坂の街の小さな恋U

第八話 学園祭へ。



=代表=

「……という事で、このクラスの『函稜祭』の代表実行委員は、男子が戸田くん、女子が笹森さんという事でいいわね?」

 やっと先生らしくなってきた担任の絵梨子のアニメヒロイン声が教室内に響きわたると、いたる所から冷やかしの声が聞こえてくる。

「いいじゃねぇか? 夫婦初めての共同作業だべ?」

「どうせ一緒に帰るんだからいいわよね? いいなぁ、あたしも彼氏がほしぃ」

 ハハ……好き勝手に言っていろ、もう慣れたぜ。

 二人が付き合いはじめたのは幸作の誕生日を過ぎた頃。そんな二人の関係は、一ヶ月も経たないうちに周囲の人間は全員に知れ渡り、冷かされる(夫婦だとか大切な人)のには既に慣れはじめてきている……が、隣にいる麻里萌は、まだその冷やかしに慣れていないのか、ただでさえ小さいその身体をさらに縮め込んでいる。

「ハイハイ、若いカップルに幸多かれと言う事で。じゃあ戸田くん笹森さんお願いね? 実行委員会は明日行なわれるから参加するようにして。心配ないよ、あたしも教員顧問としてその会議には参加するから、何か困ったらお姉さんがフォローしてあげる」

 麻里萌と同級生といっても全然違和感のない絵梨子は、その顔つきとは似合わない大きく膨らんだ胸をボンと叩くと、幼い顔をさらに幼くして微笑む。

 お姉さんって……。

「ゴメンね?」

 喝采(?)を浴びながら自分の席に戻ると、二人の後ろの席に座っている絵梨子の実妹である芽衣子が、申し訳無さそうに二人に対して手を合わせる。

「ウウン、芽衣子ちゃんは気にしなくっていいよぉ。あたしもやってみたいなぁって思っていたから、ちょうどよかったかも」

 手をパタパタと振りながら芽衣子に振り返る麻里萌の表情は心底喜んでいるようで、かけているメガネの奥にある瞳は期待に溢れているようにも見える。

「戸田と一緒だし?」

 意地悪い顔をする芽衣子に麻里萌は真っ赤な顔をしてうつむき、その質問に回答らしい回答はしないが、その顔が全てを物語っているようだった。

「しかし、本当だったら芽衣子がやるはずだったんだろ?」

 本来であればクラス委員長である芽衣子がその役を務めるのがどのクラスでも通例になっているのに、クラス委員でもなんでもない俺たちにその役回りがわからん。

「ウン、他のクラスはそうなんだけれど、あたし生徒会の一年の代表になっちゃったからそっちの方が忙しくなっちゃったの、それでおねえちゃんに相談したら……」

 芽衣子の姉は現在教室の教壇に立ち、アニメのヒロインのような声でクラスの出し物は何が良いかなぁなどと、フレンドリーに話をしている絵梨子だ。

 学校でなく家で相談したとしたら、それはそれでちょっと問題があるような気もしなくもないんですが……俺たちのわからない所でそういう相談をしないように。

 苦笑いを浮かべる幸作に芽衣子は再び意地悪い顔をする。

「いいでしょ? 麻里萌ちゃんの事を推薦したのはおねえちゃんだけれど、あなたの事を推薦したのはあたしなんだから……それとも他の人間を推薦した方がよかったかしら? 他の男子でも麻里萌ちゃんが相手なら喜んでやると思うけれど……」

 クスッと微笑む芽衣子の表情は、幸作の心の奥底を見据えたようなそんな視線をしており、その視線に何も言えなくなった幸作は、ただうなだれるしかできなかった。

「感謝してもらってもいいかもしれないわよねぇ? 戸田ぁ」

 勝ち誇ったような顔をする芽衣子に、幸作は顔を赤らめながら正面を見るしかなく、隣に座る麻里萌はそんな様子を少し嬉しそうな顔をして見つめていた。

「幸作クン、頑張ろうね?」

 小さな声で麻里萌が幸作に声をかけると、それまで疲れきったような顔をしていた幸作の顔に笑顔が浮かび上がり、その様子を見ていた芽衣子はホッと胸をなでおろしていた。



「バイトに実行委員会とお二人さん大忙しだね?」

 夏色が含まれはじめた風を浴びながらの帰り道、いつものメンバーは自然と並んでいる二人の顔を覗き込んでいる。

「もしも大変なら、いつでも変わってあげるからね? 麻里萌ちゃん」

 挑発するように言う初音は、ギロッという音が聞こえそうな勢いで麻里萌に睨まれ、一瞬怯んだような表情を浮かべる。

「大丈夫です!」

 いつもと同じように幸作の腕にしがみつく初音に、麻里萌は普段のホンワカしたような表情を険しく変えて、さくらんぼ色をした舌を初音に突き出し対抗するように反対の腕にしがみ付き、初音の顔を睨みつける。

 ハハ、初音も懲りないと言うのか、何となくこれでこの二人がうまく行っているようにも見えるから不思議だ。

「なんか困った事があったらいつでも相談してくれよ? 俺は去年もやっているからいくらかノウハウを知っているからもしなんだったら、手取り腰取り……はぐぅ……って痛いじゃないか。何もグーで殴らなくってもいいだろ?」

 普段は端正な顔立ちをしているその顔をいやらしい目つきに変え、モゾモゾと幸作の腰を弄ってくる亮を、黙らせるために鉄拳制裁をしておく。

 なんだって学祭の実行委員でそんな手取り足取り(亮は腰取りと言っていたが)教わらなければいけないんだかわからん。それにこいつに教わるには自らの貞操を捨てる覚悟でなければいけないような気がして仕方がないのだが、それは俺の考えすぎなのか?

