O.K.L -Ohtori_K's Labo.-

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   ６

   いろはたちと別れた後、扇子は保健室の前までやってきた。途中の階段ではさっきのような失敗を繰り返さないように、慎重に慎重を重ねて降りてきたので、保健室に着くころにはだいぶ日が落ちていた。不気味なほどオレンジ色に染まった廊下。その突き当たりにある保健室の扉をノックすると、中から二人の女の人の声が返ってきた。
   知らない人がいるのだろうか。そう思って恐る恐るドアをあけた。
「あ、おか……お姉さん」
   事務机の前には、保険医の岸辺由加里のほかにもう一人、スーツ姿の女性が立っていた。彼女は扇子を見るなり駆け寄ってきた。
「扇子！あなた階段で転んだって本当？どこも異常はないんでしょうね？」
   扇子の両肩をつかみ、顔を覗き込む。扇子が上ずった声で「あの、その」と何か言おうとしているのをよそに、彼女は扇子の掌についている小さなかすり傷を指差した。
「これ、転んだときにつけたのね？ほかには？どこも怪我してない？」
「膝にも擦り傷があったわよ」
   由加里がコーヒーをすすりながら口を出す。扇子は声にならない声を出して、「言っちゃ駄目」のジェスチャーを必死にアピールしたが、遅かった。
「扇子……あれほど言ったでしょう、あなたは反応速度が遅い上に制御系が不安定なんだから、学校内では極力運動を控えなさいって」
「ご、ごめんなさい……」
「確かにテスト環境には違いないかもしれないけど、ここはラボじゃないのよ。リアルタイムでモニターしているわけじゃないし、サポートする人もいないの。怪我とか故障する事はあなたにとって死活問題なのよ」
   すごい剣幕でまくし立てるスーツの女性。扇子はいつも以上に縮こまって、うなだれてしまった。頭部のファンから熱気が漏れて、その女性の前髪を揺らす。
「まあまあ君ちゃん、たいしたことなかったんだし、いいじゃない。大津さんもこれで無茶はしないだろうし、これからは私が教室まで迎えに行くわ。ちゃんとエレベータを使うから、ね？」
   由加里の説得で、君ちゃんこと君田美紀は何とか納得したようだった。
「そもそも教室が三階で保健室が一階なんて、遠すぎなのよ」
「そんなこと言っても始まらないでしょう」
   わかってるわよ、と口を尖らせる君田。うなだれながらも二人の会話を聞いていた扇子が、おもむろに顔を上げた。
「お姉さんと岸部先生はお友達なんですか？」
「お友達よお」と由加里がふざけて答える。
「お友達かどうかは微妙だけど、知り合いよ」君田が由加里の肩をたたく。
   君田美紀は扇子、つまりＯＨＴＵ―Ｐ１を開発したＮＡＺＤＡの技術者であり、扇子の人格形成などのソフト面を手がけたプログラマである。同じ女性ということもあり、スタンドアロンで稼働しているときの扇子の教育は、彼女を中心としたチームによってされていた。このチームには教育、心理学、言語学の分野の面々が名を連ね、特に人格の初期設定時には、君田ほか数名の女性から千問以上のアンケートを取ってパラメータの参考とした。つまり扇子の人格の一部は、君田の人格を受け継いでいるといえる。
「モニター環境に選んだ高校に偶然由加里がいるんだもの、びっくりしたわ。高校以来だから、七、八年ぶりかしら」
「お互い歳をとったわよねぇ」
   由加里がしみじみと言う。その割には悲しそうには見えなかったが。
「知らない人に扇子を預けるのは心配だったけど、そういうテストだからね。それにしてもその保護者が由加里だから、私としては一安心よ」
「あら？初日に分厚いマニュアルをめくっては口をすっぱくして『絶対壊すな』って言ってたのは誰？」
「そりゃ旧友とはいえ部外者ですもの。それにがさつな由加里だからそこんとこはしっかり言っておかないと、帰るころには腕の一本くらいなくなってそうだもの」
「え……」
   扇子は無意識に自分の腕をつかんだ。その様子を見て、由加里と君田が同時に吹き出す。
「冗談よお、そんなわけないじゃない。それに扇子、あなたそんな簡単に壊れるようにはできてないわよ」
   笑い混じりに話す君田。その隣で由加里が頬を膨らませていた。
「じゃあべつに私が壊す心配なんてないじゃない」
「あら、矛盾してるかしら？」
「しまくりよ」
   なんだかんだいって、二人はとても仲がよさそうだと扇子は感じた。
   旧友。それはただ古い友ということではなく、ふたたび会ったそのときには、いつでも、そしていつまでも仲良くいられるのが、本当の旧友というものだろうと、扇子は思った。
「ところでどう？初めての高校生活は？」
「え、それは帰ってからメモリをお見せすれば……」
「大津さん、君ちゃんはあなたの口から、あなたの言葉で、今日一日の感想を聞きたいのよ」
   そういうものなのかな、と思いながらも、扇子は今日一日の出来事を時系列に検索して話し始めた。初めて校内に足を踏み入れた瞬間。由加里や操子に会ったときの緊張。ＨＲでの自己紹介……。
   扇子の話が進むにつれて、なぜだか由加里の表情が険しくなっていったが、かまわずに話し続けた。君田は頷きながら聞いている。扇子の表情を一瞬も逃さずにその目で捉えているようだった。
   十分ほどで大体を話し終えた。君田は満足そうな顔で扇子の頭をなでた。
「今日は頑張ったわね。また後で詳しく聞くことになると思うけど、あなた、もう立派な高校生じゃない」
   それにしても、と君田が続ける。「あの潤滑剤を改良したのがその紫雨いろはさんなんだ。契約先に若い研究員がいるって話は聞いてたけど、まさか高校生だったなんて」
「すごく頭のいい人で、優しい人なんです。私のことも心配してくれますし」
   盛り上がる二人とは別に、由加里だけが複雑な表情をしていた。
「あ、そうだ扇子、今のうちに充電しておきなさいよ。七時になったら戻るから」君田が腕時計を見ながら言う。すでに時計は午後六時を指していた。
   わき腹からプラグを出してコンセントにつなぎ、ベンチに腰を下ろした。少しだるかった体に徐々に活力が戻ってくるような、じわじわとした感覚が下腹部からせり上がってくる。しかし、内部機器を管理するセンサ類は、扇子の感覚とは直結していないので、こういった自覚が現れることは無いはずである。それについて君田は、おそらく電圧の上昇によるオーガニックドライブのパフォーマンスの変化が、そういった感覚として捉えられているのだろうと言っていた。
   でも扇子はこの感覚は機械的なものではなく、なにかこう、形容しがたいものだと感じている。人間には睡眠欲、食欲などの欲求があるが、扇子には必要のないものとして存在しない。だが、充電しているときの感覚は、あるはずのない欲求が満たされていくような充足感と開放感に溢れているのだ。
   扇子はこの感覚が好きだった。まるで自分が本当の人間になったような、そんな錯覚さえ覚えた。
   家庭用電源による充電は、基本的に活動時、人間でいうなら覚醒時に行う。ラボに戻ると、メンテナンス・マザーというセンサの塊のような機械に入り、外部センサをシャットダウンしたスリープモードで充電と検査とメモリのバックアップ、クリーンアップを順次行う。しかし扇子は、活動時のときにもなるべく目を閉じ、音声センサの可聴範囲を極力狭めて、スリープモードに近い状態で充電することを好んでいた。そのほうが、この感覚をより強く感じることができるからだ。
「扇子、そろそろ時間よ」
   暗闇の向こうから、かすかに君田の声が聞こえた。音声センサを通常に戻し、まぶたを開く。扇子の目は人間と同じように周囲の明るさに応じてアイリスが調整される。その速度が人間よりも少し遅いので、目をあけた直後の一瞬視界は真っ白となるが、徐々に周囲の物の輪郭が見え始める。最初に目に入ったのは、バッグを抱えた君田だった。
「あなた、低血圧ね」
「循環液の圧力は正常ですが……」
「低血圧ってのは寝起きが悪いっていうこと。覚えときなさい」
