いろはの幽霊喜談 学園篇
ヒート・シンク
１
――学校……、ですか？
その問いに、目の前の女性はうなずいた。薄暗い部屋の中、私服の上に軽く羽織った白衣が端末のモニターの光に照らされて、その姿はほたる火のように闇から浮かび上がっている。顔は良く見えない。しかし毎日のように顔を合わせているのだ、その特徴である分厚い眼鏡をかけていることはすぐに分かった。
――私は構いませんが、他の……津川さんとかに同意を得なければ、ここから出ることは出来ないと……。
言葉じりを無視し、その女性は私の体を拘束していた器具を取り外し始めた。横目でちらりと覗いたその表情は険しく、何やら苛立っているようだとは感じたが、それ以上は計り知れない。
――後で怒られても知りませんから……。
そうは言ったが、内心嬉しかった。彼女はいままで――といっても僅か二週間だが――自分のプライベートの話をしたことは一度も無かった。いつも決まった時間にここへやってきては仕事をこなし、他の人達と雑談らしい話を交わすことも無く、決まった時間に帰っていく。他の人達は彼女が帰った後、いつものように彼女の話を始める。内容が聞こえないことの方が多かったが、拾い上げた断片から察するに、技術はあるが人付き合いは良くない。若い女性だから何かと忙しいのは分かるのだが、もう少し職場の和というものを察してくれないか、といったものだった。
外に出る、という彼女の提案をのめば、彼女の普段の表情が見られるかもしれない。同じ女性として、少なからず彼女の私生活に興味を抱いていたことは事実だし、それに知識として知ってはいたが、実際にはみたことも無い学校という環境が、私にはとても魅力的なものに思えたのだ。
――それで、私はどの学校に……？
私を固定していた器具を全て外し終わった彼女は、無言で一着のブレザーを差し出した。腕に刺繍された巴の紋と「MITAMA」の文字。私がそれに袖を通すと、彼女はこう言った。
「あなたは、私の妹なんだから」
――私は、ずっと娘だと思ってましたが……？
２
桜がようやく散り始め、学制発布以来長々と続いてきた「春＝不本意に新たな環境にほうり込まれ、それに適応することを強要される季節」のイメージが薄れかけてきた頃。市立御霊高校二年Ｆ組は、ある噂を口にする生徒三九名と、まったく気にしない一名の女子で騒然となっていた。
「なんかこう、ステレオタイプ、というかお約束というか、よくある話ではあるよな？」
その教室の廊下側の一番後ろ。モバイルウェアに向かい、間断無くキーを叩く少女に、その隣に座っていた少年が声をかけた。どこにでもいるような一六歳の少年。中肉中背の体躯に浅葱色のブレザーをひっかけ、頬杖をつきながら隣の少女に視線を投じる。だが、その少女はモニターから視線を逸らすこと無く、上の空で生返事を返した。
「なにが？」
「いやさ、転校生が来るっていう話。ありがちだよな」
あえて始業式を外したのもまた凝った演出だしな。とうそぶく彼の名は新堂悟。サッカー以外これといって取り柄がないが、これといって苦手なものも無く、なんでもそつ無くこなせる一般人予備軍である。
「あら、転校生じゃないわよ」
そういってようやくディスプレイから視線を外し、首をもたげたのは、透き通るような白い肌に、赤みがかったセミロングストレートヘアの、一見華奢な少女。幼さを多分に残した顔立ちだが、その大きな双眸だけはいたずらに狡猾そうな光を放ち、人を寄せ付けない独特の雰囲気を醸している。彼女の名は「紫雨いろは」。その名を聞けばこの御霊高校で知らないものはいないという、超高校生級天才少女である。
いろはがたった今ログオフした端末は、ついさっきまで御霊製薬の開発室オンライン会議に繋がっていて、彼女が研究の一端を担う「開発コード〇二六」の臨床試験における経過報告と、今後のプロジェクトの骨子を討議していた。本来、御霊高校ではアルバイトは禁止されているのだが、いろはの場合は特例として様々な制約が免除されているのだ。
いろはがおもむろに自分の後ろの席を指差す。
「ここ、最初からずっと空席だったでしょう？ ここにはもう一人クラスメイトが座るはずなんだけど、なにか事情があって今日まで来られなかったらしいのよ。何でも体調的なものらしくて、これからも週に幾度かは休まなければならないって……」
そこまで言っていろはは、はっと口をつぐんだ。それを見逃す悟ではない。ふふーん、と白々しく鼻を鳴らしてみたりする。
「ほほう、ずいぶんとお詳しいことで。いろはさんはこういったことにはとんと無関心だと思ってまびゅ！」
「少し黙ってなさい」といういろはの独白を聞く間もなく、口の中にハリセンを突っ込まれた悟は白目をむいてくずおれた。どうやらハリセンが食道のあたりまで入って、窒息と共に動脈を圧迫されたようである。
周囲の生徒が何事かと振り向いたが、さすがにこのコント（？）にも馴れたようで、立ち上がって駆け寄るような者はいなかった。いろはが咳払いしながら、ふたたびモバイルを立ち上げようとしたその時、にわかに教室が色めきたった。
「転校生のお出ましみたいだな」
いつのまにか回復している悟が、あごに手を当てながら興味深そうに視線を投じる先には、案の定ふたりの人が立っていた。ひとりは担任の佐伯操子。いつもナチュラルメイクでボーイッシュな印象を受ける、かに座Ａ型の二十五歳。常時恋人募集中らしい。その隣にちんまりと佇むのが、どうやら新たな級友のようだ。女子のようだがここからではよく見えない。かろうじて確認できるのは、頭に髪飾りのようなものをつけているということだけだ。
その女子が、黒板にチョークで自分の名前を書いて、ぺこりと頭を下げた。「大津扇子」と言うのが彼女の名前らしい。
「このたび私たちのクラスメイトになる、大津……おうぎこ、さん？」
あからさまに頭の上に「？」を浮かべた操子が、転校生に確認を取る。肩を縮こまらせていた転校生がゆっくりと顔を上げた。まるで日に当たったことの無いような、病的に白い肌。しかしそれ自体は特に珍しいものではない。目を凝らして見てみると、気になるのは制服からあらわになっている彼女の膝。そして手、指、関節の造り……。
「いえ、みこ、です。おかぁ……じゃなかった、お姉さんにつけてもらったんですけど、読みにくいんじゃないかっていったら、私の体を良く表してるって言われて……その、この冷却用クーラーファンのことらしいんですが……」
そう言って扇子が指差したのは、自分の頭と背中についている機械のようなものだ。髪飾りかと思っていたのは、パソコンの背面にあるような冷却用のファンだったのだ。
「と、いうことは……」
数人の生徒がどよめいた。
「私ですか？ 世間一般で言うところの、ロボットです」
「えーっ！」「うそー！」「人間そのものじゃん！」
われんばかりの驚嘆の叫びに教室が震えた。
「既存のものとは違ってモーターやエンジンを使わないので、厳密にはロボットとは言わないみたいですけど……」
鳴り止まぬ喧騒にかき消され、扇子の声は次第にすぼんでゆく。そんななか、
「……えーと、まぁ積もる話はホームルームの後で……。簡単に自己紹介してください」
「先ほどご紹介に預かりました、大津扇子です。擬似人格統制のための実地試験として一週間ほど授業に参加させていただきます。基本スペックは、独立自由形オーガニックドライブを搭載していて、連続最大出力は〇．八馬力、瞬間最大出力は三．二馬力で……」
そこまで言い終わらないうちに、数人の男女が手と同時に声を上げた。
「しつもーん！ 空は飛べるの？」
「いえ、そういった機能はついて……」
「五次元ポケットは？」
「いえ、そのようなものは持ってません……」
「内蔵火器とかは？」
「現行の法律に抵触するものは一切……」
「燃料は？ やっぱ原子力？」
「いえ、高効率の燃料電池ですが、家庭用電源でも稼働できます」
「なんだ、意外と普通じゃん……」
頬杖をついた悟がつまらなそうに独りごちる。ロボットという言葉に彼も少なからず淡い期待を抱いていたのだが、現実はえてして面白みがない。いや、ロボットのクラスメイトというだけでかなり特殊な状況なのだが、どうやらいろはに付きまとわれていると、非現実的な出来事に対する免疫ができるようだ。これまでにいろはが原因で悟が直面した事態は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
ふとその元凶を見ると、何やら難しい顔でぶつぶつ言っている。どうやら扇子を睨んでいるようだが、悟にはさっぱり分からない。その間にも扇子は質問責めにあってあたふたしていた。
「ほらほら！ もうすぐ一時間目が始まるから、質問はその後！ ……大津さんは廊下側の最後尾の席だから、そこで授業を受けてね」
操子のその言葉に、沸き立っていた生徒が一瞬にして凍りついた。一様に後ろを振り返る。その胸中はみな同じであっただろう。
いろはの、つまり『東洋の魔女』の後ろの席。
誰もが扇子の未来を案じた。当のいろはは腕を組んでまだぶつぶつ言っていたが。
「皆さん、これからよろしくお願いします！」