「地球が引っくり返ってもお前の助太刀は受けん。もしもそんな事になったら」

「痛いのは最初だけ……ウフ……グフゥ!」

 今度はかなりの力の入った拳を亮のわき腹に叩き込んでおく。

「亮も懲りないわね? 所詮は禁じられた想い……諦めも肝心だと思うけれど?」

 ストレートヘアーを風になびかせながら堺谷留美(さかいやるみ)が、真剣な顔をしながらうずくまっている亮の事を見下ろしていると、細いメガネのフレームをキラつかせた啓太が突然音もなく幸作ににじり寄ってくる。

「幸作、学祭の我がクラスの出し物は是非『ネコミミ喫茶』にしないか? 初音ちゃんや麻里萌ちゃんを筆頭に、我がクラスにはネコミミが似合いそうな女子が多数いる。これを放って置くには忍びない、絶対に受ける事間違いなし!」

 熱く語る啓太を苦笑い浮かべながら促す幸作だが、そのメガネの奥では何かに取り憑かれたようにギラついている瞳を血ばらせている。

 なんだ、こいつのこの迫力は。

「そ、その辺は明日の実行委員会でどういう判断が下るから。クラスの出し物はその後みんなで話し合って決めればいいだろう、一応その何とか喫茶も……」

「ネコミミ!」

「ハイッ!」

 普段は何の特徴もなく、クラスの中にその存在感を隠しているような啓太だが、今日に限ればやけに自己主張が強いと言うか……目つきが非常に怪しい。

「ネコミミはちょっと……ねぇ」

 困ったような顔をしている麻里萌は、幸作の腕に抱きついている初音に視線を向けるが、視線を向けられた初音は意外にも平気な顔をしている。

「いいんじゃない? ネコミミってあれでしょ? カチューシャにネコの耳をつけてかぶるやつでしょ? 可愛いじゃない?」

 おいおい、発案者が啓太という事を忘れない方がいいと思うぞ? きっとその方向性は危ない向きに進むに決まっている、それを受け入れるのか?

「だろ? みんなでスクール水着かなんかを着ちゃってネコミミをつけてお客さんを接待する。これぞパラダイスだぁ! 萌ぇ〜だぁっ!」

「じゃあ、幸作にはビキニのパンツでも履いてもらっちゃって……」

 はぁ……この二人(亮&啓太)と友達でいるのを本気になって後悔しているぜぇ。



「学園祭? そうかぁ、もうそんな時期なんだな?」

 函館の定番観光スポットの『赤レンガ倉庫群』の近くにある蔵を改造したお店『喫茶カレイドスコープ』の店内には数人の客が入っており、高校の制服姿の幸作と麻里萌はカウンターの裏に荷物を置くと、かけてあったエプロンに手を伸ばす。

「ウン、それの実行委員に俺と麻里萌の二人が選ばれちゃってさ、委員会がある時とかちょっと遅れるかもしれないんだ……前もって言っておくけれど」

 二十人ほど入る事が出来る店内は満席になる事はほとんどないが、これから夏の観光シーズンともなると結構な客の入りになる時期に、バイトに遅れて来るというのはあまり気乗りしないのだが、しかし学校優先という信念を持つマスターは平気な顔をしている。

「気にするな、学業優先なんだから仕方があるまい」

 タバコを燻らせながら言うマスターは、当然といった顔をしている。

 珍しく大人な意見だなぁ、マスター。

「本当にごめんなさいマスター……」

 申し訳無さそうに謝る麻里萌に、マスターが少し顔を赤らめているようにも見えるのは俺の気のせいなのか、それともマスターにそんな趣味があるのかは定かではない。確か以前に麻里萌にメイドチックな服を着せようとした事もあるし、もしかしたら啓太と同じ属性なのかもしれないなぁ、ちょっと見直したという事はお口チャックだ。

「気にする事ない、麻里萌ちゃんは全然悪くないよ、もし悪かったら全部幸作のせいにしてしまえばいい事だけなんだから」

 おいおい、全部俺のせいなのか? それってズルクねぇ?

 目尻を垂らしているマスターに麻里萌は曖昧な笑みを浮かべ、助けを請うような視線を幸作に向けてくるが、次の一言で麻里萌は救われる事になる。

「――やっぱりあなたってそんな趣味があったのかしら?」

 ボキボキという音を携えて現われたのは、このお店のママさんであり(影の)最高権力者である杏子で、眇められたその目には殺気すら感じる。

「エッ? あ、いや……あるわけない……ないだろ? 俺は杏子一筋で……だから……そんな事をしないで? お腹の中の赤ちゃんに教育上良くないし」

「赤ちゃんの教育上の問題だけじゃなぁ〜いっ!」

 妊娠六ヶ月でそんなに派手に動いていいのかと思ってしまうような動きで、杏子はマスターの動きを封じ込めると、テコの原理でその関節を見事に決める。

 鮮やかな脇固めだ……早くギブアップしないと骨が折れちゃうぞ?