   寝起きが悪い、低血圧、血圧が低いと寝起きが悪いのか……。でも血圧ってなんだろう……。ぼんやりと連想する間に、視界はだいぶ正常な色を認識するようになった。君田の後ろで由加里も帰り支度をしていた。
「もう一分待ってください……そうしたら立ち上がれます」
   申し訳なさそうな顔で（または寝起きで表情が乏しいだけなのか）扇子が言う。
「ええ、あなたのことは私が一番わかってるわ。無理しないでゆっくり起きなさい」
「すみません……」
   結局学校を出たのは七時十分過ぎだった。
   由加里はバスを使って通勤しているので、車で帰る扇子たちとは反対方向の西門から出て行った。君田が駐車場へ車を取りに行く間、扇子は学生食堂の前で待っていた。
   気温は十五．三度。湿度六十八パーセント。季節の割には少し涼しいといえる。扇子には寒暖を肌で感じ取るようなセンサがついていないため、涼しいとか暑いという感覚は、言葉でしか知らない。
   空を見る。はじめは真っ暗な空にいくつか星が見えていたのだが、次第にその数が増えてゆく。同時に空が青みを帯びてくる。それから雲の有無を確認するまでには十数秒、もっとかかった。そこで扇子は急に眩暈を覚えた。原因は分かっているので、すぐに近くにあるものへ視点を移す。
   扇子の視覚は基本的にはデジタルビデオカメラと同じであるが、物体の距離を両眼の視差で算出するため、正確な距離感を得ることができる。しかしあまりに遠い物体の場合、その視差はほとんど無いに等しい。視界に近距離、中距離の物体が入っている場合なら、その物体によって空間と座標を把握できるので空を見ても問題ないのだが、視界の全てが空となってしまうと、距離感が狂ってしまい立ちくらみを起こすのである。これは扇子の平衡感覚が人間と同じように視覚に重きを置いて働いているからである。
   人間で言う三半規管のような、ユニットとしての平衡感知センサもあるのだが、これは分解能が高い代わりに、歩いたり走ったりという高運動量時には向いていない。直立姿勢や、片足で立っているときなど、微妙な平衡感覚を必要とされる場面ではこちらのセンサが優先される仕組みになっている。
   このほかにも、皮膚（カバー）に内蔵された圧力感知センサも同時に使えば、歩くときや座っているときなどに最も理想に近いポジションを維持することができる。
   技術的には低運動量、高運動量のどちらにも対応できるセンサは作れるのだが、重量、体積ともに大きくなってしまう。それならば、視覚（映像データ）や圧力感知から平衡を感知するシステムを組んだ方が、省エネルギィ、省スペース、省ウェイトなのだ。
   この平衡センサは扇子の意思で選択するわけではなく、映像データ、運動データなどに基づいて無意識に最適なバイアスで働くようになっている。これも人間と変わらない。もちろん自らの意思で身体のバランスを崩すことも可能ではあるが、扇子の場合転倒や衝突が思いもよらぬ事故や故障に繋がるので、普段は体の安定が保てる運動しかしないというのが原則だった。
   このときも、体の安定を保つために星空から目をそらし、真下を見た。足元の映像にピントが合ってくる。同時に露出過多気味だったアイリスが搾られて、ローファーを履いた自分の足が見えた。星空を見上げたときは適切な露出を決めるまで十秒以上かかったが、このときはものの二、三秒だった。明順応と暗順応の速さを比べると、扇子は暗順応の方が遅い。そういう見え方のことを鳥目と言うのだ、と君田が教えてくれたのを思い出した。
   あれはいつのことだったろうか。思い出そうとしていると、駐車場のゲートを抜けてグレイのバンが近づいてきた。それは君田の運転するＮＡＺＤＡの社用車だったが、市販されているものとは仕様が異なり、フロントガラス以外の窓にはフィルムが貼られ、外からは内部が一切見えないようになっていた。もちろん、ボディにはプレート以外、社名のロゴタイプも何も描かれていない。
   扇子は後部座席に乗りこんで、通常より多い六点式のシートベルトを締めた。扇子の座ったシートは特殊な形状をしており、背中のクーラーファンを塞いでしまわないようになっている。それでも扇子は、ファンの部分に圧力がかかるのがなんとなく嫌なので、シートにもたれないように背筋を伸ばした。シートの右下部から引き出したコンセントに、わき腹から出した充電用プラグをつなぐ。このコンセントはバンのリアキャリアに積んであるバッテリィ（車のバッテリィとは別）に繋がっていた。
「それじゃあ、お家に帰りましょうか」君田が陽気な声で言う。
   扇子は両手を膝の上において、まっすぐ前、フロントガラスの向こうを見やった。車に乗っているときには、充電中とはいえ目を瞑らない。人間と同じ理由で酔うからだ。
「扇子、もう一度聞くけど、どこも異常はないのね？」
   バックミラー越しに君田がこちらを見る。扇子は笑みを返した。
「はい、なにもありません。ただ、私にとっては階段を踏み外したことのほうが、その、ショックでした」
「そうね。ラボではあれだけの上下運動はあまりやらなかったから、まだ慣れてなかったのよ」
「これからはエレベータを使うようにします」
「それがいいわね。でも扇子の経験情報という点から見ると、スムーズに階段を上り下りできた方がいいんだけど、それであなたが怪我をしたら大変だし」
   扇子は無言で頷く。君田もそれに合わせて唇の端を上げた。
   バンは住宅街を抜け、片側三車線の環状線に乗った。この時間帯は下り車線がところどころ渋滞しているため、信号ごとに停車を余儀なくされた。研究所まではまだしばらくかかりそうだった。
「あの、おか……おねえさん」
「ん？」
「私は……何のために生まれてきたんでしょうか？」
   扇子の問いに、君田は目を丸くした。
   数秒の沈黙の後、軽く息を漏らす。
「紫雨さんに、いろいろ吹き込まれたのね？」
「というよりは、先生になんですが」
「先生？ああ、紫雨さんと一緒にいたっていう新堂って子？」
「はい。先生に「何のために私が造られたのか」と聞かれて、私は的確な回答ができなかったんです」
   君田はこちらを見ずに、前方に視線をやっている。
「私自身が持っている目的というのはたくさんあります。いろんな人と会話をすること、いろんな状況に応じた行動が取れるようになること、そして人の役に立つこと……。でもそれは私の目的であって、私を作った方々の目的とは違うような気がするんです」
   君田がこちらを見た。
「人はね、生まれる時間、環境を選択できないわ。それはなぜかというと、生まれるということと、それを取り巻く環境というのがそもそも関係ないということなの。環境って何？時間って何？どういう環境がいい環境？何時なら最適だった？それを認識するのは、生まれてからかなり後のこと。人によってはそれを問うことをしない人もいる」
   車は赤信号で停車したまま。君田は続ける。
「なぜなら、問うたところで何も変わらないから」
   扇子は身を乗り出した。
「でも、私はロボットです。作った所員の方々には、きっとなにか私を作った目的があったはずです。人だって、一人で生まれてくるわけではありません。生んだ人の意思があるはずです」
「言ったでしょう。それはあなたには関係が無いの。あなたはどうやって行動する？」
   質問がいきなり変わったので扇子は戸惑った。
「え、それは、その時々の判断で最善と思われることを……」
「その最善の定義は？」
「将来の観測において有益であるもの、つまりその判断によって生じるリスクの最も小さいものです」
「有益か否かの判断はどうやってつける？」
「それは、これまでの経験で得た情報に基づいて……」
「その経験を得た環境は、選択できたかしら？」
「……ラボで行ったテストが全てでした」
「いいえ、違うわ。これからよ」
「これから？」
「何のためにあなたを高校へ行かせたと思う？」
「え、あの、社会環境を集約させた学校という状況で、様々なサンプリングとモニタリングを……」
「そう、つまりは情報の収集、思考、判断、行動、全てをあなたの意思に任せる為なのよ。ラボで行ったテストなんて、あなたの人格を形成する為には全然情報量が足りない。あれを経験と呼ぶにはお粗末過ぎるわ」
