HOME INFOMATION GALLERY NOVELS LINK HISTORY  

NOVELS

前のページへ
  
   11
  
   時間は少しさかのぼる。学校では朝のHRが終わって、一時限目が始まる時間。いろはは御霊製薬ビルの受付ロビーに来ていた。
   昨夜整理した実験データを、御霊製薬内で行った別な実験データと統合させるために持ってきたのだ。いつもなら向こう側から取りに来るのだが、わざわざいろはが出向いたのにはわけがあった。
   ロビーの隅においてある観葉植物を眺めていると、受付嬢のよく通る声が耳に入ってきた。そちらを見やると、スーツ姿の女性がいろはに向かって手を振っているのが見えた。
「おはよう、珍しいじゃない。昨日は徹夜だったんでしょ?」
   背の高い、ショートカットの女性。いろはは、これほどパンツスーツの似合う女性を他に知らなかった。
「おはようございます。これが、〇二六のデータです」持ってきたA4サイズの茶封筒を見せる。
「実は私も徹夜明けでね。今日は夕方までオフだから、そうね。一時間くらいなら付き合えるわ」
   伸びをする女性。その胸に御霊製薬の名札がかかっている。
「第6研究室 奥山優子」と書かれた、白地に緑の簡素なものだった。社外に出るわけではないのでそれで十分事足りる。いろはも同じ名札を持っていた。
   奥山はいろはの直接の上司にあたる人物で、現在も同じプロジェクトで一緒に仕事をしている。しかし学生との兼業であるいろははなかなか研究室へ顔を出せないので、奥山が橋渡しとなって頻繁に連絡を取っていた。
「朝ごはん食べた? 私まだなのよね。ドニーズ行かない?」
   強引な会話は、最初に会ったときから変わらない。しかし不思議なことに奥山のこの手の誘いを、いろはは断ったことがなかった。
「ええ、あたしもまだです。でも、朝ってあまり食べないし……」
「別に無理して食べなくてもいいのよ。軽くコーヒーでも飲んでさあ、頭シャキっとさせないと」
   奥山の提案は押し切るというよりも、相手をその気にさせる力に長けている。いろはも、寝不足の頭をクリアにするためには、熱い飲み物を飲んだほうがいいかも、と思った。
   奥山に連れられて、歩いて五分ほどのファミリーレストランにやってきた。いろははコーヒーセット。奥山はなんとチーズハンバーグセットを注文した。
「じゃあ、とりあえずデータはもらっておくわ。一通り目を通したら連絡するから。詳しい話はあとでね」
   そう言って、汗をかいたコップを紙ナプキンの上に載せる奥山。
「で、聞きたいことって?」
   いろはがわざわざ御霊製薬までやってきたのは、扇子に使われている素材について、NAZDAから受注したときの詳細や使用量などを聞くためだった。いろはは素材の中身や性質について携わっていたが、それ以外のことは詳しくは知らない。新たな情報が手に入れば、扇子の詳細についても分かるかもしれないと思ったのだ。
   NAZDAで作られた、という扇子の話を信じないわけではないが、今回の事態は尋常ではない。扇子がロボットであることは十分納得した。しかし、あれほどの技術がすでに実現可能であることなど、聞いたことがない。しかも、扇子はなぜ御霊高校に送られてきたのか。不可解な点が多すぎる。
   扇子のことは伏せて、あくまでいろはたちが関わった素材の話として、奥山にそれとなく聞いてみようと思ったのだ。
   もちろん。実験データを持ってくるついでだった。
「半年前の、新型ロボットに使用するフレキシブルオイルですが、あれの受注先ってNAZDAでしたよね。生産量ってどれくらいだったか、憶えてますか?」
「ええ、たしか五リッターボトルで三本だけど、技術提携だったし、むこうで生産するって言ってた。それに権利はもう売っ払っちゃったから、もう下手にはいじれないわよ」
「そうだったんですか……惜しいな」
   もちろん惜しいなんてこれぽっちも思っていない。「別な用途で使ってみたかったから確認した」というニュアンスで話せば、余計な誤解も招かずに済む。
「でもあの注文って変だったわよね。なんでうちに回ってきたのかしらね」
「うちだと、何かおかしいんですか?」
「だって、工業用オイルよ? NAZDAだったら懇意の会社がいくらだってあるはずじゃない? 車のほうなんか純正オイルまであるのに……」
   奥山は同じ部署内では車好きで有名だった。女性の独身貴族で車に投資するのは珍しい、と他の社員が言っていたが、いろはは特に変わっているとは思えない。いろはだって、給料は生活費以外、ほとんど本を買うことに消費していたからだ。
「でも今回のオイルは、かなり生理的なものでした。肌に塗っても荒れたりしませんし……。防錆効果は無視されていたみたいですね」
「ま、仕様を見る限り、かなりの精密機械のようだったし、まさか医療用とか?」
   笑いながら言う奥山。冗談のつもりなのだろう。しかしいろはは素直に笑えなかった。
   テーブルに料理が運ばれてくる。奥山のチーズハンバーグは、見ただけで胸やけがしそうなボリュームだった。一日二食、昼の菓子パンを除けば、食事らしい食事を摂らないいろはからすると、朝から肉料理というのは、小学生にハンマー投げをさせるようなものだ。しかし奥山は嬉々として肉を切り分けていく。いろはは奥山のハンバーグを見ないようにして、砂糖を四つ入れたとんでもなく甘いコーヒーをすすった。いろはは甘党だった。
   十分とたたずに、奥山のハンバーグは姿を消した。もちろん奥山の胃の中にである。驚異的な光景を目撃した、といろはは思った。
「ところでさ、新型オイル、何に使おうとしたの?」
   ナプキンで口をぬぐいながら奥山が訊いた。
「え、それは……」
   そこまでウソを考えていない。返答に窮するいろはを見て、奥山がすっぴんの唇の端を吊り上げた。
「まーた新堂君になんかしようとしたんでしょ」
   いきなり飛び出した名前に、いろはは持っていたカップを落としそうになった。
「な、なにかって、なんですか!」
「実験」言って、奥山は頬杖をついた。
「新堂君かわいそー、毎回毎回実験台にされて。この新薬だってけっこう危なかったんじゃなかったの?」
   茶封筒の中の書類を取り出して眺める奥山。もちろんその書類には。『test subject : Satoru Shindo』と書かれている。
「安全性が実証されているから、効果確認で行ったんです。危険はありません」
   そういうと、奥山の視線が突然鋭くなった。
「直接の生理反応自体に危険性はないかもしれないけど、それを使用して表れる症状から引き起こされうる危険を無視して、なにが安全なの?」
   いろはは返す言葉がない。
「このデータだって、安全性を主眼においてるけど、被験者の体感と投薬後テストの結果がまったく書かれていない以上、安全性を証明するのは無理よ」
   言って、奥山は書類をテーブルの上に投げ出した。
(この実験レポートでもっとも脆弱な部分を、斜め読みしただけで見抜かれてしまった……)
   いろはは下唇を噛んだ。
「臨床試験は、ひとりの被験者の結果だけではパスできない。そんなの分かりきってるでしょう。功を焦ると足元すくわれる。この新堂君が神経障害でも起こしたらどうするつもりだったの?」
   言って、奥山は残っていた水を飲み干した。