 見惚れている幸作の考えよりも先にマスターはすぐに床を叩き、ギブアップを宣言すると、どこからともなくゴングの音が聞こえてくるように感じる。



「懐かしいなぁ学祭。あたしもよく映研で自主映画を作って上映したりしたわよ?」

 少し目立ちはじめたお腹を、杏子は無意識にさすりながら笑みを浮かべると、隣で腕をさすっているマスターが口を挟んでくる。

「そうそう、好きな女の子と一緒に歩いたりして、わざとお化け屋敷に連れ込んで……アッ」

 夜叉のような顔をしている杏子に気がついたマスターは、まるで逃げるように厨房に入ってゆくと、その後姿に嘆くようにため息を吐きながら杏子が再び幸作達に視線を向ける。

「気にしないで存分にやりなさいよ、来年三年生になるとそういう事もロクにできなると思うから、心底楽しめる今年は精一杯楽しみなさいな」

 優しい顔をした杏子に、幸作と麻里萌もつられて笑みを作ってうなずいていると、来客を告げる扉のカウベルが優しくなる。

「いらっしゃいませぇ」

 反射的になのだろう、麻里萌はそれまで座っていたカウンター席から立ち上がり、お客の立っているであろう扉に向かって満面の笑みを浮かべ、幸作も無意識にカウンターの中に入り込むとお冷とオシボリの準備に取り掛かる。

「こんにちわぁ〜」

 背中まである髪の毛を一つに束ねた女の子が、そんな麻里萌の笑顔に笑顔で応えている。

「千鶴さん、こんにちは」

 私立の制服を着て麻里萌と仲良さそうに話をしているのは幸作の幼馴染の千鶴だ。

「ウン、こんにちは! 幸作もこんにちは」

「よぉ、いつものやつでいいだろ?」

 お気に入りのシナモンティーを用意しながら、幸作は麻里萌と談笑している千鶴に視線を向け声をかけると、少し表情を曇らせる。

「そういえば、この間のお宅の学校のフォワードの娘はどう?」

 申し訳なさそうな顔をしながら千鶴が麻里萌の顔を覗き込むと、ニコッと微笑みながら麻里萌は千鶴にお冷を提供する。

「ウン、全然大丈夫だよ? 今日なんて平気に歩いていたもん」

 前の試合の時千鶴に倒された音子は、それからも変わる事無く学校に通い、麻里萌の言っていた勘が本当かわからないほどいつもと同じだった。

「そっか、よかった……ちょっと責任を感じていたんだよね?」

 ホッとしたような顔をした千鶴は、オシボリで手を拭きながら、意味深な表情を浮かべながら幸作の顔を上目遣いに見つめる。

「気にする必要はないんじゃないか? それより明和大付属は全道大会出場だってな? すごいじゃないか、ここで優勝すればインターハイだろ?」

 あの試合は最終的に千鶴のいる明和大付属が優勝し、全道大会に駒を進めた。

「ウン、でも、まだ強豪校がいるからね? インターハイなんてまだまだ夢の世界だよ」

 照れ臭そうに言いながらも、千鶴の表情には自信に満ちているような表情が浮かんでいたのを幸作は見逃さなかった。

 バスケが好きな以上、やっぱり晴れ舞台に出たいというのが本音だろう。

「でも、すごい気合が入っていた娘だったなぁ、思わずあの気迫にウチのチームもかなり押されていたのよね? お世辞じゃないけれどあのチームは強いと思うよ?」

 ニコッと微笑む千鶴に、麻里萌はまるで自分が褒められたような嬉しそうな顔をして、その顔を幸作に向ける。

「それは音子に言ってやってくれ、そうすればあいつも喜ぶよ」

 出来上がったシナモンティーを千鶴の目の前に置くと、付いているシナモンスティックを手で弄びながら千鶴の首が傾く。

「ねこ?」

「あぁ、千鶴がすっ倒したウチの学校のフォワード、古瀬音子って言うんだ、結構悔しがっていたから千鶴からそう言ってやれば喜ぶと思うよ?」

 お冷用のグラスを洗いながら幸作がそういうと、麻里萌はプクッと頬を膨らませ千鶴にコソッと耳打ちをし、千鶴の頬も膨らむ。



=実行委員会=

「戸田君と笹森さん。今日の放課後に学園祭の実行委員会があるから参加してね?」

 各クラスで話し合い出し物を検討する実行委員会は今回で三回目を数え、その雰囲気に幸作もいくらか慣れ始めてきたのだが、今回の委員会は少し気が重い。

「しかし……まさか本当に決まってしまうとは思わなかったぜぇ……なんとなく一番乗り気だったのが絵里子先生だったよな?」

 脱力する幸作の顔をもう一人の実行委員である麻里萌が覗きこんでいるが、その顔にもいつものように晴れ渡ったような笑顔は無いのはいたし方が無いのだろう。

「確かに……決まった瞬間一番嬉しそうな顔をしていたかも……」

 よどんだ幸作の視線の先には黒板があり、その憂鬱さを助長させる文字がそこに書き出され、教室の中には勝利を勝ち取ったというような歓喜の声を上げている啓太の声が響き渡り、さらに幸作の気持ちを鬱とさせる。

 あいつのせいで、俺はこの後の実行委員会で恥を掻かなければいけないのか?

