数とは何かという問題について歴史を遡ると、人類に最も大きな影響を与えたのは哲学者プラトンであり、「パイドン」(1) の中で数学における基本的な概念である『等しさ』について、ソクラテスと弟子との対話として記述している。例えば等しく見える2つの石があったとしても、それは微妙に異なっており厳密には等しくない。人間が視たり触れたり出来る物の中には、完全に等しい物体は現実には存在しない。そこでソクラテスは「感覚のうちにあるすべての等しさはかの等しさそのものに憧れながら、それに不足している。」と語る。そうすると人間は『等しさ』そのものが何であるかという知識をどうやって得たのであろうか。続けてソクラテスは感覚によって知識を得たのでない以上、生まれる前に知識を得ていたのでなければならないと語り、だから学習とは想起に他ならないという。これを現代の生物学に基づいて考えると、生まれる前に得た知識とは遺伝的に与えられた知識、すなわちDNAに記録されたものであり、人間の神経系に最初から備わっているものと考えられる。さらに数学における基本的な概念は、『等しさ』そのものと類似した性質を持つので、その中で最も基本的と思われる概念について、生物学的な実体を探求してみる。
数の基本は自然数であるという点についてはあまり異論はないと考えられるが、無限に続く自然数の体系は文明の産物であり、未開の種族には2までしか数えられない種族も存在するし、文明社会における幼児も少ししか数えられない、それでも一対一の対応が理解できれば生活にそう不自由はしない(2)。また言語能力がない人間の乳児や、人間以外の動物に関しても、数の能力は備わっていることが実験的によって示されている(3)。こうした数の能力の基本は一対一の対応であるが、それは1の基本的性質によって成立すると考えられる。そうすると1の概念そのものこそが最も基本的と考えられる。
この1の概念についてプラトンは、「国家」(4)の中で1について「この道に通じた玄人たちにしても、彼らは、1そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が1を割って細分化しようとすれば、彼らの方はその分だけ掛けて増やし、1が1でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ。」と述べており、また「そのひとつひとつは、どれをとっても互いにまったく等しくて少しの差異もなく、それ自身の内に何ひとつ部分というものをもたない」とも述べている。これらから、1はお互いに等しく、分割できないものであると定義できる。ただし問題を単純化するために、扱う数の範囲を自然数に限定する。
数の始まりには自然界にある物体を利用して一対一の対応によって数えたと思われ、小石は一般的である(5)。そこで例として、子供たちがそれぞれに小石を集めて、個数を競い合っているところを想定し、具体的に小石を数えることを考えてみる。これはよく考えると難しい問題を多く含んでいる。数える方法としては一対一の対応を用いるとして、最初に何をもって一個の小石とするかを規定する必要がある。まずは石の大きさだけに絞って考えてみる。極端に大きい石は、持ち運べないので除外されるべきであり、次に極端に小さい石も、砂粒と区別できなくなるので除外しなくてはいけない。ところが、その両方の境界をどこに定めるのかは、かなり恣意的な判断となり論争の元になる可能性がある。さらに難しい問題として、使用している石が二つに割れてしまった場合、どうするかという問題もある。それらを解決した後に、色や形態などの石による性質の違いをどうするかという問題もある。全てについて多数の子供の間で合意を得るのはかなりの時間を要するであろう。このように物体はダイヤモンドといえども、分割することが可能で大きさもまちまちであり、どこまでを1とするかの定義が困難である。
それに対して数える対象として人間を選んだ場合、上記のような困難はほとんどない。小さくても大きくても一人となり、男性でも女性でも老人でも子供でも一人である。病的状態を除くと、人間は自分自身が一人であるという意識を持っているのが普通であり、他の人間も自分と同じ一人と認識する。また一人の人間を分割すると、その人間は重傷を負い、体の一部を失って回復するか、死んでしまうかのどちらかであり、元来シャム双生児であった場合以外は、二人になるということはあり得ない。すなわち怪我をしても病気をしても、生きている限りは一人であり、中間の状態はあり得ない。この人間を一人とする認識は強固なもので、生後かなり早い時期に生じるように見える。最初は自分自身を一人と認識し、次に母親それから他の家族も、一人として認識するようになるのはないか。
次に子供の段階では人間以外にもペットの犬や猫なども一匹として認識する。さらに大人は広い範囲の動物や植物を一個の生命として認識する。このように人間は生命を1として認識する傾向があり、高等動物では個体を1として考えられる。しかしプラナリアのように分割しても再生する動物もあり、粘菌のように多細胞と単細胞の両方の時期のある生物もあり、個体を生命の単位とすると困難が生じる。また高等動物でも、マクロでは分割不能に見えるが、個々の細胞を単離して培養することは可能である。このように、全ての生物は細胞から構成されており、細胞は最小の自己複製単位であるので、学問的には細胞が生命の単位とされている。
全ての細胞が多くの特徴を共有している。全ての細胞はDNAに遺伝情報を収納しており、DNAから複雑な翻訳過程を経てタンパク質を合成する。この過程は全ての生物で共通である。また全ての細胞は細胞膜に包まれている。このような共通性から考えて、全ての生物は共通の祖先から分岐して進化したと考えられている。遺伝子からみても生物界の3大ドメインである細菌、古細菌、真核生物の中から、太古から保存されてきたと思われる239の遺伝子ファミリーが見いだされている(6)。そうすると細胞は同じ祖先を持つという点ではお互いに等しいと考えられる。
次に細胞を分割する実験を考えてみる。細胞は分裂直前でない限り、分割して二つになることはなく、分割されて一部を失っても生存すれば、自己修復しようとする。ここで細胞がホメオスタシスを保とうとする時、その細胞は生命を持っていると考える。ホメオスタシスというのは細胞が一定の状態を保とうとすることをいう。例えば内部のpHや電解質濃度や浸透圧を一定に保とうとし、細胞の一部を破壊された場合は修復しようとする。ところが分割されて細胞が死んでしまうと修復されない。それは生命が無くなった状態であり、細胞は分解されてしまう。このように考えると、細胞には生命を持っている状態か、生命を失った状態しかなく、一個の生命そのものは分割不能である。そして全ての生命が互いに等しいとすれば、プラトンの1の定義は生命の定義となる。すなわち数の起源は生命そのものと考えられる。
参考文献
(1) プラトン:パイドン, 岩田靖夫訳,岩波文庫(1998)
(2) B. Butterworth: The Mathematical Brain, Macmillan(1999)
(3) S. Dehaene: The Number Sense, Oxford University Press(1997)
(4) プラトン:国家, 藤沢令夫訳,岩波文庫(1979)
(5) ミッドハット・ガザレ:<数>の秘密,小屋良祐訳,青土社(2002)
(6) B. Alberts et al.: Molecular Biology of the Cell 4th ed., Garland Pub(2001)