麻里萌は幸作の顔を覗き込んでくる。

「俺は特にないかな? まあ、贅沢なものは食べた事がないからよくわからないけれど、たいていのものは大丈夫だよ」

「じゃあにんじんを入れて作ろうよ、ね?」

 そう言いながら麻里萌は再び幸作の手を握りながら、嬉しそうな顔を幸作に提供する。

 いいねぇ、なんだか本当に新婚さん気分かも……なんとなく小さな幸せのような感じがするな? もしも、俺と麻里萌が結婚なんてしたら……デヘ…・・・デヘヘ。

 かなり気持ちの悪い笑みを浮かべる幸作だが、麻里萌は気がつかず買い物を再開させる。



=姉妹?=

「郁子ちゃん、ミリンはどこにあるのかなぁ」

 狭い戸田家のキッチンに、小柄な女の子が二人忙しそうに動き回っており、それを所在なさげに幸作は座りながら見守る。

「ミリンはこっちにあります……お酒はどうします?」

 流しの下からミリンを取り出す郁子は、エプロン姿の麻里萌にそれを渡し、自分の頭のレシピの中にある調味料を提案する。

「ウン、お酒ももらうよ」

 なんだか後姿だけ見ていると本当の姉妹みたいに見えるよな? ちょっといいかもしれない。

「ちょっとぉ、おにいちゃん! そんな所でボケェとしていないでよぉ、暇ならお風呂に入ってきちゃえば? ちょっと汗臭いぞ!」

 ボヤッとした顔をしてそんな光景を眺めていた幸作に、険しい顔をして郁子の顔が向くと、幸作はちょっとつまらなそうに口を尖らせる。

 ボケェもするよ、自分の妹と、そのぉ……自分の彼女(照)が一緒に料理をしている光景なんてなかなか見られるものじゃないんだぜ? できればもう少し見ていたい気がする。

「ウン、まだ出来るのには時間がかかると思うから、幸作クンは先にお風呂にでも入っていて? お風呂から出るころには出来上がると思うから、ね?」

 ニコッと微笑みながら言う麻里萌の一言に、幸作は素直に従ってしまう。

 な、なんだか本当に新婚さんになったような気分かも……ヤベ、頬が緩んじゃうよ。

「――何をだらしない顔をしているんだか……おにいちゃん、洗濯物ちゃんと洗濯機の中に入れておいてね? 明日も天気がいいみたいだから!」

 ――口うるさい小姑付だけれど……トホホ。

 ヤレヤレ顔を浮かべながら幸作が脱衣所に入ると、そこには白と水色のシマシマ模様の小さな布状の物が洗濯機の前に落ちている事に気が付く。

 ったく、人にちゃんと洗濯機に入れろと言っておきながら、自分が入れていないのでは本末転倒というのではないか? 文句の一つでも言ってやろうか?

 それを取り上げた幸作はその顔を赤らめる。

 態度とは反比例して年々小さくなってゆくなぁ……郁子のパンツ……。

 これを手にしながら文句を言うという自分の姿を思い起こし、滑稽だと判断した幸作は、その小さな布を洗濯機に投入しながらため息を吐き出し、脱衣を開始する。

 あいつも徐々に麻里萌たちと同じように恋をしたりするようになって、いつかは彼氏とか作ったりするんだろうな? そうしてその彼氏の家で今日みたいに料理を作ったりして……ちょっと寂しい気持ちもするけれど、それが自然なんだろう。

「あ、おにいちゃん、そこにあたしのパンツ落ちていなかった?」

 ちょうど幸作がズボンを下ろし、パンツ一丁になった時、何の前触れもなく脱衣所の扉が開かれると、幸作のそんな姿をまったく気にした様子もなく郁子が顔を出す。

「――洗濯機の中に入れた……」

 むしろ呆気に取られているのは幸作の方で、恥ずかしそうにその体をくの字に曲げながら、先ほど投入した洗濯機を指差すと、頬をプクッと膨らませた郁子が幸作の顔を睨みつける。

「もぉ、あれは洗濯してあったやつなのにぃ……」

 なぜ洗濯してあったパンツがここに落ちているのか俺にはわからないけれど、はっきりと前言撤回する。郁子はまだまだ子供だぁ。

 脱衣所から郁子が出て行った事を確認して、幸作は深いため息を吐き出し最後のパンツに手をかけた時再び扉が開かれ、意地の悪い顔をした郁子が顔を覗かせる。

「だぁ、さっきからなんだって言うんだ!」

 思わず悲鳴を上げてしまいそうになるのをどうにか堪えて、慌ててタオルで前を隠す幸作に、郁子は意地悪い顔のまま、

「よかったね、おにいちゃん? 麻里萌さんじゃなくって……キヒヒ」

 当たり前だ! こんな姿を麻里萌に見られたらしばらく立ち直れないかもしれない、と言うよりも顔を合わせる事ができなくなってしまう!

