資料−ドヴォルザーク「家路」の歌詞
(Lyrics of ”Goin' Home”, Dvorak)

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 ■「家路」の元歌 − アメリカの黒人が作詞

 (1)メロディーは『新世界交響曲』の第2楽章

 アントニン・ドヴォルザーク(1841〜1904年)(※1)はサーバー夫人の招きでニューヨークのナショナル音楽院の院長 −サーバー夫人は同音楽院の創立者− として、1992〜95年(51〜54歳)に南北戦争(1861〜65年)の余熱が冷め遣らぬアメリカに渡りました。彼は既に『スラヴ舞曲』などで1880年頃には西欧で名声を得ていたのです。そしてアメリカ滞在中の1893年に作曲したのが彼の代表作と成った『交響曲第9番 ホ短調 作品95「新世界より」』(通称:『新世界交響曲』)です。
 日本の民謡や子守唄の「四七抜き音階」に近いこの曲は、間違い無く日本人に最も好かれ親しまれて居るクラシック音楽ですが、この曲が親しまれて居る理由はもう一つ有ります。それは第2楽章のイングリッシュ・ホルンが奏する部分のメロディーで、この部分は通称「家路」と呼ばれ幾つかの歌詞が付けられ歌曲(又は唱歌、又は童謡)として歌われて居るからです。

 (2)W.A.フィッシャー作詞の『Goin' Home』

 このメロディーに最初に作詞したのは、音楽院でドヴォルザークの弟子のW.A.フィッシャー(William Arms Fisher)(1861〜1948年)という黒人でした。フィッシャーは『Goin' Home』という黒人訛の詩を付け1922年に発表しました。正に「家に帰ろう」とか「故郷へ帰ろう」いう内容で、これが現在「家路」と呼ばれる歌の元歌です。この曲は直ぐに日本にも紹介された様です。

  W.A.フィッシャー作詞:『Goin' Home』(「家路」)

  1.Goin' home, goin' home, I'm a goin' home;
    Quiet-like, some still day, I'm jes' goin' home.
    It's not far, jes' close by, through an open door;
    Work all done, care laid by, gwine to fear no more.
    Mother's there 'spectin' me, Father's waitin' too;
    Lots o' folks gather'd there, All the friends I knew,
      All the friends I knew.

  2.Home, I'm goin' home! Nothin lost, all's gain,
    No more fret nor pain, No more stumblin' on the way,
    No more longin' for the day, Gwine (or Going) to roam no more!
    Mornin' star lights the way, Res'less dream all done;
    Shadows gone, break o' day, Real life jes' begun.
    Dere's no break, ain't no end, Jes' a livin' on;
      Jes' a livin' on;

 ■日本に普及した「家路」の歌

 (1)堀内敬三作詞版

 W.A.フィッシャーの『Goin' Home』のイメージに基づいて日本の堀内敬三(1897〜1983)が作詞し、1932(昭和7)年に雑誌に発表したのが、今日『遠き山に日は落ちて』と題されてる歌ですが、雑誌発表当時は『家路』という題でした。この曲は小学校の教科書にも載り良く歌われたので、この堀内敬三版に拠り第2楽章のイングリッシュ・ホルンのメロディーが「家路」という通称で日本に定着しました。

  堀内敬三作詞:『遠き山に日は落ちて』

  1.遠き山に日は落ちて
    星は空を 散りばめぬ
    今日のわざを なし終えて
    心軽(かろ)く 安らえば
    風は涼し この夕べ
    いざや楽しき まどいせん

  2.闇に燃えし かがり火は
    焔(ほのお)今は 静まりて
    眠れ安く 憩えよと
    誘うごとく 消え行けば
    深き森に包まれて
    いざや楽しき 夢を見ん

 (2)野上彰作詞版

 野上彰(1909〜1967)が戦後の1946年頃に作詞した曲が在り、最近の若い人たちは野上彰版で習った様です。詩の内容は堀内敬三版と大差無いですが、口語の文体に時代を感じます。

  野上彰作詞:『家路』

  1.響きわたる 鐘の音に
    小屋に帰る 羊たち
    夕日落ちた ふるさとの
    道に立てば なつかしく
    ひとつひとつ 思い出の
    草よ花よ 過ぎし日よ
      過ぎし日よ

  2.やがて夜の 訪れに
    星のかげも 見えそめた
    草の露に ぬれながら
    つえをついて 辿るのは
    年を老いて 待ちわびる
    森の中の 母の家
      母の家

 ■日本で最初に「家路」のメロディーに作詞 − 宮沢賢治の『種山ヶ原』

 ところが、日本人で初めてこのメロディーに歌詞を付けたのは宮沢賢治(※2、※2−1)の様です。それが『種山ヶ原』という詩で、この詩は大正14(1925)年の作です。賢治は恐らく2年前のW.A.フィッシャーの歌詞の存在は知らなかったと思います。
 種山ヶ原(種山高原)は標高600〜800mのなだらかな高原で、江戸時代からの放牧地でした。大正時代には宮沢賢治が度々この地を訪れ「牧歌」「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など、種山ヶ原を舞台にした作品を生み出して居ます。1949年からは県営種山牧野として牛や馬を放牧して居ます(「種山ヶ原」の案内板より)。
 賢治は大正6(1917)年に盛岡高等農林学校の同級生2人と共に初めて種山ヶ原に登り土性調査をしたのですが、以来種山ヶ原には度々行ってます。年譜を見ると1924年の夏「種山が原の夜」という劇を花巻農学校で上演して居ます(△1のp270)。賢治の歌は現在では花巻のイベントの時に歌われる程度で、一般には殆ど知られて居ません。
 私の手許の詩集にこの歌詞とは違いますが「種山ヶ原(パート3)」(作成日付は1925年9月7日)という詩が『春の修羅』第2集に載って居り(△1−1のp119〜122)、彼はここで鉱石の調査をして居ます。この詩の中で「イーハトヴ県を展望する いま姥石の放牧地が...」(△1−1のp120)の様に「種山ヶ原」を理想郷岩手県(イーハトヴ/イーハトーブ/イーハトーヴォ)(※2−2)を一望出来る所と考えて居た様です。
 下が『種山ヶ原』の詩ですが、ちょっと、ごつごつした感じの歌詞です。