「でも、きっと実行委員会で却下されるんじゃないかしら『メイド喫茶』なんて」

 一縷の望みをかけるような麻里萌の声であるが、どうもそのまま流れで確定してしまいそうな感じがするのは、この学校の信念である『学生の自主性』にあるような気がしてならない。



「もぉ、そんな顔をしないで? せっかくなんだから楽しまないと」

 足かせを嵌められたように足取りの重い幸作に対して、麻里萌は諦めがついたのかそんな幸作の手を引きながら会議室に向う。

 楽しめるかどうかが心配なんだよ。もしもメイド喫茶をやる事になるという事は、麻里萌もそういう格好をしなければいけないんだぜ? メイド姿の麻里萌……ちょっと見たいかも。

 一瞬邪念にとらわれた幸作だったが、すぐに頭を振りその邪念を頭から追いやっていると、隣を歩いていた麻里萌がキョトンとした顔をして顔を見上げてきている事に気がつく。

「幸作クン、どうかしたの?」

「いやなんでもないぞ! ウン大丈夫だ」

 さっきまでと違い大股に歩いて会議室の中に入っていく幸作の後姿を、麻里萌はキョトンとした顔をして見送ってしまうが、すぐにそれを追いかけ会議室の中に入る。

「ちょっと、幸作クン……ぶっ」

 慌てて飛び込んだために、会議室の入口で立ち止まっていた幸作の大きな背中に麻里萌は顔から突っ込んでしまう。

「いたぁ〜いぃ……そんな所に立ち止まってどうしたの?」

 鼻からぶつかったのか、麻里萌は衝突のショックでずれてしまったメガネを指で直し、少し赤くなっている鼻先をさすりながら恨めしそうに幸作の顔を見上げる。

「お? わりぃ……座ろうか?」

 少し不機嫌そうな顔をしている幸作の事を、小首を傾げながら見てからさっきまで向いていた視線を追うように向けると、まだ誰も来ていない会議室の中で唯一先客の長髪で線の細い男子が座って文庫本を片手にしている。その姿はまさにさまになっており、ドラマやアニメで見るような雰囲気がその男子の周りにある。

「あっ、神蔵(かみくら)さん!」

 その存在に気がついた麻里萌はニッコリと微笑みながら、神蔵と呼んだ男子に手を振っているが、その隣で先に椅子に座っている幸作は憮然とした顔をしてふんぞり返っている。

「やぁ、笹森さん、いつの間に?」

 女子と見間違えてしまいそうな中性的なその顔に笑顔を浮かべるのは、幸作たちと同じ学園祭の実行委員で隣のクラスのクラス委員長である神蔵大吾(かみくらだいご)で、その儚そうな雰囲気に加えて、その顔立ちは学校中の女子の人気を亮(文武両道で黙っていればハンサム)と、新顔である智也の三人で分け合っている。

 なにがいつの間にだ……しらばっくれやがって、だから俺は色男というのが嫌いなんだ。柏崎の奴もそうなのだが、コイツの場合もなんとなくイケスかねぇ。

 嫉みとも思えるような事を考える幸作は憮然とした顔を崩さないまま、どこを見るとも無しに視線を会議室内にさまよわせている。

「あたしたちはいま来たところです。神蔵さんのクラスはお一人なんですか?」

 しかし麻里萌は幸作が憮然とした顔をしているなどとは知らないで、いつものようにフレンドリーな笑顔を浮かべたまま大吾と話をしている。

「いや、女子の委員はいま担任に呼ばれて職員室に行っているところなんだ。笹森さんのクラスは何をするのか決まったの?」

 柔らかな物腰の口調の大吾に、麻里萌は少し言葉を濁し幸作に視線を向けると、そこで初めてその顔が憮然としている事に気がつく。

「エッと……案としては……何とか……ハハ」

 いきなり麻里萌が言いよどみ始めたのに気がついた大吾は、その優しげな視線を仏頂面している幸作に向けてくると、苦笑いを浮かべる。

「どうやらその案は、戸田クンは気に入らないみたいだね?」

 はぁ? 何か勘違いなさっていませんか? 別にクラス提案が気に入らない(多少はそれもあるかもしれないけれど)わけじゃなくってだなぁ、馴れ馴れしく麻里萌に話しかけてくるその態度が俺は気に入らないんだよ。

 さらに下唇を突き出し、不満顔百二十パーセントの表情を作り上げる幸作に、さすがも麻里萌も苦笑いを浮かべている。

「はぁ、かなり気に入らないみたいですねぇ」

 何を二人でいい雰囲気を作っているんだ? 麻里萌は俺の彼女なんだぞ!