 アウアウと声にならない抗議を郁子に向けていると、トトトという足音と共に奥から麻里萌の声が聞こえてきて、幸作は慌てて風呂場にその姿を隠す。

 うぁぁぁ……。

「どうしたの、郁子ちゃん?」

 すりガラスの風呂場の扉に郁子のシルエットと一緒に恐らく麻里萌であろうシルエットが見え、幸作はロクにお湯も浴びずに慌てて湯船に浸かる。

 なんだって麻里萌まで風呂場に乱入して来るんだよぉ。危険だ、好きな女の子と妹と言う構図はかくにも危険なものとは思っていなかったぜぇ……。

「もぉ! おにいちゃん! ちゃんと洗濯機の中に入れてっていったでしょ? パンツが出しっぱなしだよ! だらしがないんだからぁ」

「キャッ!」

 ワンワンと脱衣場で言う郁子の罵声の声の中に、麻里萌の小さな悲鳴のようなものが聞こえたのは気のせいと言う事にしておこう……。

 視線を向ける先の脱衣場にはまだ小柄な影が二つ浮かんでおり、幸作はそれを恨めしそうな顔をして睨みつける。

「麻里萌さんもおにいちゃんと一緒にお風呂に入る?」

 聞こえる郁子の声に、幸作はその顔をブクブクと湯船に沈めてゆく。



「ハァさっぱりした……おぉ、これは……」

 濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、キッチン兼用ダイニングに顔を出すと、テーブルの上にはいい匂いと共に、ドンブリに盛られた肉ジャガが湯気を湛えており、その色合いは見るからに美味そうで、その香りに腹がグゥと反応する。

「あれ? おにいちゃん珍しいでないかい? ちゃんとパジャマを着ているなんて……いつもは、暑い暑い言いながらパンツいっちょう……ムグゥ」

 どこか今日の郁子の口はいつもにも増して滑らかなようだなぁ。麻里萌のいる前でそんな余計な事を言わないでよろしい。

 作り笑いを浮かべた幸作は、滑らかになっている郁子の口を手で覆い、チラッと視線を麻里萌に向けると、クスクスと微笑んでいる笑顔が見える。

 ほら笑われちゃったじゃないか!

「本当に仲がいいのね? 幸作クンと郁子ちゃんって……ちょっと羨ましいかも」

 おいおい、これのどこを見れば仲がいいという風に取れるのだろうか?

「ぷはぁ〜! これのどこを見れば仲良さそうに見えるのぉ? 妹虐待だよぉ」

 さすが我が妹、俺と同じ事を考えているとは思わなかったぜ。

 睨みあうように口を尖らせる幸作とベェッと舌を出す郁子を見て、麻里萌は柔らかな笑みを浮かべながら、本当にうらやましそうな顔をして幸作と郁子の事を見つめる。

「それはお互いにお互いの事を知っているからでしょ? だからそういう事を平気で言えるんだろうし、そうやってスキンシップを取る事ができるのよね? それはお互いがお互いの事を信頼しているからじゃないのかな? ちょっと妬けるほど仲がいいと思うな?」

 優しい笑みを浮かべながらも、少し照れ臭そうに言う麻里萌の言葉に、幸作と郁子は顔を見合わせ、ちょっと恥ずかしくなり互いに視線を逸らす。

 妬けるほどって……麻里萌は郁子に対してヤキモチを妬くという事なのか? 俺たちは実の兄妹だからそんな事があるはずが無いじゃないか、ヘンな誤解だけはしないでくれよ!

 慌てたような顔をする幸作と、ちょっと照れたように顔を赤らめている郁子の様子を見れば、この兄妹の仲が良いという事はよくわかる。

「そ、それよりも早く飯にしようぜ? 腹がへったよ」

 話を逸らすように幸作が言うと、その一言に郁子と麻里萌がほぼ同時に席を立ち、お互いの顔を見合わせるが、すぐに郁子が再び椅子に座る。

「麻里萌さん、おにいちゃんの使っているご飯茶碗はそこの青いやつで、味噌汁椀は緑色のやつです。箸は赤いラインの入っているやつ……」

 食器棚に向かう麻里萌に向かって、郁子は幸作のいつも使っている器を教えると、意地悪い顔をして幸作の顔に視線を向ける。

 やけに今日は好戦的な表情を浮かべるなぁ郁子の奴。

「イヒヒ、なんだか本当に麻里萌さんがおにいちゃんのお嫁さんになったみたい。これであたしも安心して彼氏作りに専念できるかな?」

 か、彼氏だぁ?