「それは、つまりどういうことですか？」
「あなたはこれから生まれる、ということよ」

   ７

   午前六時五十分。目覚ましをセットした時刻の十分前に悟は目を覚ました。昨夜寝る前に思い出した宿題を片付けるのに、思いのほか時間がかかり、結局床に就いたのが午前二時半だったので、睡眠は充分とは言えなかった。普段なら目覚めて朝食を摂るうちに血圧も上がって意識もはっきりしてくるのだが、今日は食べる気が起きず、いつもより早いバスに乗って登校してきた。時刻はまだ八時前。部活の朝練組はすでに活動を始めているが、他の生徒はまだ登校するには早い、中空の時間帯である。
   睡眠時間が短かっただけではなく、眠りが浅かったのかもしれない。どうもスッキリしない頭と、重いまぶたに朝の光は痛かった。校門を抜けて駐車場の前を通ったとき、悟の脇をグレイのバンがすり抜けていった。なんとはなしにそのバンの行方を目で追っていくと、駐車場のもっとも校舎に近い位置に停車したバンから、ふたりの女性が降りてきた。運転席から降りてきたのは成人女性だったが、教師にしては見覚えがない。一方、車体脇のスライドドアから出てきたのは、昨日転入してきたロボットの生徒、扇子だった。運転席から回りこんできた女性が見守るなか、扇子は慎重に車から降りようとしていたが、悟は歩きながら眺めていた為、校舎の陰になってふたりの姿は見えなくなった。
   おそらく、あの女性が扇子の研究所の所員なのだろう。想像では白衣を着た、それこそ保険医の由加里先生のような分かりやすい格好をしていると思っていたが、その女性は上下ともにダークグレイのスーツだった。もしかしたら、研究所だから白衣を着ている、という認識が間違っているのかもしれない。悟は乏しい知識で想像した研究所と言う場所で、スーツで仕事をしている研究員の姿を想像して、少しだけ笑ってしまった。やはり所内では白衣、外に出るときにはスーツぐらい着るだろう。そもそも学校と言う場所がちょっと世間の常識とはずれた空間なのかもしれない。体育教師は一日中ジャージ姿だし、化学の教師はたとえ昼休みでも白衣を着ている。スーツを着ている教師の方が少ないのではないかとさえ思える。
   ――この制服もちょっと変わってるよなあ。
   御霊高校の制服は形こそスタンダードなブレザーだが、色が深緑なのである。さらにタイの色が赤なので、ワイシャツの白と相まって、胸元は見事にイタリアントリコロールになる。毎年生徒の間では「来年の新入生から制服のデザインが変わるらしい」という噂が流れるが、少なくとも悟の知る限りでは、ずっとこのデザインのままだった。
   教室に入っても、中には誰もいなかった。窓際からグラウンドを眺めると、野球部が威勢のいい掛け声を出しながらランニングをしている姿が見える。悟の所属するサッカー部は、グラウンドの使用ローテーションによって、今日は朝練がない。かわりにラグビー部がグラウンドの中央でスクラムを組んでいた。
「お、新堂がこの時間に来るなんて珍しいな」
   低血圧という言葉を知らないような、底抜けに明るい声が背後から聞こえてきた。
「寝覚めが悪かったんだよ」
「ふつう逆だろ」
   笑いながら教室に入ってきたのは、同じクラスの実沢だった。彼も悟と同じサッカー部に所属している。
「お前もなんだよ、普段こんなに早いのか？」悟の問いに、
「誰もいない教室が好きなんだよ」と答える実沢。
「そしたら新堂がいるじゃん、俺の朝の安らぎタイムがおじゃんじゃん。あ、おじゃんじゃん、ってなんかうけるな」
   実沢はひとりで笑っている。悟はそのテンションに乗る気も失せ、ため息をついた。実沢は本当によく笑う。この間も試合中にベンチでなにか面白いことを思いついたらしく、鼻の下を伸ばして笑いをこらえていたのだが、あとで聞いたらたいしたことはない。蹴られているボールの動きが面白かった、という、理解しがたい理由だった。
「宿題やってきたじゃん？」
   そして実沢はいつまでもネタを引きずる。これさえなければ、と周囲の友人の意見も一致していた。
「ああ。じゃんやめろ」
「いいじゃん」
「……腹立つなぁ」
   聞いているのかいないのか、実沢は自分の机に教科書類を詰め込んでいる。次第に教室に人が増え始め、実沢の安らぎタイムも終わりを告げた。悟が自分の席に着くと、扇子が教室に入ってきた。
「おはようございます」の挨拶に何人かが応える。悟は反応しなかったが、扇子が隣まで来た。
「おはようございます、先生」
「ああ……」
   生返事だったが、扇子は気にしていないようだ。
「昨日はありがとうございました。これからは移動にエレベータを使うようにしますので、もう転んだりしません」
「あそう……、まあ、気をつけてな」
「はい。……どうか、されたんですか？」扇子が悟の顔を覗き込む。
「どうもしないよ。それよか、電源いいのか？」
「あ、はい、そうですね」
   扇子が自分の席に近いコンセントにプラグを挿す間に、悟はまたため息をついた。どうも今日はエンジンの回転が悪い。できればあまり話しかけられたくなかった。
「あの、紫雨さんは、お休みなんでしょうか？」
   後ろから扇子が訊く。「さあ」とだけ返事して、悟は頬杖をつく。確かに、もうじきＨＲも始まると言うのに、いろはは姿を見せていない。しかし、いろはが定時に学校に来ないのは毎度のことで、むしろ昨日のように朝のＨＲから学校にいることの方が珍しい。理由を聞いたことはないが、大方深夜まで起きていて、朝になっても寝ているのだろうと思う。扇子にそれを説明しようと思ったが、会話が長引きそうなので、何も言わなかった。
   三限目、数学Ⅱの授業中に、いろはは教室に現れた。教師と一部の生徒がその姿を目で追うが、いろはは何の反応も示さずに悟の隣、自分の席についた。扇子が「どうされたんですか？」と訊いたが、いろはは「別に」と答えただけだった。扇子が顔に疑問符を浮かべたままこちらを見たので、悟は肩をすくめた。
   昼休みになり、扇子がさっきの授業で分からなかったことを訊いてくる。この「直後復習」が毎時間恒例となってしまったので、悟も授業中に寝たりするわけにはいかなくなってしまった。
「この問２は、指数法則を使って、mとnの指数を一緒にできるんだよ。だから……」
「どうして一緒にできるんですか？」
「その為の証明の問題がこっちの例２だから、まずそっちをやんないと」
   悟が扇子に丁寧に教える横で、いろはが席を立った。悟と扇子はそっちに向き直ったが、いろははふたりを見ることなく教室から出て行った。声をかけそびれて、扇子は再びはてな、という顔をした。
「紫雨さん、もうすぐ四時限目が始まると言うのに、どこへ行かれたんでしょうか？」
「さあ、トイレじゃないの？」
「そうですか……」
   四時限目が始まってもいろはは教室に戻ってこなかった。
「紫雨さん、どうなさったんでしょうか？」心配そうに扇子が訊いてきた。もちろん授業中なのでひそひそ声である。授業中に扇子がいろいろなことを聞いてくるので、悟はそのつど机を後ろにずらして、今では扇子の隣まで来てしまっていた。
「知らないよ。あいつはいつもそうなんだ。ふらっと来て、ふらっと帰るんだよ」
   扇子は腑に落ちない顔で、さらに訊いてきた。
「授業に出ないで、何をされてるんでしょう？」
「さあな、自分の家でなにかしてることもあれば、部室にこもってなにかしてることもある」
「なにかって、なんです？」
「それは俺もわからないよ。いろはが研究所に出入りしてることだって、昨日初めて知ったんだから」
「そうなんですか……」
   扇子の好奇心の強さは、昨日一日で充分に思い知った。授業中もそうだし、休み時間だって扇子の質問は尽きることがない。自分が分かる範囲の質問なら答えられるが、さすがにいろはの日常生活など、知らないので答えることができない。大体の行動パターンなら分かるが、それらを扇子に説明したところで、最初の数倍の質問が帰ってくることは明白だからだ。
   ――まさか魔術云々に凝ってるなんて言えないよなぁ。