 諦めたように嘆息する麻里萌と、肩をすくめる大吾はお互いの顔を見つめ合いながらクスクスと微笑みあっており、その光景は誰が見ても仲の良いカップルのように見え、それがさらに幸作の神経を逆なでする。

 くそぉ、認めたくはないのだが、麻里萌と神蔵、美男美女の組み合わせだよな? これ以上のカップリングはないだろう。

「あれぇ? まだこれだけしか来ていないのぉ〜?」

 会議室の入口からは聞き覚えのアニメボイスが聞こえ、三人がその声に視線を向けると白い長袖のブラウスにベージュのフレアースカートという格好の絵里子が書類を持って会議室の中を覗き込み、プンプンというような顔をしている。

 ったく、そのロリフェイスにしてその体格は麻里萌と同い年といってもみんな納得するだろうが、唯一年相応なのがこんもりと盛り上がった胸の双丘だよな? 最近温かくなってきたせいなのかさらにそれが目立つようになってきたぜぇ。

 薄手のブラウスはどこかブカブカという印象を受けるのだが、その胸元だけはサイズピッタリというほどに盛り上がって(噂ではEかF)おり、思春期の煩悩が幸作の事を刺激する。

「もう来るんじゃないですかね? 先生ボクがそれをお持ちしますよ」

ケッ! 何が『お持ちします』だっ! お前はフェミニストかって言うんだ!

 しかし、そんな煩悩に刺激されないのか大吾はニッコリと微笑みながら絵里子から書類を受け取ると、みんなが座るであろう机にそれを配り始める。

「ありがとう神蔵くん」

 ほんのりと頬を染める絵里子はその動きを視線で追っている。

「――先生、ほっぺた赤いよ?」

 嫌味を込めている幸作に、絵里子の幼顔がニヘラァと歪む。

「だって可愛いじゃない神蔵くん……萌えだわ」

 萌って……教職の身であまりきわどい発言はされない方がいいかと思いますが……。

 苦笑いの幸作の隣に麻里萌が座ると、大吾の予想通りなのか、わらわらと各クラスの実行委員が会議室に集まり始める。

「ねぇ幸作クン……」

 声を潜めながら麻里萌が幸作の顔を覗きこんでくる。

「ん?」

 さっきまでの憮然としたような表情はなりを潜め、いまではいつもと同じに戻っている事に麻里萌はホッとしたのか、小さく嘆息すると幸作の耳元に口を近づける。

「さっきはなんであんな機嫌悪そうな顔をしていたの? そんなに嫌なの?」

 嫌。麻里萌が示すその言葉が意味する事は『メイド喫茶』であると思われるが、どうも幸作はその意味を『神蔵大吾』に当てはめてしまいそうになる。

「いや、そういうわけじゃないよ?」

「じゃあなんであんな嫌そうな顔をしていたの?」

 少し攻め立てるような顔をしながら麻里萌が顔を見つめてくるが、大吾としゃべっているのが気に入らなかったなんて絶対に言えないよな?

「べ、そんな機嫌悪そうな顔をしていたか? 俺はそんなつもりは無かったんだけれど」

 適当にはぐらかそうとしている幸作の顔を、麻里萌は怪訝そうな顔をしながら覗き込み、何か思い当たる節があったのか、すぐにその顔に笑顔を浮かべる。

ん?

「そっか……もしかしてそうなのかな?」

 自己解決している麻里萌を今度は幸作が怪訝な顔をして覗き込み、問いただそうとするとタイミング悪く学園祭顧問の教諭が入ってきて会議が始まってしまう。

 どうなんだよ……どういう風に麻里萌は捕らえたんだ、俺にはかわからないよぉ。

 さっきまでとは違ったモヤモヤが幸作の頭の中に浮かんで会議どころの騒ぎではなくなってきてしまっているが、ごく一部の人間の気持ちなど考えずに会議は順調に進んでゆき、幸作たちのクラスの出し物を発表する順番になる。

「それでは次のクラス2−C……戸田君。お願いします」

 上座に座る生徒会委員長は、手元の資料にチラッと視線を向けると、メガネをクイッと指で押し上げながらすぐに幸作の顔を見据えてくる。

 な、なんで俺なんだよ!

 いきなりの指名に幸作は戸惑い、資料を見ると確かに自分のクラスの出展発表者には幸作の名前が書き込まれており、その少し丸っぽい筆跡から、何食わぬ顔をして教員一同の中にまぎれている絵里子の顔を睨みつけると、そのロリフェイスはニヘッと微笑んでいた。

 ったく、なんだって俺がこんな恥ずかしい発表をしなければいけないんだ……まぁ、麻里萌にやってもらうのもどうかと思っていたが……俺はこう人の視線に晒されるのが何よりも苦手なんだよね? 緊張して足が震えるよ。しかし麻里萌の前で格好悪い事はしたくない。

 意を決し立ち上がる幸作に、予想通り会議室中の視線が集まり足の震えを感じるが、周囲から見えない所でパンと太股を手で叩き気合を入れる。

「エッと、ウチのクラスでは『メイド喫茶』をやろうと思っています」

 メイドという言葉に会議室は一気にざわめき、生徒会委員長の手を叩く音で再び静寂に戻るが幸作を見る視線はさっきまでのような真剣なものではなく、嘲笑を帯びているように感じる。