衝撃的な郁子の一言に食器棚に手を伸ばしていた麻里萌の動きがピタリと止まり、頭をガシガシ拭いていた幸作の手もピタッと止まる。

「そ、そんなお嫁さんなんて」

 真っ赤な顔をして振り返る麻里萌に対して、肩を震わせながら幸作は少し怒ったような表情を浮かべながら郁子を見据える。

「――郁子、ちょっとここに座りなさい」

「座っているよ?」

 怒りを抑えているように見える幸作に対し、郁子は涼しげな顔をしている。

「ぐっ、あのなぁ、お前が彼氏作りなんてまだ早い! まだ中学一年生なんだから、そんなのは高校生になってからでも遅くないっ! まだダメだっ!」

 違った意味で赤い顔をしている幸作に、郁子は不満げに頬を膨らませている。

「ぶぅ、べつにいいじゃないのよぉ、おにいちゃんだって麻里萌さんという立派な彼女が出来たんだしぃ、あたしも彼氏が欲しいよぉ」

 駄々をこねるように言う郁子に、幸作は腕組みをしたまま首を横に振る。

「ダメだ! まだ早い!」

 まるで父親のように困惑したような顔をしている幸作に、その様子を見ていた麻里萌は堪えきれなくなったように笑い出す。

 いや、麻里萌さん? ここは笑うところじゃないんですよ? ついこの間までランドセルを背負って小学校に通っていたのが、彼氏が欲しいだなんて、おにいちゃんは許しません!

 少し恨みがましい視線を麻里萌に向けつつも、幸作は、膨れっ面を作ったままでいる郁子の顔を睨みつける。

「アハハ、ホントに羨ましいほどに仲のいい兄妹ね? 操にも見習ってほしいなぁ。郁子ちゃんみたいに素直だったらいいのに、あいつったら全然素直じゃないんだから」

 少し膨れ面をしている麻里萌の口から操の名前が出ると、それまで不満げな顔をしていた郁子が、一瞬顔を赤らめたようにも見える。

「べ、別に……あたしはなんとも思っていないよ……じゃなくって、あたしもご飯にしよっと、麻里萌さんも食べていくでしょ? おなかすいちゃった」

 誤魔化すような様子の郁子に、幸作と麻里萌は首を傾げるが、当の郁子は知らん顔をするようにいそいそと食事の支度を開始する。

 なんなんだ郁子の奴……。



「いただきまぁ〜す」

 いつもは郁子と二人きりの食卓に今日は麻里萌が一緒に座り、少し不安そうな顔をして肉ジャガに箸を伸ばす幸作と郁子の反応を待っている。

「ど、どうかなぁ……」

「む?」

「わぁっ?」

 無言で咀嚼を終えた二人からは、可とも不可とも取れない言葉が発せられ、麻里萌の表情はさらに不安げなものに変わる。

「これは……」

「ウン、この味って……」

 幸作と郁子は顔を見合わせるとお互いに驚いた顔をしており、その表情は美味いという言葉を言い表すにはちょっと違うようにも見える。

「もしかして、あたし失敗しちゃった?」

 そんな二人の様子を見つめていた麻里萌のタレ気味な瞳には涙が湛えられているように見え、その様子に気がついた幸作は、慌ててそれまでの事を否定するように手を振る。

「違う違う! 誤解だよ。本当に美味いんだ」

「ウン、美味しい! 悔しいけれどあたしの負けを認めるよ……それにしてもこの味って」

 驚いたような顔のまま郁子も慌てたように手を振ると、麻里萌はその二人の様子にキョトンとした顔をしている。

「味? 肉ジャガの味がどうかしたの?」

 キョトンとした顔をしている麻里萌は、小分けに取った肉ジャガに箸を伸ばし、それを口に放り込み、味を確かめるように口を動かす。

「いや……昔よく食べた肉ジャガの味だよ。ビックリした、麻里萌が作った肉ジャガの味が『お袋の味』だなんて思っていなかったよ」

 嬉しそうな顔をしている幸作に、郁子もコクコクと首を縦に振っている。

「ウン、あたしの作る肉ジャガよりも、麻里萌さんの作った方がお母さんの作ってくれた肉ジャガの味に似ている……ちょっと驚きかも」

 二人から向けられた言葉に、麻里萌は恐縮したような顔をしているが、その視線はチラッと幸作が嬉しそうな顔をして肉ジャガに箸を向けている姿に向く。

「アハ、そう言ってくれると嬉しいなぁ、まだ二人のお母さんのように料理は上手じゃないかもしれないけれど、一生懸命に勉強するね?」

「うん、だったら、麻里萌さんは今日からあたしのおねえちゃんだね?」

 突飛良のない郁子の意見に、幸作はそれまで口に頬張っていた肉ジャガを吹き出しそうになる。

第八話に続く