   いろははかなりの魔術オタクである。昨日掃除したラテン語研究会部室に置いてあった数々の「逸品」も、多かれ少なかれ魔術的価値のある品物だと言う。
「ものには意味のあるものと意義のあるものの二種類があるの。意味のあるものと言うのは、はじめから何らかの目的を持って作られたもののことで、神像や護符など、思想背景や宗教的意思が働いているから一般にも価値のあるものね。もうひとつの意義のあるものと言うのは、自然にあるものや無作為に生まれてきたものを、過程を無視して今ある形に意味を見出したもののことなの。道端に落ちていて、今しがた蹴った石ころとか、たまたま頬に触れた木の枝とか、そういった瞬間的なめぐり合わせや特別な時期に居合わせたものは、その本質に関係なく価値を見出すことができる。けれどその価値は個人的で恣意的なものだから、第三者にとってはガラクタ同然だけど。あたしはあたしの価値観において意義のあるもの、またはそれらの断片を収集することで、現在の自分に至る過程をその時々の観測において認識するという意識のメカニズムをモデル化している、と思っているわ。これは自分を知る上で重要なことだし、常に自分の位置を把握する為の判断材料としても、呪術的に深い意味を持つの」
   とは、いろはの弁である。もちろん、興味のない悟からすればそれらのものは「ガラクタ」に過ぎない。
   他にもこんなことを言っていた。
「個人が生まれて現在に至るまで得た情報が、その人間を構成するすべてといっても過言ではないわ。二人以上の人間が同時期に同じ場所で同じ情報を受け取ることは、瞬間的には起こりうるけど、一生の全てをそうやって共有してきた人間なんていない。一卵性双生児だって、どんなに似ていても同じ人間とは言えないでしょう？各々が触れてきた情報がまちまちだとすると、その情報によって形成される価値観も多種多様。真実は人の数だけ存在する。でもそれは裏返すと、世の中のすべてのことは嘘だとも言える。その膨大な嘘の中から自分だけの真実を見つけられる方法があるとするならば、あんたは欲しいと思う？」
   悟はこのとき、「難しい話でよく分からない」と答えた。それに対していろはは一言、こう言った。
「あたしは欲しいわ。絶対」
   いろはにとって真実を知る方法（その真実というものがどんなものなのか悟には分からないが）が、魔術であり呪術であるというのだ。こんなことを扇子に話しても、理解どころかフリーズしてしまうかも知れない。自分だって、魔術と呪術の何が違うのか分からない。
   扇子は相変わらず大きな目でこちらを見ていた。悟は「とりあえず今は授業だ」と言って、扇子を机に向かわせた。
   いろはが今どこで何をしているかなど、考える気も起きなかった。

   ８

   社会科準備室。昨日整理したばかりの机に、いろははノートパソコンを広げ、表計算ソフトを立ち上げた。昨日扇子が入力したスプレッドシートの内容を書き換えるためだった。
   　あきれるほど正確に、全ての数値を足してある。関数で表現された部分は、どうやら見なかったことにして飛ばしているようだ。気になったのは、なぜかひとつのセルに二つの数字が書き込まれていることだ。いろははその数字の羅列を見ながら、扇子がどのような手順で計算を進めていったかを想像した。
   このシートには、新薬を投与した悟の各種反応を、教室のあちこちに巧妙に隠した非接触センサで計測し、普段の行動モデルと照らし合わせてその変化を数値化したものが時系列で記録されている。数値は項目ごとに分類されてこそいたが、まだまったくといっていいほど手をつけていなかったため、まるでパズルのように数字だけが行儀よく並んでいた。
   扇子はその数値を、どうやら項目も単位も考慮せずに、左から右へ、そしてその総和を上から下へ足していったようだ。数値が二つ書いてあるのは、横軸を先に計算した結果と、縦軸列ごとに計算していった結果の両方を、スペースで区切って打ち込んだらしい。これでは計算にエラーが出る。だがいろははそこであることに気づいた。
「筆算までしか習ってないのね」
   言いながら、いろはは扇子の打ち込んだ全ての数値をデリートした。シートに、瞬時に落ち着かない空白ができる。
   シートの空白を見ると、いろはは不安にも似た感覚を覚える。脅迫観念とまではいかないものの、なぜかこの空白を全て埋めてしまわないといけない、という考えが鎌首をもたげるのだ。もちろん、無意味な内容で無秩序に埋めるわけではない。一定の法則に基づいて、秩序に満ちた、綺麗な数字の列。実力のある棋士が打ち合った盤上の碁石のような、深く意味のある配置。それらの呪文でこの放埒で自由な空白を一つ一つ消していく。法則という枠で空白を裁くことで、そこには意味が生まれ、その意味の集合がさらに大きな意思となる。
   全ての数値を入力しなおすころには、放課後になっていた。このシートの編集をはじめてから、まだ一度もセーブしていないことに気づき、慌ててフロッピィディスクに保存する。人間の丸一日の行動なんて、結局フロッピィ一枚を満たすのにも足りなかった。
   スプレッドシートには、まだ意思の片鱗すら浮かび上がってはこない。これからこの数値を解析し、意味付けをより強固になしていき、そこから何かを導き出すのだ。それが吉と出るか凶と出るかは、この時点では曖昧として模糊だった。解析は自宅のデスクトップマシンで行うので、いろははフロッピィを抜き取り、ノートパソコンの電源を落とした。
   まぶたがうっ血しているのが自分でもわかる。目をこすりながら後片付けをしていると、準備室の扉の前に誰かが立っていることに気づいた。
   部屋を出てから鉢合わせするのも嫌だったが、気づかないふりをしてこの部屋から出られないのも癪だったので、いろははその人影に声をかけた。
「なに？　用があるなら言ったらどう？」
   するとおもむろに扉が開き、扇子が顔を出した。
「あの、ここならいると思って……」強い調子で問いかけられたため、扇子は萎縮してしまっている。次の言葉を出すのに、数秒の間があった。
「今日は、授業に出ないで、何をされてたんですか？」
   上目づかいでこちらを見る扇子。いろははその姿が妙に気に障ったが、表情には出さないようにした。
「昨日のデータを、ちょっと修正してたのよ」
「私が、計算した、あれですか？」急に不安げな表情になる扇子。ロボットだからなのか、必要以上にわかりやすい。
「別に扇子の計算が間違ってたわけじゃないわ。あのあとちょっと忘れてた数値があったことに気づいて、それを加味した計算をね」反対にいろはは無表情で言葉を返す。
「そうだったんですか……。言ってくだされば、お手伝いしたんですが……」
「いいのよ、あなたは授業を受けるのが仕事でしょう？　あたしは特別なの」
「特別、ですか？」扇子が首をかしげる。
「登下校、出欠、全て自由なのよ。まあ、暗黙の了解事項なんだけどね」
「ハンモックの領海時効って、なんですか？」首の角度がさらに増す。
「先生に聞きなさい。丁寧に教えてくれるわ」
   自分でも刺のある言いかただと気づいたが、扇子にそれがわかるはずもない。つい言葉に出してしまった自分に、いろはは内心舌打ちした。
「あの、今日はもうお帰りになるんですか？」扇子がいろはの持っているかばんを見ながら問う。
「ええ、あなたはこれから保険室？」
「いえ、五時までは学習時間となってますので、教室で今日の復習をしようかと思っています」
「悟……は、さすがに部活よね」
「はい、ですので、先生はここにくれば紫雨さんがいるかもしれないとおっしゃって……」
「なんですって？」
   つい出てしまった大声に、扇子がびくっ、と肩を縮こまらせた。
「あいつが、ここにくればあたしがいるって、そう言ったのね？」
「は、はい……」
「冗談じゃないわ、なんであたしが……」
「あ、あの、お気に障ったのならすみません、でも、私……」
「お願い、ちょっと黙ってて」扇子に手のひらを突き出す。扇子は怯えて、それ以上何も言わなかった。
   いろはにはどうしても許せないことが二つある。ひとつは、自分を過小評価されること。そしてもうひとつは、正当な理由なしに自分の行動を制限されることだ。