「上がこの研究を凍結した理由がまだ分からない? うちみたいな中堅では、この新薬の研究をこれ以上進めるような予算はないの。それに、すでにこの研究内容が、注外製薬への売却が決まったことは知ってるでしょう?」
   いろはは無言で頷く。
「確かに私ももったいないと思うわ。これはきっとすごい薬になる。あなたの発案はすばらしかったし、きっと十年後には眼科医療に革命を起こすかもしれない。……でも、うちじゃ荷が重すぎた」
「焦りはありました……。非公式に実験したことも、功を焦ったととられても仕方ありません。でも、あたしは……」
「いいえ、今あなたがこの研究について何をしたとしても、それはチームを無視した単独行動よ。現に第六は新しいプロジェクトへの移行を済ませたわ。〇二六に固執しているのはあなただけよ。いい加減諦めなさい」
   奥山は続ける。
「新堂君を実験台に使うのもね。彼が自主的に協力してくれていたとしても、明らかに非常識よ」
   いろははしばらく黙っていたが、投げ出された書類を集めて茶封筒に入れると、一度息を吐き出して、肩を上下させた。気持ちを切り替えるときには、体を動かして切り替える。いろはの癖だった。
「分かりました、〇二六は諦めます。あと、彼を実験体にするのも……」
「分かればよろしい」
   奥山は満面の笑みで、いろはの頭をなでた。いろはは落胆したのと情けなさで振り払う気も起きず、されるがままにしていた。
「あなたのことは、みんなが高く評価してるんだから。次のプロジェクトでも期待してるわよ」
   そう言われてしまっては、何も言えなくなってしまう。いろはは苦笑した。
「ところで、なんでいつもこの新堂君なわけ? それとも新堂悟ってのが何人もいるの? それともあなたにとっての実験体はみんな新堂悟って名前なの?」立て続けに疑問詞を投げかける奥山。
   いろはは動揺を気取られないよう、姿勢を改めた。
「それは……。言う義務はありません」
「言いたくないんだ?」笑みを浮かべていろはを見る奥山。
「言う必要がありますか?」いろはは視線をそらさないように奥山をにらみつける。
   視線がぶつかり合うなか、ウェイトレスが食器を下げに来た。奥山が軽くそれに応える間も、いろはは彼女から目を離さなかった。
「いいわ、今日のところはこれ以上聞かないでおいてあげる」
(なにが「あげる」なのか。言わないで「あげる」のはこっちのほうだ)
   いろはは思ったが口には出さなかった。
   常に悟が実験体なのは、他でもない。手っ取り早いからだ。いろはのいちばん近くにいて、いちばん健康で、いちばん標準的な人間。顔をあわせる頻度も高い。
   ただ、それだけの理由だ。
   たぶんそうだ。
「新堂君がいなくなったら、嫌でしょ?」
   頬杖をついたまま奥山が言った。
   一瞬、鋭い耳鳴りを感じる。
「今、なんて?」
   周囲の喧騒が遠ざかる。
   視界が狭まる。
   視界の中央には、首をかしげて、不敵な笑みを浮かべている女。
   その唇が、動く。
   開閉する。
「新堂君がいなくなったら……」
   唇の赤。
   耳鳴りが強くなる。
   舌の赤。
   耳鳴り以外、何も聞こえない。
   視界が、赤くなる。
「そんなこと、知りません!」
   声を発したはずなのに、のどを通った音が断片的にしか聞こえない。
   耳鳴りが、洪水のように鼓膜を侵してゆく。
   空気の振動が、鼓膜の振動で相殺される。
「ご……さい、お……で……へんな……いて……かっ……」
   奥山の声も、隣の部屋から聞こえる声のようにくぐもって聞こえる。
   足し合わせた波のように、相殺され、増幅されて、極小と、極大が同時にやってくる。
   目に映るもののピントが次第にぼけて、さまざまな色彩が交じり合う。
   混ざった色は、灰色になる。
   色がなくなってゆく。
   視界が、灰色になる。
「どうしたの? 大丈夫?」
   灰色の視界に、肌色の面積が増えてくる。
   迫ってくる。
   襲ってくる。
「いやっ!」
   いろははその肌色を払いのけた。同時に、手の甲に痛みが走る。
   痛みが、全身に染み渡ってゆく。
   視界が、正常な色と形を認識できるようになってきた。
   目の前には、差し出した手をはじかれて唖然としている、奥山がいた。
   周りの客の視線が、みなこちらに集まっている。
   いろはは、思い切り強くこぶしを握った。爪が皮膚に食い込む。
   忘れていた呼吸が、戻ってくる。
   音が、鮮明に聞こえ始める。
   正常な音が、正常に聞こえる。
   耳鳴りは、もう消えていた。
「……すみません」
   いつの間にか立ち上がっていたいろはは、ゆっくりと腰を下ろした。しばらく怪訝そうにいろはを見ていた奥山だったが、左手をさすって、苦笑いした。驚きを隠そうとして失敗した表情だった。
「ごめんなさい、怒らせるつもりはなかったのよ」
「いいえ、こちらこそ……。取り乱して、すみません」
   前髪が目に入った。それを手の甲で払う。まだ痛い。
   涙が、出てきた。
「すみません、ちょっと……」
   いろはが席を立とうとすると、おもむろに奥山が腕時計を見た。
「そろそろ、十時ね」
「えっ」
「出ましょう」
   奥山が伝票をつかんで立ち上がった。いろはもあわてて続く。奥山は二人分の勘定を済ませると、足早に店の外に出た。
   駐車場の車へ向かう途中、奥山が振り返っていろはを見た。
「変なことを訊いて、ごめんなさい。気を悪くしないで」
   さっきもそんなことを聞いたような気がする。
   いろはは首を振った。
「徹夜明けだからね、疲れてるのよ」
   そう言うと奥山は車のドアを開け、運転席に乗り込んだ。
「悪いわね、御霊高校とは逆方向だから、送っていけないの」
「いいえ、わざわざ付き合ってもらって、その、失礼まで……。すみませんでした」
「気にしないで、それじゃ」
   奥山のセダンはゲートを抜けると、市街とは反対方向に走っていった。
   いろはは、いまさらまぶしい陽光に目を細めた。
(自分は、なんであんなに取り乱したんだろう)
   先ほど自分に起こった反応を、思い出す。
(悟が、いなくなったら……?)
   それを考えるだけで、我を忘れてしまうほど動揺することなのか。
(悟がいなくなったら、どうなる?)
   また、胸の奥から嫌な感じがせり上がってくる。
   さっき飲んだ激甘コーヒーが、胃の中で流動している。
(悟がいなくなったら、あたしはどうする?)
   学校に行っても、教室に行っても、部活に出ても、サッカー部を見学しに行っても、悟の姿が見えなくなる。
   いなくなるということは、初めからいなかったこととは違う。
   いなくなるということは、会えなくなる事とは違う。
(ありえない。そうだ、いなくなるなんて、ありえない)
   いろはは頭を振って、とめどない連想を振り切った。
   奥山のささいな、本当にささいな一言に、ここまで考えるなんて自分らしくない。
   そもそも、質問のタイミングが悪かった。
   タイミング?
   タイミングがよければ、自分はどう返答したのだろう。
   答えなんて用意していないのに。
   いろはは数秒考えた。
「少なくとも、あたしはいなくなる前に何とかする」
   つぶやきは小さく、自分の耳にやっと届くくらい。
「あたしに黙っていなくなるなんて、承知しないわ」
   いろはは、奥山のセダンが向かった方向と反対側、御霊高校へ向かって歩き出した。
  