静かな教室に、扇子の声と始業のチャイムだけが空しく響いた。
３
昼休みになると、扇子が世界初のヒューマノイドとあって、学校中から見物人が二年Ｆ組にやってきた。しかしいろはがそばにいるので「触らぬいろはに祟りなし」とばかりに、遠巻きに眺めていく者がほとんどだった。状況を、つまりいろはの恐怖を知らない人間も、まわりの人間がいろはを遠ざけているのを見て、同じように距離をとって眺めていた。
「しかし、よくできてるよなぁ」
悟が扇子の手をしげしげと見つめる。扇子はその手を開いたり閉じたりする。
「ウイーン、っていうモーターの音とかがしないけど、そういうもんなの？」
「私の駆動系には、モーターは使用されてないんです」
「だったらどうやって動いてんの？」
「オーガニックドライブ、といって、電圧の昇降で収縮する組織によって力を得ています」
「それは、人間で言う筋肉みたいなもん？」
「はい、ですので、オーガニックドライブのことを人工筋肉と呼ぶこともあります」
「へぇ、すげえな」
何がすごいのかよく分からないが、とにかくすごいことは分かる。悟が感心していると、いろはがふたりの間に入ってきた。
「あなた、どこの研究所から来たの？ 社名とか書いてないけど……、ＰＯＮＤＡ？ それともＳＯＭＹかしら」
確かに、扇子の外装にはメーカーの名前や表示が一切なかった。
「いいえ、ＮＡＺＤＡです」
「え、じゃあもしかして、ＮＡＺＤＡのＯＨＴＵ―Ｐ１……とか？」いろはが怪訝そうに問う。
「はい。おっしゃる通り、Organicdrive loaded Humanoid Terminal Unit Prototype-oneですが……」
扇子ことＯＨＴＵ―Ｐ１が流暢に機体名称を読み上げる。
いろはが目を丸くした。
「どうしたんだよ、くしゃみが出そうで出ないときみたいな顔して」
悟のちゃちゃも、いろはには無視された。
「半年前にＮＡＺＤＡの技研から、新型ロボットに必要な部品の改良を依頼されたの。熱変換効率が悪いからって……」
「それもつい最近、最小単位のセルデバイスの設計変更により解決されて、駆動系の問題がなくなったんです」
「知ってるわ。あたしが関わったのと同時期に改良されたらしいじゃない。でも、あなたみたいなロボットだったなんて」
「知らなかったのか？」
「知らなかったわよ。まさかこんなお人形だとは……」
言って、いろはは慌てて扇子を見た。さすがにお人形という言葉はひどかったか。しかし扇子は何も気づいていないようだった。
「ソフト面もほぼ同時に一通りの完成を見まして……、この高校への編入は、最終的な疑似人格の統制を、より確実なものにするための実地試験なんです」
午前の授業での扇子は、必死に情報を摂取するだけで直接授業には参加しなかった。それでもまだサンプルが足りないらしいが。
「という事は、当時問題になっていた部分は全部解決したのね？」
「ええ、ほぼ。ただ熱変換効率だけが要求値ぎりぎりなんですが……」
たしかに、常時フル稼働のクーラーファンからは、暖かい風が漏れている。
「高温超伝導回路の廃熱が膨大で、電解液に必要な保温分でも二五％にしかならなくて……」
「静止時で、でしょ？ 活動時には相当なものになるはずよ」
「はい、ですから電解液を中和し、廃液として排出して温度調節するんです」
「……トイレに行くってことか？」
横やりを入れる悟をいろはが睨みつける。悟はそれを軽くいなしながら扇子に話しかける。
「でもさ、犬型のペットロボットが流行ったりしたけど、ここまで人間にそっくりなんてなぁ……。関節はまんまロボットだけど」
関節のことを指摘され、扇子は急に頬を赤らめた。
「自由独立型ドライブなので、部品交換が容易に出来るような設計なんです。人間のように表面組織、私で言うならカバーですけど、それと循環系を一体化させることも出来るんですが、さっきの熱問題があるので……。それに私は試験機ですし……」
どうやら試験機であることに、コンプレックスを持っているらしい。
「い、いや、でもほんと、こうしてしゃべってても人間と見分けつかないよなぁ」
悟のフォローに扇子の表情が少し明るくなる。
「はい、思考制御にニューロボードを搭載した多次元並列式情報処理システムを使用してますので、曖昧な判断や、大局的な思考など、人間のような感覚を実現してるんです。思考基準は女性の思考モデルを元に設計されてるんですよ」
鉛筆で概図を書きながら、嬉々として自分のスペックを披露する扇子。だが次の瞬間、持っていた鉛筆がミシミシと嫌な音を立てて一気に「く」の字に折れた。
「あ……」悟は目を丸くしている。
「あ……」扇子はまたやってしまったというふうに、苦笑いした。
「アクチュエーターの自律異常かしら。情緒不安定になると出力が可変するみたいね」
いろはが解説を加えると、扇子が「そうなんです」と言ってしおらしく縮こまった。
「私、握力は六十キログラムあるんです……」
「俺でも四十そこそこだぜ」無駄に強いな、などと感心する悟。扇子はさらに恥ずかしそうに、肩の間に顔をうずめるほど縮こまった。
「私は試験機なので、データを取るために成人男性と同じ程度の仕事ができるようなスペックなんです。後継機では無駄な機能を省いて、普通の女の子のような性能にするそうなんです」
しなだれる扇子。それをフォローしたのは意外にもいろはだった。
「でも、自分に与えられた力は使うべくして与えられたもの。そんなあなたの能力を必要とする人だって、必ずいるはずよ」
その言葉で、扇子の顔に見る見る活気が戻ってきた。
「そう……ですよね、必要だからついている機能なんですよね！」扇子の机は彼女に押さえつけられて軋んでいる。
（データを取るためだって、自分で言ったのになぁ）
悟は言いかけたが、晴れがましい扇子の顔を見たら言えなくなってしまった。
「そう、性能といえばさ……」代わりに気になっていたことを質問する。「扇子はそもそも何のために作られたわけ？」
その質問に、扇子は急に固まってしまった。
「何のために……ですか？」
質問を繰り返すところを見ると、返答に窮しているらしい。
「んじゃあ、質問を変えよう。扇子は何ができるの？」
これなら妥当だろう。そう思っていると、視界の隅からいろはが睨んでいた。失礼な質問とでも言いたいのだろうか。しかし扇子は考えをめぐらせてから指折り数え始めた。
「ええとですね。運動性能についてはお話したとおり、一般成人男性と同じ程度の運動が可能です。稼働時間の制限がありますので、あくまでパワーとスピードにおいてです。細かな仕事、精密動作では、針の穴に糸を通す程度のことは可能です。辞書だって一枚ずつめくれますよ」
言って、両手のひらを開閉させる扇子。童謡「むすんでひらいて」を連想させる動きだ。
「ほかにも、そろばんができます」
その告白に、悟は飲んでいたウーロン茶を吹き出しそうになった。
「え、そろばんって、あのパチパチするやつ？」
「はい。所員の方に教えてもらったので。加減乗除、何でもござれです！」自信満々の扇子。
悟はそこで、あることを思いついた。バッグから携帯電話を取り出し、机の下でひそかに電卓機能を立ち上げた。
「扇子、98564かける27639はいくつ？」
急な質問だったので、聞いていなかったようだ。
「えっと……、すいません、もう一度お願いします」
「98564かける27639」
「ちょ、ちょっと待ってください……」
言うなり、扇子は額に手をやって考え始めた。扇子の話ではメインＣＰＵは人間で言う心臓の位置にあるため、何か違うような気がするのだが、その動作の方が人間らしかった。
だが、そのままの状態が三十秒も続いた。扇子は無言のまま微動だにしない。頭部と背面のクーラーファンからは尋常でない量の熱風が吹き出していて、周囲の気温が心なしか上昇したような錯覚を覚える。いや、実際上がっていたかもしれない。
扇子があまりに考え込んでいるので、いろはと悟はパソコンがハングアップするように、扇子もフリーズしてしまったのではないかと心配になってきた。しかし、扇子は突然額にやっていた手を下ろし、姿勢を正すと、照れくさそうに言った。
「すみません、紙と鉛筆を貸していただけますか？」
結局、扇子が筆算で計算を終えるまで一分かかった。
「話の腰を折って悪かったな」
悟が呆れたような、疲れたような声で言うと、扇子は無言で縮こまった。いろはは何も言わない。さすがにフォローの余地も無いのだろうか。
「いや、計算なんて、電卓を使えばいいんだもんな。いまどき電卓つきの携帯は当たり前だし」
悟が努めて明るく言うと、再びいろはが睨んだ。「フォローになっていない」という、無言の非難だ。
「すみません……。暗算だけ八級なんです……」
訊くと、珠算の方も五級らしかった。
「んじゃさ、掃除洗濯とかの家事なんかはどうなんだ？」
「あ、お洗濯は得意です！ 研究所で、所員の方のワイシャツを洗ったことがあるんですが、ものすごく真っ白になったって喜んでくれたんですよ！」