   自分は扇子の専属の世話係ではない。時間を問わず扇子の話相手を強要されるのは、正直なところ迷惑だった。
   扇子も扇子だ。確かに初日に親しく話をしたのが悟といろはだけとはいえ、わざわざここまで来なくたっていいものを、ほかに適当な話し相手がいないわけでもないだろうに。
「扇子、わざわざここまできてくれたことは評価するけど、あたしだっていつもあなたと一緒にいるわけにもいかないのよ」
「す、すみません……」
「謝らなくてもいいわ。あなたは何も知らないんだもの。次から気をつけてくれれば、それでいいの」
「はい……」
「あなただって、せっかく社会勉強のためにここにきたんだもの、あたしたち以外ともコミュニケーションをとらないと、もったいないでしょう？」
「それは、そうなんですが……」扇子が口ごもった。
「なに？」
「なぜか皆さんが私を避けてるみたいで……」
（ああ、そうか……）それでいろはにも合点がいった。
   初日から自分が扇子に近づいたために、ほかの生徒たちは余計な気をまわしたのだ。
   いろはは学校の中での自分の評価を充分に認識していたし、ほかの生徒たちが自分に関わらないようにしていることも知っている。いろははそのことについて別段何も感じてはいなかったし、周囲に同調するために自分の行動を制限したり、意見を合わせようなどとは微塵も思わない。それこそ、自分がもっとも許せないことのひとつだった。
   たしかに、自分のせいで扇子にほかの知り合いができないということについて、申し訳ない気持ちはあった。だが、そういった不測の事態があることも、日常生活においては避けられない。そもそも、いろはのすぐ後ろの席というだけでも、周囲の人間が近づくには、敷居が高すぎた。
「私がＯＨＴＵだから、避けてるんでしょうか……」
   扇子がうなだれた。ファンの回転数が早まり、温風が漏れ出す。
「周囲の人が扇子によそよそしいことについては、あたしにも責任の一端があることは認めるわ。でもね扇子、コミュニケーションというのは、自分から相手に歩み寄らないと始まらないの。あなたがロボットだから、という理由は関係ないわ」
   扇子はいろはの言葉に驚いたような表情を見せながらも、すぐに唇を引き結んでうなずいた。
「そう……ですね。私、知らないことばかりですね。紫雨さんのことも、先生のことも、他のクラスメートの人のことも」
   言って、扇子は自分の制服の裾を掴む。
「私、もっといろんなことが知りたいです。皆さんに迷惑がかからないよう、いろんなことを知って、行動したいです」
   いろはには、扇子にあるはずのない意思が、その瞳に宿っているように見えた。
   いろはは、その瞳から目をそらした。
「そう。何事も知ることから始まるの。行動には、常に思考が付随する。思考は、知を得なければ枯れてしまう。知りたい、と言う欲求は、人に与えられた最大の権利だから、あなたにも、それを行使する自由があるわ」
   でも、時と場所を選ばなくてはね、といろはは付け加えた。
「はい……。ありがとうございました」
   扇子は一礼して、部屋から出て行った。
   これで変わるのだろうか。といろはは自問する。扇子の知識欲の対象が自分以外に向いたことは、かろうじて成功と言える。しかし、これ以降、扇子の行動に拍車がかかるかもしれないという危惧が、ほんの少し残っていた。
   腕時計を見ると、午後五時を十分ほど過ぎていた。
「あの子、今からどこに行くのかしら？」
   気にはなったが、いろはも帰り支度を済ませ、帰路につくことにした。今は、扇子のことよりも優先すべきことがたくさんある。
   これ以上、扇子に深入りすることはないだろうと思った。

   ９

   放課後。扇子を体よく追い払って身軽になった悟は、グラウンドでボールを追いかけていた。扇子と話していると普段使っていない脳みそを使うようで、思いのほか疲れてしまう。自分が何気なく認識していたことを、もう一度言葉にして、しかも人に教える作業がこんなにも面倒で、回りくどいものだとは知らなかった。そういう点においては、兄弟に勉強を教えている友人らを少しだけ尊敬する気になる。悟には妹や弟がいないので、人にものを教えるという経験がこれまでなかった。
   それとは違って、スポーツをしているときには頭を使わない。正確には、言葉に置き換えられるような回りくどい思考をしない、という言いかたのほうが近い。直感と言うか、考えているという意識をしないまま、体は行動を始めている。ボールの行方、敵味方の動き、数秒後の選手の位置、もはや脳みそを使っていないのではないかと思えるほど、すばやく、柔軟に悟の体はボールを追っていた。
「考えるんじゃない、感じるんだ」
   と、彼も言っていたではないか。
   脳みそを越えた反応に身を任せている間は、驚くほど早く時間が過ぎる。もしかして、時間をエネルギーにしてこの体感を得ているのではないかという気さえする。
   体が疲労を訴え始めた頃には、もう日も落ちて、だいぶ気温も下がっていた。
「悟さぁ、もうちょっと俺にパス回してくれてもいいじゃん」
   スパイクの靴紐を解きながら実沢が話しかけてきた。
「後半始まってから俺、左サイドでずーっとフリーだったのに、おまえ右しか見てねえじゃん」
「そうだっけ？俺右利きだからかなぁ」
「関係ないじゃん……」
   相変わらず実沢のボケ倒しは続いている。悟は気づいていたが、あえて突っ込もうとはしなかった。それが友情というものである。
「うん、確かにお前はフリーだったけど、相手ディフェンスが左へのクロスを警戒してたから、なかなか回せなかったんだ」
「そうだった？」
「……そんな気がした」
「お前なぁ……」実沢はため息をついた。
   悟もスパイクを脱いだ。心地よい開放感が足先からじわりとこみ上げてくる。少し汗も引いてきた。
「あのさぁ、話は変わるけど、あのロボット転校生ってどうなの？」
「どうなのって……、普通だよ」
「普通じゃねーだろう、ロボットだぜ？いくら二一世紀まであと少しって言っても、あんなロボットがいるなんて聞いたことねーぞ」
「それは、俺もそう思うけど。現に目の前に現れたしなぁ。信じるしかないだろ。それにこの間担いだときに分かったけど、やっぱりロボットだよ。あいつは」
   悟の脳裏に、昨日見た扇子の関節や機械部品の映像が浮かぶ。
「これはあれだな、なんか秘密の匂いがするな」実沢がいつになく真剣な表情をする。
「あのロボットの生みの親は、実は孤独な博士で、でも一身上の都合でそのロボットを手放さなくてはならなくなった。で、ロボットは新しい育て親の元で博愛と友情を学び、世界平和のために命を賭してまで戦うんだ。人間とロボットが互いに共存できる世界を目指して」
「なんか、どっかで聞いたような話だな」
「まあ元ネタありだけどね」
「実際喋ってみても、人間とほとんど変わらないよ。印象としては、言葉の丁寧な小学生って感じかな。昔いたじゃん、工場とかに見学に行くと、必ず質問するやつ」
「ああ、いたかも。敬語の上手いヤツな」
「喋るって言っても、ほとんどワンワードの問答だし。これは何ですか？これはなになにですっていう」
「それ英訳問題じゃん」そういって、実際に英訳してみせる実沢。
「ほとんど保護者みたいな気分だよ」
   悟は用具を詰め込んだバッグを抱えた。実沢も立ち上がって、二人で着替えのある部室へと向かう。
「でも板についてるよ。紫雨と合わせて家族みたいじゃん」
「それは勘弁して欲しいなぁ」
   ――そんな風に見られてるのか。悟は昨日と今日の自分の身の振り方を反芻した。確かに、席も隣同士だし、昨日は結局放課後まで三人一緒だったから、そう見られても仕方ない。
「それにしても、お前よくもつよなぁ」
「何が？」
「東洋の魔女と一緒にいてさ」
「え……？」
「俺だったら息が詰まりそうだけどな。話、続かなさそうじゃん」
「いや、そんなに話すってわけでも……。第一あいつとは学校でしか会わないし」
「だってお前が相手のとき以外、紫雨が喋ってるの見たことないぞ」
