数のイデア


 純粋な数そのものについて初めて考えたのはギリシャ人である(1)。例えばリンゴ一個、人間一人、鉛筆一本、これらに共通する「1であること」という抽象概念を考え出した。人間は一つのものを示すことは出来るが、自然数1そのものを目の前に取り出すことは出来ない。どうしても1を表現しようとすれば、指などの体の部分、音声か文字による言葉、数字または記号、または碁石やコインのような物体などを用いる必要がある。何もなしで1を頭の中で想像するのも困難である。そのため間接的に「1そのものという概念」と表現するしかない。このような1そのものを極限まで純粋化した1としての性質しか持たない概念が存在すると仮定することは可能である。これをプラトンは1のイデアと呼んだ。ここでプラトンの「国家」(2)から引用する。ソクラテスは「この学問は魂をつよく上方へ導く力を持ち、純粋の数そのものについて問答するように強制するのであって、目に見えたり手で触れたり出来る物体の形をとる数を魂に差し出して問答しようとしても、けっしてそれを受けつけないという点だ。」と語っている。このように意識は具体的な一つのものは直接認識できるが1のイデアは直接認識できない。そのため1のイデアは思考によって、間接的に存在を仮定される。このように1のイデアは現実を超越している。そして抽象思考の利点は、想像の世界で単純化した議論が出来る点である。1のイデアを用いることによって、1+1=2という計算も可能となるのであり、現実の世界では厳密に考えると1と1が等しいということすら、簡単には成立しない。人間が数学を用いる場合、現実をイデアに変換して計算を行い、結果を現実に適用する。このように1のイデアは数学の基礎となっている。

 1のイデアから数のイデアが導かれ、数のイデアは技術の進歩を促してきた。数を表す言葉がいつ出来たかは不明であるが、音声は記録に残りにくいので、記数法と計算の歴史(3)を通じて、数のイデアが人類に与えた影響について考えてみる。幼児は最初に数を指で表すが、人類の進歩も同様であったと考えられる。最初は指を用いたと考えられ、次には体の他の部分を用いる。大きな数については骨に傷を付けて記録していたようで、最も古い物は旧石器時代の遺跡から発見された。次に文明の初期には小石や貝殻、棒など色々な物を用いて数を表していた。そして紀元前3300年頃、シュメールで世界最古の文字が誕生し、同時に数字が発明された。それにより正確に数を表せるようになり、長く保存も出来るようになった。さらに文明が進歩すると、計算用には専用の計算玉が作られ、算盤が開発された。またインド式位取り記数法とアラビア数字が使われるようになり、筆算が一般的となった。その後に計算尺が開発され、計算機も作られた。このように歴史を考えると、数の表し方としては、より簡単に大きな数が表せるように、計算方法はより速く正確にという方向性がある。それが現在ではコンピューターが開発され、ついに速度と正確さで、神経細胞の活動電位を用いた計算を超えた。同時にDNAの複写を正確さで上回った。しかし、数のイデアを用いて行われる理想の計算は、エラー率は0であり要する時間も0のはずであり、そこには到達できない。人類の計算の歴史は、そこを目指して努力し続けてきた歴史であると考えられる。このように数のイデアは、記数法と計算方法の進歩を導く目標となった。

 1のイデアは、人間の世界の見方に大きな影響を与えている。認識の基本要素である神経細胞の活動電位は、1の起源である生命から、1としての性質を抽出しものと考えられる。そのため神経細胞の活動電位は不完全な1のイデアとしての性質を持っている。これを1のイデアを分有しているという。同じように、これまでに人類が数のイデアを表そうとして用いてきた様々なものも、やはり数のイデアを分有している。例えば小石や貝殻、計算玉や硬貨など、それから数字、最後にコンピューターのデジタルデータである。他に生物学的に重要なもので、数のイデアを分有しているのは、生命の設計図を構成するDNAである。DNAはアデニン、チミン、グアニン、シトシンの四種類の塩基からなっており、四進数で表すことが出来る。そして3つの塩基が組になって、64種類の遺伝暗号となる。この64種類の遺伝暗号はタンパク質を構成する20種類のアミノ酸をコードしている。このアミノ酸も数のイデアを分有している。これまでに挙げた細胞を単位とする生命、神経細胞の活動電位、計算玉、硬貨、数字、コンピューターのデジタルデータ、DNA、アミノ酸などには、外見や物理的な性質からは共通性を見出しにくい。しかし、数のイデアを通じて共通性が見いだせる。これはプラトンの主張そのものである。プラトンによると、イデア界にイデアは存在し、現実世界のものはイデアの影のようなものであり、イデアの不完全なコピーという事になる。そうすると、生命そのものが1のイデアの影であり、人間の文明の目的は数のイデアに近づくことであったのかと思ってしまう。こう考えると、ホワイトヘッドが「全西洋の哲学はプラトンの脚注にすぎない」と言ったのは納得できる。