   12
  
   小一時間ほど歩いただろうか。ドニーズを出るときには抜けるようだった青空が、薄く白い衣をまとい始め、いろはが御霊高校につく頃には今にも泣き出しそうになっていた。
   授業中の校舎は静かで、下駄箱の扉を閉める音が廊下に響いた。いろはは心持ち足音を忍ばせ、三階の二年F組の前までやってきた。自習なのか、教室の中はざわついている。いつもの教室後ろ側の扉をそっと開けた。
   音を立てたつもりはなかったのだが、生徒がいっせいにこちらを向いて、そのあと慌てて視線をそらした。これは毎度のことなので、いろはは別段何も感じなかった。中を覗き込んで見ると、扉に近いいろは、悟、扇子の机が空になっていた。
   悟が、教室にいない。
   いろはが知っている範囲で、悟が授業を、たとえ自習でもサボったことはなかったはずだ。
「ねえ」
   悟の隣の席の男子に声をかける。いろはがこのクラスで、悟以外に顔を覚えている唯一の生徒だった。
「悟、どこ行ったか知らないかしら?」
   いろはは自分の声がわずかに震えていることに気がついた。慣れない相手に声をかけるせいだけではない。
「ああ、悟なら大津さんを追っかけてついさっき出て行ったけど……。会わなかった? おかしいなぁ、どこいったんだろ」
   無造作に髪をかきあげて、男子は視線を泳がせる。
「そう、ありがとう……」
「いえいえ、どういたしまして。悟になんか用があったの? あとであったら伝えておくけど」
「いいわ、大した事じゃないし……」
   言って、いろはは教室を出た。扇子を追いかけて、というくだりが気になったが、学校にいることには違いない。
   確かに、安堵を覚えた。
   そのせいか、急に空腹であることに気づく。いろははバッグの中にあんパンが入っていることを確認して、西棟の社会科準備室へ向かった。
   準備室の鍵を開けたと同時に、四時限目が終わるチャイムが鳴った。
   部屋に入ると、中に充満したさまざまな匂いが肌を包み、鼻腔を通して肺を満たす。この瞬間が、いろははたまらなく好きだった。
   それまで室内に飽和状態で満ちていた匂いの成分が、外気に触れた瞬間、一斉に反応したかのような、そんな想像をめぐらせる。いろはは勝手に「香りのバックドラフト」と呼んでいた。もちろん根拠はない。
   香の残り香、古い紙の匂い、風雨にさらされた石の匂い、長い間倉庫の奥にしまわれていた、少しかび臭い木の匂い、それらが混ざり合った香りが、とても心地よい。この部屋は、御霊高校で一番落ち着く部屋だった。二番目は図書館の蔵書室である。
   高校指定の通学バックをあけて、パンを出そうとしたときに、茶封筒が目に入った。奥山に見せて突き返された、悟への投薬実験データが入った封筒である。いろははその封筒を取り出すと、一気に二つ折りにした。まるで悟本人を否定してしまったような気がしたが、一瞬の躊躇のあと、その封筒をゴミ箱へ投げ込んだ。
   反動でゴミ箱が揺れる。ほんのわずかな、生への執着だろうか。
   いろはが躊躇を振り切った瞬間が、封筒の死を宣告したのだ。
   ここで今一度、いろはがゴミ箱から封筒を取り出せば、断末魔は再生の産声に反転する。しかし、一度決まったこと、すでに行われたことを撤回することは容易ではない。もちろんいろはも、封筒をもう一度取り出す気は無かった。
「恨まないでね。あたしだって、惜しいんだから」
   気を取り直して、アンパンを食べようとした時、部屋の扉がノックされた。
「誰?」
   誰何の声に応えて、扉が開いた。
「よう、俺」
   悟がそこに立っていた。いつもわずかに視線をそらし、目を見ないで話す悟。左手をポケットに突っ込んでいるのも、いつもの癖だったし、相変わらず頭はぼさぼさだった。
   いつもどおりの、頼りなげな悟だった。安堵が、安心へと移行したことがはっきりと自覚できた。
「俺さんですか? いかがなさいました?」
   気持ちとは裏腹の言葉が出る。自分の行動が滑稽だと思った。
「は? 何言ってんの?」悟が顔面に「?」を浮かべる。
   いろははゴミ箱の中の悟と、二本足で立っている悟をこっそりと見比べた。怪訝そうな顔している方を見るほうが面白かった。
「気にしないで。で、どうしたの?」
「いや、そっちこそ。教室に来たって聞いたから」
「ええ、こないだの新薬だけど。研究は凍結、データも破棄したの。危険性が高すぎて、うちみたいな中堅じゃ扱いきれないって上司に言われて……」
「そうか? まあ多少気持ち悪くなったけど、そこまで危険だとは……」
「いいえ、そんな状態で道を歩いたりしたら大変でしょう? あたしは、功を焦ってその危険性をあえて無視した」
「ということは、今までもそういった危険にさらされてたことがあったってことか……」
「ええ、だからあたし、決めたの」
「もう、あんたを薬の実験台に使うようなことはしない」
「え、そりゃあ、その。ありがとう……?」
「嬉しくないみたいだけど?」
「いや、嬉しいっつーか、そりゃ変な薬飲まされるのは勘弁だけど……。ん、いや、わかった……」
「わかればいいのよ。で、話は変わるけど、扇子のこと……、いまはメンテで保健室よね?」
「ああ、充電だって」
「前に扇子に使われている部品の一部を、うちの、つまり御霊製薬で開発したって話はしたわよね」
「熱効率がどうこうっていう?」
「そう。平たく言えば車のエンジンオイルみたいなものなんだけど、要求された性能がかなり特殊で、一般的な機械オイルにしては繊細すぎるのよ。で、今朝上司にそれとなく聞いてみたんだけど、やっぱり受注元はNAZDA。そして権利はすでに向こうに渡ってしまったから、詳しいデータは破棄されてしまったの」
「それがどうしたんだ? 企業だったら部品を下請けに回すなんて常識じゃないのか?」
「今朝、これを会社のコンピュータからコピーしてきたの」
   鞄から取り出したのはケースに入ったラベルの貼っていないMOディスクだった。それをノートパソコンにつながっているドライブに差し込む。
「NAZDAから提示された仕様書なんだけど、ここ見て」
   いろはがディスプレイを指差した。
「ロボットアームのアクチュエータの潤滑および冷却用オイル……。これって」
「はじめは医療用だと思ってた。今も会社の人間は医療用だと思ってる。でも一昨日扇子にヤマかけで聞いたとき、当たり前のように答えが返ってきた。それにここ」
   いろはが指差した箇所を見て、悟がつばを飲んだ音が聞こえた。
「OHTU―P1……」
「扇子の機体名称。これで扇子がNAZDAから来たってことは確定ね」
「でもそれは扇子本人も言ってたことだし、別に秘密でもなんでもないじゃないか。単にお前の会社が部品の開発にかかわってたってだけで……」
「もちろん。でもね、あんな高性能のロボットがこっそり高校で試験登用なんて、どう考えてもおかしいでしょう?」
   悟は腕を組んで視線を泳がせた。
「たしかに……。SOMYの犬型ロボットとかPONDAのロボットのときは大騒ぎだったからな……」
「だから、直接聞いてみたわ」
「え? 誰に?」
「NAZDAの人間よ」
   言いながら、いろははマウスを動かして、あるファイルを開いた。オンラインチャットソフトの会話ログ(記録)ファイルだった。
  
   *NAZDAが新規の生産ラインを獲得しようと動いてるって噂
  
   *ああ、なんかうちの下請けにも来たらしい。生産ラインって話じゃなかったな
  
   *部品の下請けだろう?
  
   *そう、お宅(といってもわからないけどw)にも来たの?
  
   *詳しくは言えないけど、サーボモーター作ってくれって。車に使うもんだと思ってたら、回転数要求されない代わりに材質の指定と耐水性を上げろってさ。なんに使うんだか。
  
   *ロボットアームじゃないの? マニピュレーター。
  
   *さあね。5つ6つ作ったやつを設計もろとも買い取って、それ以来音沙汰なし。
  
   *うちもそうだな。たぶんあっちで改良してなんかに積むんだろうけど、おいしいとこだけもってかれそうな感じ。
  
   *まあうちらは中小零細だしねー。
  
   *俺NAZDAだけど、そんな話聞いてないぞ。
  
   *お、大企業がいた。まあいいか。話聞いてないってどういうこと?
  
   *営業にいるんだけどさ、技術買収とか提携とか、新しいことはここ1年はないけど……。
  
   *でも開発部だけで勝手にやっちゃうって話はよくあるんじゃ?
  
   *暗黙の了解であるかも。俺は技術畑じゃないから……。
  
   *NAZDAの子会社ってだいたい広島と横浜でしょ?
  