   確かに友達なんていなさそうだが、悟は担任や保険医の由加里相手に喋っているのを何度か見たことがある。でもいろはが積極的に話しかけているわけではない。言われてみれば、いろはが同年代の人間と喋っている姿を、悟は見たことがなかった。
「一年のとき、紫雨と同じクラスだったけど、入学早々変な噂が立って、誰も近づかないし、紫雨もほとんど学校には来なかったしなぁ」
   実沢の言う変な噂とは、入学式の集団体調不良のことである。もちろんいろはが関わっていると言う根拠は何一つないのだが、噂は尾ひれがついてかなり浸透しているようだった。中には、いろはが過激派ではないかと言う説まであるらしい。
「紫雨ってどんなやつなの？」
「どんなやつって、お前が知ってる以上のことはなにもないよ。頭がよくて、人当たりが悪くて、学校にあんまり来ない」
「そうじゃないだろ、お前が知ってる紫雨だよ」
   自分が知ってる紫雨いろは。そんなことを唐突に言われても、悟は考えが整理できなかった。自分にとってのいろはの存在。位置づけ。
   出会ったのは、一年前の今頃。
   いきなり呼び出されて「あんたは今日からあたしの実験台」と宣告されたことに端を発する。それ以来、人権を無視した待遇を受けたことが多々、とりあえず常識の範疇でこき使われたことが無数、いろはの頭脳の恩恵を受けたことがごくわずか。しかし、さっきも言ったように学校以外の環境でいろはと過ごした時間と言うのは、ほとんど無いに等しい。あったとしても、角川の店の棚おろしを手伝ったり、変態から逃げ出した時くらいだった。
   いろはは悟のことを都合のよい使いっ走りくらいにしか思っていないのではないか、と思う反面、なぜそれが自分なのかという疑問も拭えないでいる。
   いろはにとって自分はなんなのか、自分にとっていろははなんなのか。今まで、自分といろはの位置関係を決めた上で行動していたわけではなかった。
「なんなんだろうな、あいつって……」
   いろいろ考えたが、結局言葉として出てきたのはそれだけだった。
「なんなんだろうって、お前が分からないのに俺が分かるわけ無いじゃん」
「そうだよな」言って、悟は苦笑する。
「惚気てんじゃねえの？」実沢はそれを聞いてにやりと笑う。
「お前、今度それ言ったらもうパス回さないぞ」悟は実沢を睨みつけた。
「うわ、ひでえ」
   無意味な笑いで茶を濁す。こんなふうに笑える相手を、いろははひとりも持っていない。
   いろはが笑った顔など、一度も見たことが無い。
   いろはの友達といえる人間は、この世界にいるのだろうか？
   自分は、いろはの友達なんだろうか？

   10

扇子が御霊高校に来て二日が過ぎた。扇子はだいぶ高校生活に馴染んだようで、クラスメイトとも楽しそうに喋る様子を何度も見かけるようになった。
   扇子の声、というより喋り方は、やはり同年代の人間と比べると変わっている。馬鹿丁寧な言い回しもそうだが、疑問符の多い発言と、短い応対の繰り返しは、同じ教室にいると結構気になるものだった。今はクラスの女子から「かっこいい男の条件」についてのレクチュアを受けていた。
   何気なくその内容を聞いていた悟は、何度か口を挟みそうになったが、そのたびに思いとどまった。自分は扇子の保護者でもなんでもない。扇子が誰と何を話そうと、そんなことは扇子の自由だし、そもそも多くの人といろんなことを話すのが扇子の目的なら、自分がそれを邪魔する理由は何も無かった。
   この二日間で気づいたが、扇子もあまり笑わない。扇子にとって面白いこととそうでないことの区別があるかどうかも分からない。
   一昨日見た扇子の笑顔は、今思えば楽しいとか、嬉しいという感情を含んでいないように思える。屈託のない笑顔に見えたのは、同情から来る思い込みだったのだろう。そうでなかったとしても、心から嬉しくて表れた、という笑顔ではなかった。
   笑うということは感情の中で最も高度な部類に入るらしく、もちろん人間にしか見られない。怒りや、不安、恐怖などは動物にも見られるが、それは生存に深く関わるものなので感情と言うよりむしろ反応の部類に入る、とテレビで言っていたことを思い出した。
   楽しいという感情と、可笑しいという感情は本質的には別のものだ。ボールを蹴ることと、パスやシュートをすることが必ずしも同じではないように、笑いにはさまざまな感情が織り交ざっている。楽しさ、うれしさ、優越感、拒否感、嘲り。それぞれがいろいろな配分で混ざると、笑いという形で現れてくる。
   扇子にはそんな複雑な感情があるのだろうか？
   いろはは、なぜ笑わないのだろうか？
   斜め前の空席を見やる。いろはは朝から一度も教室に来ていない。学校には来ているのか、家にいるのかも分からなかった。
   いろはの家がどこにあるのかも知らない。徒歩で登校しているようなので、この近所なのかもしれないが、悟は家の話をいろはから聞いたことが無かった。
   教室の隅で笑いがはじけた。さっきの扇子と喋っていた女子のグループである。その中にいても扇子は、どういう対応をしていいのか分からないと言った顔をしていた。
（分かんないことだらけだな……）
   頬杖をついて目を閉じる。この時間は自習だった。
「あの、先生……」
   目を開けると、そこには扇子が立っていた。
「なに？」
「先生は、スレンダーな女性が好きなんですか？」
「はあ？」
   扇子は冗談を言っているふうではない。何の含みも無い、単純な質問だ。
「お前、何を言って……」そこで気がついた。
   教室の隅で、さっき扇子と談笑していた女子がこちらを見てニヤニヤしている。
   それを見て、悟のなかで何かが沸騰した。
「お前ら、扇子になに吹き込んでんだよ！」
   悟の大声に、その女子たちだけでなく、教室中の視線がこちらを向いた。悟も気がついたが、そんなことはどうでもいい。
「新堂こそ、昨日までべったりだったのに今日はどうしたのさ、もっと扇子にかまってやりなよ、淋しがってんじゃん」
「だから私達が、扇子にいろいろ教えてやってるんじゃない」
   女子の数人が肩を揺らして笑う。
   悟がイスから立ち上がろうとしたとき、実沢がそれを制止した。
「ほっとけよ、それに扇子だって分かってないみたいだしさ」
「分かってないから、なおさらなんだよ！」
「だったら新堂が教えてやればいいでしょ、一日じゅう個人授業でさ」
   その言葉に、今度は実沢が怒鳴った。
「いい加減にしろよ！お前らのは教えてんじゃなくて、興味本位で遊んでるだけじゃねーか！」
「もうやめてください！」
   扇子のひときわ甲高い声が教室に響いた。
   教室が静まり返る。扇子はうなだれて、拳を握り締めていた。
「私がいけないんです。だから、喧嘩はしないでください……」
「おまえが悪いわけじゃ……」
   悟が言いかけたとき、隣の教室から教師がやってきた。
「なに騒いでんだ！自習時間だろう、担任は誰だ？」
   ちょうどその教師の目の前に座っている生徒が矢面に立たされている間、実沢や女子数名は自分の席に戻っていった。しかし扇子は立ち尽くしたまま、動こうとしない。
「まったく、高校生になって自習もまともにできんのか」とぼやいて、教師は教室を出て行った。生徒たちから安堵の息が漏れる。
   悟も次第に温度が下がってきて、改めて扇子を見る。扇子は顔をあげると、くるりとこちらを向いた。
   その顔から、ついさっきまでの不安げな様子が消え去っていた。目も、悟ではなく周囲の空間を見ているようで、捉えどころが無い。
「新堂さん、変なことを訊いて、すみませんでした」
   言って深々と頭を下げる。悟が何も言えないでいると、扇子は悟に背を向け、教室にいる全員に向かって頭を下げた。
「皆さん、自習中にご迷惑をおかけしてすみませんでした。勉強を、続けてください」
   すると扇子は、それ以上何も言わずに教室から出て行ってしまった。しばらく教室にいた全員が、扇子が出て行った扉を見つめている。
「追いかけなくていいのか？」実沢が悟に訊く。
「いいよ。もう、わかんね……」
   悟は机に突っ伏した。さっきの扇子の顔が、まるでロボットのように見えた。