  宮沢賢治作詞:『種山ヶ原』

  1.春はまだきの朱(あけ)雲を
    アルペン農の汗に燃し
    縄と菩提樹皮(マダカ)にうちよそひ
    風とひかりにちかひせり
      四月は風のかぐはしき
      雲かげ原を超えくれば
      雪融けの草をわたる

  2.繞(めぐ)る八谷に劈靂(へきれき)
    いしぶみしげきおのづから
    種山ヶ原に燃ゆる火の
    なかばは雲に鎖(とざ)さるゝ
      四月は風のかぐはしき
      雲かげ原を超えくれば
      雪融けの草をわたる

 ところで童話『銀河鉄道の夜』未完の作です(△1のp163〜240)が、岩手軽便鉄道が銀河鉄道に姿を変え宇宙を旅するという賢治の夢想1927年頃には形を整えた様です(△1のp272)。しかし『銀河鉄道の夜』の部分的なイメージはもっと早くから持って居た様で、例えば「冬と銀河ステーション」という銀河軽便鉄道が走る詩は1923年12月10日に作られて居ます(△1−1のp66〜68)。因みに、明治・大正時代は駅を普通は「停車場」と呼びましたが、洋風建築の駅を特にステーションと言いました。例えば東京ステーションの様に。『銀河鉄道の夜』の中で「種山ヶ原」はジョバンニの夢と現実の”境界地”として登場します。「黒い丘」(△1のp180)、「もとの丘」(△1のp236)がそれです。
 そして夢想の中に『新世界交響曲』は出て来ます。「そしてまったくその振り子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れて来るのでした。「新世界交響楽だわ」向こうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。」という場面です(△1のp218)が、この「旋律が糸のように流れて来る」というのは第2楽章(「家路」のメロディー)の様な気がします。そして「新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから湧き、そのまっ黒の野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけ、たくさんの石を腕と胸にかざり、小さな弓に矢をつがえていちもくさんに汽車を追って来るのでした。」(△1のp219)は第4楽章でしょう。この童話には「氷山にぶっつかって船が沈みましてね。」タイタニック号(※3)を彷彿とさせる描写も在ります(△1のp207)。
 尚、賢治がレコード(SP盤)の収集家で在ったのは有名な話で実家は裕福な古着質商で、賢治は金に困った事は有りません(妹は日本女子大出)、念の為。又、賢治が生前公刊したのは詩集『春の修羅』第1集童話集『注文の多い料理店』だけで(△1−1のp263)、何れも1924(大正13)年刊です。

【脚注】
※1:A.ドヴォルザーク(Antonin Dvorak)は、日本語では他にドヴォルジャーク/ドボルザークなど。チェコの作曲家(1841.9.8〜1904.5.1)。スメタナと並ぶチェコ国民楽派の代表者。個性的な旋律法や和声法を用いて作曲し、ブラームスやヨアヒムらに認められた。1892年から3年間ニューヨークの国民音楽学校(=ナショナル音楽院)の校長として渡米、アフリカン・アメリカンの民謡に通じる故国の旋律を取り入れた交響曲「新世界より」を発表。又「ヴァイオリン協奏曲イ短調」「チェロ協奏曲ロ短調」「スラヴ舞曲」など、管弦楽曲に優れた。他に「ユーモレスク」、弦楽四重奏曲「アメリカ」など。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※2:宮沢賢治(みやざわけんじ)は、詩人・童話作家(1896〜1933)。岩手県花巻生れ。盛岡高農卒。早く法華経に帰依し、花巻農学校の教師として農業研究者・農村指導者として献身する傍ら詩・童話を発表した。詩「春と修羅」「雨ニモマケズ」童話「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2−1:法華経(ほけきょう)は、正法華経・妙法蓮華経・添品妙法蓮華経をいう。一般に、妙法蓮華経の略称。
※2−2:イーハトヴ/イーハトーヴ/イーハトーヴォは、賢治自身が「実はこれは著者の心象中に、この様な情景をもって実在したドリームランドとしての岩手県である」と説明しているとおり、この語は彼によって創作されたエスペラント風の岩手県の異称である(小倉豊文、△1−2のp172)。

※3:タイタニック号(―ごう、Titanic)は、イギリスの旅客船。4万6328t。1912年4月14日夜ニューファンドランド島南方沖の北大西洋上を処女航海中、濃霧の為氷山に衝突、翌日未明沈没。乗客・乗員2千2百余人中1500余人死亡。海難事故として世界最大。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治作、角川文庫)。
△1−1:『宮沢賢治詩集』(宮沢賢治作、中村稔編、角川文庫)。
△1−2:『注文の多い料理店』(宮沢賢治作、角川文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):日本の「四七抜き音階」に近い
ドヴォルザークの作品▼
資料−音楽学の用語集(Glossary of Musicology)


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