   *公表されてないルートだってあるでしょう。それ常識。
  
   *あんまり大騒ぎするほどの話じゃないのかもね。>生産ライン
  
   *俺としては気になるけど。
  
   *営業さん、あんまり首突っ込まないほうがいいかもよw
  
   *ご忠告どうもw
  
   いろはが指したのはこの部分だけで、前後は他の話題だった。
「これって誰が話してるかはわからないんだ」
「基本的にはね。まあでも内容で察しがつくけど。参加している人間同士はお互いの業種の見当がついてる」
   言って、いろははいくつかの企業名を挙げた。悟が知らないような、中小企業ばかりだった。
「中小企業同士のネットワーク、というとうそ寒いわね。ようは雑談用のチャットルームよ。愚痴をこぼしたり、同郷のよしみが地元の話題に花を咲かせたり……。でも歓談にまぎれてちょっとした情報を聞き出すのには、こういったくだけた場所のほうがいいのよ」
「この最初の発言はお前んだろ? 砕けた口調には見えないけどな」
「いいのよ。どうせ足はつかないんだから。……実は、ここに出てくる『営業さん』のほかにも、NAZDAの人間が2名いるの。一人はあたしの知り合い。その人に頼んでちょっとだけ誘導してもらったわ」
「内部の事細かな情報を、全部把握してる人なんていないだろう。それに特定の部署内で勝手にやっちゃうってのが本当に慣習化してるんだったら、探りようが……」
「そう。だからあたしが探れるのはここまで。あとは内通してる知り合いが何か話題を拾ったら教えてくれることになってる」
   内通しているといっても、相手は単に噂話が好きなだけの人間なので、正確で重要な情報は期待していない。それでも、ないよりははるかにましだった。
「でも、なぜ扇子はこの高校に来たんだろう……」
   悟が腕を組み替えた。
「考えられる可能性はいくつかあるけど……」
「一番ありうるのは?」
「扇子はOHTU―P1ではない」
   悟が一瞬驚いたあとに苦笑する。
「おいおい、それはさんざん……」
「完全な確証は得られてないわ。確かに観察する限り、十中八九扇子はロボット。でも、扇子が人間だったら、いたずらだったらと考えると、一番筋道が通る」
   そして、それが一番温和な推理だった。
「扇子はヒューマノイドだよ。間違いない」
   悟がやけに確信をこめた表情で言う。もちろんいろはも、本気で扇子が人間だなんて、思ってはいない。その疑惑は、転んで倒れた扇子を見たときに吹き飛んでしまっていた。
「そうね。扇子が人間だったら、という仮定は、現状の情報だけでなんとか納得しようと強引に組み立てた、『すっぱいブドウ』推理だから……」
「もちろん、扇子がOHTU―P1だとする考えもあるんだろ?」
「そう考えると厄介なのよね……。どう考えても非常識。理屈こねても不条理。疑いが疑いを呼ぶだけになる」
「具体的な話で頼むよ」
   人に物を頼むような口調ではなかったが、いろははリクエストに答えた。
「扇子がNAZDAで作られたヒューマノイド、OHTU―P1だと仮定すると、あたしたちの常識では現段階で扇子をこの高校へ送る理由は皆無。となると扇子は、不正規のルートでこの高校へ送り込まれた。なんらかの、非常識な理由によってね」
「非常識な理由……」悟の表情がこわばる。
「もしかしたら、あの子はとんでもないことに巻き込まれてるか……」
「扇子が何かをしでかそうとしているか……?」
   悟はそう口には出したものの、自分でも信じていないであろうことは明白だった。
   扇子はNAZDAで生まれた。その扇子がいま御霊高校にいる。この二つをつなぐルートは、おおよそ常識で考えられる範囲には存在しない。たとえ正規のルートがあったとしても、非常識な理由が背後にあることは間違いない。
   しかし、現段階でその理由とやらを類推するのに必要な情報が皆無なのも確か。せいぜい、NAZDAが契約外の業者に部品を作らせていたということだけ。
   となると、やはり……。
「あんたもあたしも、現状では扇子に最も近い立場にいる部外者。これからは、扇子の行動をよく観察してみたほうがいいわね」
「授業中はべったりだけど、これといって不審な点は……」
「充電時間、扇子は保健室に行く。なぜ?」
   いろはが人差し指を立てる。それを見ながら悟が答える。
「なぜって……、知らないよ」
「考えなさいよ。あんたにも人並みの脳みそがついてるんだから」
「人並みについてりゃ十分だ」
「使わなきゃサルと一緒よ」
   悟の表情が引きつった。
「サルを馬鹿にすんなよ。チンパンジーなんか人間の三歳児と同じ知能レベルらしいし」
   いろはは唇の端を上げた。
「じゃあ訂正。三歳児以下の脳みそ」
   大きくため息をつく悟。
「わかったよ。考えりゃいいんだろ……」
「考えるより、見たほうが早いわ」
   それを聞いて肩を落とす悟。
   散々いじってから突き放す。この方法で何度となく悟の戦意を喪失させてきた。論戦で悟をおちょくるのは、多少の罪悪感はあったものの、やはり面白かった。
「扇子が保健室に行く理由。充電時間を見られたくない理由。きっと何かがあるはずよ」
   いろはの中ではおおよその検討はついていたが、確証が欲しかった。そのためには……。
「潜入ね」
「……俺か?」
   悟が、すっかり脱力した様子で、自分を指差す。
「もちろん」
   いろはは、とっておきの作り笑いを浮かべた。
  