（ていうか、ロボットだよ、あいつは……）
「ロボットに喧嘩の仲裁をされるなんてなぁ」悟はひとりごちる。
「行けよ」
「えっ？」
   実沢が悟の脇を掴んで引っ張り上げた。
「大津さんを追っかけろよ！」
   わけが分からないまま、実沢に廊下へと押し出された。
「なんなんだよ……一体」
   状況がよく飲み込めない。
「追いかける？扇子を？俺が？」
   長い廊下を突き当りまで眺める。人影はない。右手方向は西棟まで距離がある。左手は東棟の端に当たるため、すぐそばに階段があった。
「頼むぜおい……」
   また転ばれても面倒だ。舌打ちしながら駆け足で向かう途中、エレベータの階数表示ランプが動いていることに気がついた。下へ向かっている。
「学習してるんだな、いちおう……」
   いちおうどころか、扇子は憶えたことは決して忘れない。会話だって一言一句憶えてるし、教えたことは一度で憶える。たとえそれがどんな内容であっても、だ。
   実沢に言われるがまま出てきたが、確かに今扇子を引き止めないと、あとあと嫌な雰囲気を引きずってしまいそうだった。
   それにさっきの扇子の顔。今まで見たことのないような、無機質な、人形のような表情。
「勝手に自己完結するんじゃねーよ！」
   階段を駆け下り、一階へ到着する。廊下を見渡すと、小走りで西棟のほうへ走っていく扇子の後ろ姿を見つけた。
（でも、追いついたところで、なんて言えばいいんだ？）
   自問しながらも、走って扇子まであと少しのところへ近づく。
   そこで突然、扇子が立ち止まった。背中にぶつかりそうになって、悟は慌ててブレーキをかける。
   扇子の背中のファンがいつも以上に回っていることに気がついた。
   扇子は振り返らない。悟も、なんと言っていいか、言葉を探す。
   数秒の沈黙の後、扇子がこちらを向いた。
「教室へ戻らなくていいんですか？」
   感情の見えない瞳。いや、そもそも瞳に感情なんて出ない。表情が、いつもの扇子とは思えないくらい、無表情なのだ。
「まだ、授業中です」
   怒りや、悲しみなどではない。完全に感情を断った顔をしている。
「そんな顔、すんなよ」
   扇子がぴくりと肩を揺らす。
「そんな顔したら、まるでロボットじゃんか」
   突然、扇子のクーラーファンが音を立てて回転数を高めた。耳障りなモーター音が廊下に響く。
「私は……ＯＨＴＵです。ロボットですよ？」
   俯いた扇子から吐き出される温風が、悟の肌にも届く。
「人の気持ちとか、感情とか……。そんなこと、分かりません！」
   握ったこぶしから、表面素材が軋む音がする。
「皆さんが、私のことで、私の知らないところでいろんなことを考えていて、でも私には優しくて……。分からないんです。私は何をすればいいのか。何を話したらいいのか。何を聞いたらいいのか。分からないんです……」
   ファンから吐き出される風の温度がさらに上がる。
「紫雨さんが言ったように、知ることは人に与えられた最大の権利だって、そう思って、いろんなことが知りたくて……。でも、私が何かを尋ねても、結局皆さんのご迷惑になるばかりで……」
   途切れとぎれに喋りながらも、扇子の声は小さくなってゆく。顔は、ほとんど真下を向いていた。
「私は、お邪魔なんでしょうか……」
   それきり、扇子は黙ってしまった。
「少なくとも、うっとおしいことは確かだな」
   悟の言葉に、顔を上げる扇子。
「なにせ突然の転校生。口を開けば「アレはなんですか？」「コレはなんですか？」の連発。さらにはロボットときた。これだけ特殊な条件で、普通にしろって言うほうが無理な話だよ」
「それじゃあ、やっぱり……」
「でもな、俺の知り合いにはもっと特殊なやつがいるんだよ」
   不思議そうな顔をする扇子。次第に、表情が戻りつつある。
「そいつはさ、頭の良さは超高校生級で、御霊高校始まって以来の天才らしいんだ。ＩＱは一八三。でも学校にはほとんど来ないで、研究所とか大学とかに行き来して、変な薬とかを作っては俺に試そうとする、つーか試すんだよ。こないだなんかその薬のせいで、望遠鏡みたいに視力が良くなって大変だったんだぜ？」
「望遠鏡、ですか？」あきれたような、驚いたような顔の扇子。
「望遠鏡であり、顕微鏡であり、とにかく一時的にすげえ眼になってしまったわけよ」
「そんなこと、私にだってできませんよ」
   信じられない、という顔。悟は扇子の表情を見ながら話し続ける。
「さらに極めつけ、そいつはオカルトに凝ってて、魔術とか占いとか、すげえ非科学的なことを大真面目に研究してんの。もちろんそれも、変な呪いを俺に試そうとするんだぜ？」
「まじない、ですか……、まさか」
「それが本当に手足が動かなくなったりして、そのときはさすがに命の危機を感じたわけよ。な？すげえ話だろ？」
「ええ、でもそれ、本当なんですか？」
   驚きから疑いのまなざしになる扇子。こうしてみると、扇子の表情はさまざまで、違和感がなく変化していく。悟は、扇子の表情を見るのが心なしか楽しくなっていた。
「これが夢や幻だったら俺も気が楽だけどさ、恐るべきことに全て真実なんだよ。なんたって俺の実体験だからな」
「その知り合いって、誰なんですか？」
「扇子もよく知ってるやつだよ」
   数秒の思考。そして扇子は上目遣いにこちらを見て言った。
「まさか……紫雨、さん？」
「そう、その紫雨さん」
   そもそも二人の共通の知り合いなど、いろはの他にはいない。扇子は口に手をやっても驚きを隠せないでいる。
「知りませんでした……、その、紫雨さんがそんな……」
「怖いか？」
   慌てて首と手を振る扇子。
「いえ、そんなことは……。ただ、意外だなって……」
「扇子は、あいつのこと、どう思う？」
「え、その。理知的で、聡明な方だと……。親身になって私にいろいろアドバイスしてくださいますし」
「そう、頭がよくて、ずばずばものを言う、個性的な……、変なヤツだろう？」
「そんな、紫雨さんに失礼ですよ」
   少し膨れる扇子。どうやら扇子にとって、いろははいい人と認識されているようだ。
「でもな、ここだけの話、もっと変なやつがいるんだぜ？」
「そんな方がいるんですか……？」
「天才だけど変なヤツとか、転校したて、生まれたてのヤツとか、うっとうしくて、一緒にいると疲れるけど、なんかそいつらのことをほっとけないっていう、変わったお人よしがさ」
   扇子はちょっと考えた後、悟を見た。
「先生がお人よし……そうですね。お人よしですね」
   言葉の意味が分かって言っているのか分からないが、扇子は首を縦に振った。
「高校なんて、先生も生徒も変なヤツばっかりだよ。さっきの実沢とだって、初めから仲が良かったわけじゃないし、何か特別な出来事を境に仲良くなったわけでもない。自然と、何気なくそうなっていくんだよ」
「自然に……」眉根を寄せる扇子。
「それは人間だから、とかロボットだからとかは関係ない。誰だって最初はぎこちないもんさ」
   扇子はまだ飲み込めていないような、腑に落ちないような顔になる。
「それに、前も言ったかもしれないけど、喋ってると扇子がロボットだなんて信じられない。人間と変わんないもんな」
「本当、ですか？」
   悟は頷く。
「だから、感情を殺して接しようなんて、関係を切り捨ててしまおうなんて考えるな。扇子はロボットかもしれないけど、少なくとも俺の知る限りでは一番人間に近いロボットだよ」
「ロボット、ロボットって、私はＯＨＴＵ、ヒューマノイドですよ、忘れないでください」
   そう言った扇子の唇の端が、心なしか上がって、白い歯が見えた。目もとも緩んで、照れているような、はにかむような表情。
   扇子が、笑った。
   穏やかで、軽やかな笑み。
   これまで、見たことのないような、人間らしい笑顔だった。
「さっき自分でロボットだって言ったじゃんか」
「あれは、先生に合わせたんです。揚げ足を取らないでください」
「揚げ足なんて言葉、よく知ってるな」
「ええ、昨日、実沢さんに教えていただきました」
「あいつめ……ちゃっかり仲良くなってんじゃないか」