ころころ変化する扇子の表情を見て、何よりの得意技はその切り替わりの早さじゃないか、と悟は思ったが、もちろん口には出さなかった。
洗濯だって、今では洗濯機に入れてボタンをひとつ押すだけで全自動である。洗剤などは多少量が増減しても結果にはあまり影響しない。特技としてはいまひとつ説得力に欠けていた。
そのほかにも、ピアノで「かえるの歌」が弾ける、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を冒頭から五千字程度まで暗誦できる、先日五百ピースのジグソーパズルを完成させた、など、最先端のロボットとして誇れるものなのか、悟にはよくわからない実績が扇子の口から語られた。しかしそれらを語る扇子はとてもうれしそうで、言葉の端々には研究所員への絶大な信頼が伺えた。
「……それで、志田さんという方が私にフリスビーを教えてくれたんですけど、私なかなかうまく投げられなくて。でも、繰り返し教えてもらって、今ではすごく遠くまで飛ばせるようになったんですよ！」
（でも、おそらく受け取ることはできないんだろうな）
悟はそろそろ聞き飽きてきて、あくびをかみ殺していた。
「ねえ扇子」まだなにか話そうとしていた扇子を、いろはがさえぎった。
「あなたの連続稼働時間って、どれくらいなの？」
「え、あ、はい。一回十時間の充電で、座って話を聞く程度の低運動量時で連続五時間。移動などの高運動量時で連続三時間。スリープモードでは十五時間の稼働が可能です。今みたいに家庭用電源から電力を供給しているときは、環境にもよりますがその二倍くらいです」
言って、扇子は何かに気がついたようだ。
「あ、もうそろそろバッテリィの残量が五〇％を切るころです」
扇子のバッテリィは太股に格納されているらしい。人工筋肉の出力が人間の筋肉より大きいので、扇子の体に占める人工筋肉の割合は思ったより少ない。骨格もチタン製で人間の骨より少ない容積ですむし、消化器系も一切持っていないので、その分バッテリィやＣＰＵ、冷却系機器など、本来人間に無い部品を、人間の外形を維持したまま格納することが可能になったらしい。扇子いわく、これもひとえにオーガニックドライブの性能向上の恩恵だそうだ。オーガニックドライブの改良以前は、背中にランドセルを背負ったような格好のロボットがスタンダードだったそうだ。
「今から充電するのか？」
「はい、基本的にはバッテリィを使用してのスタンドアロン稼働です。先ほども言いましたとおり、家庭用電源でも稼働出来ますが、家庭用の百�硬展擦任蓮�電力供給しながらでもバッテリィ内の電気は消費していきます。それに、コードの長さもあって、低運動量の行動しかできません。バッテリィの電圧が下がってくると動作が不安定になる機器もありますので、最低でも残量二〇％になる前に充電しなければならないんです」
そう言って、扇子はおもむろに立ち上がり、時計を確認した。
「十二時半から一時間、充電しなくてはいけないんでした。もし問題が無ければ、また戻ってきますね」
「保健室まで送るわよ？」いろはが呼び止める。しかし扇子は
「いえ、そこまでお手数かけるわけにはいきません。お二人とも、お昼がまだですし。大丈夫です、一人で行けます」
と言って廊下へ出て行った。
「車みたいに、動かしながら充電するわけにはいかないんだな」
「あたりまえでしょ」いろはがにべも無く否定した。
「それにしても、本当に驚いたわね……。扇子がヒューマノイドだなんて、にわかには信じられないわ」
「おまえ、関わってたんじゃないの？」
「関わってたといっても、ＮＡＺＤＡからすればあたしのいる研究所なんて孫の孫会社よ。仕様を提示されて、それをクリアする為にちょっとだけ既製品をいじっただけだもの。電子機器をたんまり搭載したロボットの、冷却および潤滑剤としか聞いてなかったわ」
そう言って、腕を組むいろは。
「まさかヒューマノイドを作ってたなんて思わないわ」
「なあ、本当に扇子がロボットなのか、確かめに行かないか？」
もしかしたら、だれか人間が特殊メイクを駆使して、ロボットのふりをしているのかもしれない。
そう言ったらいろはは「何のために？」と切りかえしてきた。
「それって、いつかばれたときのリスクが大きいんじゃない？」
「ばれたら顰蹙を買うというリスク、ばれなければ楽しいというプロフィット。そのスリルをさらに楽しみつつ、リスクとプロフィットを交換するのがエンターテイナだろう？」
「でもどうやって？」いろはは得心の行かない面持ちで聞いてきた。
「ドライバとニッパ片手に分解するっていうの？」
さらりと怖い事を言う。それは扇子がロボットでも、たとえ人間でも、かなりスプラッタな想像だ。
「実際に充電しているところを見に行くんだよ」扇子が出て行った方向を指差す。
「あたしが送っていくって言ったときにあの子断ったでしょう？ あまり人には見られたくないんじゃないかしら」
「充電っていったって、人間にすりゃ食事みたいなもんだろ？ 幸い今日は俺もお前も弁当なんだ。一緒に食事、これこそ親睦の第一歩だろう？」
どこから持ち出した一般論なのか、かなり適当だったが、いろはは何とか承諾したようだ。やはり扇子の正体が気になっているのだろう。とりあえず廊下に出て、扇子が歩いていった方向に進むことにした。
「まさか教室ってことはないだろう」
「扇子はあの姿なのよ。周りの人の流れで分かるわ」
実際いろはの言うとおりだった。廊下の突き当りまで来ると、十数人の生徒が、階段の手すりから身を乗り出すようにして、一様に下をのぞいている。
聞くと、女子が転んで動けなくなっているらしい。悟といろはは顔を見合わせ、急いで階段を駆け下りた。
悟たち二年生の教室は東棟の三階に位置する。校舎東側の階段を一段跳びで下りていくと、ちょうど二階と一階のあいだの踊り場に見慣れた機械を背負った女子生徒が倒れているのを発見した。その女子を取り巻いて、何人かの生徒が不安そうな面持ちで見つめている。実際に手を貸そうという人間はいないようだった。
悟は舌打ちして倒れた女子のそばにかがみこんだ。頭と背中にクーラーファン。うなじから背中へ伸びる集積ケーブル。関節のギミック。確認するまでもなく、扇子である。
「おい、大丈夫か？」悟は扇子の肩を揺さぶる。
そこに遅れて到着したいろはが、悟を制した。
「不用意に動かさないで！ どこが故障したか分からないのよ」
言われて悟は慌てて扇子から手を離した。
扇子はまぶたを閉じて眠っているような様子だった。しかし頭と背中のクーラーファンが回っているところを見ると、完全に壊れたというわけではなさそうだ。幸い呼吸と思しき胸郭の上下運動が続いている。ロボットに呼吸する必要があるかどうか疑問だったが。
「誰か転んだときの様子を見てた人はいない？」いろはが周囲をぐるりと見渡すと、野次馬の一人が口を開いた。
「最後の一段を踏み外したんだよ。真っ暗なところで上り下りすると、最後の段だけ「かくっ」となるだろう？ あんな感じでさ」
「転んだとき、どこか打った様子はなかった？」
「さあ……、つんのめるようにして倒れたから、頭とかは打ってないと思うけど……」
扇子の外装を見ると、手のひらとひざに擦過傷があった。額や鼻先に傷は見られない。いろはの判断で、悟はそっと扇子を仰向けに寝かせた。実際は、あまりの重さにそっと動かすことしかできなかったのだが。
悟はそこで初めて扇子の肌に触れた。思っていたほど弾力のある素材ではなかった。表面にマット加工を施した、不透明度九十％くらいのプラスチックのようなもの。ちょうどリカちゃん人形の体の素材と似ているように感じた。シリコンか、プラスチックか、知識のない悟では判別はできない。ただ、ひとつだけ異常だったのは、その温度だった。肌にしては非常に熱い。ブラウン管テレビの背面と同じ程度の温度。それは腕、足、顔のどこもが発熱しているようだった。
「もうすぐ保健の先生が来ます！」人垣の向こうから女子の声が響いた。保健の先生が来てもしょうがない。悟は担任の操子を呼びに行こうと立ち上がった。そのとき、野次馬の壁の一部が開いて、白衣の女性が息を切らしながら現れた。
牛乳瓶の底のような、度の強い黒ぶちの眼鏡をかけている彼女はかなり驚いた様子だった。いつもはおろしている肩より長い黒髪を、今日はアップにしている。化粧で童顔を隠しているきらいがあるのだが、大人っぽく見せるというよりは、大人ぶった子供、というイメージを抱かせるこの女性は、御霊高校保険医の岸辺由加里であった。
「ちょっと、これどうしたの？ 階段から落ちたの？」
悟といろはの間に割って入るように、扇子のそばにかがみこむ由加里。途端、はっとした表情になった。
「これって、今日来たばかりのロボットの子じゃない！」
言いながらも的確に体の各部位を調べている。もちろん専門的なことが分かるはずもなく、由加里は一通り調べ終えるとため息をついた。そこで改めて気がついたように、周囲を見渡す。
「誰か、転んだときの状況を知ってる人は？」
さっき答えた男子が答えようとする前に、いろはが口を開いた。