   13
  
   御霊高校の校舎はその全体が頂点を北に向けた「へ」の字をしており、保健室は西棟の一番西の端にある。東棟の一般教室からはかなり離れた位置だった。
「すみません。頭痛いんで、休ませてもらえますか……?」
   時刻はもうすぐ昼休みが終わる午後一時ちょうど。悟は持ちうる演技力のすべてを行使して、普段の覇気のない顔からさらに生気までも失った顔をしながら保健室の中をうかがった。
「あら、新堂君じゃない。なに、風邪?」
   保健室の奥、窓の近くに置かれた事務机に、保険医の岸辺由加里は座っていた。悟は保健室の中に入り、由加里の近くまで行くまでにそれとなく保健室の中をうかがった。
   保健室にはベッドが三つあり、そのうち由加里のいる窓際に最も近いベッドにはカーテンがかかっていて、他の二つは空だった。カーテンのかかっているベッドの脇には、女子の上履きであるローファーが、きちんと揃えて置いてあった。
「風邪……かもしれないです。ちょっと横になっていいですか?」
「お昼食べたんなら、薬飲んでもいいけど、食べた?」
「いえ、食べてないんで……」
   たとえ食べていたとしても、風邪薬を飲んだら眠くなってしまうので、もらうわけにはいかなかった。
「それじゃあ、熱を測って、この紙に必要事項を書いてね」
   由加里が出したアンケート用紙のようなものに、必要事項を記入していく。学年、クラス、症状、体温、症状の起こった時間、保健室に来た時間、朝食の有無……。生理中か否かの項目もあった。
   悟がその紙を由加里に渡し、カーテンの閉まったベッドからひとつ離れた端のベッドに横になった。
   悟は毛布を顔の半分までかぶり、横目でひとつ向こうのベッドを見た。カーテンはベッドの高さより低い位置まで垂れ下がっているため、誰が寝ているのかはまったく分からない。
   悟はため息をついて天井を仰いだ。
「いろはにメール送らないとな……」
   取り出した携帯電話は悟のものではない。いろはが普段使っている、クロムシルバーの可愛げのないものだった。しかしいろはが全面ピンク色の携帯電話を使っていたら、それはそれで気味が悪い。
   とりあえず扇子がいるかどうかは不明。女子一名が寝ていて、由加里がまだ保健室にいるということだけを、いろはのモバイルウェアに送信した。
   いろはから伝えられた潜入捜査の概要はこうだ。まず気分が悪いことを装って保健室に潜入。扇子がいるかどうかを確かめ、扇子がいた場合軽く話を合わせて、由加里がいなくなるまで待機。扇子がいない場合、またはいるかどうか分からない場合には、病人面をしてベッドを確保。次の指令を待て……。
(多分向こうのベッドで寝てるのは扇子ではないな……)
   もう一度ひとつ向こうのベッドを見やる。扇子がロボットで、充電中であれば、コードの一本や二本出てるのが当然だろう。しかし、そのベッドには変わった点など何一つなかった。
   視線をずらし、机に向かう由加里の背中を見やる。健康診断と生徒の受け入れ以外、保険医にどんな仕事があるのかわからないが、なにか仕事をしているらしい。一心不乱にキーボードを叩いている。
   静かな保健室の中で、由加里の叩くキーボードの音だけが間断なく響いている。これはこれで、気にしだすと結構ストレスに感じてしまう。悟の中では、キーボードの音というと、どうしてもいろはが端末を叩いている姿が浮かんできてしまうのだ。
   突然、悟のポケットから大音量で電子音が鳴り出した。悟はあわてて携帯電話を取り出す。いろはからのメールの返信だった。
「ちょっと新堂君。電源切るか、マナーモードにするか、どっちかにしてね」
「すみません……」
   しばらくいろんなボタンを試して、マナーモードにしてからメールを開いた。
   『由加里先生が保健室を出るまで待機。ベッドにいるもう一人が扇子だったら再度メール。別人だったら身元を確認して帰還せよ』
(まあなんと分かり易い……)
   いろはのメールは、まるで軍隊の作戦指令書のような文面だった。もしかしていろははこういった「作戦」を楽しんでいるのではないだろうか?
(まあ、なんにせよ静観だな……)
   悟はもう一度毛布をかけなおして、枕に頭をうずめた。
   そうして十分ほど経っただろうか。不意に保健室の扉が開く音がした。半分うたた寝していた悟は、半身を起こしてカーテン越しに外の様子に聞き耳を立てた。
「通常メンテナンス、終了しました」
「うん、異常はないみたいね」
「それでは、次の授業に行ってきます」
「転ばないように気をつけてね」
「はい……」
   扇子だ。悟は携帯を取り出し、いろはにメールを打とうとして、はたと気がついた。カーテンをそっとめくり、ひとつ向こうのベッドを見る。そこはすでにもぬけの殻だった。
(しまった……。これじゃベッドにいたのが扇子だったのかどうか分からない……)
   数秒考えてから、悟はメールを打つのを再開した。扇子が保健室を出て教室に向かった旨だけを送信する。悟自身は由加里が保健室から出るのを見計らって、隣で寝ていた女子も書いたであろう、アンケートを見ようと考えたのだ。
   そのチャンスは案外早くやってきた。キーボードを打つ音が止んで、由加里が保健室から出て行くのを確認した悟は、ベッドから抜け出して由加里の机を調べた。アンケート用紙はトレイに置いてあり、一番上には悟が書いたものがあった。その下の一枚を抜き出す。
   そこに書かれていたのは、昨日の日付のものだった。
(じゃあ、さっきベッドで寝てたのは、誰だったんだ?)
   悟は用紙を元の位置に戻し、ベッドに戻る。カーテンを閉めてすぐに由加里が戻ってきた。間一髪だった。
   悟は静かにベッドから起き、さも今しがた目が覚めたような演技をしながらカーテンを開けた。
「あら、起こしちゃった?」
   椅子に座ろうとしていた由加里が、こっちを向いて苦笑いをした。
「いえ、寝たらいくらか気分はよくなりました……」
「そう。でも授業出るの辛いんだったら、早退届出すけど……」
「あと一時間だけなんで、授業出ます。……で、由加里先生、さっき隣で寝てたのって、誰ですか?」
   悟は注意深く由加里の表情を観察する。
「ああ、一年生の子だけど、どうかした?」
「いや、別に……」
   由加里はまったく動じてはいない。悟の眼力では、嘘をついているのかどうかは見抜けなかった。
「とりあえず、今日の部活は休みなさい。早く帰って、よく寝て。あと、朝ごはんは食べなきゃ駄目よ」
   さっき悟が書いた用紙を見ながら言う。確かに、朝食も昼食もとっていないので事実腹ペコではあった。
「はい、じゃあ、ありがとうございました……」
   保健室を出る間際に、ちらりと由加里を見る。しかし、ディスプレイに向かう横顔からは、何も読み取ることはできなかった。
   保健室を出ると、すぐ向かいにエレベータがある。エレベータの停止している階数表示は3Fとなっている。扇子が教室に行くのに使ったのだろう。もし由加里の言うように一年生の女子がいたとしても、一年生の教室は一階、この保健室と同じフロアだ。エレベータを使う必要はない。
「もし隣で寝てたのが扇子で、それを隠そうとして一年生という嘘をついたとしても、これじゃああまり意味がないよな……」
   扇子は階段を使わないはずだ。上り方のコツを教えてもらえるまではエレベータを使うと、扇子本人が言ったではないか。
「教えるのはしばらく保留にしたほうがいいのかな……」
   扇子の動向を探るという意味では、エレベータの階数表示が何かの手がかりぐらいにはなるかもしれない。それに、エレベータのほうが扇子にとっても安全だ。
   階段で上っていくのが億劫だったので、エレベータのボタンを押す。鐘の音とともにエレベータが一階に到着するまでの時間で、階段で三階まで上るのと同じくらいの時間がかかった。開いたドアの向こうには、腰ほどの高さから天井近くまで鏡が貼ってある。この鏡は車椅子で利用する人が、中で向きを変えることなく階数がわかるようにという理由でつけられている。
   悟は、その鏡を見ながら、一人でこのエレベータに乗っている扇子の姿を想像した。
「やっぱり、階段の上り方のコツ、教えてやるか……」
  
