拾章 益田壷の献上 (1588〜1591)      藤兼本陣へ戻る。

 元祥は吉川元春死後は完全に吉川軍の外交将として動いていた、父・藤兼が大内義長の外交将としてもっとも輝いた時期があったように元祥も吉川広家の参謀として活躍している、北条征伐や様々な検地、毛利領内がバタバタしていた時期でもあった、たまたま元祥は自分の蔵に締ってあった壷を千利休(せんのりきゅう)へ鑑定して貰った、そしてこの壷は素晴らしい物との判定が下り「益田壷」と命名してもらった、いつしか毛利輝元の耳にもその情報が入った、そこで有名な物好き輝元はわざわざ元祥を訪ね、壷を見せてくれるよう頼んだ、元祥は間違いなく嫌な予感がしただろう、「あのボンボン絶対に壷持ってくな・・」案の定、輝元は「益田壷」を貸してくれと頼み、元祥は承諾する、しかし何時しか壷を手放したくないと言って来た輝元へ元祥は壷を諦め「大事にしてくれる」と言う条件を付け献上したが、まもなく羽柴家臣・石田三成へ渡った、これには元祥「約束が違う」と思ったが簡単に口には出せず、壷を取った石田三成に怨みに近い念を感じた、元祥の妻へ何故か輝元は2回も領地を与えている、もしや・・・、また父・藤兼は三隅へ行ったり石見国内を旅して周り隠居生活を満喫していた、様々な僧から旅の話しを聞き、自分も仏教を良く学んだ、たまに国内の武士が益田氏の機嫌を取りに雑談を持ちかけてくるぐらいだった。



1588年 60歳 3月16日 元祥が益田本郷七社を管轄する惣大夫の増野氏に乙子権現の祭礼をも司るよう命じる。(元祥 31歳)
閏5月15日 元祥が秘蔵していた「益田壷」(ますだつぼ)を千利休(せんのりきゅう)が鑑定し毛利輝元が欲しがった為、献上した。
 
その後、毛利輝元から石田三成に渡り、関ケ原の合戦の時に佐保山にて紛失した。
6月2日 元祥は「益田壷」の献上で輝元から礼状を貰った。
 
この壷は将軍・足利義政から益田兼尭が頂いた物だった。
10月19日 吉川広家と心月婦人の婚約として小早川隆景と黒田考高(官兵衛)が斡旋し、この時、益田元祥は諸国人衆の持て成しをした。
1589年 61歳 11月9日 元祥の嫡子・久太郎の元服のさいに毛利輝元から「広」の一字を与えられ広兼と名乗る。(元祥 32歳)
全鼎(藤兼)は巣丁庵から三隅・竜雲寺に移る。
1590年 62歳 3月19日 元祥は毛利軍の一隊に属し北条征伐で伊豆の清水康英を攻め下した。
 
この時の元祥を主軸とした山陰軍(他に小笠原氏・山田広道・三沢為虎・阿曽沼氏・熊谷元直・宍道正義・吉見広頼の軍勢約1万は江戸朝忠の援軍も粉砕した。)
11月16日 国司元信が美濃郡内にある益田氏領地を検地し結果を益田重臣に報告し、元祥も了解する。(元祥 33歳)
1591年 63歳 1月7日 筑前に移住していた小早川隆景に検地の事で元祥・全鼎(藤兼)親子と繁沢元氏(吉川元春・次男)を相談するべく筑前・箱崎に集める。(元祥 34歳)
1月11日 国司元信、去年の検地の続きで各所領内の畑数や屋敷数も調査・確認し、益田元祥へ報告した。
 検地で大分石高を削られるも当時は6万石あり、毛利全盛期の1580年ごろは8万600石の国力があった。(総兵力は3000人あまりと言う(直轄軍1400人))最全期は11万石。
元祥は惣国検地によって認められた庄内の田・畑・屋敷・百姓などを家臣・80名へ分配した。
9月25日 検地の結果、毛利家家臣から益田氏領地が改めて承認された。
12月8日 元祥妻方へ毛利輝元から永安下分・50石を与えられる。
12月16日 元祥妻方へ毛利輝元から美濃郡内・370石を与えられる。
12月20日 毛利家から黒谷・白上・川緑・飯田の領地が没収された、原因は風損・旱損・水損の為だと言う。
 
(ようは管理不足が関係していたらしい)