「階段の最後の段を踏み外して、前のめりに転んだんですって。見たところ手のひらとひざに擦り傷があるだけだけど、どこを打ったかは分からないから、一刻も早く検査した方がいいわ」
由加里はそこでようやく、自分の隣にいるのが紫雨いろはだということに気がついたらしい。みるみるうちに顔面から血の気が引いていったのを、悟は見逃さなかった。しかしいろははそれに気づいた様子はない。
由加里はほんの数秒固まっていたが、気を取り直したのか、今度はこちらに向き直った。
「あなた、二年の新堂君だったわよね。この子を運ぶのを手伝って頂戴」
由加里が悟を知っていたのは、悟が部活動中に怪我をして、保健室に行ったことが何度かあったからだ。悟は扇子を持ち上げようとして、その重さを思い出した。
「由加里先生、俺だけじゃ重くて無理ですよ」
「じゃあ、そこのあなた、手伝って！」指名されたのはさっきいろはに状況を説明した男子だった。
悟が足を持ち、もう一人が背中から扇子の脇を抱える。男二人で分担しても、保健室までの道のりはかなりの重労働だった。なにせ保健室の場所は西棟の一階の最も西側で、この階段からは校舎の端と端にあたる。途中何度か休憩しながら、やっとの思いで扇子を保健室の長椅子に横たえると、運び役の二人はその場にへたり込んだ。
「いくらロボットでも、重すぎだよ。八十キロはあるぞ」悟が額の汗を拭ってうめいた。
もう一人の男子は「次が移動教室なので」と言って、ふらふらと保健室から出て行った。扇子を運びはしたものの、対処の仕方が分からない由加里は、とりあえず内線電話で操子を呼び出し、悟といろはに教室へ戻るよう促した。
「先生、勝手に触って壊さないでくださいね」といろはが釘をさすと。由加里はおびえた目をしながら何度も首を縦に振っていた。
保健室からの帰り道、東棟のほうから走ってくる操子と会い、簡単な経緯を話した。
「あのロボット、預かったはいいんだけど、説明書とか一切ないのよね」と、去り際に操子がぼやいた。
扇子を運ぶのに夢中で、予鈴がなったのに気がつかなかったらしい。すでに時計は十二時三八分を指していた。しかしけが人の運搬で遅れたのだ。教師への言い訳も立つだろうと、疲れも相まって悟はゆっくりと歩いた。操子と話していたいろはが遅れてついてきて、悟の横に並んだ。
「ロボット、だったわね」
「ロボット、だったな……」言いながら、悟の脳裏に、扇子の姿が浮かんだ。改めて見た扇子の体。あれは特殊メイクなどではなかった。関節部分、外装の隙間からは内部のチューブやコード類が見えていたし、うなじのジャック部分や頭部のファンも、明らかに体内まで埋め込まれてるとしか見えなかった。それにあの肌の感触。決して人間のものではなかった。
「本物、なんだな……」独り言のようにつぶやく。
「本物ね」いろはもそれに同調する。
「しっかし、今って一九九九年だよなあ。実は未来の国からはるばるとやってきたんじゃないか？」
悟の冗談にも、いろはは表情を動かすことはない。
「ハードの問題は着々と解決されつつあるとは聞いてたわ。人工筋肉――あの子は擬似オーガニックデバイスと言ってたけど、それが実用化に向けて研究中というニュースは新聞でもやってたくらいだし。二足歩行ロボットだって、結構人間に近いものが開発されていたじゃない」
そうなの？ と首をかしげる悟。いろはは話を続ける。
「でも何より驚くべきは、あのインターフェイスよ。人とごく自然な会話を成立させてるシステム。情報工学は専門じゃないから分からないけど、あの技術は実現するまで数十年かかると、ちょっと前まで言われていたのよ」
そのような話はどこかで聞いたことがある、と悟も思った。たしか「ドラえもんは作れるか」といった雑誌か何かの記事だったような気がする。
「思考制御にニューロボードを搭載した多次元並列式情報処理システムを使用してるなんて。あれはまだ研究段階どころか理論上の産物だったのに……」
すでに悟の理解の範疇を超えた話だった。いろはも、すで悟に話しかけているわけではない。こういうことはいろはにはよくあることだった。会話の途中でどんどん思考が深まっていき、いつの間にか会話の対象が自分自身へと向けられてゆく。悟はこの状況を「置いてきぼりをくう」と、勝手に命名していた。
今まさに「置いてきぼりをくっている」状態で、こうなってしまってはいろはの思考が終了、または中断されない限り、悟の声はいろはの耳には届かない。悟はなるべくいろはの思考の邪魔をしないように、二、三歩前へと進んだ。
「でも、メインＣＰＵはリンテル製って……、ああそうか、記憶処理と動作処理が別なのね。効率的、というよりそうするしかなかったのかしら。でも……」
いろはは考え始めると口に出す癖がある。しかもこれにはパターンがあって、他愛もない、軽い思考であればもちろん口に出すことはない。とっさの状況をいち早く判断し、認識の仕方を構築するときや、結果として「結局現時点では分からない」ことがなんとなく分かっているときにこの傾向が現れる。つまり切羽詰った状況か、推論のときだけ、いろはは独り言をつぶやくのだ。両者の区別はというと、推論のときには「でも」が頻出することから判断できるのだ。
さすがに一年間も顔をつき合わせていると、顔色ひとつでここら辺の判断もできるようになってくる。おそらくそれができるのは、自分しかいないだろう。それこそ推論だが。
４
午後の六時限目に教室に帰ってきた扇子は、恥ずかしそうにぺこりとお辞儀をした後、席の間を縫って教室の最後尾までやってきた。
「おい、大丈夫なのか？ どっか故障してないか？」
扇子が脇を通るとき、悟が小声で尋ねる。
「はい、何とか衝撃も吸収できましたし」
ちょっと擦っちゃいましたけど、と言って申し訳なさそうにうつむきながら、手のひらをさする扇子。
「でも運んだときも気を失ってたみたいだから……」
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした……。転んだ直後に一時的に外部センサがシャットダウンされて、スリープモードになってたみたいです」
遠くで教師の咳払いが聞こえた。悟は話を切り上げて扇子を席につくよう促す。その姿を教室にいる全員が眺めていると、扇子はおもむろに上着のすそをめくったので、生徒全員、特に男子がどよめいた。しかし、扇子の素肌はプラスチック製。おまけに腰まわりは多軸関節になっているので、見た目は着せ替え人形のようだった。
「ちょっ、なにやってんだよ！」
お腹を出したままなにやらもぞもぞやっている扇子を、悟は顔を真っ赤にして制した。扇子は不思議そうな顔をしながら、脇腹からコードを引っ張り出してきて、壁のコンセントに差し込んだ。
「どうしたんですか？」
教室中の視線が自分に注がれているので、扇子は首をかしげた。
「あ、いや……」
悟はばつが悪そうに頭をかいた。ほかの男子も同じように視線をそらして白を切る。その様子を横目で見ていたいろはは、悟と視線がぶつかると、「ばーか」と小声で罵った。
言い訳しようと口を開いた悟をよそに、授業が再開された。
「……でぇ、ブルボン王朝のぉ、ルイ十八世はぁ……」
授業再開からわずか五分。世界史教師の独特な語り口が、催眠音波となって悟を心地よい眠りの世界に誘おうとしている。「男の夢魔はインキュバスだ、だから眠りに誘うのは女子だけにしてくれ」と、心の中で訳のわからない独り言を言い始めるのは、入眠時のサインだと自覚していたので、悟は気を紛らわすために視線をめぐらせた。
教室を見渡すと、まともに話を聴いているのが三分の一。舟を漕いでいるのが三分の一。そしてすでに撃沈しているのが三分の一。この状況がさらに睡魔に発破をかけた。
悟が観念して、腕で自分の頭にフィットする枕を作り始めたとき、不意に肩をつつかれた。悟が頭を上げると、隣の扇子が身を乗り出して、ひそひそ声で問いかけてきた。
「あのう、ぶるぼんおうちょう、ってなんですか？」
突然の質問だった。午前中の授業のときには、扇子はただ黙って教師の話に耳を傾けているだけだったのだが、今になっていきなり、しかも根本的な質問を投げかけてきた。
（さっきの転倒で頭でも打ったんじゃないか？）
悟は訝りながらも、答えに詰まる。ここで変なことを吹き込むのも面白いが、扇子は世界初のアンドロイドだ。今は正しいことを教えたほうが無難と、悟は教科書の半ばのページを開いた。
「ブルボン王朝ってのはな、いや、そもそも王朝ってのは王様が支配していた組織っつーか、体制と言うか……」
悟のたどたどしい説明に、熱心に耳を傾ける扇子。いろはが二人の会話に耳をそばだてているようだったが、悟はそれを無視しながら話を続けた。
「このルイ十八世っていう王様はヅラだったんだよ。当時の文化でさ、職業によってかぶるヅラの種類が違うわけ」
「づら、ってなんですか？」
「づらっていうのは鬘のことで、まあなぜか俗にづらって言うようになったんだけど……」
「かつら……？」
話を進めるたび、ねずみ算のように説明する語句が増えていくので、悟は仕方なく幼児言葉のような少ない語彙で話すことを余儀なくされた。