 ――明日啓太に合ったらとりあえずぶっ飛ばす。

「戸田君、そのメイド喫茶というのは、あのメイド喫茶なのかい?」

 少し呆れたような委員長の声に幸作はうなずき、すぅっと息を吸い込むと一気に話し出す。

「確かに面白半分かもしれませんが、ここ数年で急成長したものであり、最近ではだいぶ市民権も得ていると思います。わが街にはそういうお店はありませんが、興味半分で入るお客さんもいると思って立案させていただきました。問題ありきは却下でもかまいません」

 ていうか却下していただきたいんですが……。

 まくし立てるようにいった幸作は力尽きたように席に座り込み、ホッとため息を吐き出していると隣の麻里萌からはキラキラした視線が向けられている事に気がつく。

「すごいよ幸作クン、あんなに嫌がっていたのにみんなのために……」

 まるで拝むように両手を胸の前で合わせ、曇りの無い瞳で見上げてくる麻里萌の視線に幸作は少し照れ臭くなり、無意識に鼻先を人差し指で掻く。

 くすぐったいなぁ、そんなに褒められるような事をした記憶は無いんだけれど……しかし、周囲のあの反応からするときっと却下になるだろうな?

 過敏にまで反応した周囲に、一瞬見た生活指導部の顧問先生の表情から統括するには、恐らくあの案は廃案で、代案である『たこ焼き喫茶』に決定するだろう。

 第二まである案に決まるであろうと高を括っていた幸作は、心の中でホッとため息を吐き出し、目の前で協議されている審議を見守る。

「エッと戸田君だったかな?」

 委員長ではなく学園祭担当教諭が幸作に声をかけてくる。

「は、はい!」

 思わず最敬礼で立ち上がる幸作に、担当教諭は苦笑いを浮かべる。

 だって仕方がないべ? 生活指導部の先生に名前を呼ばれるなんて、滅多な事では無いんだ、後ろめたい事があるわけでは無いが、やはり緊張してしまうぜ。

 机に頬杖をつきながら苦笑いを浮かべている担当教諭は、黒縁のメガネを指で押し上げながらそんな幸作の顔を見据える。

「確かに風紀上どうかと思われる面も多々あるとは思われるが、さっき戸田君の言っていた市民権を得ているというのも認めざるを得ない。またこの街に無いものを取り入れるという君たちの自主性を重んじようと思うので、今回は許可する」

 ちょ、ちょっとぉ? 許可しちゃうんですか? メイドさんですよ? いわゆるアキバ系ですよ? それを学校は公認するというのですか?

 思いもよらなかった事柄に会議室の中にはざわめきが起き、幸作は戸惑いを隠す事ができないが、横に座っている麻里萌や、生徒会代表である芽衣子は満面の笑みを浮かべ、担任である絵里子においては目頭にハンカチを当てながら肩を震わせている。

 作戦失敗なのか? てか、俺って墓穴掘った?

 恐る恐る視線を麻里萌に向けると、そこには女神様のような微笑を浮かべながら、幸作の顔を見上げ、メガネの奥の瞳は涙に潤んでいるように見える。

 なんだってそんな頼もしそうな顔をして俺の事を見るんだ? ひょっとしてやっぱり俺ってば自滅しちゃったのかな?

「コホン、それでは続いて……2−B代表の神蔵君」

 ざわめく周囲をけん制しながら生徒委員長が大悟の事を指名すると、気のせいか幸作が指名された時よりも、周囲の視線がその中性的な顔をしている大吾に向いているような気がし、幸作たちの担任も、すっかりとさっきまでの感動的な顔をなくし、うっとりとしたような顔をして大吾の顔を見据えていた。

「ハイ、ではウチのクラスのコンセプトから説明させていただきますと……」

 まるで流れるような話に、周囲からはほぉというため息とも感嘆の声とも言えないような声が聞こえ、会議室の中にどこか和んだような雰囲気が流れる。

 コンセプトねぇ、やっぱりできる男は言う事も立派だぜ。俺みたいにシドロモドロになんてならないよ……みんなも食い入るように奴の事を見ている。

 やっぱ実にも似た感情を持ちながらも、大役を果たしたと安どの表情を浮かべている幸作の耳には、思いもしなかった大悟の言葉が飛び込んでくる。

「……クラスの全員で話し合った結果、我々が行いたいのは『メイド喫茶』です」

 一瞬の沈黙の後、会議室の中にざわめきが湧き上がる。



=結束=

「こうなったら徹底抗戦よ! 負けはイコール死を示す!」

「「うぉぉぉぉっ!」」

「勝利なくして我がクラスに栄光は来ない!」

「「うぉっしゃゃゃゃ」」

「我々は一人の英雄を失った、しかし、これは敗北を意味するのか? 否! 始まりなのだ! 我がクラスのために彼は死んだ。なぜだ! それはこれからの戦いを案じての事なのだ! だからこそ我らは勝たなければいけない!」