   14
  
   三階について、西棟と東棟をつなぐ渡り廊下に差し掛かったとき、見覚えのある後姿を見つけた。
   背中に大きな扇風機を背負ったような格好。青みがかった髪からのぞく、二つの白い機械。
「扇子……」
   とっくに教室についているはずだと思っていたその後姿は、2年F組の教室の前で止まり、扉に手をかけたところでこちらに気がついたようだ。
「あ、先生、どうして……」
   扇子が案外大きな声を出したので、悟は口の前に人差し指を立てながら近づく。扇子はこのサインの意味が分かっていないようだった。
「静かに、授業中だろ」
「あ、すみません……」
   悟は何気なく腕時計を見た。もうすぐ五時限目が終わる。
「ちょっとさ、話があるんだけど……」
「でも、今は授業中……」
「もう終わりだし、六限には間に合わせるよ」
   まだ何か言おうとしていた扇子の腕をつかんで、悟はもと来た方向へ歩き出した。扇子も抵抗することなく、困惑の表情を浮かべながらついてくる。
   そして校舎中央の階段へやってきた。「へ」の字の頂点にあたる部分だ。
「扇子、今からコツを教えるよ」
「コツ? 階段の上り方ですか……?」
「そう、さっきも階段でここまで上ってきたんだろ?」
   そういうと扇子は、ばつが悪そうにうつむいた。
「すみません……。なるべく先生に迷惑をかけないように、自分で登れるようになろうかと……」
「いや、責めてるわけじゃないんだ。それに、今から教えるから問題ないだろう?」
   扇子の表情が和らいだ。
(扇子はエレベータを使わなかった。エレベータだけじゃ扇子の行動は推測できないってことか……)
「んじゃあ、まず俺が上ってみせるから、よく見てな」
「はい!」
   扇子は真剣そのものでこちらを見据えた。その視線を背中に感じつつ、階段を上り始める。段を踏むと同時に、掛け声を出した。
「いち、に、さん、し、いち、に、さん、し……」
   そうして踊り場まで上ったところで振り返る。扇子と視線がぶつかった。
「うちの高校の階段は、十六段ずつなんだ。だからこうして、四まで数えながら上るとキリがいい」
   そしてもう一度、同じように掛け声を出しながら降りてゆく。
「一番大事なのは、テンポだ。自然に歩くときの歩幅と、一段一段の間隔の微妙なずれのせいで足を踏み外すことが多い。だからこうやってテンポ良く上り下りすることが大事なんだ」
   もときた場所へ戻ってきて、悟は扇子に促す。
「まあ、やってみな」
「はい、テンポ、ですね」
   扇子がぎこちなく階段に近づいてゆく。歩幅を合わせ、最初の段に足をかけた。
「そう、そこからテンポ良く!」
「はい! いち、に、さん、し……」
   肩を怒らせながら、一歩一歩階段を上ってゆく扇子。いい調子かと思われたが、踊り場にさしかかったあたりで異変に気づいた悟は、階段をを駆け上った。
「扇子! 下ばっか見るな!」
「あっ!」
   悟が危惧したとおり、扇子は踊り場についたのに気づかず、さらにもう一歩踏み出そうとしてバランスを崩した。
「危ない!」
   とっさに悟は扇子の足首をつかんだ。扇子は半分前のめりになりながら、手すりにつかまって、よろける身体をなんとか支えた。
「あぶなかった……」
「す、すみません……」
   肩越しに泣きそうな目を向ける扇子。
「あの、もう、大丈夫ですから……」
   悟は慌てて扇子の足首から手を離し、顔を伏せた。
「その、まあ、そんなに力まなくてもいいから、前を見て上って……」
   顔を上げた悟は、扇子の視線が自分ではなく、さらにその向こう側に投げかけられていることに気づいた。
   嫌な予感を抱えて悟が振り返ると、渡り廊下の中央にいろはが腕を組んで立っていた。
「なに、やってんの……?」
「え、その、扇子が階段を上る練習……」
「扇子が階段を踏み外したのは下りるときでしょう? 上りのときは一度もつっかえたことなんて無かったはずよ」
   悟の言葉尻をさえぎってまくし立てるいろは。悟が思い返してみると、確かに悟は扇子と一緒に階段を上ったことはあるが、階段を下りるところを見た記憶はない気がする。
「そうだっけ?」
「はい、上るのはだいぶ自信が持てるようになりまして……」
「そうだっけ? じゃないわよ。あんたが変なこと吹き込んだら、扇子は上手く上ることもできなくなっちゃうじゃない。まったく、メールが来たのになかなか扇子が戻ってこないから、様子見に出てみたらこれだもの。あんた何考えてんの?」
   悟は恥じ入りたい気持ちを抑え、あえて悠然と階段を降りた。
「でもさ、現に転びそうになったじゃないか」
「あんたが余計なこと言ったからでしょう。何がテンポよ。扇子の能力を過小評価してるのよ、あんたは」
「俺は扇子に万が一のことがあったらいけないと思ってだな……」
「二人とも、喧嘩はよしてください!」
   扇子が踊り場から階段を駆け下りる。そして最下段に差し掛かったとき、扇子のつま先が段差に引っかかった。
「あっ!」
   三人が同時に声を上げた。倒れこむ扇子に駆け寄る悟といろは。間一髪、悟の腕が扇子の両脇を抱えた。しかし、扇子の機械の身体はそれでもまだ落下を続けようとする。扇子の重量をもろに受け、のけぞった悟の背中を、いろはが突き出した両手のひらでなんとか押し返した。
   扇子がひざをつき、その重量から解放された悟の額から、一気に汗が滲み出した。
「あ、あぶねー……」
「す、す、すみません! ごめんなさい!」
   その場にへたり込みながら何度も頭を下げる扇子。頭を上下させるたびに、熱風が悟の顔に当たった。
「下りは、要練習ね」いろはが手首を振りながら言う。
「大丈夫か?」
「問題ないわ。急に力がかかったから、ちょっと痛いけど」
「捻挫とか、してないか?」
「うるさいわね、大丈夫だってば!」
   いろはは両手をブレザーのポケットに突っ込んだ。
「悪い……」
「いいえ、私がいけないんです……」
   立ち上がった扇子がうなだれる。悟も立ち上がって、埃を払った。腰がきりりと痛んだが、表情には出さないようにした。
「やっぱり、エレベータのほうがいいな」
「そうね」
   いろはが扇子の制服を整える。転んだときに脱げたローファーが、廊下の端まで転がっていた。いろはがそれを見て、眉をしかめた。
「ねえ扇子。研究所でも、靴下と上履きを履いて練習したの?」
「いえ、向こうでは服を着ていませんでしたから……」
   悟が扇子の靴を取ってきて、しげしげと眺めた。
「そうか、これが原因か」
「かもね」
   扇子がよく分からないといった顔をする。
「足の裏にもセンサはついてるんでしょう?」
「はい。圧力センサから重心配分を決定しています」
   その言葉どおり、扇子は片方立ちのまま姿勢を保っている。
「推測だけど、靴下を履いて上履きを履いたせいで、圧力が分散されて誤差が出てるんじゃないかしら」
   すると次の瞬間、扇子はよろめいて手すりに手をついた。
「やっぱり……」悟が漏らす。
「それに……、ちょっと履いてみて」
   差し出された靴を履く扇子。
「つま先を詰めてみて」
   言われるがまま、つま先で床を叩いてみせる。いろはがその足元を指差して言った。
「ほら、サイズも合ってない」
   言うとおり、扇子の踵と靴の踵には、二センチ近い隙間ができていた。
「これじゃあ転ぶわな」
   悟もあごに手を当てて、感心したように頷いた。
「あの、どうすれば……?」困り顔の扇子。
「どうすればいいと思う?」悟を見るいろは。
「え、靴を変えたほうがいい……よな? やっぱり」
「男子用の上履きがいいわね。紐で締められるし」
   三人の視線が、悟の足元に集中する。御霊高校の上履きは、男子と女子で違っていて、女子はローファー、男子は室内用運動靴だった。
「ところでさ」悟が顔を上げる。
「扇子って、靴紐結べるの?」
   いろはと悟が扇子を見る。扇子は視線を泳がせたあと、ゆっくりとうつむいた。
「……紐は、結べないんです……」
  