悟が持ちうる知識のすべてを投じてブルボン王朝の何たるかを話し終えたとき、同時に世界史の授業も終わっていた。
ため息をこぼしながら、教科書を机の中に押し込む悟。一足早く帰り支度を済ませたたいろはが、笑みを浮かべながら「お疲れ様、先生」と皮肉った。
「えっ、悟さんって先生だったんですか？」
「いいえ、あなたに説明する様子が先生みたいだったから、そうたとえただけ」
いろはは面倒くさがるでもなく、扇子に言って聞かせる。「そうですよね」と相槌を打ちながらも、扇子はどこか腑に落ちない様子だった。
「西洋史ならいろはに訊いたほうが詳しいし、説明も的確だよ」
机に突っ伏してすっかり疲弊した様子の悟。いろははそれを聞いて何か思いついたようだ。
「扇子、放課後に空いてる時間はある？」
「はい、五時までは学習時間となってますので」
「それじゃ、これからあたしに付き合ってちょうだい。あなたの能力を見込んでお願いがあるの」
悟は、いろはのいつもと違う挙動に嫌な予感を覚えた。いろはがへりくだっている、これは腹に一物ある証拠だ。
「俺も行っていいか？」
悟の申し出に、いろはは一瞬返答をためらった。
「いいけど、あんたが来ても面白くもなんともないわよ？」
「いいんだよ。 それに、俺は扇子の先生だからな。また転ばれても困るし」
「やっぱり先生なんですか？」
ちょうど電源コードをしまい終わった扇子が、目をしばたいた。何か言おうとするいろはを遮って、悟は扇子の鞄を持った。
「そ、だから先生は生徒が危ない目に会わないよう、見守らなきゃならないわけ」
「それ、どういう意味よ」
睨むいろはを無視し、悟は扇子を先導して教室の扉を開いた。
その瞬間、廊下にたむろしていた数十人の生徒が、蜘蛛の子を散らすようにめいめいに逃げ出した。おそらく扇子を一目見ようと集まって聞き耳を立てていたのだろう。逃げ出した理由はほかでもない、扇子の背後にいろはがいたからである。
それでも勇気ある少数の人間が、物陰からこちらを伺っていたので、悟は扇子の手を引っ張ってその場を後にした。
「どうして、皆さん離れていってしまったんでしょうか」
一般教室のある東棟と、実験室や部室のある西棟をつなぐ渡り廊下に差し掛かったとき、扇子が呟いた。その表情が心なしか淋しそうだったので、悟はつい足を止めてしまった。
「あれは、いろはがいたからだよ」
「どうして、いろはさんがいると、皆さんが離れてしまうんですか？」
悟は横目でいろはの顔をうかがった。無表情。
「怖がってるのさ」
扇子が口を開きかけたが、何も言わずに歩を進める。こんどはいろはに視線で問いかけたが、いろはは扇子の隣まで歩み寄ると「行きましょう」とだけ言って背中を後押しした。
西棟に入ると、人影はめっきり少なくなった。西棟の廊下の窓はめったに開けられることが無いため、少しかび臭い空気が廊下全体にわだかまっている。
ラテン語研究会部室、もとい社会科準備室は、西棟の三階に位置し、その扉は南京錠とドアロックで厳重に二重ロックされていた。
いろはがそれを開錠し、引き戸を開けると、悟は目を見張った。
悟がこの部屋に入るのは二度目だった。以前入ったときは怪しげな道具がそこかしこに並び、壁の一面を洋書が詰まった本棚が占拠していたのだが。
「いつの間にこんなに……」
言葉が続かない。すると悟の隣から顔をのぞかせた扇子が、感嘆の声を漏らした。
「すごいですね……」
物で溢れかえる、というのはまさにこのような状況を指すのだろう。床に水平な面には隙間無く物が置かれ、その床もまさに足の踏み場が無い。それのみならず、壁、天井、すべての平面もあらゆる物で覆い隠され、境界が曖昧になっていた。
「部屋のインテリアは住人の内面を著しく反映するっていうけど、まさしく混沌としてるな」
物の波をかき分けて、部屋の中央まで進んでいたいろはが、悟を睨んだ。
「馬鹿言ってないで、見てよ」
「見てるよ」
理不尽に馬鹿呼ばわりされて、口を尖らせる悟。
「で、このガラクタがどうしたんだよ」
「ガラクタ？ どれも歴史ある逸品ばかりよ」今度はいろはが口を尖らせた。
険悪になりつつある雰囲気を察知したのか、扇子が身を乗り出して仲裁に入った。ぶつかり合う視線を体で遮断する。
「それで、私がお手伝いできることって……？」
いろはは肩を怒らせたまま、右手で部屋の中の「逸品」を指した。
「この間旅行に行ったときに、お土産を買いすぎちゃって……。昨日届いたんだけど、少し整理したいのよ」
「はぁ……」頷きながらも物の多さに唖然とする扇子。
悟が手近にあったゴブレットを手に取り、その金色の光沢に自分の顔を映した。
「衝動買いの尻拭いをやらせようってのか？」
「ええ、ここの整理はあんたにね」
「へぁ？」空気の抜けるような声を漏らした悟は、ゴブレットを落としそうになって慌てて拾い上げた。
「そんなこと、扇子にやらせるわけないでしょ」
うず高く積み上げられた「逸品」の中で、仁王立ちになって悟を見下すいろは。悟のこぶしがわなないた。
「……帰る」
きびすを返した悟の背中に、扇子が駆け寄る。
「だめですよ！ いろはさん一人じゃ、あんな量は片付けられません」
「自業自得だよ。扇子もいろはに付き合ってると、ろくなことがないから放っておいたほうがいい」
立ち去ろうとした悟の前に、扇子が回りこんで立ちふさがった。
「どうしてそんなこと言うんですか？」
顔を紅潮させ、頭のクーラーファンから音を立てて熱気を吹き出させている。
「いろはさんは悟さ……先生を頼りにしてるんじゃないですか、それをむげに断らなくたって……」
悟は振り返っていろはのほうを見た。一瞬だけ目が合ったが、いろははすぐにそっぽを向いた。
扇子はその間も、悟を睨みつづけている。
「わかったよ……」
扇子の膨れた顔を見て、笑みがもれそうになったが、悟はそれを抑え、仏頂面を装って部屋に中へ引き返した。
悟も、本当に怒っていたわけではなかった。いろはが自分を頼っているということも分かっていた。ただ、いろはの素直じゃない言いかたが気に食わなかっただけで、ほんの「ささやかな抵抗」だった。
こんな風にいろはといさかいになったときは、いつもならどちらかが謝るわけでもなく、ただ怒りの風化を待つ。こうなると、最低二日は口をきかない。その間いろはは不機嫌なまま、周囲に恐怖をまきちらし、自分はそれを見て見ぬふりをする。友人のうち何人かは、いろはの不機嫌の理由が自分だと言うことを知っているので、「早く謝っちまえよ」と促すのだが、自分にも意地というものがある。理不尽なことに腹をたてるのは、当然の権利だ。
しかし三日もたつと、大抵いろはのほうからちょっかいを出してくるようになる。このころには怒りもほとんど収まっているので、あえて話を蒸し返すことはせず、そのまま自然消滅と相成るのだ。
そんなことを、もう一年以上も続けていた。
悟は扇子に促されるまま、品物の整理を始めようと、手近にあった大きなトーテムポールから運び出しにかかった。
悟の身長と同じくらいの高さのトーテムポールで、悟が渾身の力をこめてやっと持ち上げられるほどの重さがあった。
「おい、これ、どうやって運び込んだんだ？」
「運送会社に頼んだのよ」悪びれの無いいろはの声。
悟はやっとの思いでトーテムポールを廊下に運び出し、次の大物にとりかかった。
「ある程度運び出したら、配置はあたしが指示するから。おねがいね」
やはり理不尽だ、と心の中でぶーたれながらも、悟はしぶしぶ腰ほどまである石像を抱えこんだ。
「さて、大物がある程度片付いたら、あたしたちは小物を整理しましょ」
「先生、一人で大丈夫でしょうか？」
「いいのよ。男は力仕事担当って決まってるんだから」
背後で勝手な会話が交わされているのを聞きながら、悟は黙々と運び出しを続け、大物はあらかた教室から廊下に移された。さっき運んだ石像は、中世ヨーロッパの建築に見られる、門番ガルーダの像で、他にも「真実の口」のイミテーションや、燭台など、物品に統一性は見られなかった。
「一体何に使うんだ……」悟は「真実の口」の中をまさぐりながら、ため息をもらした。
そして「真実の口」に問いかける。
「もしかして本当に衝動買いなのか？」
真実の口は閉まらなかった。
「いやんなるな、まったく……」
首をポキポキ鳴らしつつ部室に入ると、いつのまにか見違えたように整理されていたので悟は目を見張った。
「どうですか、先生？ きれいになったでしょう？」
たしかに、あのガラクタの山でしかなかった室内が、まるで博物館の資料室のように、こざっぱりした空間になっていた。
「というより、物の絶対数が減ったような……」
「あ、気づいた？」
そう言って、いろははベランダに面した窓のカーテンを開いた。
「実は、当分使わなさそうなものはこっちに避難させたのよ」
言うとおり、ベランダには相当な量の道具が積み上げられ、シーツがかぶせてあった。
「まあ、それはいいとして、こっちの大物はどうするんだ？」
部屋は整理されていたが、それでもかなりの量の物品に支配されていて、廊下に出してある大物が入れるようなスペースはなかった。