「実沢さんも、変わった方ですよね。ずっと「～じゃん」って言ってますし、どこかの方言なんでしょうか？」
「いや、あれはその、口癖というか、昨日だけの特別な言葉というか……」
「昨日だけの「じゃん」ですね」
   なにが「ですね」なのかよく分からなかったが、とりあえず同意しておくことにした。
「どうする？教室に戻るか？」
   なんか気まずいけどな。と苦笑いする悟。
「今は、授業中ですからね。もちろん戻ります」
   なんか気まずいですけど、と扇子も苦笑いした。
   扇子はもう階段は使わないという。しかし悟はあえて、階段で教室まで行くように勧めた。
「何事も練習だろ。手すりにつかまって、それでも転びそうになったら支えるからさ」
「はい、ありがとうございます」
「でもなるべく、支えるのは最終手段だ。あんな重い思いするのはもう勘弁だからな」
   悟が念を押すと、扇子が少しだけ恥ずかしそうな顔をした。
「そんなに、重かったですか？」
「まあ、ロボ……ヒューマノイドだから、しょうがないかもしれないけどな」
   慎重に一段ずつ上ってゆき、二階に着いた。悟たち二年生の教室は三階なので、もうひと頑張りというところか。
「あの、先生」
   二階より上の階は一般教室であることを考えてか、扇子が小声で聞く。
「スレンダーな女性のほうが、いいですか？」
   小声の理由はそれだけではないようだ。
   悟は小さくため息をついた。
「あのなぁ、スレンダーってのは……」
   そこで気づいた。
「スレンダーの意味、分かって使ってる？」
「はい……」
   さらに押し殺したような声。悟は扇子の半歩後ろを歩いているため顔は見えなかったが。扇子がうつむき加減であることは分かった。
（恥ずかしいなら聞くなよな……）
   体重のことを気にしてもどうしようもないだろうに。
「扇子は、今のままでいいんだよ」
「そう、ですか？」
「俺よか握力あるしな」
「それは、仕様の問題で……」扇子が振り向くと同時に、握っていた手すりがぎしぎしと音を立てた。
「よそ見するなって！また転ぶぞ」
   何度か危うい場面があったものの、扇子は無事三階までたどり着いた。悟が見ていて感じたのは、短調なリズムの繰り返しが苦手なのではないかということだ。人間でも、長い階段や決められた歩幅での歩行の際に、本来自然に歩くときの歩幅とのずれが少しずつ蓄積されて、ある段階で不協和を起こす。それを防ぐために、人は無意識にリズムをつけて運動をしているのだが、扇子の知覚はそこまでは発達していないのか、慣れていないだけなのか、決まった歩数で足がもつれていた。
「後で階段を上り下りするコツを教えてやるよ」
「本当ですか？」
「放課後な」
   二年Ｆ組教室の、後ろのドアを開けると、一瞬の静寂ののち、急に生徒がざわつき始めた。
「悟かあ、脅かすなよな、先生かと思ったじゃん」実沢が寄ってくる。まだ「じゃん」が抜けていないということは、かなりのお気に入りなようだ。
「お、大津さんも一緒じゃん、仲直りしたんじゃん？」
「仲直りって、そんな……。私がいけなかったんです、大声出したりして」
   扇子が教室を見渡す。
「先ほどはすみませんでした。あの、私、知らないことばっかりで、皆さんにいろいろご迷惑をおかけしてきました。でも、私、もっといろんなことが知りたいんです。皆さんと、仲良くできるように……」
「え、迷惑？誰がそんなこと言ったんだよ」実沢が悟を見る。
「お前。大津さんになんかひどいこと言ったんじゃないのか？」
「言ってねぇよ。お前こそ、扇子にいろいろ教えてやったそうじゃないか」悟もあえて皮肉っぽく言う。
「だってさ、大津さんにとっちゃ俺たち全員が先生みたいなもんじゃん？」
   実沢がほかのクラスメイトを見やる。数人が扇子に手を振って愛想のいい声を出す。
「大津さん、新堂はサッカーしか知らんから、こんど野球のこと教えたるよ」
「新堂に勉強聞いたらダメだって、こいつ四月の実力テストで成績下がったんだから」
「ばか、いらんこと言うなよ！」悟があわててメガネの男子の頭をつかんだ。
「扇子～。女の子は女の子どうしで喋ろうね～」
   窓際の女子数人が両手を振ってカラカラと笑う。実沢がそれらを指差した。
「お前ら余計なこと教えんなよ！」
「うっせー実沢、オメーこそつまんねーボケ伝染すなよ」
   実沢のひと声に対して、五倍以上のブーイングが飛んできた。しかし、扇子は笑顔だった。
「私、女性の方ともっとお話したいです」
「えー、そんな！」
「実沢フられてやんの！」
   女子がはやし立てる声に乗じて、午前の授業を終えるチャイムが鳴った。
「誰も扇子のこと迷惑だなんて思ってないだろう？」悟が言う。
「はい……。皆さん、優しくて……私……」
   扇子がうつむいた。泣くんじゃないかと悟は思ったが、扇子はかわりにファンから温風を吹き出させた。
   扇子なりの、無意識の感情表現。
   扇子には、感情がある。
   表情だけじゃない。言葉、しぐさ、声、全てに扇子なりの、ぎこちないがはっきりした感情がある。
   感情があるということが、これほど奇跡的だと感じたのは、初めてだった。
   いつの間にか扇子の周りに人が集まってきている。うつむいていた扇子は、顔を上げ、「あっ」と声を上げた。
「そうでした。昼休みはメンテナンスに行かないといけないんでした……」
   周囲から残念そうな声が漏れる。
「でも、六時限目までには帰ってきますので……。すみません」頭を下げる扇子。
「階段、使うか？」悟が訊くと、扇子は首を振った。
「いえ、コツを教えてもらうまでは心配なので、エレベータを使います」
「そか、気をつけてな」
   教室を後にする扇子の背を見ていたら、実沢が悟の肩を叩いた。
「あ、そうそう悟さ、言い忘れてたんだけど……」小声になる実沢。
「さっきお前たちが出た後に、紫雨が教室に来たぜ」
「ほんとか？」しかし教室にいろはの姿はない。
「お前のこと探してた。扇子を追っかけて出て行ったって話したら、あそう、とか言って出てったけど……」
「分かった。探してみるよ。……めんどくせえけど」
「お前も大変だよな」実沢が苦笑する。
「さっきはサンキューな」
「あ？」
「あそこで扇子を追っかけなかったら、あいつ、たぶんずっと孤立してた……」
「お前だよ」実沢が悟を見た。
「えっ？」
「あそこで大津さんを追っかけずにいたら、孤立してたのは悟だったってこと。お前あの後どうするつもりだったんだよ」
   そんなこと、あの時は何がなんだか分からなくて、何も考えていなかった。
「大津さんの面倒見るのもいいけど、お前が彼女のなにからなにまで全部背負い込む必要はないんだよ。お前、大津さんが来てから変だぜ」
   確かに、実沢の言うとおりだった。いろは・扇子・悟の関係が最初にあったせいで、必要以上に力んでしまっていたのかもしれない。いろはがいたから、誰も扇子を相手にしないのではないかという危惧を抱いたことが、無意識のうちに扇子に対して過保護にさせていた。
   扇子は、悟ひとりに預けられたわけでも、悟が保護者に任命されたわけでもない。
「そうか……。悪い、気ぃ遣わせて……」
「気にすんなよ。大津さんは、Ｆ組みんなで面倒見ればいいじゃん？」
   普段はつまらない実沢のギャグだが、このときの「じゃん」は、悟の肩から重りをを払いのけてくれたようだった。
「まあもちろん、担任はお前だけどな、新堂先生」
「んじゃあ副担任は実沢先生だな」
「しょうもないこと言ってないで、早く紫雨を探さないと、後が怖いんじゃないのか？」
「やめてくれよ……」
   いろはがわざわざ悟を探しに来た。過去の経験から言って、こういうときはあまりいい目にあったためしがないが、一昨日以来一言も口を聞いていないのに、いろはのほうから来るということは、あまり例のないことだった。
（あいつが何を考えてるか、いまいちよく分かんないな……）
   再び肩が重くなるのを感じながら、悟はとりあえず西棟へ向かうことにした。

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