   15
  
   午後の授業が終わる頃、低く垂れ込めていた黒い雲から大粒の雨が降ってきた。水はけの悪いグラウンドには、飽和した雨水がところどころで楕円形の水溜りを作っていた。グラウンドコンディションが悪いので、悟の所属するサッカー部は屋内での自主トレとなったのだが、めいめいが好き勝手に行うため、こっそりとサボるものも後を絶たない。
   悟もこの日初めて自主トレをサボった。保健室に行った手前、おおっぴらに部活に出るわけにも行かず、さらに実沢にも必要以上に心配されてしまったからだ。
「紫雨になんかされたんじゃねーの?」
   と聞いてきたが、悟はそれを否定した。それどころか、いろははこれ以上自分に迷惑のかかる実験はしないと決めたのだという。どういった理由があってそういう結論に至ったのか分からないが、正直、喜びよりも違和感のほうが大きかった。
   そんな違和感を抱えながら、悟は社会科準備室にいる。扇子について、先の潜入捜査の報告とこれからのことについての話があると、いろはに呼び出されたからだった。
「じゃあ結局、扇子が保健室にいたのかどうか分からなかったってこと?」
「まあ、結論を言えば、そう……」
   いろはの鋭い眼光を避けるように、悟はいろはに対する前方投影面積を狭めた。ようは、肩を縮こまらせたのだが。
「まったく、何のために仮病まで使って潜入したか分からないじゃない」
「ただ、その隣で寝てた女子ってのがよく分からないんだよ。アンケートもなかったし」
「理由はいくらでも考えられるわよ。由加里先生が不在のときに保健室に入ったから書かなかったとか」
「保健室は、誰もいないときには鍵をかけることになってるんだ」
   悟が以前部活中に怪我をしたとき、由加里がいないときには必ず鍵がかかっていた。もちろん、中には誰もいないときに限ってである。保健室に常備されている薬は、せいぜい市販の風邪薬や痛み止め程度なのだが、過去に学生がその薬を大量に飲んで自殺を図るという事件があり、それ以来保健室にはこまめに鍵がかけられるようになったのだという。
「南京錠だから中からは開けられないよ」
「一階だから窓からでも出られるわ」
「じゃあ扇子がわざわざ窓から出て、もう一度入り口から入ってきたってのか?」
「可能性としては考えられるわ」
「冗談。意味がないじゃないか」
「あんたがまんまと騙されてたら、意味があったってことでしょ?」
「確かにそうかもしれないけど……」
   いろはと論戦になると、明らかに分が悪い。悟は何とか矛先をそらそうとした。
「話を戻そう、俺が見たのはカーテンの閉まったベッドと、その脇においてあった女子の上靴だ。扇子は確かに外から入ってきたし、由加里先生が嘘をついていたとしても、扇子のことを隠すためにはなってないし、そもそもなんで由加里先生が嘘をつかなきゃならないんだ」
   いろはは片手を頬に添えて、何か考えている。
「判断材料が足りないわね……」
「そもそもなんで保健室なんだよ」
「そんなにはっきりとした根拠があるわけじゃないんだけど、扇子が毎日必ず行く場所が保健室だから、そこに何かあるかも、って思ったのよ」
「らしくないな」
「そうね。でも、ちょっと動きづらい問題だってことも事実よ」
「そうじゃない。そんな回りくどい事しなくても、直接聞けばいいんじゃないか?」
   動きづらい理由がなんなのかも気になったが、いろはがいつに無く消極的な行動をとっていることが、悟にとっては意外だった。
「扇子に直接聞くのは避けたいのよね……」
「なんで?」
「さっきも言ったけど、もし扇子が張本人だった場合、気取られてしまうわけでしょう?」
「また扇子が人間だったらって話か? それはもう不問にするって……」
「可能性の問題よ。それに他にも理由はあるわ。扇子がロボットで、あたしたちの会話が全部筒抜けになってるとしたら?」
   悟はそこで、これまでの扇子との会話を振り返った。先生気取りで勉強を教えたことや、扇子のことでクラスの女子と口論になったことなどが、誰かに筒抜けになっていたらと考えると、急に恥ずかしくなった。
「うわ……それは考えたくないな」
「そう、扇子を使って何かをしようとしている人物に、こっちの情報がだだ漏れってことになる」
「でもまだ扇子が何かをするってわけじゃ……」
「だから、何度言ったら分かる? 扇子はNAZDAから来たって言ってる。御霊製薬で作ってNAZDAに売ったオイルが、扇子に使われている。でも、NAZDAの社員が扇子の存在を知らないなんておかしいでしょう?」
「NAZDAの情報提供者が嘘をついてる可能性は?」
「扇子がこの学校にやってきたことが、本当に正式な試験だとすれば、絶対NAZDAの公式な発表やなんかがあるはず。これだけ衆目に晒されれば、いまさら隠しても意味が無い。社員に箝口令が敷かれていたとしても、情報提供者には箝口令なんて意味が無いもの。もしNAZDAが何かを隠そうとしているなら、それは扇子の存在ではなく、扇子が御霊高校にいるという事実だと思う」
「なぜNAZDAが扇子のことを公表せず、事実を隠そうとしているかというと、扇子がこの高校に来たことが会社の意思に反する、イレギュラーな事態だから……?」
「そういうこと。だから、扇子の周囲の人間が怪しいんじゃないかと思って、まず保健室を探らせたわけ。もし扇子が張本人だったとしても、わざわざ保健室に行くって公言するという事は、そこに協力者がいることを示唆する目的があるんじゃないかと思うの」
   悟は、扇子が充電の終了を由加里に報告したことを思い出していた。
「由加里先生は、扇子のメンテナンスの報告に受け答えしていた。もし扇子がロボットじゃなくて、演技をしているというのなら、由加里先生もグルってこと……?」
「由加里先生も騙されてる側かもしれないわ。あんたの言ったように、扇子がメンテナンスを終えてから保健室に来たのなら、扇子のメンテナンス用の設備は別の場所にあって、由加里先生も扇子のメンテナンスについては詳細を知らない……」
「可能性が枝分かれしてるな……」
   悟が頭を掻いた。いろはの言うように、判断材料が足りなさ過ぎる。疑い出せばきりが無い、というのはまさにこの状況をさすのだろう。
「それに、扇子に直接聞かない理由には、もうひとつあるの」
   いろはが手を組んで、こちらを見た。
「扇子が、何も知らないとしたら?」
   いろはの言葉に、悟は息を呑んだ。
「扇子も、被害者ってことか……?」
「何も知らない扇子にいろいろと聞くのは無駄だし、それにいらない動揺を与えることになる……」
   いろははそこで一度言葉を区切る。
「何も知らないなら、せめて知らないままの方がいい」
   その言葉は、「扇子に悲しい思いをさせたくない」といういろはなりの意思の表れなのだろう。いろはも、すでに扇子をひとつの人格として認めているということだ。
   そう思って、悟は少しだけ嬉しくなった。
「扇子は、まだ子供みたいなもんだからな」
「あんただって子供じゃない。三歳児並の脳みそ」
「お前だって子供だろう?」
「経済的に自立して、社会的地位もある、どちらも子供という条件には当てはまらないわね」
(そうやってむきになるところが子供だってんだよ)
   悟は顔に出さないように苦笑した。
   対するいろはは、すでに思考を切り替えているようだった。前髪をもてあそんでいる。
「でも、どこから崩したものか……」
   NAZDAと扇子。誰が何をしようとしているのかは定かではない。
「やっぱり、充電の現場を押さえるしかないか……」
   いろはがそうつぶやく。
「だから最初に言っただろう? 一緒に昼飯。これぞ親睦の第一歩って」
   そうは言ったが、目的は親睦ではない。
   初めの頃のように、純粋に友達として接することができなくなってしまった、そのことのほうが、よっぽど扇子を傷つけることなのではないかと、悟はやりきれない気分になった。
「一緒に食事、一緒に勉強。扇子があまりにもスムーズに周囲に順応しているから忘れてるのかもしれないけど、扇子がこの高校にいることがどれだけ異常なことか、考えてみなさい」
「だけど俺たちはもう、扇子と知り合った」
「それは結果よ。扇子がこの高校に来た理由と原因。それを知らないままじゃ、モヤモヤしてしょうがないわ」
   確かに、悟も扇子がなぜ御霊高校にいるのか、考えなかったわけではない。しかし、なぜ扇子がここにいるのかを考える前に、現実に扇子が目の前にいる状況では、それを受け入れるしかない。
   正直なところ、扇子がどこから来て何をしようとしているのか、悟にとってはそんなに重要な問題ではない。
   扇子は、もう友達だ。
   だから、扇子が何も知らず、何者かに利用されているのだとしたら、それを許すことはできない。
「扇子にそれとなく聞いてみよう」
   悟の提案に、いろはがため息をついた。
「だから、それは無しだって言ったでしょう?」
「いや、たぶん大丈夫」
   今度は、いろはの視線を身体全体で受け止める。
「……根拠は?」
「ない。けど、こそこそするよりはいいだろう?」
   いろははしばらく考えて、
「分かったわ。じゃあこうしましょう。あんたは扇子からさりげなく情報を収集する。あたしは別行動で扇子の様子を探ってみるわ」
「扇子と話すときは、お前も一緒のほうがいいんじゃ?」
「あんたと扇子の会話は録音させてもらうわ。扇子の事を探ってるってことを、扇子にも、他の誰かにも気取られないようにするには、一緒じゃないほうがいい。それにあたしが動いたほうが、都合いいでしょ?」
   普段から授業をサボりがちなので、いろはのほうが行動に自由が利く、ということを言いたいのだろう。それにいろはは原付という足も持っている。
「あたしも扇子に気づかれないようにするから、あんたもボロ出さないようにしてよ」
「あまり突っ込んだ話はするなってことだろ?」
「そういうこと。じゃあ、この作戦の骨子を決めましょう」
   いろはの声のトーンが心なしか上がったような気がした。
「なあ、やっぱこの状況を楽しんでないか?」
  
