私の音楽遍歴(27)<アマデウス(1)−音楽の才能とは?>
♪私は、「音楽の才能」について考える時に、モーツァルトの一生を描いたアカデミー賞映画
『アマデウス』を思い出します。映画『アマデウス』は、モーツァルトの若すぎる死(享年35歳)
は、天才モーツァルトの才能を妬む同僚のサリエリの暗躍によるという設定で展開される映画
です。映画の最後で、サリエリが匿名で「レクイエム」(死者を葬らう為の音楽)の作曲を依頼
すると、モーツァルトは、「レクイエム」の作曲が終わる時に自分も死んでしまうと思い込んでしま
います。しかし、金銭的に困窮していたモーツァルトは、その仕事を受けざるおえません。そして、
「レクイエム」の作曲中に本当に死んでしまうというストーリーです。これは実際の「レクイエム」
が、モーツァルトの死によって未完に終わってしまったという事実と合致しています。
♭モーツァルトの正式な名前は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトです。映画『アマ
デウス』は、モーツァルトのミドルネームからのネーミングです。ちなみに『アマデウス』は、
「天が与えしもの」という意味で天才モーツァルトにぴったりのミドルネームですね。
『天才とは、1パーセントの才能と99パーセントの努力である』確か発明王エジソンの言葉だ
と思います。モーツァルトも、「天才だ!」と評される事に対して、「確かに才能もあるかもしれな
いが、僕も相当努力したからね。」と答えています。
♯映画『アマデウス』のエンディングで、サリエリが収容されている精神病院(?)の廊下を
車椅子を押されながら行く場面での台詞はこうです。『世の中の凡庸なる人々よ、私は、彼らの
代表だ。守護聖人だ。凡庸なる人々よ、私が許そう。君らの罪を許してやろう。』私は、この台詞
を聞いた時に、何か頭をガーンと打たれた様な気がしました。
♭『世の中の凡庸なる人々よ、私は、彼らの代表だ。守護聖人だ。』−サリエリは、死後もモー
ツァルトの音楽は演奏され続けているのに、自分の音楽はどんどん忘れ去られていく事に対して
深い悲しみをおぼえていました。そして自分が天才の側でなく凡庸なる人の側の人間である事を
認めざるおえなくなっていました。私はその時のサリエリには、自分の「運命」を受け入れると共に
『悟り』のような境地が生れ、その結果としてこの言葉が発せられたのではないかと思えます。
♯『凡庸なる人々よ、私が許そう。君らの罪を許してやろう。』−という台詞は額面通りにとってしまう
と納得のいかない言葉です。人は、凡庸故に許しを乞わなければいけないのでしょうか?これをキリ
スト教で言う所の原罪というレベルまで持っていく事は、深読みかもしれませんが、私には、素直に
納得のできない台詞であった事は確かです。もっと別の解釈を誰かご存知であれば教えていただき
たいくらいです。
♭『私が、このサリエリの言葉に頭をガーンと打たれた様な気がしたのは、何故か?』を分析すると−
人生を半分生きてきて残り半分もおぼろげながら見える歳となった自分を振り返る時、「自分が、
凡庸なる人のサイドに甘んじなければならない事の哀しみ」を再認識させられた事。具体的には、私の
自己実現の方法として一番有力であると考えている音楽が、もう日の目を見る事もなさそうだという事
に対する失望ではないかと考えています。
詳しくは、次回書きたいと思います。
(2002年5月18日掲載)