「そうねえ、おじさんにいくつか譲って、他のは処分しようかしら」
「そうですか……」
悟は積み上げられた置物の類を一瞥し、今日一番のため息をついた。体中の力が一気に抜けるような感覚にとらわれながら、悟の脳裏には、この量の物品を見たおじさんこと角川が頭をかいて苦笑する姿が浮かんでいた。
角川拓巳は、御霊町商店街の一角にアンティークショップという名目で、マジックアイテム（いろはがそう言っていただけで、悟はそれが具体的にどんなものであるかは知らない）を売る小さな商店を構える初老の紳士である。いろはとは、悟がいろはと出会う前からの知り合いで、お互いに海外に行くときには、目当ての品物を頼んで仕入れてもらうのが慣例となっているのだそうだ。もちろんこの場合、角川のリスト以外にいろはが衝動買いした品物が大量にあるため、角川は苦笑しながらも「仕方ありませんねぇ」と言いながら引き取ってしまうのだ。だが、角川が引き取るといっても、結局は角川の軽トラックまで悟が運ぶことになるのだが。
「あまり角川さんに迷惑かけんなよな。ついでに言うなら俺にも迷惑かけんな」
「あら、そういいながらも結構まじめにやってたじゃない」
断ろうもんなら後が怖いからな――。そう言いかけて悟は口をつぐんだ。どうやら上機嫌らしいいろはを、ここで怒らすのは得策じゃない。触らぬいろはになんとやらだ。
悟はいろはの言うまま、大きな荷物を屋上階の隅に運び上げた。いつかこの借りは返してもらうぞ、と心の中で力ない宣言をしながら。
「さて、部屋も片付いたことだし、いよいよ扇子の力を借りる時よ」
言いつついろはは、大きく膨れたスポーツバッグの中からノートパソコンを取り出した。
「この間抽出したデータを解析しなおそうと思って、扇子に簡単な計算をやって欲しいのよ。数値の意味は注釈に書いてあるから。分からないことがあったら聞いて」
キーボードを叩いて目当ての画面を開くと、扇子を手招きする。
「はあ、私でお役に立てるかどうか……」
おずおずとディスプレイを覗き込む扇子。悟もその後ろから見てみると、表計算ソフトに無数の数字と英単語が羅列していて、まったくもって意味不明だった。ある一ヶ所以外は。
「あのさ、これ……」
「なに？」いろはが画面をスクロールさせようとするところで手を止めたので、悟は表組みの一部分を指差した。
「何で俺の名前が書いてあるんだ？」
確かにそこには、『test subject : Satoru Shindo』とある。
「ああ、この間新薬のモニターをしてもらったでしょう？ あれの解析データだもの、被験者としてあなたの名前が載るのは当然じゃない」
「あぁ」悟は自分が漏らした声がひどく間抜けなものに聞こえた。
二週間前、いろはに飲まされた数錠の錠剤とカプセル。それは神経に働きかけて、視力を一時的に大幅アップさせる新薬らしかったが、悟は突然人外の視力を与えられてひどい眩暈に悩まされた。挙句、それがもとでいろはと喧嘩になったことを思い出し、あのときの怒りがふつふつと再燃してきた。怒りを前にすると、いろはの機嫌のことなど脳みその隅に追いやられてしまった。
「そういやあの時何の説明もなしに実験台にされたんだよなぁ」
「受け取ったときはなんか嬉しそうだったけど？」
「しかも理不尽に辞書で殴られた気もするんだよなぁ。あまりの衝撃で記憶があやふやだけど。まだたんこぶ残ってるし」
脳天付近をさすってわざとらしく「おー痛てえ」などと言ってみる。実際たんこぶも痛みもとっくの昔に引いていたが。
「それは……」いろはは急に口ごもった。
「もしかして薬の副作用で意識が朦朧としてきたんじゃないかって思ったから、つい……」
「つい辞書を振り下ろしたってわけか」
「ちが……、だって呼びかけても反応しないんだもの。本当にこのまま意識を失ったらどうしようかって……」
珍しくしおらしい。悟は一瞬訝ったが、心の中でかぶりを振った。いろはだって鬼じゃない。有無を言わさず自分を殴り倒したことに対して多少なりとも罪悪感を抱いているのだろう。それなのに自分のほうがいつまでもこだわっているなんて、大人気ない。
いろははその時のことを思い出してか、不安げな表情を見せていた。
「もしここで悟が意識を失ったら、ここまでの実験が全部パーになるんじゃないかって思って。そしたら、目の前が真っ白になって……。あの薬だって作るだけで、一粒に二十万円かかってるし……」
前言撤回――。
悪びれるとか、良心の呵責とか、そういった単語はいろはの中には無いのだろうか。悟はもう金輪際、いろはにまともな人間の感情というものを期待しないようにしようと、固く、強く誓った。
しかし、今まで何度そういった誓いを立ててきたか、すでに覚えていない。今日の誓いもいつまで続くか分からなかった。
「あのう……」
いつの間にかこちらのやり取りを眺めていたらしい扇子は、口を開くタイミングを待っていたようだった。
「計算、これでいいんですよね？」
それに反応していろはがノートパソコンに詰め寄る。扇子が指差したディスプレイを覗き込んで「へえ……」と息を漏らした。
「うん、すごいわ。想像以上よ」
画面を繰りながら「ふうん」「へえ」と感嘆するいろはを見ながら、扇子ははにかんで「いえ、ただ計算しただけですよお」と謙遜している。
悟はそこで、奇妙な違和感を覚えた。
はにかむ扇子の姿は本当の人間のようで、まったく機械っぽさを感じさせない。世の中には機械より機械的な人間がいるというのに、それと比べたら扇子のほうが何倍も人間らしい。
扇子の行動がプログラムから生み出されたなんて、にわかに信じられない。扇子が人間以上に人間らしいのが信じられないのではなくて、扇子がロボットであるということが、信じられない。
いま目の前で、自分の仕事を評価してもらってニコニコしているのは、ロボットのフリをした人間なんじゃないだろうか。あるとき突然「みんなすっかり騙されましたね」とか言いながら、うなじのプラグを抜き取るんじゃないだろうか。
全盲の被験者の脳内に電極を差し込んで、視覚を刺激する実験をいつかどこかでやっていたじゃないか。それを考えれば扇子の体だってロボットだといえる証拠にはならない。
扇子の肩は静かに上下している。ロボットに呼吸は必要ないのだが、扇子いわく、人間の持つリズムというものを行動の中に組み込むことで、より人間っぽさを実現しているんですよ、とのことだ。もっとも、意識的にやってるわけじゃなくて、伝達物質――人間で言うなら血液――の循環のために動いている筋肉の動きなのだという。
ふと、右手がいつのまにか扇子のうなじに向かって伸びていたことに気がついて、慌てて引っ込めた。幸い、扇子もいろはもディスプレイに釘付けになっていて気づいていない。
――俺は今、何をしようとしたんだ？
無意識に動いていた右手を、左手で握り締める。何か不気味な感じがして、悟はつばを飲み込んだ。ぼーっとしてるからだ。しっかりしろ。そう言い聞かせるように、肺の空気をふっと吐き出した。
「本当に助かったわ。これで余裕を持ってレポートが作れそうよ」
いろはがノートパソコンをたたむ。扇子はまだ「いえ、そんなお礼を言われるほどのことはありません」と首を振っていた。
「正直言うとね、あなたの能力を試してみたかったのよ。最新技術が詰め込まれたヒューマノイド、果たしてどれだけのことが出来るのか……」
言って、いろはは扇子の体をつま先から頭まで眺める。
「日常生活を当たり前のようにこなして、まったく違和感のない会話を成立させる。これだけで十分感心したわ。でもね、それだけだったらわざわざ莫大な予算を使ってロボットを作る必要なんか無いわ。人間とコミュニケーションをとるのとなんら変わりないものね」
扇子が戸惑いと白痴の表情を見せる。
「でも、あなたは人間以上のものを持って生まれてきた。それは人間以上の成果を必要とされているということ。あなたはこれからさまざまなことを要求されるでしょうし、あなたはそれをこなさなければならない」
いろはは何を言おうとしているのか、悟には次の言葉が予想できない。扇子も同じらしく、きょとんとした瞳でいろはを見つめている。
「それは時にすごく苦痛を伴うかもしれないわ。肉体的にも。精神的にも」
いろははそれ以上何も言おうとはしない。そこで悟にも察しがついた。扇子がどんなに優れた能力を持っていても、周りの人が和んでしまうような性格であっても、扇子は紛れも無く、大企業が、何らかの目的に使用することを前提に生み出したロボットなのだ。扇子が何の目的でもって生み出されたのかは知る由も無いが、その目的次第では、お人好しの扇子がどんなに辛い目にあうかは想像に難くないことだった。
ましてや、扇子は試験機なのだ。
「大丈夫ですよ。今までいろんなテストを受けてきましたけど、辛いとか、苦しいということはありませんでした」
扇子は屈託無く笑って見せた。それは他意の無い、本当に心からの笑顔に見えた。
「それに、そのテストの結果こうして高校に入れて、いろはさんや先生とお話しすることが出来るんです。私は今、一人の高校生としてここにいることが、とても嬉しいんです」