   16
  
   悟が自宅に着いたのは、午後六時すぎだった。いつもなら部活が終わってから帰宅するため、午後八時を過ぎることのほうが多い。
   自分の部屋に入るなり、通学用バックをベッドの上に放って、手早く着替えを済ませた。
「原因が靴だったなんてなぁ……」
   小学生のときから愛用している学習机の前に座って、悟はため息をついた。したり顔で「階段を上るコツを教えてやる」なんていった自分が恥ずかしい。きっと扇子も呆れたことだろう。
「先生なんて柄じゃないんだよな……」
   扇子に授業の内容を教えているのだって、たまたま席が近いというだけの理由だし、休み時間や放課後にも話し相手になっているときには、かならずいろはが一緒にいた。悟から積極的に扇子に話しかけたことは、ほとんど無い。
   教室を出て行った扇子を引き止めたのだって、実沢に背中を押されてのことで、さらには、再びいろはを引き合いに出してしまったことが情けなかった。
(俺の意思ってどこにあるんだろうなぁ……)
   この高校に入学してから、いや、正確にはいろはと知り合ってから、悟は自分の立ち位置を決められないでいた。一方では二年F組の生徒として、一方ではサッカー部員として、そしてもう一方ではいろはの知り合いとして……。
   いろはがあれだけ周囲から浮いているので、悟は自分の立場を両立できないのだ。もちろん、いろはを理解する――といっても彼女の行動理念の一端を、他人よりは知っているという程度だが――人間は、御霊高校には自分以外いないという自負はある。しかし、当のいろはが周囲から恐れられているために、いろはの近くに行こうとすると、必然的にほかの人間との距離が開いてしまう。
   昨日の、実沢の一言がそれを如実に表していた。
「お前よくもつよなぁ。『東洋の魔女』と一緒にいてさ……」
   それでも、実沢はまだいろはに対しての恐怖心が薄いほうだ。ほとんどの生徒は、一昨日のように、いろはに近づくことさえ嫌う。
   正直なところ、悟自身も、いろはの行動で許容できることのほうが少ない。新薬の実験であったり、魔術の実験であったり、強制労働であったり、確かに傍から見て「どうしてそれでもそばにいられるのか?」と問われても仕方の無い状況だということは自覚している。
   だが、それでも、いろはは自分を必要としてくれている節がある。
「でも、それって自分の意思をいろはに丸投げしてるって事でもあるよな……」
   いろはの前ではいろはの味方であり、他の生徒の前ではいろはを邪険に扱う。それは単に、どちらの立ち位置もキープしたいという、利己的な理由に他ならない。
   いろはを理解しているという自負を、他の生徒からはみ出ないための手段に利用している……。
   いろはも、自分の隠れ蓑のひとつ。
「俺って最低だな……」
   実沢にいろはがどんな人間か聞かれたときに、どうしていろはの長所を挙げることができなかったのか。それはいろは側につくことで他の友人との距離が開くことを恐れたから。隠れ蓑が自分を置いてどこかに行ってしまうことを恐れたから。
   自分でも、隠れ蓑をとった自分がどういう姿なのか分からない。
   自分は、どこにいるのか。
   いろはの近くか。
   友達の近くか。
   どちらでもないのか。
   そして三日前に、扇子が入ってきた。でも実沢のおかげで、扇子とは他の友達との距離を上手く保ったまま接することができるようになった。
   それは、扇子自身が他の生徒との交流を望んでいたことも大きな要因だ。
   でもいろはは違う。はじめから、他の生徒と仲良くしようなんて思っていない。孤立を恐れていない。
   悟は、孤立を恐れている。
「俺は本当にいろはの味方なんだろうか……」
   いろはは、悟がいなくても、他の生徒がいないのと同じように、気にも留めないのだろうか。
「考えが堂々巡りしてるな……」
   いろはがどう思うかではない。
   悟が、自分でどう思うかだ。
   背伸びをして天井を仰ぐ。椅子の背もたれが耳障りな音を立てる。
   今日、扇子に言ったことは嘘ではない。いろはに対して、どこか放っておけないという気持ちがあるのは事実だ。
   あんな変なヤツでも、放っておけない。それはつまり、やはり扇子に言ったように、悟自身がもっと変なヤツなのだろう。
   お人よしの変なヤツ。
   その響きも、悪くはない。
   いろはが普段、自分を必要としてくれていなくても、もし、何かの理由で頼ってきたときに、いつでも差し伸べられるように、手を開けておけばいい。
   元来、何かを固持して生きてきたわけではない。ただ、唯一のとりえであるサッカーくらいは手放したくないので、片手は埋まってしまうが、それでももう片方の手は開けていられる。
   いや、サッカーだから足でキープすればいい。
(なんだ、その気になれば両手を差し出せるじゃないか)
   その思い付きが可笑しくて、悟は笑みをこぼした。
   自分の手は、いろはを支えるためにある。そう思うだけで、ずいぶん心のもやが晴れたような気がした。
「よしっ」
   悟は両手を振って反動をつけ、椅子から立ち上がった。その瞬間、腰に鋭い痛みと、鈍い痛みが同時に走る。昼に転んだ扇子を抱えたときに、腰を痛めてしまったのかもしれない。そして鈍い痛みは、倒れそうになった悟を、いろはが押し返したときの痕だった。
   いろはだって、とっさに両手で支えてくれた。
   そう思うと、腰の痛みも不思議と嫌ではなかった。
   感慨に耽っていると、突然けたたましい電話のベルの音が鳴った。そもそも、電話のベルは突然鳴るものなのだが、このときは周りが静かだったためか、悟は驚いて肩をすくめた。悟の家の電話はれっきとしたプッシュホンなのだが、父の趣向で着信音を黒電話のベルの音にしてあるのだ。
   共働きの両親が帰ってくるのは午後七時すぎなので、今はこの家に悟一人しかいない。知り合いはそれを知っているので、この時間にかかってくるのは決まって何かの勧誘だった。
   悟はしばらく無視していたのだが、ベルは一向に鳴り止まない。さすがに十回鳴ったところで、悟は部屋から出て、廊下にある電話の受話器をとった。
「もしもし?」
   あえてここでは名乗ってやらない。電話のマナーにはそぐわないが、勧誘だった場合しらを切って「違いますけど」と切ることができる。
   しかし、電話に出ても、向こうは無言だった。
   受話器からは、サーというノイズ音だけが聞こえる。
「もしもし?」強い調子でもう一度言う。
   すると、一度だけブツッ、という強いノイズのあとに声が聞こえてきた。
「これ以上、P1に関わるな」
   それだけ言って、電話は切れた。
   悟は受話器を持ったまま、しばらく動けないでいた。ようやく言葉の内容を咀嚼し飲み込んだところで、受話器を置こうとしたが、手が震えて上手く置けずに取り落としてしまった。落ちた受話器が床に当たる音に驚いて、背中の筋肉が硬直した。
(なんなんだ、今の!)
   ようやく受話器を置いた悟は、足早に自分の部屋へ戻り、蛍光灯のスイッチを切り替えて最も明るくする。そして落ちるようにベッドに腰を下ろした。
(え? ピーワンって言ったよな? なに? 電話?)
   脳細胞が無秩序に信号を乱射して、うまく考えることができない。
(関わるなって、どういうことだ? そもそも誰からの電話だ?)
   思考が、口から声として出ているのか、脳内でしゃべっているのかも判然としない。だがそこで悟は、大きく息を吸い込み、勢いよく吐き出した。
(落ち着け……)
   もう一度深呼吸する。いまさら心臓が苦しいくらい拍動していることに気づく。手には汗がにじんでいた。
   その手を強く握り締めて、ゆっくり開く。その間に、だいぶ動悸も治まった。
(脅迫電話……なのか?)
   悟は数十秒前の電話の内容を思い出す。いや、思い出すまでもなく、その声は耳の奥にへばりついている。
   これ以上P1に関わるな。低い声で相手はそう言っていた。あれは機械で変換した音声だ。ワイドショーなんかで事件の目撃者がしゃべるときの声にそっくりだった。
   P1、どこかで聞いたことがある。そうだ、扇子の機体名称。OHTU―P1。
「扇子に関わるなってどういうことだ?」
   そこでやっと喉の奥まで乾いた口から声が出た。
   自分の声を耳で聞いて、やっと五感が戻った。
(そうだ、着信履歴……)
   悟は再び廊下に出て、電話機のボタンを押す。しかし、先の電話の履歴は、番号非通知になっていた。
   脱力して、もう一度部屋に戻ってベッドに腰を下ろす。静かにしていると、さっきの電話の向こうのノイズが耳の奥から聞こえてくるようで、悟はかぶりを振ってコンポの電源を入れた。CDが回り始め、スピーカーからギターの高周波とベースの低周波、ウーファーからバスドラムの規則的な振動が弾き出される。
   悟は音量のつまみを回し、部屋が振動するくらいの大音量で再生し続けた。
「なんなんだよ! いったい!」
   胸の奥に溜まり始めた恐怖をはたき落とすように、悟は大声を出した。
   大音響のロックは、三十分後に帰宅した父親が悟を怒鳴りつけるまで鳴り続けた。
  
  
   ……続く

▲ページのトップへ▲

 

Copyrights(c)2001 ohtori_k・O.K.L. AllRight Reserved.