「「そうだぁぁぁぁ!」」

「我らは戦う! 彼の死を無駄にしないために! ジーク……」

 ……おいおい、一体誰が死んだというのだ? 話の流れ的になんとなく俺のような気がして仕方が無いのだが、しかし、いま目の前で恍惚の表情を浮かべている絵梨子先生にその事実を突きつけると、きっと先生が描いているそのシナリオ通りの事になりそうな気がして仕方が無いんですけれど……俺の身の危険を感じるんですが……。

 変な意味でのクラスの結束が固まると、やがてその話は現実味を帯びてくる。

「そうしたらとりあえず衣装からだよね? 僕がイメージイラストを描いてみたんだけれど、どうかなぁ……ちょっと自信作?」

 普段であればその存在を酸素どころか、窒素程度にしか示していない啓太がいつに無く鼻息、いや、意気揚々にその存在を周囲にアピールしている。

 何を意気揚々としているんだあの馬鹿(啓太)野郎は。俺にあんな恥ずかしい思いをさせた張本人である啓太(アイツ)に対して……真剣にいま殺意を覚えているのだが……。

 ギラッと光る視線を輪の中心にいる啓太に向ける幸作の袖が、何者かによって引かれ、一気に現実に引き戻され、まだ怪しく光っている視線をその主に向けると、一気にその危なげな思想が、目の前でにこやかに微笑んでいる麻里萌の笑顔によって浄化されてゆく。

「よかったね? みんなの気持ちが一つになっているよ?」

 まばゆいばかりの麻里萌の笑みに、それまで自分のダークな部分が急速に恥ずかしく感じてしまい、視線を合わせる事ができない。

「まぁ、ちょっと指導要領に問題があるような気がしないでは無いが……」

 握り拳を振りかざし、まるで洗脳するように話すその術はある意味憧れではあるかもしれないが、教師あるまじき行為のような気がして仕方が無い……。

「やらせわせんぞぉ! やらせわせんぞぉぉぉ! 貴様ごときの後発のやつらに……我らのクラスの栄光を……渡すつもりなどないっ!」

 ……なんだか話が変わり始めているような気がするんですが……。



「役割分担はこんな感じでいいよな?」

 教室の中は普段とは比べ物にならないような結束力を見せており、滞りなく各役割分担が決まり、実行委員である幸作や麻里萌はホッとしたように安どの表情を浮かべる。

「幸作、メイドさんのイメージを描いてみたんだけれど、ちょっと見てくれないか?」

 意気揚々としている啓太は、大きなスケッチブックを幸作の前に差し出す。

「ん? だったら衣装を作ってくれる留美にも見てもらった方がいいだろう、あとはウェイトレス役の麻里萌も一緒に見てくれるか?」

 根本的に喫茶の主役になるのはほとんど女子になり、男子は店の設営や備品の買出しなど裏方に回る事になるのだが、その『メイド喫茶』というものを見た事のない中で唯一知っている啓太がコスチュームデザイン担当になっている(あくまでも兼任だが)。

「あまり難しいコスチュームはどうかと思うけれど……手芸部の麻美子(まみこ)たちと一緒にやるから簡単なやつだったら何とかできると思うよ? あとは予算次第かな?」

 手招きで幸作に呼ばれた留美はそう言いながら、少し興味津々な顔をしながら啓太のスケッチブックに視線を向ける。

「それなら大丈夫、きっと予算内で収まると思うよ? ほら!」

 ぱらっとめくるスケッチブックには、麻里萌にどことなく似た女の子のイラストが描かれており、その女の子が着ているメイド服は……。

「却下だっ! 却下!」

 一瞬見ただけで幸作は啓太にダメ出しをし、それを一緒に覗き込んだ麻里萌と留美はお互いに顔を見合わせながら真っ赤にする。

「なんでぇ? いいじゃん、生地が少ないから絶対に予算内で済むはずだよ」

 確かにイラストに描かれているメイド服は、肩が大きく開き、胸を強調するようなデザインになっているが、イラストではともかく、それをウチの女子が着るとなったら……、

「あのなぁ、風紀云々の問題以前に風俗営業法とやらに引っかかるぞ?」

 こんなコスチュームじゃあメイド喫茶ではなく、ほとんど妖しげなお店になってしまう。

「そうかなぁ……じゃあこっちは?」

 スケッチブックを啓太が再びパラリとめくると、そこにはやはり大きく胸元の開いたメイドさんのイラストが描かれており、幸作は言葉なくそのスケッチブックを啓太から取り上げると、見事な音を立てながらそれで啓太の頭を叩き落とす。

「お前は小道具係をやっていろ! これじゃあイメクラじゃないか!」

 生活指導部だけではなく親方日の丸にまで目を付けられちゃうぜ……ったく。

「エッと、ネットで調べて型紙を起こして見るよ……麻美子と一緒に……」

 呆れ顔を浮かべる留美に、幸作は力なくうなずく。

 その方が賢明かもしれないな? この男はダメ男君だぜ、ったく。

 頭を押さえながら、怒られて尻尾を丸めている犬の様な顔をしている啓太を幸作がひと睨みしていると、頭上から爽やかな声が聞こえてくる。

「大変そうだね? 戸田クン、転校早々だけれど力になれるように頑張るよ」

 コロンなのだろうか、その声と同じように爽やかな香りを漂わせながら長身の智也が幸作たちに声をかけてくると、幸作の顔が一瞬引きつる。

「あぁ、頼んだよ、といっても男子はほとんどが裏方になるから……」

 何とか笑顔を作っていながらも、顔の一部を引きつらせる幸作はそう言いながら智也に声をかけると、白い歯をキラリと光らせ(幸作曰くレーザービームでも装着しているのでは)ながら、麻里萌と留美に微笑みかける。

