人間の認識の主体は脳であるが、脳は多数の神経細胞を中心に構成されている(1)。神経細胞は核を中心とした細胞体と、他の神経細胞からの電気信号を受ける樹状突起と、他の神経細胞に信号を送る軸索から構成されている(2)。軸索の先端は次の神経細胞の樹状突起とシナプスを形成している。神経細胞がやりとりする電気信号は活動電位(3)と呼ばれており、軸索を伝って次の神経細胞とのシナプスに到達する。ところが軸索と樹状突起の間のシナプス結合の強さは様々であり、次の細胞は信号強度に従って局所的に脱分極する。この局所的な脱分極が加算され、神経細胞全体がある閾値を超えて脱分極すると、神経細胞全体が興奮し活動電位を生じる。活動電位は「全か無の法則」に従って発生するので、神経細胞には興奮状態か静止状態の二つの状態しかない。活動電位は運動神経でも感覚神経でも同じ信号であり、視覚、聴覚、嗅覚、体性感覚などの感覚の種類による違いもなく、電位および持続時間が一定である。その上に動物の種類による違いもなく、人間でも虫でもネズミでも、同じ信号である(4)。このように活動電位はどの神経細胞でも共通であるので、異なった性質の神経細胞の間で信号を伝達することが可能である。ここで活動電位とプラトンの定義する1を比較してみる。1の特徴はお互いに完全に等しいという点であり、活動電位が同じ信号であるという点と一致する。さらに活動電位は分割不能であり、プラトンの定義する1の性質に一致している。このように活動電位は純粋な1に近い性質をもっている。
このような性質はコンピューターの電気信号と類似しており、コンピューター内部のデータは、全て0と1の列からなるデジタルデータであるが、それは普通の人間には理解不能である。人間が理解できる画像や音声のようなデータは、コンピューターは直接処理できない。例えば画像を入力する場合は、デジタルカメラやスキャナーを用いて、人間の目に見える画像からデジタルデータへの変換を行う。デジタルデータはコンピューターに情報処理できる0と1の列であるので、ソフトウェアを用いて自由に画像を加工できるようになる。同様に音声や動画も、デジタルデータとして入力され、コンピューターによって情報処理される。これが神経系においては、外界からの光は視細胞で活動電位に変換され、視神経を通じて大脳に送られ、情報処理されて画像として認識される。これは視覚の例であるが、他の聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの感覚も、同様に感覚器官で活動電位に変換されて、大脳に送られて情報処理され認識される。
逆に画像を出力する場合は、デジタルデータを人間に理解できる形に変換してモニターに出力する。音声の場合も変換してスピーカーに出力する。人間の場合は主要な出力は筋肉の収縮であり、大脳から運動ニューロンに活動電位を送ることが出力である。それが筋肉の種類によって色々な動作や音声となり、人間は喋ったり歩いたりするのである。このように活動電位とコンピューターの電気信号は、入力についても、出力についても、内部の情報処理についても共通した働きをする。これは双方が数としての性質を持っており、情報をデジタル化するものであるので、その点に関しては同型と考えられる。
次に生命と神経細胞の活動電位を、具体例を用いて比較してみる。生命の個体数もDNAもデジタルデータであるので、生命は自然環境をデジタルデータによって表している。すなわち数値化しているとも考えられる。そこで、同じ塩基配列のDNAを持つ大腸菌を、培養条件のうちで温度だけを変動させて、他の因子を固定して培養し、増殖速度を計る場合を考える。中温菌である大腸菌であれば、最もよく増殖する至適増殖温度37℃あたりであるので、37℃から温度が下がるに従って増殖速度は遅くなる。この場合は増殖速度は温度を表す指標となり、大腸菌の個体数は自然環境を数値化していると考えられる。次はやはり温度に関して、神経細胞について考えてみる。温度覚は温覚と冷覚に分かれており(5)、それぞれに専用の受容器がある。霊長類の皮膚の表面温度は正常では34℃であり、冷感受容器は皮膚の表面温度が下がるに従って、温度に相関して発火頻度は増加し、25℃でピークに達し、それ以下の温度では徐々に反応が減衰する。つまり活動電位の頻度は皮膚の温度を表現している。このように大腸菌の個体数も、冷感受容器の発火頻度も、どちらも自然環境を数値化している。
数値化の意味について、ブラックの微生物学の教科書(6)にあるエピソードを用いて説明する。ブラックはアイスランドの間歇泉で、長く波打つ繊維状の硫黄細菌に触れようとし、沸騰する高温の湯に手を突っ込むが、思わず手を引っ込め、しかも火傷をしてしまう。この話は人間と細菌の環境に対する適応の仕方の違いを示している。沸騰する高温の温泉では通常の細菌は死滅してしまい、環境に適応した最も耐熱性の遺伝子を持つ細菌だけが生き残ってきたと考えられる。硫黄細菌は間歇泉の流れ出る流路沿いの、いろいろな場所に異なった菌種が集まっている。最も耐熱性の菌種は間歇泉の近くに分布し、耐熱性があまり強くない菌種は、湯が適度に冷えてその菌にとっての至適温度になるような場所に分布している。このような硫黄細菌の間欠泉への適応は、自然淘汰と突然変異によってなされている。すなわち、より環境に適応した個体が分裂増殖し、環境に適応できない個体は死滅するという事が繰り返され、結果として環境に適応した突然変異だけが蓄積される。そうして最終的に、いろいろな温度に適応した硫黄細菌の菌種が生じたと考えられる。
しかし多細胞生物である人間は簡単に個体を死なせるわけにいかないので、神経細胞を用いている。この例ではブラックが手を引っ込めたのは屈筋反射による。屈筋反射は動物の四肢のうち一肢に痛覚刺激などの侵害刺激があった場合に一肢を引っ込める反射で、多シナプス性の脊髄反射であり、侵害刺激が感覚神経の活動電位に変換されることから始まる。この例では通常の細菌が沸騰水によって多数死ぬところを、ブラックの神経系は感覚神経の活動電位の数によって代行させて屈筋反射を起こし、個体の損傷を腕の火傷だけにとどめたと考えられる。このように動物の神経系は、まず感覚神経の活動電位によって環境を数値化して認識し、次に神経節や脊髄や脳などの神経回路網で情報を処理して適応行動をとる。それに対して細菌は個体の生死によって環境を数値化して認識し、遺伝子を変化させて環境に適応している。このような見方をすると、活動電位は細菌の生死を代行しており、神経細胞は通常の細胞から分化したものであるから、活動電位は細胞の性質の中から1としての性質のみを抽出したものではないかと思われる。そのため活動電位は純粋な1に近い性質を持つのであろう。
参考文献
(1) M.シュピッツァー:回路網の中の精神,村井俊哉・山岸洋訳,新曜社(2001)
(2) 櫻井芳雄:考える細胞ニューロン,講談社(2002)
(3) 宮川博義・井上雅司:ニューロンの生物物理,丸善(2003)
(4) J. G. Nicholls et al.: From Neuron to Brain 4th ed., Sinauer Associates,Inc.(2001)
(5) E. Kandel et al.: Principles of Neural Science 4th ed., McGraw-Hill(2000)
(6) J.G.ブラック:ブラック微生物学,林英生・岩本愛吉・神谷茂・高橋秀美監訳,丸善(2003)