扇子のその言葉に、偽りは無いだろう。しかし、今の悟は扇子に笑顔を返すことが出来なかった。それはいろはも同じなようで、哀れむような視線だけを扇子に向けていた。
５
まだ初夏と呼ぶには早いこの時期、午後五時を回ると景色はほんのり茜色に染まってくる。小ぎれいになった部室を出ると、昼と夜の境界でせめぎあう光の奔流が、人気の無くなった校舎の中に、いくつもの長い光の帯を作り出していた。
その光の帯に足を踏み入れる。影法師が廊下を渡って突き当たりの壁にまで届いていた。不自然に歪んだ人の形が三つ、壁にのっぺりと浮かび上がる。
「それでは、私は保健室に戻らないといけませんので。今日は本当にいろいろとありがとうございました。また、明日」
影法師がひとつ離れていった。のこりの二つは、離れたひとつの行く先を見やって、動かなかった。
「あの子……、可哀想ね」
小さな影法師――いろはがぽつりと呟く。
大きな影法師――悟は、何も言えなかった。
そう思ってしまうことを、心のどこかでとどめていた。
遠ざかってゆく後ろ姿を見送ったのち、どちらともなしに歩き出す。いろはは場の雰囲気を察して言葉を繕うような事はしない。それはいつも悟の役目だったが、今日ばかりはそういう気分になれなくて、帰り道もこのまま沈黙が続くのだろうと覚悟していた。
しかし数歩も歩かないうちに沈黙を破ったのは、いろはのほうだった。
「実はね、あのデータ解析、ほとんど間違ってたの」
「えっ？」悟は歩みを止めかけたが、いろはは歩調を崩さずに進んでいく。
「数値を全部足してあっただけで、まったく使い物にならないわ」
「でもお前、助かった、って……」
「嘘も方便、なんてもっともらしいこと言うつもりは無いけど、あの子は人の役に立ちたいっていう願望があるのよ」
「でも……」
でもそれは、いくら扇子のためとはいえ、根本的な解決にはならない。
「分かってる」いろはは悟の心中を読み取ったかのように言葉をつなぐ。
「あの子のために嘘をつく、なんて詭弁だわ。でもね、扇子は……」
「それ以上、言うな」
悟の制止に、いろはは多少戸惑ったようだったが、すぐにこちらを睨みつけてきた。
「ずいぶんと扇子の肩を持つのね」
「そんなんじゃない」
ただ、扇子に同情して優しく接するのは、本当の優しさとは違う。
「なあ、あいつが高校生でいられるうちは、ロボットとかそう言うのは抜きにして、一人の友達として付き合ってやらないか？」
するといろはは、急にきびすを返した。
「あんたの性格よね、それって。誰とでもそれなりに仲良く、あたり障り無く付き合って、友達然とするところ」
言って、いろはは廊下を戻り始めた。
「どこ行くんだよ」
「忘れ物、あんた先に帰ってていいわよ」
「なんだよ、それ……」
廊下に革靴の足音が響いて、いろはは再び部室に戻ってしまった。
どうせすぐに出てくるだろうと、しばらくそこで待っていたが、十分たっても一向に出てくる気配は無い。しかも、部室の電気は消えたまま。
「何やってんだ、一体……」
扉はかたく閉まっている。どうやら中から鍵がかけられているようだ。
悟は取り付く島がなくなって、呆然と立ちすくんだ。ふと、さっきいろはが言った一言が脳裏に去来した。
（誰とでもあたり障り無く接して友達然とする？）
今までそんなこと意識したことが無かった。
扇子に接していること、すなわちロボットに対して友達のように接していることが、どうしていけない事だというのか。それとも、俺が今まで接していた人間関係は全てあたり障りのないものだとでもいうのか。
なぜいろはは、そう感じたのだろうか。
人間関係など、よっぽど馬の合う人間か運命の恋人でもない限り、お互いの全てを許容し、分かりあえることなどまずないといっていい。なおさら高校生にもなれば、一人の人間として価値観や信仰など、人格の基礎となるものはほぼ確立され、ちょっとやそっとでは揺らぐことはない。複数の人間と接するということは、すなわちそれだけ多くの人格と接するということであり、多くの価値観と接するということである。その価値観は必ずしも自分に必要なものばかりではない。場合によっては悪影響を及ぼすモノだってある。それが他人と付き合うときの新密度のバロメータであり、重要度だと考えていた。人は、他人のためではなく、自分の為にコミュニケートするのだ。
（まてよ、この考え方だと、俺ってすげー嫌なやつだな……）
そう思いついて、悟は自嘲の笑みをもらした。
（いや、そう割り切っていかないと、他人との関係なんてやっていけない。俺はそこまでお人好しじゃない）
自分は冷めた人間だ。それは自覚している。確かにいろはの言う通り、いままで当たり障りなく接していただけなのかもしれない。他人の領域に深く足を突っ込んでしまうと、足をとられて動けなくなってしまう。足がずっぽりはまってしまいそうな深みは、感触で分かる。ぬかるみに好んで足を突っ込むほど、自分は子供じゃない。
（それが俺の処世術なんだよ）
自分は服を着ている。色なんて何でもいい。自分でも何色かなんて分からない。その服は何にでも染まりやすい。泥に足を突っ込んでしまえば、泥でもともとが何色だったのか分からなくなってしまう。それが怖い。
「なあ、いろは」
ドア越しに、おそらくそこにいるであろういろはに話しかける。
「俺は、お前みたいに他人の前で堂々と自己主張できない。ましてや誇れるものなんてなにも持っちゃいない。俺は、人と深く付き合うことで自分が分からなくなるのが、むしょうに怖いんだと思う」
返事は帰ってこない。
「意識したことはなかった。でも、もしかして知らず知らずのうちに、相手と一線を引いて付き合っていたのかもしれない。でも、でもな、俺はそうするしかないんだよ」
お前には分かんないかもしれないけどさ。そう言って、悟は扉に見切りをつけ、その場を後にした。部室前の廊下を突き当りまで歩く間、部室のドアが開きはしないかと背後を気にしたが、結局いろはがその部屋から出てくることは無かった。
夕闇はいっそう濃くなり、校舎内に差し込む陽光はほとんど消え、照明のついていない玄関や廊下は視界が利かないくらいに暗くなっていた。手探りで自分の下駄箱を探し当て、スパイクとスニーカーを取り出し、スニーカーの方をひっかけて玄関から出ると、ちょうど担任の佐伯操子の軽自動車が駐車場から出てくるところが見えた。最近売り出された新型の国産車で、丸みを帯びた外装デザインと意外に広い車内空間、細かなオプションなどが人気を博し、軽乗用車の人気ナンバーワン車種となっているものだ。操子の車の色はパールホワイトなので、まるで巨大な大福が道路を滑ってくるように見えた。
悟がそんな一瞬の想像をしていると、その巨大大福は悟の目の前で停車し、中から（この場合あんこにあたる）操子が顔を出した。
「あれ、紫雨さんは一緒じゃないの？」
「あ、はい……」生返事をしながらも、操子が自分といろはをセットにして考えていることに、ちょっとした危惧を抱いた
「あの、先生、べつに俺たちいつも一緒にいるわけじゃないですよ」
言って、逆に誤解を招いたかもしれないと思ったが、操子は悟の言葉に別段何かを感じたふうではなかった。そのかわり、
「ねえ、新堂君は春日台の方だったわよね？」と、圧縮された日本語で訊いてきた。
「春日台の南口、ですけど……。何か？」
悟が訝しげに首をかしげると、それと反比例するように操子が破顔した。
「送ってってあげる」
「え、そんな、いいですよ」悟は慌てて拒否する。何の因果で放課後まで担任と顔を突き合せなければならないのか。それに、今日は歩きながら考えたいことがあるのだ。
しかし操子は助手席のドアを開けた。
「聞きたいことがあるの。紫雨さんのことで、ちょっと」
「いろはの？」いろはの名前が出てきたことで、悟はさらに不安を募らせた。厄介なことになりそうだ。
「今ここじゃ話せないことなんですか？」
「話すかどうかはあなたの自由だけど、送りついでのほうがいいでしょ？」操子は意外と粘る。いろはが相手ならあっさり引き下がるのだろうが。どうもいろはと比べて自分の自主性はあまり尊重されないらしい。
「分かりました……。でも、答えたくないことは言いませんからね」
「上出来」操子は停止していたエンジンを再始動させた。悟が荷物を後部座席において助手席に乗り込むと、大福は校門へのスロープを登り始めた。
「紫雨さん、私が訊いてもあまり答えてくれないでしょう？」
「いろはが答えたくないことは、俺も言いませんよ」少しつっけんどんに返す。操子は苦笑した。
「いいのよ、べつに秘密を探ろうってわけじゃないわ」
操子は機嫌がいいようだ。バックミラー越しに表情を伺い見る。
操子は、友達感覚で付き合える先生として生徒からの人気が高い。いつもほどよく明るく、気分の躁鬱を表情に出さないことが、生徒に安心感を与えるのだろうと、悟は分析していた。担当する英語の授業は丁寧で分かりやすく、それでいてしつこくない。いや、実際小テストなどはかなり頻繁に実施されるのだが、要点を確認する程度のものなので、自ら復習するよりも効率がよく、操子の担当するクラスの英語の偏差値は他のクラスに比べても高かった。