「ウン、ボクは裏方の仕事の方が好きだから、精一杯頑張らせてもらうよ。笹森さんたちの迷惑にならないようにね?」

 その笑顔を直視した留美は顔を上気させ、話半分にトロンとした顔をしながらコクコクと首を縦に振り、心なしか麻里萌も少し頬を赤らめているように見える。

 なんだ? なんだって麻里萌まで赤い顔をしているんだよぉ。

 一瞬にして機嫌の悪そうな顔をして机に頬杖をつく幸作の背後から再び声がかけられ、かったるそうに顔を振り向かせる。

「戸田! あたしはお前と同じ設営担当だ、ちゃんと指示をしてくれよ」

 振り返ると腰に手を当てながら長身の女子が、まるで幸作の事を見下す様な顔をしながら見据えてきており、幸作もその言い草に意地の悪い顔で答える。

「わかっているよ、今色々な事を考えている所だから心配するな、それに設営担当はほとんど亮に任せる事になると思うから、亮の指示に従ってやってくれ」

 役割としては設営担当という事になっているが、そのほとんどがクラスの意見の調整役や備品の調達係になると思われ、実権は亮に任せている(不穏な事を言っていたが、それは無視)。

「そっか……一之瀬……か……まぁ、何か手伝える事があったら遠慮なく言ってくれ、出来る限り協力してあげるから」

 なぜか残念そうな顔をする音子だが、すぐにいつもと同じように意地悪い表情を浮かべ、幸作の顔を覗き込み、その様子に今度は麻里萌が頬を膨らませる。

「ハハ、頼んだよ、さすがに俺一人では何もできないからな? そんな時は音子にでも頼むよ」

「アハハ、これが本当の『ネコの手も借りる』だね?」

 ――――一瞬にして熱くなっていた教室中の空気が冷やされたようだぜ啓太……オヤジギャグなのだろうか? どおするんだこのしらけた雰囲気。

 先ほどまで騒がしかった教室内は、重い空気が充満し水を打ったように静まり返っており、その原因を作った啓太はキョロキョロと周囲を見回している。



「理由はどうであれ、クラスが結束してくれたのは喜ばしいな?」

 ドタバタしながらも準備を終え学校の帰り道。すっかりと辺りは夜の帳が下り、いつもと同じように宝来町の電停で電車を降りた二人は、肩を並べながら家路を急ぐ。

「ウン……」

 って、会話が成り立たねぇぞ? 学校を出てからずっとこの調子だぜ?

 うつむき加減に歩く麻里萌の頭に視線を向けながら、幸作は心の中でため息を吐き出す。

「…………なぁ、もしかして音子の事を気にしているのかな?」

 ゆっくりであったが歩んでいた麻里萌の足が、幸作の一言によって止まってしまう。

「前にも言っていただろ? あくまでも彼女は同級生の一人でしかなく、彼女も俺の事をそうやって見ているはずだって、今日だって悪態をついていたじゃないか」

「そんな事ないよ……古瀬さんは幸作クンの事が好きなのは間違いないよ……」

 やっと顔を上げた麻里萌の大きな瞳は、かけているメガネの奥で潤みきっている。

「万が一にも音子の気持ちがそうだとしても……そのぉ、俺の持っている気持ちというものは変わるはずは無いんだよ」

 照れくさくなり幸作は、視線を麻里萌からそらすと、闇の盛り上がりのようになり山頂部分では、チカチカと光るフラッシュが瞬いている函館山に視線を向ける。

「幸作クン?」

「確かに好きになる方も好かれる方も共に辛い思いをする……初音もそうだよ……彼女には申し訳ない気持ちで一杯だよ……俺がこんな男で……」

 頬を伝っていた涙がポトリと麻里萌の足元に落ち、それは飛沫となって冬の間に痛んだアスファルトの道に吸い込まれてゆく。

「でも、俺の気持ちは……俺が思う気持ちと言うのは、この俺がこの世に一人しか存在していないのと同じように、一つしかないんだよ」

 鼻先を指で掻きながら幸作が振り向くと、薄暗いながらもその頬が紅潮しているのがわかる。

「……幸作クン…………」

「麻里萌だって知っているべ? 俺の気持ちは……」

 幸作がすべてを言い切る前に、麻里萌の小柄な体は幸作の胸の中にすっぽりと収まり、涙が浮かんでいる大きな瞳に、優しい顔をしている幸作の顔が映りこんでいる。

「……知っているよ……幸作クンの気持ちは……あたしと同じ……」

 二人の顔が徐々に近づき、どちらからともなく瞳が閉じられる。

「ん? おぉ〜なんだぁ〜、ラブシーンかぁ……ウィック」

 近くを通った酔っ払いのよって、その二つの影はあっという間に離れる。

 以前にも同じ事があったような気がする……もしかして同じ酔っ払いか?

第九話に続く