 1のイデアは重要な概念であるが、これまでに述べたように、1の起源は細胞を単位とする生命そのものと考えられる。そして生命は、原核生物である細菌の段階でも、細菌同士がお互いに認識し、遺伝子を交換する接合という現象が知られている。これが真核生物になると、有性生殖のために異性を認識する。さらに多細胞生物となると、細胞の集合体を上手く作るには、細胞は多くの細胞を認識しなければならず、そして自分の細胞と他者の細胞を区別しなくてはいけない。このように細胞は1としての性質を持ち、細胞は細胞を認識する。ここまでは生命一般についてであるが、次に人間のような高等動物特有の1の認識を考察する。動物を特徴づけるのは運動であるが、運動を開始する場合は一方向しか選択できない。これは大きな問題であり、体の右方向と左方向に両方とも魅力的な餌があった場合、必ずどちらかを選択しなければならない。もしも体の左側の細胞と右側の細胞が、それぞれに餌を目指して運動しようとした場合、全体はより力の強いほうに動く結果となると考えられる。ところが、両方が拮抗すれば身動きできないし、どちらかに動く場合でも、反対側の細胞は運動を妨害していることになり、動きは遅くなる。それくらいなら各細胞がバラバラになったほうが有利である。原生動物であれば単一の細胞であるので、どちらかを選択すれば一方向に進むことになり、無駄がなく効率的である。ところが多細胞生物の場合、全体を単一の個体として統一しなくては、ものすごく非効率になる。そこから神経系が生じたと考えられる。ただ神経系自体も統一される必要があるので、高等動物では脳が発生し、自分自身を一つの個体として認識するようになったと考えられる。そのため心理学では、最終的な意志決定をする単一の中枢である自我というものが想定されるようになった。ところが自我の生物学的実体は不明であり、精神医学においても心理学においても、多種多様な学説があり、議論百出でまとまらない状況である。さらに東洋には自我を否定する哲学や宗教があり、自我の存在自体まで疑う考え方がある。このように正常な自我を定義するのは困難であるが、自我が障害される精神の病気は存在する。自分を単一の個体とする認識の重要性を示す病気として、人間に特有と考えられる統合失調症がある。この病気では自我の統一性が失われるが、重症の統合失調に緊張病性昏迷という状態がある。このような状態になると全く運動は不可能となり、患者は喋ることも食べることも出来ない。これは自我の単一性が運動には必要であることを示す例である。このように高等動物においては個体の単一性は不可欠であり、人間は自分を1個の個体として認識し、次は同種の個体を認識する。そこが1の認識の原点と考えられる。

 自我の特徴として超越性がある。その点についてデカルトの著作である「方法序説」(4)を基に考察してみる。デカルトはすべてのものの実在を疑い、「私たちが目覚めているときに持つ思考がすべてそのまま眠っているときにも現われうる、しかもその場合真であるものは一つもない。」と述べ、確実なのは疑っている自分が存在することだけだと考えた。そして「我惟う、故に我在り」を哲学の第一原理とした。さらにデカルトは「私は一つの実体であり、その本質ないし本性は考えることだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない。」と述べている。このデカルトの思想は、キリスト教的な心身二元論の影響を受けており、生物学の立場としては受け入れにくい部分がある。すなわち思考には神経細胞の発火を必要とし、呼吸および循環の働きも不可欠であるが、そのような視点が欠けている。これは以下のような意識の特徴が原因と思われる。まず通常は心臓の鼓動や呼吸は無意識になされており、例えば読書に熱中しているときなどは、このような自律神経の働きを人間は意識しない。さらに思考に熱中してくると、他の筋肉活動や感覚も、全く意識しなくなる。それに加えてデカルトが毎日午前中に、ベッドに寝転がって思索する習慣があったので、肉体を軽視する傾向になったとも推測される。他の例としては、ギリシャの哲人タレスが天空を視て思考しながら歩いていて、溝に落ちた話は有名である。このように人間が思考に集中した場合、思考以外の神経活動が意識から除去されるため、中空で思考はなされるように感じる。そのため思考には何のエネルギーも必要とせず、物質的な基盤が必要ないように感じてしまう。そのため「我」でさえも物質的な存在でないと考えるようになり、超越的な自我が発生したと考えられる。このように現実を超越しようとする傾向は、人間の思考の特徴と考えるしかない。我々現代人も、思考は神経細胞の発火であると理屈では分かっても、思索に集中しているときには、自我は肉体とは別の存在のように感じる。そのような感覚からイデア的な考え方は出てきたのであろう。