担任としてはやはり経験不足は否めないらしく、進路関係は頼りない。しかし生徒からの人望という点では、ベテラン教師に引けをとらない。それには少なからず彼女の容姿も関係していると思われる。操子は化粧っけの無いナチュラルなファッションを好む。もちろん教師として当然ではあるが、それ以上に彼女のセンスがフォーマルとカジュアルのちょうど中間において最大限に発揮されている結果だろう。若さも相まって、男子生徒の中には本気で彼女に夢中な者も、悟の周囲に何人かいた。ちなみに女子生徒からの人気ナンバーワンは、去年某体育大の大学院を卒業したばかりの体育教師だった。さらに補足すると、その体育教師と操子が実は付き合っているのではないかという噂が存在する。
そんな操子と車内で二人きりなのは、かなり落ち着かなかった。もし悟が彼女の車に乗り込むところを誰かに見られていたら。それが操子に好意を抱いている友人だとしたら、それともまさか……。
「紫雨さんって」操子が突然発した名前に、悟は肩を縮こまらせた。
「中学はあなたと一緒じゃないのね」
悟は呼吸を整え、動揺を気取られないように努めて冷静に答えた。
「あいつは、確か私立でしょう？ 高校へエスカレータのはずだったけど、いろいろあってこっちに来たみたいなんです」
「私立創英学院ね」
「はい、そうです」
「当時から成績は超優秀、文系、理系問わず多方面にわたって大きな賞を受賞していたみたいね。でも高校受験の時期になって突然の不登校、でも単位は足りていたから無事に卒業できたけど、高等部への進学はできなかった」
つらつらと履歴書を読むような口調で語る操子。悟は以前それらしいことを本人から聞いていたので、別段驚くようなことではなかった。
「そのころは御霊薬科大に出入りしてたんでしょう？ なんでも中学三年の夏休みに書いたレポートが評価されたとかで、同じ畑の薬科大から何度か呼ばれて研究にも参加したって」
言い終わるころ、車はバイパスとの交差点で信号停止した。すでに帰宅の混雑が始まっており、信号そのものは見えなかった。
「その前のこと、知ってる？」操子が久しぶりにこちらを向いた。
「その前って、中学以前、ってことですか？」
「家庭の話とか」言って、操子は気がついて顔の前で手を振った。
「あ、知らないならいいのよ。聞かなかった事にして」
「親父さんが亡くなってるんでしょう？ それに母親もいなくて今は一人暮らしだとか」
「ああ、そこらへんも知ってるのね」
「断片的に、ですけどね」
信号はまだ変わらないらしい。
「あいつ、あまり昔のことは言いたがらないんですよ。俺だって訊かないし。別に知ってもどうというわけでもない」悟はそこで一区切りして、再び口を開いた。
「先生が何を知りたくて何を調べてるのか知りませんが、教師として知っておいていいことが、俺が知りたいことだとは限りませんよ。過去がどうであれ、それを詮索して、だから今のあいつがどうってわけでもなくて、あいつの過去はあいつのものなんだし」
上手く言葉が出てこない。相手が担任ということもあるが、それ以前に自分がどう思っているのか、それを整理できていないのが原因だった。
「あいつにどう接していいか分からなくて、だから手がかりとして過去のことを引っ張ってくるのは……。俺はそういうのはいいとは思えません」
操子は黙って前の車を見ている。少しずつ前進していく車の列。
「だから、俺しか知らないようなことは、絶対に言えません」
前進していた車の列が、再び止まる。この調子ではバイパスに出るのにあと二回は信号が変わるのを待たなくてはならない。
「新堂君、降りてもらえる？」
「え？」悟が驚いて操子を見ると、操子は真顔で言った。
「嘘よ」
そして今度はハンドルに両肘を乗せて笑い出した。悟はあっけにとられて、肩を上下させる操子を凝視していた。
「……ふぅ、ごめんなさい。でも、いいわねぇ」
ひとしきり笑った操子がこちらを向いた。右の頬にだけえくぼができていた。
「やっぱり友達には敵わないわ、そう、そうよねぇ」何かひとりで納得している。
「結局おせっかいよねぇ。担任は友達にはなれないわ」
そこで悟にも察しがついた。
「先生、いろいろ心配してくれてるんですね。あいつのこと。それは、素直に、感謝します」
言って、なんか自分が保護者になったようで気恥ずかしかった。
「あいつ、確かに周りに迷惑かけて、敵作るようなことばっかしてるけど、それは裏返せば一人でもやっていけるという自信の表れなんですよ。他人を必要としない」
車が動き出す。
「正確にはそう思い込んでる。でも、あいつ不器用でひねくれてるから、素直に認めようとしないんですよ。他人に弱みを見せるようなことはしない。それは裏返すと、他人に干渉されることで起こる不利益をすごく恐れてる。傷つきたくない。だから他人を拒む」
（似ている）
「だから、あいつのことは遠くから見守ってやるくらいがちょうどいいんです。近寄ると余計に逃げていきますよ」
（ひねくれている？ むしろいろはの方が正直じゃないか）
漠然と悟の頭の中に、いろはの顔が浮かぶ。
混雑を抜けた車は、やっとバイパスの大通りに出た。ここから悟の自宅まではものの数分である。通学に使用するバスは、近隣の住宅地を練り歩くように進むので時間がかかるが、このように大通りに出れば一直線だった。
「私ね、高校のとき、担任の先生が大嫌いでね」操子が話し始める。
「受験のシーズンだったんだけど、私なぜかセンター入試一ヶ月前になって急にやる気がなくなっちゃって、ぶらぶらしてたのよ。そうしたら担任に呼び出されて、誰から聞いたのか、私のバイト先にまで連絡を入れて、挙句『フリーターなんかとつるんで遊んでるからだ』なんて言うのよ。それでもう頭にきちゃって」
怒っているというより、懐かしむように遠くを見る操子。
「そこで私、『先生に何が分かるんですか？ 勝手な決め付けで私生活に立ち入らないでください！』って啖呵切って、職員室を飛び出したんだあ。結局志望校のランクを下げて受験は上手くいったんだけどね、それ以降その先生とは口も聞かなくなったのよ」
「その先生はその人なりに心配してたんですよ」
「そう、そうなのよ。結局それに気づいたのは卒業してからだったんだけど、それにしてもあれはやりすぎだ、って、納得しなかったんだ」
すでに空は真っ暗になり、前方の車のテールランプと、対向車線のヘッドライトが操子の横顔を照らしている。
「今じゃ、『あの時先生の気持ちも考えとけばよかったなぁ』って思えるけど……、同じことを私はやろうとしてたのね」
途中交差点を右折した車は、春日台団地の南口で止まった。操子の自宅はこの団地の中だという。
「乗せていけるのはここまでだけど、いい？」
「いえ、ありがとうございました」
「あ、新堂君」悟がドアに手をかけると、操子が呼び止めた。
「ありがとう。やっぱり、あなたに話を聞いて良かったわ」
悟は照れ笑いを返して、
「俺がいろいろ話したってこと、あいつには絶対秘密ですよ」
と釘をさしておいた。
操子の軽は団地の入り口を通り抜け、閑静な住宅街へと消えていった。悟は、あと十数分の道のりを家に向かって歩き出す。さっきまでの会話が頭の中でリピートされていた。
他人との関係によって傷つくことを恐れている。それは自分ではないか。いろはは自分ひとりでやっていける自信と、それを裏付ける実績がある。だから他人と無意味に馴れ合うようなことはしない。いろはにとっては高校生など、会話の対象にもならないのだ。自分を信じているからこそそういう態度が取れる。
しかし自分は違う。自分の中に確固とした信念や理想を抱いているわけではない。ただ漠然と周囲の流れに身を任せて、たゆたっているだけだ。自分に自信が無いから、他人との関係の中に自分を埋没させて安心する。自分の意思を、集団の意思に同調させることで責任逃れをする。木を隠すなら森の中。自分を隠すなら人の中。
だけど、他人との関係に依存しすぎて、自分と他人の境界がなくなるほどに密接することは望まない。自分は隠れ蓑に隠れてはいるが、自らがその蓑になることは受け入れられない。
（えらく都合のいい生き方をしてきたもんだ）
集団としての人間関係は維持しつつ、でも個々の領域に立ち入ることはしない。深い関係は望まない。つかず離れずの距離をキープしながらも、集団の恩恵を享受していたい。いろはが「当たり障り無く接して友達然とする」と言ったのは、まさに的を射ていたのだ。
気がつくと、すでに自宅が目前だった。
今日はいろはをだしに使ってしまった。扇子のときもそうだし、操子と話していたときもそうだ。
（いろはの話題に話を向けることで、自分に矛先が向くことを防いでいる……）
そこまで考えて、悟は一瞬めまいを覚えた。
「おい、冗談だろ？」
あいつまで俺の隠れ蓑だと言うのか？
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