 意識の特徴として、認識も思考も神経細胞の活動電位によってなされているのであるが、それは全く意識にはのぼってこない。意識によって認識されるものは感覚的性質を持っている。ところが感覚神経を通じて脳に入ってくるのは、すべて活動電位である。活動電位は全て同じ電位と持続時間であり、1のイデアに近い性質を持っている。つまり我々は感覚的に世界を認識しているつもりであるが、脳に入力されるのは活動電位だけである。これはプラトンの洞窟の比喩のような状況と考えられる(5)。地下深い暗闇の洞窟。奥底の壁に向かって囚人たちが縛りつけられている。上方はるかのところに火が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。火と囚人たちの間に衝立様の低い壁があり、その上をあらゆる種類の道具物品が、また石や木やその他の材料で作った人間及び他の動物の像が、差し上げられて運ばれていて、その影の動きが火の光によって囚人たちの前の壁面に投影されている。囚人たちは、子供のときからずっと手も足も縛られたまま、動くことも、後ろを振り向くこともできずに、壁にうつる影しか見ることが出来ないので、それら動物や器物の像の影を真実のものだと信じこんでいる。プラトンによると、我々はこの囚人のような状況に置かれている。我々は感覚を通じて外界を認識するが、それは真実の影にすぎない。つまり視覚によって見られる世界は、囚人たちの洞窟の壁に映る影のようなものである。それでは真実とは何か、思惟によって知られる世界ということになる。ここで生物学的視点に戻ると、実験的に観察されるのは神経細胞の活動電位であり、しかも活動電位は不完全な1のイデアとしての性質を持っている。そうすると思惟は、活動電位の性質を用いて行われるのではないだろうか。

 プラトンは感覚だけで認識できるものと、感覚だけでは認識できないものがあると述べている。感覚だけでは同時に正反対のものを示す場合があり、その場合は魂は知性の助けを呼ぶ。例えば指を認識する場合、視覚は指と正反対のものを示したりしない。すなわち指は感覚だけで認識できる。ところが指の大小を比較する場合、視覚だけでは不十分である。同じ指が比較する相手によって、大になったり小になったりする。この場合は思惟の力が必要であり、思惟によって二本の指の大小を比較できる。そのためには、活動電位の1のイデアとしての性質を用いて、それぞれの指を表す活動電位の数を、何らかの方法で比較するしかない。このように思惟は活動電位の性質を利用して行われる。そうすると活動電位が1のイデアのようにも思えるが、1のイデアは物理的性質を持っておらず、より理想的なものである。このようにイデアが現実の存在を超える理由は、自我及び思考が超越的性質を持つこと、また活動電位が直接認識されないということ、この2点と考えられる。しかし、1のイデアが物理的実体がないならば、どうやって現実に影響を及ぼせるのであろうか。そして生命のような1に対応する具体的なものは、実体として存在する。それならば1のイデアをどう考えるべきか、本当は私も結論は出せない状態である。ただイメージとしては、遠近法の透視図法における消失点のようなものと考えている。現実に存在するものではないが、想定されるものというイメージである。例えば透視図法の傑作として知られるレオナルド・ダ・ビンチの最後の晩餐では、消失点はキリストの額にある。ただしそこには点が描かれているわけではない。つまり実体のない点が、絵画の中心になっているのである。これがイデアの役割と非常に似ている。透視図法はルネサンスにイタリアで考え出された。そしてルネサンスは絵画から始まり、科学革命につながっているが、それは必然に違いない。科学は世界の真実を見出そうとする作業であり、それはプラトンの洞窟の比喩における囚人が、影絵から実物を見出そうとする行為と思える。私のイメージでは、科学というのは透視図法の消失点を見出す作業のように見える。

 我々は洞窟の比喩における囚人と同じように、壁に映った真実の影しか見ることは出来ない。ところが人間は、そこから思惟の力によって1のイデアを見出し、数学及び哲学を創り出した。そのような深い思索を行う場合、むしろ感覚は遮断されるべきなのだろう。上に述べたギリシャ哲学の始祖タレスにしても、あるいは近代西洋哲学の始祖デカルトにしても、感覚や肉体を超越しようとする傾向が見られる。このような感覚を超越した理性による視点は、数学の基礎となり、そこから物理学が生まれて近代科学が発達した。このような物理学的な世界観は、人間の感覚が通用しないミクロの世界や宇宙にまで適用可能である。しかし、1のイデアは生命が世界を認識するための基本的な要素であるが、世界そのものではない。そうであるのに1のイデアから導かれた数学は、世界の記述に非常に役に立つ。例えば虚数は二次方程式の根の公式から生じた概念であり、その名の通り架空の数である。ところが量子力学において重要なシュレーディンガーの波動方程式には虚数が入っているのである(6)。このようにミクロの世界では、感覚による認識は役に立たず、数学による世界の記述の方が、より真実の世界に近いのである。 何故数学がそれほど有用なのであろうか。数学はむしろ我々の認識の方法から創られたものであるので、人間が直接認識できない世界にまで適用出来るのは驚くべき事である。このような不思議な数学の有用性を、プラトンは予見していたのであろうか。数学の基礎としてのイデア論に敬意を表して、このホームページ自体をプラトンの脚注として作成した。

参考文献
(1) J.D.バロー:天空のパイ,林大訳,みすず書房(2003)
(2) プラトン:国家, 藤沢令夫訳,岩波文庫(1979)
(3) D.ゲージ:数の歴史,南條郁子訳,藤原正彦監修,創元社(1998)
(4) デカルト:方法序説,谷川多佳子訳,岩波文庫(1997)
(5) 藤沢令夫:プラトンの哲学,岩波新書(1998)
(6) 吉田武:虚数の情緒,東海大学出版会(2000)

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